Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

麻生首相の所信表明演説

2008年09月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟の皆様、
 今日、産経新聞に掲載されていた麻生首相の所信表明演説を読みました。

 第92代内閣総理大臣、118年の歴史、日本人の苦難と幸福、悲しみと喜び、その歴史の厳粛たる責任感。麻生内閣のメンバーの多くがこの歴史を感じる大臣たち。

 麻生首相は、日本人が明るく、微笑みを絶やさず、悲観しない、勤勉で誠実な民族であるその伝統と歴史を思い起こさせます。

 責任と実行力。目的と手段をはき違えないこと。あら探しは簡単で誰にもできる。文句を言って足を引っ張るのは簡単だ。政局は国民の生活のための政策の合意形成の手段、これを目的としてはならない。

 大変良い印象を受けて読みました。麻生首相のために心からお祈りいたします。

 国家は、天主ではありません。国家は全能ではありません。国家が全てをするべきでもありません。国家は、無駄を省き、政府規模を縮小し、国民の負担を軽減するべきです。

 国家は全能の天主ではないから、私たちは国家を信仰するわけでもないし、国家が希望になるわけでもありません。私たちは、天主を信仰し、天主を希望し、天主を愛するゆえに我が国日本を愛するのです。

 レッセ・フェールの原理に基づく自由主義とフランス革命思想は、主権在民の民主主義を生み出し、それは世界中に広がりました。それは世界中で、矛盾と問題を生み出してしまいました。この革命思想は、天主を無視し、人間の自由と平等を信仰箇条としています。国境もないカネが全てと教えています。

 福祉の問題も、教育の問題も、経済の問題も、医療の問題も、究極は宗教の問題です。主権がどこにあるのかという問題、人間の究極の目的の問題、信仰の問題、権威の問題です。

 従順、貞潔、清貧という福音的勧告に、私たちの主イエズス・キリストの十字架に、本当の問題解決があります。私たち一人一人がこれを受け入れる必要があります。国家の責任だけになすりつけてはなりません。国家は天主でも全能でもないのですから。

 麻生首相のために天主様の祝福が豊かにありますように繰り返しお祈り申し上げます。愛する兄弟の皆様のお祈りもお願い申し上げます。

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会司祭ジョゼフ・ファイファー神父様(Fr J. Pfeiffer)の地獄についての御説教

2008年09月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の司祭、ジョゼフ・ファイファー神父様の地獄についての御説教が、Youtube にアップされていますので、ご紹介致します。

「地獄について」Fr. Pfeiffer - Sermon on Hell (3 of 5)





【付録】
 聖ピオ十世会創立者のルフェーブル大司教様のフォト・ストーリーという動画もご紹介します。

Archbishop Lefebvre - Photo Story



【関連記事】

アルスの聖司祭:アルスの巡礼(一)奇跡と反対:聖ヴィアンネーと聖フィロメナ

2008年09月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


アルスの巡礼(その一)奇跡と反対:聖ヨハネ・ヴィアンネーと聖フィロメナ

 無数の巡礼が、現在生きている人を尋ねて、聖遺物でもあるかのように尊敬することは、聖会史の中にも、あまり例のない出来事だ。ところが、一八二七年から一八五九年までの三〇年間、フランスの片田舎の、さもなくば名も知られてないような、貧しいアルス村でそれが行なわれて、昼夜聖堂の中に人影がたえたことはなかった。

 もちろん、最初に師を慕って、師を尋ねて来たのは、彼が生まれた、ダルディリーや、彼が神学生時代及び助任師祭時代に住んでいたエキュリーや、あるいは、ノエの人びとだった。このように、最初の巡礼は、素朴な田舎者、師の古い知り合いにすぎなかったが、次第に、師の評判は人から人に言いひろめられて、ついには当時フランスの最も学識あり、最も有名な人が師をたずねて、自分たちの霊魂に光明を請い願うようになったのである。

 一八二七年には、ある村人の証言によれば、一日に平均二〇人のよそものがアルスに来たそうだ。一八二八年には、「巡礼が多数であった」と記載されている。

 やがてそのために、定期の乗り合い馬車が付近の停車場とアルス村とを連絡するようになり、師の最後の年(一八五八~一八五九年)には、これらの乗り物を利用して来た人は約八万人に上り、徒歩で来た人は約一二万人くらいあったという。もちろん、アルス村にはこのように多数の旅客を宿泊させる設備がなかった。宿屋もだんだんできて五軒となったが、やっと一五〇人泊れるだけであったので、残りの一部分は近所の百姓家の世話になり、大多数の旅人は教会の門前や、牧場の木陰に野宿をしなければならなかったのである。

 そこにはメダイやコンタツ(ロザリオの数珠)や蝋燭を売る店も出ていた。メダイやコンタツは、師に祝福してもらってみやげにするため、ろうそくは聖女フィロメナの祭壇の前でもやすためであった。ヴィアンネー師の肖像画も売られていた。祈祷書にはさむような小さいものから、額面用の色つきの粗末な石版刷りまで。師はなんびとが求めても決して肖像画をえがくためにモデルとなることに応じなかったから、それらのものは、あまり似た出来映えではなかったが、それでも人々は喜んでそれを記念に買って帰った。

 ヴィアンネー師は「霊魂のために囚人となった」のである。そしてこの聖なる囚人は、死にいたるまで放免されなかった。

 これらの霊魂は、師の告解場にひざまずいて、良心の煩悶を師に打ち明けて、罪のゆるしを乞うとともに、将来の注意を求め、あるいは、キリスト教的完徳に進もうと欲して、師の有益な助言と、勧告とを願いに来た人々である。しかしながら、中には「生きている聖人」を見に来た物好きな人もあった。

 しかしこの連中も、その大部分は、親しく師の声に接すると、まじめな心に立ち帰って告白をし、改心して家にもどった。ある時、「摂理の家」のカトリン・ラッサイニュが単純に言った。
「神父様、ほかの神父様がたは、罪人のあとを追いかけてお歩きですが、神父様の所には、罪人のほうから追いかけてまいりますわ!」

 師は、この時、超自然的な歓喜にたえずして、同じ単純な調子で、「まあそうだね」と答えたそうである。

 ヴィアンネー師の奇跡の評判が、アルスの巡礼を多くしたのは事実である。いつごろからこの評判が立ちだしたのだろうか?かの小麦と粉との増加の不思議は、比較的早期にあったのだから、この時分からして、人々がそのような噂をしはじめたものらしい。

 謙遜なヴィアンネー師は、自分が尊敬されることを極端にきらった。しかし、そのうちに種々の病人が師のもとに連れてこられるようになった。非常に当惑した彼は、彼がその遺骨の一小片を所有しており、彼が非常に愛していた聖女フィロメナのとりなしに、すべての奇跡を帰して、自分はいわばその影にかくれようとした。

 聖女フィロメナ小聖堂では、肺病や、めくらや、おしや、半身不随の患者がいやされた。師は病の治ることを求める病人に、そこで祈るようにすすめたが、その前に、彼らに熱心に罪を痛悔するように命じた。「それはだめだ」とか、「あなたはそれに値しない」とか、師に言われれば、決して奇跡的に病の治ることはおこらなかった。

 のちに述べる一八四三年の師の重体のすぐ後であった。のどの病におかされて、二年このかた一語も発することができず、ようやく筆談で用を弁じ、そのうえ、のどにたえまない激しい痛みを訴えている婦人が師のもとに来た。

「あなたには地上の薬は役にたたぬ。しかし、天主はあなたを癒そうと思し召しになっています。聖女フィロメナに祈りなさい。筆談の道具を聖女の祭壇の上にのせて、無理におねだりなさい。もし天主があなたに声を返してくださらないならば、聖女の声をゆずってくださいと願いなさい!」

 彼女の祈祷はたちどころに聞き入れられた。

 シャルル・ブラジーという男は、両足が痲痺して、松葉杖にすがらねば歩くことができなかった。ヴィアンネー師は、彼に聖女に向かって九日間の祈祷をしなさいと薦めた。なんの効果も表われない。信仰がたりないのだ。この男はもう一度祈祷をくりかえした。しかし、まだ疑いの心がさらなかった。
「神父様、杖をここにおいて帰ることができるでしょうか?」
「さあ、まだいるだろうよ!」と師は答えた。

 しかしながら、祈祷の日をかさねているうちに、彼の心に信仰がもえだした。満願の日は八月一五日、聖母被昇天の大祝日だった。病人はその日、師のミサ聖祭のあとに、祭器室に身をひきずってやって来た。

「神父様、どうでしょう?今度は杖を聖女フィロメナにさしあげて、よろしゅうございますか?」
「よろしい!」

 この男は両杖を空中にさしあげながら、群衆をかきわけ、聖女の小聖堂に走り去った。両足の痲痺はこの瞬間に完全になおってしまったのだ。

 一八五七年の灰の水曜日に、八才になる男の子を乳母車にのせて連れて来た、身なりのいやしい貧しい母があった。この女は告白をすませてから、ミサのあとに無理に祭器室にはいって来た。そして、子供のために師の祝福を願った。

「この子は抱いて歩くには大きすぎる。さあ、あなたは立ち上がって、子供を床にたたせてごらん!」
「でも、立てませんもの!」
「きっとできる。聖女フィロメナにおすがりなさい」

 師に言われたように、女は子供を床におろして、その手をとって、どうかこうか、聖女の小聖堂まで連れていった。子供はおよそ四五分間ほどそこに跪いて祈っていた。

 母は激しい感動にとらえられて、その間始終涙にむせんでいた。

 すると突然子供は自分で立ち上がって、「おなかがへった!」というと、いきなり母のさし出す手をふりきって、聖堂の入り口に向かってくつ下のままかけて行った。見ると雨が降りだしていた。
「おかあさん、だから靴をもってくれはいいのに!」

 木靴を買ってもらった子供は、大喜びで、他の子供たちと遊びだした。この奇跡はアルスでも大評判になった奇跡の一つだ。

 こんなふうに、奇跡の大多数は、聖女フィロメナのとりなしになっていたが、聖女がくるのがまに合わなくて、ヴィアンネー師が奇跡の現行犯人?となったこともある。

 ある貧しい女が、松葉杖にすがってやって来た。女はあわれみをこうような目つきでヴィアンネー師の顔をみつめた。その気の毒な様子に師は思わず「歩いてごらん!」と言った。師に付き添っていた助任司祭のトッカニェ師も、「さあ、言いつけられたように歩いてごらん」と言った。ほんとうに、女は歩きだした。巡礼の群衆は夢中になった。

「さあ、早くつえをもって、あっちに行きなさい!」とヴィアンネー師は彼女を追い立てるが早いか、自分もまた大急ぎで、あっちに逃げていってしまった。

 ある日、師は自分で話した。
「きょうは実にえらいことが起こってしまった。私は本当に恥ずかしくて、鼠の穴でもあったら、その中にはいってしまいたかった。・・・天主はまた奇跡をなさるので、どうにもこうにも仕方がない。ある女が、目のところに大きなはれもののある子供を私の所につれて来た。そして、私の手をそれに触れると、それが消えてしまったじゃないか・・・」
「こんどは、聖女フィロメナではないでしょうね?」と聞いていたトッカニェ師がつきこんだ。師は暫くだまっていたが、やがて、「やっぱり、それでも何かしてくださったのだろう」と返事をした。

 数千人の病人が全快を望んでアルスに来たのだが、いやされたのは、そのうちの何割あるいは何分だったろう?それはわからない。ただいやされない人が大部分を占めていたことは疑うべくもない。それは今日のルルドでも同じことだ。病気の治癒は最も貴重なたまものではない。病苦に耐える力こそ、よりとうとい天主の賜物なのである。なぜならば、しのぐことを知る霊魂にとっては、病床は霊魂を清めて、人を天主に近づかせる修徳の道場であるからだ。

 ある時、師はひとりの病人に言って聞かせた。
「私の友よ、あなたが治るように祈っていいかどうか私にはわかりません。そんなにりっぱに十字架をになえる肩から、それを取ってしまうのは、惜しいことです!」

 が、しかし、師がかくまでその取り次ぎに信頼し、天国における「彼の代理人」「彼の大使」だと呼んだ聖女フィロメナとは、どのような聖女であろうか?また、なぜ彼は巡礼をこの聖女に対して特に祈らせたのか?

 おかしな事には、聖女フィロメナは、私たちがそれについて、最も知るところの少ない殉教者である。聖女の存在それ自身さえ、全く偶然に(人間の目からみれば)世に知られたのだ。すなわち一八〇二年の五月二四日に、ローマの聖女プリシッラのカタコンプを修理していた一職工が、たまたまある一つの墓を発見したのである。そこにほ、《フィロメナよ、なんじに平安あれ》という簡単な碑銘があって、一四、五才と思われる少女の骨が横たわっていた。その頭のそばには一つの小さいガラスの瓶の破片があった。これは、少女の鮮血の数滴をいれたものに相違なく、初代教会が殉教者を葬る時にした習慣であった。そして、その付近の壁には、三本の矢と二つのいかりと一本のオリーブの枝が描いてあった。われらが聖女に関して知るところはそれだけである。いつの時代の人であるか、いかなる身分の人であるか、いかなる殉教を遂げたのであるか、全く知るよしがない。フィロメナという名さえ、少女の本名かどうかわからない。フィロメナとは「愛する者よ」の意味であるからである。

 千七百年の間、フィロメナは人に知られず、ローマの地底に眠っていた。他の殉教者たちの遺骨は、人びとの尊敬をうけるようになっても、彼女の眠りはさまたげられなかった。地上での彼女の仕事は終わってしまっていたらしかった。彼女の遺骨が発見されてからも、まだ人びとは彼女に注意しなかった。

 三年ののちに、ある若い司祭が自分の司教のおともをしてローマに来た。この司祭は信仰が鈍っている自分の受け持ち教会に天主の祝福をうけるために、この機会を利用して、殉教者の遺骨を持って帰りたいと希望した。最初、彼に与えられたのは、カタコンブからの名まえもわからぬ遺骨であったが、それでは物たりないので、司祭は名の知れている遺骨をこうた。そこで特別の好意によって、三体の名の知れている遺骨の中から、ほしいものを選んでさしつかえないとゆるされた。司祭は単にフィロメナの名に興味を感じてこれを選択した。

 持って行かれた遺骨はナポリで、片手に矢を、他の片手にゆりとパームとを持っている小さな聖像の中におさめられた。そして、ある信心深い婦人が、衣服をつくって、聖像に着せることになった。この婦人が聖像に手をふれるやいなや、たちまちにして彼女の一〇年の持病がなおったのである。聖像がたずさえられて司祭の郷里に向かう途中、行く先先の町で、村で、奇跡はますます盛んに行なわれだした。司祭も、修道士も、貴人も、民衆も聖像の周囲に群がるようになった。そして、ついに教皇も、慣例を破って、信仰のために殉教したことのほかに事跡の知れないこの少女を、聖列に加えた。素性の知れぬ人が、祭壇上に公の栄誉をうけたのは、教会史上、未曾有のことであったのである。

 ヴィアンネー師は、ふとしたことから、リヨンのポーリヌ・ジャリコ(彼女はのちに有名な信仰弘布会を建てた婦人である)から、聖女の遺骨の一小片をもらいうけて、アルスの聖堂の内部に、「聖女フィロメナの小聖堂」を造り、そこの祭壇の上に、殉教のパームを手にして横たわる聖女の像を安置した。

 ヴイアンネー師は、なぜこの聖女フィロメナと特に共鳴したか?聖人伝の愛読者なる師は、大勢の聖人伝や逸話を知っていて、説教をする際にも、たびたびそれを引用した。それなのに、なぜ、師はそれについてなんの知るところもないこの聖女を、特に愛したのか?われらは天主の摂理のすべての理由を知ることができない。しかし、われらの推測を用いて、その幾分かを想像するならば、まず第一に、聖女フィロメナは、ヴィアンネー師の愛してやまない「かくれたる者」であった。聖女に関しては、この世では・・・どのようにして彼女が去ったかということのほかに・・・何事も知られていない。彼女の霊魂が天国において大いなる栄誉をうけている間にも、地上では、天主は彼女を人間の尊敬からかくしたもうた。彼女は存在しなかったも同然であった。しかるに千七百年ののちに、天主は突然多くの奇跡をもって、彼女の「灰」さえ、その御眼にいかにとうときかを示したもうたのだ。ヴィアンネー師は言ったことがある「私たちは聖人にならなければならない。けれども他人にそれをさとられてはならぬ。聖女フィロメナがよいお手本だ」と。

 第二に、アルスの聖司祭は、聖女フィロメナの尊敬が、一に無条件の信仰であることを喜んだのだろう。前にものべたとおり、われらは彼女に関してなんらの人間的、歴史的な知識をもっていない。教会は彼女に対して一つの除外例をもうけたのだ。われらの有するものは彼女の奇跡と教皇のことばのみである。ヴィアンネー師は純粋に天上的な彼女を愛したのである。

 しかし、おそらく一番おもな理由は、ヴィアンネー師が人々の注目をひきだして、それを非常に心苦しく感じていた時に、都合よく聖女フィロメナが出現したことであろう。師は奇跡を行なうようになりだした。もとより彼は、それが天主の大能のあらわれであって、天主がその能力を示さんがために、もっともいやしい道具を用いたもうのだ、ということを知りぬいていた。ただ天主に「いな」と答えて、そのみわざをさまたげないことだけが彼の仕事である。とはいうものの、奇跡は奇跡である。いくら、彼が自分は虚無であると言ったところで、そばの人は承知しない。彼が人々の賞賛をさけることもできないし、また、多少の満足感を覚えないこともなかったであろう。それゆえ、ヴィアンネー師は、これらの不都合をさけるために、なんぴとかの身代わりを要したのである。なるほど、彼の聖堂には、大天使聖ミカエルの聖像も、洗礼者聖ヨハネの聖像もあった。しかしながら、大天使聖ミカエルも洗礼者ヨハネも、久しい以前からそこにいて別に奇跡は行なわなかった。それが急に奇跡を行ないだしたとしたならば、いったい、天国で何事が起こったかと、人々はあやしむに相違ない。しかるに聖女フィロメナであるならば、今ちょうど奇跡を行ないだしたところでもあるし、新奇な聖女の出現に、人気が沸騰している最中である(あきっぽい人間に対しては・・・聖人にもはやり、すたれがある・・・天主はわれらを救ってくださるために、このようにわれらの弱点までも、これを利用したもうのである)ヴィアンネー師はそれで、人目につきやすい肉体的な奇跡を、聖女フィロメナにたのんだものであろう。

 上のような推測はとにかくとして、実際、聖女フィロメナは、ヴィアンネー師とともに、苦しみなやむ巡礼者の祈祷を天主のみ前に取り次ぎ、こい求める奇跡を行なってくれる力づよくやさしい助け手であった。

 しかしながら、聖女とアルスの聖司祭との間には、もっと深い内面的な関係があった。それは、ただの人の前の言いわけだけではなかった。アシジの聖フランシスコと聖女クララ、聖ベネディクトとその妹聖女スコラスチカ、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロとルイズ・ド・マリヤック、その他多くの例があるようにヴィアンネー師と聖女フィロメナとの間には、霊魂の奥ふかくに、神秘的な純潔な愛情がかわされていたのである。フランスの片田舎の村司祭と、千七百年も昔のローマの一少女との間に結ばれた友愛。このような珍しい例は、ほかにない。

 しかし、確かに、聖女フィロメナは、(ダンテにとってベアトリチェがそうであったように)ヴィアンネー師の「ベアトリチェ、彼の理想、彼の星、彼の導き手、彼の慰め手、彼の清き光」であったので、この友情は聖司祭が年老いるとともに、ますます深く、ますますこまやかになっていった。師はある時、カトリンにこのようなことを言った。

「この三晩というものは、私は、ものたりない思いがした。何か空虚がある。聖女フィロメナは、私の彼女に対する思い方がたりないと言って、私を叱っているようだ。私はもう少し彼女に祈ろうと約束した」

 ヴィアンネー師の心の中にあったものは、「熱い、騎士的の愛」であったのだ。彼の心は、人からくるそしりや中傷、たえまなき悪魔の攻撃のうちで、聖女フィロメナによって、どれほどささえられ、慰められたかしれないのである。

(注)教皇ヨハネ二三世は、歴史的に確証のない聖人や、その他の言い伝えに基づいて祝われていた祝日を、教会の典礼から除外した。聖女フィロメナの祝日も同じように除外された。

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【関連記事】

【質問】マグダレナ・マリアの昇天という絵画について

2008年09月29日 | 質問に答えて
アヴェ・マリア!

【質問】
 以前美術展で、”聖マグダレナマリアの被昇天” の絵画をみたことがあるのですが、聖マグダレナマリアは被昇天ではなく、召天ではないかしら?とのお話ありました。ネットで検索すると、”聖マグダレナマリアの昇天”なども出てきます。おしえてくだされば幸いです。

【答え】
こんにちは!
 日本もようやく涼しくなりましたね。ご質問をありがとうございました。
 ご質問を機会に「聖マグダレナ・マリアの被昇天」(Assumption of Mary Magdalene)という絵画があることを知ることが出来ました。

 カトリック教会の聖伝によれば、悔悛女マグダレナの聖マリアは、ユダヤ人のキリスト教迫害の時に、兄弟の聖ラザロと聖マルタと共に船で逃げ、ガリア(今のフランス)のマッシリア(今のマルセイユ)に到着した、そして聖ラザロはマッシリアの司教になり、聖マグダレナのマリアはサントボーム(la Sainte Baume, 男性形で Baume というのはフランス語では香油という意味です、地名ではサント・ボームとは女性形になっています、これはプロヴァンサルの方言で「洞窟 baumo」という意味の言葉から由来しているとのことです)の山の洞窟で苦業の余生を送り、罪の償いの生活を送ったとのことです。


聖女マグダレナ・マリアのバジリカ


 私も神学生時代にマルセイユの近くのラ・サント・ボームに行ったことがあります。聖マグダレナ・マリアの聖遺物の頭部には、その時はもう取れてしまって無くなっていたのですが、数年前までは額にまだ皮膚が残っていて「我に触るなかれ」と私たちの主に言われて、額に指を当てられたときの部分の皮膚だった、という説明を受けました。


Basilica Sainte Marie Madeleine

聖女マグダレナ・マリアの聖遺物


 伝えによると、聖女マグダレナ・マリアの悔悛と苦業・償いの生活が厳しいものだったので、その死後はすぐに霊魂が天使達によって天に召されたとのことです。

 マグダレナ・マリアの場合には、「天に召された」という意味で Assumption は、召天と訳すのが宜しいでしょうね。何故なら、肉体はそのまま地上に残して、霊魂だけが天に召されたのですから。
 天主の御母聖マリア様の場合には、特別に霊魂も肉体も天に上げられたので、被昇天と言います。英語では Assumption です。同じ Assumption でも天主の御母聖マリア様と聖女マグダレナ・マリアとは違いがあります。ですから、本来なら、この言葉は聖母マリア様だけに使うのがよろしいと思います。

The Assumption of Mary Magdalene, 1636  by Jusepe de Ribera
The Assumption of Mary Magdalene, 1636


Assumption of Mary Magdalene, by Jusepe de Ribera, 1636

Assumption of Mary Magdalene By Antolinez


Illustrations from the Nuremberg Chronicle, by Hartmann Schedel (1440-1514)


その他にも、聖女の絵画には次があります。

Mary Magdalene Weeps at Jesus' Empty Tomb, 1927<br>


また、ご質問のをお待ちしています。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ、「ローマ式典礼様式のミサ」)にようこそ

2008年09月29日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

■ 聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ、「ローマ式典礼様式のミサ」)にようこそ!

 愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに歓迎します! 

何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。

何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。

何故なら、新しいミサはエキュメニズムのために作られたからです。

<2008年9月の予定>


【!】9月は少し変則的になっています。【!】

>東京での主日のミサは

最終の主日

午後の1時半からの予定です。

【!】ご注意下さい【!】


 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2008.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。
それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2008, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2008" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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【関連記事】
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 今日経験している教会の危機は典礼崩壊が原因であると、私は確信する。(ベネディクト十六世)

近代主義と呼ばれる異端説の系譜: マルティーン・ブーバー

2008年09月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜としてカトリック思想界にも影響を与えた、マルティーン・ブーバー(Martin Buber, 1878年 - 1965年)の思索を見てみよう。

 ユダヤ人マルティーン・ブーバー(מרטין בובר, Martin Buber, 1878年 - 1965年)の「我と汝・対話」(Ich und Du, 1923)は、人間の存在の最初に関係をおく。技術の世界のような「私 - それ」という関係が、人間関係に入ると、隣人は単なる対象となり物となり手段にすぎなくなる。そこで「私 - それ」という関係に対して、「私 - あなた」の関係は、相互性と対話とを打ち立てる。(よく「私 - それ」は「われ-それ」と、「私 - あなた」は「われ - なんじ」訳されているけれど、そう訳すと日常の言葉使いから離れているので、ブーバーの言わんとした生き生きとした体験における私とあなたという人格の関係よりも、ただ翻訳された頭の中でのことのようなのでブーバーの考えをもっと良く伝えるために「われ - なんじ」ではなく「私 - あなた」と訳した。)

 ブーバーによれば、「私-それ」という関係は、この世界の機能に有益であり必要であるが、「私 - あなた」だけが、人間の究極的な真理を明らかにし、永遠のあなたである天主と人間との関係を開く。

 ブーバーは、天主の十戒の本質は、天主なる私による人間のあなたへの呼びかけ・叫び・問い(Aufrage) --- 「私の前に私以外の神々を持つべからず」 ---- である、という。ブーバーによれば、聖書はこの呼びかけ・問いの経験をもう一度生きることであるという。その意味で「聖書のみ」ではない、常に聖書をよむ私がいる。


【コメント】
 人間は社会的動物であり、他者との関係の大切さを認めなければならない。但し、この関係は、人間を完成の一つにすぎず、人間の人格を構成するものではない。

 既にアリストテレスは、知的生活と幸福を完成させる徳として友情を上げている。アリストテレスは友情を "mutua amatio super aliqua communicatione fundata" と定義した。つまり、何らかの共有の上に立てられた相互の愛情である。聖トマス・アクィナスは、天主の愛徳の共有の上に天主と人間との友情を既に語っている。

 更に、この愛徳を信仰と混同してはならない。天主に対する信仰を信者の天主との対話にすり替えてはならない。つまり、天主が預言者や使徒達に啓示し給い、教会が教える真理という信仰の客観的な内容を抽象して、私の体験・相互関係・出会いに置き換えてはならない。

 また、教会が聖書の正統な解釈を与えていることは真理である。しかし、それは教会が「聖書を知解する主体」であるからではない。カトリック教会が聖書の正統な解釈者であるのは、カトリック教会が聖書の判断者であるからだ。トリエント公会議によれば「聖書の真の意味と解釈を判断するのは、教会に属している」(第4総会)からだ。カトリック教会はこの判断をするために、信仰の別の源泉を使う。それが聖伝だ。聖伝とは、キリストの口ずから、或いは聖霊から、使徒達を通して受け入れられた信仰と道徳の真理、使徒達から私たちに至るまで変えられることなく、手から手へと受け伝えられた真理である(トリエント公会議:第4総会)。聖伝の証人は、教父たちであり、典礼であり、世界中に広がって声をそろえて同じことを教えている司教たちの教導職であり、公会議と教皇たちの教導職である。これらの声は次から次へと出されるけれど、その本質において聖伝は変わることのない同じことを伝えている。
 聖伝が不可変であるからこそ、聖伝が信仰の基準となりうる。不可変である限りにおいて聖伝は、聖書の解釈の基準なのである。聖書の今日の読み方と昨日の読み方は、今日の解釈と昨日の解釈は、同じである。不可変であるが、その説明において発展しうるのである。


 ルフェーブル大司教は、「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ」(ルフェーブル大司教の公開書簡)の第16章「信仰を瓦解させる新近代主義」で、近代主義を上手く説明している。

====引用開始====


 カトリック教会の教える信仰とは、天主の御言葉によって啓示された真理に知性が固執することです。私たちは自分の外部から来る真理を信じます。私たちが信じる真理は、何らかの仕方で私たちの精神によって隠されている(私たちの内部からの)ものではありません。私たちは、私たちに真理を啓示し給う天主の権威の故にそれを信じます。それ以外のところに信仰を探してはなりません。

 この信仰は、いかなる人であっても私たちから取り上げて別のものと取り替えてしまう権利などありません。近代主義による信仰の定義は、既に80年前に排斥されていますが、それがまた顔を出しているのを見ています。

 ところが、近代主義によると、信仰とは「内的な感情」ということになっています。近代主義は、宗教の説明を人間の外に探してはならないと主張します。「宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければならない。」

 近代主義によれば、信仰とは何か純粋に主観的なもの、霊魂が天主へと固執することであるけれども私たちの知性には近寄ることのできないもの、各人がそれぞれに持っているもの、一人一人が自分の良心のうちにあるもの、とされます。

 近代主義はつい最近発明されたものではありません。有名な回勅『パッシェンディ』が発布された既に1907年に発明されたものでもありません。近代主義とは、革命の恒常的精神であり、私たちをして人間内部に閉じこめ、天主を法外に置こうとする精神です。近代主義の誤った定義は、ただ天主の権威と教会の権威とを崩壊させることだけを求めています。

 信仰は外部から由来して私たちに来ます。私たちはそれに自分を服従させなければなりません。「信じるものは救われ、信じないものは滅びるだろう」とは私たちの主イエズス・キリストが断言していることです。

信仰が、心の欲求と意志の衝動との下で道徳的に未発達なる潜在意識の奥底より湧き出づる盲目的宗教感情にあらざる事、またかえって信仰とは聴覚を通じ外的に受けた真理に対する真なる知性の同意たる事、即ち我らの創造主且つ主たる位格的天主が曰い、証明し、啓示し給いし事を、最高の真理なる天主の権威の故に、我ら信じ奉る事を、我は最も確実に堅く信じ且つ誠実に宣言す。」(「近代主義の誤謬に反対する誓い」より)

 完全な観点の違いがあります。新しい教えでは、人間は真理を受け入れるのではなく、真理を創りあげるのだと言います。ところで私たちの知性が次のことが正しいと確認するように、私たちは真理とは創られるものではないと、私たちが真理を創るのではないとよく知っています。


 彼らの教義に関していうと、それは次の幾つかの点に基づいています。現代によくある思潮の中に、これを認めるのは難しくはないでしょう。それは「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ということです。

 従って、これによると、外部から来る啓示はいかなるものであれ不可能となってしまいます。そこで人間は自分自身の中に、自分の感じる天主をもつ必要を満足させようと探し、この必要の根元は潜在意識にあるとします。

 近代主義によると、この天主的なものの必要性は、霊魂において特別な感覚(感情)を引き起こし、この感覚が「ある意味において人間を天主に一致させる」とされます。これが近代主義者らにとっての「信仰」です。天主はこのようにして霊魂の中に創りあげられ、これが「啓示」です。

 宗教的感覚から知性の領域に移ります。近代主義によると、知性がドグマを創りあげるのです。つまり彼らによると、人間には知性が備わっているが故に、人間は自分の信仰を考えなければならない。それが人間にとっての必要性となる。そこで人間は信仰の定式文を創りあげるが、この定式文は絶対的真理を含むものではなく、真理のイメージをつまり、シンボル(象徴)を含む。このドグマ的定式文は従って、変転に服さねばならず、進化する。「こうして、教義の内因的進化(実体的変異)への道が開ける」のです。

 近代主義によれば、定式文は単なる神学的思索ではありません。定式文が真に宗教的であるためには生きていなければならないとされるのです。感覚は「生命的に」定式文を同化吸収しなければならないとされます。

 近代主義によれば、信仰者は信仰の個人的な体験をし、次に彼はその体験を説教によって他者に伝えます。このようにして宗教体験は伝播する、とされます。・・・

 近代主義によれば、「信仰が多くの人に共通のもの(言い換えると集団のもの)となったとき」人は、この共通の宝を保存し促進するために社会を組織する必要を感じる。そこから教会が創立され、教会は「集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者 ───それはカトリック者にとってはキリスト─── にことごとく依存するもの」であるとされます。・・・

 では聖書についてはどうでしょうか? 近代主義者らにとって聖書とは、或る宗教において有している「体験の集大成」であり、近代主義者らによれば、確かに天主がこれらの本を通して語りかけますが、その天主とは私たちの内に存在する「天主」のことです。聖書は、詩的な霊感という時とすこし似た意味での「霊感」を受けた書、とされます。

 近代主義によれば、「霊感」とは、書くことによって信仰者が自分の「信仰」を使えたいという強烈な必要性と同一視されます。従って、聖書は単なる人間の作品となります。・・・

 カトリック信徒は「公会議後の教会」において使われている新しい言い方に驚いていますが、じつはそれはあまり新しいものではなく、ラムネー、フックス、ロワジーなどが既に一世紀前に使っていた言い方で、彼ら自身でさえ数世紀まえから垂れ流されていた全ての誤謬をまとめたに過ぎなかったのです。キリストの宗教は変わりませんでしたし、決して変わることがないでしょう。私たちは彼らのやりたいようにさせていてはなりません。

====引用終了====


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【関連記事】

近代主義の系譜のまとめ:ルター、カント、ヘーゲル、シュトラウス、シュライアマハー

2008年09月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜として、ルターカントヘーゲル、シュトラウスなどの思索を見てみた。

 多少の違いはあるものの、ルターが原理を確立した。ルターの後継者たちがルターの原理を極みまで押し続けた。この原理とは人間自分の内部から発する以外の全ての外的権威・教義に反対する反乱の叫びであった。

 ルターは、この独立宣言を「個人の自由解釈」(個人的良心の放埒)と「盲目的な意志による信」というキーワードで表現した。自由解釈の批判精神と個人の良心とが高揚された。

 カントは哲学にこれを適応した。これが純粋理性批判であった。
 シュライアマハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 1768年 - 1834年)は教義の批判にこれを適応した。懐疑主義をひろめ、外部にあるもの・現実それ自体が全て破棄され、あたかも白紙状態に還元された。

 カントによって、現実世界は「もしかしたらそうかも知れない」という蓋然性におかれたが、さらにシュトラウス、シュライアマハー(あるいはシュライエルマッヘル、シュライエルマッハー、シュライアマッハー、シュライアマヒャーなどと表記する人もいる)によって、信仰の対象と信仰者とが混同され、預言や奇蹟の福音の史実性は、神話とされた。

 ルターは、救われたと信ずれば救われる、とした。自分の思いが現実化するとした。これが個人の良心の高揚である。

 カントは、純粋理性で破壊した天主や霊魂の存在つまり信仰を、それが有益だからその通りに行動すべきだ、とした。自分の思考が現実かどうかは分からないが、思考が現実であると便利だとした。ヘーゲルは、思考が現実であり、現実が思考であり同じであるという。

 シュトラウスは、神話は初代教会の自発的な創作であり、初代の信者たちの内的情熱や信心から生まれた、その限りにおいて価値があるとした。

 シュライアマハーも同じである。シュライアマハーの宗教は、人間の良心・自覚に依存してそれによって生み出された感情であり、人間の似姿に従って天主が作られたのである。


 カトリックの信仰とは、現実主義である。私が好きであろうとなかろうと、私がどう思うが、私の<こころ>の外にある現実・物自体がそうあるが故に、私はそう信じるように動かされるのである。現実を思考し、現実によって思考を規律するのである。カトリックの真理とは、現実に私の考えが一致し現実に従ったときである。私が現実とはかけ離れたことを夢想しても、それは真理ではない、それがカトリックの考えだ。そして天主が現実に存在し、それが真理である。聖福音に記録されている通りのイエズス・キリストは史実である。イエズス・キリストは人間となった真の天主である。そして真理にだけ、それに従って行動する自由がある。現実そのままの真理が、本当の一致の基礎である。全ての人間は、真理であるが故に信じなければならない。真理にしたがって行動しなければならない。


 プロテスタントの原理によれば、現実・物自体は、宗教と何の関係もない。
 ルターによれば、自分の意志が全ての原理である。
 カントによれば、理性の代わりに信仰があり、私たちが知る唯一の天主とは、私たちの中の天主である観念の天主にすぎない。カントの天主は、天国にも地獄にも人間を送ることが出来ない想像の存在である。
 シュトラウスによれば、キリスト教信仰の基礎となる歴史的事実は捨て去られ、福音は、福音史家の創作した「神話」となった。シュトラウスの天主は、宗教的感情によってのみ気が付かれ存在するようなものである。

 以後、人間の知識・信仰の中心は、考える主体である人間となった。考える人間の夢が、現実よりもより現実的であると見なされるようになった。誰でも好きなことを自分の好きなように信じて良い、書く個々人が「真理」を作り出す、各人は自分の望むことを判断し信じる自由を持っている。



 聖ピオ十世教皇は、回勅「パッシェンディ」でこう言っている。

宗教的感覚
10.[彼らによれば]「このようにして、宗教的感覚は生命的内在を媒介として潜在意識の密やかな場から一切の宗教の芽生え、かついかなる宗教においてかつてあり、あるいは将来あるであろう全ての要素の説明となる。始めは未発達で、およそ形の定まらないものでしかなかったこの感覚は、それの起源である、かの神秘的な原理の影響を受けて、人間的生命 ───先に述べたように、この感覚は人間の生命のある種の形相であるが─── の進歩と共に徐々に成熟し[てき]た。そしてこれこそが、超自然的なものも含めてあらゆる宗教の起源である。なぜなら、諸々の宗教は、この宗教感覚の発展したものに過ぎないからである。カトリック宗教も、この例に漏れず、他の諸々の宗教と同列に置かれる。と言うのも、カトリック教も生命的内在の過程によって、ただこの過程を通してキリスト ───最も優れた性質に恵まれ、これに並ぶ者はかつてなく、これからもいないであろうこの人物─── の意識の中で生成されたものだからである。」
 こういったことを耳にするとき、私たちはかくも恐れ知らずの主張と涜聖とに身震いを禁じ得ません。しかるに尊敬する兄弟たちよ、これらは単に不信仰者の愚かしいたわごとではないのです。これらのことを公然と述べるカトリック信徒、および、あろうことか司祭らがいるのです。そして彼らはこれらのうわごとによって教会を改革しようとしているのだと豪語するのです。
 [ここで]問題となっているのはもはや、人間の自然本性が超自然的事物に対する一種の権利を有しているとする旧来の誤謬の一つではありません。近代主義の誤謬はこれをはるかに越え、私たちのいとも聖なる宗教が、キリストという人物においても、また私たちにおいても、自然本性から自発的に自ずから発生したと断定するとき、その頂点に達しました。確かに超自然的次元全体をこれほど徹底的に打ち壊してしまうものはないでしょう。このため[第1]ヴァチカン公会議が次のように定めたのは、きわめて正当なことでした。「もし誰かが、人間は天主によって自然本性を超える認識と完全性とにまで高められることができず、かえって自ら自身の努力ならびに着実な発達によって最後にはあらゆる真理と善とを所有するに至ると言うならば、彼は排斥されるように。 」


知性と宗教的感覚
11.尊敬する兄弟たちよ、これまで知性については一切ふれませんでした。近代主義者たちの教えに従えば、知性もまた信仰の行為において一定の役割を担っているのです。そして、それがどのような役割であるかを見ることは、[たいへん]重要です。これまで再三述べてきた当の感覚の中に ───と言うのも、感覚は知識ではないので─── 天主はご自分をお現しになるのだと彼らは言います。しかし彼らによれば、この意味では、天主は信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しになりません。したがって、天主がくっきりと明るみに出され、感覚自体からは区別されるために、この感覚の上にある種の光が投げかけられる必要があります。
 そして、これこそ反省し、分析することを本分とする知性に課せられた務めなのです。そしてこれによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を知的な図象に転じ、それをさらに言葉で表現するのです。ここから、近代主義者たちが共通に用いる言い回しが生まれます。すなわち、「宗教的な人は自分の信仰を考えなければならない」と。[彼らによれば]「この感覚に直面した知性は自らをその上に投じ、その中で年月と共にかすんでしまった描線をよりくっきりと修復する画家の要領で働きます。(この比喩は近代主義の指導者の一人によるものです。)この働きにおいて知性は二重の活動を果たします。第一に、自然的かつ自発的な行為によって知性は自らの概念を単純で通俗的な命題で表わします。」それから反省とより深い考察の上で、あるいは彼らの言い方を借りれば、自らの思惟を推敲することによって、その思念を、第一のものから由来しながらも、より正確かつ判然とした二次的な命題で表現するのです。これらの二次的な命題は、もしそれらが最終的に教会の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となるのです。

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サン・モリス(スイス) Saint Maurice の写真をご紹介します

2008年09月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 読者の方から、次のようなお便りを戴きました。
「小野田 神父様
 お元気でお過ごしでしょうか。・・・
 ブログの写真は楽しみにしています。私は、海外旅行は・・・新婚旅行のみなので、ヨーロッパの建物や風景はあこがれです。イタリアやフランスの聖地にはいつか行ってみたいです。
 聖ヴィアンネの伝記は読んでいて身がひきしまります。私も、自分の罪が見えない盲目状態から少しずつでも抜け出さないといけないと思います。
 ドイツ観念論は、学生時代、概論でさらっと習っただけですが、カトリック教会でいう「近代主義」の系譜になるのですね。人間性の賛美、聖書を「物語」として象徴的に理解することなど、現在のカトリック教会の現実そのものですね。
 ある人に行った教育は、30年後に成果があらわれる(実を結ぶ)、と聞いたことがあります。人の一生の長さからすると、とても悠長な営みですが、30年以上「新しい教育」をし続けてきたカトリック教会にあてはめてみると・・・、確実におかしな「成果」が出ています。異端を主張する司祭(本田師)が司祭の教区研修会の講師を務めたり、マシア師の発言・・・、etc.です。」

 だいぶ時間があきましたが、写真のお楽しみされているとのこと、大変うれしく思います!
 エコンの神学校を訪問して来たときに、サン・モリスにも巡礼に行って来ました。写真でご紹介致します。9月22日の祝日に間に合わせようと思っていたのですが、出来ませんでした。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.


サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
サン・モリスの町

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
サン・モリスの駅から山の方に向かうと、十字架の道行きがある。スイスの多くの山には十字架の道行きがあり、山頂には十字架が立っている。


サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
そこを通って山を登ると、小さなチャペルが崖にそそって建っている。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地


サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
チャペルの内部

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
チャペルの前には門があり、以前はずっと閉じられていたが、今では開くようになった。カトリック隠遁修道士が生活していたのだ。これがその隠遁修道士が住んでいた小屋。


サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
山を下りると、これがサン・モリスの学校(聖ピオ十世会総長のフェレー司教様もここで学んだ。)
サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
サン・モリスの教会

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
サン・モリスは、殉教者聖マウリチオ(あるいは聖マウリチウス)に因んで付けられた名前で、アフリカのテーベのえり抜きのローマ軍の頭であった。6000余名の軍人が聖マウリチオの配下にあったが、スイスのここサン・モリスにやって来て殉教したのであった。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
サン・モリスの教会を横から見る。聖マウリチオが何故殉教したか、というと、ローマ皇帝が彼らの忠臣性を試すために偶像に香をたくことを要求し彼らがそれを拒んだからだ(ローマ皇帝が彼らの忠臣性を試すためにキリスト教徒を虐殺せよと要求したとする人もいる)。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
聖マウリチオは、6000余名の軍人を持ってローマ皇帝に反乱を起こすことも出来た。しかし、それはしなかった。ローマ皇帝は正統な長上であったからだ。ただし、罪を犯すことは出来なかった。だから、彼ら6000余名の新鋭部隊はそのまま虐殺され、殉教していった。
 これは、ヴェロリエ(Verolliez)といって、サン・モリスから少し離れた場所に立つ聖マウリチオの殉教の記念聖堂。ヴェロリエ(Verolliez)とは、Verus Locus 殉教の「本当の場所」というラテン語の変化した地名である。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
Verolliez

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
聖堂の中の祭壇。フランス語で、
Nous sommes tes soldats O Empereur
Mais avant tout Serviteurs de Dieu
Nous te devons l'obeissance militaire
Nous Lui devons l'innocence
と書かれている。

意味は日本語で、
嗚呼、ローマ皇帝よ、私たちはあなたの兵士である。
しかし何よりもまず、天主のしもべである。
私たちはあなたに軍の従順の義務を負う。
しかし天主には、罪を犯さない義務を負う。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
この記念碑の上にある石の上で殉教していった。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
殉教の石を下から覗く。聖マウリチオの祝日は、9月22日。

サン・モリス(スイス) Saint Maurice, 聖マウリチオ(Sanctus Mauritius)の殉教した地
ルフェーブル大司教も聖マウリチオと同じ言葉をいうことが出来るだろう。
プロテスタントの牧師たちと協働で作った新しいミサを前に、

嗚呼、ローマ教皇様よ、私たちはあなたの子供である。
しかし何よりもまず、天主のしもべである。
私たちはあなたに従順の義務を負う。
しかし天主には、純粋のカトリック信仰を守る義務を負う。

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カトリック近代主義の系譜:ヘーゲルの弁証法とシュトラウス

2008年09月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜として、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年 - 1831年)の思索を見てみよう。

 ヘーゲルが打ち出した原理は明確だ。ヘーゲルによれば、観念は事物であり、事物は観念である。主観は客観であり、思考は現実である。哲学は、天主(これを絶対者と呼んだ)を知る学問であり、概念は、弁証論的に矛盾を乗り越えて進歩する。キリスト教も、正・反・合という弁証法的進歩による、精神の自覚の頂点である。ただし、絶対者(天主)は、その進化の究極まで至っていない。絶対者は、宇宙の生成の過程であり、宇宙と全精神の部分である。時代の後に来る物は、必ずその前にある物よりも優れていなければならない。従って、歴史は、必ず進歩しなければならない。昔の物は、先験的に、必ず(ア・プリオリに)劣っている。

 ヘーゲルによれば、人間は自分の力で少しづつ天主のように進化する。まず感覚を得、次に知性的知識を得て、更に天主の絶対的自覚を得る。被造物の絶え間ない天主化への運動は、汎神論へと繋がる。こうして、ヘーゲルは人間を神格化し、天主を低めた。ヘーゲルの思想の奥底には、形容矛盾だが、無神論的な汎神論がある。

 宗教を人間から発出させるというヘーゲルの思想は、天主を「人間の想像の投影」とする啓蒙思想や、カントの『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft と相まって、シュトラウス(David Friedrich Strauß, 1807年 - 1874年)に影響を与えた。シュトラウスは、27才の若さで『イエズスの生涯』を書き、そこで、ルターの「自由解釈」の原理を推し進め、福音書の史実性を全く否定した。全ては「神話」であり、人間の作った「創作」であり、人類の進歩の象徴であるとした。

 ヘーゲルの弁証法は、カトリックの精神界にも大きな影響を及ぼした。これについては後日見ることにしよう。

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カトリック首相誕生を

2008年09月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 日本にカトリックの首相が誕生することを心から祈願し期待します。

 難しい仕事ではありますですが、カトリックの新首相が誕生し、王たるキリストに従って国政を司りますように、お祈りいたします。

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!
天主の聖母よ、日本のために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

今、日本のカトリック教会では罪のない新しいキリスト教を作ろうとしている

2008年09月24日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今、日本のカトリック教会では罪のないキリスト教を、新しいキリスト教を作ろうとしているようです。

 罪とは何でしょうか? 聖トマス・アクィナスはこう説明します。罪を罪とするその最も重大な要素は、天主から離反すること(aversio a Deo)である、と。そして罪を構成する材料として、被造物へと背いて、無秩序に被造物に執着すること(per conversionem ad creaturam)であると。

 イエズス・キリストは天主への愛と従順をもって、十字架による苦しみを捧げました。天主であるイエズス・キリストのこの愛と従順こそが、全人類の天主からの離反の悪を溢れるほど満足させました。しかし、被造物に対する無秩序な執着、その無茶苦茶さは、意志的に受ける苦しみによらなければ償われることはできない、これこそが、イエズス・キリストが、天主御父に対して私たちの代わりに捧げて下さった罪の償いです。ここから私たちの罪の償い(satisfactio)の全ての価値が由来するのです。(神学大全第3部、第1問第2項、第48問第2項および第4項)

 そして、私たちはミサ聖祭において、贖い主なるイエズス・キリストの「天主の正義を満足させること」を私たち自身のものとして捧げることが出来るようになるのです。何故なら、ミサ聖祭は本当の意味の償いの価値を持ついけにえだからです。イエズス・キリストの十字架に、天主の愛と憐れみと正義が同時に現れるのです。私たちもイエズス・キリストの十字架に、贖いに、参与しなければならないのです。

 ピオ12世教皇様はこう言っています。

「天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主(キリスト)は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」
(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮスHaurietis aquas』)



 しかし、新しいキリスト教は、イエズス・キリストの贖いの業が天主の正義の業であったことを否定します。


マシア神父はそのブログでこう言います。

 たとえば、「キリストの十字架の死によって私たちは購われた」というとき、「あがない」ということばは、「つぐない」とか「罰」とか「払い戻し」とか「買戻し」というイメージを思い起こすことがあります。戦争終結後、捕虜を賠償金と引き替えに返還する(買い戻す)ということもその一例です。しかし、聖書では「あがない」という言葉の背景にあるのは、「解き放つ」という意味です。あがないは、買い戻しの支払いではなく、解き放つことであり、罪を滅ぼし、人を神と和解させることです。

【コメント:贖うとは redemere の訳で、red- 再び emere 買う、を語源とし、買い戻すという意味である。】

 ギリシア・ローマ文化の影響を受けた者の中には、あがないを「買い戻し」という狭い意味に解釈する者も多かったです。中には「キリストは自分の血で支払って、悪魔からわれわれを買い戻した」などと、冒とくとも言える意見を述べる偏った説教さえ現われてきました。こんな考えはキリスト教に反するばかりでなく、恐ろしいあやまちです。【ソノママ】

 またこれほど誇張はしないが、「キリストの血が神の怒りをなだめた」と説明する人もいました。この言い方も適切とは一言いがたく【ソノママ】、誤解を招きます。

【コメント:しかし、聖パウロはこう言っている。
「しかしキリストは、将来の恵みの大司祭としてこられたのであって、人の手でつくられなかったもの、つまり世がつくったものではない、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、山羊と子牛の血を用いず、自分自身の血をもって、ただ一度だけで永久に至聖所にはいり、永遠のあがないをなしとげられた。山羊と牡牛の血、牝牛の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の聖霊によって、汚れのないご自分を天主にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業からきよめて、生きる天主に奉仕させ得ないことがあろうか。・・・ 前の契約(=旧約のこと)さえも、血を流さずに立てられたのではない。すなわちモイゼは、律法にしたがってすべての掟を全人民に告げてから、子牛と牡山羊の血と、水と、緋色の毛と、ヒソプとをとって、巻物とすべての民にそれをそそぎかけ、「これは、天主があなたたちと結ばれる契約の血である」といった。また同様に、幕屋と儀式用の器とに血をそそいだ。律法によれば、ほとんどすべてのものは、血できよめられるのであって、血を流すことなしに罪が赦されることはない。」】


 「つぐない」という言葉も、誤解のもとであり、罰と結びついてしまいます。今目でも、刑務所の苦痛や臨終の苦悶によって罪がつぐなわれるといわれる場合がありますが、それは、苦痛や苦悩こそつぐないにとってもっとも重要だ、と考えられてしまうからでしょう。その根底にあるのは、「報復を要求する正義」の考えであり、こうした正義の発する怒りをなだめなげればならない、とする見解です。

 このような考え方は、時にはキリスト教的と言われたりするのですが、実は、キリスト教のつぐない観念とはほど遠いです【ソノママ】。しかし残念ながら、中世的な慣習やものの考え方、特に北欧の考え方は、説教者や著述家に好ましくない影響を与えました。そして、「キリストの受難は神の怒りをなだめる罰である」とか、「苦痛や死は罰である」とか、さらに、「神は罪人に無限のつぐないを要求しているが、それを支払えるのはキリストの血のみである」といったまったく誤った考えが強調されるようになったのです。

【コメント:聖ピオ十世の公教要理によるとこうある。
イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。
イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、天主に対する人間の罪のあがないを成就されました。

私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。
私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって天主に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです。

コメント:もしもマシア神父の言うことが本当だとすると、カトリック教会は2000年の間、マシア神父が登場するまで(?)、「つぐのい」について誤解してきたことになる。公教要理も公会議も間違い続けてきたことになる。

 もっと思い切った説明をしましょう。「十字架こそ救い」というひとことは誤解の元だと言わなければなりません。イエスは私たちの救い主であると言われているのは十字架で「死んだから」ではなく、十字架で「死んだにもかかわらず」です。十字架に死んだにもかかわらず、今尚生きているから私たちの希望の根拠です。


【コメント:聖パウロはこう言っている。
「ご自分のみ子を惜しまずに私たち全てのためにわたされた。Rom. 8,32: proprio Filio suo non pepercit, sed pro nobis omnibus tradidit illum. 」

 マシア神父の説くキリスト教は、私たちの知っている使徒から教えられたものではなく、天主に対する罪に対する天主の正義を満足させる贖いという概念のない、新しいキリスト教だ。】

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【関連記事】

カトリック近代主義の系譜:マルチン・ルターとカントの啓蒙思想の繋がり

2008年09月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様


 何故カントは、人間にとって現実が何であるか、物それ自体が何であるかを知り得ないとしたのだろうか。(物のことはドイツ語で Ding であるが、ラテン語では res という。res は、Realität と言う言葉の語源であるから、「物自体」のことを頭(あるいは<こころ>)の外にある「現実」という。)

 何故ならその根本において、プロテスタント主義の創始者ルターによると、人間は原罪のために完全に腐敗しており、理性は汚れている、人間の学識は全て間違っているとしたからだ。ルターは、論理ではなく、絶対的な「信じる」ということに全てを打ち立てた(sola Fides)からだ。未知なるものに対する絶対的な信頼だけが必要であって、理性はただ間違うのみとした。だから、スコラ神学や哲学、教会法などという理性を使う学問は改革された教会からは根絶されなければならない、とした。キリストは人間の発明を必要としない、だから論理学も必要としない、とした。ルターによれば、信仰の真理は、同時に学問的には誤りであり得るという二重の真理を受け入れた。

 ルターは、人間が理性の光に従うことを拒否してただ盲目的な意志によって信じることを要求した。従って、全ては自由でなければならない。個人の体験、内的な感情が、客観的な説明よりも大事となった。外から来る全ては捨て去られなければならない、全ては内的な自由から発しなければならない、とした。だから、ルターは外からくる全てを捨てた。教会も秘蹟も啓示も捨てた。聖書を手にして自分の自由な解釈のみとした。ルターは、こうして自律自足の原理を打ち立てた。

 こうして、ルターは聖伝を聖書と対立させた。聖書だけ(sola Scriptura)が信仰の基準であるとした。聖書のみが救いの唯一の源泉となった。但し、聖書のみということは、ルターの教会権威否定の口実にすぎなかった。何故ならルターは聖書のテキストを自由勝手に変更しているからだ。

 ルターはこうして啓示を個人的なこととした。私の受けた啓示が、公的啓示となった。私の自由な解釈を妨げる外から来る全ては、キリスト者の自由に対する耐え難き侮辱となった。ルター曰く「私は私の教義が誰によっても、天使であっても、裁かれることを認めない。私の教えを受け入れないものは、救われない。」(1522年6月)

 ルターによれば、人間は、原罪によって全く不道徳となり不潔となり、いかなる善業もすることも出来なくなった。人間は、天主の助けをもってしても、天国に行くために功徳を積むことができない。ただ、ちょうど墓を白く塗り立てるように、天主が罪人のまま残る人間を外部的にマントで覆うようにして義化されたと見なすにすぎない。天主といえども、人間を内的に義とすることが出来ない、人間の義化とは法的なフィクションにすぎない。

 ルターは、天主を、人間に不可能なことを要求し、自分の好きなようにある者を地獄に落としある者を天国に予定するといういわば不条理なものとして提示した。天主は人間を聖化することの出来ない、人間を罰しようとする、怒り天主の残酷な天主であり、プロテスタントにとってこの天主の怒りから避けることだけが唯一の関心事となってしまう。

 しかし、良く考えてみるとルターの教えによると、救われるためには、天主ではなく人間が主体となる。人間が救われたと「信じ」さえすればよいのだから。ルターの言わんとすることの現実は、その見かけとは反対に、人間は天主から何も期待することがない、人間こそが「私たちの罪からキリスト者の義へ飛び込み、キリスト者の経験を確かに持つ能力」(Tischrenden 1531)を持っている。

 ルターは、人間に閉じこもり、全てを人間に還元させた。罪を犯すのを避けることが出来ない、という個人的な絶望から、ルターは人間は改革できないほど腐り果て、自由を失ったとした、この悪の責任は天主にある。ルターは外的な権威を全て捨て去り、自由な解釈による自分の良心の自律を訴えた。全て改革されたキリスト者は、皆、天主の御言葉の司祭であり預言者であり、自分の真理を作る教皇である。人間の救いは、人間によってもたらされ、人間を内的に義化できない天主は余分なものとなる。

 カントは、ルターの論理を進めた。カントによれば、人間は「私」の外を知ることが出来ない。現実(物自体)は不可知である。天主・霊魂・世界などという形而上学の観念は、純粋理性の偏見であって、知られ得ない。しかし、道徳生活は必要である。宗教的確信による義務・良心は疑いなく人間に存在している。従って、カトリックの言うように「天主が真にまします、だから、善を行わなければならない」のではなく、道徳の秩序から天主の概念が帰結されるにすぎない。カトリックの言うように「天主が道徳の基礎」ではなく、道徳の方が天主よりも重要となる。もしも天主が存在すると措定されるなら、その方が便利だからである。カントによれば、そう望むことが、現実となるべきなのである。現実がどうであるかよりは、宗教的良心の方が大切であり、宗教とは個人的な良心の業である。

 カントによれば、理性が「学問的に・論理的に」否定したはずの天主は、道徳の要求によって証明されたこととなった。正に、これはルターの「盲目的信頼」の完璧な焼き直しである。何故なら、カントの道徳的義務は、合理的でもなければ真理でもありえないからである。これは、人間の持つ道徳的本能、天主の存在、霊魂の不死などを盲目的に信じることに他ならないからだ。また、ルターの二重の真理の焼き直しでもある。何故なら、現象の科学的知識の真理と、物自体の盲目的信頼としての真理との2つの真理は、たとえ相互に矛盾しても、同時に成立するとするからだ。

 カントは『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft で、全く自律独立している人間良心に全てを基づかせ、キリスト教の歴史的根拠を否定した。プロテスタント諸派の信経(credo)は、象徴的な価値しかないとした。カントによれば、人祖が本当に現実に歴史的に原罪を犯したか否かは、重要ではない。カントによれば、イエズス・キリストは歴史的にはただの人間にすぎないが、信者たちに天主の聖子として提示されることは有益であるとした。カントは、全啓示を理性の名によって否定し、道徳的有益の名前によってする。カントによれば、いずれにせよ、人間が知っている天主とは、自分の内にある天主にすぎないのだから。

 カントによれば、天主がいるかいないかは、現実がどうであるかは、重大な問題ではない。カトリック教会は「天主が真に存在し給うが故に」、「イエズス・キリストが真の天主であるから」と主張し続けてきた。啓蒙思想家の頂点に立つカントは、もしかしたらそうかも知れないけれども、とにかく天主が存在するかのように(veluti si Deus daretur)人生をおくらなければならない、それが有益であるから、とした。こうして、カントは、抽象的な神の観点による「良心の宗教」を打ち立てた。

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【関連記事】

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:悪魔と戦う

2008年09月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


悪魔と戦う

 地獄の存在、および、地獄の中で永遠の刑罰をうけている悪魔の存在は、キリスト教のドグマの一つである。悪魔は実在する。悪魔は人間の恐怖心の空想の産物でもなければ、抽象的な存在でもない。彼はアダムとエバとを誘惑した。彼は義人ヨブに、天主のご許可のもとに、種々の試練を送った。彼は神人キリストをも、荒野において、誘惑する大胆な試みをした。同じ主キリストは、善をなしつつ世を過ごしたもう間に、多数の悪魔憑きから悪魔を追い出したもうた。われらの戦いは、単に血肉に対してではなく、吼える獅子のごとく餌を求めて、人間世界をかけ回る、天空の悪霊に対してである。

 もちろん、普通の場合において、悪魔が直接にその能力を表わすことはないが、特別の場合にそれが表われることがある。キリスト教の影響の全然及ばない地方、すなわち、悪魔にほかならぬ邪神礼拝の深く浸みこんでいる国々には、時として、醜悪なるそのあらわれを見ることができる。奇怪にして、背徳的な霊媒術が現代に流行する事実も、新異教主義が現代にはびこっている結果にほかならない。また、これに反して、地上の一角で、悪魔の勢威が特におびやかされる時、彼は全力をつくして、これと抗争するために、姿を現わすことがある。救い主の時代に、パレスティナに多くの悪魔憑きがいたのは、おそらく、この理由によるのだろう。アルスの聖司祭がおよそ三五年の長い間にわたって(一八二四年~一八五八年)悪魔に苦しめられたのも、サタンが普通の手段では甲斐なしと見てとって、最後の猛攻撃・・・やぶれかぶれの突撃に出たのであろう。

 神秘神学者は、意魔のこのような攻撃を次のように分析する。

①「脅威」悪魔がある人を恐怖させる目的で、騒音を発したり、器物を動かしたり、それをよそに持ち運んだり、ひっくりかえしたり、こわしたりすること。これは彼の直接攻撃の第一歩で、次にのべるように、ヴィアンネー師に対してなされたのは、主としてこの種類の攻撃であった。

②「外面的攻撃」悪魔がある人を打ったり、つき飛ばしたりして危害を加えること。時として、師もこの種の攻撃をうけたらしい。

③「内面的攻撃」悪魔は主として想像力に働きかけて、攻撃の対象となった霊魂に、憎しみや、絶望などの悪魔的感情を起こさせる。聖人伝ちゅうには、この種の攻撃をうけた人も少なからず発見するが、ヴィアンネー師は、これも、また、次の攻撃をも受けなかったようだ。

④狭義の「悪魔の憑依」悪魔はその人に乗り移ったようになって、手足、身体、舌などを思うままに動かし、冒漬の言葉を吐かしめ、汚聖の行為をさせる。福音書中に出てくる悪魔憑きが、すなわち、これである。一時的な事もあれば、長期間で数年以上にわたることもある。しかしどんな場合にも、悪魔が、その人の意志を直接に左右する事はできない。すなわち、万一、聖人がかかる攻撃をうけて、きわめてあさましく、悲惨なる状態のうちにある時といえども、彼は一点の意志の尖端をもって、天主に属しつづけているのである。

 ヴィアンネー師に対する悪魔の最初の攻撃は、師が前にのべた無料女子小学校を開いた最初の頃、すなわち、一八二四年から翌年にかけての冬の間に始まった。直前に、師は過度の大斎と苦業とのために、かなり重い病気にかかっていた。彼は失望に近い恐れとともに、もはや死期が迫ったと考えた。そして数度にわたって、「さあ、もうすぐ地獄におちねばならないぞ!」と告げる何者かの声を聞いたかのように感じたという。しかしながら、師はじきに気をとり直して、天主の御あわれみを祈り、心の平和を回復した。

 悪魔は、師に恐怖を与え、睡眠と休息とを奪って疲労困燈せしめ、祈祷と苦業と司牧との事業に対して嫌悪をいだかせ、その職をなげうたせようとした。

 はじめのうちは、ヴィアンネー師が、床について眠ろうとすると、寝台のカーテンがびりびりとさかれるような音がした。師は鼠のいたずらだと思って、まくらもとに鉄叉をおいて、鼠を追い払おうとしたが、いくらカーテンをゆすぶっても、その音はますます激しくなるばかりだった。そして、翌朝調べると、そこには歯のあと一つ残っていなかった。

 師は迷信的な人ではなかった。その証拠にはのちに、悪魔つきの人たちが、師の所に連れてこられた時にも、彼はきわめて慎重な態度をとっている。ある時、一司祭が、司祭の姿か十字架を見さえすれば、すぐあばれ出す人の話をヴィアンネー師にして、その意見を尋ねたことがある。師はこれに、「それは神経が一部、狂気が一部、グラペン(Grappin)が一部だろう」と答えたそうだ。グラペン (le grappin) とは、師が悪魔につけたあだなだった。

 次にしるすヴィアンネー師の身の上に起こった種々の出来事は、ちょっと幻覚か錯覚で説明ができそうだが、そう簡単には片づかない。というのは、幻覚とか錯覚とかいうものは、一種の病的症状だから、特に異常な神経を有する人や、精神病患者にあらわれるのだが、ところが師はきわめて沈着冷静で、確実な判断力を有し、また、多忙なる職務を着々と遂行して、少しもあやまることがなかったではないか。師を変質者、もしくは精神病者と考えることは、どうしてもできない。(師が嘘をつくような人でないのはいうまでもないが、それが何者かの悪戯だったとしても、三五年間の長い間、露見しなかったとは、とうてい考えられない)

 やがて、悪魔の騒ぎはいっそう激しくなった。戸を乱打する音、司祭館の前庭に叫ぶ無気味な声。ことによると箱に入れて穀倉の中にしまってあるデ・ガレ子爵が寄進した貴重品を盗もうとする盗賊ではなかろうか?と考えついた師は、ひとりの屈強な若者をたのんで司祭館に泊らせた。

 この男は実弾を装填した銃をたずさえてやって来た。すると真夜中に何者かが戸をゆるがせ、次にこれを乱打し、同時に数両の車が通った時のような響きがおこるかと思うと、地震のように司祭館が動揺した。若者は、はねおきて銃をとって、窓をあけたけれども戸外にはひとりの影も見えなかった。のちに師は「摂理の家」で、その時のことを笑いながら話した。

「かわいそうに、あの男は鉄砲を持ったままふるえていたっけ。きっと鉄砲を持っていたことを忘れてしまったのだろう」

 この男は二度と司祭館に泊ることを承知しなかった。それで師は、村長の息子とその友だちとに夜番を依頼した。この二人は一二日間ほど泊りこんだ。けれども、二人にはなんの物音も聞こえなかった。

 細心の師は、この騒ぎの本性について、半信半疑の態でいた。けれども、ある雪の夜、戸口に酷い音がしたので戸をあけて、雪の上に、だれの足跡もないのを見て、はじめてそれが悪魔の仕業であることを確かめ、したがって銃はなんの役にもたたないことを悟って、依頼した番人を返した。彼は悪魔と戦うべく、ひとりで司祭館にとどまったのである。

 ヴイアンネー師の名声はようやく四方に聞こえて、無数の人が、中には遠くから泊りがけで、師の告解場に集まるようになった。師はただでも短い睡眠時間をさらに節して、彼らの告白をきいた。師の休息の時間はますます少なくなった。しかし、そのわずかな安眠の時間さえ、悪魔は奪おうとして、熊のように吼えたり、犬のようにうなったり、庭で喧嘩をしたり、議論したり、騎兵の一隊のようなひづめの音をたてたり、おけ屋が金槌で鉄のたがをはめる時のように騒々しくしたり、「うぐいすのように鳴いて」煙突の中を舞い上がったり、テーブルや、ストーブをたたいて騒いだり、無気味な声で歌をうたったり、恐ろしい声で「Vianney, Vianney ...Mangeur de truffes !... Ah tu n'es pas mort encore !... je l'aurai bien !  ヴィアンネー、ジャガイモのヴィアンネー、おまえはまだ死なないか?今におまえをつかまえるぞ!」とおどしたりした。ある時はまた、固い師の寝床が急に柔らかくなって、師の身体は羽布団の中に落ちこむようにその中にうずもった。そして、同時にうす笑いをもらしながら、師を肉欲的に誘惑する声がした。これにはさすがの師も非常に恐れて、十字架の印をしたら、それで終わりになってしまったそうである。

 地獄のいたずらによって、ヴィアンネー師は疲労の極に達した。けれども、彼は決して負けてしまわなかった。

 なぜならば、このひどい不眠にもかかわらず、彼は真夜中一時の鐘の音を聞くと、告解場の前で徹夜して、順番を待っている人びとのことを考えて、聖堂に出かけて行ったからである。しかし師の顔色は、蒼白で、死人のようだった。

 最初にたのんで、銃を持参した若者にひきかえて、第二回目に依頼された二人の番人が、物音を聞かなかったことはすでにしるしたが、これらの悪魔の攻撃の話は、ほとんど全部、師が自ら物語ったところによるもので、例外的な少数の場合をのぞいては、他の人びとには悪魔のさわぎは聞こえなかった。

 八年間、師の助任司祭であったレーモン師も、また六年間、師を助けたトッカニェ師も、なんらの物音をも聞かなかったそうだ。他の人々に聞こえなくて、ヴィアンネー師のみそれに苦しんだのは、もちろん、悪魔の攻撃の対象が師のみであったからである。

 次にのべる出来事は、無理に説明をすれば、自然的にも説明がつかないこともあるまいが、ヴィアンネー師も巡礼の群衆も、たしかに悪魔の仕業だと考えたものである。

 それは、一八五七年、師の永眠に先だつ二年前の二月二三日か、二四日のことであった。その日は聖体が顕示されていて、師はいつものとおり真夜中から、告白をきいていた。すると、朝七時少し前、通行人が司祭館の師の居間の窓から、火が吹き出しているのを発見した。師はちょうどミサ聖祭をささげるために、告白場を出たところだったが、知らせに来た人たちに、ポケットから居間の鍵を出して渡しながら、「悪魔の馬鹿め、鳥がとれないものだから、籠を焼いたな!」と言った。そして、聖堂を出て庭に来ると、まだ煙が立っている燃え残りの寝台を運び出す人々にあった。師はそのままひと言も言わずに、聖堂にひきかえし、平日のように、静かにミサ聖祭をささげた。

 この時、火を消しに、最初に師の居間に飛びこんだのは、のちに師の伝記をあらわしたモネン師であったが、その著書のうちには次のようにしるしてある。

「寝台と天蓋とカーテンと、そのそばにあったものが焼けていた。火は箪笥の上にのせてあった聖女フィロメナの遺物箱のところでとどまって、この一点を通じて、上から下まで幾何学的に一直線に、こちらのものをことごとく焼きつくし、あちらのものをすこしも焼かなかった。そして、火事がなんらの原因もなく始まったように、また、自然に消えていた。かつ、実に不思議で、奇跡的ともいうべきは、火がサージの厚いカーテンをつたわって、(低く、古く、乾煉しきっていて)わらのようにすぐ燃え上がるはずの天井にうつらなかったことである」と。

 今日でも、アルス村への巡礼は、古ぼけた質素な司祭鮨の中で、聖司祭の種々の遺品とともに、なかばこげているこの寝台を見ることができる。

 話はたいへん前後するが、右の事件の三〇年前、一八二七年に、次のような事があった。

 ちょうど、付近のサン・トリヴィエという村で、特別伝道が行なわれていた。ヴィアンネー師も、この村の主任司祭の招きに応じて手伝いに来た。すると、最初の晩から、師の寝室から異様の物音が聞こえだした。他の司祭らは師に小言をいった。

「それはグラペンだ。ここでよいことが行なわれているので怒っているのですよ」と、師は答えたが、彼らは信用しなかった。
「あなたは食事もせず、ろくに眠りもしないのだから、頭がどうかしているのでしょう。鼠があなたの脳髄の中であばれ回っているにちがいありませんよ」

 ところが、響きがますます激しくなるので、とうとうある晩、同僚の小言は頂点に達した。このたびはヴィアンネー師は口をとじていた。

 すると、どうだろう、次の夜、みなの寝静まったころ、突然家が振動して、司祭館が今にもくずれおちんばかりになった。泊り合わせた三人の司祭はもとより、下男まで床からはね起きた。耳を聾するほどの鳴動が、ヴィアンネー師の寝室で起こっている。あわてて、「人賛し!」とどなって、一同、その寝室に飛びこんだ。見ると、ヴィアンネー師の寝台は、目に見えぬ手で部屋のまん中までおし出されて、師はその中に静かに横たわっていた。

「私をこんな所までおし出して、このさわぎをしたのは、例のグラペンですよ。なにだいじょうぶです。ただ私が皆さんに前もって、時々こんなことがあるのを、申し上げておかなかったのは、すみませんでした・・・しかし、これはよいしるしなので、あすはよい魚がとれますよ」

 師は微笑しながら、こんなことを言ったが、他の司祭たちはそれでもなお、師が寝ぼけて騒いだうえに、何か幻覚を有しているのだと考えた。

 はたして翌日の夕方、長く宗教の務めを怠っていた一紳士が、師のもとに告解の秘跡を受けに来た。それから付近の村の司祭たちも、師が悪魔の攻撃をうけているということを、信用するようになった。

 そして、この時に、師が自ら言ったように、悪魔の攻撃の激しかった直接には、必ずよい魚がとれた。すなわち、大罪人が師のもとに来て改心するのであった。

 また師のもとには、大勢の悪魔憑きが連れてこられた。次には、ただその中の二、三を語ろう。
ある時、ひとりの女が遠方から夫にともなわれて来た。彼女は激怒して、訳のわからぬ叫び声を発していた。ヴィアンネー師はこの婦人をしらべてから、婦人の属する教区の司教のもとに連れて行きなさいと言った。(カトリック教会では、惑魔つきについては、慎重に研究する。事実を認定して祓魔の祈祷を唱える許可を与えるのは司教である。ヴィアンネー師は、自分の属するベレーの司教から必要と認めた際に、悪魔を祓う許可をうけていた)婦人は急にものを言い始めた。

「よしよし、それなら私は帰ろう。・・・ああ、しかし、もし私がイエズス・キリストほどの力をもっていたなら、おまえたちをみんな地獄におしこめてやるんだが・・・」

 ヴィアンネー師は答えた。
「おや、おまえはイエズス・キリストを知っているのか?それなら、この女を大祭壇の前に連れて行きなさい」

 四人がかりで、無理に女を祭壇のもとにつれて来た。ヴィアンネー師は、はだ身はなさず持っていた遺物入れ(銀製で、救い主のご受難の聖遺物と、二、三の聖人の遺物とが、その中におさめられていた)を、悪魔つきの頭上にのせた。女は死んだように静かになった。けれども、少したつと女は身を起こして、急いで教会から出て行った。一時間ほどのちに、女は全くあたりまえの状態で聖堂にはいり、聖水をとって十字架の印をして、祈祷を始めた。彼女は完全にいやされたのである。

 一八五七年、一二月二七日の晩、ひとりの司祭とひとりの修道女が、ひとりの若い女教員を連れてアルスに来た。アヴィニョンの司教が、自らこれをしらべて、悪魔憑きだと、断定し、ヴィアンネー師のもとにつれてこさせたのだった。

 翌朝、師が祭器室で、ミサ聖祭のための祭服をまとおうとしているところに、一同ははいって来た。女教員はすぐ逃げ出そうとして、「ここには人が多すぎる」と叫んだ。

「人が多すぎる?それならば(人々に)皆さん、どうか出てください」と師は言った。師は悪魔つきの女と、ただ二人きりになった。師と女とは問答をしているようであったが、最初のうちは、その意味を理解することができなかった。そのうちに、急に一段声が高くなった。そして、戸のすぐかたわらにいた司祭は、次のようなことばを漏れ聞いた。

「おまえは、それならば、どうしても出たいというのか?」これはヴィアンネー師の声であった。
「うん」
「なぜ?」
「私の前に、私の大きらいな人がいるから」
「おまえは私が嫌いなのか?」と師の皮肉な声が聞こえた。
「そうさね!」とつんざくような叫びが響き渡ったかと思うと、戸が開かれて、完全な常態に復した女教員がうれし涙にむせびながら、静かに、つつましく出て来たのであった。

 一八四〇年、一月二三日の午後、ヴィアンネー師の告解場で次のような驚くべき事件が起こった。
 あるひとりの女が、師の告解場にはいって師の前にひざまずいた。女にはなんの異常な点も見いだせなかった。そして、告解場の周囲には、十人ほどの婦人が自分の順番を待っていた。彼女たちは、その内部からもれる声高の話をことごとく聞いたのである。

 女は罪の告白をしに来たのである。けれども、女はなんとも言わないので、師は「告白をお始めなさい」とくり返して、彼女に注意した。突然、鋭い高い声がした。

「私はたった一つしか罪を犯さなかった。私はそいつをだれでもほしい人にわけてやるんだ。・・・手をあげて、私の罪をゆるせ!おまえはたびたび、私に向かって手をあげるではないか?私はよく告解場の中でおまえのそばにいるではないか?」
「おまえはだれだ?」ヴィアンネー師はラテン語でたずねた。
「かしらの先生」(悪魔のかしらの一つの意味)と悪魔は答えた。

 それから、またフランス語になって、「この黒がらすめ、なんと私を苦しめる奴だろう。お前はいつも、どこかに行きたいというではないか、なぜ行かないんだ?黒がらすの中にも、おまえほど私を苦しめないやつはたくさんいるぞ」

「私はおまえを追い出すために、司教様に手紙を書いてやろう」
「いいとも、けれども、私はおまえが字が書けないほど、手をふるわしてやるぜ・・・今におまえをつかまえるぞ。おまえよりも強いやつを負かしたことはたびたびあるんだ。それに、おまえはまだ死なないでいる。この(聖母を指してきたないことばを言って)がそこからおまえを守っていなければ、おまえをつかまえるのはわけはないんだ。が、あいつがおまえを守ってるし、おまけにおまえの教会の門には(竜=聖ミカエルのこと)がいる。・・・やい、なぜ、おまえはそんなに早く起きるんだ?おまえは紫の衣服(司教のこと)の命令にそむいているではないか?また、なぜそんなやさしい説教をするんだ?おまえはまるで無学者のようではないか?なぜ、おまえは町のやつらのようにえらそうに説教しないんだ?」

 それから、悪魔は順番にほうぼうの司教や、司祭の悪口を言って、さらに最後にヴィアンネー師をののしりだしたけれども、師に対する悪口は、師に対する賞賛にほかならないことになってしまった。

 ヴィアンネー師は老いるにしたがい、悪魔の攻撃はまれになり、また、そのほこ先が鈍くなった。聖司祭を失望させることができずに、悪魔のほうが匙をなげたのである。悪魔は戦いをいどまなくなった。いな、天主が、かくも美しく、かくも純潔なる霊魂の晩年が、深い平和のうちに閉じられることを欲したもうたのである。

 一八五五年から、その死にいたるまで、悪魔が夜間師をなやますことはなくなった。けれども、その代わりに激しい咳が出るようになったので、師はやっぱり眠ることができなかった。

「一日に一時間でも、三〇分でも、眠れさえすれば、私は仕事をやってゆける」

 師は昼食ののちに午睡をして、必要な休息をとろうとしたが、これとても十分にはできなかった。けれども師は、告解場の中における超人的な仕事を少しもやすまなかった。

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カトリック近代主義の系譜:カントの啓蒙思想

2008年09月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 近代主義と呼ばれる異端説の系譜として、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年 - 1804年)の思索を見てみよう。

 ケーニヒスベルクの思想家であるカントによれば、私たちが物において置く(=感覚する)ことしか、先験的に(=必然的なやり方で)物を知ることが出来ない(daß wir nämlich von den Dingen nur das a priori erkennen, was wir selbst in sie legen)(『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft (第二版への序文))。

 カントによれば、人間は「物自体」(Ding an sich) を認識できない。認識の対象は、感覚に与えられ得るものだけであり、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまる。

 カントによると、人間が物それ自体が何であるかその本性が何であるかその真理が何であるか現実が何であるか、知り得ない。カントは、人間悟性は自分の内部(に映る現象)を知るに留まる、とした。今まで、人間の外部にある物事が、人間の知性を規定してこれが何かを知らしめた、これからはカントによれば、人間の悟性が物を規定する、とした。

 カントによれば、因果性・必然性とは、純粋悟性概念であり、形而上学的な価値を持たない。従って、天主の存在は証明できないとし、創造主である天主と被造物との間にある類比(アナロギア)は知り得ない、とする。従って、天主に関する全ての言説は、神話でしかない。例えば、カントによれば、三位一体とは、善良・聖性・正義という三つの性質が一つになっていることの象徴にすぎない、人間となった天主の聖子とは、英雄的な人間にすぎない(『単なる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft, 1793年)。

 道徳において、人間の本性と人間の行動は、常識によれば、その目的によって規定される。しかし、カントは、目的の原理を認めず、善の概念も体験からは得られないとするので、最高の善の存在も知り得ないとする。カントによれば、善なる行為とは、人間の本性に適合する目的・対象をもち、人間を最高究極の目的まで秩序付けるものではなく、ただ純粋な義務による。人間の行為は、全ての対象と目的から独立していて無関係であるからだ。カントは、究極の目的を拒否し、私たちの行為の目的としての善を否定し、最高の善・究極目的としての天主を排除し、「実践理性の自律」を宣言した。これがフランス革命の人権宣言に先立つ、ドイツの天主からの独立宣言であった。

 これが、全てを人間の上に、人間だけの上に築く新しい哲学、新しい宗教、新しい内部からの「啓示」であった。人間の外にある天主もなく、そこからの啓示もなく、全ては人間の上に築かれた。

 カントが幼児に受けた教育は、プロテスタントの敬虔主義であり、これがカントをして文句なしに道徳と宗教の価値を受け取らせた。大学時代にはニュートンの実証科学に影響を受けた。そこで、カントにとって、ニュートンの物理学の明らかさと、自分の心の奥底に道徳律の確実性というこの2つの手を付けて変えることが許されない法則を両立させようとしたのだった(カントの墓碑銘には「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則 Der bestirnte Himmel über mir und das moralische Gesetz in mir 」とある)。

 『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft では、形而上学は、物それ自体 (Ding an sich) を取り扱うので、不確実であり誤っているとしたが、次の『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft では、自分の敬虔主義を擁護するために、「私は、信仰に場所を与えるために理性を壊した」と言って、形而上学に知の価値を与えている。カントによれば、物それ自体について語る形而上学は、盲目的な信仰に還元されて、道徳生活のために使われるとき有効となる。現実世界の物それ自体は、学問的には間違っているが、生活するために便利である限り道徳的に真であるとする。

 つまり、人間悟性の向こう側の外にある、天主とか世界とかは知の対象ではないが、便利で必要なので存在しなければならない。これらは「そうかもしれない」というレベルであるが、しかし「あたかもそうであるように」生活しなければならない。人間は、物それ自体の知を拒否するが、それについてあたかも知っているかのように行動しなければならない。人間は、悟性の向こう側について決して確実ではないが、しかしこれらが確実であるかのように生活しなければならない。

 カント流の徳とは「尊厳において人間をその人格において維持すること」(『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft)であり、必ずしもこの地上での幸福とは結びつかない。従って、来世における報償者としての天主を要求し想定するのみであり、「天主が人間の理性の外に存在することを断定することが出来ない」(「オプス・ポストムム」コンヴォルートゥム7)。

 カントは、啓蒙(Aufklärung, les Lumières, las Luces / Ilustración, Enlightenment)とは何かを説明してこう言う。啓蒙とは、罪深い未熟状態から自らを解放することである。未熟状態とは、他人の指導なしには悟性を用いることが出来ないことである(Was ist Aufklärung?)、と。天主も宗教も排除して、人間が自分の理性だけで自律し、独立する、それが啓蒙である。フリー・メーソンのレッシング(Gotthold Ephraim Lessing)は、「人類の教育」(Die Erziehung des Menschengeschlechts) で、すでに、天主から解放された純粋な理性の宗教を提案している。啓蒙は、天主がたとえ存在しなかったとしても、有効な普遍の道徳律を築くことを追求した。

 カントの「あたかも天主が存在しているかのように」生活する、という態度が、正に、啓蒙の新しい宗教の態度であった。インマヌエル・カントの神は、観念上の仮定の神、啓蒙思想の寛容の価値を保証する神であった。天主が真に存在し給うが故にではなく、イエズス・キリストが真の天主であるからではなく、もしかしたらそうかも知れないけれども、とにかく天主が存在するかのように(veluti si Deus daretur)人生をおくらなければならない、と。

 カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ニーチェ、フォイエルバッハ、マルクスなど、ドイツの観念論は、超越する天主を人間の内部に閉じこめようとする闘いであった。カントによって、天主は、人間の道徳の守護者に成り下がり、フォイエルバッハは天主を人間の生み出したものとし、ニーチェはその死を宣言した。その代わりに人間が、全ての基準となり、原理となり、目的となった。


 聖ピオ十世教皇は、回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』(近代主義の誤謬について)において、近代主義をこう説明して排斥している。

不可知論
6.それでは、哲学者としての近代主義者から始めましょう。近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に不可知論と呼ばれている教説に置いています。この教えによれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。これらの前提を前にすれば、誰もが直ちに自然神学 、[カトリック信仰の]信憑性の根拠 、外的啓示 といった事柄がどのようになってしまうかを見て取るでしょう。近代主義者たちは、これらを完全に取り除けてしまい、彼らがばかばかしく、また久しくすたれた体系と見なす主知主義 の中に含めるのです。また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。

 しかし、第一バチカン公会議は、次のように定義したのです。『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように』
 さらに、『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように』
 そして最後に、『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように』と定めています。・・・


生命的内在
7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。

 したがって、これは人間の内に探し求められねばならないことになります。そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。さらに、あらゆる生命的現象 ───上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれます─── のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。

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アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー:試練

2008年09月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 今年、2008年は、ルルドの聖母の御出現150周年です。聖ピオ十世会アジア管区では、来る10月にルルドに巡礼をすることを計画しています。ルルドからパリへの帰路に私たちはヌヴェール、アルス、ラ・サレットなどに立ち寄って巡礼を続ける予定です。

 そこで、アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーについて『農村の改革者・聖ヴィアンネー』戸塚 文卿 著(中央出版社)より幾つか抜粋を引用して、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介致します。

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に聖なる司祭を与え給え!
アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー、日本に多くの聖なる司祭を与え給え!

アルスの聖司祭、聖ジャン・マリ・ヴィアンネー


試練

 苦しまずには、どんな善も行なわれることができない。人の子はあざけられ、うったえられ、十字架にのぼって世を贖いたもうた。人々のために偉大なる功績をたてた世々の聖人たちは、みな主の御足跡を追って、主に似たものとなったのである。アルスの聖司祭(Saint Curé d'Ars)も、またこれを知っていた。彼は自分の羊の霊魂の救いのために、激しく身をむちうち、また断食し、また、夜眠らなかった。しかし、彼の愛し奉る主は、彼をなおよく御身にあやからせるために、もっとつらく、もっと苦しいなやみを彼に送りたもうた。

 一つの地方に、あるいは一つの社会に、久しい間はびこっている悪習を、矯正し、または、愛好する悪徳を攻撃しようと欲する者は、反抗をさけることができない。ヴィアンネー師も、またこれを期待するところがあった。実に師の成功は恐ろしい試練の結んだ実であったのである。

 まず最初の数ヶ月というものは、村民は聖堂に集まるごとに、絶えまない叱責、強迫、呪いを、説教壇上の師の口から聞いた。会衆がいくら不満な様子をしても、退屈な様子をしても、説教者は少しもたじろがなかった。

「あなたがたにものを言う時には、私はけっしてあくことがないのです。」と彼は彼らに告げた。
「どうだね、神父さんの説教は長いかね?」と、ある時、司教がひとりの老農夫に訊ねた。
とても長いのです。そしていつも地獄のことばかりです。神父さんはいつも両手をうって、《子供たちよ、おまえたちは救われない》と言うか、さもなくば、自分で自分の胸をうつのです。まあ、なんという胃の腑を持っている神父さんでしょう。」と彼は答えた。

 村民たちのつぶやきは、ただ説教のことばかりではなかった。「神父さんは、あまりに厳しい」これが彼に関する定評だった。告解をしても罪のゆるしをくれない。子供の初聖体も延ばされてしまう。

「きっと、うちの子だからなんだろう!」と邪推する母親もあった。

 日曜日に働きたい百姓、居酒屋でさわぎたい男たち、ダンスとその後の楽しみとが好きな若者と娘、彼らはみなヴィアンネー師の敵となった。

 こんな連中のみではなかった。ほんとうに熱心な、よい信者たちも、師の指導をあまり厳格すぎると考えた。師は自分の理想を、すべて師の指導をあおぐ人々の理想としたのだ。師は彼らの心から被造物に対する最もかすかな執着をも滅ぼしつくそうとした。そして、彼らをして克己、制欲の機会を一つものがさせなかった。彼らをもっともけわしい道に導いた。

 師に対する不平は、単につぶやきにのみとどまらなかった。師を憎む人たちは、ついに恐ろしい讒言と迫害との手段にでた。アルス村でも、まず最初に、師の招きに応じて、師のもとに集まった者は、前にもしるしたように、純真な少女たちであった。自己のいやしい楽しみの相手を失った若者たちは、師に復讐をしようとしても、公然と師に反抗することができないので、かげにまわって聞くにたえぬ風説を言いふらした。師は少女たちを不正の愛情をもって愛している。師がやせて、顔色の悪いのは、少女たちを司祭館にひき入れて、毎夜ふしだらな生活をいとなんでいるからだ。

 師の名まえが、わいせつな歌の中に歌いこまれた。師を侮辱する無名の手紙が幾回となく司祭館に投げこまれた。司祭館の門の扉にはりつけられてあったことさえあった。あるいは、また、終夜、司祭館の外でブリキカンをたたいて、そうぞうしくさわぎたてられたこともあった。

 またもっとひどい評判を立てられた。司祭館の付近に住んでいた、ひとりの不幸な娘が、父なし子を宿してしまったことがあった。なんびとの扇動によったものか、この娘は十八ケ月の間、夜な夜な司祭館の窓の下に来て、その子の父はヴィアンネー師だと言って、きたなくののしりちらしたそうである。

 一八二三年にベレー教区が復活して、従来リヨン教区に属していたアルスは、ベレー教区にはいることになった。新しいドゥヴイ司教はヴィアンネー師を知らなかった。そして、師に関する無名の投書が頻繁として来るので、遂にあるほかの司祭を派遣して事実を調査させた。この調査の結果、師の日常に一点の非難すべき点もない事が明白にされたのはもちろんである。しかし、この出来事はどれほど、師の心を苦しめたかわからなかった。

もし、私がアルスに来る時に、ここでどれほど苦しまなければならないか、ということがわかっていたならば、私はそのために死んでしまったかもしれない。」と言ったことさえある。

 これらの悩みを、師はおおしく耐えしのんだ。天主の司祭としての名誉に関するこれらの讒言に、彼の胸ははりさけるばかりであったが、彼は自分の敵をゆるし、そうするだけでなく、彼らのある者が困窮におちいった時には、それを救ってやりもした。そればかりではない、彼は苦悩を愛したのである。

「私は今に私が棒で打ち叩かれてアルスを追われ、私の聖職を停止され、終身、牢屋にいれられる日が来ると思っていた。」

 師は後年、このように親しい人にもらしたが、それにもかかわらず、「愛して苦しむことは、もはや、苦しまないことである、これに反して、十字架をのがれるのは、ますますその重さを感じることなのだ。・・・十字架の愛を願わなければならない。すると、十字架は甘美なものとなる。私は四、五年間その経験をした。私は讒言された。私はその時、実に背負いきれないほどの十字架を持っていた。私は十字架を愛する御恵みを求めた。そうして、私は幸福になった。実にこれよりほかに幸福はない、と、私は自分に言うようになった。」とも言えるようになった。

 師は悪人に抗弁せず、また、自分に託せられた地より去ることもしなかった。彼が自分の事業を、祈祷と、涙と、断食と、不眠と、鮮血とで守っているかぎり、だれひとり彼がなした善を滅ばすことができる者は存在しない。彼は敵の罵声に包囲されながら、自分の部屋にはいるやいなや、地にひざまずいて自らを鞭打ち、あわれむべき罪人の改心のために、自分の無辜の肉身をつんざいていたのである。

 右にのべたような誹謗中傷に耳をかすものは、もちろん、村民の中でも、無知な、あるいはごく不良な一部分にかぎられていた。城の女主人デ・ガレ夫人も村長のマンディ氏も、その他、村のまじめな人びとは、みなこの司祭を尊敬した。

 デ・ガレ夫人に関しては、彼女はヴィアンネー師がアルスに来る前にも、慈悲ぶかく、信仰に富んだ老婦人であったそうであるが、常に家にひきこもって人とまじわらず、その信心は、ひとしきり以前に流行したジャンセニズム(これは主として「天主のおそれ」を説き、またカルヴァン主義に似るところがあった異端で、一六・七世紀にベルギーに源を発し、一八世紀にフランスで、暴威をほしいままにしたものである)の影響をうけてかたよりすぎ、厳格すぎていた。

 それが、ヴィアンネー師の指導のもとに、次第に、うるおいのある敬虔さに変わっていった。彼女は、毎朝、城を出てミサ聖祭にあずかりに来るようになった。しかも、馬車をやめて、徒歩で来たり、冗費を節約して、貧民を助け、めぐんだのであった。のちに彼女は午後にも、なお一回聖堂に参詣し、聖体を訪問するようになった。

 デ・ガレ夫人のほかに、身分のいやしい人びとのうちにも、また数名の敬けんな老婦人がいた。それから、例の師を慕って、その指導を喜んでうけるようになった少女たちの一団がいた。こうしていつのまにか、アルスの聖堂の中には、聖体の前に祈る人影がたえないようになってしまった。いつ行ってみても、必ず、ヴィアンネー師のほかに、何人かがそこにひざまずいていた。
このような人々は、知らず知らず、師の跡を追うて、神秘の道に進みつつあったのだ。主のみ前にとどまる長い時間に、彼らが主に語る言葉は少なくとも、彼らはここにあることに無上の幸福を感じ得たのである。

 アルスの農夫に、ルイ・シャッファンジョンという老人があった。ヴィアンネー師は、彼のことをこう物語った。

「この村に数年前に死んだひとりの男があった。彼は毎朝、畑に出かける前に、教会によって祈りをしたが、ある日、鍬を聖堂の入り口に置いたままで祈りに夢中になってしまった。近所で働いている百姓たちは、どうして彼が来ないのだろうと不恩義に思ったが、ふと思いついて、帰りに聖堂によってみた。はたして、その男はそこにいた。
「いったい、おまえは長いこと、なにをしていたのだ?」と聞くと、
「私は天主をみていました。それから天主も私を見ておいでになった。」と彼は答えた」と。

 師はこの話をたびたびくり返していたが、「彼は天主を見、天主は彼を見ておいでになった。子供たちよ、宗教はこのひと言につきている。」と、いつもつけ加えて村の人たちに教えた。しかり、老農夫が到達した観想の境地こそ宗教の真髄である。

 彼はいつのまにか、ヴィアンネー師の感化によって、旧約の老トビアを思わせるような信仰の人になっていたのだ。

 このような人はあったけれども、一般に、男子と青年とは師の苦心にもかかわらず、婦人たちのように、すべてがたびたび教会に祈りに来るというわけにはいかなかった。農業があまり忙しいからである。それでも、日曜日の夕べの務めのあとに、顕示された聖体の前で、祈祷に一時間を費やす者はまれでなかった。それから、夕べになって、教会の鐘の音がなり響くと、大勢の村びとたちは、三々五々、聖堂に群れ集まって、ヴィアンネー師と声を合わせて、夕の祈りをとなえるようになった。
ヴィアンネー師は、また時々近隣の司祭の手伝いにたのまれて、付近の村で説教したり、告白をきいたり、あるいは病人を訪問したりなどした。彼はいかに、自ら疲れていようが、またそれが夜であろうが、また、雨が降ろうが、風が吹こうが、決して司祭の義務、あるいは愛徳の務めを、ゆるがせにすることがなかった。

 師はアルス村に来てから数年ののちには、非衛生的な生活と、四六時中の精神の緊張と、また、おそらくはドムブ地方の湖沼より出る毒気とによって、慢性的に熟をわずらう体となった。一八二七年に、人々に無理にすすめられて某医師の診察をうけた時の医師の記載が残っている。

 その医師は師に、脂肪、あるいは牛乳入りのスープ、鶏肉、仔牛の肉、ビール、新鮮な、あるいは煮た果実、はちみつ、砂糖と牛乳とをまぜた紅茶、よく熟した多量の葡萄などをすすめている。

 師の平素の、しかも、そのあとまでも続けられた献立を知っているわれらは、この食事表を見て、微笑を禁じえない。

 ある時、それは秋の雨降りの日であった。病人に呼ばれて、他村まで行ったけれども、高熱に戦慄しているからだで、骨の髄まで雨にぬれて、病人の家についた時には、すわっていることもできず、病人のかたわらにあった寝台に横たわって、ようやくその告白をきいた。

「私は病人よりも、もっと病気だった。」と帰って来てから周囲の人にもらした。

 隣人に対する愛も、天主に対する愛と等しく、自己の犠牲を要求するものだ。彼は聖人であったから、また、それゆえに、超自然的のお人好しであったから、善のためには、いくらでも他人の依頼に応じたのである。

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