アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2023年8月27日は聖霊降臨後第13主日でした。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第13主日の説教」の動画をご紹介いたします。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父
アヴェ・マリア・インマクラータ!
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トマス小野田圭志神父
シノダリティーに関するシノドス
SYNOD ON SYNODALITY by Fr Peter Scott
シノダリティーに関するシノドス
聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉
教皇ピオ九世は、間違いなく天主からの霊感を受けて、フリーメーソンと教会のすべての敵が、教会に侵入してカトリックの宗教を破壊するための計画において作成した誤謬を、自由主義者や進歩主義者が第二バチカン公会議のテキストに導入するのに成功した誤謬を、糾弾し、断罪しました。第二バチカン公会議は、それ以前のすべての公会議がそうであった教義的公会議ではなく、「司牧的」公会議にすぎないとよく言われますが、この公会議が聖霊によって霊感を受けたものではなかったことは本当に確実です。聖霊が、その全能によって、真理を誤謬で覆い隠しつつ、しかし誤謬を免れるように、第二バチカン公会議に霊感を与えることができたとほのめかすことは、考えられませんし、冒涜的ですらあります。
マルセル・ルフェーブル大司教
「異端に抗して」240ページ
シノダリティーに関するシノドス
来る2023年10月にローマで開催される「シノダリティーに関するシノドス」は、実質的な重要性はほとんどなく、聖伝のカトリック信者である私たちには関係ないと考えたくなります。これまでのシノドスと同じことが繰り返されるでしょうが、しかし、このシノドスは、教会を内部から破壊しつつある革命の重要な一歩です。情報を得ておくことは、このような自然主義に、教会の真の教えをもって対抗する準備をすることです。
シノドスは、教会における伝統的なものです。一つの州や国の司教たちによる集会であって、定期的に必要な規律の改革を検討するためのものです。しかし、今回は、「シノダリティーに関するシノドス」であるため、これまでとは異なります。教皇フランシスコは、教会は今やシノドスの教会であると主張しています。彼がこのことで言わんとしているのは、教会は民主的であり、聖ペトロの岩の上にではなく人民の上に創立され、上から下ってくるのではなく下から上がっていくものだということです。これは、フランス革命の原則、すなわち自由、博愛、平等を、教会に適用したことの最終的な結果です。教会に何を求めるかを決めるのは人民であり、永遠の救いを得るために何を信じ、何をすべきかを私たちに教えるのは、もはや教会の位階階級ではない、ということです。
革命的方法
第一に、今回のシノドスは、実際のところは司教のシノドスではありません。なぜなら、投票権を持つ364人のメンバーのうち、50人以上が女性、70人以上が平信徒であり、言うまでもなく司祭もいて、その中には同性愛推進派のジェームズ・マーティン神父もいます。
第二に、私たちは教会を変革するために使用される方法に注目しなければなりません。これは、これまでの段階的な会議と討議の後に作成され、2023年6月20日に発表された作業文書の中で説明されています。それは「討議要綱」(Instrumentum laboris)という名称です。同文書は、シノドスの教会とは何かについて明確な定義を与えることを拒んではいますが、その特徴、すなわち、「真の共同責任」を生み出す「洗礼に由来する共通の尊厳を認識することの上に、シノドスの教会が打ち立てられているという意識」(20条)を述べています。それは、権威が教える教会ではなく、経験を分かち合って対話によって学ぶという聴従の教会です。その結果、従来のカトリック教会とは完全に逆の姿となります。シノドスの目的は、教会についてのこの新しい民主的な考え方を、教会のすべての活動に浸透させていくことであり、「洗礼による共通の尊厳および宣教のための共同責任が肯定されるだけでなく、行使され、実践される空間を構成するように、制度、構造、手続きにおいてもますますシノドス的な教会」(21条)を作ることとされます。そのとき、位階階級、そして上から教えや規律を押しつける権威は、過去のものとなります。
このことを正当化するために、この作業文書は「信仰の感覚」(sensus fidei)について言及しています。「信仰の感覚」とは、伝統的には、信仰についての真にして超自然の意味と理解と解されています。真の「信仰の感覚」(sensus fidei)は、教える権威すなわち教導権から来るのですが、しかし、この理解はそうではなく、自分が何を信じたいかというすべての人の個人的な考えから来るものとされます。このことは、「洗礼によってキリスト信者は信仰の感覚を持つ」という断言によって、偽りの正当化がなされています。
正しい心構えをもって有効で合法的に受けた洗礼ならば、注入された信仰の徳が与えられるのは確実だというのは正しいことです。しかし、このことは、洗礼を受けた人が、全てカトリック信者として考えるということを保証したり、また、信仰を守ること、ましてや信仰が私たちカトリック信者に教え求めていることの自覚を保証したりするものではまったくありません。さらには、おそらく有効に洗礼を受けたであろうプロテスタント信者で、真の信仰をまったく持っていない者も、何百万人もいるでしょう。しかし、作業文書は次のように断言しています。「一つの洗礼を通して、すべてのキリスト信者は、『信仰の感覚』(sensus fidei)にあずかっています。この理由で、シノドスの教会では、すべての洗礼を受けた人には、注意深く耳を傾けなければなりません」(ワークシートB 1.4)。
教会の教導権の教える権威を実質的に否定していることに、誤謬があります。この理論によれば、洗礼を受けたすべての人々は不可謬であり、自分の望むことを信じることができることになります。これは、真理が客観的で不変であると断言する人にとっては明白な矛盾です。教会は自らの教えが不可謬であることを明確に定義しています。第一バチカン公会議で定義された(Db1839)【デンツィンガーの旧版の番号】ように、能動的な不可謬性はキリストの代理人である教皇にのみ属し、教皇はそれによって信仰や道徳に関する教義を不可謬的に定義します。しかし、信者の受動的な不可謬性もあり、それは能動的な不可謬性の結果です。教会の教導権の教えに同意する限りにおいて、信者は間違うことはあり得ません。これこそが、真の「信仰の感覚」(sensus fidei)であり、忠実なカトリック信者だけが持つものなのです。それは、他の多くのものの中でもとりわけ、ご聖体への愛、ミサへの愛、童貞聖マリアへの愛、天主の審判への恐れ、煉獄のあわれな霊魂のために祈ろうという望みを彼らに与えます。
注意していただきたいのは、この信仰の真の理解とは、人の個人的な考えに従うのではなく、教会の教えに服従するということです。誰であっても、教会の教導権への従順を撤回した途端に実際にそうなるように、自分自身の個人的な確信において必ずや間違いを犯し得るのです。洗礼は、このこと【間違いを犯し得ること】に対抗する保証にはなりません。特に、真の信仰を持っていない異端者から洗礼を受ける場合いはそうです。このような純粋に人間的な、そしてしばしば誤った、宗教問題に関する個人的な考えを、信仰の感覚(sense of Faith)と呼ぶのは全くの茶番であり、直ちに真の信仰の喪失へと至らせます。
エキュメニズム
このことによる結果があります。プロテスタント信者も洗礼を受けています。それゆえ、シノドスの教会によれば、彼らにもまた、カトリック信者と同様に耳を傾けなければなりません。なぜなら、教会とその教える権威を拒否しているという事実にもかかわらず、彼らもまた信仰の感覚を持っていることになるからです。このことは明確に述べられています。「エキュメニカルな旅を深めたいという深い願望もまた現れます。真正なシノドスの教会は、一つの洗礼を共にするすべての人々を巻き込まずにはおきません」(24条)。このカトリック信仰との明白な矛盾は、この作業文書が常に助長しているエキュメニズムの基礎です。なぜなら、シノドスの教会は、まるで教会がこれまで「教会の外に救いなし」と定義したことがなかったかのように、必然的にエキュメニカルな教会であろうとするからです。
ピオ十一世は、1928年にエキュメニズムを断罪した回勅の中で、明確にこう教えました。「そうならば、信仰に関する問題に於いてでさえ自分独自の見解や思潮を保持しつつ、多大に他人の意見と矛盾していても、キリスト者の間で締結を結ぶ可能性さえ考えられるでしょうか。私はあなたたちに尋ねます。一体いかなる信仰表明でもって、互いに矛盾する意見の人々を一つで唯一の連合に結ぶことができるとでも言うのでしょうか。例えば、或る者たちは、聖伝は啓示の正真正銘の源であると断言し、或る者たちはそれを否定しています。或る者は教会の位階制度は天主のみ旨によって、司教・司祭そして他の聖職者から成ると考えますが、他の者たちは位階制度は時代情勢やその時期により少しずつ導入されたと断言します。…教会の一致が、信仰の唯一の規範と、全てのキリスト者の同じ信仰によらねば生まれえませんのに、これらの意見の深い相違を目前にして、私たちはほとんど教会の一致を見ることができません。しかし、それ(意見の相違にも関わらず一致をもくろむこと)によって、人々は宗教をなおざりにする、即ち[どの宗教でも結局は一緒だとする]宗教無差別主義(indifferentism)、あるいは、近代主義(modernism)と呼ばれるものにたどり着くだろうと私たちは良く知っています。これらの誤謬に犯された不幸なものは、『教義上の真理は絶対ではなく、相対的、即ち、真理は時と場所のいろいろな要求に応じて、また霊魂のさまざまな必要に応じて適応しなければならない、何故かというと、教義上の真理は不変の啓示の中に含まれず、その本性からして人の生活に適応しなければならない』と言っています」(「モルタリウム・アニモス」[Mortalium animos]9条)。
【参考】
回勅「モルタリウム・アニモス Mortalium animos」 真実の宗教の一致について(ここでは10条から12条まで)
近代主義
注意していただきたいのは、すべての人の信仰体験を良しと断言する、この誤ったエキュメニカルな考えの根源は、信仰が主観的であると考えることにあります。すなわちこれによると、信仰は個々の人に依存し、人によって変わる、ということです。これは近代主義の主要な誤謬であって、1907年に聖ピオ十世によって断罪されているものです。すなわち、近代主義によると、信仰は各人に内在するものであって、すべての人が持たなければならない客観的な真理ではない、ということになります。これは、信仰とは、外部の源泉から来るものではなく、人の個人的な意識から来る経験だということを意味します。それによると、天主の啓示とは結果的に私たちの内で進行しているものとなります。従って、信仰は内在性を介して私たちの内に生じ、私たち自身の思考として私たちの心の中に湧き上がるものだと、彼らは断言します。そうなると、キリストが教会を通して私たちに信仰を教えるのではなくなります。これが、シノドスの教会に信仰の感覚を適用する根源となる概念です。すべてのさまざまな信仰の信条と経験を受け入れ、歓迎しなければならなくなるのです。
聖ピオ十世は、真理それ自体を破壊するこの考えを、次のように断罪しました。「すべての宗教の基礎であり土台である信仰は、天主的なものを必要とする衝動に由来する感情から成り立っている。この天主的なものの必要は、特別で、ふさわしい状況においてのみ経験されるものであり、それ自体は意識の領域に最初に潜んでいる。言い換えると、近代哲学の言葉を借りれば、潜在意識の中にあり、そこに、信仰の根が隠れ、気づかれないままで存在している」(7番)。このような主観的な感情こそが、シノドスが共有するとされている、いわゆる「信仰の感覚」(sensus fidei)の基礎であり、これが超自然的に啓示されたカトリック信仰を破壊しようとしているのです。天主の啓示はもはや、トリエント公会議が定義したような聖書と聖伝という二つの源泉を持っておらず、その代わりに洗礼を受けた者の心の中に見いだされるとされているからです。
結果
しかし、カトリック信仰によるこのような明確な教えにもかかわらず、このワークシートは、カトリック信者と異端者の間の会話における平等を提案し、混宗婚は信仰にとって危険であるとして教会によって常に禁止されてきたにもかかわらず、混宗婚を奨励さえしています。
非カトリック信者も同様に、唯一の真の信仰を受け入れることを拒否しているにもかかわらず、信仰の証人である殉教者になることができると考えられています。以下はワークシートの文章です。「シノダリティーとエキュメニズムは、より良いキリスト信者の証しという共通の目標を持って、共に歩む二つの道です。これは、【異なる】教会間の結婚や、殉教のエキュメニズムでキリストへの信仰の証しとして命を捧げるという究極の行為によることを含め、さまざまなレベルでの『生活のエキュメニズム』の共存の形を取ることができます」(B 1.4)。この重大な無関心主義は、唯一の真の教会によって教えられたままの信仰の破壊、つまり、私たちの主イエズス・キリストへの真の信仰の破壊です。
この作業文書にあるその他の誤謬は、結果として生じたものです。最悪の誤謬は、聖なる叙階に関するものです。プロテスタントと同様、この文書は、一般の平信徒の司祭職が、叙階された司祭職と同等の重要性を持つものとして提示されています。その結果、教会全体に対する責任や、教会で教え統治する権利を与えるのは洗礼であり、もはや聖なる叙階ではありません。教会は、聖なる叙階の秘跡を受けることができるのは男性だけであると不可謬的に教えているにもかかわらず、女性は、同等の権威を持つことになり、さらには助祭に叙階されることになるとされています。司祭はもはや天主の人ではなく、他の人と同じ人であるとみなされているため、司祭の結婚は許可されることになるのです。
このシノドスのプロセスでは、誰も、公の大罪を犯した人さえも排除しないような包括的な精神が、同性愛者やトランスジェンダーの場合のように、性的倒錯への開放へと至ります。これもまた、客観的な道徳の破壊がもたらした結果です。質問形式ではありますが、この宣言は非常に明確です。
「シノドス後の使徒的勧告『愛のよろこび』(Amoris Laetitia)に照らして、地位や性的指向のゆえに教会から排除されていると感じている人々(例えば、再婚した離婚者、一夫多妻の婚姻状態にある人々、LGBTQ+の人々など)を歓迎するために、どのような具体的な段階が必要だろうか?」(ワークシートB.1.2§6)。大罪の状態にあって、秘跡から排除され、永遠の滅びの火に入る公の罪人に対して、誰ももはや、回心して、不道徳な生活習慣というつまずきを終わらせ、天主の掟を守るように言うことはできなくなるのです。このような大罪の状態にある霊魂をそのままにしておくとは、何という"愛徳"でしょうか!また、教会が回心なしで彼らを受け入れるとは、何という悪しき模範でしょうか!
この文書を読むと、福音に従った真の教会改革には関心がなく、むしろ現代の世俗世界の天主を認めない人文主義的な原則を受け入れていて、環境、少数民族の文化の保護、社会正義、貧困者や移住者の解放、そして純粋に自然なレベルでの他の懸念されることに焦点を当てていることが分かります。しかし、永遠の救いという一大事についてはどうでしょうか、そのために教会が創立されたというのに。このシノドスは、教会の超自然の使命を裏切るものとならざるを得ません。しかし、その使命のために、天主は人となられ、私たちの罪のせいで死なれたのです。ですから、私たちは、カトリック聖伝への愛着を堅持するとともに、自分自身の高位聖職者によってひどく苦しめられている教会のために償いの祈りを捧げましょう。
ピーター・R・スコット神父
貧しい者の詩篇:いと尊きロザリオの百五十の黙想
愛する兄弟姉妹の皆様、
参考資料としてご紹介いたします。
A Poor Man’s Psalter
150 Reflections on the Most Holy Rosary
聖ルイ・ド・モンフォールの提案による黙想の要点に基づくロザリオ
聖ルイ・ド・モンフォール、われらのために祈り給え!
COPYRIGHT © 2023 Danilo Da Silva Ramos
All rights reserved
目次
喜びの玄義
御告げ
御訪問
御誕生
神殿での奉献
少年イエズスの神殿での発見
苦しみの玄義
ゲッセマネの園での御苦悶
柱での鞭打ち
茨の冠をかぶせられ給う
十字架を担い給う
十字架刑
栄えの玄義
御復活
御昇天
聖霊降臨
聖母被昇天
聖母戴冠
【御告げ】
1.聖ヨアキムと聖アンナ、幼子マリアを聖なる童貞として聖別されるよう神殿に奉献する。
2.大工ヨゼフ:聖ヨゼフの杖の開花の奇跡。
3.マリアのヨゼフとの「婚約」または結婚。
4.天使ガブリエルが神殿にいる聖ザカリアに現れ、妻の聖エリザベトが彼の子を身ごもることを告げる。エリザベトは不妊症であり、二人とも高齢であったにもかかわらず。ザカリアは、その子を「ヨハネ」と名付けるようにと告げられる。ザカリアは信じなかったため、話せなくなる。
5.ガブリエルのマリアへの挨拶。「めでたし、聖寵充ち満てる御方。御身は女のうちにて祝せられ給う」。
6.天使を見たときのマリアの最初の恐れと、メッセージを聞いたとき、童貞がどうして自分の胎内に子を宿して生むことができるのかという戸惑い。
7.マリアの自由な同意。「われは主のつかいめなり。仰せのごとく、われになれかし」。
8.御父によって御子が永遠において生まれ給う。
9.御子がこの世に来られたとき、御子によって御父に捧げられたご自分の犠牲。
10.聖霊によるマリアの御胎内でのイエズスの霊魂の創造と御体の形成。
【御訪問】
1.ヨゼフに対するマリアの沈黙。マリアは謙遜のために、自分が天主の御母になるという神秘を、自分を正当化するために明らかにしない。
2.マリアが子を宿していることが分かると、ヨゼフは正義の人であったので、マリアのことを公にすることを望まず、内密に離縁しようと考える。
3.ヨゼフのマリアに対する疑いは、夢で彼に現れた天使によって払拭される。
4.ヨゼフとマリアの和解。
5.ヨゼフに連れられて、身重のマリアは、身重の従姉姉エリザベトを急いで訪ねる。
6.聖エリザベトはマリアに「御身は女のうちにて祝さえられ、御胎内の御子も祝せられ給う」と宣言する。
7.生まれる前の洗者聖ヨハネは、エリザベトの胎内で喜び踊る。
8.マリアは天主への感謝をマグニフィカトで表す。
9.マリアは3カ月間、エリザベトに奉仕する。
10.洗者聖ヨハネの誕生。聖ザカリアが石版に「その名はヨハネ」と書くと、声が回復し、ベネディクトゥス(「主なるイスラエルの天主をたたえよ」)を唱える。
【御誕生】
1.ヨゼフとマリアは人口調査の登録のためにベトレヘムに旅するが、到着したときには宿屋に部屋はない。
2.天主がこの世に来られたところは、みすぼらしい馬小屋。また、その馬小屋にいた動物たち、特に牡牛とろば。
3.子を産もうとしたマリアが、天主の大きな愛を深く感じる。
4.マリアの童貞性の封印を解くことなく、マリアの御胎内から赤ん坊が産まれるという奇跡的な御誕生。
5.天主の御子は、まぐさ桶の中で揺られ給う。
6.天使が、「Gloria in Excelsis Deo(いと高きところには天主に栄光)」と歌う。
7.貧しい羊飼いたちが、ささやかな贈り物を携えて馬小屋にやって来る。
8.割礼、イエズス初めて御血を流し給う。愛を持って受け入れられる割礼の御苦しみ。
9.イエズスの聖なる御名が授けられる。
10.バルタザール、メルキオール、ガスパールは、星に導かれてベトレヘムに行き、黄金、乳香、没薬を幼子キリストに贈る。
【神殿での奉献】
1.マリアの御潔め。
2.モーゼの律法の規定に従い、ヨゼフとマリアは長男の身代金として2羽の鳩を神殿に納める。
3.聖シメオンの歌、「Nunc Dimittis(主よ、今こそ)」。
4.イエズスは逆らいのしるしとなるであろう。
5.マリアの霊魂も剣で貫かれるであろう。
6.女預言者聖アンナ。
7.ヨゼフが夢の中で天使の警告を受けた後、聖家族はエジプトに逃げる。
8.罪なき幼子の虐殺。
9.幼子イエズスの前で、エジプトの偶像が倒れる。
10.ヨゼフは夢の中で天使から、「子の命を狙っていた者たちは死んだ」と告げられる。聖家族のエジプトからナザレトへの帰還。
【神殿で教えている少年イエズスの発見】
1.行方不明の少年イエズスを神殿で発見したとき、イエズスは言われた。「私が父の用事にかかりきりにならなければならないことを、知らなかったのですか(私が、私の父の家にいるはずだと知らなかったのですか)」。
2.イエズスはヨゼフとマリアに従う、年齢と知恵と恵みが進む、隠された命の神秘。また、聖ヨゼフの幸せな死。
3.イエズス、ヨルダン川で洗者聖ヨハネから洗礼を受け給う。
4.砂漠で40日間断食し、3度悪魔の誘惑を受け給う。
5.12人の使徒を召される。ペトロ、アンドレア、大ヤコボ、ヨハネ、フィリッポ、バルトロメオ、トマス、マテオ、小ヤコボ、タデオ、シモン、ユダ。
6.イエズスの公生活。「悔い改めよ」「天の国は近づいた」。説教、たとえ話、予言。
7.水をぶどう酒に変え、カファルナウムで貴族の息子を癒やし、ベテスダの泉で麻痺者を癒やし、5000人に食べさせ、水の上を歩き、盲人を癒やし、ラザロを死者の中からよみがえ給う。
8.御変容。エルザレムへの凱旋入城。
9.イエズス、使徒たちの足を洗い、新しい愛の掟を発し給う。
10.イエズス、最初のミサを捧げ、御聖体を制定し給う。
【ゲッセマネの園での苦悶】
1.イエズスはオリーブ山、ゲッセマネの園に退き給う。
2.イエズスの御悲しみ。イエズスの生涯を通じて、しかし特に、御受難の前夜に経験し給うた霊魂の疲れ。
3.ペトロ、ヤコボ、ヨハネは、イエズスと一緒に警戒しているべき時に眠る。
4.「この杯を取り除き給え」というイエズスの謙遜だが熱烈な祈り。
5.イエズスは御父の御旨に同意。「私の意志ではなく、御身の御旨のままに」。
6.イエズス、天から現れた天使によって強められる。
7.イエズス、血の汗を流し給う。
8.ユダが接吻をもってイエズスを裏切る。
9.大司祭の兵士やしもべとファリザイ人は、ランタン、たいまつ、武器を持ってイエズスを逮捕しようと前に進み出た後、後ずさりして畏れながら地面に倒れる。
10.ペトロが大司祭のしもべマルクスの耳を剣で切った後、イエズスはその耳を癒やし給う。
【柱での鞭打ち】
1.イエズス、縛られ、縄と鎖でつながれて引き立てられ給う。セドロンの峡谷を引きずられ給う。
2.予備審問。イエズスに対する偽りの証言。カヤファの家で、イエズスは目隠しをされ、打たれ、「予言せよ!誰がおまえを打ったのか?」とあざけられ給う。ピラトとヘロデは友人となる。
3.ペトロ、三度イエズスを否む。
4.ピラトは問う、「真理とは何か」。
5.民は、イエズスではなくバラバを選ぶ。
6.イエズス、裸にされ、鞭打たれ給う。イエズス、裸のゆえに拷問者たちから侮辱され、軽蔑され給う。
7.イエズス、首、腕、脚を柱に縛られ給う。
8.鞭、いばらの枝、杖、針金で編んだ縄、その他の鞭打ちの道具。
9.イエズスの御傷と、その御傷から流れ出る御血。
10.イエズス、弱って、自分の血の池に倒れ給う。
【茨の冠をかぶせられ給う】
1.ローマ兵がイエズスに古い紫の衣を着せ、笏に葦を、玉座に荒削りの岩を与えた。
2.いばらの冠。
3.いばらの冠を押しかぶされたとき、イエズスの御頭から血が噴き出る。
4.兵士たちはイエズスをあざける。「ユダヤ人の王、万歳!」
5.兵士たちはイエズスを打ち、唾を吐きかけ、ひげを抜く。
6.イエズス、総督官邸の階段(聖なる階段)を昇らされ、ピラトによって人々に示され給う。「見よ、この人を!」。
7.イエズス、「私の国はこの世のものではない」と宣言し給う。
8.ユダヤ人、「われらの王はチェザル以外にない」と宣言する。
9.ピラトはイエズスの死に対する責任から手を洗う。
10.ユダヤ人、「彼の血はわれらとわれらの子孫の上に!」と答える。
【十字架を担い給う】
1.ガバタでの裁判。イエズス、死刑の宣告を受け給う。
2.イエズス、十字架を担い給う。愛を込めて接吻し、抱きしめ給う。
3.イエズス、初めて倒れ給う。
4.イエズス、カルワリオへの道で、御母に遭い給う。
5.キレネの聖シモン、ローマ兵に徴発され、イエズスが十字架を担い給うを助ける。
6.聖ヴェロニカ、自分のベールでイエズスの御顔を拭う。
7.イエズス、ふたたび倒れ給う。
8.イエズス、エルザレムの娘たちに告げ給う、「わがために泣くなかれ、なんじのために、なんじの子らのために泣け」。
9.イエズス、みたび倒れ給う。
10.イエズス、十字架につけられるために裸にされ、泥水を飲まされ給う。
【十字架刑】
1.イエズス、十字架に釘付けにされ給う。
2.十字架が立てられる。
3.司祭たち、律法学士たち、長老たち、通行人たちは、「もし天主の子なら、十字架から降りよ」「彼は他人を救ったが、自分を救うことはできない」と言って、イエズスをあざける。
4.七つの最後の言葉。「父よ、彼らを赦し給え、その為すところを知らざればなり」/「今日、なんじ、われと共に楽園にあらん」/「女よ、なんじの子を見よ! なんじの母を見よ!」/「わが天主、わが天主、なんぞわれを見捨て給いしや?」/「われ渇く」/「成し遂げられたり」/「父よ、わが霊を御手に委ね奉る」
5.イエズス、十字架上で死し給う。
6.日食が起こり、大地が震え、墓が開き、神殿の幕が裂ける。
7.百卒長ロンギヌスが槍でキリストの聖心を開くと、貫かれたキリストの脇腹から御血と水が溢れ出る。
8.キリストの御体は十字架から降ろされ、御母の腕の中に横たえられる。
9.イエズス、アリマタヤの聖ヨゼフの墓に封印される。
10.聖土曜日、黒い土曜日、大安息日。
【御復活】
1.古聖所への降下。
2.旧約の義人たちのリンボからの解放。
3.墓の中でイエズスの霊魂と肉体が再結合。
4.玉石によって封印されたままの墓の中からイエズスの奇跡的な通過。
5.イエズス、マリアに密かに御出現になる。
6.地響きがして、見よ!天使が石を転がして、空の墓を開ける。
7.天使を見た衛兵は恐怖に襲われ、死人のようになる。
8.死体に油を注ぐために墓に到着した聖なる婦人たちは、天使に「なぜ生者を死者と一緒に捜すのか?」と尋ねられる。
9.ペトロとヨハネは墓に駆けつけ、遺体がなく、汗拭きと死装束だけが残っているのを自分の目で確認する。
10.イエズス、マグダラのマリアに御出現になり、兄弟たちにイエズスの復活を宣べ伝えるようにと命じ給う。
【御昇天】
1.イエズス、聖なる婦人たちに、エマオへの道で、ペトロに、聖トマスを除くすべての使徒たちに、ガリラヤ湖で聖トマスを含むすべての使徒たちに、五百人に、小ヤコボに、アリマタヤの聖ヨゼフに、そして御昇天時にベタニアへの行列中の弟子たちに、御出現になる。
2.「主よ、あなたは今、イスラエルに再び王国を回復されるのですか」と尋ねられると、主は「あなたたちに時や季節を知ることはできない」と答え給う。
3.「エルザレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで、私の証人となるのだ。信じて洗礼を受ける者は救われる」。
4.「信じた者には次のようなしるしが続く。悪魔を追い出し、新しい言葉で話し、蛇を扱い、毒を飲み、病人を癒やすであろう」。
5.イエズス、弟子たちに祝福を与え給い、地上から引き上げられ給う。
6.イエズス、雲に包まれ、弟子たちから見えなくなり給う。
7.二人の天使が白い衣を着た人として現れ、弟子たちに言う。「なぜ、見上げているのか。あなたがたが見たように、この方は天に行かれ、また来られる」。
8.イエズス、ご自身の力で天国の扉を開き給う。「永遠の門よ、高く掲げよ、そうすれば栄光の王が中に入るであろう」。
9.イエズス、天使、大天使、権天使、能天使、力天使、主天使、座天使、智天使、熾天使という九つの天使の階級を通って、上へと昇天し給う。
10.イエズス、全能の父なる天主の右に座し、かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために再び来り給う。
【聖霊の降臨】
1.弟子たちは、聖なる婦人たちや、イエズスの御母マリア、イエズスの兄弟たちとともに、高間の部屋にとどまり、心を一つにして祈りながら、聖霊の降臨を待ち望んでいる。
2.聖霊が、御父と御子から永遠に発出し給う。
3.聖霊降臨の日、聖霊は強い風の音とともに降臨し給う。
4.聖霊、火の舌として弟子たちに降り給う。
5.弟子たちは聖霊に満たされて、さまざまな言葉で話し始める。
6.ヨエルの預言。「そして、あなたの息子や娘は預言し、あなたの若者は幻を見、あなたの老人は夢を見るであろう」。
7.三千人の回心。
8.サウロ、教会を迫害する。聖ステファノの殉教。
9.ダマスコへの道における聖パウロの回心。
10.エルザレムでの第一回公会議。パウロはアンティオキアでペトロに面と向かって反対する。ユダヤ教の儀式的律法の廃止と、キリスト教の自由の凱旋。「私にとってはすべてが合法であるが、何者の支配下にもない」。
【聖母被昇天】
1.天使ガブリエルがマリアに出現し、マリアが間もなく取り去られて天に迎えられることを告げる。
2.無原罪の御宿りと罪なき生涯により、死はマリアを支配することができない。マリアは死なずに天国に行くことができるが、御子に倣って、自由に死ぬことを承諾する。
3.永眠。聖トマス以外の使徒たちの前で、彼らの祝福を受けた後、愛の恍惚の中で、穏やかにして安らかに眠りに就く。
4.分離されたマリアの霊魂は、イエズスに付き添われて永遠へと運ばれ、天の宮廷全体によって大いなる歓呼のうちに迎えられ給う。
5.マリアの葬列が暴徒に襲われる。
6.天使がマリアの棺を飾った天の棕櫚の枝を見て、暴徒は目がくらみ、その後回心する。
7.聖母の埋葬。
8.三日目、聖母は死者の中から復活し給う。
9.聖母は、御体とともに天に上げられ給う。
10.聖トマスがインドから帰り、使徒たちはマリアの御遺体を崇敬するために墓を開けたが御体はなく、マントとローブだけが残されていた。
【聖母戴冠】
1.マリア、聖三位一体から三重冠を受け給う。王の王、主の主であるイエズス・キリストの右に、聖母は王の母として座し給う。
2.マリアは、聖ドミニコにロザリオを贈り、恩寵の水路とし給う。マリアはロザリオを通して、アルビジョア派との戦いやレパントの海戦のように、サタンや教会の敵との戦いに勝利を収め給う。
3.カルメル山での御出現。
4.メキシコのテペヤクでの御出現(グアダルーペの聖母)。
5.パリのバック通りでの御出現(不思議のメダイ)。
6.ルルドの御出現
7.ファチマの御出現
8.「彼らにはぶどう酒がありません」。マリアはキリストに、「主の御怒りのぶどう搾りでぶどう酒をしぼり出す」ように、つまりハルマゲドンを開始するようにとりなし給う。
9.「太陽をまとい、月を足元に置き、十二の星の冠をかぶった婦人」と「赤い竜」との黙示録的な戦い。
10.汚れなき御心の凱旋。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2023年8月27日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計106人でした。大阪では35人でした。名古屋では29人でした。天主に感謝!
【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo and the amounts of donations received and payments made. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 106 including children.
09:00 mass
M: 34 (incl. 8 children)
F: 33 (incl. 8 children)
Total: 67 (incl. 16 children)
11:30 mass
M: 25 (incl. 1 child)
F: 18 (incl. 4 children)
Total: 43 (incl. 5 children)
Total of 2 masses (excl. 4 persons who participated in multiple masses)
M: 57 (incl. 9 children)
F: 49 (incl. 12 children)
Total: 106 (incl. 21 children)
聖母の被昇天についての説教
ドモルネ神父 2023年8月15日
私たちは、聖母の被昇天をお祝いします。原罪以降、全ての人間は、死に、そして死んだ後、その体は腐敗することとなっています。被昇天の特権とは、聖母が、その体が腐敗することなしに、その体とともに、天に挙げられたということです。
天主は、被昇天の特権を、なぜ聖母マリアにお与えになったのでしょうか?その理由は、聖母の無原罪の御宿りでした。被昇天の特権は、無原罪の御宿りの特権の論理的な結果です。実に、死と体の腐敗は、原罪の罰です。天主がアダムに対して次のようにおっしゃったのは、原罪の結果としてでした。「ひたいに汗して、あなたは、かてを得るだろう、土にかえるまで。あなたは、土からとられたものだから。あなたは、ちりであり、ちりにかえらねばならないものだから。」(創世記3章19節)聖母は、原罪から守られたため、原罪の罰を受けられる必要がなかったのです。
聖母の被昇天をお祝いすることは、聖母が天国の栄光と幸福に入られたことをお祝いすることです。次の質問について考えてみましょう。聖母が天国の栄光に入るに値するお方であったのは、聖母の無原罪の御宿りのためでしょうか?そうではありません。もしそうであるとしたら、聖母以外、誰も天国に行かないことになってしまいます。聖母が天に挙げられたのは、聖母の御生活における特別な出来事のためでしょうか?そうではありません。福音によれば、聖母の地上での御生活はごく普通のもので、大多数の人々の生活と似たものでした。ですから、皆さんの中のお母さんや奥さんのように、聖母も、何十年にもわたって、ナザレトの町で、妻と母としての日々の家事をなさいました。皆さんのご家族と同じように、聖母も、家庭生活の喜びを経験され、家庭内の義務を果たされたのです。皆さんの中には突然の試練に見舞われた方がいらっしゃるように、聖母も、突然の試練に見舞われたのです。エジプトへの逃避のことを思い出してください。皆さんと同じように、聖母も、友人たちと喜びを分かち合われました。カナの婚姻のことを思い出してください。皆さんの中には他の人たちからの迷惑に耐えなければいけない方がいらっしゃるように、聖母も、そのような迷惑を被られなければなりませんでした。例えば、イエズスの従兄弟たちがイエズスに対して見せた敵意は、イエズスの御母にも向けられたことでしょう。皆さんの信仰が試されるように、聖母の信仰も試されました。神殿でイエズスを見失しなった時のことを思い出してください。皆さんの中には、肉体的に、あるいは精神的に苦しんでおられる方がいらっしゃるように、聖母も苦しまれました。御受難の時の恐ろしい苦しみのことを思い出してください。皆さんと同じように、聖母も、慰めや、霊的な啓蒙を受けられました。聖母のマグニフィカトを思い出してください。要するに、聖母の地上での御生活は、私たちの生活とよく似たものだったのです。聖母が天に挙げられたのは、聖母の一生における特別な出来事のためではなく、聖母が天主の御母であったからでさえありませんでした。では、なぜだったのでしょうか?聖母がご自分の一生を送られた、そのなさり方のためです。聖母マリアは、全てのことを、天主への愛のためになさいました。これこそが、聖母と私たちの違いです。
聖母の唯一の願いは、天主が求められる全てのことにおいて、天主をお喜ばせすることでしたが、それに比べて私たちは、しばしば利己的に行動し、自分のわがままを通します。聖母マリアは、全てのことにおいて天主の栄光のみをお求めになりましたが、私たちはしばしば、自分自身の栄光を求めます。聖母マリアは、全ての物事を、それが最も単純なことであっても、完全になさいましたが、私たちはしばしば、物事をするのに失敗してしまいます。聖母マリアは、信仰と忍耐をもって試練に立ち向かわれましたが、私たちはしばしば、試練を嫌がってしまいます。聖母マリアは、すべてのことについて天主に感謝し続けられましたが、私たちはしばしば、感謝するのを忘れてしまいます。聖母マリアは、いつも節度をもって、地上のものをお使いになりましたが、私たちはしばしば、過度に物事にふけってしまうのです。
聖母を忠実に真似ようとした幼きイエズスの聖テレジアは、こう言いました。「私は、深い喜びをもって、ナザレトでの聖母の御生活を黙想して、聖母を私の模範と決めて、何も特別なことはないものの、とりわけ小さな、単純な、隠れた徳の行いを完璧になす、という道を、聖母の模範に従って歩んだのです。私は、聖母マリアのことが大好きでした!私は、聖母について教える司祭になって、福音が私たちに垣間見せてくれる、聖母の本当の、そして私たちにも真似ることができる御生活を、人々に示したいのです。それは、聖母の無原罪の御宿りや天主の御母としての特権にもかかわらず、すべてが単純さと愛と信仰からなる聖母の御生活が、私たちの生活と似たものだったからです。」
結論
親愛なる信者の皆さん、被昇天をお祝いすることが、私たちのうちに、聖母マリアととともに天国に行く望みを起こさせることでしょう。聖母とともに天国に行く望みが、私たちのうちに、聖母にならって、すべてのことを天主への愛のためにする望みを起こさせることでしょう。幼きイエズスの聖テレジアは、私たちに次のことを勧めます。それは、良心の究明を細かくしすぎて時間を無駄にしないことや、自分自身のことをいつも気にしすぎないことです。自分の欠点や過去の怠慢を謙遜の目で見つめて、それを私たちの天の御父の慈しみ深い愛にお任せしましょう。最も大事なことは、私たちの人生のあらゆる場面において、私たちの主イエズス・キリストをもっともっと愛するよう努めることです。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2023年8月20日は聖霊降臨後第12主日でした。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第12主日の説教」の動画をご紹介いたします。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父
恩寵についての説教
ドモルネ神父 2023年8月13日
はじめに
今日の福音と書簡は、私たちの霊魂に対する天主の働きについて、言い換えれば、恩寵について語っています。福音の中で、私たちの主イエズスは、耳が聞こえず話すことのできない人の耳を開かれ、舌のもつれを解かれます。この体の癒やしは、霊魂の癒やしを象徴しています。イエズスは、霊魂が天主の愛の呼びかけを聞いて、それに答えられるようにしてくださいます。書簡の中で、聖パウロは自分への天主の働きについて、こう語っています。「天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)。今日は、恩寵について、特に、助力の恩寵についてお話ししようと思います。
恩寵という概念
私たちの存在の目的は、天主の命と幸福に永遠にあずかることです。天主の命にあずかることを、私たちは「超自然の命」と呼びます。なぜなら、それは人間の本性を超えた命であるからです。私たち自身の意志や力では、それに到達することはできません。超自然の命には、超自然の手段によってしか到達することができません。なぜなら、手段は目的に合っていなければならないからです。天主が私たち人間の命に天主の命を接ぎ木し、私たちを天国の栄光へと準備するのに使われる手段は、恩寵と呼ばれます。
恩寵とは何でしょうか。恩寵とは、まず何よりも、超自然の賜物です。なぜなら、天主には恩寵を与える義務はないからです。第二に、恩寵とは、天主だけが私たちに与えることのできる賜物です。なぜなら、天主の命に与る手段を私たちに与えることがおできになるのは、天主だけだからです。最後に、恩寵とは、私たちの主イエズス・キリストの功徳によってのみ、天主が私たちに与えてくださる賜物です。天主がアダムとエワを創造されたとき、天主は二人に恩寵を与えられましたが、二人は原罪によって恩寵を失いました。そのとき以来、恩寵は救い主の功徳によってのみ与えられてきたのです。このため教会は、祈りの最後に、いつも次のように唱えます。「Per Dominum nostrum Jesum Christum」、「われらの主イエズス・キリストによりて」。
恩寵には2種類あります。成聖の恩寵と助力の恩寵です。成聖の恩寵は、私たちが大罪によってそれを台無しにしない限り、私たちの霊魂の内にとどまります。成聖の恩寵は、天主の三つのペルソナが私たちの霊魂にとどまられるように、私たちが天主との友情の状態にあるようにします。一方、助力の恩寵は、永遠の命に導く善業を行うための一時的な助けです。聖パウロが書簡の中で、「天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)と言うとき、彼は助力の恩寵について述べているのです。
助力の恩寵の必要性
私たちには助力の恩寵が絶対に必要です。私たちの救い主イエズスに回心するためには、助力の恩寵が必要です。私たちの主はこう言われました。「父から与えられた人でなければ、私のもとには来られない」(ヨハネ6章44節)。私たちが天国へ行くための良い行いをするためには、助力の恩寵が必要です。イエズスはこう言われました。「木にとどまらぬ枝は自分で実を結べぬが、あなたたちも、私にとどまらぬなら、それと同じである。私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は、多くの実を結ぶ。なぜなら、私がいないと、あなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章4-5節)。
私たちの霊魂の内に成聖の恩寵を長く保つためには、助力の恩寵が必要です。私たちの主は、私たちにこう言われました。「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈れ」(マテオ26章41節)。また、聖パウロはこう言っています。「私の内に、すなわち、わたしの肉に、善が住んでいないことを知っている。しかし、善を望むことは私の内にあるが、それを行うことは私の内にないからである。私は自分の望む善をせず、むしろ望まぬ悪をしているのだから。…私は何と不幸な人間であろう。この死の体から私を解き放つのは誰だろう。主イエズス・キリストによる天主の恩寵である」(ローマ7章18-25節)。
最後に、死のとき、私たちには、非常に特別で重要な助力の恩寵が必要です。この恩寵を、私たちは最後の忍耐の恩寵と呼んでいます。これは、成聖の恩寵の状態にあることと、死が同時に起こることです。成聖の恩寵の状態で生きている人が、大罪に陥る危険の中にいて、まさにそのとき、死が訪れることがありえます。もし、私たちが大罪の状態にあるときではなく、成聖の恩寵の状態にあるときに、天主が私たちの死を許されるなら、これは恩寵です。これが、私たちに天国を実際に開いてくれる最後の恩寵です。この恩寵はとても重要ですから、私たちは「めでたし」を祈るたびに、童貞聖マリアを通してこの恩寵を求めるのです。「今も臨終のときも、祈り給え。」
次の自問をしてみましょう。「成聖の恩寵もなく、助力の恩寵もない人が、真理を知ることができるでしょうか」。いくつかの自然の真理、すなわち被造世界に関する現実を知ることはできます。例えば、異教徒は、天主の恩寵なしに、数学的法則や生物学的法則を発見することができます。しかし、恩寵の助けなしには、信仰を持つことはできません。
また次の自問をしてみましょう。「成聖の恩寵もなく、助力の恩寵もない人が、善業をすることができるでしょうか」。できます。でも、その人の善業には、永遠の救いに値する価値はありません。ですから、例えば異教徒は、貧しい人に施しをすることはできますが、この行いで天国に値する功徳を得ることはありません。
助力の恩寵の分配
天主からの助力の恩寵を受けずに、天国に行くことは不可能です。聖パウロが言っているように、天主は、すべての人の救いを望んでおられます(ティモテオ前書2章4節参照)。ですから、天主は、すべての人に、永遠の救いを得るのに十分な助力の恩寵を与えられます。例外なくすべての人に対して。
成聖の恩寵の状態にある人々に、天主は、天主と教会のすべての掟を果たすのに十分な恩寵を与えられます。聖パウロはこう言っています。「天主は忠実であるから、あなたたちの力以上の試みには遭わせ給わない。あなたたちが試みに耐え、それに打ち克つ方法をも、ともに備え給うであろう」(コリント前書10章13節)。
大罪の状態にある罪人に、天主は、償いを行うことができるのに十分な恩寵を与えられます。天主ご自身が預言者エゼキエルを通してそう言われました。「私は悪人の死ではなく、むしろ、悪人がその道を改めて生きるようにと望む。悪人たちよ、道を改め、その悪い生き方を変えよ。…悪人でも、悪を捨てるなら、その悪のために滅びることはない」(エゼキエル33章11-12節)。
不信心者、ユダヤ人、異端者、離教者にも、天主は、救いを得るのに十分な恩寵を与えられます。聖トマス・アクィナスはこう言っています。「森で、異教徒の間で育った人であっても、その人が、自然の法則について自分が知っていることに従い、善を求め、悪を避けようとするならば、天主がその人に、内なる霊感によって、信じるために必要なことを伝えられるか、あるいは、天主がペトロをコルネリオに遣わされたように、その人に信仰を教える人を遣わされるかのどちらかであることは、非常に確かな真理として、私たちが信じるべきことである」。
最後に、洗礼を受けずに死ぬ子どもたちにさえも、天主は、救いの手段をすべて用意しておられます。このような子どもたちがこれらの手段を使えないとすれば、それは、何らかの自然の原因のせいであって、天主は、それを奇跡によって防ぐ義務は負っておられないのです。
結論
親愛なる信者の皆さん、天主は、私たちが善を行い、誘惑に抵抗するのに十分な恩寵を、いつも私たちに与えてくださいます。もし私たちがそれに失敗するとすれば、それは私たち自身の過失です。私たちがこれらの恩寵を求めることを怠ったか、怠慢や悪意から恩寵を拒んだかのどちらかです。ですから、朝の祈りのとき、活動を始める前、試みのとき、決断を下す前に、これらの恩寵を求めるようにしましょう。また、天主がいろいろな時に私たちに送ってくださる良い霊感に、確実に従うようにしましょう。私たちが聖性において進歩するのは、これらの恩寵に忠実であることによるのです。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
昨日の8月22日は、日本の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日でした!
暁の星の聖母の修道院では、一日遅れましたが、ミサの直後に聖ピオ十世会日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈りを更新しました。
さて2023年8月20日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計90人でした。大阪では35人でした。
札幌のミサでは、8月18日(金)の夕方のミサには20人が、8月19日の9時のミサには25人が参加されました。
【主の至福の喜び(mirth)】
8月にリスボンで行われたワールドユースデイ(世界青年の日)での踊りと陽気な笑いのニュースに触れているとき、友人がチェスタートンの「正統」という本の有名な一節を引用して私に紹介してくれました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご紹介いたします。
「喜びは異教徒の小さな宣伝であったが、それはキリスト者にとっては巨大な秘密だ。私がこの混沌とした本を閉じつつ、キリスト教の全ての源流となったかの奇妙な小さな本を私は再び開いた。すると私はまたもやある種の確認に取りつかれるのだ。福音書を満たしているこのとてつもない人物は、この点においても、他のあらゆる点においても、これまで自分を気高い人間だと考えていたすべての思想家の上にそびえ立っている。
彼の哀愁は自然で、ほとんどさりげなかった。禁欲主義者らは、古代でも現代でも、涙を隠すことを誇りにしていた。彼は決して涙を隠さなかった。日常的に目にする光景、たとえば生まれ故郷の遠くの景色でも、彼はその開いた顔にはっきりと涙を見せた。しかし、彼は何かを隠していた。
荘厳な超人や帝国の外交官は、怒りを抑えることを誇りとする。彼は決して怒りを抑えなかった。神殿の正面の階段から家具を投げ落としたり、地獄の責め苦からどうやって逃れようとするのかと人々に尋ねたりした。しかし、彼は何かを抑制した。
畏敬の念をこめて言う。あの強烈な人格の中には、内気と呼ばなければならない糸があった。祈るために山に登ったとき、彼はすべての人から隠した何かがあった。突然の沈黙や衝動的な孤立によって絶えず覆い隠していたものがあった。天主が私たちの地上を歩かれたとき、あまりにも偉大で、私たちにお見せになれなかったものがあった。私は、それは主の至福の喜び(mirth)だと時に思った。」
【舟越保武】「天声人語」の記事「像に重ねた父の顔」(2023年8月21日)のことを友人に教えてもらいました。ご紹介いたします。
盛夏の長崎に、日本二十六聖人殉教記念碑を訪ねた。426年前、秀吉の禁教令で26人が処刑された地だ。急な坂道を上ると、殉教者のブロンズ像が並ぶ記念碑が見えた。一番右がフランシスコ吉(きち)。京都の大工で、長崎への道中に自ら望んで殉教者に加えられたと伝わる
▼つくったのは戦後を代表する彫刻家の舟越保武で、1962年の完成まで4年半をかけた。文献を調べ、芸術家生命を賭ける覚悟で没頭したという。「断腸記」と題した随筆で、フランシスコ吉への特別な思いを書いている
▼この聖人像には20番目に取り組んだ。完成したとき、30年前に亡くなった自分の父に顔が似ていると気づいて涙が流れたという。岩手出身の熱心なカトリック信者だった父に、生前は激しく反抗した。その罪悪感と悼む心が、像を似せたのではないかと自己分析している
▼なぜフランシスコ吉だったのだろう。炎天下で汗をふきつつ、右端の像を眺めて考えた。手を合わせて祈る表情は、どこまでも穏やかだ。後から追加されたという特殊な事情が作り手の心に残ったのか
▼舟越の長女の末盛千枝子さん(82)は、作品を送り出した後の光景を覚えているという。「がらんとしたアトリエで、父が母の着物にエニシダの絵を描いた。除幕式で着られるようにと。心血注いだ特別な作品でした」
▼舟越が亡くなったのは21年前の2月5日で、聖人の処刑日と同じだった。長崎では毎年その日、殉教記念ミサのために多くの人々が記念碑の前に集う。
【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's Sunday masses. The total number of attendees at today's Sunday masses in Tokyo was 90 including children.
09:00 mass
M: 30 (incl. 5 children)
F: 29 (incl. 7 children)
Total: 59 (incl. 12 children)
11:30 mass
M: 21 (incl. 1 child)
F: 17 (incl. 2 children)
Total: 38 (incl. 3 children)
Total of 2 masses (excl. 7 persons who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 6 children)
F: 44 (incl. 9 children)
Total: 90 (incl. 15 children)
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
8月18日(金)午後6時 19日(土)午前9時 には、札幌で聖伝のミサが予定されています。場所は北海道青少年会館 Compass 研修室5 です。
予約は必要ありません。どなたでも自由にご参加できます。
https://hs-compass.com/
8月18日(金)18:00よりミサ聖祭
8月19日(土)09:00よりミサ聖祭
これに伴い、明日(8月18日金曜日)と明後日(8月19日土曜日)には、修道院ではミサはありません。ご了承ください。
2023年3月5日四旬節第二主日 東京での説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、四旬節第二主日を祝っています。
お知らせです。四旬節の時に教会は復活祭の義務を思い起こさせる習慣があります。
復活祭の義務というのは、私たちが年に一度少なくとも年に一度、復活祭の頃御聖体を拝領し、年に一度、告白の義務を果たすということです。ことに教会の習慣では、四旬節の間に告解の義務を果たして、復活祭の時によい聖体拝領をするという習慣があります。良い復活祭の義務を果たしますように準備いたしましょう。
【主の御変容】
先日の主日、四旬節第一主日は、私たちの主が四十日間お祈りと断食をして、主の受けられた誘惑を一緒に黙想しました。主の厳しいお姿を見て、主とともに、恵みの時に救いの時に入りました。これは私たちが主を真似て、この主の模範に従って祈りと償いをすること、また誘惑の時においても主に倣うことができるためでした。
ではいったいこの祈りと償いの生活はどこに行くのでしょうか、どこに繋がっていくのでしょうか。今日、四旬節第二主日は、その目的地を私たちに示そうとされます。主の栄光のお姿、つまり御変容を一緒に黙想しようと招いています。
タボル山の山頂で招かれた三人の使徒たち、ペトロとヤコボとヨハネ、この三人の前で、主の御姿は変わりました。御顔は太陽のように光輝いて、服は雪のように真っ白くなりました。すると突然モーゼとエリアが姿を現しました。シナイの山で十戒を受けて、私たちに律法を与えたモーゼ。また生きているうちに火の車によって天に挙げられた預言者の代表であるエリア。この二人が現れて主と共に、エルサレムで主を待っている主の御死去について話をします。すると御父は、タボルの山の山頂で光り輝く雲の中から声を響かせます。「これは私の愛する子である、彼の言うことを聞け。」
今日、この御変容の神秘を一緒に黙想いたしましょう。主が光り輝いた!いったいなぜ? モーゼとエリヤが現れたこと、いったいなぜ? 天の御父の声が雲から聴こえたこと、いったいなぜ? 私たちに一体何のかかわりがあるのでしょう? 黙想して遷善のよい決心をまた新たに致しましょう。
今日のこの黙想は特に復活の徹夜祭で洗礼を受ける求道者の方々、そしてまた復活祭を待っている、そして遂に究極の復活を待っている私たちにとって、とても必要な黙想です。
【いったいなぜ主は光り輝いたのか?】
主は光り輝いてお姿を見せました。これは私たちに、ついには主のようになるという模範を見せて、私たちに希望を与えるためでした。聖マテオの福音をご覧になると、この御変容の直前に主は弟子たちにこう言われていたのでした。「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。…人の子は、父の光栄のうちに、その天使たちとともに来て、その日、めいめいの行ないによって、むくいを与えるだろう」
ちょうど私たちが山を登るときに「ああ、あの山頂に上るんだ」と目的地を目指して「あそこまで頑張ろう!」というように、苦しみの道を予告したのちに、主は目的地をもはっきりと示そうとして、ご自分の体を御変容させます。御復活の後に、エマウスの弟子たちに言われた通りです。「キリストは苦しみを経たのちに、栄光に入るはずではなかったか。」使徒たちも、主の御復活の後にこう言っています。使徒行録を読むとこう書いています。「私たちは多くの苦しみを経て、天主の国に入らねばならない」
ということは、祈りと償い、これは目的ではないということです。その目的は私たちの栄光であって、祈りと償いというのは、手段に過ぎないということです。つまり、私たちのこの地上の世界は、手段に過ぎなくて、到達する目的地は別なところにあるということです。
聖パウロはこう言っています。「キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受ける、…今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならない」
ですから今日は、教会は聖パウロの言葉をこの言葉を引用しています。「実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となることである。あなたたちが呼ばれたのは不潔のためではない、聖となるためである。」私たちが聖となるために、聖なる者となるためにも、主エズス・キリストは、私たちの真似るべき道であって、究極の完成図です。目的です。
イエズス・キリストの御顔の輝きは、御自分の将来の輝きを予告していました。服の輝きは、諸聖人の将来の輝き、復活後の輝きを意味していると、聖トマス・アクィナスは言います。ちょうど雪の輝きが太陽の輝きに由来するように、諸聖人の輝きもキリストの輝きに復活に由来するからです。キリストの光り輝く栄光は私たちの将来の姿として私たちに大きな希望を与えてくれます。
【なぜモーゼとエリヤが現れたのか】
モーゼとエリアが現れたことは、私たちに信仰を与えてくれます。信仰を強めてくれます。なぜかというと律法と預言というのは、キリストの予告でした。キリストの影でした。キリストの前兆でした。イエズス・キリストにおいて、すべての律法は完成します。全ての預言はイエズス・キリストにおいてまったく全てひとつ残らず成就しました。イエズス・キリストこそが来るべきお方である、まことの救い主である、と、すべてが指さしているわけです。何百何千という預言と律法が、イエズス・キリストを指し示しているわけです。ですから、モーゼとエリアが現れて、この方こそ、私たちが預言していた前兆となっていたお方であると、証言しなければなりませんでした。イエズス・キリストは命と死とに対する力を持っていました。生けるものと死せるものとを裁くお方です。ですから、すでに死んでいたモーゼが、また生きたまま天に挙がったエリヤが特に選ばれて、イエズス様の証人となることは当然でした。ちょうど枝の主日に、イエズス様の前にいた人たちも、後ろを歩く人たちも行列をして、棕櫚の葉をもって「ダヴィドの子にホザンナ」と言ったように、キリストの前に生きていたモーゼとエリアが、あるいはキリストの後に来た使徒たちも共にキリストの証人となって、キリストの栄光の証人となるべくでした。
ところで、モーゼもエリアも栄光に満ちていましたが、それはイエズス・キリストの予告だったからです。イエズス・キリストを現すイメージだったからです。イエズス・キリストを指し示すかぎりにおいてのみ、価値があったからです。イエズス・キリストの栄光を輝きだしていたからです。ですから、モーゼとエリアの栄光は、すべてキリストに由来するものでした。
モーゼが死の危険を冒してまでファラオに対立してイスラエルの民をエジプトから救い脱出させたこと、これはイエズス・キリストを指し示していたからです。前兆だったからです。モーゼが砂漠の土地を放浪していた時に空から降るマンナで民を養ったのも、御聖体を意味していたからです。エジプトを脱出するときに過越しの子羊を屠ってその祭りをしたのも、それに意味があったのも、イエズス・キリストの来るべき復活の過越しを意味していたからです。
もしもエリアがアカブ王に対立したとしたら、そして偶像崇拝を非難したとしたなら、これはイエズス・キリストを意味するためでした。使徒たちも同じです。使徒たちもイエズス・キリストとどれほど親しいかに従って、どれほどイエズス・キリストの教えに忠実だったかに従って、この地上でまた来世で栄光を受けます。私たちも同じです。
【なぜ御父の声が聴こえたのか】
ではなぜ御父の声が聴こえたのでしょうか。それは私たちの信仰を強めるためです。なぜかというと、御子イエズス・キリストを指し示して「これこそ私の愛する子であると、彼に聴け」と、これこそが真理だと、これこそがおまえたちの待っていたものだと、真理御自身が、御父が宣言するのですから、これ以上確かなことはありません。
またこの御父の声は私たちの希望をも強めるものです。なぜかというと、イエズス様が御変容になったのは、将来私たちもこうなるという予告だったからです。そして御父の声が聴こえたのも、私たちも同じことが言われるという予告だったからです。つまりイエズス様が言われたように、御父も私たちに「お前たちは私の愛する子である」と確実におっしゃるということです。
イエズス・キリストがこの声を聴いたのは二回ありました。洗礼を受けたときと御変容の時です。私たちも二回聴きます。私たちが洗礼を受けた時、私たちは信仰の声によって「天主の子となった」そのことを確実に知ります。そして私たちが復活する時、栄光の体に輝いた時に、もう一度天主御父は言います。本当に確実に私の愛する子となった。
【遷善の決心】
では、遷善の決心をたてましょう。私たちも、三人の使徒たちのように御変容に招かれています。多くの人類の中から選ばれました。聖伝のミサ、つい最近は多くの荘厳ミサ、司教様の堅振式、そのミサ、その主の栄光を垣間見ました。もちろん主の栄光をそのまま直接見るというよりは、教会の儀式を通したというベールを通して、私たちはそれをすこしだけ垣間見た思いです。御聖体を跪いて礼拝しながら受けるという栄光も受けます。主のすぐ近くに招かれています。また時には、特別のお恵みによって、主が私たちを本当に愛しているんだなあということを、いろんなすべての御摂理がそのことを私たちに教えています。なぜ私にこんなようなお恵みが与えられたのか。主の光り輝く聖性、聖徳の美しさを見て、私たちもその栄光に招かれているということをひしひしと感じています。
そればかりではありません。このミサに与りながら、旧約のすべての預言が主を指し示す前兆であって予告であって、また使徒たちの声は主の御声の反映であるということ、教会の教えをますます深めています。また私たちが秘跡を受けている時、特に洗礼を受けたとき、天主御父は私たちにお前たちこそ私の愛する子であると、おっしゃったのを信仰の耳で、聞きました。ですからこのご変容の玄義のなかに深く入りつつ遂にはこの主に似通ったものへとなるという希望と、私たちの主イエズス・キリストこそ真の救い主であるとの信仰を確固たるものといたしましょう。ですから主を見倣って、私たちを待っている栄光ある復活をいつも見定めていることができるように祈りましょう。
主と栄光を共にするためには、この地上での生活も共にしなければなりません。四旬節はその訓練です。私たちも主と共に断食を行いましょう。食べ物の断食もそうです。インターネットやテレビやコンピューターゲームやあるいはその他、目に入れてはならないものを断食する。あるいは悪い習慣を立つという断食、目や耳や口、手、足の断食を主と共に行いましょう。四十日間主は砂漠で、罪の無いお方であったにもかかわらず、厳しい生活を送ります。私たちがそれを倣っていったいなぜ不都合でしょうか。主は四十日間主の御名が尊ばれることを聖とされることを祈っていたに違いありません。私たちも主と共に主の御名が尊ばれるように黙想して、祈り、霊的読書に励みましょう。また主は厳しい生活をして償いをも果たされました。
この世を見ると、イエズス様の聖心を悲しませる多くのものが宣伝されています。スポンサーがついています。LGBT運動や家族を崩壊させるような事々、あるいは堕胎、不敬な言葉、キリスト教の聖徳に反するようなものが世の中で広がるような運動があります。無関心や冷淡もあります。私たちはこれらの罪をイエズス様と共に償う四旬節と致しましょう。
そしてマリア様に最後にお祈りいたしましょう。マリア様の御取次で私たちがよい四旬節を、そしてこの地上での生活を聖なる者として送り、そして父から「これこそ私の愛する子である」ということを確実に決定的に聴くことができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2023年8月13日は聖霊降臨後第11主日でした。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第11主日の説教」の動画をご紹介いたします。
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天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2023年8月6日は主の御変容、聖霊降臨後第十主日でした。
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天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父
【参考情報】ミュラー枢機卿、バチカンがフェルナンデス大司教について警告のファイルを持っていることを認める
2023年7月28日
Cardinal Müller Confirms Vatican Had File Warning About Archbishop Fernández
エドワード・ペンティン
【解説】教皇フランシスコは、つい最近、教理省のトップにフェルナンデス大司教を任命した。ところが、アルゼンチン出身のフェルナンデス大司教は、ベルゴリオ枢機卿(将来のフランシスコ教皇)がアルゼンチンにいた時から、婚姻と同性愛に関することで異端の疑惑をかけられていた。ベルゴリオ枢機卿はそれでもフェルナンデス神父(当時)をカトリック大学の学長と任命しようとした。フランシスコ教皇は、教皇になると同じフェルナンデス神父を、信仰の正統性をチェックせずに、司教と任命し、今回は教理省の長と任命した。
【エドワード・ペンティン―バチカン市国】ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、バチカンの教理省が、教皇フランシスコが(今月)教理省のトップに任命したビクトル・マヌエル・フェルナンデス大司教に関する神学的懸念を含むファイルを持っていたことを認めた。
このファイルは、ブエノスアイレスのホルヘ・ベルゴリオ枢機卿が2009年に当時のフェルナンデス神父をアルゼンチンの教皇庁立カトリック大学の学長に任命した時のものであることが、第二の教会の情報源によっても確認されている。
フェルナンデス大司教は7月5日付の「レジスター」へのコメントで、このファイルの内容を軽視し、自分の著作に基づく「告発」に関するバチカンの懸念は「さほど重要なものではなかった」と述べ、バチカン当局者との手紙のやり取りで、自分の「本当の考えを明らかにした」後、「すべては穏やかに解決された」と述べた。
教皇フランシスコは7月1日、教皇の側近の助言者の一人であり、フランシスコの使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Laetitia)の最も論争となっている箇所の起草者とされているフェルナンデス大司教を教理省長官に任命した。大司教は、すでに発表されていた9月中旬の開始予定から前倒しされ、8月に就任する。
ミュラー枢機卿は2012年から2017年までこの部署(旧教理省)の長官を務めていたが、7月4日付の「レジスター」は、このファイルはベルゴリオ枢機卿が当時のフェルナンデス神父を大学の学長に推薦した後、当時のカトリック教育省次官だったジャン=ルイ・ブリュゲ大司教によって2000年代後半のころに作成されたものだと書いている。
このファイルの目的は、教理省に十分な情報を提供し、カトリック大学の新学長の必要条件の一つである「nihil obstat」(障害なし)宣言を授与するか保留するかを決めることだった。
ミュラー枢機卿は、「教理省は、常に決定的な言葉を与えることに関与している。従って、カトリック教育省は、正式な『了承』を与える際に、このような任命に問題がないことを、教会が絶対的に確実であるように、教理省に『nihil obstat』を求めなければならない」と言う。
このファイルの内容のために、当時のウイリアム・レバーダ枢機卿が率いる教理省は、懸念が解決されるまで「nihil obstat」の交付を遅らせた。
そのため、フェルナンデス神父が就任宣誓を行うことができたのは、非公式の学長就任から2年半後の2011年5月のことだった。それは、彼の神学的見解の一部について、ファイル内で継続的な懸念が提起されていたからである。
ミュラー枢機卿は「レジスター」に対し、ファイルが存在するにもかかわらず、フェルナンデス神父が教理省に「より良く行うことを誓う」手紙を送った可能性があることを強調し、これは「疑念を払拭するための、このようなことの常套手段だ」と付け加えた。
フェルナンデス大司教は、そのようなアプローチを取ったようだ。彼は、「レジスター」に対して、2009年に学長に任命された後、自分が書いたいくつかの記事が「ローマに届き」、「その瞬間から手紙のやりとりが始まり、その中で私は自分の本当の考えを明確にし、すべてが穏やかに解決された」と語った。
「ローマの仕事のペースでは一年以上かかったが、告発はそれほど重いものではなかったことを明確にしておきたい」と彼は語った。「例えば、彼らは私がアルゼンチン内陸部にある私の街の小さな新聞に書いた半ページに疑問を投げかけた。そのページで私は、私たち司祭は、結婚に対する一定の観念を持っているため、同性愛者の結合を祝福することはできないと説明した。しかし、それにもかかわらず、私たちは人々を裁いたり、非難したりはしなかった」。
フェルナンデス大司教は続けて、「告発者たちは、私が結婚についての教会の理解を十分に説明していないと言った。信じられないかもしれないが、このことに私は、数カ月の時間を取られた」」と述べた。
彼は付け加えて、自分は「この問題の専門家ではない」と説明したため、この件に関する訂正記事を発表することが「必要または適切」とはみなさなかったと述べた。一般的に「神学者は、私たちが専門にすることができたテーマについて記事を書こうとする」と彼は言った。
フェルナンデス大司教は7月3日、アルゼンチンのラジオ局「Perfil」とのインタビューで、教理省がかつて異端審問の検邪聖省であったことを思い出しながら、教理省は「私のことさえ調査した」と述べて、この経験を振り返った。彼は、そのプロセスは「実に腹立たしいもの」であり、自分自身を正当化するために「無意味なことに何カ月も費やした」と語った。
フェルナンデス大司教は、物議を醸している同性愛関係にあるカップルの祝福について、引き続き意見を述べている。彼は7月5日、スペインのカトリックウェブサイト「Infovaticana」に対し、男女間の「厳密な意味」での「結婚」に匹敵するものはなく、「その混乱を助長するような儀式や祝福を避けることが、取るべき最大の注意点である」と述べた。しかし、彼はこうも付け加えた。「今、もし祝福がそのような混乱を引き起こさないような形で与えられるのであれば、それは吟味され、検証されなければならない。お分かりのように、言いたいポイントは、私たちは純粋に神学的な議論を離れ、もっと賢明で規律的な問題に移っているということだ」と。
彼はまた、インタビューで、教会の教理を変えることはできないものの、教理に対する「私たちの理解」は変わり得るし、「事実、それは変わった、これからも変わり続けるだろう【ソノママ!】」と述べた。
フェルナンデス大司教は、バチカンの懸念が取り除かれたのは、ベルゴリオ枢機卿からの圧力によるものではないと述べた。「彼は、私に送られた質問に私が答えれば、遅かれ早かれすべてが解決するだろうと確信していた」。
しかし、ブリュゲ大司教にとっては反響があったようだ。教皇フランシスコは、彼が2012年から2018年まで、聖なるローマ教会の記録係兼司書――18世紀以来その地位に就く人は枢機卿である権威ある役職――を務めていたにもかかわらず、このフランス人高位聖職者を枢機卿にすることはなかったからだ。
教皇フランシスコは教皇に選出された2カ月後、フェルナンデス神父を大司教に昇格させたが、当時はミュラー枢機卿が長官であった教理省には報告しなかった。教皇には司教を任命する前に教理省に「nihil obstat」を求める義務はないが、ミュラー枢機卿は、候補者が教理的に健全であることを確認するため、通常はそうすると言っている。
教皇フランシスコは、フェルナンデス大司教の任命に際しての書簡の中で、フェルナンデス大司教の下にある教理省が、フェルナンデス大司教自身が受けていたのと同じ程度に神学者の正統性を精査することはもうないだろうと示唆しているように見えた。
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2023年3月4日四旬節の四季の土曜日 修道院での説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は四旬節の四季の土曜日ですが、初土曜日でもあります。
今日ミサの直後に御聖体降福式をして、初土の信心をいたしましょう。
今日は福音では、主が御変容をされた様子が読まれました。
ペトロとヤコブとヨハネの前で高い山に登って、タボル山に登って、姿が太陽のように変り、服は雪のように変ります。それは、弟子たちの信仰を強めるためでありました。また、弟子たちの希望を失わせないためでした。特に、これから主が受難を受けなければならない、その時に決して彼らが希望を失ってはならない、というためでした。
ちょうどこの三人はゲッセマニの園にいるときにも選ばれる人々でした。
ゲッセマニの園とタボル山とでは非常に共通点があると、教父たちは指摘しています。この二つの場所で、主は祈られた。この二つの場所で、主は変容された、一つは栄光の姿に、一つは苦しみの姿に。御変容の時も、三人の弟子たちが選ばれた。また同じゲッセマニでも、同じ三人が選ばれた。御変容では、主はモーゼとエリヤとがご出現を、ゲッセマニのときには天使たちが、主を支えた。それをこの御変容の時に、聖ペトロはあまりにすばらしいので主のために幕屋を作ることを提案します。またモーゼとエリヤの姿も非常に栄光に満ちていたので、主の栄光のようだったので、三つの幕屋を作ろうと提案しました。
聖アウグスチヌスによると、聖ペトロはここですこし賢明さが足りなかった、と指摘しています。
なぜかというと、モーゼとエリヤの栄光というのは、イエズス様が持った栄光を持っているのであって、つまりイエズス様がいたからこそ栄光があるのであって、それ以外には何もないからだ。もしもモーゼが、栄光に満ちているのならば、それはイエズス・キリストの前兆であって、イエズス・キリストに似通ったものであったから、イエズスに似通れば似通るほど栄光があった。エリヤも同じだ。
もしもイエズス様と離れてしまっては、彼らには栄光などはなかった。使徒たちも同じだ。使徒たちも、イエズス・キリストの弟子であるから、イエズス・キリストの教えを教えるから、イエズス・キリストの権威を持っているからこそ、栄光があるのであって、それ以外では何もない。
だから、造るべき幕屋はイエズス・キリストだけがお持ちであるべきだろう、と聖アウグスチヌスは言っています。
では私たちも、四旬節の中に深く入ることに致しましょう。もしも私たちが、四旬節に祈りと犠牲を捧げるならばそれはイエズス様のように復活の栄光を受けるためです。私たちがイエズス様に似通ったものになればなるほど、より多くの栄光を受けることができます。マリア様に、ぜひこのお恵みを請い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。