【ヴィガノ大司教の手紙】ローマは信仰を失ってしまったのか?(ある隠遁修道女への手紙)
Has Rome Lost the Faith? (Viganò's Letter to a Cloistered Nun)
天主なる花婿【キリスト】に従ってゴルゴタへの急な坂道を登ることによってのみ、御父の右の座まで栄光のうちに主に従うのにふさわしくなれることを示している
イタリア語版 https://www.stilumcuriae.com/scambio-epistolare-fra-una-monaca-di-clausura-e-mons-carlo-maria-vigano
2022年11月11日
カルロ・マリア・ヴィガノ
ある隠遁修道女の手紙
2022年10月19日
“Pacificus vocabitur, et thronus eius erit firmissimus in perpetuum”
「彼は平和をもたらす者ととなえられ、その王座はとこしえに固められる」
(王たるキリストの大祝日の第二晩歌第一交誦)
尊敬する大司教閣下、
王たるキリストの祝日を迎えるにあたり、大司教様宛のお手紙をしたためております。ある基本的な疑問をお知りくださればと思いましたこと、お許しください。
この典礼上の祝日が制定されたときに切望された恩寵をたたえて祈り求めることに、今でも意味がございますのでしょうか?
もし今日、〈王の王、主の主〉(ティモテオ前書6章15節、黙示録19章16節参照)が、栄光のうちに戻って来られるとしたならば、主は今でも教会というご自分の浄配を認識なさるでしょうか?
このような質問をすることで、私は不遜に思われ、また、〈地獄の門も勝てぬ〉(マテオ16章19節)という約束に対する信仰を欠いているように思われるでしょう。この約束は、教会に吹き荒れた死の背教という風の中を生き残った数少ない者たちが、しがみつく希望として心に響いております。
さて、こういった質問の持つ挑発的な調子は、生き残った数少ない信者たちの気持ちの表れで、教導権の言葉、有効な秘跡、牧者たちのうちに生活の一貫性を探し求める信者たちの混乱した感情を要約しております。私は、迷って意気消沈した多くの霊魂を何度も照らしてくれる「砂漠の中の声」のような存在として、大司教様に目を向けさせていただいております。
私の身に起こった以下の小さな話を、大司教様にお読みいただければと存じます。
先日、修道院に献金をお持ちになったあるご婦人が、私にこう言われました。「あのう、私はあまりこういうことには詳しくないんですけど、最近の教会が進んでいる方向はあまりよくないように思いますよ…」。その話し方、声の調子から、私は、彼女がいま質問をしたばかりの「教会」を代表すると思っている人物に、このような形で自分の気持ちを伝えることを恥ずかしく思っているのだと察しました。
私は、彼女に長いお話をして差し上げることもできました。しかし私の答えは、ただ単純に、私たち個人的な祈りをもっと良くする必要があることを申し上げただけで、そのご婦人に何も知らせないまま、私が代表しているとはあまり感じていないその「教会」と自分を「同一のものとさせて」いただきました。…その時の感覚は、徹底的な本当の答えをすることができないという、大きな無力感の一つでした。その数分前、私は教皇ピオ十一世の勧告した回勅「ウビ・アルカーノ・デイ」(Ubi Arcano Dei)を読んでいました。ピオ十一世は100年前、キリストの社会的王権の回復を早めることがカトリック信者の義務であると言われました。一種の「道徳的義務」であり、個人的かつ集団的な責任です。
この責任は、今でも有効なのでしょうか? また、「教会」が、もう「教会」でなくなった場合、どのようにそれを実践すべきなのでしょうか?
「ウビ・アルカーノ・デイ」という書簡は、まさに近年経験したような混乱を避けるために、1925年に実施された「王たるキリストの祝日」の制定のきっかけとなったものです。
その回勅の中で、キリストの王権は、世俗主義に対する解決策として理解されました。また、――100年の期間を置いた後に――多くの高位聖職者たち、司教、枢機卿が寛大に迎えいれてしまった誤謬、そしてキリストの代表として自らを示しつつ、「欺かれて」自らを委託した群れの破滅的加速をキリストの代表者という記章の下で促進した人物でさえもが促進する全ての誤謬に対する解決策として理解されたのです。
フランシスコは、背教者であるにもかかわらず、教皇であるとみなされていますが、彼は教皇なのでしょうか? かつては教皇だったのでしょうか?
目の前に真理ご自身がおられるにもかかわらず、ピラトがイエズスに真理とは何かと尋ねたとき、世の審判者であるキリストの眼差しは、目の前に立つ弱い人間の凡庸さに浸透していきました。ピラトは一瞬震えましたが、個人的な高慢という魅力が打ち勝ってしまいました。王たるキリストは今日でも同じ姿で帰って来られ、司教たちや枢機卿たちの目をご覧になります。彼らは、主が彼らの裏切り、高慢、そしてふさわしくない盲目の代価を引き受けられ、彼らの代わりにかぶられた茨の冠を認めない者たちですが、彼らに眼差しを注ぎます。
あわれみの聖人、聖ファウスティナ・コワルスカの日記に、ある日、イエズスが全身を鞭で打たれ、血にまみれ、茨の冠をかぶって彼女の前にご出現になり、彼女の目を見て、「花嫁は花婿に似なければならない」と言われた、という記述があったのを覚えています。聖女は、その「婚姻」への呼びかけが意味するもの、つまり【キリストと】すべてを共にすることを理解したのです。おそらくこれは、私たちの歴史的瞬間が真のカトリック信者全員に個人的に要求していること、この形でキリストの王権を認識するということなのでしょう。
そうです、これこそが、私たちの時代における「真の教会」の持つ召命であると私には思えます。【天主への】冒涜と倒錯によって不当に扱われ、姿を醜くされた王たるキリストの眼差しに遭いながら、それでも、主に愛と忠実の答えをする、そして主を否むことができない良心の一貫性という応答をする勇気を持っている小さな群れが持つ召命なのです。なぜなら、さもなければ、ピラトやヘロデ、民の指導者たち全員がそうしたように、王たるキリストを否んでしまうことになるからです。
こういった内容で、大司教様にエッセーを一本お願いしたいと思ったことを、私は隠しているわけではありません。大司教様のエッセーは、牧者を失い、自らに託された教会を守り抜くはずのキリストの代理者を失い、困惑している小さな残った者たちにとって、キリスト教的希望に満ちているものです。
私は、多くの人が心にそのような悲しみをもって尋ねているいくつかの疑問を、大司教様にお尋ねいたしました。ですから、聖霊が大司教様に対して、社会で、すべての心で、地球の表面全体で、キリストの御国の凱旋が戻ってくるという期待を再燃させてくれるご回答を与えてくださると、私は確信しております。
“Pacificus vocabitur, et thronus eius erit firmissimus in perpetuum”!
「彼は平和をもたらす者ととなえられ、その王座はとこしえに固められる」
ある隠遁修道女
カルロ・マリア・ヴィガノの返答
尊敬する親愛なるシスター、
あなたが送ってくださったお手紙を、強い関心と教えられるという気持ちをもって読ませていただきました。私にできる限りの良い返事をさせてください。
最初のご質問は、直接的であると同時に心をなごませるものです。「もし今日、王の王、主の主が、栄光のうちに戻って来られるとしたならば、主は今でも教会というご自分の浄配を認識なさるでしょうか?」。もちろん、主は教会だと認識なさるでしょう! しかし、ペトロの座を覆い隠しているカルトではなく、むしろ多くの善き霊魂、特に司祭、男女修道者、そしてモーゼのように眉間に光の角がなくても(出エジプト34章29節)、キリストの教会の生きた肢体(メンバー)として認識できる多くの素朴な信仰深い霊魂に、教会を認識なさるのです。主は、汚れた偶像に礼拝が捧げられた聖ペトロ大聖堂にも、住人の人工的な貧困と膨れ上がった謙遜がその住人の巨大なエゴの記念碑となっているサンタマルタ館にも、民主主義という虚構がカトリック教会という神聖な大伽藍の解体を完了し、つまずきを与える生き方を押しつけるために役立っているシノダリティーに関するシノドスにも、カトリック信仰と取り消された聖伝に公会議のイデオロギーが取って代わっている教区でも小教区でも、教会を見いだされることはないでしょう。主は、教会のかしらとして、ご自分の神秘体の脈動する生きた肢体(メンバー)と、異端、色欲、高慢によってキリストから奪い去られ、今やサタンに服従している死んで腐った肢体(メンバー)を認識されるのです。ですからそうです、王の王は、「小さな群れ」(pusillus grex)を認識されるのです。たとえ、屋根裏や地下室や森の中にある祭壇の周りに集まっている群れを探さなければならないとしてもです。
あなたは「勝てぬ」(Non prævalebunt)の約束が「こういった質問の持つ挑発的な調子は、生き残った数少ない信者たちの気持ちの表れで、教導権の言葉、有効な秘跡、牧者たちのうちに生活の一貫性を探し求める信者たちの混乱した感情を要約しております」と言っておられます。
聖ペトロに対する私たちの主の約束は、ある意味で挑発的です。なぜなら、その約束は二つの前提で始まっているからです。第一は、地獄の門も勝てぬ、というものですが、これは教会が耐えなければならない迫害のレベルについて何も語ってはいません。第二は、前者の論理的帰結として、教会は迫害されるが敗北はしない、というものです。どちらについても、私たちが求められているのは、救い主の言葉と救い主の全能に対する信仰の行いと、謙虚な現実主義の行いをすること、私たちの弱さを認め、「近代主義者たち」の間でも「聖伝主義者たち」の間でも、私たちは最悪の罰を受けるのにふさわしいという事実を認めることです。
「『教会』が、もう『教会』でなくなった場合」、キリストの社会的王権の回復を求めるピオ十一世の訴えを、どのように実践するのかと、あなたは私にお尋ねです。確かに、この世がカトリック教会の名を与え、ベルゴリオを教皇とみなしている目に見える教会は、少なくとも、別の教理を確信的に告白し、「公会議前の教会」に対するアンチテーゼとしての「公会議の教会」の信奉者と自らを宣言する枢機卿、司教、司祭に関しては、もはや教会ではなくなりつつあります。
しかし、あなたや私、そして多くの司祭、修道者、信者は、〈その〉教会の一員なのでしょうか、それともキリストの教会の一員なのでしょうか? 私たちは、ベルゴリオの教会とカトリック教会は、ある面では重ね合わせることができるとするならば、どこまで重ね合わせることができるのでしょうか? 問題は、公会議の革命が、キリストの教会とカトリックの位階階級の間のアイデンティティーの絆を引き裂いたことです。第二バチカン公会議以前は、教理的・道徳的な問題で教皇が前任者と公然と矛盾することは考えられませんでした。なぜなら、聖なる鍵の力とキリストの代理者の権威を管理する上で、位階階級はその役割と道徳的責任について非常に明確だったからです。
公会議が示したことは、公会議自身について与えた異常な定義と、規定文(canon)と排斥文(anathema)の排除に見られる過去との断絶とに始まって、さらには、道徳的な感覚を持たない誰でも、あなたが正しく列挙なさった三つの側面「教導権、有効な秘跡、牧者たちの生活の一貫性」においてふさわしくないにもかかわらず、教会において神聖な役割を保持することがいかに可能であるかということでした。
教理、道徳、典礼において逸脱したこれらの牧者たちは、自分たちがキリストの代理者たちであるという事実に拘束されていると感じず、したがって、その権威がそれを正当化する目的と首尾一貫して行使される場合に〈のみ〉教会を統治することができるという事実に拘束されていると感じないのです。この理由で、彼らは自らの権力を濫用し、彼らが否定した天主の起源を持つ権威を簒奪し、牧者の権威を何らかの形で保証している神聖な制度を辱めるのです。
この断絶、この激しい引き裂きは、ちょうど世俗的領域で起こったように、高位聖職者たちの権威が〈世俗化〉された瞬間に、霊的なレベルで完結したのです。権威が神聖であることをやめ、上から裁可されず、教皇の霊的権威と王および主の世俗的権威とを自らのうちに併せ持つお方の代わりに行使されることを止めるなら、権威はどこでも腐敗して専制となり、腐敗をもって売られ、無政府状態において自殺することになるのです。
あなたはこうお書きになっています。「王たるキリストは今日でも同じ姿で帰って来られ、司教たちや枢機卿たちの目をご覧になります。彼らは、主が彼らの裏切り、高慢、そしてふさわしくない盲目の代価を引き受けられ、彼らの代わりにかぶられた茨の冠を認めない者たちですが、彼らに眼差しを注ぎます」と。
親愛なるシスター、それらと同じ特徴で、私たちは聖なる教会を認識しなければなりません。そして、私たちは、教会のかしら【キリスト】が辱められ、あざけられ、鞭打たれ、血を流し、衣をまとい、葦を持ち、茨の冠をかぶせられるのを見てうろたえたように、今、私たちは、同様の方法で、「戦闘の教会」全体がひれ伏し、傷つき、唾を浴び、侮辱され、あざ笑われているのを見てうろたえます。しかし、もしかしら【キリスト】が死ぬまで、十字架上に死ぬまで自らを辱めることによって犠牲を受け入れようとなさったのなら、私たちは彼の肢体(メンバー)である以上、もし本当にキリストとともに天国で支配したいと望むなら、どんな理由でより良い結果を得ようと思うでしょうか? もし十字架の王座でないとすれば、小羊はどの王座に座っておられるのでしょうか?
〈天主は【十字架の】木によって統治する〉(Regnavit a ligno Deus)。これはキリストの勝利であり、これはキリストの神秘体である教会の勝利となるでしょう。あなたは正しくコメントなさっています。「そうです、これこそが、私たちの時代における「真の教会」の持つ召命であると私には思えます。【天主への】冒涜と倒錯によって不当に扱われ、姿を醜くされた王たるキリストの眼差しに遭いながら、それでも、主に愛と忠実の答えをする、そして主を否むことができない良心の一貫性という応答をする勇気を持っている小さな群れが持つ召命なのです。なぜなら、さもなければ、ピラトやヘロデ、民の指導者たち全員がそうしたように、王たるキリストを否んでしまうことになるからです」。
親愛なるシスター、あなたのお手紙は、私たち全員にとって、この恐ろしい時代に起きていることに非常に近い「教会の受難」(passio Ecclesiæ)の神秘について考える機会となります。ですから、私は最後に、〈勝てない〉(Non prævalebunt)の「挑発」を思い起こします。救い主が墓の影をご存じだったように、私たちもそれが教会に起こることを知らなければなりませんし、おそらくはすでに起こっているのでしょう。しかし、主はその聖なる者【教会】に腐敗を知ることを許さず(詩篇16篇)、ご自分が死からよみがえられたように、教会をよみがえらせられるのです。この意味で、「花嫁は花婿に似なければならない」という言葉は、その完全な意味を持ち、天主なる花婿に従ってゴルゴタへの急な坂道を登ることによってのみ、御父の右の座まで栄光のうちに主に従うのにふさわしくなれることを示しているのです。
私は、あなたとあなたの親愛なるお仲間のシスターの皆さんに、これらの考えから霊的な利益を引き出すよう強くお勧めするとともに、私の父としての最大限の祝福をお与えします。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
Sancti Caroli Borromæi, Pont. Conf.
2022年11月4日
司教証聖者聖カルロ・ボロメオの祝日