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【ヴィガノ大司教の或る修道女への返事 Regnavit a ligno】ローマは信仰を失ってしまったのか?と問うある隠遁修道女に答えて

2022年11月23日 | カトリック・ニュースなど

【ヴィガノ大司教の手紙】ローマは信仰を失ってしまったのか?(ある隠遁修道女への手紙)

Has Rome Lost the Faith? (Viganò's Letter to a Cloistered Nun)

天主なる花婿【キリスト】に従ってゴルゴタへの急な坂道を登ることによってのみ、御父の右の座まで栄光のうちに主に従うのにふさわしくなれることを示している

英語版 https://remnantnewspaper.com/web/index.php/fetzen-fliegen/item/6234-vigano-s-letter-to-a-cloistered-nun

イタリア語版 https://www.stilumcuriae.com/scambio-epistolare-fra-una-monaca-di-clausura-e-mons-carlo-maria-vigano

フランス語版 https://www.medias-presse.info/regnavit-a-ligno-mgr-vigano-repond-a-une-moniale-sur-la-royaute-du-christ-et-sur-la-crise-presente/165858/

2022年11月11日
カルロ・マリア・ヴィガノ

ある隠遁修道女の手紙

2022年10月19日

“Pacificus vocabitur, et thronus eius erit firmissimus in perpetuum”
「彼は平和をもたらす者ととなえられ、その王座はとこしえに固められる」
(王たるキリストの大祝日の第二晩歌第一交誦)

尊敬する大司教閣下、

王たるキリストの祝日を迎えるにあたり、大司教様宛のお手紙をしたためております。ある基本的な疑問をお知りくださればと思いましたこと、お許しください。

この典礼上の祝日が制定されたときに切望された恩寵をたたえて祈り求めることに、今でも意味がございますのでしょうか?

もし今日、〈王の王、主の主〉(ティモテオ前書6章15節、黙示録19章16節参照)が、栄光のうちに戻って来られるとしたならば、主は今でも教会というご自分の浄配を認識なさるでしょうか?

このような質問をすることで、私は不遜に思われ、また、〈地獄の門も勝てぬ〉(マテオ16章19節)という約束に対する信仰を欠いているように思われるでしょう。この約束は、教会に吹き荒れた死の背教という風の中を生き残った数少ない者たちが、しがみつく希望として心に響いております。

さて、こういった質問の持つ挑発的な調子は、生き残った数少ない信者たちの気持ちの表れで、教導権の言葉、有効な秘跡、牧者たちのうちに生活の一貫性を探し求める信者たちの混乱した感情を要約しております。私は、迷って意気消沈した多くの霊魂を何度も照らしてくれる「砂漠の中の声」のような存在として、大司教様に目を向けさせていただいております。

私の身に起こった以下の小さな話を、大司教様にお読みいただければと存じます。

先日、修道院に献金をお持ちになったあるご婦人が、私にこう言われました。「あのう、私はあまりこういうことには詳しくないんですけど、最近の教会が進んでいる方向はあまりよくないように思いますよ…」。その話し方、声の調子から、私は、彼女がいま質問をしたばかりの「教会」を代表すると思っている人物に、このような形で自分の気持ちを伝えることを恥ずかしく思っているのだと察しました。
私は、彼女に長いお話をして差し上げることもできました。しかし私の答えは、ただ単純に、私たち個人的な祈りをもっと良くする必要があることを申し上げただけで、そのご婦人に何も知らせないまま、私が代表しているとはあまり感じていないその「教会」と自分を「同一のものとさせて」いただきました。…その時の感覚は、徹底的な本当の答えをすることができないという、大きな無力感の一つでした。その数分前、私は教皇ピオ十一世の勧告した回勅「ウビ・アルカーノ・デイ」(Ubi Arcano Dei)を読んでいました。ピオ十一世は100年前、キリストの社会的王権の回復を早めることがカトリック信者の義務であると言われました。一種の「道徳的義務」であり、個人的かつ集団的な責任です。

この責任は、今でも有効なのでしょうか? また、「教会」が、もう「教会」でなくなった場合、どのようにそれを実践すべきなのでしょうか?

「ウビ・アルカーノ・デイ」という書簡は、まさに近年経験したような混乱を避けるために、1925年に実施された「王たるキリストの祝日」の制定のきっかけとなったものです。

その回勅の中で、キリストの王権は、世俗主義に対する解決策として理解されました。また、――100年の期間を置いた後に――多くの高位聖職者たち、司教、枢機卿が寛大に迎えいれてしまった誤謬、そしてキリストの代表として自らを示しつつ、「欺かれて」自らを委託した群れの破滅的加速をキリストの代表者という記章の下で促進した人物でさえもが促進する全ての誤謬に対する解決策として理解されたのです。

フランシスコは、背教者であるにもかかわらず、教皇であるとみなされていますが、彼は教皇なのでしょうか? かつては教皇だったのでしょうか?

目の前に真理ご自身がおられるにもかかわらず、ピラトがイエズスに真理とは何かと尋ねたとき、世の審判者であるキリストの眼差しは、目の前に立つ弱い人間の凡庸さに浸透していきました。ピラトは一瞬震えましたが、個人的な高慢という魅力が打ち勝ってしまいました。王たるキリストは今日でも同じ姿で帰って来られ、司教たちや枢機卿たちの目をご覧になります。彼らは、主が彼らの裏切り、高慢、そしてふさわしくない盲目の代価を引き受けられ、彼らの代わりにかぶられた茨の冠を認めない者たちですが、彼らに眼差しを注ぎます。

あわれみの聖人、聖ファウスティナ・コワルスカの日記に、ある日、イエズスが全身を鞭で打たれ、血にまみれ、茨の冠をかぶって彼女の前にご出現になり、彼女の目を見て、「花嫁は花婿に似なければならない」と言われた、という記述があったのを覚えています。聖女は、その「婚姻」への呼びかけが意味するもの、つまり【キリストと】すべてを共にすることを理解したのです。おそらくこれは、私たちの歴史的瞬間が真のカトリック信者全員に個人的に要求していること、この形でキリストの王権を認識するということなのでしょう。

そうです、これこそが、私たちの時代における「真の教会」の持つ召命であると私には思えます。【天主への】冒涜と倒錯によって不当に扱われ、姿を醜くされた王たるキリストの眼差しに遭いながら、それでも、主に愛と忠実の答えをする、そして主を否むことができない良心の一貫性という応答をする勇気を持っている小さな群れが持つ召命なのです。なぜなら、さもなければ、ピラトやヘロデ、民の指導者たち全員がそうしたように、王たるキリストを否んでしまうことになるからです。

こういった内容で、大司教様にエッセーを一本お願いしたいと思ったことを、私は隠しているわけではありません。大司教様のエッセーは、牧者を失い、自らに託された教会を守り抜くはずのキリストの代理者を失い、困惑している小さな残った者たちにとって、キリスト教的希望に満ちているものです。

私は、多くの人が心にそのような悲しみをもって尋ねているいくつかの疑問を、大司教様にお尋ねいたしました。ですから、聖霊が大司教様に対して、社会で、すべての心で、地球の表面全体で、キリストの御国の凱旋が戻ってくるという期待を再燃させてくれるご回答を与えてくださると、私は確信しております。

“Pacificus vocabitur, et thronus eius erit firmissimus in perpetuum”!
「彼は平和をもたらす者ととなえられ、その王座はとこしえに固められる」

ある隠遁修道女


カルロ・マリア・ヴィガノの返答

尊敬する親愛なるシスター、

あなたが送ってくださったお手紙を、強い関心と教えられるという気持ちをもって読ませていただきました。私にできる限りの良い返事をさせてください。

最初のご質問は、直接的であると同時に心をなごませるものです。「もし今日、王の王、主の主が、栄光のうちに戻って来られるとしたならば、主は今でも教会というご自分の浄配を認識なさるでしょうか?」。もちろん、主は教会だと認識なさるでしょう! しかし、ペトロの座を覆い隠しているカルトではなく、むしろ多くの善き霊魂、特に司祭、男女修道者、そしてモーゼのように眉間に光の角がなくても(出エジプト34章29節)、キリストの教会の生きた肢体(メンバー)として認識できる多くの素朴な信仰深い霊魂に、教会を認識なさるのです。主は、汚れた偶像に礼拝が捧げられた聖ペトロ大聖堂にも、住人の人工的な貧困と膨れ上がった謙遜がその住人の巨大なエゴの記念碑となっているサンタマルタ館にも、民主主義という虚構がカトリック教会という神聖な大伽藍の解体を完了し、つまずきを与える生き方を押しつけるために役立っているシノダリティーに関するシノドスにも、カトリック信仰と取り消された聖伝に公会議のイデオロギーが取って代わっている教区でも小教区でも、教会を見いだされることはないでしょう。主は、教会のかしらとして、ご自分の神秘体の脈動する生きた肢体(メンバー)と、異端、色欲、高慢によってキリストから奪い去られ、今やサタンに服従している死んで腐った肢体(メンバー)を認識されるのです。ですからそうです、王の王は、「小さな群れ」(pusillus grex)を認識されるのです。たとえ、屋根裏や地下室や森の中にある祭壇の周りに集まっている群れを探さなければならないとしてもです。

あなたは「勝てぬ」(Non prævalebunt)の約束が「こういった質問の持つ挑発的な調子は、生き残った数少ない信者たちの気持ちの表れで、教導権の言葉、有効な秘跡、牧者たちのうちに生活の一貫性を探し求める信者たちの混乱した感情を要約しております」と言っておられます。

聖ペトロに対する私たちの主の約束は、ある意味で挑発的です。なぜなら、その約束は二つの前提で始まっているからです。第一は、地獄の門も勝てぬ、というものですが、これは教会が耐えなければならない迫害のレベルについて何も語ってはいません。第二は、前者の論理的帰結として、教会は迫害されるが敗北はしない、というものです。どちらについても、私たちが求められているのは、救い主の言葉と救い主の全能に対する信仰の行いと、謙虚な現実主義の行いをすること、私たちの弱さを認め、「近代主義者たち」の間でも「聖伝主義者たち」の間でも、私たちは最悪の罰を受けるのにふさわしいという事実を認めることです。

「『教会』が、もう『教会』でなくなった場合」、キリストの社会的王権の回復を求めるピオ十一世の訴えを、どのように実践するのかと、あなたは私にお尋ねです。確かに、この世がカトリック教会の名を与え、ベルゴリオを教皇とみなしている目に見える教会は、少なくとも、別の教理を確信的に告白し、「公会議前の教会」に対するアンチテーゼとしての「公会議の教会」の信奉者と自らを宣言する枢機卿、司教、司祭に関しては、もはや教会ではなくなりつつあります。

しかし、あなたや私、そして多くの司祭、修道者、信者は、〈その〉教会の一員なのでしょうか、それともキリストの教会の一員なのでしょうか? 私たちは、ベルゴリオの教会とカトリック教会は、ある面では重ね合わせることができるとするならば、どこまで重ね合わせることができるのでしょうか? 問題は、公会議の革命が、キリストの教会とカトリックの位階階級の間のアイデンティティーの絆を引き裂いたことです。第二バチカン公会議以前は、教理的・道徳的な問題で教皇が前任者と公然と矛盾することは考えられませんでした。なぜなら、聖なる鍵の力とキリストの代理者の権威を管理する上で、位階階級はその役割と道徳的責任について非常に明確だったからです。

公会議が示したことは、公会議自身について与えた異常な定義と、規定文(canon)と排斥文(anathema)の排除に見られる過去との断絶とに始まって、さらには、道徳的な感覚を持たない誰でも、あなたが正しく列挙なさった三つの側面「教導権、有効な秘跡、牧者たちの生活の一貫性」においてふさわしくないにもかかわらず、教会において神聖な役割を保持することがいかに可能であるかということでした。

教理、道徳、典礼において逸脱したこれらの牧者たちは、自分たちがキリストの代理者たちであるという事実に拘束されていると感じず、したがって、その権威がそれを正当化する目的と首尾一貫して行使される場合に〈のみ〉教会を統治することができるという事実に拘束されていると感じないのです。この理由で、彼らは自らの権力を濫用し、彼らが否定した天主の起源を持つ権威を簒奪し、牧者の権威を何らかの形で保証している神聖な制度を辱めるのです。

この断絶、この激しい引き裂きは、ちょうど世俗的領域で起こったように、高位聖職者たちの権威が〈世俗化〉された瞬間に、霊的なレベルで完結したのです。権威が神聖であることをやめ、上から裁可されず、教皇の霊的権威と王および主の世俗的権威とを自らのうちに併せ持つお方の代わりに行使されることを止めるなら、権威はどこでも腐敗して専制となり、腐敗をもって売られ、無政府状態において自殺することになるのです。

あなたはこうお書きになっています。「王たるキリストは今日でも同じ姿で帰って来られ、司教たちや枢機卿たちの目をご覧になります。彼らは、主が彼らの裏切り、高慢、そしてふさわしくない盲目の代価を引き受けられ、彼らの代わりにかぶられた茨の冠を認めない者たちですが、彼らに眼差しを注ぎます」と。

親愛なるシスター、それらと同じ特徴で、私たちは聖なる教会を認識しなければなりません。そして、私たちは、教会のかしら【キリスト】が辱められ、あざけられ、鞭打たれ、血を流し、衣をまとい、葦を持ち、茨の冠をかぶせられるのを見てうろたえたように、今、私たちは、同様の方法で、「戦闘の教会」全体がひれ伏し、傷つき、唾を浴び、侮辱され、あざ笑われているのを見てうろたえます。しかし、もしかしら【キリスト】が死ぬまで、十字架上に死ぬまで自らを辱めることによって犠牲を受け入れようとなさったのなら、私たちは彼の肢体(メンバー)である以上、もし本当にキリストとともに天国で支配したいと望むなら、どんな理由でより良い結果を得ようと思うでしょうか? もし十字架の王座でないとすれば、小羊はどの王座に座っておられるのでしょうか?

〈天主は【十字架の】木によって統治する〉(Regnavit a ligno Deus)。これはキリストの勝利であり、これはキリストの神秘体である教会の勝利となるでしょう。あなたは正しくコメントなさっています。「そうです、これこそが、私たちの時代における「真の教会」の持つ召命であると私には思えます。【天主への】冒涜と倒錯によって不当に扱われ、姿を醜くされた王たるキリストの眼差しに遭いながら、それでも、主に愛と忠実の答えをする、そして主を否むことができない良心の一貫性という応答をする勇気を持っている小さな群れが持つ召命なのです。なぜなら、さもなければ、ピラトやヘロデ、民の指導者たち全員がそうしたように、王たるキリストを否んでしまうことになるからです」。

親愛なるシスター、あなたのお手紙は、私たち全員にとって、この恐ろしい時代に起きていることに非常に近い「教会の受難」(passio Ecclesiæ)の神秘について考える機会となります。ですから、私は最後に、〈勝てない〉(Non prævalebunt)の「挑発」を思い起こします。救い主が墓の影をご存じだったように、私たちもそれが教会に起こることを知らなければなりませんし、おそらくはすでに起こっているのでしょう。しかし、主はその聖なる者【教会】に腐敗を知ることを許さず(詩篇16篇)、ご自分が死からよみがえられたように、教会をよみがえらせられるのです。この意味で、「花嫁は花婿に似なければならない」という言葉は、その完全な意味を持ち、天主なる花婿に従ってゴルゴタへの急な坂道を登ることによってのみ、御父の右の座まで栄光のうちに主に従うのにふさわしくなれることを示しているのです。

私は、あなたとあなたの親愛なるお仲間のシスターの皆さんに、これらの考えから霊的な利益を引き出すよう強くお勧めするとともに、私の父としての最大限の祝福をお与えします。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

Sancti Caroli Borromæi, Pont. Conf.
2022年11月4日
司教証聖者聖カルロ・ボロメオの祝日


ヴィガノ大司教:第二バチカン公会議で理論づけされた信教の自由とエキュメニカルな対話のための前提としての権威の「世俗化」について

2022年11月22日 | カトリックとは

ヴィガノ大司教、公会議後に教会と国家の分離を受け入れたことを非難

英語版

Viganò Blasts the Post-Conciliar Acceptance of Separation Between Church and State

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/vigano-sulla-recente-lettera-di-benedetto-xvi

フランス語版
https://www.medias-presse.info/de-hoc-mundo-la-secularisation-de-lautorite-comme-premisse-de-la-liberte-religieuse-et-du-dialogue-oecumenique-theorise-par-vatican-ii-par-mgr-vigano/165513/

2022年11月6日(主日)

ヴィガノ大司教、公会議後に教会と国家の分離を受け入れたことを非難

―――第二バチカン公会議で理論づけされた信教の自由とエキュメニカルな対話のための前提としての権威の「世俗化」について―――

カルロ・マリア・ヴィガノ

DE HOC MUNDO
この世からのもの

第二バチカン公会議で理論づけされた信教の自由とエキュメニカルな対話のための前提としての
権威の「世俗化」

Regnum meum non est de hoc mundo.
「私の国はこの世からのものではない」(ヨハネ18章36節)

   1.はじめに

第二バチカン公会議が教会に、ひいては社会全体に与えた傷は、60年たっても癒やされておらず、実際、皆の目の前で非常に深刻な損害をともなって、傷は壊疽(えそ)を起こし続けています。ベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)が公会議を褒めそやす熱狂的で自己満足的なトーンをもってしても、公会議が教会と霊魂たちにもたらした破滅を取り消すことはできません。

「公会議の教会」の自己参照性に関する、私の前回の小論(こちら)で、私はこのアイデンティティーの危機についての重要な側面をいくつか強調しました。それに加えて最近、私が公会議の破壊的性格を理解する上で基本的なものとみなす要素が現れました。私が言及しているのは、ベネディクト十六世が10月7日に、スチューベンヴィルのフランシスカン大学の学長に送った書簡(こちら)です。

私はかねてから、このテーマをもっと深く掘り下げたいと思ってきました。カトリック教会内の教理、道徳、典礼、規律の各面に関して、第二バチカン公会議によって始まった革命のイデオロギー的な前提や実践的に成就させた方法をはっきりさせるためには、ラッツィンガーのテーゼを検証することが不可欠です。

2.永続革命

私が「第二バチカン公会議によって始まった革命」という表現を使ったのは、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオがほぼ10年間、ほしいままにしてきた耐え難いほどの行き過ぎた行為が、マルクス、エンゲルス、トロツキーによって社会の領域で理論化された永続革命の原理を、教会の領域で一貫して応用したに過ぎないと、今、私には明確に思えるからです。「永続革命」の思想とは、「プロレタリアートは共産主義の方法に関してあまり熱心というわけではなかったため、もし自分たちが階級闘争を世界中に広めたいならば、権威によってそれを強制し、それを不可逆的にすることが必要だ、なぜなら、革命においてのみ、社会秩序への破壊転覆的行動を推進させる混乱 χάος が起こるからだ」というボルシェビズムのイデオローグたちの観察から生まれたものでした。

同じような進め方が、ベルゴリオの教会でも採用されてきました。公会議の革命が「カトリックのプロレタリアート」に熱狂的に歓迎されたというわけではなかったため、サンタマルタ館の中央委員会は、レーニンが「革命の転写」と呼んだものにより頼んで、第二バチカン公会議のメンタリティーを、当初公会議の支持者の誰もがあえて触れようとはしなかった、あの教理の分野にも拡大したのです。

この理由で、シノダリティーに関するシノドスが必要なのです。つまり、一種の〈永続的な公会議〉、言い換えると「永続的なアジョルナメント【現代化】」(こちら)を打ち立て、これが、教会の底辺――プロレタリアートの教会版――が求めていると想定されるものを推進するのです。たとえば、女性の助祭や、離婚して再婚したカップル、同棲カップル、重婚主義者【一夫一婦制ではない婚姻形態を求める者】、養子を持つ同性愛者のカップル、LGBTQ運動の信奉者らの根本的な取り込み(inclusion)(こちら)の推進です。

これらの要望は、いずれも、教導権に忠実な教理的・道徳的な観点からはまったく許されないものであり、聖職者と信者が教会の最高権威に要求していることを忠実かつ自発的に図式(イメージ)にしたものではなく、ベルゴリオ式のプロパガンダの詐欺的な虚構(フィクション)にすぎません。つまり、先にあった「家庭に関するシノドス」の際にすでに実験した操作――これが「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)と呼ばれる異端の〈怪物〉(monstrum)を生み出した――と同じ線の上にあるものです。

そしてまたこの場合も、現実が革命によって歪められるのですが、それは、二千年の教会の知恵やその創立者の意志が用意しよう意図したものよりも優れた解決策を持つ思想だという前提によって、自らのディストピア思想に無理やり合わせようとするためです。最悪の全体主義体制のテクニックを使って教会の分野で適用される大衆操作というものに、私たちは直面していますが、そのテクニックは今日、パンデミックの茶番劇と環境保護的な移行を行うグローバリストのエリートによって、またロックフェラー財団の〈アジェンダ2030〉の同盟者・支援者であるベルゴリオのカルトによって採用されているものなのです。

3.天主の民と神秘体のラッツィンガー的なジンテーゼ

2022年10月7日のベネディクト十六世の書簡は、彼が2011年9月22日のドイツ議会での演説(こちら)ですでに述べていたことを明確に説明したものです。しかし、中世アウグスティヌス主義に対する彼の批判の最初の定式化[1]は、かなり以前の1954年のアウグスティヌス会議の機会にパリで発表された彼の論文「アウグスティヌスの教会教理における天主の民と家」(こちら)にあったものです。ラッツィンガーは、ハルナック学派が展開した思想を思い起こして、こう述べています。

「二つの〈国〉(Civitates)とは、具体的な組織を意味するのではなく、むしろ歴史における信仰と不信仰という二つの基本的な勢力を表しているのです。…〈天主の国〉(Civitas Dei)は、単純に教会という制度と同一というわけではありません。この意味で、中世のアウグスティヌスは実に致命的な誤謬を犯しましたが、今日、幸いなことに、それは決定的に克服されました」。
【注:「中世のアウグスティヌス」とは、中世の解説者によって説明されたアウグスティヌスの思想や教えのこと。】

この論文が取り上げ、その書簡で簡単に触れられているテーマは、神秘体に関する教会論的教理であり、著者によれば、それはピオ十二世の回勅「ミスティチ・コルポリス」(Mystici Corporis)で考察しつくされました。1950年代末、ピオ十二世が病気だったとき、進歩的神学者たちの〈新奇なもの【革命】への欲望〉(rerum novarum cupiditas)[2]が復活しました。彼らにとって教会の超自然の次元はあまりにも霊的であったため、「天主の民」というもっと誘惑的なアウグスティヌス主義の表現に置き換えられなければなりませんでした。この表現は、旧約のユダヤの民を含むという点でエキュメニカルな鍵であり、社会学的・政治学的展開の可能性を示すという点で民主的な鍵でもあると、容易に解釈されるものでした。明白なことですが、このイデオロギー的な定義は、ハルナックとその弟子の思想と完全に一致する近代主義的な背景を明らかにしています。

25歳のラッツィンガーのこのテーマが、公会議でも取り上げられることになることは、見落とされはしないでしょう。したがって、名誉教皇が、自分の神学的形成と教会でのキャリアにおいて決定的であり、彼の後継者が今実践しているテーマについて、まさに誇りを持って言及しているのは、驚くには当たりません。

ラッツィンガーの哲学的アプローチは本質的にヘーゲル的であり、したがって「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」の枠組みに従った「絶対観念論」[3]が染みついています。この場合、神秘体というカトリックの〈テーゼ〉と、天主の民という進歩主義の〈アンチテーゼ〉の間【の対立】、第二バチカン公会議と公会議後【の間の対立】は、彼が1954年の論文で理論づけした通りの〈ジンテーゼ〉を受け入れることで終わったとされます。つまり「教会は〈キリストの体〉として存在する天主の民であり」、そこにおいてキリストは信者に対して自らを体として与え、信者を自らの体へと変容させる、とされる統合説です。

この大胆な論文は、よく考えてみると、ご聖体の両形態において全体として真に現存するキリストの体【ご聖体】と、教会の生ける肢体(メンバー)とその天主なるかしらとの一致によって〈神秘的に〉実現されるキリストの体【神秘体】との間の本質的な違いを混同する危険性をはらんでいます。このような混同があれば、「キリストの体」という不明確な表現のせいで、少なからぬ進歩的な、あるいは完全に異端的な神学者たちが、プロテスタントに好意を寄せることを可能にしたことでしょう。同じように、フランシスコは、貧しい人々を「真のキリストの体」と定義するラニエロ・カンタラメッサの大胆な貧民論的・聖体論的暗喩を利用する機会を得たことでしょう。カンタラメッサの「真の現存」は、貧しい人々を迎えることによってキリストの体を迎えることになり、実現するとされているのです。

4.天主の国(Civitas Dei)と悪魔の国(civitas diaboli)

発生する問題は複雑かつ明確です。その問題には二つの側面があります。一つは「公会議の教会」が何であり、何であろうと望んでいるかに関連する〈内部に対する〉(ad intra)側面、もう一つはこの世におけるその役割と他の宗教との関係に関連する〈外部に対する〉(ad extra)側面です。〈内部に対する〉側面は、教会の制度の本質に触れ、教義に害を与える「より広い霊的次元」の再発見という偽りの口実のもとに、民主的かつシノドス的な鍵で教会制度を解体しようとするものです。〈外部に対する〉側面は、この世に対する「エキュメニカルな」アプローチ、セクトや偽りの宗教との対話を求め、諸国の福音化を放棄することを暗示し、その代わりに、教義も道徳もない環境保護的かつ人類愛的なメッセージで置き換えるというものです。

名誉教皇によれば、「中世のアウグスティヌス」の誤謬は、〈天主の国〉(Civitas Dei)を目に見える教会と同一視しようとしたことにあるとされますが、〈天主の国〉はキリスト教世界(Christianitas)のモデルとして有効であることは明らかです。キリスト教世界とは、つまり法律と規則が、「Beatus populus, cuius Dominus Deus eius――天主を主とする民は幸い」(詩編143篇15節)と歌った詩編作者の希望を実現する国境を越えた(transnational)社会のことです。

教理が教えるところによれば、まさにそのこの地上的な次元が理由で、「戦闘の教会」(Church Militant)は、天のエルザレムのように聖なるものであると同時に、そのメンバーにおいて罪あるものでもあります。また、その教導職(Magisterium)において不可謬であると当時に、その役務者(Ministers)において可謬です。聖アウグスティヌスや中世の論者たちが国家を〈悪魔の国〉(civitas diaboli)だと指摘したというのは事実ではなく、それどころか、彼らは救いの経綸(けいりん)における国家の御摂理的役割と、自然法にだけでなくカトリックの教導権にも合わせる世俗権力の必要性を認めていたのです。

もし、その存在論的な悪によって認識される〈悪魔の国〉(civitas diaboli)があるとすれば、それは、新世界秩序と、グローバリストの共同統治(synarchy)の確立のために働く、等しく国境を越えた(transnational)あのすべての組織のことだと特定されなければなりません。ベルゴリオのセクトも例外ではなく、これらの破壊転覆的な犯罪者たちの同盟者であり支援者であることは偶然ではありません。

5.ラッツィンガーによる中世アウグスティヌス主義への批判

教会の真の本質を歪曲するもう一つの非常に深刻な神学的誤謬は、公会議の教会論が持っている本質的に非宗教主義的(laicista)な基礎にあります。この基礎は、絶えず変化している自分自身のイデオロギー的計画に、客観的現実を合わせようとするのです。

私が「非宗教主義的」(laicista)という言葉を使ったのは、私には、この考え方には超自然の眼差しが全くないことが明らかだと、思えるからです。超自然の眼差しとは、この世の現実を〈永遠の相の下に〉(sub specie æternitatis)見る方法を知っている――単なる知的思索のためではなく、対神徳【信仰・希望・愛徳の三徳】に動かされているため――、すべてを包含する眼差しです。これらの知識人の無意味さには、絶望的なほど情熱や勇気、血の気がないことが現れています。それはすべて理論的なものです。すべては、贖いを無菌的に阻止するため、また〈キャンセル文化〉のオーウェル的手法を利用して〈キリスト教の秩序〉(ordo christianus)を取り消すために確立されたものです。

この誤謬は、第二バチカン公会議の文書、特に信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanæ)と、キリスト教以外の宗教およびユダヤ教と教会の関係に関する宣言(Nostra Aetate)の中でほのめかされており、ベネディクト十六世の言葉によれば、「公会議の教会」を「初めて」カトリック教会と意図的に不連続に位置づけているのです。彼はこう述べています。

「第二バチカン公会議は、宗教を選択し実践する自由と、それを変更する自由を、人間の自由の基本的権利として取り上げました。まさにその最も深い理由によって、このような概念は、キリスト教信仰にとって、異質なものではあり得ませんでした。何故なら、キリスト教信仰は「国家は真理を決定することができず、いかなる種類の礼拝も要求することができない」と主張を携えてこの世に入ってきたからです。キリスト教の信仰は、宗教的確信とその礼拝の実践の自由を主張しましたが、それによって国家がその秩序において持つ権利を侵害することはありませんでした。キリスト教徒は、皇帝のために祈りましたが、皇帝を礼拝はしませんでした。このような観点から、キリスト教はその誕生とともに、信教の自由の原則をこの世にもたらしたと言えます」[4]。

この誤解は、「信教の自由」という用語にある二重の意味が基になっています。カトリック的な意味では、洗礼を受けた者が国家の側に妨げられることなく真の信仰を公に告白する自由を示しています。近代主義的な意味では、信仰を持つ者は誰でも、国家の側により同じ権利と同じ自由を認められるという抽象的な自由を指しています。

もう一つの誤解は、"カトリック教会に特別な権利と特権を認めている国家"が、"偽りの宗教を国家宗教としたり、自らを「宗教を持たない」と宣言して真の宗教の宣教を禁じたりあるいは真の宗教を他のあらゆるカルトと同一視したりする国家"と、無差別的に比較される時に生じます。

教会は、何世紀にもわたって、カトリックの宗教が容認されなかったり、迫害されたりした国々のさまざまな状況と、自らの権利とを、慎重に調和させようと常に努力してきました。反カトリックの支配者を刺激してカトリックの臣民を迫害させることは、無謀で軽率な行為です。しかしながら、教会が、少数派の状況においては、自らと信者のために寛容を求めることができるという事実があっても、公式にカトリックであると告白している国家によって、その制度的役割が認められていると教会がみなしている他の状況にも、同等の権利が適用されることを意味するものではありません。

しかし、第二バチカン公会議で理論化された「信教の自由」の名の下に、スペインやイタリアのような国々に対して、カトリックを国教として認めることを放棄するよう求め、政教条約(コンコルダート)を変更し、数世紀にわたってカトリック教会が合法的に認めてきた特権を廃止させたのは、位階階級自身だったのです。ですから、この観点からすれば、「キリスト教はその誕生とともに、信教の自由の原則をこの世にもたらした」と断言するのは不適切です。その反対です。これが理由で、キリスト教は自らの信者の迫害と殉教に直面しなければならなかったのです。初期のキリスト教徒は、至聖なる三位一体をパンテオン(神々の神殿)に加えることを求めたのではありませんでした。独自の一神教を自由に実践させてくれるように求めたのであり、この一神教ということがローマ人を非常に驚かせたのです。初期のキリスト教徒が、この「信教の自由」を主張したのは、自分たちのためであって、異教徒のためではありません。その反対に、キリスト者たちは、かれらを真の信仰に改宗させようと試み(て成功し)たのです。

教会が天主から直接由来する権利の保持者であるということ、また、教会の権利を認めて保護するのが国家に任されているのは、単に量的な問題【国民の大多数だから】ではなく、カトリックの宗教が客観的に真理であって、共通善の追求のために社会的に不可欠であるから、ということが忘れられているように思われます。この点については、レオ十三世の言葉を引用する価値があります。

「もしこの世の悪に対する解決策があるとすれば、それはキリスト教の生活と習慣に戻ること以外にあり得ません。これは荘厳な原理です。退廃した社会を改革するためには、その社会を存在させた原理に戻すことが必要であり、あらゆる社会の完成は、その目的に到達するための努力にあります。その方法は、運動と社会的行動の生成原理が、団体を生み出したものと同じであるようにです。したがって、原初の目的から逸脱することは堕落であり、その目的に戻ることが救いなのです」[5]。

国家がこれらの教会の権利承認を拒否することは、偶然的・付随的なことであり、教会もまた自らを押し付けないことを決定することができます。しかし、誤謬を広める人々に、恩を着せたり、あるいは教会の使命とは全く無縁であるエキュメニカルな熱意を証明したりすることだけを目的として、教会が彼らのための権利を主張することは、教会の決定によるのではありません。

6.偽りの思想を正しく見せるために現実を改ざんすること

よく考えてみると、伝統的な思想は、制度という抽象的な概念よりも、教皇、王、高位聖職者と統治者、信者と臣民など、制度上の地位を持つ人物の役割にずっと注目しています。なぜなら、主は、法的な存在を救うためではなく、霊魂を救うために亡くなられたからであり、また教会には、国家の支配者たちが果たす役割でさえも、聖寵によって活性化させ、彼らに統治されている国民のより良い善に貢献できるようになるように、支配者らを含むすべての国民を回心させるという任務があるからです。

この架空の「中世のアウグスティヌス」は、何らの誤謬も犯していません。この世の権威(霊的および世俗的)がそれに適合させなければならない超自然のパラダイムがあることを指摘した点も間違いではありませんし、世俗の権力を宗教の権力に従属させ、世俗と宗教の両権力を共に天主の力に服従させることを理論化した点でも誤りはありません。

致命的な誤謬が犯されたのは、むしろ、聖職者たちによる新近代主義や政治的な進歩主義の持つ強くイデオロギー化された戦線でのことでした。その信奉者たちは、何の根拠もなくある教理の定式を〈政治的アウグスティヌス主義〉に帰属させようとしていますが、彼らによればこの教理の定式は初代の数世紀の【教会の】メッセージに対応しないとされています。しかし、聖アウグスティヌスは、いかなる形であれ、国家の権威が真の宗教から切り離されていると主張したことは決してありません。むしろ、このヒッポの司教【聖アウグスチヌス】は、こう宣言しています。

「(キリスト教徒の皇帝が)幸福であるのは、次の場合であると私たちは言おう。皇帝が、正しく統治する場合。皇帝が、崇高な栄誉を与える人々の賞賛の中にいても、また、過剰な恭順で皇帝を敬う人々の卑屈さの中でも、高ぶることなく、自らが人間であることを忘れない場合。皇帝が、自らの権力を天主の御稜威に従うものとして、天主の礼拝を最大限に広げるために用いる場合。皇帝が、天主を恐れ、愛し、敬う場合。皇帝が、自分の国以上に、ライバルがいると恐れることのない国【天主の国】を愛する場合。皇帝が、罰するのが遅く、赦すのが早い場合。皇帝が、国家を統治し守るために必要であって、自分の敵意を満たすためでないときだけ罰する場合。皇帝が赦免を与えるなら、法の違反という不正が罰せられないためではなく、違反者が自分の道を改めるという希望があるゆえに赦す場合。皇帝が、しばしば強いられる厳しい決断を、温和な同情と寛容さで埋め合わせする場合。皇帝自らの贅沢が、制御されないでいる可能性があればあるほど、より多くの節度がある場合。皇帝が、多くの民族・人民たちを支配するよりも、悪しき情念を治めることを好み、また、無益な栄光を望むためではなく、永遠の幸福を愛するために、このように治めようと行動する場合。皇帝が、真の天主に謙遜の犠牲、寛容の犠牲、自らの罪のための祈りの犠牲を捧げることを怠らない場合、であると。上のような資質を備えているキリスト教の皇帝は、現世においては、希望において幸福であり、来世においては、私たちが待ち望んでいた対象が実現するとき、現実に幸福になるであろうと、私たちは言おう」[6]。

実際、社会は、天主の啓示を認め、天主の掟と教会の権威に従うという道徳的義務をそれぞれが負っている個人からなるのですから、社会がその同じ義務を回避することは不可能です。同じように、他の諸宗教の存在が、教える教理の異常さに関係なく、それが数的に重要であるという理由で、唯一の真の宗教が疎外されるのをあきらめて承認するという態度が正当化されるわけではありません。しかも国家と社会とからの同意と支援の喪失が、公会議の逸脱に基づくカトリック位階階級の放棄に主要に起因している場合には、とりわけそのような正当化が真実ではありません。

7.全体主義の逸脱に対抗する権威の神聖さ

聖アウグスティヌスの定式化は、【彼の著書である】「天主の国[神の国]」(De Civitate Dei)の中で語り尽くされてはいませんが、彼の全著作の中に十分な正統的解明がなされており、聖書およびカトリックの教導権と一致させて読むべきものです。この両者は、さらに、世俗の権威が代理であるという考え方――イスラエルの民に固有の権威観であった――を受け継いでいます。つまり、ビザンチウムから始まるキリスト教の君主たちがそうであったように、イスラエルの王たちは天主の権威の代表であったのです。

ギリシャ・ローマ文明から受け継いだ世俗の権威の神聖さは、キリスト教世界に深く根差しており、聖なる品級の秘跡に固有な儀式的な意味合いを持つようにさえなりました。君主への聖香油の塗油、東ローマ皇帝やロシア皇帝が着る典礼的祭服、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠儀式、ヴェネツィアの元首(Doge)が受ける高位聖職者であるかのような儀式などが考えられるでしょう。しかし、イタリアの〈共同体〉(Comune)という、君主制に比べればもっと「世俗的」であるとされるものですが、そこにおいても秩序ある〈国家〉(res publica)という概念が、中世において、信仰と首尾一貫して発展しました。これはアンブロジオ・ロレンツェッティがシエナの〈パラッツォ・パブリコ〉に描いた「善政の寓意」のフレスコ画で例証されています。

霊的権威とこの世の権威の間にある調和と位階的相補性を人為的に分離することは不幸な操作であり、それが実現するたびに、専制政治のための前提あるいは無政府状態のための前提を作り出しました。その理由はあまりにも明白です。〈すべての権威は天主から出る〉(ローマ13章1節)のですから、キリストが教会と国家の王だからです。支配者がキリストの主権の下に服従する義務があることを否定することは、非常に重大な誤謬です。なぜなら、道徳律がなければ、国家は天主のご意志とは無関係に自らの意志を押し付けることができてしまうからです。したがって、その時、国家は〈天主の国〉(Civitas Dei)という天主のκόσμος(秩序)を転覆させて、その代わりに恣意的な自由意志と〈悪魔の国〉(civitas diaboli)という地獄のχάος(混沌)に置き換えることになるからです。

ですから、ここで私たちが理解することは、一方の〈天主の国〉と他方の〈悪魔の国〉の両者が、【実現のために】努力すべき一つのモデルとなるのであって、実現された現実ではないこと、またどちらにも、難解な「霊性化」も粗雑な「現実化」もないことです。また、私たちが、これらの単に知的な思索の背後にあると理解するものは、ヘーゲル的母体の観念論的アプローチです。これは、天主のご意志による現実と対立する架空の現実を作り出して、実に、救い主キリストのご受難に代わるプロメテウス的なものを押し付けようという望みから生じています。

主のご受難は、まさに贖う力のある十字架のため、また、贖罪の経綸(けいりん)において、十字架が王座である(天主は[十字架の]木によって統治する regnavit a ligno Deus.)という事実のため、つまずきをもたらすからです。この世はキリスト教を信じなくともよいと信じること、またこの世が天主なしに機能することができるし自力で生き延びていくことができると信じることは、地獄的かつ冒涜的な怪物(キメラ)です。

8.教会の権威の世俗化

一方、国家の世俗的性質――「信教の自由」は個々人のために理論化されたものなのでそこから生じて必ず起こる結果としての国家の非宗教化――に、神学的な色合いを与えようと望む人々は、聖書、教父、教導権の教理的前提を必然的に否定せざるを得なくなりました。そこで、彼らは中世の思想家たちの作品において真のキリスト教のメッセージが歪められていたのではないかと主張するのです。このように、教理的逸脱は、常に嘘、歴史の改ざん、そして自分たちの誤謬を押し付けようと望む対話相手の無知に基づいているのです。

その結果は壊滅的であり、誰の目にも明らかです。もし〈完全な社会〉(societas perfecta)がその主権者として主キリストを認める必要がないならば、これは必然的に地上の教会にも適用されなければならず、そのため位階階級は、天主なる創立者によってきちんと定められた境界の中ではなく、単に権力維持の目的のためにその権威の行使を決定することができるとされるのです。公会議後の時代(il postconcilio)には、1925年にピオ十一世が回勅「クアス・プリマス」(Quas Primas)で制定した祝日の典礼文に手を加えて、キリストの王権に関する教理を取り消すためにあらゆることを行ったのは、偶然ではありません。

ラッツィンガーは「私の教会論」について語り、教会は自らを〈天主の国〉(Civitas Dei)と呼ぶことはできず、ピオ十二世が1943年の回勅「ミスティチ・コルポリス」(Mystici Corporis)で定義した教理を現在でも妥当だと考えることもできないと断言しています。名誉教皇は、こう書いています。「しかし、教会という概念を完全に霊性化することは、その一端として、この世における信仰の現実性と教会制度の現実性を欠いています。したがって、第二バチカン公会議では、この世における教会の問題が、ついに真の中心問題となりました」と。

中心問題とは、〈最新的〉(à la page)、対話的、包括的、人類愛的に見えるようになるために、カトリックの教理を変えるほど中心だったのです。しかし、まさに〈異邦人の指導者〉(Domina gentium)としての役割の喪失こそが、「公会議の教会」を社会的に無意味で疎外された立場に導いてしまったのです。〈血の代価〉(pretium sanguinis)をもって、公会議の教会は自らを汚し、キリストの使命を裏切り、世の中の考えによって汚染されることを許したのです。

ですから、ピオ十二世までの教会が、〈天主の国〉(Civitas Dei)をモデルとし、そのメンバーの弱さにもかかわらず、自らをキリストの神秘体であるとみなしたとすれば、ここ数十年、第二バチカン公会議の支持者たちを触発したモデルは、むしろ〈悪魔の国〉(civitas diaboli)のモデルであり、聖座がグローバリズムのイデオロギー、「グリーン経済」の新マルサス的妄想、トランスヒューマニズム、ジェンダーやLGBTQのレパートリーの全てに支援を提供していることから判断すれば、このことは明らかでしょう。

2022年10月30日
Domini Nostri Jesu Christi Regis
王たる私たちの主イエズス・キリストの祝日

【注】
[1]〈中世アウグスティヌス主義〉(medieval Augustinianism)という用語は、アウグスティヌス思想の発展、特に〈天主の国〉(Civitas Dei)と〈悪魔の国〉(civitas diaboli)に関する教理の政治的・社会的意味合いに関連するものを意味し、革新主義者によれば、聖アウグスティヌスの本来の思想を歪め、例えば神権政治的な権力観を世俗・教会の双方で煽り立てているとされる。しかし、すべての権力は天主に由来するという考えは、このヒッポの司教にとってすでに非常に明確であり、中世の政治的アウグスティヌス主義におけるその説明は、聖伝と完全に一致するものであったのは言うまでもない。

[2]サッルスティウス(Sallustius)、「カティリナ戦記」(Bellum Catilinæ), 48 には、Rerum novarum cupiditas Catilinæ animum incendebat.新奇なものへの欲望は、カティリナの心を燃え立たせていた、とある。

[3]ヘーゲル観念論【ドイツ観念論】は、アリストテレスの論理[〈無矛盾律〉とも呼ばれる]を放棄し、新しい論理[いわゆる〈実体的な〉(substantial)論理]を採用することを特徴としている。存在者はもはや非存在者と静的に対立するのではなく、成るへと移行することによって非存在者と一致するようになるとされる。ヘーゲル観念論は、現実のすべての矛盾を、絶対的な理性において解決しようとする。したがって、超越的な原理という哲学の持つ目標や究極の目的においてではなく、それ自体に認識する、内在論的な結果だけをもたらすことになる。

[4]ヨゼフ・ラッツィンガー、「全著作集」(Opera omnia)第Ⅶ/1巻、「第二バチカン公会議の教え」(Gli insegnamenti del Concilio Vaticano II)、「バチカン文書館(出版社)」(Libreria Editrice Vaticana)、2016年、序文(カステル・ガンドルフォ、2012年8月2日)を参照。

[5]回勅「レルーム・ノヴァルム」(Rerum Novarum)27番(1891年5月15日)。

[6]「天主の国[神の国]」(De Civitate Dei)V, 24

ヴィガノ大司教:「公会議の教会」こそが自己充足できると思い、聖伝における一致から自らを排除し〈自己参照性〉を犯しているのではないか? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年11月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年11月13日、11月20日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計116人でした。大阪では11月13日は23人、11月20日は26人でした。

今日は11月21日、ルフェーブル大司教さまがローマで有名な宣言をした日です。

「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。」

第十七回「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」 2023年5月2日(火)~5月6日(土) に愛する兄弟姉妹の皆様をお招きいたします。

【報告】【2022年11月13日】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 116 including children.

09:00 mass
M: 31 (incl. 5 children)
F: 28 (incl. 7 children)
Total: 59 (incl. 12 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 2 children)
F: 34 (incl. 4 children)
Total: 59 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 2 people who participated in multiple masses)
M: 55 (incl. 7 children)
F: 61 (incl. 11 children)
Total: 116 (incl. 18 children)

【報告】【2022年11月20日】

Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 116 including children.

09:00 mass
M: 31 (incl. 5 children)
F: 28 (incl. 7 children)
Total: 59 (incl. 12 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 2 children)
F: 34 (incl. 4 children)
Total: 59 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 2 people who participated in multiple masses)
M: 55 (incl. 7 children)
F: 61 (incl. 11 children)
Total: 116 (incl. 18 children)


[主の来臨]は誰にでもはっきりわかる。天主を愛する者たちに永遠の幸せを与え,全人類の歴史を完成させ、その最後にすべての意味が与えられる。

2022年11月20日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年11月20日は聖霊降臨後最後の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後最後の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


Angelus Press Calendar 2023 アンジェルス・プレス・カレンダー2023年

2022年11月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アンジェルス・プレスの2023年カレンダーが届きました。皆様にお分けできることを感謝いたします。円安ドル高の影響をご理解下さい。









ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)主祷文(「天にまします」)の解説 第7の願い 我らを悪より救い給え

2022年11月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
 
トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
 
今回は、その続き
第7の願い 我らを悪より救い給え
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。
 

第7の願い 我らを悪より救い給え

230.天主の御子が当の神的な祈りの結びとされた、この最後の祈願は、他の全ての祈願をいわば総括するものです。事実主は、この祈願の重要性と力とを示すべく、この世を去る前に人々の救いのために御父に祈られた際、「彼らを悪より救い給え」1 という同じ言葉をもってお祈りになられました。したがって、主が[このように祈るべしという]戒律をもって私たちに課し、かつご自分の模範によって確証されたこの祈りは、他の全ての祈願の価値と意味合いとを含んだ要約とも言うべきものです。なぜなら、聖チプリアノが述べているように、この祈願の含むものを得たならば、それ以上何も祈り求めるべきものは残らないからです。事実、一旦悪に対する天主の助力を願い、かつそれが得られたならば、私たちは世と悪魔とが企てる一切のことに対して無事かつ安全です2 。したがって、かくも重要な当の祈願を説明するにあたって、司牧者は細心の注意を払わねばなりません。

§I.いかにこの祈願を為すべきか
231.しかるに先の祈願と当の祈願の違いは、前者において私たちは罪を避ける恵みを願うのに対して、後者において私たちは、(罪に伴う)罰から解き放たれることを願う点に存します。
232.ここで信徒らに、彼らがどれほどの難儀と災厄(さいやく)とに打ちひしがれ、またいかに天の助力を必要とするかを指摘するには及びません。なぜなら人の生涯がどれほど多くの悲惨事にさらされるものであるかは、宗教的および世俗的著者がこぞって書きつらねているのみならず、自らの、あるいは他人の経験からこの事実を理解しない者は、およそ一人としていないからです。忍耐の模範であるヨブが残した次の言葉が、いかに当を得たものであるかは、万人の解するところです。すなわち、「女から生まれた者は、その日々は短く、しかも労苦に満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ、影のように消え去って、とどまることがない3 」のです。事実、何か特定の煩(わずら)いないしは難儀を伴わなく過ぎる日は、一日としてなく、「一日の苦労は一日で足りる4 」という主のみ言葉は、このことを裏付けています。さらにまた、日々十字架を担い、ご自分に従うようにとの主のご勧告5 も、人間生活の有り様を浮き彫りにするものです。
233.したがって各人が、いかにこの世の生活が苦難と危険に満ちたものであるかを感じ取るため、天主に諸々の悪から解き放ってくださるよう願うべき旨信徒に諭(さと)すことは、甚だ容易です。事実、自らをすでに苦しめている、あるいは己が身に降りかかろうとする危害から免れる願望および希望ほど、人々の心を祈りに傾けるものはないからです。しかるにこれは、災厄の中におかれた際、天主の助力に寄りすがる自然の傾向が人の心にあるからです。「主よ、その顔を恥辱で満たされよ。かくして彼らは御名を呼び求めん6 」という聖書の章句も、このことに因を発しています。
234.しかるに、人々は危難および災厄の只中に置かれた際、天主の御(み)助けをおよそ自然に祈り求めるものであるとは言え、彼らの救霊がその忠実と賢明とに委された者7 は、どのようにかかる祈りを為すべきかを教えなければなりません。
235.と言うのも、主キリストのお命じになったことに反して、この祈りの順序を引っ繰り返す者たちが少なからずいるからです。なぜなら「苦悩の日に、御自らの許(もと)に馳せ来(きた)る8 」ようお命じになるその同じ主は、祈る際に守るべき順序をもお教えになったからです。すなわち主は、私たち自身が悪から救われるよう願う前に、先ず第一に天主の御名が尊まれる9 こと、その御国が来たること、次いでその他の願いを、いわばこの(主要な)願いに至るための一種の階段として唱えるようお命じになりました。しかしながらある者たちは、もし頭、わき腹、ないしは足が痛むなら、あるいは財産の損失を被る場合、敵からの脅しを受け、あるいは危険にさらされるとき、もしくは飢饉、戦争または疫病に見舞われるならば、主の祈りの階段ないしは段階を無視して、当の悪から救われることだけを願います。しかるに、このような祈りの仕方は、主キリストが、「先ず天主の御国を求めよ10 」と仰せになってお命じになったことに反します。
236.したがって、正しく祈る者は、艱難幸苦およびその他諸々の害悪を己が身から遠ざけてくださるよう祈る際も、これを天主の栄光に帰するのです。かくしてダビドが「主よ、御身の怒りで私を罰し給うな11 」と祈った折、自分がこう祈るよう促した動機、すなわち天主の栄光を切望するがために当の願いを為すものであることを示すべく、こう続けています。「死の中に御身を思い出す者はなく、冥土で御身を賛える者があろうか12 」と。また彼が主に、憐れみを乞うたときも、「私は悪人らに御身の道を教えよう13 」とつけ加えています。
237.このような祈りの仕方および預言者ダビドの例に倣うよう信徒を励まし、かつ同時に、異教徒の祈りがいかにキリスト教徒の祈りと異なるかを示さねばなりません。たしかに異教徒も、天主に病気ないしは怪我から回復すること、また自らを現に苦しめる、あるいは脅かす害悪から救われるよう祈るのですが、当の諸悪からの救出に対する主な希望を、自然の、あるいは人間の技術によって備えられた治療策に置くのです。かくして誰かから治療薬を受けたならば、これが魔術もしくはまじないによって、あるいはまた悪魔のはたらきによって作られたものであったにせよ、それによって健康回復の望みがあるかぎり、何のためらいもなくこれを用います。
238.しかるにキリスト教者の態度は、まるで異なります。病気およびその他の逆境において、キリスト教者は自らの無事安寧を得るために、天主のみを頼り、拠り所とします。唯天主だけをあらゆる善の源かつ自分の解放者と見なし、敬うものだからです。したがって治療薬に内在する効力は、天主に由来するものであること、また当の薬が病人の身に効能を及ぼすのは、天主が嘉(よ)しとされる限りにおいてのみであることをいささかも疑いません。実に天主こそが人類に、病者を癒すために医薬をお与えになったのだからです。「主は地から薬草を生えさせ、賢者はこれを軽んじない14 」という集会の書のくだりも、この意味に解さねばなりません。
したがってイエズス・キリストにつき従い、これに身を捧げた者は、健康を回復する主な希望を、治療薬自体にではなく、医薬の創り主である天主にこそ置くのです。
239.それゆえ医薬に信頼しきり、天主にいささかの助力をも願わぬ者を聖書は咎めるのですが15 、これとは逆に、天主の法に従って生きる者は、天主によって病の治癒のために定められたという確証が得られない治療法については、これによって健康回復の望みがあったにせよ、これを魔術ないしは悪魔の手管(てくだ)として退けます。
240.したがって信徒が天主に信頼を置くよう励まさねばなりません。なぜならいと仁慈深き父なる天主が諸々の悪から免れることを願うようお命じになったのは、ご自身がお命じになったというその事実自体をとおして、願うことが聞きとどけられる望みを抱くために他ならないからです。聖書中には、このことを示す数多くの例が見られますが、論拠によって当の望みを抱くよう促しがたい者らも、数多の例証によってかかる望みを抱くことを余儀なくされるでしょう。実にアブラハム、ヤコブ、ロト、ヨゼフ、ダビドは天主の仁慈の雄弁な証人です。新約聖書においては、敬虔な祈りによって大きな危難から救われた者たちの例が枚挙のいとまもないほどあり、あえて言及するには及びません。
したがって、ここでは、もっとも弱い者の心をも強め得る、預言者ダビドの次の章句を引用するにとどめます。すなわち「義人らは叫び、主はそれを聞き、全ての苦悩から彼らを救い出される16 」のです。

§ II.― いかなる悪から救われることを願うものであるか
241.次に、この祈願の意味および性質を示し、信徒が、当の祈願をとおして願うのは、どれこれの区別なく、全ての(害)悪から解放されることではない旨理解するよう、配慮せねばなりません。なぜなら、一般に悪として見なされつつも、これを被る者にとって実り多い事物があるからですが、この例として、使徒パウロに与えられた「刺(とげ)」を挙げることができます。17  この試練が聖パウロに課されたのは、天主の恩寵の御助けによって、彼の徳が弱さの中に完成されるがために他なりませんでした。
それゆえ、この種の害悪の効用を知る敬虔な信者は、大きな喜びをもってこれを受け入れ、これを取り除いてくださるよう天主に願おうとは、思いも及びません。
242.したがって、霊魂にとっていかなる利益をももたらさない悪のみを、私たちの許から遠ざけてくださるよう祈らねばなりません。その他の悪については、何か有益な実りが生じ得るかぎりにおいて、これらが取り除かれるよう祈ることは、控えるべきです。したがって、この祈りが真に意味するところは、罪および誘惑の危険から解放され、かつ内的、外的な悪から救われること、水難、火難、落雷から免れ、作物が雹(ひょう)に打たれず、かつ私たち自身も飢饉、動乱、戦争に見舞われないよう願うということです。私たちはまた、諸々の病気、疫病、災害、監禁、投獄、国外追放、裏切り、計略および人の生活を甚だ脅かし、圧迫するその他全ての災厄(さいやく)を私たちの許から遠ざけ、最後にあらゆる罪過と悪行の原因を取り除いてくださるよう天主に願います。
しかるに私たちは、誰もが悪であると見なすこれらの事から守られるよう祈るのみならず、富、名誉、健康、体力および生命自体という、およそ皆が善いものであると見なすものもが、禍に転じ、私たちの霊魂の滅びの元とならぬよう願います。
さらに私たちは天主に、不測の急死に遭うことも、天主の怒りを買うこともなく、また天主を尊ばぬ者らを待ち受ける懲罰から免れ、煉獄の火に焼かれることなく、またそこで苦しむ者たちが解放されるよう、敬虔に信心深く祈ります。
ミサ聖祭および[諸聖人の]連祷において「過去、現在、および将来の悪から救い給う18 」よう願わせる教会は、かかる意味に、主祷文中のこの祈願を解しています。
243.しかるに仁愛深き天主が私たちを悪から救われる仕方は、一通りではありません。事実、ある場合天主は私たちに差しかかる禍を退けられます。かくして天主は、シケムの民の殺戮(さつりく)19 のために生じた敵対勢力から、かの偉大な大祖ヤコブをお救いになりましたが、これは「天主の恐れが、周りの全ての町々に覆いかかったので、去り行くヤコブの子らを追いかけはしなかった20 」と、創世の書にあるとおりです。
事実、主イエズス・キリストと共に天の御国で君臨する至福の者たちは皆、天主によって一切の悪から救われたのです。
しかるにこの地上で遍歴の途上にある私たちについては、天主は全ての難儀から解放ことはよしとされず、ただその内のいくつかから私たちをお救いになります。
244.とは言え、天主が時として逆境に打ちひしがれる者たちにお与えになる慰めは、全ての悪からの解放に準ずるものです。預言者ダビドが「私の心の悩みが増すとき、御身の慰めが魂の喜びとなった21 」と述懐するのも、かかる慰めを指してのことに他なりません。
天主が人々を悪からお救いになるのは、この上ない危機に陥った者たちを無事安全に保護される際でもあります。これこそ、燃えさかるかまどに投げ込まれた3人の若者および[獅子の穴に入れられた]ダニエルに起こったことであり、炎は若者らを少しも害さず22 、ライオンもダニエルに何の危害も加えませんでした23 。
245.大聖バジリオ、聖ヨハネ・クリゾストモ、および聖アウグスチヌスの解釈によると24 、悪魔こそ、当祈願中の「悪」という言葉が特に指すところに他なりません。悪魔こそ人々の罪過、すなわち罪と悪行との元凶25 であり、また天主も悪人および不敬な者を罰するために彼をお用いになるからです。実に天主こそが、人々に、彼らが自らの罪のゆえに被る一切の害悪をお送りになる26 からであり、聖書中の次の章句は、その意味に解釈するべきものです。「主がされないのに、街に災いが起こるだろうか。27 」「私は主であり、ふたりとないもの。私は光をつくり、闇を生じさせ、平和をもたらし、悪をつくり出す。28 」29 
悪魔が「悪」ないしは悪者30 であると呼ばれるのは、私たちの側では、彼にいささかの害をも加えなかったにも関わらず、私たちにたゆまぬ戦いをしかけ、決して止むことのない憎悪に駆られて私たちを責め苛(さいな)むためでもあります。もし彼が、信仰の鎧と廉潔(れんけつ)の楯に守られた私たちに危害を加えないときも、外的な悪をとおして私たちを試み、かつあらゆる手段を用いて私たちを煩わすことをやめません。このため私たちは天主に悪(者)より救い給うよう祈るのです。31 
246.しかるに私たちは「悪」(単数形)より救い給うよう祈るのであり、「諸々の悪」(複数形)より救い給えとは祈りませんが、これは、隣人からもたらされる種々の悪は、その張本人、ないしは扇動者たる悪魔[ないしはサタン]に帰するべきであるからです。したがって私たちは隣人に対して憤るかわりに、人をして私たちに悪を為すようけしかけるサタンにこそ、私たちの憎悪と怒りとを向けるべきです。
それゆえもしあなたが父なる天主に祈るとき、隣人があなたに何らかの害を為していたとすれば、あなた自身が悪から、すなわち当の隣人があなたに加えた危害から救われることのみならず、当の隣人を、人々を過ちへと誘い入れる悪魔の手から救ってくださるよう祈るようにしてください。
247.次に、もし祈りと懇願にも関わらず、私たちが害悪から解放されない場合、これを忍耐強く堪えることが天主の御旨にすこぶる適うことを思って、私たちを悩ます当の悪を甘んじて耐え忍ぶべきである旨、心得ねばなりません。したがって天主が私たちの祈りをお聞き入れにならないことを見て、憤(いきどお)ったり悲しんだりすることは、全くふさわしくありません。却って私たちの目に良いものと映ることではなく、天主が良しとされることこそが有益かつ便宜に適うものであると見なして、一切をその御旨とご意向とに沿うようしなければなりません。

§ III. ―忍耐強く害悪を忍ぶべきこと
248.最後に敬虔な聴衆(信徒)に、この世の人生の歩みにおいて、彼らに降りかかるあらゆる類の禍と艱難とを、平穏な心で耐え忍ぶにとどまらず、喜んで受け入れる心構えを持つべきことを諭さねばなりません。「キリスト・イエズスにおいて敬虔に生きようとする者は皆、虐(しいた)げを受ける32 」からです。実に私たちは、「多くの苦難を経て天主の御国に入らねばならない33 」のであり、また「主キリストも、これらの苦難を耐え忍んで、しかる後その栄光に入るべきであった34 」のです。なぜなら僕は主人に優るものではなく35 、聖ベルナルドの述べるように、茨の冠を冠(かむ)った頭の下で肢体が過敏であるのは、恥ずべきことだからです。36  
この点について、私たちはウリアの美しい例に見習うべきです。家に留まるよう強いるダビド王に、彼はあえて「天主の聖櫃とイスラエルとユダとは、あばら屋に住んでいます。それなのにどうして私が家に帰れるでしょうか!」と答えたのでした。37 
私たちが、これらの考察および思索によって、ふさわしい心構えで祈りに臨むなら、たとえ私たちを四方から取り囲み、襲い来る害悪から、燃えさかるかまどの中でいささかも火に焼かれなかった3人の若者のように38 完全に守られることがなかったにせよ、少なくともマカベ一族のように39 、逆境を雄々しく毅然として耐え忍ぶ恵みを確かに受けることができるでしょう。
侮辱と責め苦の最中にあっても、鞭打ちの刑を受けた際、イエズス・キリストのために辱められるのに足る者とされたことを大いに喜んだ聖なる使徒たちの例40 に倣うこととしましょう。そしてかかる心構えをもって、私たちはこの上ない喜びの中にこう歌いましょう。「権力者たちは理由なく私を責める。だが、私が畏れるのは御身のみ言葉。私はみ言葉に喜ぶ、大量の分捕り品を得た者のように。41 」

【注】
1  ヨハネ 17章15節
2  Lib. de Orat. Dominic.
3  ヨブの書 14章1-2節
4  マタイ6章34節
5  ルカ9章23節
6  詩編 82 17節
7  司牧者のこと。
8  詩編 49 15節
9  原文では「聖とされる」(sanctifcaretur)。
10  マタイ 6章33節
11  詩編 6 1節
12  詩編 6 6節
13  詩編 50 15節
14  集会の書 38章4節 
15  歴代の書下 16章12節 
16  詩編 33 18節
17  コリント人への後の手紙 12章7節
18  ミサ通常文、主祷文直後の司祭の祈り。
19  訳者注 太祖ヤコブの娘ディナは、カナアンの地にあるシケムの街を見物しに行った際、当地の族長の子シケムによって陵辱された。憤慨した兄たちは、奸計によって当地の男たちを残らず虐殺した。創世の書 34章
20  創世の書 35章5節
21  詩編 93 19節
22  ダニエルの書 3章
23  ダニエルの書 6章(22節)
24  Basil. in homil. Quod Deus non sit auctor malorum : Chrysost. homil. 20 in Matth. :  Aug. De eccles. Dogmat. cap. 57.
25  訳者注 ないしは「扇動者」。ラテン語原文では 、英語の<author>および仏語の<autheur>の元となる <auctor>という語が用いられている。(本文第246項で、「張本人」と訳したのも、この同じ言葉である。) しかるに罪の直接の動作主が、これを犯す当の人であることは、自明の理である。たしかに、悪魔は悪い思い、行いに誘(いざな)うことによって罪の誘因たり得るが、これに同意して罪を犯す者の責任を帳消しにするわけではない。
26  訳者注 前文のとおり、往々にして悪魔を介して。
27  アモスの書 3章6節
28  イザヤの書 45章6-7節
29  訳者注 聖ブルノ(シャルトル会の創立者)は、この解釈に注意を要する章句を、詩編88(13節)の注解において次のように解説している。「『御身は北風と海とを創り給うた。』すなわち天主は悪魔とその配下とを据え置かれ、(ご自分のお定めになった目的のために)秩序付けられるのであるが、これはイザヤ書(45章7節)中の、『私は平和をもたらし、悪をつくり出す。』という章句と軌を一にするものである。しかるにこの章句が意味するところは、天主が悪の原因(auctor)であるということではなく―事実、天主から何か悪い物が生じ出ると言うことは許されない―、却って天主が悪をつくり出される、即ち秩序付けられる、つまり当の悪自体は、悪魔および不敬な者たちから生じ来るのであるが、この悪を、ご自分に従う者たちに何らかのかたちで益となるように秩序付けられる、ということである。」 (S. Bruno. Expositio in Ps. 88)
30  ギリシャ語原文およびラテン語―当要理もラテン語で執筆されたのですが― では、「悪(より)」と訳されている言葉は、「悪」および「悪い者」の、両方の意味に解し得る。(ラテン語訳主祷文における<(a) malo > 「悪(より)」 は、中性名詞(悪、悪いこと・事物)でも、男性名詞(悪者)でもあり得るため。)
31  Chrysost. hom. 20 in Matth. et hom.5
32  ティモテへの後の手紙 3章12節
33  使徒行録 14章21節
34  ルカ 24章26節
35  ルカ 6章40節およびヨハネ 13章16節
36  Sermo 5 de omnibus Sanctis
37  サムエルの書下 11章11節
38  ダニエルの書 3章49節
39  マカベの書前・後 特に前の書2章15節以下を参照。
40  使徒行録 5章40-41節
41  詩編 118 161節


第十七回「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」 2023年5月2日(火)~5月6日(土) に愛する兄弟姉妹の皆様をお招きいたします。

2022年11月18日 | 秋田巡礼_Akita Pilgrimage

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

第十七回「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」 2023年5月2日(火)~5月6日(土) に愛する兄弟姉妹の皆様をお招きいたします。

来年は、秋田で聖母が私たちにメッセージを下さってから50年になります。

「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。(…中略…)ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」。 第三のメッセージ 1973 年 10 月 13 日(土曜日)

来年も5月の聖母聖月に秋田巡礼を行う予定です。巡礼団は聖体奉仕会の訪問ができない可能性もあります。それでも、私たちは聖なる母のもとに近づいて、祈りましょう。

今年のおおよそのプログラムは次の通りです。往復のチケットの手配のご参考としてください。

2021年5月2日(火)
午後3時からホテルクリプトンにチェックイン可能
午後6:00頃 聖伝のミサ
午後7:00頃 夕食 (ご到着の都合で夕食に間に合わない場合は、不要とすることもできます。要不要をご連絡ください)

2021年5月3日(水)~5日(金)
6:30 聖伝の歌ミサ
霊的講話・聖体奉仕会訪問・御聖体行列・聖母行列など
※聖体奉仕会訪問禁止となっている場合は、巡礼団は聖体奉仕会の訪問ができない可能性があります。

2021年5月6日(土)
6:30 聖伝の歌ミサ
インマクラータの騎士となる誓約式・霊的講話
12:00 ごろ解散予定

秋田巡礼のお申込みはWEBサイトからお願いいたします。→ https://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimage

※各自で宿泊施設プラザクリプトンへ集合してください。
※JR秋田駅→プラザクリプトン(タクシーで20分)、秋田空港→プラザクリプトン(タクシーで7分)です。 
※無料駐車場がございます。(62台収容) 

【予約】

※PCやタブレットでごらんの方は、https://blog.goo.ne.jp/sspxjapan_akita_pilgrimageの左に「メッセージ送る」という機能があります。クリックするとメッセージ入力フォームが開きますので▼メッセージを送る▼でご連絡ください。メールフォームが開きますので,①お名前, ②メールアドレス, ③件名="巡礼参加申込" , 本文に, ④お電話番号, ⑤霊名(カトリック信者の場合は), ⑥参加される日程(5/1の宿泊についてもお書きください), ⑦5/1(日)の夕食(19時ごろ)の要不要, ⑧秋田までの交通手段(飛行機や新幹線など)をご記入の上、画面下に見えている【認証数字4桁】を入力して、送信ボタンを押してください。

※スマートフォンでご覧の方は、↓このアドレス↓に下記の内容をメールでお送りください。【@マーク】を@に変更してメールをお願い致します。)
sspxjapan_akita_pilgrimage【@マーク】yahoo.co.jp 
①お名前, ②メールアドレス, ③件名="巡礼参加申込" ,本文に, ④お電話番号, ⑤霊名(カトリック信者の場合は), ⑥参加される日程(5/1の宿泊についてもお書きください), ⑦5/1(日)の夕食(19時)の要不要、⑧秋田までの交通手段(飛行機もしくは新幹線など)をご記入ください。

【是非守って頂きたいこととお願い】
宿泊施設へは、聖ピオ十世会として団体予約をしております。お問合わせやご予約、ご要望等は全て、巡礼担当マネージャー(インマクラータ坂田さん)か小野田神父へお願いいたします。
これは、必ず守って頂きたいのですが、施設へのご迷惑とトラブルを避けるため、個人的な予約はご遠慮ください。なにとぞご理解とご協力をお願いいたします。
秋田市内にお住まいの方や、その他の重大な理由のために、プラザクリプトンに泊まることができない方でも、「大会議室」で行われるミサ聖祭と霊的講話に無料で参加することができますし、聖体奉仕会への巡礼などに参加することもできます。(但し夕食などを一緒に取る場合には別途夕食料金が必要です。)その際にも、施設へのご迷惑とトラブルを避けるために、担当マネージャーにその旨ご連絡をお願いいたします。ご協力ありがとうございます!

 


ヴィガノ大司教:「公会議の教会」こそが自己充足できると思い、聖伝における一致から自らを排除し〈自己参照性〉を犯しているのではないか?

2022年11月15日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教、第二バチカン公会議の誕生日に公会議後の教会を非難

英語版
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/6214-vigano-slams-the-post-conciliar-church-on-the-birthday-of-vatican-ii

イタリア語版
https://www.aldomariavalli.it/2022/10/27/monsignor-vigano-quella-chiesa-conciliare-che-esclude-i-non-allineati-e-diventa-autoreferenziale/

フランス語版
https://www.medias-presse.info/intervention-de-mgr-vigano-pour-le-60eme-anniversaire-du-concile-vatican-ii/165092/

2022年10月27日(木曜日)

Viganò Slams the Post-Conciliar Church on the Birthday of Vatican II

カルロ・マリア・ヴィガノ

REPETITIA JUVANT
繰り返しは役に立つ

「公会議の教会」は、自己参照性によって、いかにキリストの教会の聖伝の道の踏み外しているか
【注:自己参照性(auto-referenzialità, self-referentiality)とは、使徒継承の聖伝を権威として参照するのではなく、自分自身を引き合いに出すこと】

イデオロギー的なプロパガンダを特徴づける擬人化によって、第二バチカン・エキュメニカル公会議の開会60周年に際して行われた最近のベルゴリオの賞賛の辞(こちら)は、空しいレトリックである以上に、「公会議の教会」(conciliar church)、つまり、「公会議からほとんど気づかれないうちに生まれ出たあの破壊転覆的な組織」の完全な自己参照性を裏付けないわけにはいきませんでした。この組織は、この60年の間にキリストの教会の最高位を占め、その権威を奪い取ることによって、キリストの教会をほとんど完全に覆い隠してしまったのです。

「公会議の教会」は、何世紀にもわたって先行した他の20の公会議からは離れつつ、自らを第二バチカン公会議を継承するものとみなしています。このことが、その自己参照性の主な要因です。「公会議の教会」は、信仰において、他の公会議を考慮に入れず、私たちの主が教えられ、使徒が説き、聖なる教会が伝えたものに反する教理を提案します。公会議の教会は、道徳においても、他の公会議を考慮に入れず、状況的道徳の名の下に原則から逸脱します。最後に「公会議の教会」は、典礼においてさえも、他の公会議を考慮に入れず、その典礼は、〈信仰の法〉(lex credendi)の祈りの表現として、新しい教導権に適応しようと望み、同時に、新しい典礼は信者を教化する最も強力な道具として役立っています。人々の信仰は、ノブス・オルド(Novus Ordo 新しいミサ)を通して行われた聖なるミサの持つ不純物によって科学的に腐敗し、ノブス・オルドのおかげで、〈簡潔に言えば〉(in nuce)、第二バチカン公会議のテキストに含まれていた誤謬が、神聖な行為の形を取って伝染病のように広がってしまったのです。

しかし、一方では、「公会議の教会」は、自らが「古い教会」とは関わりたくない、ましてや「古いミサ」とはさらに関わりたくない、と繰り返し主張し、まさに古い教会や古いミサが幻の「公会議の精神」と相容れないという理由で、その両者には隔たりがあり、結び付けられないものだと宣言したがっています。他方では、位階階級のメンバーたちは、ローマ教皇から最も無名の〈地方にいる〉(in partibus)司教たちに至るまで、使徒の後継者であり、かつ、使徒の後継者として考え、話し、行動しなければならないにもかかわらず、彼らは、その権威と権力を行使するための必要な前提である、キリスト自身のみ旨による〈聖伝〉(Traditio)との連続性の絆がないことを、とがめられることなく告白しているのです。

この過去との根本的な決別は、「後戻り主義」(indietrismo)などの新語を作り、また「おばあちゃんのレース」を断罪する人物【教皇フランシスコ】による粗野なスピーチによって暗い影を帯びて呼び起こされました。この過去との断絶は明らかに、外から見える形に限定されずに、――実に外観の形は、正にある特定の実体の形だからです――信仰と自然法という基盤そのものにまで及び、教会制度を本当に破壊転覆、しかも天主なる創立者【イエズス・キリスト】のみ旨と矛盾する性質の転覆にまでに達しているのです。

「私を愛しているか」という問いに対して、ベルゴリオの教会は――しかも公会議の教会の目前で恥知らずにも、しかし常に数えきれないほどの言葉の違いをもて遊びながら――「自分自身について自分を問う」のです。なぜなら、「イエズスの【問いかけという】スタイルは、答えを与えるためではなく、問いかけるため」だからだというのです。私たちは、もしこの懸念をおこさせる言葉をまじめに受け止めるなら、こう自問するかもしれません。天主の啓示と私たちの主の地上での働き、福音のメッセージ、使徒たちの説教、教会の教導権とは、罪深い人間が問いかけに答えないのなら、いったい何なのだろうか、と。人間自身が問いかけており、また天主のみ言葉を渇望し、永遠の真理を知る必要があり、また、天国での幸福を実現するために主のみ旨に従うにはどうすればよいかを知る必要があるのですから。

主は問いかけるのではなく、教え、戒め、指示し、命じられます。なぜなら、主は天主であり、王であり、最高にして永遠の司祭であるからです。主は、だれが道、真理、命なのかと私たちに問われるのではありません。御自分が、道、真理、命であるとして示し、また群れの門として、礎石として、ご自分を指し示されるのです。ご自身についても、贖いの経綸(けいりん)【御計画】において、御父へのご自分の従順を強調し、模倣すべき模範として、ご自分の聖なる従順を私たちに示しておられます。

ベルゴリオの見方はこれらの関係を転覆させ、破壊させます。主はペトロに一つの問いかけをします。ペトロは、その問いに答えることで、主を愛することが実際に何を意味するのかをよく知るのです。そして、その答えは、【答えても答えなくても良いという】任意のものでもなく、また、否定できるものでもなく、あるいは捉えどころのないものでもあり得ません。しかし、まさにこのことを「公会議の教会」は行い、この世を不快にさせないため、また流行遅れにならないために、はかなく欺瞞的なイデオロギーの誘惑をさらに重要視し、かしらである主が忠実に教えるようにと教会にお命じになったことをそっくりそのまま伝えることを拒否するのです。

主は、「私を愛しているか」とお尋ねになります。包括的な枢機卿たちに、共に歩む(synodal)司教たちに、エキュメニカルな高位聖職者たちに問われます。彼らは、婚礼に招かれた客らのように、こう答えます。「土地を買ったので見に行かねばなりません。どうぞお許しください」(ルカ14章18節)。もっと差し迫った、もっとやりがいのある、名声や社会的承認を得るための約束があるのです。キリストに従う時間も、ましてやキリストの羊を養う時間もありません。その羊が頑固で「後戻り主義」であるのなら、それがどんな意味であれ、なおさらのことです。

このため、〈彼らの〉第二バチカン公会議以外には、公会議は存在しないのです。第二バチカン公会議は、彼らが訴える唯一の公会議であるという事実によって、同時に自らが異質であることを示しています。第二バチカン公会議が、すべての公会議がそうであるような、唯一の主にして唯一の牧者による唯一の声ということとは、形式と内容において、たとえ正反対ではないにしても、異質です。

もし〈彼らの〉公会議の声が、それ以前の教導権の声と相容れないとすれば、また、もし彼らが公的礼拝を、聖伝の形では「新しい教会」の「新しい教会論」と矛盾するとみなして、聖伝の形で表現できないとすれば、第二バチカン公会議の〈前〉と〈後〉の間に溝が存在しているということであり、そのことを否定することはできません。そして実際に彼らはその溝を誇り、〈革新すべきではない〉(non est innovandum)ものの革新主義者として自分たちを提示しているのです。そして、信頼できる安全な代替があることを人々に分からせないようにするために、過去を表し、思い起こさせるものはすべて貶め、嘲り、矮小化し、最後には除去しなければならないとするのです。ちょうど現代において、〈覚醒〉(woke)イデオロギーに採用されている、あの〈キャンセル文化〉を率先して適用したのです。このことから、私たちが理解することができるのは、古代の典礼に対する嫌悪、健全な教理に対する嫌悪、行い――実体も霊魂もない言葉ではなく――によって証しされた、聖性のヒロイズム【英雄的な体現】に対する嫌悪なのです。

ベルゴリオは「耳を傾ける教会」について語ります。しかし、まさに「歴史上初めて、教会は自分自身を問い、自分自身の本質と使命を考察するために公会議を奉献した」ため、彼は、まさに「歴史上初めて」自らそれをしたいと思い、聖伝の遺産を放棄し、教会の固有なアイデンティティーを否定できると思っているのです。

この自己参照性は、修正されるべき「より悪いこと」の代わりに実行されるべき「より良いこと」があるという仮定から始まりますが、同時に、それは個々のメンバーの弱点や不忠実に関することではなく、主キリストが一度確立し、主の役務者たちが疑問に付すことができない「自らの固有の本質と固有の使命」に関すること【修正されることができないはずのこと】なのです。しかし、ベルゴリオは、「自分自身から抜け出し、世俗的なあり方の一つである自己参照性の誘惑に打ち勝つために、公会議に立ち戻りましょう」と断言します。実は「公会議に立ち戻る」という原則が、まさに自己参照性を証明し、かつ過去との断絶を最も厚かましく証明しているのです。

このように、教会が最大の拡大を行った何世紀かは――その間、教会は異端者と衝突し、異端者が挑戦した真理に関する教理をさらに明確にしました――、忘れられるべき「聖職者主義」という恥ずかしい括弧内の【省略可能な】ことであるとみなされるのです。何故なら、これら【排斥された】すべての同じ誤謬が、公会議の逸脱に見られるからです。

キリスト教の古代とされ、「原始的な世紀」、「兄弟的なアガペー」とされる遠い過去は、公会議の物語(ナラティブ)においては、本質的には歴史の偽造がなされており、信仰のために迫害され殉教した初代のキリスト信者たちとその牧者たちの勇敢な証しを意図的に隠し、チェザルの像に香を焚くことを拒否した彼らのこと、異教徒の腐った習慣と対照的だった彼らの道徳的な行動のことを隠しているのです。その一貫した証しは、たとえ女性や子どもであっても、アマゾンの〈グリーン取引〉の妄想に迎合してパチャママを崇拝することで天主の家を冒涜し、素朴な人々をつまずかせ、偶像崇拝の行為で天主の御稜威を傷つける人々を恥じ入らせるはずです。自らのエキュメニカルな暴言を追求するために、今や第一戒を犯すところにまで至っているのは、この自己参照性ではないでしょうか?

これらの誘惑的な言葉に惑わされないようにしましょう。この誘惑的な言葉は、偶然に投げかけられたのではありません。キリストの教会は決して「自己参照的」ではなく、キリスト中心的です。なぜなら教会とは、キリストがそのかしらである神秘体であり、かしらなしには存在し得ないからです。一方、教会の荒涼とした世俗版は、超自然的な地平を欠いており、自らを「公会議の教会」と定義しています。これはどうしようもなく自己参照的です。

「公会議の教会」は、もともとの純粋さへの回帰――「安楽と確信の囲いの中に」閉じもっていたとされる数世紀を経て――を支持する者として自らを提示する欺瞞をつかって、権力を行使しています。それと同時に、キリストが忠実に伝えるように命じられた教えを歪曲することができるとさえ言い張るのです。

小羊の花嫁【カトリック教会】が受けた絶え間ない迫害、殉教者たちが流した血、異端者と離教者が花嫁【教会】に対して行った戦い、福音とキリスト教の道徳を広めるための花嫁の役務者たちの献身を見れば、どんな「安楽」とされるものが、花嫁の二千年の歴史の特徴とされうるのでしょうか? それにひきかえ、何の信念もなく自らを問いただし、この世の要求に熱心にひざまずき、〈グリーン〉イデオロギーやトランスヒューマニズムに従い、同性愛者の結合を祝福し、回心を要求せずに罪人を歓迎する用意があると述べ、自力で生き延びようと希望してワクチン接種プロパガンダについてさえこの世の権力者に同意する教会にどんな困難があり得るのでしょうか?

先人たちを権威主義だと不当に非難して、先人たちより優れていると言い張ることには、ひどく自己中心的な何かが、ルチフェルの高慢に典型的な何かがあります。しかも、霊魂の救いとは正反対の目的のためには、みずから権威主義の助けをつかっているのではないでしょうか?

自己参照性のもう一つのしるしは、キリストが望まれた本質的に君主制的な(実際、帝国的と言ってもよい)システムを転覆する民主的な構造を教会に押し付けようと望んでいることです。実際、ローマ教皇の指導の下にある牧者たちからなる教導教会(Ecclesia docens)と、天主の民である信者たちからなる聴従教会(Ecclesia discens)が存在します。

位階階級の枠組みについてベルゴリオは「羊を殺し、導かず、成長させない聖職者主義という醜い罪」と定義していますが、位階階級の枠組みを取り消すことは、別のさらに深刻な欺瞞を、実際には、教会という体の内部を本当に破壊することを目的としています。つまり、真正の教導権を伝達する責任を持つ人々の権力を、叙階されていない――したがって地位に応じた聖寵の援助を受けていない――【導くのではなく】安全な牧場に導かれる権利を持つ人々と、共有することができると言い張っているのです。

〈教師〉(magister)という言葉は、まだ無知であることを学ぶ者よりも教える者のほうが持つ存在論的優位性 - magis【ラテン語で「より多い・もっと」という意味】 - をその内に含んでいます。羊の群れはどこへ行けばいいのか分からず、狼の襲撃にさらされているのですから、牧者が、自分が羊を連れて行く方向を、羊と一緒に決めることができないのは確かです。「自分自身の本質と使命について」自問することが原点回帰につながると信じるのは大嘘です。「私の命じることを守れば、私の友人である」とキリストは言われました(ヨハネ15章14節)。そして、キリストの役務者たちもまた、キリストに服従し続ける限り、神秘体のかしらの代理権を行使する者として、命令しなければなりません。彼らは、主人の権威に服従するしもべの語源的な意味での役務者(Minister)(位階階級の下位を示すminus【ラテン語で「より少ない」という意味】から)です。したがって、カトリックの位階階級は、〈役務者〉(Ministra)としてキリストから受けて熱心に守っていることだけを教える〈教師〉(Magistra)なのです。

「公会議の教会」が持っている、民主的で反位階的なこの考え方は、とりわけその典礼において裏付けることができます。この典礼では、司式司祭の役務者としての役割は、「教会憲章」(Lumen Gentium)によって理論化された「司祭的な民」を支持してほとんど否定され、1969年のモンティーニのミサ典礼書の「総則」(Institutio Generalis)の7番に黒白分明に、こう書かれています。「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち『主の記念』を扱うために、キリストを代理する司祭を司式者として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される」。もしこれが、その「公会議の精神」に沿って、かつトリエント公会議の教義的条文と第二バチカン公会議以前の教導権全体と矛盾して、ミサの定義そのものを修正するという段階にまで至る「自己参照性」でないとしたら、いったい何だというのでしょうか?【注】「ローマ・ミサ典礼書の総則」新27番=1969年版の7番

教会は、民主的であったり、ある人々が今日婉曲に呼ぶような「共に歩む」(synodal)ものであったりすることはなく、またそんなことは不可能です。聖なる天主の民は、「ほかの人、ほかのすべての人を牧するために存在する」のではありません。そうではなく、天主の民が存在するのはむしろ、永遠の目標に到達するための超自然の手段を自分たちに保証する位階階級が【召命によって】存在できるようにするため、また、「ほかのすべての人」――〈多くの人〉ではあるものの〈全員〉ではありません――を、天主の御摂理による唯一の牧者の導きの下で、一つの柵内に導くことができるようにするためです。「また私には、この柵内にいないほかの羊もある。私は、それらをも連れていかねばならぬ」(ヨハネ10章16節)。

シノダリティーという異端的なアプローチによってさらされている脅威に対するミュラー枢機卿の強い非難――シノダリティーの不吉な実はすでに目に見えるものとなっています――は、この意味で正当です。同時に、枢機卿の非難は、非常に多くの牧者たちが、カトリック正統性への忠誠と、明らかな裏切り行為――その最もふさわしくない現代の管理者たちによって行われている裏切り――との間で、引き裂かれて苦しんでいる重大な違和感(malaise)の証言となっています。

この牧者たちは、おそらく、第二バチカン公会議が及ぼした個々の信者の生活や教会全体に対する影響、そして世界に対する壊滅的な影響が明らかになるまでは、「公会議の教会」に、また、かぎかっこ付きの「公会議」に反対しないでいることができていたでしょう。しかし今日、第二バチカン公会議の最も完全で悲惨な失敗の証拠、および聖伝を放棄する不幸な選択の証拠に直面して、最も慎重で穏健な人々でさえ、設定された目標、採用された手段、得られた結果の間の非常に密接な相関関係を認識せざるを得なくなっているのです。実際、まさに公会議が達成しようと望んだ目標を考慮すれば、私たちは、「公会議の春」として熱狂的に私たちに告知されたものは口実であって、その裏には、本当はキリストの教会に反対する白状できない計画が隠されていたではなかったのか、と自問すべきです。

そうなると約束されてはいましたが、実際は、信者がもっと意識的に聖なる秘跡にあずかるようにはならなかったばかりか、秘跡を不要なものと考えるようになり、ミサにあずかる人数は最低のレベルにまで落ち込んでいます。若者たちが司祭職や修道生活を受け入れることに刺激的あるいは英雄的なものを見いだしているとは言えません。なぜなら、司祭職や修道生活のどちらも、陳腐なものとされ、それらがもつ特別性が失わされ、私たちの主の模範に従って奉献し犠牲するという意味――あらゆる真のカトリック的な行為になければならない意味――が奪われているのですから。

市民生活は言葉では言い表せないほど野蛮になり、それとともに公衆道徳、結婚の神聖さ、生命への敬意、創造の秩序への敬意も失われてしまいました。そして、これら第二バチカン公会議の宣伝者たちは、まるで人間の本質を操作することが、仮説にも値しない悪魔的な逸脱であるにもかかわらずそうではないかのように、バイオエンジニアリング、トランスヒューマニズム、グローバルネットワークに接続された大量生産の夢想という挑戦に応じているのです。「移民を排除することは嫌悪であり、罪深いことであり、犯罪である」と説教するのを私たちは耳にしますが(こちら)、一方で、NGO、カリタス、福祉団体は、国家の費用でなされる不法移民の不正取引から利益を得ていますが、他方では、制度から見捨てられ、システムが引き起こす危機に悩まされているイタリア人自身を歓迎することを拒否しています。彼らは、「主権主義」国家に武装解除を促し、市民に自らのアイデンティティーを恥じさせますが、ウクライナに武器を送り、グローバリスト団体と主要エリート組織から資金提供を受けている新世界秩序の傀儡である政府に、武器を送ることの合法性を理論化するのです。

教会の真の性質を歪曲したもう一つの非常に深刻な神学的誤謬は、公会議の教会論の持つ本質的に世俗主義的な基盤にあります。この神学的な間違いは、教会の制度とこの世における教会の役割についての考え方に関することだけではなく、教会の霊的権威と国家の世俗的権威と――どちらもキリストが主であることにその起源を持っている――の間にある位階的補完性の絆を壊しさえもしました。このテーマは、第二バチカン公会議の学者たちによるほとんどイニシエーションのような取り扱いをうけ、見かけ上は複雑ですが、ヨゼフ・ラッツィンガーによる最近の介入(こちら)のテーマであり、これについては、私は別の小論で扱うつもりです。

ベルゴリオは「聖ヨハネ二十三世記念ミサ」の説教で、こう言いました。「私たちを愛するあなた、私たちを自己充足という思い込みと、世俗的な批判の精神から解放してください。私たちが一致から自らを排除することを防いでください。私たちを、愛をもって養ってくださるあなた、自己参照の囲いから私たちを導き出してください。私たちが一致した群れであることを望まれるあなた、悪魔の手のわざである偏向と『主義』(ism)という形態から私たちを救ってください」。

この言葉は、前代未聞の不謹慎なものであり、ほとんど馬鹿にしているようなものです。ですから「公会議の教会」の聖職者と信者は、こう自問する時期に来ています。「公会議の教会」こそが第一に率先して「自己充足できると思い込み、善きカトリック信者を硬直して不寛容だと嘲ることで世俗的な批判を養い、聖伝における一致から意図的に自らを排除し、自己参照性によって堂々と罪を犯しているのではないか」と。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年10月26日


多くの人は、キリストの十字架の敵として 生活している。かれらの 行先は亡びである。十字架の友となるには?

2022年11月12日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年11月13日は聖霊降臨後第23主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第23主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


煉獄とは何か?煉獄にいるあわれな人々をどのようにして助けるべきか?

2022年11月08日 | お説教・霊的講話

煉獄についての説教

2022年11月06日 ドモルネ神父

はじめに

11月に入りました。今月は、煉獄にいる人々のことを、特に思い起こして、その人々のために祈る月です。今日は、煉獄とは何か、そして、そのあわれな人々を、私たちがどのようにして助けるべきかについて、皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

1.煉獄という概念

「煉獄」という言葉は、「清め」あるいは「浄化」という意味です。「煉獄」という言葉が意味するのは、成聖の恩寵の状態で死んだものの、自分の罪を完全に償いきれなかった人々の状態です。したがって、彼らは、天主の命と幸福にあずかることはできません。なぜなら、天主は絶対的に聖ですから、絶対的に聖である者以外は、誰も、天主の命にあずかることができないからです。私たちの主イエズスは、こう言われました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。清めが終われば、煉獄にいる人々は、天国に行くのです。

ですから、そのような霊魂たちが清められる場所のことを、煉獄と呼ぶのです。その場所は、どこでしょうか? それは、私たちには分かりません。

2.煉獄の存在

煉獄は、本当に存在します。私たちは、簡単な推論によって、その存在を推測することができます。実際、大罪の状態、つまり天主の敵になった状態で死んだ人は、永遠に地獄で罰せられることを、私たちは知っています。また、人が完全に清くなければ、つまり、自分の罪を完全に償った人でなければ、誰も天主の命にあずかることはできないということを、私たちは知っています。それでは、成聖の恩寵の状態にありながら、自分の罪を完全に償いきれないまま死んだ人々は、どうなるのでしょうか? 彼らは、地獄に行くわけでもなく、天国に行くこともできません。ですから、そのような人々が死んだ後、自分の罪の償いを完うすることのできる場所が、存在しなければならないのです。

私たちは、啓示によって、煉獄が存在することを知っています。マカベ書の中で、聖霊は、こう言っておられます。「死者のために、彼らが罪から解放されるように祈ることは、聖にして信心深い考えである」(マカベ後書12章46節)。しかし、地獄にいる人々は、永遠にそこに留まり、そのみじめな状況を変えることはできませんから、彼らのために祈るのは無駄なことです。天国にいる聖人たちは、永遠の命と幸福に入ったのですから、その幸福を失わせるものは何もありません。また、そのため、彼らは、私たちの助けを必要としません。そこで、聖霊が、「死者のために、彼らが罪から解放されるように祈ることは、聖にして、信心深い考えである」と言っておられるのは、地獄にも天国にもおらず、自分の罪のために天国に入ることを阻まれた人々について、話しておられるのでなければなりません。

3.煉獄は牢獄であり苦しみの場所である

煉獄とは、私たちに罪を償わせるための牢獄であり、苦しみの場です。私たちが罪を犯すとき、私たちは、自分の自由を濫用して、天主のみ旨から自ら離れてしまいます。そのため、それを償うために、煉獄では、私たちは自分の自由を奪われ、天主から一時的に離れさせられるのです。煉獄は、牢獄です。私たちの主イエズスは、こう言われました。「まことに私は言う、一厘残らず返すまで、あなたはその牢獄を出られないだろう」(マテオ5章26節)。

私たちが罪を犯すとき、私たちは、高慢、貪欲、官能など、非合法な満足や慰めを、自分自身に与えています。そのため、煉獄で、私たちは自分の罪の数と重さに応じた苦しみを耐えることによって、これを償うのです。私たちの罪が重ければ重いほど、苦しみは酷くなり、私たちの罪の数が多ければ多いほど、苦しみは長く続きます。煉獄は、火による苦しみの場所です。なぜ、火によって、なのでしょうか? 天主は、聖書の中で何度も、人間の霊的な清めを、金や銀を火で清めることに例えておられます。例えば、箴言の書には、こうあります。「銀が火で試され、金が炉で試されるように、天主は人の心を試される」(箴言17章3節)。煉獄にいる人々は、成聖の恩寵を持っているため、金や銀のようなものです。しかし、自分の罪の贖いができていないため、金の中に汚れが混じっているようなものです。火によって、汚れが取り除かれ、金が純粋になるように、煉獄の火によって、人々は自分の罪を償い、完全に聖なる者となるのです。

神学者のほとんどが、煉獄での苦しみは、この世で生きている間の最悪の苦しみよりも、もっとひどいものである、と、そろって言っています。「キリストにならいて」の著者であるトマス・ア・ケンピスは、こう言っています。「煉獄での一時間の苦しみは、ここ地上で行われる百年にわたる厳しい償いよりも、もっと恐ろしいものである」。また、聖ボナヴェントゥーラは、こう説明しています。「天主は、煉獄で強制される、より重い、義務的な償いよりも、地上で自ら進んで行う、より軽い償いの方を、もっとお喜びになるのです。ですから、地上で自ら進んで償いを行わないならば、それは、煉獄でのさらに激しい苦しみによって、補われなければならないのです。」

4.あわれな霊魂たちへの私たちの助け

煉獄にいる人々は、自分が煉獄にいる時間を短くすることが、全くできません。煉獄にいる人々は、功徳を積む期間がすでに終わっているため、自分の清めが終わるまで、耐えることしかできません。しかし、私たちには、彼らのためにできることがあります。私たちは、彼らの苦しみを和らげて、彼らが天国へ入るのを早めることができます。どうして、そのようなことができるのでしょうか? 煉獄にいる人々は、成聖の恩寵の状態にあります。もし私たちも成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちは、彼らと霊的につながっていて、私たちの行う善業が、彼らのために役立ち得るのです。これは、パイプでつながった、いくつかの容器のようなものです。その容器の一つに水を注ぐと、その水は、他のすべての容器に行き渡ります。カトリック信仰が教えることは、こうです。「煉獄にいる霊魂は、地上の人間の祈り、償い、施し、また信者が彼らのために獲得する贖宥、特に彼らのために捧げられるミサの聖なる犠牲によって、助けられ、あるいは、救われる」。

結論

親愛なる信者の皆さん、もし誰かが、私たちの目の前で火に焼かれ、ひどい苦しみの中にいるとすれば、私たちはその人を救うために何もせず、ただ見ているだけでしょうか? いいえ、間違いなく、私たちは、その人をそのような拷問から解放するために、全力を尽くすことでしょう。しかし、煉獄にいる人々は、それをはるかに超える苦しみを受けているのです。彼らのあわれな状況に無関心でいるのではなく、彼らのために祈り、犠牲と愛徳のわざを増やし、その功徳を彼らに適用させることによって、彼らを助けましょう。

締めくくりに、聖ベルナルドの生涯にあった、こんな逸話を思い出していただきたいと思います。ある修道士が、規則を完璧には守れないまま、亡くなりました。彼は煉獄に行きました。彼は、天主のお許しを得て、聖ベルナルドのもとに現れ、助けを求めました。この聖なる修道院長は、熱心な弟子たちとともに、このあわれな修道士のために、熱心に祈りと断食とミサを捧げました。この修道士は、すぐに煉獄から解放されました。彼は再び、天主のお許しを得て、感謝の気持ちに満たされて、特に彼のために祈っていたこの共同体の老修道士のもとに現れました。老修道士は、亡くなった修道士に、何が一番役に立ったのかと尋ねました。亡くなった修道士は、それには答えず、老修道士の手を取って、ミサの捧げられていた教会に導きました。そして、祭壇を指さして、こう言ったのです。「私の鎖を断ち切った、偉大な贖いの力をご覧ください、私の囚われの代価をご覧ください、世の罪を除き給う救いのホスチアをご覧ください」。

囚われ、すなわち贖虜の聖母が、煉獄のあわれな霊魂たちのために、とりなしてくださいますように。


第二バチカン公会議によれば、信教の自由とは何か?しかし人間には偽りの宗教を実践する「権利」はない

2022年11月08日 | お説教・霊的講話

信教の自由という偽りの教理についての説教

2022年10月30日 ドモルネ神父

はじめに

現在、カトリック教会が大きな危機で揺れていることは、皆さんもおそらくお聞きになっているかと思います。一部の教皇たちや司教たちが、カトリックの信仰、つまり私たちが私たちの主イエズス・キリストから受けた教えを変えようとしてきたのです。とりわけ、これらの教皇たちや司教たちは、第二バチカン公会議を通して、「信教の自由」という名前の新しい教理を推し進めてきました。この誤った教理は、霊魂に対する毒であり、すべての国の王である、私たちの主イエズス・キリストに対する重大な侮辱です。

今日は、王たるキリストの祝日をお祝いしていますから、信教の自由が何を意味しているのか、そして、なぜ、これが有害な教理であるのかを、皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

信教の自由という概念

第二バチカン公会議によれば、信教の自由とは何でしょうか? 第二バチカン公会議の文書「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)は、次のように述べています。「信教の自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある」。そして、この文書は、こう付け加えています。「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである」(信教の自由に関する宣言2条)。

一見すると、おそらく、この信教の自由は、良いことのように思われるでしょう。すべての人は自分の良心に従わなければならず、すべての人はあれやこれやを信じることを強制されえない、というのは、その通りです。しかし、信教の自由という概念は、はるかにそれ以上のことをいっているのです。信教の自由とされているのは、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを公に実践する権利があり、世俗の政府は、その権利を、すべての人に与えて、それを保護しなければならない、ということなのです。これは、とんでもないことです。説明しましょう。

偽りの宗教を実践する権利はない

信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを実践する権利があります。これが意味するのは、すべての人には、どんな間違った宗教でも、つまり天主についての真理を教えない宗教でも、それを実践する権利がある、ということです。しかし、そのような権利は存在しません。すべての人は、宇宙の支配者としての天主を礼拝しなければなりません。そして、すべての人は、天主ご自身が定められた方法で、天主を礼拝しなければなりません。さて、天主は、私たちの主イエズス・キリストを、天主と人間との間の唯一の仲介者として任命なさいました。したがって、すべての人には、イエズス・キリストとその教えを知る義務があり、すべての人には、イエズス・キリストの教えを実践する義務があり、すべての人には、イエズス・キリストが建てられた教会であるローマ・カトリック教会のメンバーとなって、私たちの主と一致する義務があります。したがって、すべての人には、カトリック信者になる権利があります。徳川の将軍たちが日本人に対して行ったように、これに反対することは、非常に重大な不正義です。逆に、誰も、偽りの宗教に従うこととはされていません。したがって、誰も、偽りの宗教を実践する権利は有していないのです。

真の宗教は客観的な科学であり、選択肢の一つではない

この問題の、第二の側面を見てみましょう。信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教でも実践する権利があります。これが意味するのは、宗教は、物理、化学、数学、歴史、地理などのような科学ではなく、単に自分自身の感情に基づいた個人的な信念であり、自分がそれに与えたいと思う以上の重要性は持っていない、ということです。信教の自由によれば、すべての人には、自分の好みや気分にしたがって、スーパーマーケットで自分の欲しい商品を選ぶ権利があるように、自分の個人的な好みにしたがって、いかなる宗教でも、それを選んで実践する権利があることになります…。しかし、そんな権利は存在しません。物理学、化学、数学、天文学、歴史学、地理学、経済学などが、科学、つまり宇宙の事物とそれを支配する法則に関する確かな知識であるように、宗教もまた、科学、つまり天主とその法に関する確かな知識なのです。すべての人には、自分の望む宗教を実践する権利があるということは、日本の公立大学で、教授たちが、次のようなことを教える権利があるというのと同じくらい、ばかげていて、不条理なことです。「2+2は、その人の望みに応じて、4でも5でも6でも10でもある」、「地球は、その人の望みに応じて、平らでも、丸くも、三角でもある」、「地震の原因は、その人の望みに応じて、構造プレートの動きでも、クジラのくしゃみでもある」、「サハラは、その人の望みに応じて、砂漠でも、氷河でも、ジャングルでもある」、「日本には、その人の望みに応じて、武士がいたかもしれないし、いなかったかもしれない」などということです…。このようなことは、すべて不合理です。しかし、数学、地理、物理、歴史などで、無意味なことを教える権利を、誰も持っていないように、宗教で無意味なことを教える権利は、誰も持っていないのです。

信教の自由は、世俗主義という大きな不正義の原因である

さて、信教の自由の問題の、第三の側面を見てみましょう。信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを実践する権利があり、世俗の政府は、この権利を、すべての市民に保証しなければなりません。これは、世俗の政府が、すべての宗教に、同じ市民権を与えなければならない、ということを意味します。これは、政府自身が、いかなる宗教も持ってはならない、ということを意味します。これは、天主や、イエズス・キリストとその法や、カトリック教会についての言及が、すべて、政府、市民法、そしてすべての公共施設から排除されなければならない、ということを意味します。これは、政府が、天主の法とは無関係に、みずから、その国民にとっての善と悪を決定する存在となる、ということを意味します。そうなると、例えば、政府は、離婚や中絶の許可を宣言することになるでしょう。これが、信教の自由というものなのです。つまり、すべての国の公的生活から、私たちの主イエズス・キリストを排除することなのです。このように、天主とイエズス・キリストを排除することは、世俗主義と呼ばれます。これは、明らかに、天主と私たちの主に対する非常に重大な不正義であり、各国民にただ大きな不幸をもたらすだけのものなのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、信教の自由という教理は、それ自体が不条理であり、天主に対する大きな不正義であり、霊魂に対する毒です。信教の自由は、私たちの主イエズス・キリストの敵どもが、私たちの社会から主を排除するために用いる武器なのです。私たちは、この有害な信教の自由を望んではいません。

私たちが望むのは、すべての人と社会に対する、天主と私たちの主イエズス・キリストの権利が、公式に認められ、尊重されることです。私たちが望むのは、ローマ・カトリック教会が、その本来の姿として、つまり、天主とイエズス・キリストのこれらの権利の真正な解釈者として、公式に認められることです。私たちが望むのは、カトリック教会のメンバーとして、天主と私たちの主イエズス・キリストを礼拝する完全な自由が、すべての人に与えられることです。私たちが望むのは、永遠の生命に到るために必要なすべてのものを、カトリック教会から受ける完全な自由が、すべての人に与えられることです。私たちが望むのは、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの政府、法律、裁判所、学校、大学、病院、老人施設、公共交通機関や、工場に、いてくださることです。要するに、私たちが望むのは、私たちの主イエズス・キリストが、その本来の姿として、つまり、私たちの王として、認められることなのです。

【参考文献】

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天主はなぜ私たちが病気やその他の試練で苦しむのをお許しになるのか?そのような状況の中で私たちはどのような態度を取るべきか?

2022年11月08日 | お説教・霊的講話

天主の御摂理、病気、その他の試練についての説教

2022年10月23日 ドモルネ神父

はじめに

今日の福音には、ある王官の息子が、奇跡的に癒やされたことが書かれています。この子どもの病気は、偶然に起きたのではありませんでした。天主は宇宙の統治者であり、天主のご命令もしくはご許可なしにこの地上で起こることは、何もありません。天主は、無限の知恵と、誰も逆らうことのできない力と、父としての比類なき善良さで、すべてを司っておられるのです。この天主による支配は、天主のお許しがなければ、私たちの頭から髪の毛一本さえも落ちることができないほどのものです。ですから、天主が病気や苦悩で私たちを試されるとき、なんらかの、良い賢明な理由のために、そうされるのです。天主はなぜ、今日の福音のなかで、この子どもが病気になるのを許されたのでしょうか?それは、この子どもの父親と家族が、イエズス・キリストの神性を信じ、多くの恩寵を受ける機会となるためだったのです。

まず、私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主はなぜ、お許しになるのかについて、その後、そのような状況の中で、私たちはどのような態度を取るべきかについて、お話ししたいと思います。

1.私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主がお許しになる理由

私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主はなぜ、お許しになるのでしょうか。

第一の理由は、天主が存在し、宇宙と私たちの健康や生命の統治者であることを、私たちに思い起こさせるためです。実際、私たち人間は、この基本的な現実を、あまりにも忘れがちです。私たちは、まるで天主が存在しておられないかのように生きているか、あるいは、自分の人生における天主の重要性を、いささか二次的なものとしてしか、認めないのです。試練や苦しみは、私たちに、自分の弱さや限界を思い起こさせ、助けを求めるよう強制します。そして、人間からの助けが得られないとき、やっと私たちは天主とその全能および善意を思い出し、天主の方を向くのです。この真理は、聖書の中で、次のような逸話(サムエル下14章29-32節)を通して示されています。ダヴィド王の息子アブサロムは、軍の総司令官であるヨアブを二度呼び出しました。ヨアブは行くのを拒みます。すると、アブサロムは何をしたでしょうか?ヨアブの収穫物に火をつけたのです。そこですぐ、ヨアブは、その行為について苦情を言うために、アブサロムのところにやって来ました。するとアブサロムは、ヨアブを無理やり自分のところに来させるためにそうしたのだ、と言いました。天主も、それに少し似ておられます。天主は、私たちに、罪の道を離れてご自分のもとに来るようにと、何度も呼びかけられます。しかし、私たちは、それを聞き入れません。そこで、天主は、私たちになんらかの病気や苦悩を送って、私たちが天主の方に向くよう、強制されるのです。このように、福音のなかで、父親が子どもの癒しを求めるためにイエズスのところに行き、ついには、父親とその家族全員が救われるよう、天主が、まず子どもの病気をお許しになったのも、このような理由からだったのです。

天主が私たちの病気や苦悩をお許しになる第二の理由は、ご自分の正義を行い、私たちに、私たちの罪を償わせるためです。ベザダの池で、体の不自由な人が癒やされたときのことを思い出してください。私たちの主イエズスは、その人を癒やされ、そして、その人の病気の原因が、その人の罪であることを明らかにされました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。ですから、私たちが、病気や試練に悩まされるとき、私たちは罪人であるため、苦しむに値する、ということを思い出しましょう(創世記42章21節参照)。聖ヨハネ・クリゾストモは、私たちが苦悩の中にあるとき、私たちは天主の御前にへりくだり、天主が、私たちの現在あるいは過去の大罪あるいは小罪を、償う機会を与えてくださっていると考えるよう、勧めています。

天主が私たちの病気や試練をお許しになる第三の理由は、私たちに対する天主の善意と御あわれみによるものです。病気や試練は、防腐剤のようなものだからです。それによって、私たちが罪を犯す機会や手段がより少なくなり、私たちはこの世の快楽や財物のむなしさをさらによく理解し、天国を求める望みをもっと育み、天国で、より大いなる栄光をうけるべきものとなるのです。例えば、私たちは、自分が病気であることに不平を言いますが、この病気がなければ、もしかしたら私たちは肉欲にまみれた人間か、あるいは酔っぱらいか、あるいは犯罪者になっていたかもしれません。私たちは、自分が貧乏だと不平を言いますが、もし金持ちだったら、もしかしたら非常に高慢になり、天主に対する義務を怠っていたかもしれません。ある日、ある金持ちが、慈善家聖ヨハネに、貧しい人々に与えるための大金を渡して、それによって、自分の一人息子の癒やしを天主から得ようとしました。しかし、その子は死んでしまいました。聖ヨハネは、それについて、私たちの主に対して、いささか不満を表しました。しかし、イエズスは、この子の死は、実際には、聖ヨハネの祈りとその人の施しによって得られた恩寵である、と答えられました。なぜなら、もしその子どもが生きたなら、その父親は息子のためにもっともっと財産を得ることばかり考えることとなって、その結果滅びていたはずであり、また他方、その息子も、世俗的で罪深い生活を送ることとなって、その結果やはり滅びていたはずだからです。

天主が私たちの病気や試練をお許しになる第四の理由は、私たちに対する天主の愛です。実際、天主が私たちを愛されれば愛されるほど、天主は、私たちが御子イエズス・キリストに似た者となることを望まれます。ですから、天主は、私たちも主の御苦しみにあずかるように、なさるのです。この苦しみは、私たちを押しつぶすためではなく、私たちに、天主と隣人への愛を深め、育ませるためのものです。大天使ラファエルが、トビアに言った言葉を思い出してください。「あなたは天主の目にかなったので、誘惑の試練を受けて、それを証さねばならなかった」(トビア12章13節)。愛する者のために苦しみ、死ぬことほど、おおきな愛の証しはありません。

2.病気や苦悩のときに取るべき態度

さて、病気や苦悩のとき、私たちは、どのような態度を取ればよいのでしょうか。一般的に言えば、キリスト教的な精神で、それを受け入れるべきです。つまり、その試練や苦悩を通して、天主が成し遂げることを望んでおられることが実現するよう、可能な限り、私たちは天主に協力すべきです。

天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちの人生と存在に対する天主の絶対的な支配力を、私たちに思い起こさせるためです。ですから、試練の時には、私たちに対する天主の統治権を崇め、寛大に、そして愛をもって、天主の御旨に従いましょう。聖なる人ヨブが、その大きな苦悩のときにそうしたように、天主を讃美しましょう。「主は与え、主は奪われた。主の思し召しの通り、それはなされた。主の御名は祝されよ」(ヨブ1章21節)。

第二に、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、それを私たちの罪の償いとするためです。ですから、試練のときには、天主の正義を崇めましょう。自分の罪を悔い、生き方を改め、自分の過去の罪の贖いとして、私たちの苦しみをお捧げしましょう。

そしてまた、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちを、より確実に、天国へ導くためです。ですから、試練のときには、天主の御摂理を崇め、その導きを信じましょう。私たちには、天主の道が十分に理解できないことがよくあります。しかし、善きお方である天主は、私たちを天国に導く方法を、私たちより、はるかによくご存じです。ですから、私たちは、天主を完全に信頼し、可能な限り、天主の御旨に沿うべきです。

最後に、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちを、私たちの主イエズス・キリストにさらに似た者とするためです。ですから、試練のときには、私たちの主のご受難をしばしば黙想し、主の愛徳と、主がそのときに示されたすべての聖徳に倣いましょう。

結論

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりに、皆さんに、トビア書にあるラグエルの娘サラの美しい祈りを思い起こしていただきたいと思います。「主を尊ぶ者は皆、その命が、試練にあって、栄冠を受けることを知っている。苦難にあえば、解放され、懲らしめを受ければ、あわれみを受ける。あなたは、われらのほろびを喜ばず、嵐の後に、静寂をおくり、涙と嘆きの後に、喜びをまかれる。イスラエルの天主よ、御名は永遠に祝福されよ。アーメン」。




聖伝のミサでは、なぜラテン語を使うのか?なぜ司祭は会衆の方を向かないのか?聖伝のミサの流れにどうやってついていくか?

2022年11月07日 | お説教・霊的講話

聖伝のミサに初めて参加する人を助ける方法についての説教

2022年10月16日 ドモルネ神父

はじめに

今日は、聖伝のミサに初めて参加する人を助ける方法について、少しお話ししたいと思います。実際、聖伝のミサに初めて参加することは、それに慣れていない人たちにとっては、かなり難しいことです。カトリック信者でない人は、カトリックの教えをほとんど、またはまったく知りませんから、ミサで何がおこっているのかが理解できません。新しいミサに慣れているカトリック信者は、通常、聖伝のミサの流れについていく方法が分かりません。経験から分かることは、聖伝のミサに初めて参加する人には、特に、次の三つの点を説明することが役に立つということです。それは、なぜラテン語を使うのか、なぜ司祭は会衆の方を向いていないのか、そして、聖伝のミサの流れにどうやってついていくかです。

1.ラテン語の使用

よく、「ミサはラテン語」と言われると、そのミサに参加するためには、ラテン語を知っていなければならないと思う人がいます。説教でさえ、ラテン語だと思っている人もいます。ですから、そういう人は、自分がラテン語を話せないなら、聖伝のミサに参加する意味がないと思ってしまうのです。司祭の中には、聖伝のミサを馬鹿にして、次のようなことを言って、参加したいという信者の気持ちをくじいてしまう人もいます。「あなたはラテン語が話せますか?ラテン語が理解できますか?いや、できないでしょう。それなら、なぜ理解できないミサに参加しようとするんですか」。このような理由から、人を初めて聖伝のミサに連れてくるときは、ミサでラテン語が使われることについて、簡単に説明するのがよいでしょう。

第一に、なぜラテン語を使うのでしょうか。それには、説明しやすくて、理解しやすい、二つの理由があります。ミサの間、私たちは、天地の創造主である天主に語りかけます。天主の大いなる尊厳のため、また天主への敬意から、私たちは、日常的な言葉ではなく、ラテン語という特別な言葉を使って語りかけるのです。このことは、日本人には非常に理解しやすいことだと思います。皆さんご存じのように、日本語では、目上の人に敬意を表すために、「いらっしゃる」、「おっしゃる」、「ご覧になる」、「召し上がる」などといった、特殊な言葉を使います。聖伝のミサでラテン語を使うのも、それに似た考えからです。日常生活で使う言葉とは違う言葉を使うことで、私たちは天主への敬意を表すのです。

聖伝のミサでラテン語が使われるのは、カトリック教会の一致を示すためでもあります。実際、同じ言葉を話すということは、同じ民に属しているというしるしです。カトリック信者は、世界中で、聖伝のミサをラテン語で行い、世界中で、同じ言葉を使って天主に犠牲を捧げます。このことは、世界のカトリック信者が、ミサの犠牲を通して、お互いに一致し、また天主と一致した一つの民であることを示しています。

聖伝のミサでなぜラテン語が使われるかを説明した後で、聖伝のミサに参加するには、ラテン語を自分の母国語のように話せる必要はないことを指摘することも、意義のあることです。ミサの祈りはすべて、日本語や他の諸言語に翻訳されています。ミサの中で信者が唱えるラテン語の言葉は、数多くはなく、通常短いので、すぐに意味を理解して、発音できるようになります。また、このようなラテン語の言葉を唱えることができなくても、あまり問題ではありません。ミサに参加する上で最も重要なことは、ラテン語を話すことではなく、心の中で、司祭とともにイエズス・キリストを捧げることなのです。

2.司祭が会衆の方を向いていないこと

聖伝のミサに初めて参加する人がよく質問するのは、ミサの間、司祭が会衆の方を向いていないのはなぜか、また、司祭が人に聞こえないような小さな声で祈ることが多いのはなぜか、ということです。新しいミサしか知らないカトリック信者は、司祭が自分たちの方を向き、大きな声で祈るのを聞くのに慣れているのです。

これらの質問に答えるには、司祭が天主と人との間の仲介者であることを説明すれば十分です。司祭は、いわば、天主と人の間に立っているのです。司祭は天主に犠牲を捧げますから、ほとんどの間、信者の方ではなく天主の方を向いています。司祭は、信者の代わりに天主に犠牲を捧げますから、信者の指導者、また代表者として、信者の前に立つのです。司祭は、天主の御名によって信者に教え、また、信者に天主の恩寵を伝えます。このため、ミサの間、司祭は定期的に信者の方を向くのです。ですから、司祭は、信者に背を向けているのではなく、天主に犠牲を捧げるために、信者とともに天主の方を向いているのです。

3.聖伝のミサの流れについていく具体的な方法

聖伝のミサに初めて参加する人は、一般的に、聖伝のミサの流れについていく方法が分かりません。ミサ小冊子の使い方が分かりませんし、いつひざまずいて、いつ立つのか、いつ座るのかが分かりません。ご聖体を舌で受ける方法も分かりません。ですから、少なくとも初めてミサに参加するときには、通常、少し助けが必要です。

皆さんが誰かを初めてミサに連れて来たとき、あるいは、聖堂で初めてミサに参加する人を見たときは、その人を一人で放っておかずに、その人がミサに参加するのを助けてあげてください。例えば、ミサ小冊子を渡して、ミサの間、定期的に、司祭が、今どの祈りを唱えているかを教えてあげましょう。ミサ小冊子を渡すだけでは十分ではありません。なぜなら、普通、その人は、その小冊子の使い方が分からないので、ミサが始まるとたちまち、流れについていけなくなるからです。そのような人には、ミサの間、助けが必要です。また、ミサの途中に、ひざまずいたり、座ったり、立ち上がったりするのがいつなのか、教えてあげるのも、役に立ちます。もしその人がカトリック信者で、ご聖体を受けたいのであれば、いつ聖体拝領台に行けばいいのかを教えてあげてください。

注意していただきたいのは、ミサ小冊子の祈りを読むよりも、ミサに注目するほうが好きな人がいることです。その場合は、その人にそうさせてあげて、小冊子のミサの祈りを見せることにこだわらないでください。

ミサで一番大切なのは、霊と愛において、自分を、十字架上のイエズスの犠牲と一致させ、司祭とともに、その犠牲を聖三位一体に捧げることです。ミサの祈りを読むことは、教皇聖ピオ十世が推奨する非常に良いミサ参加の方法ですが、それは義務ではないのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりに、一つ付け加えておきたいことがあります。イエズス・キリストから今日に至るまで伝えられてきたカトリックの信仰の中に、真理と永遠の命があることを理解し、また聖伝のミサが、私たちを永遠の命に導く手段であることを理解するためには、このような霊魂たちに、天主の恩寵が注がれることが必要です。ですから、そのような人たちが聖伝のミサを発見して理解するのを皆さんが助けるのと同時に、皆さんの心の中で、至聖なる童貞マリアが、その恩寵をその人たちに与えてくださるよう、熱心に祈ることを忘れないでください。

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私たちは、外的な態度において聖なる者でなければなりませんが、特に心の中では、一層、聖なる者でなければなりません。

2022年11月07日 | お説教・霊的講話

内的な罪についての説教

2022年10月9日 ドモルネ神父

はじめに

今日の福音には、イエズスが、中風の人の罪を赦されたことが書かれています。そのとき、「ある律法学士たちは、『この人は冒涜の言葉を吐いた』と思った。イエズスは、その人たちの考えを見抜き、『なぜあなたたちは、心の中で、よからぬことを考えているのか』…と言われた」(マテオ9章3-4節)。私たちの主イエズスの、このみ言葉は、言葉や行いで罪を犯さないようにするだけでは不十分であり、心の中でも罪を犯さないようにしなければならないことを、私たちに思い起こさせます。なぜなら、すべての罪は、心から出るからです。「悪意、殺人、姦淫、淫行、窃盗、偽証、讒言などは心から出る」(マテオ15章19節)。私たちは、外的な態度において聖なる者でなければなりませんが、特に心の中では、一層、聖なる者でなければなりません。今日は、内的な罪についてお話しします。

1.内的な罪の本質

内的な罪とは、私たちが外的な行動を取らずに、思いだけで犯す罪のことです。最も一般的な内的な罪は、天主とその教会を冒涜する思いや、貞潔、正義、愛徳に反する思いや望みです。

この罪には、過去についての罪が含まれます。つまり、例えば、酒に酔ったという事実など、過去の悪い行いを、満足して思い出すことです。この罪には、現在についての罪も含まれます。つまり、例えば、だれかに対して復讐するという思いなど、実際のことについて悪い想像を働かせることです。この罪には、将来についての罪も含まれます。つまり、例えば、不潔な行いなど、機会があれば悪い行いをしたいと望むことです。「私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通した」(マテオ5章28節)と、私たちの主は警告なさいました。

あらゆる罪に共通する通常の三つの条件がそろえば、内的な罪は存在します。その条件とは、それが悪いことであって、私たちがそれに対する十分な注意を払っていて、かつ、それに完全に同意することです。言い換えれば、私たちが明らかに悪いと知っているような記憶、思い、あるいは望みを、自発的に、かつ喜んで、長く思い続けるとき、私たちは内的な罪を犯しているのです。内的な罪は、人を憎んだり、多額のお金を盗んだり、姦淫したりといったように、重大なことに関するものであれば、大罪になります。もしそれが、しびれを切らしたり、成し遂げたことを誇ったりするように、軽微なことに関するものであれば、小罪となります。

2.避けるべき二つの誤謬

内的な罪について、避けるべき二つの誤謬があります。

第一の誤謬は、きちょうめんで内気な人々によくみられるものです。この誤謬は、心に浮かぶ悪い思いの一つ一つが罪であると信じることです。その結果、これらの人々は、自分が大罪の状態にあると常に考えており、そのため内的な平和を見いだせません。これは間違っています。罪となるものは、悪い思いが頭に浮かぶことではなく、それに同意することです。聖フランシスコ・サレジオは、この真理を次のように要約しています。「感じることは、同意することではない」。私たちは、非常に強くて心をかき乱すような、内的な誘惑を感じるかもしれませんが、それに同意しない限り、それを楽しまない限り、それを追い払おうと努力する限り、罪を犯しているのではありません。ですから、私たちは、このような誘惑が消えるまで、勇気をもって戦わなければなりません。最も偉大な聖人たちでさえも、時には激しい誘惑にさらされることがありました。彼らは、それをどのように拒むかについての美しい例を、私たちに示してくれました。たとえば、ある日、聖ベネディクトは、不潔な誘惑に激しく襲われました。彼は、その誘惑に一切同意したくないことを明確にするために、裸で茨の茂みに入り、体があまりに痛くなり、すべての誘惑が消え去るまで、そこで転がり続けたのです。

第二の誤謬は、信仰をほとんど知らない霊魂、あるいは、堕落して、すでに罪に凝り固まった霊魂によくみられるものです。この誤謬は、内的な罪は、たとえそれが故意に、また喜んで受け入れたものだとしても、外的に行わない限り、問題ないと考えることです。ファリザイ派の人々が、そうでした。彼らは、外的には自分たちが天主の律法に完全に忠実であるように見せることで、自らを聖であるとしていましたが、実際、内的には、罪に満ちていたのです。そのため、私たちの主は、彼らをこう強く非難なさったのです。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ。あなたたちは白く塗った墓のようだ。外はきれいでも、内は死人の骨とさまざまな汚(けが)れに満ちている」(マテオ23章27節)。

3.内的な罪の危険性

内的な罪は、私たちの霊魂にとって、非常に危険なものです。なぜ、そうなのでしょうか。第一に、内的な罪を犯すのは、非常に簡単だからです。外的な罪を犯すには、時間、場所、都合のよい機会などが必要です。ところが、内的な罪は、いつ、どこででも犯すことができ、それを自分の意志だけで決められるからです。

第二に、内的な罪を犯すのは非常に簡単であるため、際限なく多くの罪を犯すことができるからです。例えば、不潔な愛の影響の下にある人のことを考えてみてください。その人は、一日に何千もの不潔な思いや望みなどの罪を犯すかもしれません。妬みや憎しみに苛まれている人のことを考えてみてください。その人は、数えきれない数の怨みや復讐の思いや望みを、すすんで持つかもしれません。

最後に、内的な罪を犯すのは、非常に簡単で、すぐにできるため、その性質、悪意の程度や数を判断するのが難しいことがあります。そうすると、不完全な告解をするという大きな危険があります。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの心は聖域かつ要塞であるべきです。聖域とは、すなわち、完全に天主に奉献された聖なる場所であり、要塞とは、すなわち、敵の攻撃に対して、私たちが懸命に守る場所です。悪い思いというのは、私たちの心に入り込んでその神性を汚し、そこから天主を追い出して、私たちを悪魔の奴隷にしようとする敵のようなものです。

内的な罪と戦ってそれを避けるには、どうしたらよいのでしょうか。しばしば痛悔の祈りをし、定期的に告解に行き、自分の悪意に気づいたら、祈りを唱えたり、何か良いことに集中したりすることで、その悪い思いに対して、すぐに対抗することです。また、あらゆる罪の機会、つまり、私たちに悪い思いや望みを起こさせる人、物、メディア、場所や活動を避けることです。ですから、聖なる人ヨブは、自分の目をよく監督するという例を私たちに示したのです。「私は、自分の目と、契約を結んだ。どんな娘にも、目をとめないと」(ヨブ31章1節)。

ロザリオの聖母が、私たちの心を、あらゆる内的な罪から清く保つことができるよう、助けてくださいますように。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年11月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今回は、聖ピオ十世会アジア管区長のサマーズ神父様が東京で歌ミサを捧げてくださいました。東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計131人でした。午後には、コロナ禍のなかでアジア管区ではどのようにして、私たちにもっとも必要不可欠でエッセンシャルなミサ聖祭や秘跡を与え続けてきたかというお話をしてくださいました。

大阪では今日のミサに与られた方は、38人でした。サマーズ神父様は明日大阪に行かれてミサを捧げる予定です。

11月2日の死せる信者の記念のミサに与られたのは、東京では、子供達も入れて合計45人でした。大阪では約20人でした。天主に感謝いたします。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 131 including children.


09:00 mass
M: 31 (incl. 5 children)
F: 35 (incl. 8 children)
Total: 66 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 30 (incl. 2 children)
F: 39 (incl. 4 children)
Total: 69 (incl. 6 children)

Total of 2 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 60 (incl. 7 children)
F: 71 (incl. 12 children)
Total: 131 (incl. 19 children)

【報告】【11月2日入谷ホール】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 45 including children.

18:00 mass
M: 13 (incl. 2 children)
F: 9 (incl. 2 children)
Total: 22 (incl. 4 children)

18:45 mass
M: 13 (incl. 0 child)
F: 17 (incl. 1 child)
Total: 30 (incl. 1 child)

Total of 2 masses (excl. 7 people who participated in multiple masses)
M: 22 (incl. 2 children)
F: 23 (incl. 3 children)
Total: 45 (incl. 5 children)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】