Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ラテン語典礼 ローマ聖務日課 2017年8月の聖務日課をKindleの中に入れるためのmovi ファイルをご紹介します

2017年07月31日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖イグナチオの祝日おめでとうございます!

 レネー神父様が作って下さった大変良くできた聖務日課のファイルを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。レネー神父様のために、感謝を込めて天使祝詞をたくさん唱えて下さい。

 2017年8月分のローマ聖務日課のmoviファイル

I am very happy to be able to share a well done file in movi format in order to pray the Divine Office (Breviary) during the whole month of August 2017. This was made by Rev. Fr. Laisney. Please offer prayers for him as well while you are praying with his file.

 Breviarium Romanum mensis Augustii anno MMXVII


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


秋田巡礼-霊的講話【6】-2017年5月4日シュテーリン神父様「汚れ無き御心の真の信心とは、汚れ無き御心の生き写しとなること」

2017年07月29日 | お説教・霊的講話
2017年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6

同時通訳:小野田圭志神父



反対を受けたり、難しい状況に置かれた時に、ルチアは私たちがどういう態度を取るべきかという事を教えています。まず汚れなき御心の中に入って、マリア様にアドバイスを受け、マリア様にお願いして、そして私たちを苦しめるような人々の為に祈るという事です。これが汚れなき御心への信心です。

多くの人々が、「ルチアは汚れなき御心の生き写しだ。」

マリア様の持っている諸徳を聖徳を真似る事なく、マリア様を喜ばせる事はできません。「私は汚れなき御心の信心を行っている」と言いつつも、私たちの心をマリア様の心と合わせようと、同じようにさせようとしないならば、それは真の信心ではありません。

汚れなき御心の美しさとは何かというと、全て汚れなく、全て単純に、自分の事はなく、天主の御旨を果たそうとしている事です。

イエズス様が、「あなた方の目が単純ならば、体は全て光に輝く」と言っていますけれども、「明るい」と言いますけれども、この意味においてルチアの生活は、マリア様の汚れなき御心の生き写しだと言えます。何故かというと、「あなたの目が単純であれば」、「単純」という事は、複雑な作戦とか、裏心とか、二重性とか、例えば二枚舌とか、そういう陰謀を使うという事とは一切関係がないからです。

現代の問題は、私たちは非常に複雑になっているという事です。例えば全ての事について疑問を投げかけたり、全ての事について「もしかしたらこれは何か陰謀があるんじゃないか」とか、或いは「巨大なコンピュータが全てを感知していて統治していて、この後ろには裏には何か潜んでいる、陰謀があるに違いない」と複雑にこう考える人がいます。

でもルチアはそうではありませんでした。非常に単純で1つの事だけを考えていました。「天主様を喜ばせる、マリア様を喜ばせる。」これだけです。

「他の人が私の事をどう思うかしら」、「どんな風に言うかしら」という事は全く思いもなく、「イエズス様をお喜ばせしたい、マリア様をお喜ばせしたい。」これだけしか考えませんでした。

ルチアは他の人が一体どうであるか、他の人の態度や言った事を吟味したりとか、裁判官になろうとする事は一切ありませんでした。こういうのは現代のマスメディアが私たちに与えるメンタリティーです。例えばFaceBookでは「お気に入り」とか或いは「好き」「嫌い」とやって私たちが全ての事について投票して、好きか嫌いかと判断する、裁く、というこれが現代のメンタリティーです。

現代の人々は、「あぁ中国の指導者は主席はどうだ」とか「良いか悪いか」或いは「韓国の大統領は良いか悪いか」或いは「隣人は良いか悪いか」という事を判断して、そしてそれに吟味する事に非常に多くの時間を、そして全ての神経を集中させていますけれども、それは私たちに関わりのない事です。

でもシスタールチアはたった1つの事しか望みませんでした。それは「単純さ」という事で、「天主様だけをお喜ばせ、マリア様を喜ばせる。」そうすることによって真理に生きるという事です。

真理を生きるという事はつまり、ルチアにとっては御出現で語られたこの真理を、御出現の真理をそのまま生きるという事ですけれども、それをこの真理をいつも謙遜に、単純に、提示していました。

ルチアは決して御出現を自分の為に利用しようとして、自分を中心にもっていく為に何か活用しようとした事はありませんでした。ですから反対を受けたとしても、私たちがよくやるように怒ったり憤ったりする事はありませんでした。誰かが私に反対する、「マリア様、この方を回心させて下さい、この方が信じるようにして下さい。」そして私は平和を保つ。これがルチアでした。

ルチアは従順でした。ルチアは命令を受けるとすぐさま従順に従いました。長上の意思に、長上の命令に、マリア様の御旨を見ていました。まずルチアはマリア様の命令に、マリア様の御要求に従順でした。マリア様が、「この事は秘密にとっておきなさい」と言われると、ルチアが死の脅迫を受けたとしても、決してそれを明かそうとはしませんでした。多くの人々がそれに反対したとしても。

では一体、第2バチカン公会議の後に色々なエキュメニズムとか、新しいミサが導入された時に、なぜシスタールチアはカルメルの中で何も言おうとせずに、声を上げて「それはいけない!」と反対しなかったのでしょうか。それでは、もしもシスタールチアが私たちの模範ならば、ルチアが何も声を上げずにノブスオルドにそのままミサに与っている、私たちもノブスオルドに与っても良いのですか。

ここで私たちは、「本当の意味での従順」という事をよく知らなければなりません。ここを注意しなければなりません。

「従順」というのはまず、天主に直接関わる、「天主のみに従順」という事です。「従順」というのは、「天主の御旨のみを果たそうとする決心」です。そして人間の長上が天主の権威に属している限りにおいて、私たちはその天主の権威に従う為に、天主に従順である為に、人間の長上に従わなければなりません。

では一体誰が、天主の権威に参与している方でしょうか。それは私たちの合法的な正当な長上です。例えば家族では両親。或いは国家でいえば大統領とか首相とか市長とか、そのような合法的な首長です。教会では司祭や司教様や教皇様です。

しかしこの合法的な長上のある命令が、天主の明らかな御旨に反している場合には、それは私たちはそれに従う事ができないばかりか、それに従ってはいけなくなります。これが教会の従順に関する教えです。

もしもあるお父さんが小さな子供に、「さぁお父さんは命令するよ、このウイスキーを飲みなさい」と言ったとしたら、子供はお父さんの命令に従ってはいけません。もしも司教様がその下の司祭に、罪になるような何かを「こうしなさい」と命令したならば、その下にいる司祭は、司教様の命令を拒まなければなりません。

ペトロとパウロの例もあります、聖書によれば。イエズス様はユダヤ教を廃止しました。そこでキリスト教徒になる為には、そのなる前にユダヤ教徒になる必要はありません。そこでユダヤ教に非常に影響されたキリスト教徒が初代教会には居て、異教徒がキリスト教徒になった時に、まだユダヤ教のような考え方で、「彼らとは、異教徒であったからユダヤ人ではなかったから割礼を受けてなかったので、一緒にご飯を食べない、一緒にいない」という人もいました。でもこれはカトリックの教えではありません、キリスト教の教えではありません。

聖ペトロは、もちろんそれは悪い、そのような態度は悪い事を知っていながらも、それにもかかわらずそのような人たちと一緒に同じような行動をして、その事について非難しませんでした。その時にその事を知ったパウロは、ただ単にそのようなユダヤ教徒のやっているような事をやらなかったばかりか、ペトロの前に行って、皆の前で公に、「あなたのやっている事は間違っている!」と言いました。

ではシスタールチアの状況はどうでしょうか。まず御出現のその当時には、ルチアの合法的な長上は誰かというと、両親と神父様です。

まずルチアのお母さんがルチアに、「娘よ、告解に行きなさい。嘘だと告白しなさい。嘘だと言いなさい」と命令しました。主任司祭はルチアに、「さぁ告解に行きなさい。皆の前で嘘だと言いなさい。」それからそこの市長がやって来て、「さぁ皆の前で嘘をついたと言いなさい」と命令しました。ルチアはそれに従う事を拒否しました。その他の時にはいつもどんな事でも従順に従っていたルチアは、これだけは従いませんでした。

辛い仕事をさせられたり、嫌な仕事を命令されたり、或いは尋問を受けたりした時には、いつも従順に従いました。

「秘密を皆の前で言いなさい」或いは「秘密を言って下さい」と命令されても、それは従いませんでした。何故かというと、秘密を守るのが天主様の御旨だと知っていたからです。

もしも天主様の明確な御旨が、その天主のしもべの命令に反していたとしたら、私たちはそのしもべの命令よりも、天主の御旨を選ばなければなりません。

第2バチカン公会議のエキュメニズムでは、その色々な実践は、確かに天主様の御旨に反しています。しかしそれ以外の、確かに天主の御旨に反している、それはよく分からない命令を受けた場合には、私たちはそれに従わなければなりません。

シスターはカルメルの修道会の中に居て、そして外に出る事もなく、エキュメニズムには参加する事もなく、手に聖体を拝領する事もなくいました。

ですからシスタールチアの従順を見ると、一体どこからどこまでが従順の範囲であって、どこからどこまでが従順の範囲外であるかという事を、この模範から見る事ができます。

ルチアはどのような難しい大変な試練の時にでも、その慰めを汚れなき御心の中に見出していた、避難所は汚れなき御心の中でした。

ルチアはマリア様が仰った言葉を確信していました、「最後には私の汚れなき御心が勝利するでしょう。」

また同時に、状況が悪くなればなるほど、マリア様はその凱旋を準備しているという事を知っていました。

私たちの態度もこれでなければなりません。マリア様が仰る断言を、絶対的な言い方を私たちは信じなければなりません。

マリア様は私たちにこう言っているからです、「あなたが私に反対しようと、賛成しようと、何であろうと私は最後に凱旋します。もしも私に反対するならば、それはあなたの滅びです。でもあなた方は私の愛する子供です。だから私の凱旋を大勝利を、私と一緒に分かち合いたいのです。私に信頼して下さい、盲目的に信頼して下さい。私の望みを果たして下さい。」

「ファチマで私の要求ははっきりと言いました。他の人々から慰めを求めないで、私だけを求めて下さい。私にあなたの小さな手を与えて下さい。そして私から逃げないで下さい。そうするならばどのような暗闇も、どのような嵐の中でも、私は安全にあなたを導きます。そしたらあなたには凱旋が待っています。その時私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、逃れ場であり、あなたを天国に導く道となります。」

では、ファチマの霊性とは一体何と言ったら良いでしょうか?これは、「マリア様の汚れなき御心を通して、私たちの心を変える事」です。

マリア様の汚れなき御心のおかげで私たちは、イエズス様をお慰めする事ができるようになります。これがフランシスコへのマリア様のメッセージです。

マリア様は同時に、隣人の回心、地獄の火から天国へと導く隣人愛の実践を教えています。これが汚れなき御心のジャシンタへのメッセージです。

最後に、汚れなき御心は天主様の黄金の至聖所であって、私たちが全てのその宝を見い出す事ができる至聖所である、と教えています。

私たちの心という本当に惨めて汚ならしい、何にもない空っぽのものでも、マリア様の純粋な愛と一致する事によって天国へと導かれる、というメッセージです。

この霊性を理解した後に初めて、私たちが具体的に汚れなき御心に対する信心をどうやって実践したら良いかが分かります。

1917年6月13日にマリア様はもう一度やって来て、「この世に、汚れなき御心に対する信心について詳しく教える」という事を約束します。それが初土の信心であり、奉献の信心です。

マリア様はこの約束を実現させます。それは1925年12月にポンテベドラにお現れになって、また1929年6月にトゥイでマリア様はお現れになって、この事を約束を果たします。

マリア様は幼きイエズス様と共に現れます。マリア様は手には汚れなき御心をお持ちでした。ちょうど最初に汚れなき御心をお見せになった時と同じように、マリア様の汚れなき御心には茨の冠が被せられて、茨はマリア様の御心を貫いていました。

幼きイエズス様はルチアに言います、「茨に囲まれている私の母に同情しなさい。忘恩の、恩を知らない人間によって常に絶え間なく茨で貫かれている私の母の心に同情しなさい。この茨を御心から抜き去ってあげようと償いをする霊魂は誰もいない。」

するとマリア様は言います、「わが娘よ、私の御心を見なさい。茨に囲まれているこの御心を見なさい。冒瀆と忘恩によって私の心を常に絶え間なく刺し貫いているこの茨を見なさい。少なくともあなたは私を慰めて下さい。」「私の名において全世界に伝えなさい。私は約束します。私は救いの為に必要な全てのお恵みを持って、死の臨終の時に、あなたを助けると約束します。5ヶ月間初土に続けて、告解を受け、御聖体を受け、ロザリオを唱え、ロザリオの15玄義の内の玄義を15分間私と共に黙想する。これらを罪の償いをするという意向を以て捧げるなら。」これらの本当に簡単な、実践しやすい簡単なものを以て約束されました。

「告解」「御聖体拝領」それから「ロザリオ」「黙想」というこの外的なものがあります。そしてそのそれを生かす意向は、精神は、「マリア様の汚れなき御心をお慰めし、そして霊魂を救い、そしてマリア様を愛する」というその意向です。

これらの初土の信心をした霊魂に与えるお恵みをルチアは言っています、「確かに初土の信心は土曜日月に一回だけですけれども、でもマリア様は、私たちがそのような精神で日々、年がら年中生きる事を望んでいます。マリア様はファチマでお現れになる度ごとに、『ロザリオを毎日唱えなさい』と言いました。」

天使が霊的に聖体拝領を子供たちに与えたというのは、これは「マリア様が、私たちが頻繁に御聖体拝領をする事を望んでいる」というしるしです。そこでどうぞ、このマリア様の仰ったこの具体的な信心を実践なさって下さい。肉体が霊魂なしには生きられないように、霊魂だけでも肉体なしには生きられません、この2つが必要だからです。

マリア様のこのご要求で特別な点とは何でしょうか?

「御聖体拝領をする」「告解をする」別にこれはカトリックがいつもやってる事で、特別な事ではありません。「ロザリオを唱える」これも特別な事ではありません、いつも毎日やっている事です。

もしも特別な事があるとしたら、それは現代の人々が忘れているところで、「黙想をする」という事です。

現代の人はこれを何か忘れてしまっています。またすぐこれについてまた後にお話します。この全てについて私たちは「慰めたい」それから「同情する」そして「お愛し申し上げる」という「償いをしたい」という意向で捧げなければなりません。

もしもこの鍵となる要素ができていないならば、ファチマの事について何も分かっていない事になります。マリア様の苦しみに同情する、償いの行為によってマリア様を慰める、マリア様をお慰めして、マリア様に同情するというこの事によって、私たちがますますマリア様に近くなり、そしてマリア様が一体どのような方か、という事を深く理解するようになります。

私たちはこの秋田の修道院に行きますけれども、私たちが跪くのはただの木の木像だけではありません。マリア様の御像はマリア様のシンボルであって、マリア様が本当に涙を流された、これは私たちへの愛のシンボルです。

もしもお母さんの事を大切に思って愛してるならば、もしもそのお母さんが涙を流しているとしたら、私たちは一体どんな態度を取るでしょうか。そのような涙を流す母親を見て、私たちは何とかして慰めたい、何とかしてその悲しめる心を償いたいと思わないでしょうか。

愛する母親は子供が苦しむのを見ると、その子供の苦しみをむしろ取って、自分の方がその倍を苦しみたい、と思います。

これがマリア様の苦しみで、涙です。何故かというと、十字架の下に佇んでマリア様は、ご自分の御子が私たちの罪によって苦しんでいるのをご覧になるからです。イエズス様の苦しみを和らげようとする事は何にもできないマリア様。マリア様は十字架の下でイエズス様に同情し、イエズス様と共に苦しんでおられます、「私の子供たちが御子イエズスと私をこのように苦しめているのだ。」

マリア様の最も愛する御子であるイエズス様は、私たちがマリア様を慰めるのを望んでいます。マリア様の御像の前に行って私たちは、「あぁマリア様これを下さい、あれをして下さい、ああやって下さい、あれもお願いします、これもして下さい、ああして下さい」と言う前に、マリア様のこの苦しみと悲しみを慰めて下さい。

イエズス様はそれを私たちがするのを望んでいます。イエズス様はルチアの方を向いて言いました、私たちの罪によってこんなにも苦しんでいるマリア様のこの茨を、私たちが抜き除いてそれをマリア様を慰めて下さい。

私たちがする事といえば大した事ではありません。マリア様の前に行って跪いて、マリア様の御眼差しを眺め、そして私たちの慰めのお言葉を差し上げるだけです。

ではこの続きは、修道院に行って戻った後夕食の前に致しましょう。



March for Life with Our Lady of Fatima in Japan ファチマの聖母とともにマーチフォーライフ 【日本】

2017年07月27日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マーチフォーライフ2017の英語の記事をご紹介いたします。

 Japanese Turn Out in Force for March for Life
 at CHURCH MILITANT

 または、

 March for Life with Our Lady of Fatima in Japan
 at Militia Immaculatae (the whole world for Christ through the Immaculate)

 或いは、

 March for Life with Our Lady of Fatima in Japan
 at Militia Immaculatae Asia

 をご覧下さい。


その他にも日本語で、

 マーチフォーライフ 2017 ご報告【その1】

 マーチフォーライフ 2017 ご報告【その2】 

 マーチフォーライフに参加して

 または

 マーチに参加された一人ひとりに祝福が豊かにありますように

 もご覧下さい。






 来年のマーチフォーライフ2018にも、私は是非参加したいと思っています。愛する兄弟姉妹の皆様もどうぞご参加下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




” on Marriage ” by Fr. Laisney SSPX

2017年07月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「結婚について」【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

on Marriage
Sunday 9th July 2017 Seoul Osaka


My dear brethren,

We continue our instructions on the sacrament with the last sacrament, Holy Matrimony. Marriage is the life-long union of one man and one woman for the purpose of having children in a holy family. That bond of matrimony existed from the very creation of Adam and Eve: as soon as Eve was formed of the side of Adam, she was united with him in this holy bond: “Wherefore a man shall leave father and mother, and shall cleave to his wife: and they shall be two in one flesh” (Gen. 2:24). St Thomas explains that Eve was formed not of the head of Adam, so that she would not dominate over the man, nor from the foot of Adam so that the man would not crush her, but from the side of Adam so that they would love one another faithfully. We see in the Old Testament some famous marriages such as the marriage of Isaac and Rebecca or of Tobias and Sarah, who were instructed by the Archangel Raphael himself.

It is a dogma of faith that marriage was raised to the level of a Sacrament by our Lord Jesus Christ when He attended the Wedding of Cana and sanctified it by the miracle of changing water into wine. Indeed, that miracle signifies first the changing of the Old to the New Testament; it also signifies the Holy Eucharist, i.e. the changing of wine into His own Blood, which our Lord would perform at the end of His life on Holy Thursday: now the Holy Eucharist is the very Sacrament of the wedding of Christ and His Church, as I will explain later.

Marriage itself is a contract that sets the starts of a bonded life: the ceremony is short, but the effects last for the whole life. It consists in the “exchange of consent”, that is, the giving and taking of one another for husband and wife. By this contract, husband and wife give to each another a full right on the other’s body for the “act of marriage”. Note in passing that the Church’s vocabulary is always modest. St Paul says: “The wife hath not power of her own body, but the husband. And in like manner the husband also hath not power of his own body, but the wife. Defraud not one another, except, perhaps, by consent, for a time, that you may give yourselves to prayer; and return together again, lest Satan tempt you for your incontinency” (1 Cor. 7:4-5). God has so instituted that children should be born in a holy marriage, for the good of the children themselves, because they need a father and a mother, and also for the good of the parents because good children are the best reward of good parents. It is not right to have children outside of wedlock, because it deprives the children of their father.

By nature marriage is a life-long union: it is indissoluble; one may not divorce. Our Lord is very clear: “What therefore God hath joined together, let no man put asunder” (Mt. 19:6). This is first of all required for the good of the children. Indeed, when you compare humans with other animals, you notice that other animals reach adulthood much faster than humans: many animals such as birds or rabbit are adult within less than a year! Some bigger ones such as lions require two or three years, very rarely more. But for humans, even after ten years, children have not yet reached adulthood! The reason is that humans are not led by blind instincts but must lead themselves by their intelligence, and it takes time to learn, to develop one’s intelligence to the point that one is able to take responsibility not only for one’s own life but for a whole family. Therefore, parents ought to stay together for years and years because the children need their parents for that many years! And through these years, the parents have even more children; and even after their last child has reached adulthood, the parents need to give to these children the good example of fidelity. So, they ought to stay together not only for the many years when they have young children but for their whole life.

In the Old Testament, divorce was permitted because of the hardness of their hearts, as our Lord says: “Moses by reason of the hardness of your heart permitted you to put away your wives: but from the beginning it was not so” (Mt. 19:8). Our Lord Jesus Christ has restored marriage to the holiness of its pristine state, and very strictly forbids divorce and remarriage: “Every one that putteth away his wife, and marrieth another, committeth adultery: and he that marrieth her that is put away from her husband, committeth adultery” (Lk. 16:18). In exceptional cases, e.g. when there is family violence and beating, one may ask permission from the bishop for “separation”, i.e. for living separately – but this is NOT a divorce, and does NOT allow remarriage at all.

By nature, marriage is exclusive; one may NOT have relations outside the marriage: this is adultery and a very grievous sin. In the early Church big public penances were given for three crimes: apostasy, murder and adultery. This shows how grievous such a sin is. St Paul is very clear: “For know you this and understand, that no fornicator, or unclean, or covetous person (which is a serving of idols), hath inheritance in the kingdom of Christ and of God” (Eph. 5:5). A good family should have an atmosphere of holiness and purity, so necessary that the children may blossom and grow in all virtues.

By nature, marriage is for the procreation of children, and one may not frustrate the act of marriage of its natural efficacy. Any form of contraception is against the Law of God and a grave sin. Even worse is abortion, which is the absolute refusal of life, and involves four mortal sins and three aggravating circumstances: it is against the 6th Commandment as being the ultimate refusal of transmitting life; it is against the 5th commandment as killing an innocent; it is against the 4th commandment as the ultimate child abuse, against the duty of parents towards their children; and it is against the 1st Commandment as it deprives the child of baptism, which against the grave duty of parents to provide to their children. And the three aggravating circumstances are that the more innocent the victim, the worse the murder; the weaker the victim the worse the murder and the more cruel the murder the worse it is: and who is more innocent than a baby in the womb? Who is weaker than a baby? And if one would do to an adult what is done to babies in the womb, there would be an outcry against such cruelty.

Marriage is not a permission for all kinds of sins against chastity at all: the act of marriage is good and holy within the marriage, but perversions of it are wrong even in the marriage: thus, all forms of sodomy are grievously sinful even in the marriage. St Paul says: “let marriage be honourable in all, and the bed undefiled. For fornicators and adulterers God will judge” (Heb. 13:4).

The first good of marriage is thus the children, and the blessing of marriage is a blessing of fecundity, “that you may see your children, and your children's children, unto the third and fourth generation: and that your seed may be blessed by the God of Israel, who reigneth for ever and ever.” (Tob. 9:11) Yet it is not sufficient to give life to the children, they need education. It is the great mission of parents to give their children a good Catholic education, not only at the natural level to develop their body, their intelligence, their temperament, but above all to transmit to them the spiritual life by providing baptism as soon as possible, by educating them in the faith from their tenderest youth, in all the Christian virtues, especially charity and chastity. Good children will be the best reward of good parents, but it does require some effort!

The second good of marriage is mutual support. “The Lord God said: It is not good for man to be alone: let us make him a help like unto himself” (Gen. 2:18). And the wise man explains: “It is better therefore that two should be together, than one: for they have the advantage of their society: If one fall he shall be supported by the other: woe to him that is alone, for when he falleth, he hath none to lift him up. And if two lie together, they shall warm one another: how shall one alone be warmed? And if a man prevail against one, two shall withstand him” (Eccle. 4:9-12). To love and to be loved is a great consolation and support; this mutual love makes of marriage the deepest friendship at the natural level.

Fidelity deepens this friendship with each passing year. I remember my grandfather telling us on his fiftieth anniversary of marriage: “my little ones, when you reach 50 years of marriage, the joy is not the same as at the beginning, but if you can look back at your life and see 50 years of fidelity, the joy is not less!”

The third good of marriage is the sacrament. This is the fact that the union of one man and one woman in a Catholic marriage signifies the union of Christ and His Church, the Catholic Church. This mystical marriage is the model of the earthly marriage and it is the source of many graces for each married couple. Indeed, this mystical dimension of marriage strengthens its indissolubility, because the union of Christ and His Church is everlasting, it will continue for ever in Heaven, it is not even dissolved by death. Moreover, this union is most holy and chaste, and the source of all holy love. This union is spiritually fecund, with the innumerable number of Saints who are its fruits.

This model shows clearly that true love should be a gift of self to the point of sacrifice, “as Christ also loved the church, and delivered himself up for it: that he might sanctify it, cleansing it by the laver of water in the word of life: that he might present it to himself a glorious church, not having spot or wrinkle, or any such thing; but that it should be holy, and without blemish. So also ought men to love their wives” (Eph. 5:25-28).

As Eve, being formed from his open side, was married to Adam, so was the Church born of the open side of Christ on the Cross and married to Him right there! The water and blood that flowed from the Sacred Heart when it was opened on the Cross signify Baptism and the Blessed Sacrament, by which the Church is gathered and sanctified. Our Lady at the foot of the Cross stands for the whole Church; as in Cana, our Lord addresses her as “woman”, not as “mother”, and He gives her a child: “Woman, behold thy son” (Jn. 19:26). The Gospel does not say it was “John”, but rather “the beloved disciple”: thus, it is all the beloved disciples who are begotten from that holy union of Christ and His Church, and this happened on the Cross. The Cross is a mystery of love, a mystical marriage most fecund in many children: all the Saints.

If the Sacrifice of the Cross is the actual marriage of Christ and His Church, then the unbloody renewal of that Sacrifice in the Mass is most apt to renew the graces of marriage for all Catholic marriages. There, at the foot of the altar, the married spouses renew their gift of self to each other; they learn to sacrifice themselves for their spouse, for their children. They draw from the union of Christ and His Church the grace of fidelity, the grace of mutual love and all the graces they need for their children.

The matter and form of the marriage is the exchange of consent of the spouse; thus, the ministers of the sacraments are the spouses themselves: they marry each other. The priest is there to bless them and to witness their contract in the name of the Church – there is also need of two other witnesses, so “that in the mouth of two or three witnesses every word may stand” (Mt. 18:16).

Indeed marriage, being the foundation of a family, which is the building block of society, is never a private thing: it is a public good for society, both civil and religious. Therefore, it falls under the authority of the state and most of all under the authority of the Church. Civil states have the duty to protect marriage and its indissolubility, and NOT to equate marriage with all kinds of unnatural unions. The Catholic Church has been the staunch protector of marriage; it is the only religion that fully protects its indissolubility. All the protestant sects accept divorce, which is not surprising because as these sects are themselves divorced from the Christ, separated from the Church.

The Church has the right to legislate about marriage. In particular, it has put some impediments, in order to protect the sanctity of marriage and family. An impediment is a circumstance that prevents either the validity or the liceity of marriage. Thus impotency, consanguinity, a previous marriage, priestly ordination, certain kinds of crimes are impediments that prevent the validity of marriage.

The effects of the sacraments are at a double level: the first effect is the bond of marriage, a spiritual bond that will last for the whole life, until death. That bond is signified by the rings that they give to one another. That bond signifies the bond between Christ and the Church, and is the source of the second effect: grace. Well received, the sacrament of marriage does give an increase of sanctifying grace, and many actual graces throughout the married life, to help the spouses fulfil the mission God gave them in the family. One great means to continue to receive these actual graces in abundance is family prayer: every day the whole family gathers to pray together. Regularity is the key: it is more important to have daily even a short prayer, than once in a while the whole Rosary. In my own family when we were little children, we only had one decade but every single day without fail; when we grew up my father added a second decade at the occasion of a Lent, and the next year a third decade; but we had the whole Rosary only later when we were all grown up. That family prayer is a very important means to continue receiving in abundance the graces of the Sacrament.

Young people ought to prepare themselves for a good and holy marriage by faith and purity: these are the two most important ingredients of a good preparation for a holy marriage. Purity and virginity before the marriage prepares for perfect fidelity afterwards, and is thus a source of great joy and peace. Faith gives union at the spiritual level and not only the physical level, so that the spouses have one overview of the purpose of life, of the education of children, of the importance of true worship in their life, etc. There is also need of much prayer, so that the Lord would direct you as He directed young Tobias to find a good wife.

Let us pray for all those who are married, that they may be faithful, faithful to God and faithful to one another, that they may receive abundant graces of true life and true love so that by imitating faithfully Mary and Joseph, they may go to Heaven! Amen.

マーチフォーライフ2017が、私たちに考えさせてくれたこと:全ての人間の命は天主様から与えられたかけがえのない贈り物

2017年07月25日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月17日の東京でのミサのご報告の続きをご紹介します。

 マーチフォーライフ2017は、私たちに多くのことを考えさせてくれました。




 まず、全ての人間の命が天主様から与えられたかけがえのない贈り物である、と言うことを。

 だから、全ての命を私たちは両手を大きく広げて受け入れなければなりません。全ての赤ちゃんの命を私たちは愛さなければなりません。この罪のない弱い赤ちゃんの命を受け入れ、私たちの隣人の兄弟姉妹を愛さなければなりません。

 私たちの希望であり宝である日本国民の赤ちゃんの命を奪ってきたという、忘れ去られている、胸のいたくなる悲しい現実に関心を持たなければなりません。


 同時に最も声を大きく上げて言いたいことがあります。それは、私たちは、誰にも謝罪を要求したりしないし、断罪したりしないし、責めたりもしない、批判したりもしない、ということです。とんでもない! 「堕胎という罪」は断罪しますが、人を責めるのではありません。

 私たちの主は、私たちを赦すために幼子になり、私たちを愛して赦すために無罪であったにもかかわらず十字架に付けられて、私たちの罪の償いを果たして下さったのですから。私たちはただただ憐れみ深いイエズス・キリストの憐れみと赦しとを乞い求めるのみです。

 日本の数百万名のカトリック信徒の方々は250年以上に亘って、たった一人の狂人のような為政者にはじまった政策により、虐待され殺害されてきました。そのような殉教者たちは、迫害する人々を憎まず、彼らの善を求めて祈りながら殉教していきました。これがキリストの「正義」だったのです。

「自らを赦される対象ではない・自分は何の罪もないと思い、他の人々を批判する」ような不遜な態度は、キリストの教えではありません。

あたかも自分には罪がないかのように「私たちが望むのは、日本が自分たちの犯した罪から解放されることだ」とうそぶきながら殉教者が亡くなったのではありませんでした。私たちの祖先のカトリック信徒らは、赦し、赦し、赦しながら、殉教していきました。他人を赦すこと、それがキリストの教えです

 私たちが明るい未来をつくっていくために私たちのなすべきことは、受けた悪や害悪を赦すことです。天主こそが私たちの裁き主であるからです。

 しかし、罪のない子供たちをまだそのまま殺し続けていると言う事実は、そのまま残っています。私たちは、この殺人がなくなることを願っています。

 日本は、大東亜戦争の後に、真摯に平和を求めて来ました。外国に対して要求される賠償を誠実に執行し続けてきました。戦後72年の後、第二次世界大戦について、私たちは外国の方々から後ろ指を指されることはありえません。天主様は、私たちの努力と誠実さを見て下さり、憐れみ給うからです。

 罪の現行犯で逮捕されたマリア・マグダレナを赦し給うた天主は、何故、第二次世界大戦という戦争を知らずに生まれた私たち日本国民に、責任のない戦争の責を負わせ、担えきれないほどの荷を負わせることができるでしょうか?

 しかし、日本人が、自分たちの子供に対して今現在行っている戦争の責任については、天主は日本人にその責任を取らせます。それが天主の正義だからです。

 まだ時があるうちに、この戦争を終わらせなければなりません。日本民族の存続にかけて、私たちの子供たちの虐殺を終わらせなければなりません。

 そして、ファチマの聖母が私たちに教えて下さったことは、私たちが罪を犯した人々の代わりに祈りと償いを捧げなければならないと言うことです。戦争を終わらせるために、ロザリオを毎日祈らなければならないと言うことです。

主よ、われらを憐れみ給え!

ファチマの聖母よ、われらのために祈り給え!

【報告】
「堕胎はどうして罪になるか」の講話の要旨

聖ピオ十世会では産みの日の午後にプロライフに関する講話・勉強会が行われました。)
天主様は人間を天主の似姿としてつくられたので、天主の像を破壊することが赦されていないように、天主の似姿である人間を破戒することもゆるされていない。天主を傷つけることになるから。
人間には、他の生物にはない尊厳が与えられているので、これを大切にしなければならない。

堕胎の罪が反している戒律は以下の四つである。
第5戒  なんじ、殺すなかれ
第4戒  なんじ、父母を敬うべし
第1戒  われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
第6戒  なんじ、かんいんするなかれ

第5戒について・・・堕胎は殺人であること
第4戒について・・・天主の代理者として義務をする(父親母親の役割)に反している
第1戒について・・・まことの天主を知り礼拝する機会を奪われる
第6戒について・・・いのちを正しく伝達する個人のいのちのみならず人類全体のいのちの伝達することに関して反している

たとえ誰かが人を殺しても破門されないけれど、堕胎に協力した医師や看護婦は破門される、それほどお母さんのおなかの中で守られるべき無抵抗の赤ちゃんを殺すことの罪は残虐でその罪は大きいとされている。

天に復讐を叫ぶ罪というのがあるけれど、この堕胎という罪もそのような恐ろしい罪の一つである。
この「天に復讐を叫ぶ罪」があるところ、天主はこの地上を罰してそのままでは置かない。例えばソドムとゴモラはそのような罪のために地上から姿を消してしまった。そのことに気づいていようと気づいていないとにかかわらず、地上に平和と安全が守られるためには人間には守らなければならない戒律がある。(例えば恐ろしい天災・災害が起きてしまって人間にはどうしようもないような破壊力でこの地が無に帰すようなことがあるとしたら、この「天に復讐を叫ぶ罪」のせいであろうか。)

【報告】
小野田神父様お風邪気味のなか真夏の太陽の照り付ける中ずっとロザリオを唱えれてとても感動いたしました。(お風邪大丈夫でしょうか?)あるノブスオルドの私も良く知っている敬虔なカトリック信者の方(まだおそらく聖ピオ十世会に来たことない方)がずっと小野田神父様から離れないで一緒にロザリオと祈りを捧げられていました。

聖マリアの汚れなき御心のうちに!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

マーチフォーライフのレポートやお写真などを拝見させて頂きました!
ファチマのマリア様の御像が本当に美しくて素晴らしくて、日本の東京の大都会で、このようにマリア様と共にマーチフォーライフができた事にとても感動致しました。
そして今年は去年よりも倍以上の方が参加されたという事でとても嬉しく思います!
神父様も、去年は小野田神父様だけでしたが、もう一人アルバをお召しになった神父様が参加して下さってとても嬉しく思います!
日本を本当に愛して下さっているマリア様に感謝します。そして暑さの中、体調が悪いにもかかわらず歩いて下さった小野田神父様、参加者の方々、マーチフォーライフの為に労を執って下さった池田様、他実行委員会の方々、警察の方々に感謝します。
来年はファチマのマリア様の御取り次ぎによって、更に多くの方が参加して下さいますように。その中に、できれば私の霊魂も数えられますように。
そしてこの恐るべき国内戦争を起こしてしまっている日本に、マリア様の汚れなき御心が凱旋しますように。

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(*^^*)
次の御ミサまで、償いの精神をもって、日々、何度も霊的御聖体拝領をしようと思いました! 15分の黙想が毎日なかなかちゃんとできないので、マリア様の汚れなき御心の中に深く入るために、黙想の大切さをもっと理解することができますように!
デオ・グラチアス!

” the forgiveness of offenses ” Sermon by Fr. Laisney SSPX

2017年07月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

the forgiveness of offenses
Sunday 9th July 2017 Seoul Osaka

My dear Brethren,

The holy Gospel today teaches us a very important point of the Christian morals: forgiveness of the offenses, reconciliation with our brethren: “If therefore thou offer thy gift at the altar, and there thou remember that thy brother hath anything against thee; Leave there thy offering before the altar, and go first to be reconciled to thy brother: and then coming thou shalt offer thy gift” (Mt. 5:23-24). St Augustine comments: God does not want our gift since He owns all things, but He wants ourselves, our heart, and our heart belongs truly to God when it is filled with the Charity of the Holy Ghost, that necessarily includes charity towards the neighbour.

This duty to go and reconcile applies first of all to the person who has offended his brother, his neighbour, but it also applies to the person who has been offended. The one who has offended the other has the duty to go and ask forgiveness, apologizing for the offense done and making reparation for it. The one who has been offended has the duty to welcome and easily forgive the offense. Our Lord comes back many times on this duty to forgive: “When you shall stand to pray, forgive, if you have anything against any man; that your Father also, who is in heaven, may forgive you your sins” (Mk. 11:25). “For if you will forgive men their offences, your heavenly Father will forgive you also your offences” (Mt. 6:14). “But if you will not forgive, neither will your Father that is in heaven, forgive you your sins” (Mk. 11:26).

Forgiveness is not weakness, but rather a victory of good over evil, as St Paul says: “To no man rendering evil for evil. Providing good things, not only in the sight of God, but also in the sight of all men” (Rom. 12:17). And he concludes: “Be not overcome by evil, but overcome evil by good” (Rom. 12:21). Otherwise, if one renders a second evil for a first evil, it is a vicious circle: the other will do the same and render a third evil, and then a fourth evil, back and forth for ever. The only way to break this vicious circle of rendering evil for evil is, as St Paul said above, not to render evil for evil but to overcome evil by good. This is the Catholic way, this is truly the way of our Lord Jesus Christ.

In order to forgive our neighbour, we must renounce our own selves: and this is the source of difficulty. To forgive is the perfection of giving: it is not only giving things, but giving our own heart, renouncing our rights in order to please God and restore friendship with our neighbour. Our Lord Jesus Christ gave us the great example on the Cross: “Father, forgive them, for they know not what they do” (Lk. 23:34). In the very act of forgiving our neighbour, we learn as in a small mirror the beauty of the forgiveness and the depth of love our Lord has had for us.

Some people are willing to give, but not to forgive: that is not good enough. Our Lord asks from us a higher perfection, and in His Providence He sometimes does not prevent that we be offended, so that we may have the occasion to forgive our neighbour. May we joyfully take that occasion!

One common occasion of offenses is by words. Gossiping, all kinds of criticisms, unjust accusations and suspicions, condemnations of others more than they deserve, etc. All such words can badly hurt our neighbour and we must forbid ourselves such evil words. Now there are degrees in these evil, but we should not even start. Gossiping is the first degree: it is to speak about true and public evils, such as evils of public persons that are fully documented in newspapers, or known evil within one’s own circle of friends. Gossiping is wrong because it relishes in evil, as if one takes pleasure to speak about such things. This is obviously wrong. If such subject is brought up, we should ask what can we do to help correct that evil – at least to pray for the correction of the evildoers. We should not add to such gossip by saying: and this one did this and that one did that, etc.

The second degree is detraction, when we reveal the hidden evil of others. This often happens when we have been offended by one but others do not know about it, and we complain to them of the offense of the first – and they are not in a position to help correct the situation. This is wrong, both because it is speaking about the evil of others, but also because it attacks the good reputation of the first person. Moreover, when one has been hurt, one has usually the tendency to increase the offense, to make it look worse, to see evil intent in the person who offended us, etc: such tendency easily leads to the third level of evil speech: calumny.

Calumny is indeed worse, accusing another of an evil that he or she did not do. St Thomas Aquinas explains that such calumny can come because the author of the calumny is himself an evil person, and evil persons tend to think everyone else is like to them! They sometimes think virtue is not possible and tend to accuse of hidden sins those whom they cannot accuse of open sins, so they see evil intent where there is none, etc. St Thomas says that it can also come from the fact that the author of the calumny has an evil disposition towards the other: if he has been hurt by the other, he accuses the other with exaggeration, increasing the evils; if someone harbours some hatred towards another, he will interpret in evil every action of the other person, most of the time falsely.

Calumny can be a mortal sin: if we accuse someone else of a grievous sin which he did not do, then we are guilty of the grievous sin of calumny. If we accuse someone of a venial sin, then the calumny is only venial. Detraction also can be mortally sinful, if one without any reason reveals publicly a hidden grievous sin.

St Thomas explains that these sins are against justice, because they deprive the neighbour of his good reputation. We would not want others to do that to us, so we should not do it to them! It goes without saying that such sins are also against charity. Charity does not even think evil of the neighbour: it “thinketh no evil;” (1 Cor. 13:5). At the root of these sins there is often pride: one judges others because one thinks oneself superior to the others; we want others to do what we want, as if it would be the only right way. Where the Church herself makes no rule, we add our own rules. At the root of charity, there is humility, because “God resisteth the proud, and giveth grace to the humble” (Jam. 4:6). The humble easily renounces his own way to go along the other, as our Lord says: “whosoever will force thee one mile, go with him other two” (Mt. 5:41).

St Thomas explains that these sins are against justice, because they deprive the neighbour of his good reputation. We would not want others to do that to us, so we should not do it to them! It goes without saying that such sins are also against charity. Charity does not even think evil of the neighbour: it “thinketh no evil;” (1 Cor. 13:5). At the root of these sins there is often pride: one judges others because one thinks oneself superior to the others; we want others to do what we want, as if it would be the only right way. Where the Church herself makes no rule, we add our own rules. At the root of charity, there is humility, because “God resisteth the proud, and giveth grace to the humble” (Jam. 4:6). The humble easily renounces his own way to go along the other, as our Lord says: “whosoever will force thee one mile, go with him other two” (Mt. 5:41).

Yet if we are the victims of such words, or of such calumny, we should not render evil for evil, nor get angry, but rather thank God. Indeed, we should remember those words of our Saviour: “Blessed are ye when they shall revile you, and persecute you, and speak all that is evil against you, untruly, for my sake: be glad and rejoice, for your reward is very great in heaven. For so they persecuted the prophets that were before you” (Mt. 5:11-12).

Up to here, I spoke about evil words. But words proceed from thoughts. We must not say evil words; we must not even have evil thoughts about our neighbour. Such are called by St Thomas “rash judgements”: condemning others with insufficient evidence; interpreting in evil that which is not necessarily evil; seeing evil intention where there may be none; exaggerating the fault of others in our mind; and worse: wishing evil to our neighbour. Even if we do not let such thoughts be expressed in words, we should not even harbour them at all: it is already sinful to harbour them.

One should therefore fight against such evil thoughts; the best way to fight against such is to look at our Lord Jesus Christ crucified, and repeat with Him many times: “Father, forgive them, for they know not what they do” (Lk. 23:34). We should beg the Sacred Heart “to make our heart like unto His”. I beg you, my dear brethren, that there be no such words, not even such thoughts among all of us, so that our Lord may reign among us. Let us ask the Blessed Virgin Mary, Mother of mercy, Virgin most merciful, to help us and give us her thoughts, the thoughts that were in Her Immaculate Heart so that we learn to love God and our neighbour as our Lord Jesus Christ loved His Father and loved us. Amen.

ロザリオの十字軍:2017年 7月 19日現在、日本から今までの総計で、ロザリオ18205環、犠牲 59267回

2017年07月19日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 7月 19日現在、日本から今までの総計で、ロザリオ18205環、犠牲 59267回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ175947環、犠牲67530回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
ロザリオの十字軍のご報告
アヴェ・マリア・インマクラータ!

Bonsoir、小野田神父様、

ロザリオの十字軍のご報告です。

5月1日~5月31日
ロザリオの祈り 78環
犠牲 31

6月1日~6月30日
ロザリオの祈り 87環
犠牲 30

ロザリオの十字軍もあと一ヶ月ほどとなりました。ロザリオの祈りも犠牲も良くできないときもありますが、それでも聖母の汚れ無き御心のために、できるだけたくさんお捧げしてゆきたいと思っております。

【報告】
アヴェ・マリア インマクラータ!
6月15日から7月15日のロザリオは2人合わせて332環でした。
マーチとファティマ巡礼が実りあるものとなりますように。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

遅くなりまして申し訳ありません、
聖なるロザリオ 3環 犠牲 250回

御手数御掛け致しますが、どうぞ宜しく御願い致します♪

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

遅れましたが 6月のロザリオ十字軍の報告をさせていただきます。
☆ ロザリオ  58環
☆   犠牲   90回

以上です。

聖マリアの汚れなき御心のうちに!

2017年7月13日~15日(大阪)、7月16日~17日(東京)の聖伝のミサ(ラテン語ミサ) 聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2017年07月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月13日、14日、15日と大阪で聖伝のミサを捧げました。
大阪では、7月13日にミサの後の御聖体顕示による聖時間の間に、ファチマ百周年を記念してに私たちの聖堂を聖母の汚れなき御心に奉献しました。

 7月16日、17日には東京で、ミサ聖祭を捧げることができました。
東京では、7月16日の主日のミサの直後、司祭の退堂の前に、私たちの「聖なる日本の殉教者巡回教会」を聖母の汚れなき御心に奉献しました。

 7月17日には午後の4時からのマーチフォーライフにも参加して、ファチマのマリア様と一緒に歩くことができました!とても良い一日でした!
 今年のマーチフォーライフには去年の倍を超える方々が参加することができました。マリア様に感謝!
 素晴らしいマーチフォーライフを準備してくださった関係者の方々には心から感謝します。このマーチフォーライフのことを多くの方々に宣伝して広めてくださった方々にも感謝します。ファチマのマリア様を素晴らしくお花で飾って下さった方々に感謝します。熱い中をマーチフォーライフに参加してくださった方々に感謝します。マーチフォーライフが安全に無事に行われることができるように心を砕いてくださった警察の方々に感謝します。
 そして、私たちに多くの祝福と恵みと幸せを与えようとしてくださるマリア様に感謝します。ファチマのマリア様、私たちをお守りください。日本の小さな赤ちゃんたちをお守りください!
 このような素晴らしい時を、来年も過ごしたいと思います。マリア様、私たちのためにいつもお祈り下さい!日本を守って下さい。日本と世界に平和をお祈り下さい!

 以下に愛する兄弟姉妹の皆様から頂いたご報告を紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ !

8月13日~15日の大阪でのミサの報告をお送りいたします。

13日(木)聖母の汚れなき御心の随意ミサ には13人が、
14日(金)聖ヴォナベンテゥーラのミサには9人が、
15日 (土)聖ヘンリコ皇帝のミサには11人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

13日はファチマの聖母第三回目のご出現の記念日で、しかも100周年にあたる今年、聖母の汚れなき御心の御ミサに与る事が出来た事は大きな喜びでした。

お説教ではマリア様の7月のご出現を振り返って、マリア様が子供達を通して私たちにお求めになっていることをもう一度よく黙想しました。地獄が存在すること、雪が降る様に霊魂たちが地獄に堕ちている現実から目をそらさず、そのために悲しんでおられる天主様のために三人の子供達に倣って霊魂の救いのために犠牲を求めておられること。毎日ロザリオで懇願し、償いの御聖体拝領をすることなど、この日、今年だけでな く、息を引き取る最後の時まで忠実にマリア様の御望みを果たす事ができるお恵みを乞い求めました。

御ミサ後に御聖体降福式があり、御聖体の前でロザリオを唱え、そのあとに大阪のお聖堂と、神父様、信徒たちとその家族をマリア様の汚れなき御心に奉献し、名前が書かれた紙を金のマリア様の汚れなき御心のペンダントの中にいれてマリア様の御像に安置しました。

マリア様の汚れなき御心の中に閉じ込められていることをそのペンダントを見る度に感じることが出来て、本当に幸福です。
自分のちいさな苦しみや惨めさを思って悩む時、マリア様の御心は真の私の避難所であると確信できました。

14日、15日のお説教も素晴らしかったのですが、13日のこの奉献のイベントがあまりにも感動的だったので、そちらの感想は思いつかなくなってしまいました。すみません。(;_;)

15日土曜日の御ミサの後は聖書の勉強シリーズで、ヘロデ大王の三人の息子について詳しく教えて頂きました。
この一連の講話を聞くことで、聖書に出てくる人物の特徴や歴史的背景、人間関係を知る事ができ、聖書が昔話やおとぎ話ではなく、現実的な歴史書である事がはっきりとわかりました。2時間も講義をして下さった小野田神父様は疲労困ぱいされたに違いありませんが、
また、次回を楽しみにしてしまいます・・・・。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(*^▽^*)
カルメル山の童貞聖マリア様の記念日おめでとうございます!

7月13日は特別に御ミサを追加して下さり、御聖体降福式と、そして聖母の汚れなき御心聖堂を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り、そして聖母の汚れなき御心聖堂の信徒とその家族を聖母の汚れなき御心に奉献して下さり本当にありがとうございます!!

信徒たちとその家族が、マリア様の汚れなき御心の中にまさに入っていくその瞬間を目の当たりにすることができて、大きな慰めと喜びと平安に心が満たされました。金輪際マリア様の汚れなき御心の中という事で本当に嬉しいです。ありがとうございます。
明日はマーチフォーライフですが、どうぞ、熱中症などにはお気を付け下さいm(_ _)m

マリア様の茨で刺し貫かれた汚れなき御心をお慰めするために、明日は多くの方がマーチフォーライフに参加されますように。私も霊的にですが、参加させて頂きます。
デオ・グラチアス!


【報告】【東京7月16日】
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 41人(内、子供4人)


【報告】【東京7月17日】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供0人)
女: 14人(内、子供1人)
計: 29人(内、子供1人)

午後の講話参加者数
男: 6人(内、子供0人)
女: 11人(内、子供1人)
計: 17人(内、子供1人)

マーチ・フォー・ライフ参加者数
男: 10人(内、子供1人)
女: 16人(内、子供1人)
計: 26人(内、子供2人)



【報告】【東京7月2日】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
遅くなりましたが7月2日の御ミサの報告です。

この日は聖霊降臨後第4主日であるとともにご訪問のマリア様を記念して祝う日であるということでした。

この日の聖福音はペトロのすなどりのことでした。イエズス様はシモンの船に乗って群衆に教え始めてシモンにすなどれと命じ給うたのでしたが、このことがペトロが教皇の座につくものであり、カトリック教会の教皇は救霊のため霊魂をすなどる働きをする使命をイエズス様からいただいたことを表しているのだと知ることができました。
また小さな魚はこのすなどられる霊魂であるカトリック信者たちで、イエズス様は大きな魚であることの象徴だということがわかりました。

この人をすなどる漁師というイメージは、(教会の出しているイメージの先週の主日で黙想した)良き羊飼いと失くした銀貨を探す女というイメージに続くもう一つの教会のイメージだということがわかりました。

次に聖ペトロに与えられた役割の目的は何かというお話しでしたが、エルサレムにおいては主であるイエズス・キリストが十字架につけられて死に至らしめられた呪われたところとなったが、ローマにおいてはペトロとパウロが使徒の殉教の死という聖別した血を流すことで教会の基礎の座として定められたということでした。何故エルサレムではなくローマにカトリック教会の中心が置かれたのか理解できました。

ところで私はこの日お説教を拝聴しながら思い出すことがありました。

お説教の中で選善の決心についてのお話しのとき、”入祭文に「主は私の光り・・・」とあるように洗礼の水によって救い出されご聖体によって養われて天国の本当の光りに導きだされる・・”と聴きながら、ひとつのイメージが広がりました。

私たちが今いるところは薄暗い湖水のなかのようだと思い、湖面の上から注がれる光は天国の光りのようだとイメージしていました。水の中で泳ぐどの魚も今泳いでいる薄暗い湖水のなかがそれほど居心地の悪いところと感じていないようだ。でも光に向かう魚はきっと光そのものに引き寄せられている。

するとそのイメージがある過去の記憶と結びつきました。

それは小さい時の体験で、たぶんまだ10歳くらいの頃のこと、食卓のテーブルを囲む年配の女性たち(母とか祖母とか叔母とか・・・)が会話してます。
「こんなふうに食べて笑って泣いて毎日過ごして歳を取って一生過ぎて行くのかね」みたいな意味の会話でした。小さい私はその会話を黙って聞きながら「違う、そんなんじゃないと思う、生まれてきて生きるというのは」とこころのなかで感じました。そんなことの繰り返しでそのまま終わるのではないと感じる自分の気持ちに驚きそのことを忘れられなかった。それは薄暗い濁った生温い湖水の中で漫然と泳いでいるようなもので、何かもっとあるに違いないとと感じたのでした。

まだカトリックのことを何も知らかったのに、そんなふうに感じていて、その何かというのが何を意味するか分かったと思ったときの喜びは大きいものでした。でも、うっかりするとすぐに薄暗い海水のなかを漂う安易な気楽な惰眠に引き込まれそうになるのを感じてハッと思います。そのハッという思いがこのお話しの中で甦り、私は海水の中に浸りきって泳いでいるのではなく、いつも光の方海面の上から注がれる光を望もうと思いました。

お説教を聞いて、光の方湖の上の方から注がれてくる光をもっとしっかり望もうと思いました。薄暗い水のなかで眠り込んでいず光に向かって水の上に顔を出そうとしなければ眠り込んでしまうから大事なことはその光を望んで水の中から出ようとすることだと思いました。

ちょうど私はペトロの船の網にかかり舟の上に引き上げられる魚なのでしょうか。

この日のミサ典書でこの人をすなどるペトロの話の時に、なんて適切な入祭文とか配置されているのだろうと思いました。私は奉献文の中にあるように「わたしの目を照らし給え、私を死の中にねむらせ給うな!」といつも注意深く祈らねばなりません。この世の薄暗い水の中泳ぎ回るだけでなく、あらん限りの力を振り絞って上からの光りを絶え間なく求め続けたいと思います。

ファチマやルルドなどでマリア様が光そのものとして光の中に光と共に御出現されましたがその光を認識すると光の世界の方がリアルな現実となり、この世という薄暗い湖水のなかは通り過ぎるべき通過する世界だとわかります。

「光よ、私の目を照らし給え、私を死の中にねむらせ給うな」といつも祈り続けたいと感じます。

話が私事になってしまった後ですが、もう一つ教皇様のために祈ることが大切とわかりました。ファチマの子どもたちが教皇様のために祈ったように。

そして、今日のもう一つの祝日の「マリア様の御訪問」を黙想しました。マリア様は教会のイメージであり、ご聖櫃のようにイエズス様を運ばれた、ご胎内のイエズス様によって洗者聖ヨハネはすべての汚れをゆるされた、マリア様のいらっしゃるところにはイエズス様の恵みもすべて一緒に行きます、マリア様のようになりますようにイエズス様をいつも身に運ぶものとなりますように、カトリック教会がマリア様のイメージを実現することができますように、とのお話を心に刻みました。

それとともに今日の聖福音の魚のイメージのように光の中に出ることができるようにとのイメージのように、お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんたちのためにその命が守られねばならないとご訪問の信心として教会は教えているとのことマーチフォーライフがすぐ近くに迫る中この祝日はすごい良いタイミングだと思いました。

神父さまいつも素晴らしいお説教をありがとうございます。

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

7月2日の公教要理の報告です。

ヘロデ大王までのイスラエルの地理と歴史を復習して、それからヘロデ大王の子どもたち(たくさんいる子どもたちの中の聖書に出てくる3人の子ども)について学びました。
復習
1、ヘルモン山のずっと南にあるフィリッポのカイザリアという所から湧き出る水を起点とするヨルダン川はそのまま南に下りフレー湖ガリレア湖(-208m)そしてついには死海(-374m)まで至っている。

2、ヨルダン川の西には高い山脈がそびえていて、エルサレムの都市でも標高800mであり、起伏の激しい険しい地形が交通を遮断したりパレスチナを外敵から守る要塞のようになっていた。(ここはエジプトアラブ・シリア・ヨーロッパなどの地方を結ぶ交通の要の場所であった)

3、ヨルダン川の西はユダヤ地方、その北にサマリア地方、その上にガリラヤ地方、ヨルダン川の東はトランスヨルダン地方となっていた。

4、アレクサンダー大王が広大な領域を征服した(紀元前4世紀頃)その死後に2人の人物がこのパレスチナ地方を欲しいといった。シリアのセレウコス朝とエジプトのレジド朝(プトレマイオス朝)で争った。結果、セレウコス朝が勝利する。ギリシャの神々を持ってきたが、ユダヤ人がそのことについて抵抗する。そのときにマカベオ兄弟が立ち上がり抵抗する。

5、マカベオ兄弟の中で生き残ったシモンがアスモネア朝という王朝を始める。(ダビデ王朝などは権力がなくなっていても血統は残っていた。)

6、シモンが亡くなると、子孫で後継者争いが起こり、エルサレム神殿も破壊されて、荒れ果ててしまう。特にヒルカノⅡ世とアリストブルⅡ世との争いがひどかった。エルサレム神殿のなかでは儀式は行われていたが壁は崩れ廃墟同然だった。

7、共倒れになるので、ローマに仲介を頼んだ。ローマのポンペイウスはそれを機にエルサレムを平定してしまう。シリアもイドゥメア人のアンティパルのコントロールのもとにいなさいと言われる。紀元前63年。アスモネア朝はシリアの総督の管轄のもとに置かれた。

8、ローマではカエサルがポンペイウスと戦う。アンティパルは寝返りカエサルに靡いてポンペイウスと戦う。アンティパルはカエサルのもとでも(ユダヤに)支配権を持つことになる。ヒルカノ2世やアリストテル2世に対して分国王としての地位を与える。アンティパルは総督の地位に昇り詰める。しかし毒殺される。

9、その子供のヘロデは世襲制ではなくローマの許可が必要とされるためにローマへ行く。分国王となれと言われる。カエサルの命令。ヒルカノ2世は司祭となれと言われる。

10、ローマの力が弱体化したのを機に、アンティゴン(アスモネア朝の子孫でアリストブル2世の子供)が立ち上がる。ヘロデはローマに逃げる。そしてローマから王のタイトルをもらう。ローマの忠実なしもべとしてアンティゴンと戦う。三年の戦いの後に、アンティゴンはローマで斬首の処刑を受ける。ヘロデはエルサレムに戻って来て、ユダヤ人の王として君臨する。ヘロデ大王となる。

今回のお話し
1、イドゥメア人のアンティパルの子どものヘロデの王の時代ーヘロデ大王

2、ヘロデ大王には10人の妻がいた。そのうちの一人はアスモネア朝のマリアムメであった。

3、ヘロデ大王は残忍で自分の子供でさえ容赦なく惨殺した。ヘロデ大王が死んだときに生き残った子供が三人いた。(アルケラオとフィリッポとヘロデ・アンティパス)

4、ヘロデの子供(ギリシャ語:ὑιος)であるより豚(ギリシャ語: ὑς)のほうがよかったとさえローマ皇帝アウグストゥスから言われた。(あまりの残虐さ故:アウグストゥスの親父ギャグ)

κρείσσον Hρώδου ύα είναι, ή υία
(κρεῖσσον Ἡρώδου ὗα εἶναι, ἤ υἷα)
http://www.snhell.gr/references/synaxaristis/search.asp?id=2202&search=3

Cum audisset inter pueros quos in Syria Herodes rex Iudaeorum intra bimatum iussit interfici filium quoque eius occisum, ait: Melius est Herodis porcum esse quam filium (Ambrosius Theodosius Macrobius, Saturnalia, book II, chapter IV:11)
5、ヘロデの死後アルケラオがユダヤ地方の分国王となる。(カエサルは後に財産を没収してアルケラオをフランスに追放する)

6、フィリッポはトランスヨルダンの王となる。ヘロディアはこのフィリッポとは別のフィリッポと結婚する。しかし、そののち既婚者であったヘロデ・アンティパスは、既婚のヘロディアは結婚する。サロメはまだ小さかった。

7、ヘロデ・アンティパスがガリレア地方の分国王となる。ヘロディアと結婚して咎められ洗者聖ヨハネを殺した。イエズス様の奇跡の話も聞いていた。ピラトとも親友になった。(後にカリグラ皇帝の時にスペインとフランスの国境のあたりに追放された)
聖書の「ヘロデ」とはこのヘロデ・アンティパスのことである。
ひどい人物で、ローマにおべっかを使うために、ティべリアという名前を付けた町を建設するなどした。(ティべリア湖)

8、イエズス様が生まれた時の皇帝の名前はアウグストゥスで、公生活を始めたときのローマ皇帝はティベリウスという。

9、イエズス様が生まれたとき、ユダヤガリラヤ地方では分国王の支配のもと、それなりの平和があった。他民族の王の統治のもとではあったが。

10、ローマはユダヤを独立の自治ではなく、ローマの属州とした。(アルケラオを追放した後に)総督が直々にユダヤを管理することになった。
6~9年コポニウス
9~12年マルクル・アンヒブルス
12~15年アンニウス・ルクス
!5~26年ヴァレリウス・グラートゥス
26~36年ポンティオ・ピラト
36~39年マルチェッルス
以下66年まで続く70年にエルサレムが滅亡する。

感想
復習を丁寧にしてくださるので、難しい歴史や地理も自然と憶えられてきている感じです。


「結婚について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年07月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「結婚について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年7月9日主日 公教要理 
結婚について


親愛なる兄弟の皆さん、

秘蹟の勉強を続けましょう。今回は最後の秘蹟である聖なる婚姻です。結婚とは、一人の男と一人の女の生涯にわたって続く結合であって、聖なる家庭で子どもを持つという目的があります。婚姻というこの結合は、アダムとエバの創造の時から存在しています。エバがアダムの脇から造られるやいなや、エバはこの聖なる絆によってアダムと一つになりました。「だからこそ、男は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる」(創世記2章24節)。聖トマスはこう説明します。エバは、男を支配することのないようにアダムの頭からは造られず、男が女を踏み砕くことのないようにアダムの足からも造られず、互いに忠実に愛し合うようにアダムの脇から造られた、と。旧約では、イサクとリベカの結婚や、大天使ラファエル自身に導かれたトビアとサラの結婚といった有名な結婚がいくつか見られます。

結婚は、私たちの主イエズス・キリストがカナの婚礼に出席して水をぶどう酒に変えるという奇蹟によってそれを聖化されたとき、主によって秘蹟のレベルまで高められた、というのが信仰の教義です。実際、この奇蹟はまず、旧約から新約に変わることを表しており、またご聖体、すなわち、主のご生涯の終わりに当たって聖木曜日に主が行われたことである、ぶどう酒を主ご自身の御血に変える、ということも表しています。さて、ご聖体は、のちに説明するように、キリストと彼の教会の婚礼の秘蹟そのものであるのです。

結婚それ自体は、絆で結ばれた生活の始まりを置く契約です。その儀式は短いものですが、全生涯にわたって続く効力を与えます。結婚は、「同意の交換」、すなわち夫と妻がお互いを与え、お互いを受けることから成っています。この契約によって、夫と妻は「結婚行為」のための相手の体に対する権利をお互いに与えるのです。話のついでに言いますが、教会の言葉遣いは常に慎み深いものであることに気を付けてください。聖パウロはこう言います。「妻は自分の体を随意にすることはできぬ、妻は夫のものである。同様に夫も自分の体を随意にすることはできぬ、夫は妻のものである。互いに拒んではならぬ。ただ合意の上で、祈りに従事するためにしばらくやめても、再び共になるがよい。それはあなたたちを誘うサタンを肉欲に乗じさせないためである」(コリント前書7章4-5節)。天主は聖なる結婚において子どもが生まれるべく制定されましたが、それは子どもには父親と母親が必要であることから子ども自身の善のためであるとともに、良き子どもは良き両親への最上の報いであることから両親の善のためでもあるのです。結婚生活以外で子どもを持つことは正しくありません。それは子どもから父親を奪うのですから。

結婚は本質的に生涯にわたって続く結合です。結婚は解消できず、離婚をすることは許されません。主は非常に明確にこう言われました。「人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。このことはまず第一に、子どもの善のために必要です。実際、人間と動物を比較すれば、動物は人間よりずっと早く大人になることに気付きます。鳥やウサギといった多くの動物は、一年もたたないうちに大人になります! ライオンのようなもっと大きな動物は二、三年かかりますが、それ以上時間がかかるのは非常にまれです。しかし人間では、十年たっても、子どもはまだ大人になっていません! その理由は、人間は盲目的な本能によって導かれるのではなく、その知性によって自らを導かなければならないからです。でも、そのためには、人が自分の生活のためだけでなく全家族のために責任を持つことのできる段階にまで、学ぶための時間、自分の知性を伸ばすための時間がかかります。それゆえに、子どもが両親を多年にわたって必要とするのですから、両親は何年も何年も一緒に暮らさなくてはならないのです! これらの年月の間に、両親はさらに子どもを持つこともあるでしょう。最後の子どもが大人になったあとでさえ、両親はその子どもたちに忠実という良き模範を示す必要があります。ですから両親は、子どもたちが幼い年月だけでなく、全生涯にわたって一緒に暮らすべきです。

旧約では、民の心が強情だったため、離婚が許されていました。それについて主はこう言われます。「あなたたちの性質が強情だから、モーゼは妻を去らすことを許したのだ。だが初めからそうではなかった」(マテオ19章8節)。私たちの主イエズス・キリストは、結婚をその本来の状態の聖性にまで回復なさったのであり、離婚して再婚することを非常に厳しく禁じられています。「自分の妻を離縁して他の女と結婚する人は姦通を犯し、夫から離縁された女と結婚する人も姦通を犯すのである」(ルカ16章18節)。例外的な場合、例えば家庭内での暴力や暴行があるときは、司教に対して「別居」、すなわち離れて生活することの許可を求めることが許されますが、これは決して離婚ではありませんし、決して再婚を許すのでもありません。

結婚は本質的に独占的なものです。結婚以外で関係を持つことは決して許されません。そうするならば、それは姦通であって非常に重い罪です。初期の教会では、背教、殺人、姦通という三つの罪に対して大きな公的な悔悛が求められました。これは、それらの罪がいかに重いものであるかを示しています。聖パウロは非常に明確に言っています。「淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章5節)。良き家庭は聖性と純潔の雰囲気を持つべきであり、それは、子どもたちがあらゆる聖徳において花を咲かせ、成長するために必要なのです。

結婚は本質的に子どもの出産のためにあり、結婚行為に自然の効果が伴うことを妨害することは許されません。いかなる形態であれ避妊は天主の法に反しており、重い罪です。さらに悪いものは妊娠中絶です。これは命を完全に拒否することであり、それには四つの大罪と、三つの罪を重くさせる事情が含まれています。命の伝達を究極的に拒否することですから、第六戒に反します。罪のない者を殺すことですから、第五戒に反します。子どもに対する究極の虐待であり、子どもに対する親の義務に反しますから、第四戒に反します。子どもから洗礼の機会を奪い、子どもに必要なものを与えるべき親の重い義務に反しますから、第一戒に反します。そして、三つの罪を重くさせる事情とは、被害者に罪がなければないほど殺人は悪いものであること、被害者が弱ければ弱いほど殺人は悪いものであること、そして殺人が残酷であればあるほど殺人は悪いものであるということです。おなかの中の赤ん坊以上に罪のない者がいるでしょうか? 赤ん坊以上に弱い者がいるでしょうか? もしおなかの赤ん坊に対してなされることを大人に対してするならば、その残酷さに対して非難が巻き起こるでしょう。

結婚は、決して貞潔に反するあらゆる種類の罪を許可することではありません。結婚行為は、結婚の内では良きかつ聖なるものですが、その倒錯行為は結婚においてさえも悪いものです。ですから、自然に反する性的行為はどのような形態であれ、結婚においてさえも重い罪です。聖パウロはこう言います。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。

ですから、結婚の第一の善は子どもであり、結婚の祝福はたくさんの子どもに恵まれるという祝福です。「あなたが、子どもと子どもの子ども、また三代、四代のちまでも見るように。あなたの子孫が、永遠に統治し給うイスラエルの天主の祝福を受けるように」(トビア9章11節)。でも、子どもに命を与えるだけでは十分ではなく、子どもには教育が必要です。子どもに良きカトリック教育を受けさせることは、両親の大きな任務です。その教育は、子どもの体や知性、気質を伸ばすという自然のレベルにとどまらず、とりわけ霊的な命を伝達することです。その方法は、子どもに出来るだけ早く洗礼を授け、最も感じやすい若いころから信仰についての教育をし、キリスト教のすべての聖徳について、特に愛徳と貞潔についての教育をするのです。良き子どもは良き両親の最上の報いですが、それには努力が必要です!

結婚の第二の善は、相互に支え合うことです。「主なる天主は仰せられた、『人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう』」(創世記2章18節)。また、賢者はこう説明します。「一人きりより、二人でいる方がよい。働く場合も能率が上がる。どちらかが倒れれば片方がそれを助け上げる、だが、一人きりで倒れたら不幸なことだ、助け上げてくれる人がいないのだから。また、二人一緒に寝るとどちらも暖かいが、一人きりで、どうして暖かくなるだろう。一人の場合は倒されても、二人でなら抵抗できる」(コヘレット4章9-12節)。愛し愛されることは大きな慰めであり支えです。この相互の愛が、結婚を自然のレベルにおいて最も深い友情関係とするのです。

忠実であることによって、年ごとにこの友情関係が深まります。私の祖父が、結婚五十周年に私にこう言ったのが思い出されます。「おまえたち、自分が結婚五十周年にもなったと考えてごらん、喜びは結婚したころと同じとは言えないよ、でも人生を振り返って五十年間忠実であったのなら、その喜びは結婚したころよりも大きいよ!」。

結婚の第三の善は秘蹟です。これは、カトリックの結婚における一人の男と一人の女の結合が、キリストと彼の教会、すなわちカトリック教会の結合を表しているという事実です。この神秘的結婚は、この世における結婚の模範であり、結婚している全てのカップルにたくさんの恩寵を与える源なのです。実際、キリストと彼の教会の結合が永遠に続くものであり、天国において永続するものであり、死によってさえ解消されないものであるがゆえに、この結婚の神秘的次元は結婚の不解消性を、より強くするのです。さらに言えば、この結合は最も聖にして貞潔であり、すべての聖なる愛の源です。この結合は、霊的に実りの多いものであり、その実りである数えきれないほどの聖人たちを生み出すのです。

まことの愛は、「キリストが教会を愛し、そのために命を与えられたように」、犠牲に至るという段階まで自分を捧げるものであるということを、この模範は明確に示しています。そして、「キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった。そのように夫も妻を愛さねばならない」(エフェゾ5章25-28節)のです。

アダムの開かれた脇から造られたエバがアダムと結婚したように、教会は十字架上のキリストの開かれた脇から生まれ、まさにそこ[十字架上]でキリストと結婚したのです! キリストの脇が十字架上で開かれたとき聖心から流れ出た水と血は、洗礼とご聖体を表しており、これらによって教会[のメンバー]が集められ、聖化されるのです。十字架の下で立っておられる聖母は、教会全体のことを表しています。カナのときのように、主は聖母を「母よ」ではなく「婦人よ」と呼ばれ、さらに主は聖母に「婦人よ、汝の子を見よ」(ヨハネ19章26節)と言って子どもをお与えになるのです。福音書は、その子どもが「ヨハネ」だとは言わず、「愛する弟子」だと言います。ですから、この子どもは、キリストと彼の教会のこの聖なる結合から生まれる愛する弟子たち全員なのであり、これは十字架上で起きたことです。十字架は愛の神秘であり、多くの子どもたち、つまり諸聖人を最も豊かに生み出す神秘的結婚なのです。

十字架の犠牲がキリストと教会の実際の結婚であるならば、ミサにおいてこの犠牲を、血を流さずに更新することは、すべてのカトリック信者の結婚について結婚の恩寵を更新するのに最も適切です。そこ、祭壇の下で、結婚している夫婦はお互いに自分を捧げ合う約束を更新するのです。彼らは相手のために、子どものために、自分を犠牲にすることを学びます。彼らはキリストと教会の結合から、忠実という恩寵を引き出すのであり、相互の愛の恩寵と、子どもたちのために必要なすべての恩寵を引き出すのです。

結婚の質料と形相は、夫婦の同意の交換です。ですから、この秘蹟の役務者は夫婦自身です。 自分たち自身を結婚させるのは彼らなのです。司祭がそこにいるのは、教会の名によって彼らを祝福し、彼らの契約の証人となるためです。また他の二人の証人が必要であり、それは「二人か三人の証人の言葉を借りてことを片付け」(マテオ18章16節)るようにするためです。

実際、結婚は、社会の基本的要素である家庭の基礎ですから、決して私的なことではありません。結婚は、世俗社会にとっても宗教社会にとっても、公的な善なのです。それゆえに、結婚は国家の権威の下にあるとともに、とりわけ教会の権威の下にあるのです。世俗の国家には、結婚とその不解消性を保護する義務があり、結婚をあらゆる種類の不自然な結合と同じレベルに置かないようにする義務があります。カトリック教会は、結婚の忠実な保護者であり続けてきています。カトリックは、結婚の不解消性を完全に保護する唯一の宗教です。プロテスタントのセクトはすべて離婚を受け入れていますが、これは驚くことではありません。なぜなら、これらのセクトは自らがキリストから離婚し、教会から離れたからなのです。

教会は、結婚に関する法を定める権利を持っています。特に教会は、結婚と家庭の聖性を保護するために、婚姻障害をいくつか定めています。婚姻障害は、結婚の有効性または適法性を妨げる事情です。ですから、性的不能、近親血縁関係、既婚歴、司祭叙階、ある種の犯罪は、結婚の有効性を妨げる婚姻障害です。

この秘蹟の効果は、二つのレベルにあります。第一の効果は、結婚の絆、死に至るまで全生涯にわたって続く霊的な絆です。この絆は、二人がお互いに与え合う指輪によって表されます。この絆はキリストと教会の間の絆を表し、第二の効果である恩寵の源です。適切に受けるならば、結婚の秘蹟は、聖性の恩寵を増加させ、結婚生活全体にわたって多くの助力の恩寵を与え、天主が夫婦にお与えになった使命を彼らが実現するのを助けます。これらの助力の恩寵を豊かに受け続けるための素晴らしい手段の一つは、家族での祈りです。毎日、家族全員が一緒に祈るために集まります。規則的に続けることが鍵です。短い祈りであったとしても、たまにロザリオの祈り全体を祈るよりも、毎日祈る方が重要です。私の家庭では、私たちが幼い子どもだったとき、毎日ロザリオ一連だけしか祈りませんでしたが、欠かすことなく祈っていました。私たちが成長したとき、父は四旬節の機会にもう一連を加え、次の年にはさらに一連を追加しました。しかし、私たちがロザリオの祈り全体を祈るようになったのは、私たち全員が成長してからでした。この家族での祈りが、この秘蹟の恩寵を豊かに受け続けるための非常に重要な手段なのです。

若い人々は、信仰と純潔によって、良きかつ聖なる結婚に対する準備をすべきです。これらが、聖なる結婚のための良き準備を構成する二つの最も重要な要素です。結婚前の純潔と童貞性は、その後の完全な忠実のための準備となり、それゆえに大きな喜びと平和の源であるのです。信仰は肉体的レベルだけでなく霊的レベルの結合も与えますが、それは夫婦が命の目的、子どもたちの教育、彼らの生活におけるまことの礼拝の重要性などについての単一の見方を持つようにするためです。たくさん祈ることも必要ですが、それは主が若いトビアに良き妻を見つけるよう指示なさったように、主が皆さんに指示なさるようにするためです。

結婚しているすべての人々のために祈りましょう。彼らが忠実でありますように、天主に忠実でありかつお互いに忠実でありますように。彼らがまことの命とまことの愛の豊かな恩寵を受け、そうすることで、マリアとヨゼフに忠実に倣うことによって天国に行くことができますように! アーメン。

沖田X華著の漫画「透明なゆりかご」と谷口幸紀神父様の「一位は本当に癌なのか?日本人の死亡原因」に出会って

2017年07月13日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 谷口幸紀神父様のブログ:〔続〕ウサギの日記の記事「★ 一位は本当に癌なのか? 日本人の死亡原因」をご紹介ます。

 この記事に出会って、漫画「透明なゆりかご」(副題「産婦人科医院 看護師見習い日記」)沖田 ×華(おきたばっか)著(1-5巻)という半端でない売れ行きの漫画があることを知りました。

 谷口幸紀神父様はこう書いています。
「なぜこの漫画がそんなに売れるのか?それはバッカ嬢の堕胎の現実に対する優しい、暖かい、前向きの視点が、日本全国に何百万、何千万といる堕胎経験女性のハートを捉え、良心の疼きに触れたからではないだろうか。」

 また、神父様は興味深い指摘をしています。1993年以前の日本では、常に堕胎が日本人の死亡原因の第1位であって、癌は2位だった、と。

 残念ながら、私たちに希望を与えてくれる赤ちゃん、「生きようとする力でみんなに希望を与える赤ちゃん」、「生きるかたまり」(漫画家・沖田✕華)は、邪魔者とされて、殺されています。だれからも守られていません。

 赤ちゃんたちが守られますように!殺すのではなく、生かして下さい!「置き去りにされたから生き残ることが出来たって・・・逆に親に感謝したい気持ちになった・・」(沖田 ×華)

 愛する兄弟姉妹の皆様、7月17日月曜日("産み"の日)に、マーチフォーライフにいらして下さい。


 ファチマのマリア様と一緒に、赤ちゃんのために、いのちのために、歩きましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Don Giovanni, grazie per il tuo interessante articolo!

追伸:

今日は7月13日、ファチマの御出現の記念日です。私はふと思いました。

日本においては、お母さんの胎内の赤ちゃんこそ、内閣官房からマニュアル「武力攻撃やテロなどから身を守るために」がほしいことでしょう。(秋田日記さん、ご紹介ありがとうございます。)

でも、赤ちゃんは、武力攻撃された場合の対応として何もできないのです。

武力攻撃事態等において、避難もできなければ、自分では身を守ることもできないのです。

赤ちゃんを守るために、あなたにできることがあります。

私たちといっしょに、ファチマの聖母と一緒に、歩いて下さい。

7月17日月曜日("産み"の日)に、マーチフォーライフにいらして下さい。

ファチマのマリア様と一緒に、赤ちゃんのために、いのちのために、歩きましょう。

お母さんと女性と赤ちゃんにますます優しい日本となりますように!

皆でいのちを守るますます優しい日本となりますように!

宿されたいのちを、皆が温かく歓迎して守る日本となりますように!

妊娠した女性の味方となる、ますます優しい日本となりますように!

人間のいのちが神聖なものなのだと、ますますよく認識する日本となりますように!

ファチマのマリア様!私たちのためにお祈り下さい!

「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年07月12日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年7月9日主日 大阪の説教 
自分に対して他人が犯した罪を赦すこと


親愛なる兄弟の皆さん、

本日の聖福音は私たちに、キリスト教の道徳についての非常に重要な点を教えています。それは、自分に対して他人が犯した罪を赦すこと、兄弟との和解についてです。「だから、祭壇に供え物を捧げようとするとき、兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和解し、それから帰って供え物を捧げよ」(マテオ5章23-24節)。聖アウグスティノはこう述べています。「天主は、すべてのものをお持ちであるがゆえに、われわれの供え物をお望みにはならないが、われわれ自身を、われわれの心をお望みになり、われわれの心が隣人に対する愛を必ず含んでいる聖霊の愛に満たされるとき、それがまことに天主のものになることをお望みになるのである」。

この行って和解するという義務は、第一に自分の兄弟、自分の隣人に対して罪を犯した人に適用されますが、その罪の被害を受けた人にも適用されます。他人に罪を犯した人には、行って赦しを請い、犯した罪を謝罪し、それを償う義務があります。罪の被害を受けた人には、それを受け入れてその罪をすぐに赦す義務があります。主は、この赦す義務について何回も思い出させてくださいます。「立って祈るとき、誰かに恨みがあるならまずそれを赦せ。そうすれば天にいます父に自分の罪を赦してもらえる」(マルコ11章25節)。「あなたたちが他人の過失を赦すなら、天の父もあなたたちを赦される」(マテオ6章14節)。「あなたたちが赦さないなら、天にいます父も罪を赦してくださらぬ」(マルコ11章26節)。

赦しは弱さではなく、むしろ悪に対する善の勝利です。これについて聖パウロはこう言います。「誰に対しても悪に悪を返すな。天主の前でだけでなく、すべての人の前でも善いことを行おうと努めよ」(ローマ12章17節)。そして彼はこう結論します。「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節)。そうしなければ、第一の悪に対して第二の悪を返すならば、悪循環に陥ってしまいます。相手が同じことをして第三の悪を返し、そのあと第四の悪と、互いに永遠に繰り返すでしょう。悪に悪を返すというこの悪循環を断ち切る唯一の方法は、聖パウロが今言ったように、悪に悪を返すのではなく、善をもって悪に勝つことです。これがカトリックのやり方であり、これがまことに私たちの主イエズス・キリストのやり方です。

隣人を赦すために、私たちは自分自身を捨てなければなりません。しかし、これは困難の源です。赦すということは、与えることの完成です。これはものを与えるだけでなく、天主をお喜ばせし、隣人との友情関係を回復させるために、自分の心を与え、自分の権利を捨てることなのです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちに十字架上で素晴らしい模範を示してくださいました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。隣人を赦すという行為そのものにおいて、私たちは、私たちの主イエズス・キリストが私たちのために持っておられた赦しの美しさと愛の深さを、小さな鏡で見るように知るのです。

進んで与えても、赦さない人々がいます。これでは十分とは言えません。主は、私たちにもっと高いレベルの完徳をお求めになっており、主の御摂理によって、主は時折、人が私たちに罪を犯すのを妨げられません。それは、私たちが隣人を赦す機会を持つようにするためです。私たちは、そのような機会があれば喜んでそれを受け入れることができますように!

罪を犯す機会でよくあるのは、言葉によるものです。うわさ話、あらゆる種類の批判、不正な告発や疑い、対象となる人に対する必要以上の非難といったものです。そのような言葉はすべて、私たちの隣人をひどく傷つけ得ますから、私たちはそのような悪しき言葉を言わないように自制しなければなりません。さて、これらの悪にはいくつか段階がありますが、私たちは最初からそんなことを言わないようにすべきです。うわさ話をすることは、第一の段階です。これは、たとえば新聞で詳しく報道された公人の悪や、自分の友人たちの仲間内で知られた悪のような、まことのかつ公の悪について話すことです。うわさ話をすることは、そんな話をするのに楽しみを覚えるかのように悪を楽しむことであるため、間違っています。これは明らかに悪いことです。もしそのような話題が挙がったなら、その悪を正すのを助けるために、少なくともその悪を行う人が正されるよう祈るために、私たちに何ができるかを問うべきです。私たちは、そんなうわさ話に対して、「この人はこんなことをした、あの人はあんなことをした」などと言って、うわさ話を追加しないようにすべきです。

第二の段階は、他人の隠された悪をあばくことによって、その人の名誉を毀損することです。このことは、私たちが一人の人による罪の被害を受けたものの、他の人々がそのことを知らない場合にしばしば起こることであって、私たちは他の人々に最初の人の罪について不平を言うのですが、彼らはその状況を正すのを助ける立場にはいません。これは二つの理由で悪いことです。まず、他の人々の悪について話しているからであり、またもう一つは最初の人の良き評判を貶めているからです。さらに言えば、人が傷つけられたとき、普通その人は自分の被害を大きいものにして、被害をよりひどく見せて、私たちに被害を与えた人物に悪しき意向を見る、といったことをする傾向にあります。そのような傾向は簡単に、悪しき言葉の第三の段階である中傷へと至るのです。

中傷は実際、さらに悪いものであり、彼あるいは彼女がしなかった別の悪を告発するのです。聖トマス・アクィナスはこう説明します。「そのような中傷は、その中傷を行なう者自身が悪人であるがゆえに起こり得るのであり、悪人たちは他の誰もが自分たちと同じようだと思う傾向にあるのである!」。彼らは時折、聖徳は不可能であると思っていて、公にされた罪では自分たちが告発できない人々を、隠された罪で告発する傾向にあるために、彼らは何もないところに悪しき意向を見る、といったことをするのです。聖トマスは言います。「それはまた、中傷を行なう者が他人に対して悪しき心構えを持っているという事実からも起こり得るのである。すなわち、もし彼が他人に傷つけられたとしたら、彼は大げさに、悪を大きくしてその人を告発する。また、もしある人が他の人になんらかの憎しみを抱いているとしたら、彼は、ほとんどの場合不当にも、その人のすべての行為を悪く解釈するであろう」。

中傷は大罪になり得ます。私たちが誰かをその人がしなかった重い罪で告発するならば、私たちは中傷という重い罪で有罪となります。私たちが誰かを小罪で告発するならば、その中傷は小罪に過ぎません。人の名誉を毀損することもまた、もし理由もなく隠された重い罪をあばいて公にするなら、大罪になり得ます。

聖トマスは、これらの罪は隣人の良き評判を貶めるがゆえに正義に反している、と説明します。私たちは他人が私たちに対してそんなことをするのを望みませんから、私たちも他人に対してそんなことをしてはなりません! 言うまでもなく、そんな罪は愛にも反しています。愛は、隣人の悪を気にすることさえしません。愛は「悪を気に[しない]」(コリント前書13章5節)のです。これらの罪の根っこには、しばしば傲慢があります。自分が他人より優れていると考えるがゆえに、他人を裁くのです。私たちは、まるでそれが唯一の正しいやり方であるかのように、他人が私たちが望むことをするように望みます。教会自体がルールを定めていないところでは、私たちは自分のルールを作ってしまいます。愛の根っこには、へりくだりがあります。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。へりくだる人は、自分のやり方をすぐに捨てて他人に合わせます。主が「人があなたを一千歩歩かせるために徴用すれば彼とともに二千歩を歩け」(マテオ5章41節)と言われるようにです。

別の種類の悪しき言葉があります。それは怒りの言葉、人を怒らせる言葉、辛辣な言葉です。そんな言葉は実際隣人を傷つけますが、その言葉は私たちの心の中の辛辣さを明白に示しているのです。主が、「口から出るものは、心から出たもので、これが人をけがす」(マテオ15章18節)と言われるように。

でも、もし私たちがそんな言葉、そんな中傷による被害者だとしても、悪に悪を返したり怒ったりせずに、むしろ天主に感謝すべきです。実際、私たちは救い主の次の言葉を思い出すべきです。「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された」(マテオ5章11-12節)。

ここまで私は、悪しき言葉について話しました。しかし、言葉は思いから出るものです。私たちは悪しき言葉を言ってはなりませんし、隣人に関して悪しき思いを抱くことさえもしてはなりません。それは、聖トマスによって「軽率な判断」と呼ばれているものです。つまり、不十分な証拠で他人を非難すること、必ずしも悪でないものを悪意に解釈すること、何もないところに悪しき意向を見ること、自分の考えにおいて他人の過失を誇張すること、そしてさらに悪いことは、隣人に悪しきことが起こるよう願うことです。私たちがそんな思いを言葉で表さないようにしたとしても、そもそもそんな思いをいささかも抱くべきではないのです。そんな思いを抱くことは、すでに罪深いことなのです。

それゆえに、私たちはそのような悪しき思いと戦うべきです。それと戦う最も良い方法は、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストを観想し、主とともに何度も「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)と繰り返すことです。私たちはイエズスの聖心に、「私たちの心を主の聖心と似たものにしてくださるよう」請い願うべきです。親愛なる兄弟の皆さん、私は皆さんに請い願います。私たち皆の間にそのような言葉がないように、またそのような思いさえもないように、そうすることで、主が私たちの間で統治してくださいますように。あわれみの御母、いと寛仁なる童貞である童貞聖マリアに、私たちを助け、私たちに聖母の思いを、汚れなき御心にあった思いを与えてくださるよう願いましょう。その結果、私たちの主イエズス・キリストが御父を愛され、私たちを愛されたように、私たちが天主と隣人を愛することを学ぶことができますように。アーメン。


聖ピオ十世会;東京と大阪の聖堂と聖母の汚れなき御心に奉献する:大阪(7月13日)、東京(7月16日)

2017年07月11日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る聖伝のミサの予定と私たちの東京と大阪の聖堂と聖母の汚れなき御心に奉献する儀式があることをご紹介します。

【大阪】

 7月13日(木)【ファチマの聖母の第3回目の御出現の記念日】
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭(聖母の汚れなき御心の随意ミサ)
 午後7時半  聖体降福式(聖時間)この聖時間で、大阪の「聖母の汚れなき御心聖堂」とその全ての信徒の方々とそのご家族、恩人、友人、隣人を、聖母の汚れなき御心に奉献します。金属でできた「聖母の汚れなき御心」を祝別し、 その中に私たちの家族の名前を印刷して入れます。これは私たちの家族が聖母の汚れなき御心の中に避難所として入ることを象徴します。その後、これを金輪際ずっと、大阪のファチマの聖母の御像の首にかける予定です。奉献の時には奉献文をを皆で一緒に読むつもりです。

 7月14日(金)
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭

 7月15日(土)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

【東京】

 7月16日(主) 聖霊降臨後第6主日(2級)緑
 午前09時  グレゴリオ聖歌の練習 及び 告解
 午前10時  ロザリオ 及び 告解
 午前10時半 ミサ聖祭
ミサの直後の司祭の退堂の前に、東京の「日本の聖なる殉教者巡回教会」とその全ての信徒の方々とそのご家族、恩人、友人、隣人を、聖母の汚れなき御心に奉献します。東京の信徒の方々の家族の名前を印刷して、それを書簡側にあるファチマの聖母の額の裏側に入れてずっと保存する予定です。これは私たちの家族が聖母の汚れなき御心の中に避難所として入ることを象徴します。ミサの前に信徒会長から、皆さんのお名前が記載されていることの確認がある予定なので、どうぞご協力下さい。奉献の時には奉献文をを皆で一緒に読むつもりです。よろしくお願いします。


 午後02時  公教要理
 午後04時  主日の晩課(グレゴリオ聖歌)

 7月17日(月:海の日)
 午前09時  グレゴリオ聖歌の練習 及び 告解
 午前10時  ロザリオ 及び 告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 午後は「曙町会館」の二階に移動して、カトリック教会の人間の生命に関する教えと見解について、講話があります(午後03時まで)。

 午後3時、築地カトリック教会へと移動を開始(午後4時までに到着)する。

 午後4時 築地カトリック教会出発、マーチフォーライフに参加 佃大橋通り=>新大橋通り=>鍛冶橋通り=>国会通り=>日比谷公園



Marche pour la vie à Tokyo le lundi 17 juillet

2017年07月11日 | カトリック・ニュースなど
Ave Maria Immaculata!

Marche pour la vie à Tokyo le lundi 17 juillet

Bien chers amis!

Il y aura une marche pour la vie à Tokyo le lundi 17 juillet (férié, jour de la mer, homophone en japonais avec jour de la « naissance », d’où le choix de cette date).

C’est la troisième édition de la marche pour la vie à Tokyo.
Après une messe pour ceux qui veulent à l’église catholique de Tsukiji (par le Fr. Leo Schumacher de la société St Columbian), la marche pour la vie partira de 16h de l’église de Tsukiji et finira vers 17h/17h30 aux alentours du parc d’Hibiya, en passant par Nihonbashi et Ginza.

De nombreux protestants y participent aux côtés des catholiques.
Les détails de l’évènement (en japonais) :
https://www.facebook.com/events/1329549100414905/





[Annonce] : Marche pour la vie à Tokyo le 17 juillet

あなたにできることがあります。いのちのために私たちといっしょにファチマの聖母と一緒に歩いて下さい。2017年7月17日(月)海の日午後4時から

2017年07月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月17日月曜日(海の日)の午後4時からには、東京でマーチフォーライフがあります。愛する兄弟姉妹の皆様を心からお招きいたします。

 いのちのためにファチマのマリア様と一緒に歩いて下さい。

 人工妊娠中絶は「合法化」された時から今まで、すなわち、1949年から2015年の67年間の統計によると、38,460,206名の赤ちゃんが虐殺されています。

 この虐待は、いまでもまだ続いています。これは1949年からずっと今でも、68年の間、55秒に一人の赤ちゃんが殺され続けていることを意味しています。

 日本では「戦後」、自国民にする戦争を始めてしまいました! 第二次世界大戦の12倍の殺戮を行っている最中です。

 今、私たちがこうやって、ネットでものを読み、おしゃべりをして、笑って、食べて、眠っている間、昼も、夜も、55秒に一人の赤ん坊が殺されているのです。

 あなたにできることがあります。
 私たちといっしょに、ファチマの聖母と一緒に、歩いて下さい。

 日本の憲法9条では、日本は侵略戦争を放棄しているはずですが、子供たちの神聖な住処は侵略され虐殺され続けています。

 日本の警察と自衛隊は、日本国民を守るために存在していますが、罪のない子供たちだけは守られていません。子供たちを守ろうとしてくれる人々は数えるほどです。

 あなたにできることがあります。
 いのちのために行動を起こして下さい。
 いのちのために一緒に歩いて下さい。
 いのちのためにファチマのマリア様と一緒に歩いて下さい。
 私たちといっしょに、ファチマの聖母と一緒に、歩いて下さい。

日  時:2017年7月17日(月)海の日:午後4時から
集合場所:築地カトリック教会
歩く場所:佃大橋通り=>新大橋通り=>鍛冶橋通り=>国会通り=>日比谷公園
参  加:誰でも参加できます
行動内容:微笑んでファチマのマリア様とともに歩きます




【参考資料】
ブログ「ファチマの聖母の会・プロライフ」をご覧下さい。




ファチマの聖母よ、われらのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべも、ファチマのマリア様と一緒に、いのちのために、イエズス様への愛のために、罪人の回心のために、教皇様のために、聖母の汚れなき御心に対しておかされる罪の償いのために、歩くつもりです。

愛する兄弟姉妹の皆様もいらして下さい!

 いのちのためにファチマのマリア様と一緒に歩いて下さい。
 私たちといっしょに、ファチマの聖母と一緒に、歩いて下さい。



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会:7月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ)の報告:次回のミサの予定:SSPX Japan Traditional Latin Mass

2017年07月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月の聖伝のミサで、愛する兄弟姉妹の皆様と共に祈ることができ大変うれしく思いました。

 6月30日の聖パウロの回心の記念の日には、一人の若い女性が受洗され、イエズス・キリストの姉妹となり三位一体の神殿となりました。

 7月1日には、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で初めての婚姻の秘蹟が執り行われました。天主様に感謝!

 7月2日には、東京で53名の愛する兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与るお恵みを得ました。

 7月3日は、去年生まれた赤ちゃんの誕生日でもありました。子供を含めて10名が聖伝のミサに与りました。

 次回の聖伝のミサは、次の通りです。

【大阪】
 7月9日(主)聖霊降臨後第4主日(2級)緑
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭(歌ミサ)

 7月10日(月)
 午前06時半 ミサ聖祭

 7月13日(木)【ファチマの聖母の第3回目の御出現の記念日】
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭(聖母の汚れなき御心の随意ミサ)
 午後7時半  聖体降福式(聖時間)

 7月14日(金)
 午後5時半  ロザリオ及び告解
 午後6時   ミサ聖祭

 7月15日(土)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


【東京】
 7月16日(主)
 聖霊降臨後第6主日(2級)緑
 午前09時  グレゴリオ聖歌の練習 及び 告解
 午前10時  ロザリオ 及び 告解
 午前10時半 ミサ聖祭
 午後02時  公教要理
 午後04時  主日の晩課(グレゴリオ聖歌)

 7月17日(月:海の日)
 午前09時  グレゴリオ聖歌の練習 及び 告解
 午前10時  ロザリオ 及び 告解
 午前10時半 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様に、とても良い「ファチマの聖母の会・プロライフ」というブログをご紹介します。
どうぞ、このブログ「ファチマの聖母の会・プロライフ」もお読みになって、お友達にもご紹介ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

7月の初土の御ミサの報告をお送りいたします。

6月30日 聖パウロの回心記念のミサ には、11名が、
7月1日(初土) イエズス・キリストの尊き御血の祝日のミサには30人が 御ミサに与るお恵みを頂きまいした。
デオ・グラチアス!

6月30日のミサの前には、洗礼式で一人の若い姉妹が洗礼のお恵みを頂きました。
翌日、7月1日には御ミサの前に、イギリス人の男性と、前日洗礼を受けた日本人の女性との婚姻の秘跡が執り行われました。

聖パウロの回心の記念ミサに洗礼、イエズス様の聖血の祝日で、しかも初土曜日に婚姻の秘跡を受けられた大きなお恵みに天主様とマリア様のただならぬ御計らいを感じました。私達の聖母の汚れなき御心聖堂での初めての婚姻の秘跡が、ファチマ100周年の7月の初土曜日に行われたことは私たちにも大きな喜びでしたし、秘跡を受けられた若いお二人とそのご家族に大きな大きな御恵みをマリア様がお与えになったのだと痛感いたします。
イエズス様の聖心を中心とし、マリア様の汚れなき御心といつも離れないカトリックの良い御家庭を築かれますよう心からお祈りいたします。

色々とお忙しかったにも関わらず、ミサの後に公教要理をして下さった神父様に感謝いたします。
前回に続いて、「聖書の時代の地図」について勉強しました。
イエズス様の時代の歴史上の背景を確認して、この度は特に、ヘロデ大王がどんな家に生まれてどんな血統だったかを知りました。
暑くなってくると、フィリピンで過ごされている小野田神父様のご苦労が身にしみます。
暑いことを小さな犠牲として、ファチマの聖母のご要求に応えるべく、私もお捧したいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供2人)
女: 32人(内、子供3人)
計: 53人(内、子供5人)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】