Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

大天使聖ミカエルの祝日の説教(2024年、大宮)

2024年10月05日 | お説教・霊的講話


大天使聖ミカエルの祝日の説教(2024年、大宮)

2024年9月29日(主日) ブノワ・ワリエ神父

 

 

親愛なる兄弟の皆さま、
福音史家聖ヨハネが、黙示録の中で語った幻視を見てみましょう。
時代をは三つに分けることができます。世の始まり、現在、そして最後の審判です。

I.始まりにおいて

「ミカエルとその天使たちは竜と戦い、竜とその天使たちも戦ったが、しかし竜は負けて、天に彼らのいるところがなくなった。そして、あの大きな竜、すなわち、悪魔またはサタンと呼ばれ、全世界を迷わせるあの昔のへびは、地上に投げ落とされ、その天使たちもともに投げ落とされた」(黙示録12章7-9節)。

「(大きな赤い竜の)尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げた」(黙示録12章4節)。

●一方の側には、聖ミカエルと(私たちの守護天使を含む)善き天使たち、もう一方の側には、ルチフェルと悪魔たちがいました。
すべての天使は、永遠の至福に入る前に(天主への無条件の忠実ということについての)神秘的な試験を受けなければなりませんでした。試験を通った者もいれば、通らなかった者もいました。

●続いて、即座に審判が下されました。「至福に上げられた者もいれば、災いの深淵に落とされた者もいた」(聖トマス、神学大全第3部補遺、第89問題、第8項)。「この世のかしらはすでに裁かれている」(ヨハネ16章11節)と、私たちの主は言っておられます。

II.現在(天使の反乱から時の終わりまで)

黙示録12章の朗読に戻りましょう。
「そして、竜は、自分が地上に落とされたのを知って、 
1.その子を食おうとした(4節)。(しかし、失敗した)。
2.竜は、男の子を産んだ婦人を追った。(しかし、失敗した)。
3.そして、竜は婦人に怒り、婦人の子らの残りの者、すなわち天主の戒めを守り、イエズスの証明を持つ者に挑戦しようとして出て行った」(黙示録12章13、17節)。

戦いは、それ以来続いています。キリスト、(教会のかたどりである)童貞聖マリア、そして「マリアの子らの残りの者」(すべての信者)に対する戦いです。

聖ミカエルと守護の天使たちには、特別な使命が与えられています。
私たちの目には見えませんが、天使と天使の間の戦い、善き天使対悪しき天使の戦いは、永遠にずっと続いているのです。
この戦いは、時の終わりまで続きます。

III.最後の審判において

1.最後の審判では、天使も人間も裁かれます。

「人の子が来て、多くの天使も彼とともに来る」(マテオ25章31節)。(これには、聖ミカエルや私たちの守護天使も含まれます。)
天使は、人間に得させた善あるいは悪に応じて、喜びあるいは苦しみが増えるという意味で、間接的に裁かれます。

2.「聖聖徒は国々を裁く」(知恵3章8節)。すなわち、人間も天使も同じです。

「私たちは、天使たちをさえ裁く者であることを知らないのか」(コリント前書6章3節)。それは、「キリストの権威によって」(神学大全第3部、第59問題、第6項、C)。

●「比較の裁きによって、ある種の人間は、(善き)天使たちよりも上位に置かれることが分かる」と、聖トマスは言います(神学大全第3部補遺、第89問題、第8項、異論1への回答)。

●「悪しき天使たちは、聖徒たちによって断罪されるであろう。彼らは自らの力によってで悪魔を打ち負かした聖徒たちによって断罪されるであろう。」と聖トマスは言います(コリント前書6章に関する注解6章)。
「見よ、私はあなたたちに、蛇、さそり、敵のすべての力を踏みつける力を授けた」と私たちの主は言われます(ルカ10章19節)。
「あなたは竜を踏みにじる」(詩篇90章13節)。

3.最後に、悪魔は地獄に永遠に投げ込まれ、もう誰にも危害を加えることはできません。(神学大全第3部補遺、第89問題、第8項、異論2への回答参照)。

聖ペトロは言います。「天主は、天使たちが罪を犯したとき、彼らを赦さず、地獄の縄で引きずり下ろし、審判のときまで苦しめて見張らせるために引き渡された」(ペトロ後書2章4節)。
聖ヨハネは言います。「彼らを欺いた悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれ、…昼夜を問わず永遠に苦しめられる」(黙示録20章9-10節)。

結論

親愛なる信者の皆さま、
観想家である聖ヨハネの目によって、私たちは、悪魔の世界の恐ろしい現実と、天主、聖母、カトリック教会に対する悪魔の恐ろしい戦いを見てきました。キリストはすでに、十字架上で勝利を得ておられます。
聖ミカエルの旗の下、天の軍隊に入隊するかどうかは、私たち次第です。私たちは、この戦いに加わり、不滅の冠を得なければなりません。
「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを守り給え!」。


大天使聖ミカエルの祝日の説教、二本が公開されています。

2024年10月03日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ワリエ神父さまの9月29日の日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)での「大天使聖ミカエルの祝日の説教」が、新しい聖ピオ十世会日本のウェブサイトで公開されています。

 

大天使聖ミカエルの祝日の説教(2024年、大宮)

FSSPX Japan

 

また、

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの、聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)での「大天使聖ミカエルは天主から全て受けたことを深く知り、それに従って行動した」も、新しい聖ピオ十世会日本のウェブサイトで公開されています。

 

大天使聖ミカエルは天主から全て受けたことを深く知り、それに従って行動した

FSSPX Japan

 

ご報告いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母が私たちの霊的母親であることの論理的な結果:全ての聖寵の仲介者

2024年09月26日 | お説教・霊的講話

2024年9月22日聖霊降臨後第十八主日のミサの説教 

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
先週は、マリアさまの七つの悲しみの祝日で、マリアさまがイエズス・キリストの伴侶――第二のエワ――として、主の御旨に従って、イエズス・キリストの功徳にまったく従属して、イエズス様において、イエズス様によって、イエズス様とともに、贖いの業を成し遂げられたということを黙想しました。

その結果として、マリアさまは御苦しみにおいてわたしたちを超自然の生命に生み出してくださった本当のお母様である、ということを黙想しました。実際に、典礼では、マリアさまがお母様であるということは、いろいろなところに出ています。聖母の連祷、サルベ・レジナ、アヴェ・マリス・ステラ、などなどに。

マリアさまは、イエズス様とともにイエズスと共同して私たちを贖った方――その結果私たちの霊的母・・・。では、このことからいったい何が、さらに導き出されるでしょうか? そのいろんなことが導き出されますが、そのうちの一つは、マリアさまが仲介者である――そういうことです。今日はそのことについて特に黙想したいと思っています。

【聖母が母であるということの結果】
マリアさまが霊的な母親である本当の母親であるということは、この世において天国への道を進んでいる私たちにとっては、マリアさまは私たちのために必要な聖寵を、お恵みを仲介して、取り次いでくださっている方ということです。もしも私たちが天国に到達したならば、マリアさまはその時、母であり、同時に聖人たちの元后・女王となられます。

聖ベルナルドは、聖母についてわたしたちは語り切れない(De Maria nunquam satis)と言いましたが、本当にその通りです。ですから今日は的を絞って、マリアさまが特に全ての聖寵の仲介者であるということをお話しします。

【全ての聖寵の仲介者】
「仲介者」というのは、いったいどういうことでしょうか。仲介者というのは、中にはいって両者の関係がうまくいくように手伝ったり取り次ぐ人のことです。

ところで、マリア様のことを聖福音に従って読んでみると、イエズス・キリストのこのご生涯のその最初から、霊的にそして物質的に取り次いで、イエズス様からお恵みを奇蹟を取り次いだ人です。

たとえば、マリアさまを通して、イエズス様は最初に洗者聖ヨハネを聖化しました。またマリアさまを通して、イエズス様は最初にカナで物質的な奇蹟を行いました。これはそののちまで世の終わりまで、イエズス様はマリアさまを通して奇蹟を行い続けますよという前兆でした。これが天主のみ旨ですよという、予告でした。

使徒行録によると、聖霊降臨のときにはマリアさまは使徒たちと一緒に祈っていました。そして聖母は、私たちの母として天に上げられた今、子供たちである私たちのために祈り続けています。絶えず祈り続けています。

では、マリアさまが「仲介者」であるということはどういうことか、そのことを深く見てみましょう。三つの点があります。

(1)【天主の御母となる恵み】
一つは、マリアさまがまず、天主の御母となるお恵みをいただいた、ということです。聖母は被造物でありながら、天主の御母となられました。これほど天主の本性とぴったりと親密な関係を持つ方は存在しえません。天主の御母――天主の母となるために、マリアさまは、満ち満ちと溢れる聖寵を受けて、そしてその溢れは私たちの上に溢れ出て、注がれるばかりでした。マリアさまが持っていたその天主の母のお恵み、これが大事です。

(2)【自由な承諾】
第二は、ただお恵みをいただいたというだけではありません。マリアさまはそれに自由に承諾しました。進んで協力したということです。救い主の母となるということは、いったいどれほどのことか、どれほどの苦しみを伴うことかということを、マリアさまは聖書を通してよくご存じでした。しかしそれに自由に承諾しました。「われ主のはしためなり。おおせのごとくわれになれかし。」そして救い主の犠牲とそのご生涯にできる限り密接に結びつこうとして、そして苦しみました。そしてそうすることによって、私たちの救いに協力しようと望みました。意志しました。ですから、マリアさまには、お恵みを受けただけでなく、自分の意志があったということがわかります。

(3)【協力の実現による功徳】
三番目は、そう望んだだけではありません。実際にそうした、それを果たした、という点です。協力を実現させた、功徳があるということです。ただそうなったらよいなあというだけではありませんでした。マリアさまは、私たちの罪の贖い・償いのために究極まで、十字架の下に佇んで、ご自分の苦しみをイエズス・キリストとともにお捧げになりました。そして、イエズス・キリストとともに溢れるばかりの功徳をお積みになりました。ですから、その功徳をもって、いま天国で、私たちの救いに役立つすべてのお恵み・聖寵を、私たちのために祈り取り次いでくださっているのです。

マリアさまが取り次ぐのは、イエズスさまとわたしたちの間です。ですから聖母は、贖い主・キリストとわたしたちの間の仲介者として、取り次いでくださっています。わたしたちのつたない祈りや犠牲を、マリアさまはイエズス様に取り次ぎ、そしてイエズス様から特別の祝福あるいは聖寵、わたしたちにとっての利益を得て、わたしたちにくださるようになさっています。こうすることによって、イエズス様に従属する・依存する普遍的な仲介者となられています。

【依存・従属する仲介とは?】
では、イエズス様に依存したり従属するというのはいったいどういうことなのでしょうか。このことを誤解のないようになさってください。贖い、つまり贖罪という大事業は、まず天主から――聖寵をわたしたちに創りわたしたちにくださる天主から、まったく由来しています。と同時に、完全な仲介者であるイエズス・キリストからも完全に由来します。さらに、従属的な仲介者であるマリアさまから、由来します。

天主、イエズス・キリスト、マリアさま、これはどういう関係になっているかというと、たとえばある荷物を3人の人が3人の紐で一緒に、「一・二・三」と引っ張ったという関係ではありません。そうではなくて、ちょうど林檎がどうやって実るかというようなのに似ています。まず、自然の創造主である天主によってあぁ林檎というものが創られたのですけれども、同時にその林檎の実がなるためには樹が生えていなければなりません・・・と同時に、その樹に枝がついていて、花が咲いて、実がならなければなりません。そのように、天主、イエズス・キリスト、マリアさまは、従属して、三つが協力されて、贖いの事業が成立しました。

つまり、すでにすばらしいやり方で無原罪の御宿りというやり方で、イエズス・キリストによって贖われて、原罪と自罪のすべてから守られたマリアさまが、わたしたちを、まず罪の赦しとそれを聖化しそして最後まで聖寵の状態に堅忍することができるように守ってくださる、そういうやり方で私たちの贖いに協力してくださっています。

これを別の言い方でいうと、マリアさまはイエズス様と一緒に二人で功徳を積んだ方です。

【聖母の功徳:全ての聖寵の仲介者】
(1)マリアさまだけが、救い主を私たちに与えました。(2)マリアさまだけが、十字架の犠牲に生贄に最も緊密に結ばれました。(3)そしてマリアさまだけが、全人類のためにすべての必要なお恵みを普遍的に仲介してくださっています。

(1)聖トマス・アクィナスは、このことをこう言っています。
「マリアさまが全く自由に聖寵の創り主である救い主の母となることに同意したので、マリアさまはあらゆる被造物の中で聖寵を創った主に最も密接に親しかった方であり、聖寵の充満を受けた。これによって聖母は聖寵に満ちた方をその胎内にお宿しになり、その方をお産みになることによって、ある意味ですべての人の聖寵の源となられた。」(III, Q. xxvii, art. 5)

(2)また、マリアさまだけが十字架と結ばれたということについては、確かにイエズス様は厳格な正義のもとに天主として功徳を積みましたが、マリアさまはいとも清い方でイエズス様を最高度に愛した方だったので、非常にふさわしいやり方で、わたしたちの罪の償いの功徳を積まれた方です。イエズス・キリストとともに積み、そして天主の正義を非常にふさわしいやり方で満足させた方です。

(3)そして、こうやってイエズス様と共に勝ち取ったこの贖いの実りを――これはイエズス様のものであると同時にマリアさまのものであるのですから――わたしたちのために自分のものとして、イエズス様と同時に共同のものとして、わたしたちのためにひとりひとりのために、特にマリアさまに助けを求める人々のために取り次ぐことができるのです。

こうやって、天主の御旨によって、あらゆる取次者の中で、マリアさまは完全な仲介者として定められました。

聖ベルナルドはこう言っています。
「私たちがマリアを通してすべての恵みを受けることは天主の御旨である」(「Serm. de aquaeductu,」 n. vii)。と。

何故なんでしょうか? それはわたしたちがあまりにも弱く、イエズス様まで到達する際にも仲介者が必要であるからです。またもう一つの理由は、マリアさまはあまりにも謙遜な方であったので、天主は聖母を高めようとお望みになられたからです。ですから、マリアさまに、救いとわたしたちの聖化のために重要な役割を果たすことができるように、それを望まれたからです。

このマリアさまの御取次の偉大さについては、聖霊の浄配という役割のためにものすごい力があったということは、さらにお話がありますが、これはまたのちの機会にしたいと思います。


【スタバト・マーテル】
最後に、この黙想を終わるについて、マリアさまが罪の贖いのために協力して、わたしたちにどれほどお恵みを勝ち取ってくださっているかということは、スタバト・マーテル(Stabat Mater)という続誦に非常に美しく表れています。その数節を引用して、この黙想を終わりたいと思います。

Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.
慈しみの泉なる聖母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え。

Fac, ut ardeat cor meum in amando Christum Deum ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にそのみ心に適わしめ給え。

Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
われにキリストの死を負わしめ、そのご苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。

Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
命のあらん限り、御身(おんみ)と共に熱き涙を流し、はりつけにされ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し(2024年、大阪)

2024年09月22日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月22日(主日)大阪

 

 

親愛なる兄弟の皆さま、

福音の冒頭で、私たちの主は、洗者聖ヨハネによって、「天主の小羊、世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ばれています。

たとえ隣人だけしか侮辱しないように見えても、罪は何よりも天主に対する侮辱です。天主は、世の罪を取り除くために、ここにおられるのです。そして、このことは、中風の人の癒やしを語っている今日の福音に、はっきりと示されています。私たちの主がなさった中風の人の癒やしは、主がまず霊魂になさったこと、つまり霊的な癒やしを、外的な癒やしを通して、人が見て分かるようにするためなのです。

私たちの主は、この人の罪を消して、赦されました。「あなたの罪は赦された」。私たちの主は、世の罪を取り除くことのできる唯一のお方です。福音の他の箇所には、主がマグダラの聖マリアの過ちを赦される場面(多くを愛したのですから、彼女の罪は赦されたのです)、後には姦通の女の過ちを赦される場面があります。「あなたを罰した人はいなかったか。私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」。

1 人の子は罪を赦す

私たちの主が、今日の福音で語っておられるように、人の子は、ここ地上で罪を赦す力を持っています。実際、私たちの主は、天主であると同時に人間であり、福音のテキストには、天主だけでなく、「人の子は罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちは、天主が罪を赦す力を持っておられることを知っていますが、ファリザイ人たちはこう断言しています。「この人は冒涜の言葉を吐いた。天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」と。しかし、福音のテキストには、「人の子は地上で罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちの主は、その人間人類の本性によって、霊魂を成聖の恩寵の状態に回復させるために、この罪を赦す力を行使されたのです。それはなぜでしょうか。この天主の力を他の人々に伝えることができるようにするため、まず使徒たちに、次に聖なるカトリック教会で司祭に叙階されるすべての人々に伝えることができるようにするためなのです。

2 人の子は他の人々に自分の力を伝える

私たちの主は聖ペトロに、すでにこう告げておられました。「私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」。ここで、私たちの主は、聖ペトロに非常に多様な力を約束されましたが、その中には、悔悛の秘跡を通して、霊魂を天国に行かせたり行かせなかったりする力も含まれていました。

私たちの主はまた、最初にペトロに個人的に言われたのと同じ言葉を、使徒たちに繰り返して、この力を使徒たちにも与えられました。

そして次には、おそらくもっと明確にされました。ご復活の日に、私たちの主は、首を吊ったユダと不在のトマスを除いて集まった使徒たち全員にご出現になり、こう告げられました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」。この意味は、「私は父から使命を受けた。霊魂たちを救うという使命を」ということです。(洗者聖ヨハネの、「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ」という言葉を思い出してください。)。私たちの主は、御父から救いの使命を受けられ、その同じ使命を教会に委ねられたのです(教会は、司祭の役務を通して、私たちの主イエズス・キリストの救いのみわざを継続するという使命を持っています)。

ですから、私たちの主は、ご復活の日の晩に、使徒たちに、「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」と言われ、そして聖ヨハネは、こう続けます。「イエズスは、そう言いながら、彼らに聖霊を与えるために息を吹きかけて、『聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない』と言われた」。このように、私たちの主は、使徒たちに罪を赦す力を明確に与えられますが、同時に、悔悛者が必要な心構え(天主を侮辱したことに対する痛悔と、自分の生活を改めるという堅固な意向、あるいは真心からの望みと呼ばれるものが欠かせない心構え)を持っていない場合には、罪を赦さない力も与えられるのです。

3 司祭は罪を赦す力を使徒たちから受けた

ご復活の日に、私たちの主が使徒たちに言われた言葉を、今日(こんにち)、司祭叙階式の中で司教が繰り返すとき、この罪を赦す同じ力が司祭に与えられます。

私たちの主は、マグダラの聖マリアに、「あなたの罪は赦された」と言われました。同じように、告解室で司祭はこう言います。「Ego, autoritate ipsius, te absolvo a peccatis tuis, in nomine Patris et Filiæ et Spiritus Sancti-われ、彼の権威によりて、御父と御子と聖霊との御名によりて、なんじの罪を赦す」。ですから、司祭が世の罪を赦すのは、自分自身の権威によるのではなく、私たちの主イエズス・キリストの権威によるのです。

ファリザイ人は、私たちの主の言葉につまずきました。「この人は冒涜の言葉を吐いた! 天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」。そうです、繰り返しますが、罪を赦す力は天主の力です。しかし、私たちの主は、人の子として、その人間人類の本性によって、この力を行使され、その力を使徒たちに伝えられ、使徒たちはその力をカトリック教会の司祭や司教に伝えたのです。

ラザロの復活の場面で、私たちの主が使徒たちに、「解いて行かせよ」と言われたことについて、聖アウグスティヌスが注釈を加えて、こう言っています。「これは、罪に捕らわれた霊魂を解くために、彼らを解いて、成聖の恩寵の自由を、成聖の恩寵の状態を取り戻させるために、私たちの主が司祭に与えられた力のかたどりである」。ここで、聖アウグスティヌスは、そして彼とともに教会の全聖伝は、私たちの主によって制定された悔悛の秘跡を通して、罪がいつも赦されるということを明確に示しています。したがって、プロテスタントが主張するように、「悔悛の秘跡を受けなくても、天主に立ち返るだけで罪は赦される、と言うことができる」というのは偽りです。私たちは、司祭の役務を通して、この秘跡を受け、謙遜に自分の罪を告発し、天主から罪の赦しを得なければなりません。

4 なぜ直接天主から罪を赦されないのか

私たちの罪が、私たちの主から直接赦されるのではなく、司祭を通して赦されることを、私たちの主が望んでおられる理由は、二つあります。

1―本当に赦されているという確信を、私たちが持つためです(私たちは、天主を見ることはできませんが、司祭が次の言葉を繰り返すのを、見たり聞いたりすることはできます。「Ego te absolvo-われ、なんじの罪を赦す」)。

2―そしてまた、この秘跡が罪の赦しに不可欠な心構え、すなわち謙遜を与えてくれるからです。私たちは、天主の役務者である司祭から罪の赦しを得るためには、(同じく罪人である)司祭の前で謙遜にならなければならないのです。

親愛なる兄弟の皆さま、この福音を読むとき、私たちの主の行いにつまずいて、「この人は冒涜の言葉を吐いた!」と言ったファリザイ人のようにならないようにしましょう。いいえ、私たちの主は、冒涜の言葉を言ってはおられません。私たちの主は、天主であると同時に人間です。私たちの主は、罪を赦すという天主の力を持っておられ、その大いなるあわれみによって、主は、教会が霊魂を救う使命を継続できるよう、教会にその力を委ねられたのです。私たちの主は、目に見えない力である、霊魂を癒やすという主がお持ちの力の明白なしるしとして、この中風の人を外的に、明白に癒やしたいと思っておられたのです。そして、教会の役務者は、奇跡(あるいは外的な癒やし)を行う力を与えられることはあまりないとしても、その一方で、私たちが信仰の目を通してだけ見ることのできる、さらに偉大でさらに重要な目に見えない力、すなわち罪を赦す力を持っているのです。

エゼキエル書の中で、天主はこう言っておられます。「もし悪人が、自分の犯したすべての罪を悔悛し、私の掟をすべて守り、正しく行動すれば、その人は本当に生きる」、すなわち成聖の恩寵の命を取り戻し、自分自身を救うことができるということです。天主の御あわれみは、秘跡を通して、特にこの悔悛の秘跡を通して伝えられるのです。

ですから、この秘跡を利用し、「世の罪を取り除く天主の小羊」である私たちの主イエズス・キリストに頻繁に近づき、司祭の役務を通して罪の赦しを受け、救いの恩寵を取り戻しましょう。

アーメン。


教会について(2024年9月16日、札幌)

2024年09月22日 | お説教・霊的講話

教会について(2024年9月16日、札幌)

ブノワ・ワリエ神父

教会とは何かを知ることは、教会の一部であると主張しているすべてのカトリック信者にとって、今日、これまでにないほど不可欠なことです。親愛なる信者の皆さま、私は、連続2回の講話を通して、秘跡によって一致し、教皇によって導かれる、天主が立てられた社会であるカトリック教会の持つ、深遠な本質と使命を、皆さまとともに探求したいと思います。

前半の講義では、教会の分裂、教える教会員と忠実な教会員の役割、天主のみ言葉と聖伝に従う必要性について吟味します。教会の本質的な属性である可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性については、教会の四つのしるしである「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」とともに論じます。

次回行われる後半の講話では、教皇と司教の役割に重点を置きながら、教会内部の構造と権威について詳しく説明します。最後に、団体主義や信教の自由という誤った解釈など、現代的な課題についても併せて考えます。

教会の本質

カトリック教会は、キリストの真の信仰を宣言するすべての人々による、天主によって創立された社会であり、キリストが制定された秘跡によって一致し、キリストが目に見える地上のかしらである教皇の下に立てられた牧者たちによって統治されています。

教会の使命

イエズス・キリストが栄光のうちに再臨されるまで、イエズス・キリストのうちにあるすべての人を教え、統治し、聖化するために、天主の権威と委任を担っているのは、カトリック教会だけです。教会の使命は、貧困や病気、環境汚染と闘うための、また「人類の進歩と普遍的友愛」を促進するための人道的奉仕団体となることではありません。

教会の各部分

教会を、三つの部分に分けることができます。1.地上の民から成る「戦闘の教会」、2.煉獄にいるすべての霊魂から成る「苦しみの教会」、3.天国にいる民から成る「凱旋の教会」です。

一つの社会である「戦闘の教会」の持つ、二つに分けられた側面とは何ですか。

1.教皇と、教皇と一致した司教たちから成り、イエズス・キリストの地上における代理者としての権威をもって教える「教導教会」(Ecclesia Docens)、すなわち「教える教会」、2.キリストの教えを受け、それに従って生きるすべての信者から成る「聴従教会」(Ecclesia Docta)、すなわち「教えられる教会」です。

《「教えられる教会」は、啓示された天主のみ言葉に対して、最も従順で素直でなければなりませんか》。はい。教会の教導職は、「天主のみ言葉の上にあるものではなく、むしろ、これに奉仕し、伝えられたことだけを教え、天主のみ言葉を敬虔に聴き、誠実にこれを守り、忠実に説明する」のです。第一バチカン公会議は、決して教皇を絶対君主と定義しませんでした。その反対に、この公会議は、教皇を啓示されたみ言葉への従順を保証する者として提示したのです。

《この従順と素直さは、永続的な意味での教会の聖伝にも広げなければなりませんか》。はい。「教皇の権威は信仰の聖伝を守るように義務づけられており、そのことは典礼にも適用されます」。ですから、聖アウグスティヌスは、真のカトリック司教の特徴を、こう述べています。「彼らは教会の中に見いだしたものを保持し、学んだことを教え、父祖から受けたものを子らに伝えた」。

教会の必要性

救われるためには、カトリック教会に属することが必要です。これが、教父たち、教皇たち、諸公会議によってしばしば繰り返されてきた、「教会の外に救いなし」(extra Ecclesiam nulla salus)という断言の意味です。

《しかし、天主はすべての人が救われるように望んでおられませんか》。はい。愛に満ちた父として、天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられる」(ティモテオ前書2章4節)のです。だからこそ、天主は、ご自分の教会を、通常にして普遍的な救いの手段として立てられたのです。「教会を母としない者は、天主を父とすることはできない」【聖チプリアヌス】。

《天主の啓示も天主が創立された教会も知らない人が、救われるのは可能ですか》。洞察力を求めて祈ったり真の宗教を熱心に求めたりすることを怠る人は、自分の過ちによって無知なのですから、救われるのは不可能です。同様に、いったん教会を発見しても入ることを拒む人は、天主の招きを知っていながら拒んでいるのですから、救われるのは不可能です。しかし、もし人が天主の啓示を含め、自分に与えられた恩寵を意識して拒むのではなく、また適切な心構えが加わるならば、天主が特別な方法でその人を教会に加入させることは可能です。「私たちのいとも聖なる宗教について不可抗的無知であっても、…正直で高潔な生活を送る人は、天主の光と恩寵の働く力によって、永遠の生命に達することができる。なぜなら、天主は、意識して罪を犯してはいない人が永遠の苦しみで罰せられることを、決してお許しにならないからである」【教皇ピオ九世回勅「クアント・コンフィチアムール・モエローレ」(Quanto Conficiamur Moerore)】。天主は全能ですから、通常の秘跡のしるしとは無関係に洗礼の効果を伝えることがおできになるのです。

《霊魂が、この特別な方法で救われるためには、どんな前提条件が必要ですか》。1.天主が存在されること、また天主を求める者に報いをくださることを信じること(ヘブライ11章6節参照)。2.天主が知らせてくださる御旨を知り、それを行おうとする真摯な努力をすること。3.罪に対する真の悔い改めをし、赦しを願うこと―です。しかし、このような特別な方法で教会に入ることが、頻繁にあると考えるべきではありません。そう思うのは無謀なことです。「滅びに至る門は広く、道はやさしく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、道は険しく、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。

《教会の外にいる人とは、どのような人ですか》。ユダヤ教徒、イスラム教徒、異教徒など、洗礼を受けていないすべての人々です。洗礼を受けていても、自らの犯罪や罪が洗礼の霊印の効力を妨げ、教会の霊的な善から切り離されている人のことです。その中には、異端者、離教者、破門者、背教者が含まれます。

《教皇の命令に不従順なすべての行為は、それ自体で離教的ですか》。教皇に抵抗したり、教皇の特定の教えや命令に従うことを拒否したりしても、それが自然法や天主の法に明らかに反していたり、カトリック信仰の完全性や典礼の神聖さを傷つけたり損なったりするならば、離教的ではありません。このような場合、教皇への不従順や抵抗は許されるものであり、時には義務なのです。

《破門された人とは、どのような人ですか》。何らかの重大な罪により、教会の目に見える交わりから切り離され、教会の霊的な祝福を奪われたカトリック信者のことです。しかし、公の破門宣告は無効になる可能性があることを心にとめておきましょう。聖ジャンヌ・ダルクの場合のように、破門という法的な刑罰が不当に科され、そのため破門に司法上の適格性も効力もないことがあり得ます。教会はいつか、マルセル・ルフェーブル大司教に対してなされた告発を、完全に不当かつ無効なものと宣言するに違いありません。

《洗礼を受けたカトリック信者が大罪を犯した場合、その信者はまだ教会員でしょうか》。はい。信仰そのものに対して(例えば、異端という罪によって)重大で頑なに罪を犯さない限り、その信者は霊的には死んでいるとはいえ、教会員であり続けます。死んだ枝が、生きている木にまだついているようなものです。したがって、単に教会員であるだけでは、救いに十分ではありません。救われるためには、生きている教会員でなければなりません。つまり、成聖の恩寵の状態にいなければなりません。「教会の子らは皆、自分の優れた身分が自分自身の功績によるものではなく、キリストの特別な恩寵によることを忘れてはならない。さらに、もしその恩寵に対して、思いと言葉と行いをもって答えないならば、救われないだけでなく、一層厳しく裁かれるであろう」。

教会の属性

可視性、永続性、不可崩壊性、不可謬性は、教会の主要な属性です。《教会の可視性とは何ですか》。教会が、キリストによって歴史的に立てられた社会として、人々に公に目に見えるように現れているという事実です。教会は、プロテスタントの間で一般的に信じられているような、共通の信仰や内的な傾向によって一致した人々による、単なる目に見えない集まりなのではありません。

《教会の永続性とは何ですか》。教会が世の終わりまで途切れることなく存続するという事実です。モルモン教徒が信じているように、真の教会が一度存在するのをやめたとか、本質的に堕落したとか、あるいは近代主義者が信じているように、将来何らかの新しい形態に変わる可能性があると信じるのは間違っています。

《教会の不可崩壊性とは何ですか》。教会が、かつて天主なる創立者から受けたすべてのものを保存し、その教義、道徳、秘跡、本質的な組織は、そのまま変わることなく、また変わり得ないという事実です。地獄の門もこれに勝てぬ(マテオ16章18節参照)という天主なる創立者の約束に反して、教会の不変の教導権が、決定的に誤った教理を公布したり、異端的な礼拝を命じたり、誤った秘跡を与えたりするとか、あるいはそれらが可能だとか信じるのは間違いです。

《教会の不可謬性とは何ですか》。それが、決定的な教えにおいても、普遍的な信仰においても、いつの時代も誤謬を免れて保存されているという事実です。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である」(ルカ10章16節*)、「真理の御霊(みたま)が来るとき、霊はあなたたちを、あらゆる真理に導かれるであろう」(ヨハネ16章13節)。教会が教理上の誤謬を決定的かつ正式に保持したり教えたりすることができると信じたり、過去の決定的な教えが教理の進化の過程で取って代わられることがあると信じたり、不可謬性のカリスマをあまりにも広義に解釈して、あたかも教会の個々の民が誤謬を犯すことがまったくないかのように考えたりするのは間違っています。なぜなら、異端的な聖職者によってつまずかされる危険があるからであり、また、歴史上最も悪質な誤謬は叙階を受けた者の階級から生まれたという痛ましい事実があるからです。キリストは、そのような飢えた狼や偽の牧者に注意するよう警告しておられます(マテオ7章15節、23章13節、18章6節、使徒行録20章29節参照)。

《教会の不可謬性の範囲に入るのは、どのような真理ですか》。聖書と聖伝に含まれているすべての啓示された真理が、その主要な対象です。例えば、イエズスは真の天主にして真の人間である、といったことです。正式に啓示されたものではなくとも、「啓示の遺産をそのまま保存するために必然的に必要とされる」これらの真理については、「教会の不可謬性の二次的な対象である。これらの真理がなければ、信仰の遺産を守り、説明することはできない」。例えば、霊魂の霊性、人間の意志の自由、あるいは「ペルソナ」、「実体」、「全実体変化」といった、教義が公布される際の哲学的な概念や用語です。

《教皇やエキュメニカル公会議が教える教令は、それぞれ自動的に不可謬ですか》。いいえ、教会の基本原則は、「いかなる教理も、そのことが明白に表明されていない限り、不可謬的に決定されたものとはみなされない」【新教会法典(Codex Iuris Canonici)749条3項】と言っています。

《教会が不可謬的に教えた真理に関するキリスト信者の義務とは何ですか》。信者は、それをそのまま、キリストの教えであると信じて、率直に受け入れなければなりません。

教会のしるし

キリストは、唯一の真の教会であるカトリック教会を創立されました。聖ペトロの上に立てられたもので、ペトロの座はローマにあって、彼の後継者たちがその後もそこで統治しているため、その教会は、ローマ・カトリック教会とも呼ばれています。キリストによって創立された唯一の真の教会は、特に、キリストが教会に与えられた四つのしるし、すなわち特有の言葉によって見分けることができます。それを私たちは、ニケーア・コンスタンティノポリス信経で宣言しています。つまり、教会は「一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承」なのです。

1.もし教会が唯一でなければ、教会は真理のものではありません。唯一であることは真理の本質的な側面であるからです。2.もし教会が聖でなければ、教会は霊魂を聖化することができません。3.もし教会が公(カトリック)でなければ、教会は、あらゆる時代や場所で、すべての人々に救いを提供することができません。4.もし教会が使徒継承でなければ、キリストに由来する教理、使命、権威を持っていないことになり、単なる人間の組織になってしまいます。

《歴史上、教会とともにあるように思われるしるしが、もう一つありますか》。はい、迫害というしるしです。天主なるかしらに倣って、忠実なカトリック信者はあらゆる時代に迫害を受けるでしょう。「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」(ヨハネ15章20節)。

唯一であること

カトリック教会は唯一です。なぜなら、すべての忠実な教会員は、唯一の真の天主を礼拝し、同じ教理と道徳を宣言し、同じ秘跡にあずかり、同じ牧者に従うからです。真のエキュメニズムとは、「分かれた人々が、過去に不幸にして去ってしまった唯一の真のキリストの教会に立ち戻るのを促すことによって」【教皇ピオ十一世回勅「モルタリウム・アニモス」(Mortalium animos)10番】、すべての人が、カトリック教会がすでに不滅に所有しているその一致に入るべきであるという意向を表明しなければならないというものなのです。

《キリストの霊は、分かれたキリスト教共同体を、「教会に委ねられた恩寵と真理の充満に効力が由来する救いの手段」として用いていると断言することは適切ですか》。いいえ、これは分かれたキリスト教共同体に正統性があるかのようにほのめかすものであり、カトリック教会が唯一であることを損ない、教理上の相対主義を助長するものです。実際には、天主は、カトリック教会をご自分の唯一無二の教会として、また救いの手段の所有者として、決定され創立されたのです。したがって、分かれたキリスト教共同体が多様にあることは、世界の宗教が多様にあることと同様に、キリストのご意向に反しているのです。

《分かれたキリスト教共同体の中には、真の教えを保持し、有効な秘跡を執行しているところもあるのではありませんか》。はい。しかし、それらが真理にして天主をお喜ばせするものである限り、そのような教えや儀式はカトリック教会に属するものであり、異端的あるいは離教的な共同体に属するものではありません。聖アウグスティヌスによれば、教会を去ったキリスト信者は、自分たちがカトリック教会から盗んだものを自分の所有物にしているのです。「教会はただ一つしかなく、カトリックと呼ばれているのはその教会だけであり、また、教会の一致から分かれたそれらの分派に教会の所有物のままで残っているもののおかげで、それを誰が所有していても、生むのは教会なのである」【「ドナトゥス派駁論 洗礼について」(De Baptismo, contra Donatistas)】。

聖であること

カトリック教会は聖なるものですが、その理由は以下の通りです。1.その創立者は天主の御子であり、2.それは聖霊によって活力を与えられており、3.その教義、道徳、礼拝、規律は人を悪から遠ざけて徳へと導くものであり、4.その命令を守る者はすべて善良で徳があり、その勧めに完全に従った人はすべて偉大な聖人となったのであり、5.その囲いの中では数え切れないほどの奇跡が起きている。

《では、なぜ教会の内部にしばしば、つまずきを与える罪人がいるのですか》。「教会は、自分の懐に罪人を抱えているとはいえ、」聖なるものです。「なぜなら、教会自身は恩寵の命以外の命を持っていないからです。教会員が聖とされるのは、教会の命で生きることによってです。もし教会の命から自分を引き離すならば、聖性の輝きを曇らせる罪と無秩序に陥ってしまいます」。天主は、自らの神秘的な御摂理において、あらゆる時代に生きている教会員を聖化して完成させるための御計画の一環として、教会にいる悪を行う者のつまずきを許しておられるのです。

公(カトリック)であること

カトリック教会がカトリックと呼ばれるのは、次の理由からです。1.いつの時代も、どんな場所でも、どんな人間にも完璧に適合し、2.徹底的に全世界に広がることが可能であり、3.普遍的に広がるようにという天主の衝動によって活力を与えられており、4.あらゆる超自然の真理に満ちている。教会は聖霊降臨の日に公(カトリック)となったのであり、キリストの再臨の日まで常にそうなのです。

使徒継承性

カトリック教会は使徒継承です。なぜなら、その教理は使徒たちの教理であり、その使命と権威は使徒たちを通してキリストに由来するものであるからです。教会の司教全員が、十二使徒からの途切れることのない継承によって、人から人へとその聖職をさかのぼることができるのです。

《教会に、弱かったり、世俗的でだったり、堕落したりした司教がいることが、どうして可能なのですか》。司教職とは、聖性を保証するものではなく、使徒的権威のみを保証するだけであるからです。司教が自分の召命に対して不忠実であるならば、高慢、虚栄心、あるいは慰めへの愛着が、しばしば罠となります。天主の恩寵は、地上での神聖な使命を果たすために決してなくなることはありませんが、それでも司教は、自分の召命の恩寵にお応えすることを選ばなければなりません。さもなければ、司教は堕落していくでしょう。司教は常に祈りを必要としており、天主の御前で厳しい説明責任を問われるのです(ティモテオ前書2章1-2節、マテオ18章6節参照)。

 


なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること

2024年09月18日 | お説教・霊的講話

なぜイエズスは十字架につけられたのか? なぜ天主は十字架の上で手を広げて亡くなったのか?十字架の称賛の神秘はわたしたちに教えていること

2024年9月14日(土)十字架称賛の祝日 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は十字架の称賛の祝日です。
十字架の称賛というのは、十字架の神秘、‟十字架というものが非常に高い賛美と栄光を受けるべきものである”ということを示す祝日です。

今日は、このミサの前に、ある方から、こんな質問を受けました。
「なんで、イエズス様は十字架につけられたのですか? なんで、天主は、この世を創った方は、十字架の上で手を広げて亡くなったんですか?」
この十字架の称賛の祝日にピッタリの質問ですので、ぜひこの答えを話したいと思います。

なぜ天主は、この世を創った方は、わたしたちを愛している方は、罪がなかったにもかかわらず、十字架の上で、こんなにも裸になって、茨の冠を被せられ、鞭を打たれて、傷だらけになって、あたかも極悪人の様になってそんな姿で、奴隷のように、十字架につけられ、捨てられて、亡くならなければならなかったのでしょうか?

なぜかというと、これは、わたしたちが犯した罪を、わたしたちに代って、償うためだったのです。
なぜかというと、罪を犯すと、その罪はどうしても償わなければならないからです。
なぜかというと、天主というのは、非常に聖なる方で、その主に対して犯した罪は、どうしてもその犯された秩序を回復しなければならないからです。

もしも誰かが、悪戯(いたずら)の男の子がやってきて、お父さんがせっかく作ったきれいなものを壊してしまった。そうしたら男の子が『お父さんごめんなさい』と涙を流して謝ってきたので『許してあげよう』・・・。でも、この壊されたのはいったいどうするんだ・・・。男の子は、できるかぎりそれを元通りにしなければなりません。でも男の子は元通りにすることはとても一人ではできません。するとお母さんがやって来て『ああ私が手伝ってあげましょう』。お母さんが、きれいにそれを直してくれた。秩序を回復してくれた。

それと同じように、似たようなことで、人間は天主に対して、無限に聖なる方に対して、罪を犯したので、それをどうしても償わなければなりません。しかし人間の限りある力では、無限の聖なる方に対して犯した罪を償うことは、とてもできませんでした。償うためには、無限に聖なる方が必要です。罪のない方が償わなければ、秩序を回復できません。

そこでイエズス・キリストが、天主の御子が、まったく罪のない聖なる天主の御子が、人間となって、わたしたちの名前でわたしたちのかわりに、わたしたちが受けるべき罪をすべて背負って、その罰を受けるわたしたちの代わりに、償ってくださったのです。

ですから、イエズス・キリストのその苦しみを見て、わたしたちの受けるべき罰は、罪は、すべてもうきれいに流された、すべて秩序は回復したんだ、もう過去のことは一切なかった、としてくださったのです。

そして、イエズス・キリストは最も苦しい苦しみを受けたので、その報いとして、最も高い栄光を受ける方となりました。

では、この十字架の称賛の神秘はわたしたちに何を教えているのでしょうか? 三つのことを教えています。

ひとつは、もしかしたら、ある嘘の宗教の人が、偽物がわたしたちにやって来て、「ああ私たちのこの宗教を信じるとこの地上では平和が来ます。そうしたらこの地上では苦しみがなくなります。この地上ではすべてが良くなります。」―――そんなことを言ったら、それは信じないでください。

この世ではどうしても苦しみがあるからです。なぜかというと、わたしたちの罪の償いとして苦しみがこの世に入ってきたからです。苦しみと死と悲しみは、わたしたちが罪を犯したので、この世に来ました。ですからわたしたちはどうしてもそれを避けることができません。

もしも誰かが、「どんな宗教でもよい、苦しみが無くなれば、平和が来れば、そしてこの世が幸せになればよい。あの世のものでなくこの世のものであること、誰かに限ったものではなく全ての人の幸せをこの世で実現することを切に、切に、祈ってやまない」と言ったとしても、でも、どのようなものでも、天主であっても、この世を創造された方であっても、それはできないのです。なぜかというと、人間が罪を犯し続けているから・・・それが第一です。つまり、この世には必ず苦しみがあるということを、私たちに教えています。イエズス様でもそれを避けることをしませんでした。

第二には、もしもわたしたちが天国に行くとしたら、行こうとするならば、むしろわたしたちは苦しみを使わなければならない、ということです。キリスト教が約束している救いとは、来世の約束です。この世では苦しみを避けることはできません。しかし、この世の苦しみは彼岸の栄光に喜びに変わる、ということです。その時、苦しみや悲しみは、避けるべき悪ではなく、愛をこめて受け入れるべき善への手段になるのです。

第三の点は、では‟苦しむのであればなんでもよいのか”というと、そうではありません。わたしたちに、本当のしあわせ、本当の栄光を与えてくれる手段は、たった一つしかありません。イエズス・キリストの十字架です。これだけが天につながる唯一の橋です。道です。イエズス・キリストの十字架を通らければ、誰も父のもとに天の国に行くことはできないんです。イエズス・キリストの十字架だけが称賛を受けて、そうでないならば称賛を受けません。しかし、苦しみをイエズス・キリストと一緒に捧げることによって、イエズス・キリストと一緒に同じような栄光にいくことができる、ということです。イエズス・キリストと一緒に苦しめば苦しむほど、栄光もますます高くなる、ということです。

その証拠が、聖金曜日にイエズス・キリストと一緒に十字架につけられた二人の泥棒がいます。盗賊です。あまりにも悪を犯したので、ついに十字架の刑を受けた二人の悪人です。一人は右に、もう一人は左につけられました。

右につけられた盗賊は、確かに自分は悪いことをした・・・だから自分が十字架につけられたのは当然のことだ・・・と、罪を悔い改めます。

ところが左は、そうではありませんでした。イエズス・キリストを罵りました。「あなたは救い主だというが、もしも救い主だというならば自分と俺を救え。さあ救ってみろ。この十字架から救ってみろ。」といろいろ罵(ののし)るのです。

すると、右にいた盗賊は、あまりにもひどいことを言うので耐えきれずに、「黙れ、この方は罪がないのにもかかわらずこうやって苦しんでおられる。お前は一体なんだ。悪いことをしていながら何を言うのか。」と言って叱るんです。その次にイエズス・キリストに向かって「主よ、あなたが天の国に行かれるときにわたしのことを思い出してください。」というと、イエズス・キリストは、この右の盗賊に向かって「お前は今日わたしとともに天国にいる」。すべての罪は赦されました。

苦しみは同じでしたが、イエズス・キリストとともに苦しむときに、それは栄光に変わります。天国行きの切符に変わります。今日の十字架の称賛の祝日は、これをわたしたちに教えています。

今日は、なぜイエズス様がこんなにも聖なる方が十字架に苦しまれなければならなかったか――それは私達を天国に導くためだ、引っ張ってくださるためだ、とわたしたちに教えている、ということを黙想しました。

最後に、マリアさまにお祈りしましょう。マリアさまはいつも十字架のもとに来て、十字架から逃げずに、イエズス様とともにおられました。マリアさまが天国でわたしたちのためにお祈りしてくださっています。わたしたちも、マリアさまのように、いつもイエズス様の十字架のもとにいることができますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年、札幌)

2024年09月17日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十七の主日の説教―キリストの神性(2024年)

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月15日、札幌
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親愛なる兄弟の皆さま、
 
今日の福音で、イエズスは、聖書の知識を大いに自慢しているファリザイ人に、こう尋ねられました。「あなたたちは、キリストについてどう考えているのか。…キリストは誰の子か」。

私たちの主の質問は、律法学士たちに、キリストの父について、よく考えさせようとするものでした。なぜなら、キリストは肉によれば本当にダヴィドの子(つまり子孫)であったにもかかわらず、彼らが思っていたように、キリストはダヴィドの子であっただけではないからです。キリストは、彼らに照らしを与えて、キリストが天主の本性をお持ちであることと、キリストが永遠において生まれ給うたことについて、考えさせたいと望んでおられます。そして、彼ら自身が認めている聖書そのものから、キリストは単なる人間以上の存在、単なるダヴィドの子以上の存在でなければならないことを証明されるのです。

私たちの主は、詩篇109篇を引用されました。その詩篇は、ダヴィド王によって書かれたものであること、また約千年後にダヴィドの一族から生まれることになるメシアを扱ったものであることは、ユダヤ人の誰もが認めていました。

その詩篇は、不可解な言葉で始まります。「主は私の主に言われた。私が敵をあなたの足台とするまで、私の右に座れ」。

「主」という言葉は、天主のことです。ですから、「天主は私の天主に言われた」と訳すこともできます。「私の主」とは、メシアのことです。ダヴィドは「私の」と言っていますが、それはメシアが自分の子孫であるはずだからです。

しかし、なぜダヴィドは、「主は、私の子であるメシアに言われた」と言わないのでしょうか。なぜダヴィドは、「主は私の主に言われた」と言うのでしょうか。ダヴィド王は、メシアを「私の主」と呼ぶことで、私たちの主が人間(ダヴィドの子)であると同時に天主(父なる天主の子)であることを、はっきりと告知しているのです。

しかし、ダヴィドが高慢になって間違ったと、人々に思われないように、私たちの主は、「ダヴィドが霊感を受けて」という表現を使っておられます。ダヴィド王は聖なる作家であって、天主の霊感の影響の下に、また天主の「霊」が言われたことを書き取って、聖書の一部を書いたのです。(ミサの信経で、私たちは、聖霊について「預言者によりて語り給えり」(Qui locutus est per Prophetas)と唱えているではありませんか。)

ですから、ダヴィドの預言の分かりやすい意味はこうです。「父なる天主は、肉によってまた私の子となるであろう永遠の御子キリストに、こう言われた。『あなたの死によって、あなたの栄光ある復活と昇天によって、あなたのすべての敵(死と悪魔)に打ち勝った後に、私の右に座れ』。次に、御父はキリストを『いっさいの権勢と能力…の上に、またこの世ばかりでなく来るべき世にとなえられるすべての名の上に置かれた』(エフェゾ1章21節)」。

「あなたの足台」とは、最大限の屈辱と平伏を意味します。この考えは、征服者が時々行う残酷な習慣から借りてきたもので、完全な服従のしるしとして、敗者の首に足を置くというものです。獰猛な征服者の中には、馬に乗る際に、王族の捕虜を足台にした者がいたという記録があります。ペルシャ王シャープールはローマ皇帝ヴァレリアヌスをこのように扱い、傲慢なタタールの皇帝ティムールは、トルコ皇帝バヤジッドを同じように扱いました。
このことは、キリストに関して、審判の日に成就することでしょう。
 
聖ヨハネ・クリゾストモスと聖アウグスティヌスは、ファリザイ人が論敵から教えられるよりも、高慢な無知のままでいることを好んだと指摘しています。彼らは、自分たちがイエズスよりも劣っていることを何度も経験していたため、「その日から、あえて問いかける者もなくなった」のです。

親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音から二つの教訓を引き出すことができます。

第一に、私たちの主に関する多くの預言は、主がお生まれになる何世紀も前に記録されていたもので、ユダヤ人にはよく知られていたということです。

ブッダ、ムハンマド、ルター、その他の有名な宗教指導者に関して、真の預言を一つでも挙げることができますか。

私たちは、他の人々を照らし、説得力のある証拠を通して、彼らをカトリック信仰へと導くために、護教学を知る必要があります。

第二に、そうすることは、私たちにとって大きな慰めになるはずです。私たちの主は天主です。今日、主は大いに無視されているかもしれませんが、そうであっても、主がどのようなお方であるかは何も変わっていません。

願わくは、主がすべての敵を打ち砕き、私たちを「私たちの主人の喜びに入」らせてくださいますように。アーメン。


聖母の無原罪の御宿りとは何か?原罪とは何か?無原罪の御宿りは私たちにどのような意味があるのか?

2024年09月13日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十六主日 大阪でのミサ 説教

トマス小野田圭志神父 2024年9月8日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマリアさまのお誕生日の祝日でもありますから、マリアさまの誕生の神秘について、特にマリアさまが無原罪であるということについて黙想することを提案します。

何故このことを提案するかというと、実はつい最近ある日本人の神父様の本を読んだときにこの神父様は「無原罪の御宿り」の神秘について疑問を提示していて、よくわかっておられなかったからです。ですから、ぜひ皆さんには「無原罪の御宿り」について深い理解をお願いしたいと思っています。そして、もしも何か質問を受けたという場合には、正しく答えることができるようになさってください。

まず無原罪を語るために、原罪とはいったい何なのか、また無原罪とはではどういうことなのか、それから無原罪がわたしたちにとってどんな意味があるのか、ということを黙想して、そして最後に選善の決心をたてましょう。

【原罪とは何か】
では「無原罪の御宿り」を理解するために、「原罪」について少し確認いたします。皆さんよく知っていることです。

アダムとエワは無原罪において創造されました。これは何を意味するかというと、天主は人祖を創造したときに、最初の瞬間から、まったく無償で、果てしない愛と憐みによって、人間に成聖の聖寵を与えました。成聖の聖寵、つまり、人間はその本性以上の境地に高められたのです。地上においての幸せな生活を受けたというそれに加えて、天使たちが招かれたのと同じような高い身分に、つまり天主の生命そのものに与る・参与するというものと高められたのです。ですから、最初の瞬間から――人間が創造されたその最初から――、“罪が犯されない限り常に留まり続ける聖寵”の状態において、天主の子どもとなり、天主の生ける神殿となって、この世の生活の後には、天主の永遠なる福楽そのものを楽しむことさえできる――天主を至福直感で見るという幸福を受ける――、という特別の特権を受けました。これによって人間は、人間であることを失わずに天主のように――あたかも天主であるかのように――なり、そして天主の生命を生きる――それに到達することができる、という特別な地位をいただきました。このような状態を、原初の義――義というのは義人の義です――原初の義の状態と言います。

天主の生命というのは、この世の有限の世界に現れている命とは全く次元の異なるものです。天主はこの世をこの世界をすべて有らしめて存在させていますけれども、同時にこの世界を本性においては遥かに超越するお方です。ちょうど動物の命と植物の命を比べたときに、動物の命のほうが遥かに優れています。それと同じように―いやそんな感じで、天主の生命は、被造の生命を絶対的に―動物と植物の生命と比較にならないほど絶対的に、無限に凌駕しています―超越しています。

それにもかかわらず、人間が人間であるまま、人間が天主の生命に与ることができるのは、これは人間の本性に基づく当然のことでは決してありませんでした。そうではなくて、天主の愛が生み出した奇跡でした。有限な人間が、無限の天主の生命のこれに与るのです。与るといいますのは、なぜかというと、人間が天主の命をわがものにして、天主そのものになることはできないからです。そうではなくて、卑しいしもべであって―卑しい身分でありながら、天主の無限の寵愛をこうむって、そしてもともとの本当に卑賎な身分から天主の家督を相続する特別に恵まれた者とあげられました。これがアダムとエワが最初に創られた状態でした。

しかし、残念なことに不幸なことに、わたしたちの祖先、人祖アダムとエワは罪を犯します。そしてこのアダムとエワが犯した罪によって、原初の義の状態というこの贈り物は失われました。パーになりました。超自然の遺産であったはずの贈り物は、アダムが、これを捨ててしまったのです。ですからアダムのすべての子孫たちは、子供たちは、この遺産を受けることができなくなってしまいました。この意味でアダムの罪がわたしたちアダムの子孫に伝えられたのです。

アダムの犯したのはあくまでも個人の罪です。しかしアダムの自罪―自分の犯した罪が、子どもたちに子孫に伝えられる限りでこれを「原罪」と言います。アダムは原罪を犯したのではありません。アダムは「自罪」を、自分の罪を犯しました。が、その罪の結果、わたしたちは「天主から退けられた状態」に陥ってしまいました。アダムの子孫は、つまり「聖徳と義の欠如」の状態で生まれるようになってしまいました。いいかえると「天国の家督相続の権利を剥奪」されて生まれてきたのです。裏からいうと「天主が最初に人類に対して持っていたとてつもない愛に対立する状態」で生れて来ました。ですから、これは、わたしたちにとっては「原罪」として伝えられてきました。ですからこの原罪というのは、欠陥がある状態なのです。ですからわたしたちは、天主の御前に汚れのある者として生まれてきたのです。聖トマス・アクィナスは、原罪の本質というのは何かというと「原初の義の欠如である defectus originalis justitiae」と言っています(I.IIae, q.83, a.3)。

天主が定めた法則によって、アダムの子孫であれば当然のごとくこの遺産はわたしたちに伝えられなかったはずです。当然の如くすべての子孫は、原罪の汚れに感染します。そしてわたしたちすべてにとって、超自然の命――つまり成聖の聖寵――を回復することができるのは、たった一つの手段しかありません。イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストだけが、聖パウロが言うとおりに、「すべての人、とくに信じるものの救い主」であります。ティモテオの前書4章10節に書いてあります。ですから、救われる人すべては、例外なくたった一つの例外なくイエズス・キリストの功徳によって贖われて、救われました。

【無原罪の御宿り】
では、聖母の「無原罪の御宿り」とはいったい何なのでしょうか?
福者ピオ九世は1854年12月8日の大勅令「イネファビリス・デウス」でこう言います。引用します。
「童貞聖マリアは、その受精(受胎)の最初の瞬間に in primo instanti suae conceptionis 全能の天主の特別の聖寵と特権とによって、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を予見して、原罪の全ての汚れから前もって保護されていた praeservata immunis 。この教えは、天主によって啓示されたのであり、全ての信者によって固く常に信じられなければならないことを宣言し、発表し、定義する。」これで引用を終わります。

マリアさまに贖いが適応されたというのは、なぜかというと、人類が一般的に持っている原罪の法則があったからです。つまりマリアさまは一般的な法則によれば、お恵みがない状態で生まれなければならないはずでした。マリアさまにも本来ならばこの原罪の法則が適用されるべきところでした。しかしマリアさまの場合には特別に、それから「前もって保護されていた praeservata immunis」のです。先行的に保全されていたのです(redemptio praeservativa)。贖いの業が適用されて、マリアさまが存在しようとするその最初の瞬間に―受精の瞬間に、イエズス・キリストの贖いの功徳によって、成聖の恩寵が与えられました。罪の汚れ―原罪の汚れなく受胎されたのです。マリアさまが原罪の汚れから「前もって守られた」というのは、つまり、聖寵の状態でマリアさまのお母さま聖アンナの胎内に宿り始めたということです。

そればかりではありません。なぜかというと、確かにわたしたちも同じような効果を、洗礼を受けることによって受けることができるからです。なぜかというと、洗礼を受けると原罪を赦され、そして「罪の責務」reatus culpaeあるいは「罰の責務」reatus poenae、すべての罰を免れることができます。が、しかし、洗礼を受けたとしても、わたしたちは原罪に由来する乱れた情欲や無知というものは、癒されることはできません。

しかし教皇様の発表した信仰箇条によれば―そして聖伝の教えによれば―啓示された教えによれば、「聖母はその受胎の最初の瞬間から原罪のすべての汚れから守られたab omni originalis culpae labe praeservatam immunem」とあります。つまり「無原罪の御宿り」によって、マリアさまは、そのような心の悪への傾きや欠陥あるいは情欲や無知などという不幸からも、免れていました。ですからマリアさまは生涯、最初の瞬間から終わりまで罪がなく、汚れなく、聖寵に満ちみてる方として留まられました。これが「無原罪の御宿り」です。

【無原罪の御宿りの意義】
では「無原罪の御宿り」ということは、いったいわたしたちにとってどんな意味があるのでしょうか。どれだけの意味があるのでしょうか?

1)まず第一に、原罪ということが事実である―現実であることをわたしたちに教えています。
これについて聖ピオ十世教皇様は1904年にこう書いています。教皇様の言葉を引用します。
「カトリックの宗教の敵が、多くの人々の信仰を揺るがすような重大な誤りを種蒔く出発点は、いったい何だろうか。彼らはまず、人間が罪によって堕落し、そしてその地位から投げ落とされたことを否定することから始める。つまり彼らは、原罪とその結果である悪を単なる寓話だおとぎ話だと見なしている。原罪によって汚された人間性は、その原罪の結果、人間という種(しゅ)をすべて汚した。こうして人間の間に悪がもたらされ、救い主の必要性が生じた。しかしもしもこのようなことが否定されれば、キリスト、教会、聖寵、あるいは自然を超えて、自然を超えるために残された場所がないということは容易に理解できる。人々がマリアさまの受胎の最初の瞬間からあらゆる汚れから守られたことを信じ、信仰告白するかぎり、すでに原罪があること、イエズス・キリストの必要、そして福音、教会、そして苦しみの法則による人類の救いのすべてを認める必要が生じてくる。これによって、合理主義と唯物論は根こそぎに破壊されて、キリスト教の知恵は、真理を守り抜くという栄光が残される。」聖ピオ十世教皇様の引用を終わります。

「無原罪の御宿り」は、つまり、原罪というものが確実にあるということ、そしてそのためにキリストの救いが必要であるということを断言する、ということです。

2)第二に、マリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、イエズス・キリストがまことの天主であるということを確認します―明らかにします。もしもイエズス様が単なる人間だったとしたら――非常に優れた罪のない高徳の立派なお方だったとしても人類の最高の方だったとしてもしかし天主ではなかったとしたら――ただの人間だったとしたら――、どんなに素晴らしくてもマリアさまは原罪の汚れから守られる必要はありませんでした。しかし、イエズス・キリストが――マリアさまから生まれる方が――、まことの天主であったので、その御母となる方には、罪の汚れが一瞬たりともあってはならなかったのです。天主の御母はその地位にふさわしい方でなければならなかったからです。悪魔の支配下に一瞬たりともあってはならなかったからです。

3)またマリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、同時にイエズス・キリストが第二のアダムつまり約束された贖い主であり、聖母が第二のエワであるということを明らかにします。
【1】なぜかというと、第二のエワは悪魔に対して完全な勝利を治める方でなければなりませんでした。「私はおまえと女との間に、おまえの子孫と彼女の子孫との間に敵対を置く。彼女はおまえのかしらを踏み砕くだろう。」(創世記3:15)創世記の預言です。
【2】またマリアさまが第二のエワであるということを確認するその第二の理由は、第一のエワが創られた当初、童貞として無原罪の状態で第一のアダムの伴侶として、創られました。ですから、第二のエワであるマリアさまも、第二のアダムであるイエズスの伴侶としてそれにふさわしいように汚れなき童貞として与えられるのが非常にふさわしいからです。

4)それから、第四には「罪」というのが何かということを私たちに教えてくれます。
マリアさまは、天主によって先どって「先行的に」守られました。「無原罪」で存在をはじめました。そうすることによってごくわずかな罪の陰さえなかった。またいかなる不完全さもありませんでした。マリアさまは、地上のいかなるものにも愛着を持たずに離脱して、天主だけを愛していました。聖霊の息吹に完全に導かれていました。天主の御旨を果たすことだけを求めて生きていました。こうすることによって、わたしたちに、愛によって生きることが何かを教えています。

罪というのは、天主の御旨に背くことです。
わたしが先ほど申し上げたある日本人の神父様は、こんなことを書いておりました。人間が食べ物を食べて、いわば「他者を犠牲として生存を続ける」とか、人間が「殺生せずには生きていられない」ということを、「罪深い」ことだ、だから人間はどうしても罪深い。
(曰く「聖母マリアが人間である限り、被造物の一つである限り有限性と自己不充足性とは存在論的に無縁ではありえなく【もちろんそうです!】、従って神の御旨に従った人間の理想像から…程遠い方ではなかったか。【ここに論理の破綻があります。被造物は有限の存在としてあることが天主の御旨です。人間は、たとえ「究極的完成態、すわなち終末的約束の実現」がおこったとしても有限な存在ens finitumとして留まります。人間が天主に依存する存在であることは「怠りの罪」を構成しません。「怠りの罪」とは、為すことができ為すべきことを故意にしないことです。】) 
でもわたしたちがものを食べて生きるということは、これは天主の御旨です。これは、罪ではありません。そういうことを罪というのではありません。そうではなくて、天主のみ旨に反することを罪と言います。

聖母は、自分のために生きたのではありませんでした。天主のために生き、人類の贖いのために、御子とともに苦しみました。マリアさまはすべてを与え尽くしました。これが罪のない生活であり、愛の生活でした。

ですからマリアさまは、御生涯の間、愛の功徳によって聖寵をますます増加させて完成させて、そして天主に完璧に一致したものとなり、最高の被造物となりました。これこそ、天主の聖寵の創りあげた最高傑作でした。マリアさまは、被造物への愛ではなくて天主への愛によって生き、聖霊の「浄配」として一生を過ごされました。

その結果何が起こったかというと、無原罪の御宿りのマリアさまの生涯は、十字架の生涯でした。つまりマリアさまは「十字架の御母」であり「悲しみの御母」でした。「贖い主の御母」Redemptoris Mater となるべく生まれてきたマリアさまは、贖い主に一致して、ご自分も贖いとしてお捧げになりました。つまり、罪のない被造物であったマリアさまは、罪の贖いのために苦しみを受けることによって、贖いに完璧に協力されたのでした。この贖いの神秘については、来週皆さんにお話ししたいと思っております。

【遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
天主はわたしたちのためにこの世に来るときに、ご自分の母となるべきお方を完璧で完成された聖人の状態での清い童貞女を創りあげて無から創造して、その方からお生まれになろうとすればそれもすることが出来ました。しかし、天主は、その永遠の愛によって、永遠の智恵によって、アダムの子孫からお生まれになることを選ばれました。それを欲しました。

今日、マリアさまがお生まれになったのは、天主の母となるべき方であり、そして、特別に無原罪の御宿りという特権を受けたお方です。わたしたちの人類の同胞として特別の御方が、今日お生まれになりました。わたしたちの母となるべく方、また、天の元后となるべき方、そして私たちに救い主を与えるべきお方が、今日お生まれになります。この途轍もないお恵みを、イエズス様に感謝いたしましょう。

そして今日お生まれになられた汚れなきマリアさまにお祈りいたしましょう。マリアさまの汚れなさはわたしたちには真似することはできませんが、しかし、マリアさまの子どもとして―愛された子供として、罪を憎み、罪の機会を避けるお恵みをこい求めましょう。そしてマリアさまに倣って、イエズス・キリストをすべてに越えて愛し続けることができるように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カトリックこそ日本人の”高潔な心”が求め続けてきた「高き所へ導く」教え|日本人は古代から心の清さを求めてきた

2024年09月10日 | お説教・霊的講話

2024年8月21日(水)マリア・アスンプタさんの葬儀ミサの説教(大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にて)

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

マリア・アスンプタさんのご家族の皆様、そして親愛なる愛する兄弟姉妹の皆様、今日マリア・アスンプタさんの葬儀ミサを捧げながら、マリア・アスンプタさんの思い出話をするのをお許しください。

そして、一緒に、その思い出から、マリア・アスンプタさんの霊魂のためにお祈りをして、そして選善の決心を立てることにいたしましょう。

マルガリタさんのお母様は、非常に寛大で、優しくて、非常に働きものでした。愛情深くて、正義感が強い方でした。そして、いつも家族のことを思っておられました。

お母様のことを、直接は わたしは、深くお友達として付き合いさせていただいたということはないのですけれども、一度ご自宅を訪問して、一緒にお喋りをさせていただけただけなのですが、しかしこの教会のために陰で多くのことをしてくださっていました。

またマリア・アスンプタさんのことは娘さんのマルガリタを見ると、それがよくわかりました。非常に寛大で、まず他(ほか)の人の、相手のことをよく思いやって、そして非常に勤勉に働かれて、そして優しくて、思いやりのある方なのを見ていると、お母様の様子が浮かんできます。

マルガリタが、八月十六日の朝に、お母様の様子がもうよくないということをお姉さまから聴いて、そしてテレビ電話をかけました。そしてお母さんに、以前から話をしていた「お母さんは洗礼を受けるか受けないか」ということを。「お母さんは洗礼を受けるか?」と聞いたら、「洗礼を受ける」と、「受けたい」とおっしゃいました。そこでわたしたちの姉妹である、マグダレナさんとマリア・ゴレッティさんがお母様のもとに駆け付けて、そして、まだ意識があったお母様にイエズス様のことを少しお話しされました。

それから、お母様に「いまから洗礼をお授けしますよ。イエズス様はわたしたちのために、罪の償いのために十字架の上で亡くなり、そしてわたしたちのために罪の赦しのために、洗礼の秘跡を定めてくださった…」ことをお話ししてから、「いまから洗礼を授けますよ」というと、「はい」と肯かれたとのことです。

そして、‟マリア・アスンプタ” つまり天に昇られた、被昇天を受けたマリアさまの霊名を受けて、すべての罪が赦されて、天主の子どもとなって、そして三位一体の生ける神殿となって、そしてそののちに、三時間ぐらいのちに、霊魂を天に返された、と伺いました。

マリア・アスンプタさんのことを知ると、本当に日本の典型的なすばらしい方だな、ということがわかります。

日本の方は、古事記から、あるいは日本書紀から、古代の神話の時代から、非常に心の清さを求めてきました。この世界には正しいことがある、真理がある、善がある、美しいことがあるということを…超越的な何かがあるということを、よくわかっていました。

ですから、たとえば古代の神話によると須佐之男命(スサノオノミコト)という神話上の人物が出てきますが、その彼が高い天の国に入るために条件とされたものは何かというと、高天原、高い天(あま)の国に入るためにいったい何が必要かというと……武力かあるいは権力か財産かではなくて……「明き清き直き心、罪のない品格のある清い心、真理と善と美を求める心だけが天の高いところに入るための条件だとされた」と神話によると書かれています。

もちろんこれは神話でしたが、しかし、日本の方々が昔から天の高いところに行くためにはどうしてもなければならないものがあって、それが何か、それは心の清さだ、ということを知っていました――なぜわたしはいまここにこうやって生きているのか、なぜこの苦しみにまみれてこの世で生活しているのか――天の高いところに行かなければならない――でもそのためにはどうしたらよいのか、じぶんは罪に汚れているのではないか、この汚れを取るのはどうしたらよいのか、滝に打たれて修業したらよいのではないか、水をたくさん浴びたらよいのではないか…いろんな修業をして修業をしてそれでもまだ足りない…どうしたら「明き清き直き心」を持つことができるのか――日本の方々はいろいろ悩んで来ました。

しかし、遂に、救い主が、この世を創られた方が人間となって、つまりイエズス・キリストが、わたしたちにその秘密を教えてくれます。

わたしたちが「清き直き心」を持つためには、滝の水ではなくて、洗礼の水を受けることが大切だ。これは十字架の犠牲によって流された天主の御子の御血の功徳によって、わたしたちの罪がきれいに赦される、清められる――マリア・アスンプタさんはちょうどこの洗礼の水を待っていた、清き直き心を持った日本の典型的な女性だった、と私には思えてなりません。

イエズス様はそればかりか、わたしたちに更にもっと核心を教えてくれます。なぜこの世にはその清き、明き、きれいな心をした人々が苦しんでいるのか、なぜ悪人が世に憚(はばか)っているのか?

イエズス・キリストはわたしたちに、こう言います。
「最後の日には審判がある」と。すべての人々は正義の裁きを受ける。世に住んでいたすべての人類はそのすべての秘密を全人類の前に公開されて、そして裁きがある。そして清い直い心をもった――罪を赦された――本当に罪を赦された者が天国に行き、高き天が原に、天の高い国に行き、そしてそうでないものは、永遠に地獄によって滅ぼされる。そしてそればかりでなく、わたしたちは肉体をもって善をしたので、この肉体も復活して、そして永遠のよろこびに入る。

これを、わたしたちの主イエズス・キリストは教え、そして約束して、ご自分の復活をもって本当にあるということを確認されました。

そしてマリアさまの被昇天というのも、それをわたしたちに教えています。
二千年間のカトリック教会の中で、これは常に信仰の真理でした。マリアさまの聖遺物…教会では人が亡くなるとその遺体を非常に大切にします…が、マリアさまだけはその聖なる御体がないのです。なぜかというと、天に挙げられたからです。ちょうどその日の翌日にマリア・アスンプタは霊魂を天に帰されたのは、きっとマリアさまからの特別な愛を受けておられたのだと思います。

ではわたしたちは、さいごに、このお母さんのために、お祈りをいたしましょう。

そして、おそらくわたしたちのために、天で寛大な心で、家族のために、そしてわたしたちのために、きっとマリアさまの近くで取り次いで、地上にいるわたしたちのためにお祈りしてくださるようになる、と。 

ですから、そのためにも、霊魂のためにお祈りをしつつ、このミサをお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働(2024年、大宮)

2024年09月08日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働

ブノワ・ワリエ神父

主日と祝日を聖とすること

「安息日に人を癒やすことは合法か」

律法学士やファリザイ人は、私たちの主が安息日に病人を健康にして、愛徳のわざをなさったことを批判しましたが、彼らはその日、家畜を危険から救うことを、一瞬たりとも躊躇しませんでした。

現代のカトリック信者の多くは、その反対に、別の極端なところにまで行っています。彼らは、主日や祝日に、罪の意識を持つことなく働き、いや、「今日は休日なのだから、少しぐらい楽しんでもいいだろう」と言いながら、罪深い楽しみにふけってさえいるのです。

古代ユダヤ人の過ちと、この現代のキリスト信者たちの欺瞞から、皆さまをお守りするために、私は今日、主日と祝日を聖とすることについてお話しし、その日には何を避け、何をすべきかについて説明するよう努めようと思います。

I.主日と守るべき祝日には、肉体労働をすべて避けなければならない。

肉体労働とは、通常、使用人、日雇い労働者、職人によって行われる、骨の折れる体を使った労働のことです。つまり、精神の能力よりも肉体の力を必要とする、あらゆる労働、あるいは、人間の永遠の幸福ではなく、この世の幸福を目的とする、あらゆる労働のことです。いわゆる芸術というものは、肉体よりも精神を使うもので、理解力の発達、あるいは、無害な娯楽や精神的なリラックスを目的とするものですから、肉体労働ではないため、主日や祝日に禁じられているわけではありません。したがって、主日と祝日に、芸術や科学を教えたり、勉強、あるいは鉛筆画、絵画、音楽という芸術に取り組んだりすることは、夢中になりすぎたり、主日の義務の遂行を妨げたりしない限り、合法なのです。

ただし、肉体労働を主日と祝日に行うことが合法である場合が四つあります。

(a)食事の準備や、皿洗い、食卓の後片付けなど、短い時間の家事や軽作業の場合。

(b)絶対的な必要性がある場合。キリストご自身がそう教えておられます。したがって、消防署が火事を消そうとするのは合法です。収穫期に雨天が長く続くなら、天候が良い場合はいつでも、主日であっても、農民が作物を穫り入れることは正当化されます。

(c)教会や祭壇の掃除や装飾など、天主をたたえるために労働を行う場合。

(d)隣人愛が私たちに義務付けている場合。今日の福音にあるように、安息日に善い行いをすることは合法です。母親が病気の子どもの世話をするために、ミサを欠席しても構いません。自分の家で大掃除をすることは許されませんが、困っている人のために大掃除をすることはできます。「まことに私は言う。あなたたちが、私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。

これらの例外の場合でなければ、主日や祝日に3時間以上肉体労働をすれば、重い罪を犯すことになります。

2.主日と祝日には、すべての罪深い行いを避けなければなりません。

聖なるものは聖なるものに保たなければなりません。したがって、主日と祝日には、明らかに罪深いものはすべて、特別な注意を払って避けなければなりません。「特別に主に捧げられた日を、この世の愚行やむなしい快楽に費やすことは、天主に対する大いなる侮辱、一種の冒涜とさえ言えるのではないだろうか」(聖キュリロス)

II.主日と祝日には何をしなければならないか。

1.私たちは、ミサにあずからなければなりません。主日と祝日にミサを拝聴することは、教会の厳格な戒律です。私たちは、ミサの全体にあずからなければなりません。自分の過ちのせいで遅刻した人は罪を犯しています。守るべき日のミサに、奉献誦が始まってから来ることは、大罪です。

2.その日には、悔悛の秘跡とご聖体の秘跡を受けることが勧められます。教会の最初の数世紀には、すべての主日のミサでご聖体を受けることが、信者の普遍的な習慣でした。殉教者聖ユスティヌスは、病気やその他の障害のためにミサを拝聴することができないキリスト信者には、ご聖体を持って行ったと伝えています(少なくとも、月に一度は告解に行きましょう)。

3.私たちは、主日を聖としなければなりません。これは天主の掟です。全体的には、ミサにあずかれば掟を果たします。しかし、主日は、自分のため、あるいは子どものためにカテキズムを学ぶのにふさわしい日でもあります。それは主日の義務ではありませんが、私たちには、信仰を学ぶという一般的な義務があります。(今日のカトリック信者が、カテキズムの簡単な質問にさえ答える義務があるとすれば、ずいぶんと恥ずかしいことでしょう。また、私たちには、知らなければ知らないほど、カテキズムを熱心に学ぶという義務があるのです。)

4.最後に、主日と守るべき祝日には、愛徳のわざ、特に肉体的・霊的なあわれみのわざを行いましょう。聖ヤコボが、「父なる天主に対して、清く汚れのない宗教とは、こうである。貧しい孤児とやもめを見舞い、この世の汚れに染まらず、自ら清く身を保つことである」(ヤコボ1章27節)と言うようにです。

結論として、親愛なる兄弟の皆さま、私は、初期のキリスト信者の良き模範に倣い、主日と守るべき祝日を、恩寵と祝福と救いの日とするように過ごすことを、切にお勧めします。

主日は主の日です。ミサを拝聴した後、家庭で、家族と一緒に、キリスト教的な方法で主日をお祝いしましょう。カテキズムの本や信心の本を読み、世俗的で罪深い娯楽を避け、あわれみと愛徳のわざを行ってください。

きょう私たちは聖母の誕生日を祝っていますが、願わくは私たちが主日を聖とするのを守れるよう、聖母が助けてくださいますように。

要するに、願わくは、主の次の御約束が皆さまのうちに成就しますように。「安息日を汚すことを避け、私の契約をしっかり守るなら、私は彼らを聖なる山に導く」(イザヤ56章6節)。アーメン。





ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味

2024年09月06日 | お説教・霊的講話

ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味

2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、福音では、一人息子を失って涙を流す寡婦・やもめのお母さんが登場します。今日は、この涙から、教会が超自然の命を失った子どもたちについて嘆いていること、そしてマリアさまの涙について、一緒に黙想いたしましょう。

【ナイム:一人息子を失って涙をながす寡婦】
今日の福音を見ると、主はナイムという町に行かれます。ナイムというのは、語源によると、美しいとか、喜ばしいという意味です。

すると、町の門に近づくと、主は葬式の行列に出会います。誰が死んだのでしょうか。若い一人息子が担ぎだされてきました。お母さんは泣いています。やもめです。つまり、たった一人の、支えの一人息子を失ってしまった、もうこれからいったいどうしていけばいいのだろうか、と途方に暮れて涙を流しているお母さんです。

イエズス様は、このお母さんを見て非常にあわれに思ったに違いありません。きっとマリアさまのことを思ったに違いありません。なぜかという、マリアさまも聖ヨゼフ様を失ったやもめであり、そして私たちの霊魂の救いのために御一人子であるイエズス様を失うであろう、からです。そのことをよく知っていたイエズス様は、このやもめのこととマリアさまを重ね合わせたに違いありません。

イエズス様は、マリアさまにはご自分の復活をもって慰めを与えますから、ナイムのやもめにはこの子供の復活をもって慰めようと思われました。

【罪人の霊魂をおもって涙を流すカトリック教会】
この史実は、歴史上の出来事は、今でも霊的に起こっています。どういうことかというと、教父たちによると、霊的な意味では、美しい町…成聖の恩寵の状態の町から担ぎだされる死人というのは、大罪を犯したことによって天主の聖寵(gratia)を失った私たちの霊魂のことだといいます。罪こそが、私たち人類にとって最大の問題です。そして最大の不幸であり、最大の悲しみです。

天主は、すべてを尽くしてわたしたちを愛し、永遠の命に導こうとしておられます。それにもかかわらず、人類は自由を乱用して、与えられた自由をいいように使って、罪を犯し続けているからです。そして罪を犯すことによって、永遠の死に向かっているからです。これこそが、人類にとっても天主にとっても、最も悲しい出来事です。

教会の使命というのはなんでしょうか。教会の使命のこの本質、その核心というのは、この霊的に死んだ子どもたちが、超自然の命に生き返るようにと祈ることです。教会は、私たちにとって超自然の命の霊的なお母さんです。母なる教会というのはこのためです。なぜかというと、教会の懐でわたしたちは洗礼を受けて、超自然の命である天主の聖寵・成聖の恩寵を受けたからです。

この聖寵こそが、わたしたちの将来の栄光の種(semen gloriae)となるものです。これなくては、わたしたちは将来永遠の命を受けることができないからです。

私たちは霊魂を一つしか持っていません。ですからいわば一人息子です。人生はたった一回限りです。霊魂もたった一つです。これを失ってしまうと、もう取り返しがつきません。これを失ってしまうということはどういうことかというと、地獄に落ちてしまうということです。永遠の死に落ちてしまうということです。ですから、イエズス様はなんとかしてこの最大の不幸、永遠の死から、地獄の火から、わたしたちを救いたい、永遠の命へと導きたいと思われています。

カトリック教会は、キリストの花嫁です。キリストが頭であり、教会はその体です。一体となっています。ですから教会は、花婿であるキリストと同じ心・同じ願いを持っています。それは私たちの永遠の救いです。

イエズス様は十字架の死をもって私たちを贖いました。ですから花嫁である教会は、いわばやもめであるともいえます。ですから教会は、ちょうど今日の福音のナイムのやもめのように寡婦のように、わたしたちがあるいは罪人が、罪の状態から霊的に復活することができるようにと、いつも祈っています。罪を犯して霊的に死んでいる子どもたちが、罪を捨てて超自然の命に生き返るように祈っています。

ですから教会は、二千年間、罪こそが最大の悪である、と言い続けてきました。たとえこの世でどんなに不幸があったとしても病気だったとしても、貧乏だったとしても、あるいは事故にあったとしても、五体不満足だったとしても、しかし、天国に行ければ、永遠の至福を受ければ、すべては解決できます。しかし、この世でどれほどお金があってどれほど幸せで美味しいものを食べて何でもできたとしても、永遠の命を失ったならば、いったいそれが何の利益になるでしょうか。

ではどうしたらわたしたちは永遠の命を失ってしまうのでしょうか。それは罪です。たったひとつ、罪だけが、わたしたちをして永遠の命を失わせてしまうのです。

ですから教会は、罪を犯さないように、罪から立ち直るように、罪を棄てるように、聖なる生涯を送るようにと、いつも祈ってきました。償いと祈りと償いの涙を捧げてきました。特に、この「教会が超自然の命のために祈っている」ということを、今日は皆さんに訴えたいと思います。

【永遠の命】
教会は、いつも使徒信経で言います。「終わりなき命を信じ奉る」。

終わりなき命、つまり永遠の命 vita aeterna、これはわたしたちの究極の目的です。これは、ただ比喩ではありません。文字通りの本当の意味で、永遠の命をわたしたちが受けることになっています。

えっ!なぜ?どうやって? わたしたちは限りある人間なのにもかかわらず、なんで終わりなき命を受けることができるのか?

それは、限りあるわたしたちですけれども、無限の天主の超越的な絶対の至福にあずかることができるように、主がわたしたちに特別の光を与えてくれるからです。

もちろん、創造主である天主と被造物である人間との間には、無限の隔たりがあります。いわば、断絶があります。ですから、わたしたちがいくら永遠の命を持ったからといって、有限であるものが無限であるものになるわけではありません。被造物が創造主になるわけではなりません。しかし、天主は天主、人間は人間として区別されながらも、天主の光によって栄光の光によって、わたしたちは天主の永遠の至福に与ることができるようになります。

どういうことかというと、たとえでいうと、たとえばここに鉄の塊があります…硬い鉄の塊で冷たい鉄の塊ですけれども、これを竈(かまど)の中に轟々(ごうごう)と燃やしてしまうと、炎の中に入れられたこの鉄の塊は熱を帯びて、あたかも火の塊であるかのように真っ赤になって、そしてトロトロと溶け出して、そしてもっともっと熱を加えたら、もしかしたら気体になってしまうかもしれません。

それと同じように、もしもわたしたちも、天主の栄光の光の中に入ってそれにあずかると、その天主の栄光に光によってわたしたちの霊魂は沁みとおり、あたかも天主であるかのように変化してしまいます。あたかも天主の栄光に入った人は主の愛に燃やされて、自分は自分であることはやめませんが、この地上にいる人々とはまったく違ったものになります。そうしてわたしたちは、主の栄光、喜び、楽しみに満たされて、心の思いはすべてかなえられ、そしてあたかも天主であるかのようになるんです。

イエズス様はこう言いました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることにあります」(ヨハネ17:3)。

聖ヨハネはこう言います。「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子であるが、のちにどうなるかは、まだ現われていない。それが現われるとき、私たちは天主に似たものとなることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから」(1ヨハネ3:2)。

聖パウロはこう言います。「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ている――つまり信仰を通してみている――、しかし、その時には――つまり天国の栄光では――顔と顔とを合わせて見るであろう。今私は、不完全に知っているが、しかし、その時には、私が知られているとおり知るであろう。」(コリント前13:12)

「天主を目の当たりにして、天主を見る」――これを、至福直感と言います。そうすると、天主が、このあまりにも愛に満ちた方であり、無限の善であり、最高の完全さをもっている方であることを深く理解して、天主を所有し天主とあたかも一つになるかのようになります。もちろんわたしたちは 天主とわたしたちは区別しますが、主を所有するように、そして幸福で欠けたものは全くないような幸せに満たされます。なぜならばわたしたちはすべてを持っているからです。これができるのは、栄光の光(lumen gloriae)のおかげです。そのとき、天主はわたしたちを栄光の光で照らして、その中で主を見るからです(詩26:10参照)。

この至福を、最高の宝であるわたしたちの究極の目的である永遠の至福を奪うものは、何でしょうか。たった一つあります。それは罪です。大罪です。ですから、教会はわたしたちが罪を犯すことがないように、罪を犯したらそれから超自然の命に回復するように、成聖の恩寵の状態に立ち戻るように、息を吹き返すように、いつも涙を流し、嘆き、祈っています。

【罪人の霊魂をおもって涙を流す聖母】
では最後に、つい最近秋田のマリアさまのメッセージを聴いたシスター笹川が亡くなられたので、マリアさまが涙を流したことについても一緒に黙想して、少し話をしたいと思います。

秋田でも、101回の涙を流されました。なぜ流されたのでしょうか。マリアさまの話によると、それは「世の多くの人々は、主を悲しませて」【第二のメッセージ】いるからです。罪を犯しているからです。主がそれによって悲しんでいるので、マリアさまも涙を流しています。

またマリアさまはこうも言われます。
「たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。」【第三のメッセージ】

霊魂が失われるというのはどういうことでしょうか。これは天国へ行くことができなくなってしまう、罪を犯したがために、成聖の状態にいることができなくて、失われてしまう――地獄に失われてしまうということです。「それがわたしの悲しみです。」

守護の天使は、マリアさまの涙をこう説明しています。「聖母は、いつも、一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズス様と御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。」

ですから秋田の聖母の涙、この核心は、わたしたちが罪を犯さないように、あるいは罪を犯したらそれが回心するようにという、その涙です。この地上で、たとえば、‟天から火が来るから”ということが、マリアさまのメッセージの核心ではありません。

ファチマでも、やはり同じことをおっしゃいました。わたしたちにロザリオの時に、こう祈るようにいわれたからです。「ああイエズスよ、われらの罪をゆるし給え、われらを地獄の火より守り給え。」

マリアさまのお考えはいつも来世のことです。彼岸のことです。

ある時ルルドでは、聖ベルナデッタに こう言いました。「わたしはあなたにこの世では幸せを約束しません。しかし、来世ではします、来世の幸せを約束します」と。

ですから、こういわなければなりません。マリアさまが涙を流されているのは、わたしたちの永遠の命のためだ、と。

ですから、もしも秋田のメッセージの核心が何かというと、火が天から降ることではありません。‟マリアさまだけがわたしたちを助けることができる“というのは、そのような大天罰が来るときにマリアさまが物理的にそういう被害を与えないように守ってくださる、ということではありません。

もちろんマリアさまはわたしたちの優しいお母さまですから、わたしたちがこの世で苦しむことがないようにと、思っておられます。わたしたちがこの世で苦しむことを悲しまれます。できれば苦しませたくないと思われます。しかし、人類が罪を犯し続けるので、人類はどうしても受けなければならない罰がある、と。それを何とか避けさせるために、マリアさまはイエズス様とともに、御父にお祈りをして、それを慰めようとしてきた、宥めようとしてきた。しかしそれでも足りないので、多くの人々の祈りと犠牲が必要だ。だからマリアさまは、「助けてほしい」とわたしたちに訴えています。

ですから、マリアさまがおっしゃる警告というのは、脅迫ではありません。脅迫というのは、さあさあと言って、恐怖におとしいれて、嫌なことでもやれ、と…そういうことを要求することではありません。そうではなくて、わたしたちが永遠の命を受けるために、いまから厳しいことがあるかもしれない、とそれを予告します。心の準備をさせます。

特に、永遠の命を受けるために最も必要であるはずの枢機卿があるいは司教様たちが互いに対立してわたしたちを上手く天国まで導くことができないかもしれない…教会は荒らされる…司祭・修道者も辞めてしまう…悪魔が聖職者たちに働きかけている…わたしたちが正しい教えを聴くことができないようにさせてしまっている…そのために多くの霊魂が失われてしまっている――それが悲しい。

ですから、マリアさまは、わたしたちが悔い改めるように、罪を犯し続けるのを止めるように、と訴えています。 

【遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。
マリアさまは罪を避けるように、つまり、天主の十戒を愛をこめて守るように、そして天主を愛するがために隣人を我が身のように愛するように、祈りという天主との愛の会話をするように、わたしたちの日頃の義務を身分上の務めを愛をこめて償いとして天主に捧げるように、と招いています。そして、イエズス様とともにマリアさまとともに、わたしたちの日頃の生活を祈りと償いをもって捧げるように、と招いています。

そうすると、そのようなわたしたちを見た、マリアさまと一緒に死人を担いで出てくるその行列をするわたしたちを見たイエズス様は、きっと十字架の木に手をかけて、罪人たちにこう命じられることに違いありません。「青年よ、私はいう。起きよ!」と。

すると、罪人は、多くの人々は、霊的なよみがえりをするに違いありません。教会とマリアさまの涙をごらんになって、罪人を憐れみに思ったイエズス様が、超自然の命をわたしたちにくださるのです。

これこそが教会の存在理由であって、教会の使命の核心であり、本質です。「超自然の命を与える」。そして、これこそが、マリアさまが涙を流される理由です。

では、今日この福音を黙想しつつ、わたしたちもマリアさまの涙に教会の嘆きに合わせて、日々の生活をお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


司祭はまさに御聖体のよう。司祭とは一体どのような存在なのか?司祭とはいったい何なのか?

2024年09月02日 | お説教・霊的講話

司祭はまさに御聖体のよう。――司祭とは一体どのような存在なのか?司祭とはいったい何なのか?

トマス小野田圭志神父 2024年8月25日(主日)東京 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

キム・ミンジェ・ノンジーノ神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、神父様の日本での初ミサを行っています。聖ピオ十世会に所属する最初の韓国人司祭の誕生を心からお祝いいたしましょう。この新司祭の誕生を機会に、カトリック司祭について一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音でも、私たちの主は「人は、二人の主人に仕えるわけにはいかない。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんじるかである。あなたたちは、天主とマンモンとにともに仕えることはできない」と教えてくださっています。天主に仕えることを望んだ究極の人というのは司祭です。では司祭とは一体どのような存在なのでしょうか?司祭とはいったい何なのでしょうか?

【選択】
司祭というのは、いけにえを捧げるために天主から選ばれて、そして世俗からまったく切り離された人間、もっと正確にいうと、その男性のことです。天主にいけにえを捧げるために、天主への奉仕を選んだ人のことです。

聖パウロはヘブレオ人への手紙の中でこう言っています。
「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものと生贄とをささげるためである。」(ヘブレオ5:1)

【いけにえの必要性】
ここに司祭の定義の核心があります。罪を贖う供え物といけにえを捧げる必要が人間にはあるからです。全被造の世界の大問題があります。それは、人間人祖アダムとエワが、罪を犯してしまったということです。それ以来、人間は罪を犯し続けているという問題です。つまり、“あるべき天主と人間との友情関係”が崩れてしまった、人間と天主とは対立している、敵対関係に陥ってしまった、という究極の問題が生じてしまったからです。人類の歴史の最初から、天主の御国とサタンの国とのあいだで、人間の霊魂の永遠の救いということにかかって、その問題のために、死闘が、つまり永遠に生きるか死ぬかの戦いが始まりました。

これは永遠の大問題であって、天主の創造の究極の目的を達成することができるか否かの、究極の問いなのです。人間は、本当の幸福(しあわせ)を得なければなりません。これが天主の創造の目的です。しかしそのためには、どうしても罪が赦され罪を償わなければなりません。その罪を償うためには、どうしてもいけにえを捧げなければなりません。罪によって、この世に死が入ってしまいました。従って、罪の赦しを受けるためには、聖パウロの言葉によれば、血を流す必要があります。「血を流すことなしに罪が赦されることはない。et sine sanguinis effusione non fit remissio.」(ヘブレオ9:22)と。

罪の赦しのために、罪の贖いのためには、いけにえであれば何でもよいわけではありません。天主の御心にかなうほんとうのこころよいいけにえと、そして天主が受け取るのを拒否するいけにえとがあります。嘉するものと、嘉されないものがあります。

アダムとエワのその最初の子どもたちが捧げたそのいけにえを見てください。カインとアベルのいけにえです。アベルの捧げた小羊のいけにえは、天主によって非常に嘉され、天主はこれを受け入れました。しかし、カインの捧げた大地の恵み・労働の実り…これについては 天主はこころよしとおもわずこれを拒否されました。カインはこれを見て非常に嫉妬して、アベルを迫害します。ついには最初の兄弟殺しが起こってしまいます。

【旧約の成就・完成】
天主の御国とサタンの国とのあいだで始まった霊魂の救いのための戦い、これは、人間が究極のいけにえを捧げることができるか否かにかかっています。なぜ天主のみことばが人間となったのでしょうか?ご托身されたのでしょうか。それは、この戦いのためでした。この戦いに勝利をおさめるためでした。もしも天主を御ひとり子が人間となって、しかも十字架にかけられていけにえとなったとされたらば、それは、罪によって破壊された秩序を立てなおすためです。罪によって秩序は破壊されました。区別は破壊されました。

まことの天主と被造物の区別、超自然と自然の区別、真理と誤謬の区別、善と悪の区別、美しいものと醜いものの区別、これが滅茶苦茶になりました。これをもう一度はっきりとさせて、創造の秩序のすべてをキリストにおいて回復させる、このために天主の御子はいけにえとなりました。大司祭となり、そして同時にいけにえとなりました。

ですから、天主の御国とサタンの国のあいだのこの究極の戦いは、カルワリオにおいて、主の十字架の勝利によって最高潮に達しました。天主の望む秩序を再建するために それを実現することの出来る最高の手段が 十字架のいけにえです。罪を赦すことのできる本当の憐みと聖寵は、イエズス・キリストの流された御血から そして十字架のいけにえの贖いの業によるしかありません。これこそが天主御父の嘉する唯一のいけにえであり、唯一の贖いです。

旧約聖書を見ると、そのすべてが、十字架、カルワリオのいけにえに向かって集中していることが分かります。ユダヤ人が捧げたさまざまないけにえ、いろいろな形でのいけにえそして前兆は、十字架の犠牲の前兆でした。

イエズス様のご生涯、そのすべてが十字架とご受難に向けられていました。イエズス様はお生まれになったときから、その最後まで、十字架のいけにえを捧げるということだけを考えていました。それこそが主の時でした。主の十字架のいけにえは、あまりにも完璧であり、完成させられており、たった一度だけで全人類のすべての罪を贖うことができる力をお持ちになっています。

では、この永遠の力を持つ十字架のいけにえ、これは天主の永遠の計画によって、世の終わりまで地上で再現されることをお望みになりました。この十字架のいけにえの再現、これがミサ聖祭です。

マラキアの預言にかつてあったように、――「日の昇るところから日の沈むところまで、天主の偉大な御名に清いいけにえが捧げられている。」――つまり、時間と場所を超えて、唯一のイエズス・キリストのいけにえが全世界で捧げられなければならないことが、預言されていました。Ab ortu enim solis usque ad occasum, magnum est nomen meum in gentibus, et in omni loco sacrificatur: et offertur nomini meo oblatio munda. 」(マラキア1:11)

聖アウグスチヌスの時代のアフリカでも、グァダルーペのマリア様が出現された当時のメキシコでも、あるいは聖フランシスコ・ザベリオが到着したその日本でも、また聖金大健アンドレア神父様が捧げた朝鮮でも、また2024年8月25日のここ大宮でもまったく同じミサが 時代と場所を超えて捧げられています。カトリック教会にはたったひとつのミサしかありえません。なぜかというと贖いはたった一つしかないからです。教会には唯一の礼拝形式しかありえません。この礼拝形式が聖伝のミサです。

【聖伝のミサ聖祭】
聖伝のミサは「全時代のミサ」といわれています。なぜかというと、このミサこそ、天主の御国とサタンの国の戦い、時を超えて継続しているその戦いを、行っているものであるからです。延長戦であるからです。ですからこのミサには、衝突・対立がいまでも起きています。

そしてわたしたちカトリック信者は、すべてのカトリック信者はこの戦いに呼ばれています。主はこの「地上に剣を持って」(マテオ10章34節)やってきたと言われました。ミサ聖祭これ自体で逆らいのしるしとなっています。しかしこのミサ聖祭は、贖いと犠牲の精神によって、罪への決定的な勝利を完全にしめしています。

聖伝のミサは、この世の精神に逆らっています。そして同時に、超自然の勝利を確信しています。教会の御旗です。なぜなら、このミサ聖祭によって、天主は、罪を滅ぼし、サタンの国を滅ぼそうとご計画であるからです。

わたしたちの宗教の中心にど真ん中に、全能の天主は十字架の精神まことのいけにえの精神を植えてくださいました。十字架無くしては、このいけにえの精神・犠牲なくしては、誰も救われることはあり得ません。今この世の流行(はやり)の偽りの「愛」とか同性愛をいつくしもうとかなどということによって救われることはあり得ません。人類を救う愛にはたったひとつの愛しかありません。わたしたちを罪から清めてくださる愛はたった一つしかありません。それはイエズス様が流された十字架の愛、イエズス様が御血を流された十字架の愛、天主の贖いの愛、主が私たちに示してくださったそして伝えてくださった愛です。そしてこの愛は、本当のカトリック信仰なしにはありえません。

ですからカトリック教会の生命、生活、そしてわたしたち贖われた霊魂の生活は一つです。十字架と贖いとに一致することです。イエズス・キリストは唯一です。十字架も唯一です。そしてこの唯一の十字架を通して、私たちは全能の天主を礼拝するのです。そうすることによって、わたしたちをキリストと一致させて聖化します。

【悪魔の攻撃】
悪魔はこのいけにえをなくそうと、祭壇を廃止させようと、いけにえを廃止させようと全力を尽くして攻撃をかけています。天主とマンモンの戦いは続いています。お金がすべてだ。お金がすべてを解決する。物質が豊かになれば、平和になるし、すべては上手くいく。地上の楽園を作ればいい。--悪魔は罪という概念をこの地上から取り去ろうとして、いけにえという概念を取り払おうとして、この聖伝のミサに対して攻撃をかけています。

プロテスタントのサービスがそうです。ミサ聖祭が贖いの犠牲である、いけにえであるということを否定して、そしてマルチン・ルターは これは最後の晩餐の記念だ・兄弟たちの会食だということに置き換えてしまいました。見てください、ユダヤ教にもいけにえはありません。イスラム教にもいけにえはありません。プロテスタントにも祭壇はありません。本当の宗教だけが、このいけにえの祭壇を持っています。

【新しいミサ】
その攻撃はまだ続いています、新しいミサが出来上がってしまいました。この新しいミサ聖祭というのは、カトリックのミサ聖祭からカトリックらしいことをすべて取り去ってしまって、プロテスタントのサービスのようにさせてしまったものです。これは新しいイデオロギーのためにつくられました。エキュメニズムというイデオロギーです。ですから、この新しいミサの背後にあるのは、この世に耳を傾ける教会です。罪という概念を失ってしまった、そして贖うべきものが無くなってしまった、教会の概念です。

ですから、わたしたちは、こういうことができるかもしれません‥‥‥いけにえに対する概念の違いによって、二つのミサが作りだされた。二つのミサは二つの国を作りつつある。聖伝のミサは、キリスト教世界を打ち立てる。十字架と犠牲の上に成り立つキリスト教世界文明をうちたてた。しかし「新しいミサ」は人間中心の世俗の国を打ち立てようとしている。

【聖伝のカトリック司祭】
私たちには、特に現代世界には、イエズス・キリストが行った究極の大勝利、十字架のいけにえ、聖伝のミサがどうしても必要です。この世の存続のためにも、永遠の命のためにも、必要です。聖伝のミサの続行のために、聖伝の司祭が必要です。

カトリック司祭の存在理由、これはまさにミサ聖祭をささげるということにあります。司祭の偉大さは、これはまさに全実体変化を起こすことであります。司祭というのは「神の民の集会の座長」ではありません。

カトリック司祭は、イエズス・キリストのペルソナに代って、毎日、祭壇でこう言います。
「これは私の体である。」
「これは私の血の杯である。」
告解部屋では司祭はこう言います。
「私はあなたの罪を赦す。」

つまりまさに聖パウロが言った言葉と同じです。
「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」(ガラチア2:20)

司祭とは、あたかも聖変化したパンとワインであるかのようです。御聖体は、見かけはただのパンとワインですが、実体はキリストのほんとうにキリストの御体とまたキリストの御血だからです。

司祭も、見かけはただの人間です。しかし、キリストのペルソナにおいて、全実体変化を起こし、罪の赦しを与えることができます。

司祭は、まさに御聖体のようです。御聖体のようにすべての人々に与えられますが、すべての人々の上に立っています。なぜかというと、司祭は、イエズス・キリストの代理者であり、イエズス・キリストと同じく、いけにえでもあるからです。司祭は天主からすべての祝福と恵みを受けて、それをすべての人々に分かち与える存在であるからです。

【最後に】
では、最後にマリアさまにお祈りいたしましょう。
最高永遠の司祭、イエズス・キリストの御母であるマリアさまに、私たちにも多くの聖伝カトリック信仰をまもる聖伝のミサを守る聖なる司祭を与えてくださいますように。
日本からも韓国からも世界中から多くの司祭たちが、わたしたちに与えられますように お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十五の主日の説教―怠りの罪(2024年、大阪)

2024年09月01日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十五の主日の説教―怠りの罪

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月1日(日)大阪

 

 

「もしある人に過失をみつけたら、霊の人であるあなたたちは、柔和な心をもって、その人を改めさせよ」―今日の書簡【ガラツィア6章1節】

信者に信仰と道徳を教えることは、司祭の重大な使命です。ですから今日は、私たちが見落としがちな、怠りの罪についてお話ししましょう。

親愛なる兄弟の皆さま、

今、世界のある場所では飢えている人がいるかもしれませんし、別の場所では、重大な罪を犯している人がいるかもしれません。しかし、皆さまは、この2人の人物とは何の関係もなく、したがってまったく責任も負っておられません。

怠りの罪とは、私たちの身分に応じた義務に従って、善をなすべきときにそれを怠り、また、悪を避けかつ防ぐべきときにそれを怠ることを意味します。

1.一般的な義務

私たち全員に、天主の掟と教会の戒律を守る義務があります。

天主の愛に関連して、一つの例を挙げてみましょう。成聖の恩寵の状態にある人は皆、聖霊の七つの賜物を持っています。そのうちの四つは知性を完全にし、三つは意志を完全にします。しかし、怠惰な状態にある人は、天主の聖霊のこれらの賜物の光と指示に従って行動することをやめてしまいます。ですから、その人の永遠の命の道における前進は遅れているのです。

「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ、あなたたちは、ハッカ、ウイキョウ、イノンドの十分の一を納めながら、律法の中でもっと重大なもの、正義と慈悲と忠実を無視している。先のことをも無視することなく、後のことをこそ行わねばならぬ」(マテオ23章23-24節)

司祭とレビ人が、エルザレムとエリコの間の道で傷ついた人を見たとき、彼らの罪はどんなものだったでしょうか(ルカ10章参照)。司祭はその道をやって来て、その人を見ながら通り過ぎました。レビ人もやって来て、その人を見ながら通り過ぎました。彼らは、自分たちの隣人に対してなすべき愛徳に関して、怠りの罪を犯したのです。

2.特別な義務

しかし、私たちは、身分に応じた義務に基づいた、特別な義務も負っています。配偶者、両親、子ども、雇い人、雇われ人、司教、司祭、信者など、すべての人が何らかの義務を負っていますが、それは同じ義務ではありません。例えば、配偶者は結婚の法を守り、互いを思いやる必要があります。おそらく、仕事での義務を怠らなくても、家庭を顧みない人がいるかもしれません。一方で、仕事で時間を浪費する人もいるかもしれません。他にも多くの例を挙げることができるでしょう。

3.断罪されるべき無知

怠りの罪が、告解で最もよく…忘れられてしまう罪です! 人はしばしば、自分の身分に応じた義務に関連する特定の義務のことを忘れ、この怠りの罪について、自らを告発しないのです。

「自分の罪に気づく者があろうか。天主よ、知らずに犯したわが罪を赦し、われを清め給え」―詩篇18篇13節

天主がいま皆さまをご覧になっているのと同じように、皆さまが自分で自分を見る光を天主が与えてくださるように、また、皆さまがいま自分では見られない、知らずに犯した罪を天主が見せてくださるように、生涯にわたって毎日、天主に祈ってください。

天主は、怠りの罪が起こり得るだけでなく、あまりにも一般的であることを明らかにしておられます。
聖ヤコボは言います。「しなければならぬ善を知りながら、それをしない者は、罪を犯したことになる」(ヤコボ4章17節)。
聖パウロも同じ趣旨で、こう言います。「私は自分の望む善をしていない」(ローマ7章19節)。

4.実を結ばない木

「悪を避け、善を行え」―詩篇36篇27節

子どもたちは、親に詮索されるとき、こう答えることがよくあります。「何も悪いことしてないよ。」
そうです、でも、皆さまがすべきであるとされている善についてはいかがでしょうか。

天主の似姿に創造された霊魂が、罪は犯さないが、実を結ばないとしましょう。これはまさに、実を結ばないイチジクの木のたとえで説明されている状態です。その木は生きていて、根は強くて地中にあり、枝は葉で覆われていました。しかし、毎年、実を探しても、見つかりませんでした。これは、たとえ話であり、霊魂の説明です。霊魂は確かに生きているのですが、その創造の目的を果たしていません。霊魂は、どんな目的のために創造されたのでしょうか。天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、天主を礼拝し、天主に似た者となるためです。しかし、その創造の目的を果たさず、天主を知らず、天主を愛さず、天主に仕えず、天主を礼拝しない霊魂は、創造主にしてその原像である天主に似た者、天主と一体化した者にはなりません。その霊魂は、その創造の目的を果たさないがゆえに、滅びの状態にあるのであり、たとえ話の次の言葉は、真実であり正しいものなのです。「切り倒せ! なぜ土地を無駄に使うのか」(ルカ13章7節)。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

ほとんどすべての罪の一番最初の原因は、私たちがなすべきことを怠ることにあります。天主の目から見た〈怠り〉の罪は、〈行い〉の罪よりも大きなものです。その罪は、終わりの日の裁きの基礎となるでしょう。「あなたたちは、私が飢えていたのに食べさせなかった」(マテオ25章42節)。

私たちの生活からさらに確実に罪を根絶し、さらに忠実にキリストに従うために、良心をよく調べましょう。
そして、聖パウロが述べているように、「私たちにまだ時のある間に、すべての人に、特に信仰における家族に善を行おう」。


この世のすべてのものは終わる。この世のすべてのものはすぐに終わる。

2024年09月01日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十四の主日説教―この世のものの空しさ

ワリエ神父 2024年8月25日(大阪)

親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音で触れられている異教の神「マンモン」は、金銭、富、成功の神でした。それを物質主義と呼ぶこともできるでしょう。

聖書は私たちに、こう警告しています。
「今日は野に栄える草も、明日はかまどに投げ入れられる」(マテオ6章30節)。
「すべての肉は草であり、そのすべての栄光は野の花のようだ」(イザヤ40章6節)
「われらはちりである。人、その日々は草のようであり、野の花のように咲く。風が吹けば、たちまち消え失せる」(詩篇102篇14-16節)。

聖アルフォンソ・リグオーリが、このことについて語った言葉に注意を向けましょう。
「私たちは、私たちの霊魂の救いと、決して終わることのない永遠の富の獲得に関心を向けよう。なぜなら、この世のすべてのものは終わり、かつ、すぐに終わるからである」。

第一のポイント この世のすべてのものは終わる

人は、この世のものに対する愛着がいかに大きくても、死の時にそれにお別れしなければなりません。人は、裸でこの世に入り、裸でこの世を去ります(ヨブ1章21節参照)。簡単に言えば、富と財産を築くことに人生のすべてを費やし、眠りも健康も霊魂も失った者は、死の時には、何も持っていけないのです。

もしあなたが名誉や富を享受しているなら、次の聖書の言葉を聞いてください。「おまえはちりであって、ちりにかえるべき者である」(創世記3章19節)。人は死ななければなりませんが、死んだ後、いま自分を慢心させている名誉や財産から、どんな利益を得られるでしょうか。聖アンブロジオはこう言います。「金持ちと貧乏人が埋葬されている墓地に行き、埋葬されている人の中で、誰が金持ちで誰が貧乏人だったかを見分けることができるかどうか見てみよ。すべての人は裸であり、その中で最も金持ちの者にも、しなびた骨以外、何も残っていない」。

第二のポイント この世のすべてのものはすぐに終わる

人は、自分がやがて死ぬことをよく知っていますし、そう固く信じています。しかし、人は、死があたかも決して訪れることはないかのように、はるか彼方にあると、想像しているのです。

聖ヤコボはこう言っています。「あなたたちの命とは何か。あなたたちは、しばらく現れるだけの湯気である」(ヤコボ4章15節)。

暴風、熱病、脳卒中、刺し傷、心臓発作があれば、私たちはこの世からいなくなります。そして、すぐに忘れ去られるのです。

私たちは、死の時には、名誉ある地位や報酬を得るため、財産を得るため、この世の喝采を浴びるために行った労苦から、何も刈り取ることはできません。すると、すべてが失われます。私たちは、天主のために行った善業と、天主のために受けた苦難からしか、永遠の命の実を集めることはできないのです。

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「生きているときに天主を忘れていた罪人を待ち受ける罰は、死の時に自らを忘れることである」。

「人、その日々は草のようであり、野の花のように咲く。風が吹けば、たちまち消え失せる」(詩篇102篇14-16節)。

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの霊魂のことに関心を向けましょう。「まず天主の国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな与えられる」(マテオ6章33節)。「自分のために、天に宝を積め。そこでは、しみも虫もつかず、盗人が穴をあけて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)。

「人は、二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。つまり、天主とマンモンに仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。永遠と、私たちの人生の時間の間には無限の距離があるのですから、私たちが永遠に享受すべき永遠の財産に払うべき注意と、死がすぐに私たちから取り去ってしまうこの世の財産に払う注意の間には、無限の距離があるべきです。

それは、私たちが、聖ヨゼフへのこの美しい祈りで唱えるようにです。「われらをして御身にならわしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽にいたることを得しめ給え」。

 


シスターアグネス笹川の後半生|秋田の聖母のご出現に対する迫害と十字架の生涯 なぜシスターが修道院を去らねばならなかったのか?

2024年08月31日 | お説教・霊的講話

シスター笹川の追悼ミサ(大阪)説教

トマス小野田圭志神父 2024年8月23日(金)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
私たちは、この前の聖母の被昇天の祝日に天に召されたシスターアグネス笹川の追悼ミサを行っています。

シスターアグネスは、秋田の湯沢台にある聖体奉仕会で、1973年の7月6日、8月3日、それから、10月13日の三回にわたって、木彫りの聖母像から、全人類に関わる重大なメッセージを受けました。今日はそのメッセージについて一緒に黙想いたしましょう。

黙想の前に・・・これが本当であるということを確認するかのように、木像の聖母像からは1975年1月4日から1981年9月15日まで101回の涙が流れました。この涙の現象は客観的事実として多くの人々が目撃しました。

湯沢台の聖体奉仕会の創立者であり、新潟司教区の教区長であったヨハネ伊藤庄治郎司教様自身も、涙をご覧になりました。また、わたしに洗礼を授けてくださった聖アンナ藤枝教会のヨゼフ・マリ・ジャック神父様も、ご覧になりました。藤枝の信者さんたちを連れて、秋田に巡礼に行った時、皆でその涙の現象を目撃しています。

秋田の聖母に関する出来事については、シスター笹川のことを個人的によく知っていた伊藤司教様、つまり、これを公式に調査した伊藤司教さまが、当時の新潟教区長として1984年4月22日に、司教書簡をもって、秋田の聖母に関する超自然的な性格を確認しました。そして、秋田の聖母に巡礼を行うこと、また秋田の聖母を公(おおや)けに崇敬することを認可しました。

【秋田の聖母の出来事】
言ってみると、秋田の聖母の出来事というのは、ちょうどグァダルーペのマリアさまと比較できるかもしれません。1531年にグァダルーペの聖母が、アステカ文化を受けて育ったファン・ディエゴに御出現なさって、ご自分が天主の御母であることまた私たちの霊的な母であるということをお示しになったように、同じく日本でも1973年マリアさまは、日本人のアグネス笹川を通して、ご自分が天主の御母であり私たちの母であり特にイエズス・キリストとともにわたしたちの罪を贖う者、共贖者であるということを示されました。

ちょうどグァダルーペのマリアさまが、ファン・ディエゴの着ていたみすぼらしいティルマという服にご自分のお姿を写されたように、秋田のマリアさまも木彫りの像を通してご自分のメッセージをわたしたちに与えようとお望みになりました。

【メッセージの内容】
では、メッセージはどんな内容だったのでしょうか? すこし黙想いたしましょう。

〔聖母マリア様からの最初のお告げ〕
1973年7月6日の最初のメッセージでは、マリアさまはご自分が愛する母であるとして、母として、シスターに語りかけます。そして三回のメッセージの時につねにマリアさまは、母として、シスターに語りかけます。

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。」
と呼びかけて、
「ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。」
と、おっしゃいます。
そして、優しい母として、シスターの寛大さを高く評価して労(いた)わります。そして慰めて励まします。
「すべてを捨てて、よく従ってくれました。
耳の不自由は苦しいですか。
きっと治りますよ。
忍耐してください。
最後の試練ですよ。
手の傷は痛みますか。」

何と優しいお母様でしょう。
でも、マリア様はさらにシスターに、「償い」のために祈るようにと求めます。
「人々の償いのために祈ってください。
…聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。
さあ、一緒に唱えましょう。」

こういって、伊藤司教様の作った聖体奉仕会の祈りを、シスターと一緒にマリアさまは唱えます。その時にマリアさまは、司教様の祈りに少し訂正の言葉をいい付け加えます。

どうやって祈ったかというと、
「御聖体のうちに"まことに"にましますイエズスの聖心(みこころ)よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、御父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心(みこころ)に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉(たてまつ)る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、御父の光栄と霊魂の救いのために、聖旨(みむね)のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。幸いなる御母よ、おんみの御子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」。

このお祈りを一緒に唱えた後、マリアさまは特に「教皇さま、司教さま、司祭たちのために」たくさん祈るように求めます。なんとおっしゃったかというと、こうです。

「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。」

〔聖母マリア様からの第2のお告げ〕
一か月の後、8月3日初金曜日、マリアさまは第二のお告げを与えます。やはり母として、シスター笹川に「全てをつくして主を愛しているか」という第一の最大の掟を思いださせます。そしてもしも主を愛しているのならば、マリアさまの言葉を聞くようにと命じます。

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。
主を愛し奉っていますか。
主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。」

それから、ご自分がいまから重大なメッセージを伝えるといいながら、こうおっしゃいます。
「これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天の御父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子とともに望んでおります。」

さらに、御父がこの世に対して怒り給うていることに、言及されます。
でもマリアさまは「御子とともに、何度も何度も御父の怒りを和らげるように努めてきました。そして十字架の苦しみ また御血を御父に示して、御父をお慰めする霊魂たち、至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげてきた・・・」とおっしゃいます。そして「何とか怒りを引き止めようとされてきた」とおっしゃいます。そしてマリアさまはこう締めくくります。

「祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、御父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。」などなど。

そして
「熱心をもってひたすらに聖主(みあるじ)をお慰めするために祈ってください」。

〔聖母マリア様からの第3のお告げ〕
10月13日、ファチマの最後の御出現の日に、太陽の奇跡の記念日にはマリアさまは最後のメッセージを与えます。「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい。」

そしてマリアさまはなんとおっしゃたかというと、
「もしも人々が悔い改めないなら、御父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのとき御父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」

しかしマリアさまはわたしたちに武器があることを教えてくれます。
「その時あなたたちに残る武器は、ロザリオと、御子の残された印だけです。
毎日ロザリオの祈りを唱えてください。
ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」

マリアさまは教会の中に混乱があることを、信仰の危機が起こることを、お話しになります。
「悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。」

最後にこうも言います。
「…… ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」

マリアさまのこの最後の訴えを、わたしたちはよく心に留めることにいたしましょう。

【迫害】
では、皆さんは、こう疑問に思われるかもしれません。マリアさまのメッセージは伊藤司教さまによって認められた。では、なぜ、シスター笹川は、秋田の修道院ではなくて、熊本で亡くなられたのでしょうか? なぜ修道院に留まることができなかったのでしょうか?

はい、確かにヨハネ伊藤庄治郎司教 (1928-2005)様 は、1984年に秋田の聖母を司教書簡によって公式に公認しました。しかしその一年後に、1985年3月9日には、フランシスコ佐藤敬一司教様が新潟の教区長に任命されます。ところがこの佐藤司教様は、聖体奉仕会が教区の信心会としてのピア・ウニオという一団体ではなく、教皇権を持ったもっと位の高い格の高い修道会として認可されるということを望んだようです。

そこで1987年3月17日、佐藤司教様はまず、安田神父様の聖体奉仕会での指導司祭としての任を解きます。そして、修道院からでていくように書簡で命令します。安田神父様は修道会を指導してきた方で、そして秋田のマリアさまの出来事を非常に深く信じてそして支持してサポートしてきた方ですが、1か月後、秋田の湯沢台を発って、静岡県の浜松にある聖霊修道女会の修道院に引っ越しされます。

またその後、1998年8月22日には、佐藤司教様は、聖体奉仕会にやって来て、シスター笹川に聖体奉仕会の修道院から出て行って別のところに住むように、命令されます。なぜかというと、佐藤司教様の説明によれば、秋田の聖体奉仕会が教皇権の修道会に格上げされるためには御出現と一体化してはいけない、と思われたようだからです。ですから、まず安田神父様の「秋田の聖母」の本の出版や販売を禁じます。そして、マリアさまの涙を拭きとった脱脂綿も、焼き捨てるように処分するように指示されたとのことです【幸いに、涙を拭きとった脱脂綿はいまでも聖体奉仕会に保存されています。2005年1月6日、佐藤司教様は、手術の際に医者が体内に置き忘れた脱脂綿が化膿して亡くなりになったと伺っています】。

そして秋田の聖体奉仕会では、マリアさまの御出現についてあまり話をしないように、とされました。ですから、それまでは秋田の聖体奉仕会のシスターたちは、マリアさまの涙のビデオを皆に見せたりとか、あるいはメッセージの話もしたりとかしていたのですけれども、それらについては語ろうとしなくなり、そして、世界中からの巡礼者を歓迎することも控えるようになっていきました。

新しい教区長の佐藤司教様が、聖体奉仕会からシスター笹川に出ていくようにといわれたその直後に その同じ日のその直後に、偶然、ある宮城県の角田市にあるカトリックの老人ホームの施設を運営していた方が、シスターにたまたま電話を掛けたのです。そこから、こういう話があった…ここを出なければならないという話があって、シスター笹川は、宮城県のこの老人施設に引っ越すことになりました。そして、司教様がここを出て行くようにと命じられた一か月後、9月15日に聖体奉仕会を去って、こちらに引っ越します。

その時に、シスターは一人ではなくて、一緒にいたシスター杉岡も一緒に移り住みました。このシスター杉岡は、私たちのこの大阪の聖堂で熱心に通っておられた吉崎さんのお姉さんです。ですからわたしたちは秋田のシスター笹川とはとても深い縁があります。

また司教様の指導によって、一部のシスターたちは安田神父様の本を処分して、秋田では販売しないようになりました。

2002年には、シスターアグネスは、その老人施設から、千葉の八街市にある甥っ子さんの家に引っ越しされました。そして、シスター杉岡たちも一緒に引っ越しされました。
【笹川シスターは佐藤司教様より、あなたは親、兄妹の所に住んではいけないと言われて、その命令を守るため、カトリック信者の、親戚を頼って八街に来ました。八街の親戚の家には、杉岡シスターのと共同生活をするために家を探しているわずかな期間だけ(3ヶ月位)親戚の家に身を寄せていました。共同生活をしていましたが指導司祭が亡くなり聖体奉仕会の命を受けて熊本の会員の元に行きました。】

その後いろいろな話はありますが【2013年11月22日、安田神父様が97歳で亡くなり】、シスターアグネスは2014年5月に熊本に引っ越しされました。いろいろな天主の御摂理によって シスターは修道会を出ざるを得なくなりまして、十字架の苦しい生活を続けなければなりませんでした。これについては、また後に、機会があればお話しをしたいと思います。

【天主の御旨】
ではいったい、これはいったいなぜマリアさまは、「迫っている災難から助けることができるのはわたしだけです」とおっしゃったのでしょうか。

なにか「わたしだけです」というのは、マリアさまが傲慢になっているんじゃないか、と誤解するかもしれません。

そうではなくて、‟迫っている災難から助けることができるのはマリアさまだけ”というのは、これは‟天主三位一体が、その聖なるみ旨によって、聖母だけが迫っている災難から助けるお恵みを分配することができるように、お望みになられている”からです。これは、マリアさまが傲慢なのでなくて、三位一体がそう望んでいるからです。

ですから、マリアさまは、わたしたちにそのことを教えてくださっているのです。

なぜかというと、三位一体は、マリアさまを通してわたしたちにイエズス・キリストを与えようとお望みになりました。マリアさまはキリストの神秘体である頭(かしら)をわたしたちに与えた方です。そして、わたしたちはその頭につながる体です。聖ベルナルドは、マリアさまはキリストと私たちをつなぐ首であると言っています。つまり、もしもイエズス様からのお恵みがわたしたちのところに来るならば、必ず首を通してでなければ、わたしたちのもとには来ない、マリアさまを通してでなければ、イエズス・キリストはわたしたちに与えられなかった、だから、今後も、どのようなお恵みも、イエズス・キリストのお恵みであれば、マリアさまを通すのでなければ与えられない。

ステラの福者イサアクという人は、キリストは教会なしに罪を赦すことはない、といっています。なぜかというと、キリストは教会を通して告解の秘跡あるいは洗礼の秘跡を与えるからです。同じように、聖母は天主なしに聖寵を分配することがないけれども、しかし、天主はマリアさま無しに聖寵をお恵みを分配することは欲していないということができる、といいます。

ですから教会のすべての教えは、「マリアさまはすべてのお恵みを、わたしたちに、イエズス・キリストから与える」「マリアさまを通して、与えられる」とおっしゃっています。

ですから、コルベ神父様がおっしゃることは、まさにそのとおりです――「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望まれた」と。そして「聖母の御手を通して、イエズスの至聖なる聖心からすべての聖寵はわたしたちのもとにたどりつく」――そのとおりです。

マリアさまだけがわたしたちを救うことができます。これこそが天主のお望みです。このことを、秋田の聖母は、わたしたちに最後のメッセージで伝えてくださいました。

シスター笹川の帰天を機会に、わたしたちは秋田のマリアさまのメッセージを、心して黙想することにいたしましょう。

そしてシスター笹川のように犠牲の霊魂となることは難しいかもしれませんが、しかし、わたしたちのできるかぎり、マリアさまの御憐れみとお恵みの取次によって、わたしたちも日々の祈り・犠牲・生活を、世の人々の回心のためにお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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