私たちの主は、マグダラの聖マリアに、「あなたの罪は赦された」と言われました。同じように、告解室で司祭はこう言います。「Ego, autoritate ipsius, te absolvo a peccatis tuis, in nomine Patris et Filiæ et Spiritus Sancti-われ、彼の権威によりて、御父と御子と聖霊との御名によりて、なんじの罪を赦す」。ですから、司祭が世の罪を赦すのは、自分自身の権威によるのではなく、私たちの主イエズス・キリストの権威によるのです。
《分かれたキリスト教共同体の中には、真の教えを保持し、有効な秘跡を執行しているところもあるのではありませんか》。はい。しかし、それらが真理にして天主をお喜ばせするものである限り、そのような教えや儀式はカトリック教会に属するものであり、異端的あるいは離教的な共同体に属するものではありません。聖アウグスティヌスによれば、教会を去ったキリスト信者は、自分たちがカトリック教会から盗んだものを自分の所有物にしているのです。「教会はただ一つしかなく、カトリックと呼ばれているのはその教会だけであり、また、教会の一致から分かれたそれらの分派に教会の所有物のままで残っているもののおかげで、それを誰が所有していても、生むのは教会なのである」【「ドナトゥス派駁論 洗礼について」(De Baptismo, contra Donatistas)】。
しかし、ダヴィドが高慢になって間違ったと、人々に思われないように、私たちの主は、「ダヴィドが霊感を受けて」という表現を使っておられます。ダヴィド王は聖なる作家であって、天主の霊感の影響の下に、また天主の「霊」が言われたことを書き取って、聖書の一部を書いたのです。(ミサの信経で、私たちは、聖霊について「預言者によりて語り給えり」(Qui locutus est per Prophetas)と唱えているではありませんか。)
【無原罪の御宿り】 では、聖母の「無原罪の御宿り」とはいったい何なのでしょうか? 福者ピオ九世は1854年12月8日の大勅令「イネファビリス・デウス」でこう言います。引用します。 「童貞聖マリアは、その受精(受胎)の最初の瞬間に in primo instanti suae conceptionis 全能の天主の特別の聖寵と特権とによって、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を予見して、原罪の全ての汚れから前もって保護されていた praeservata immunis 。この教えは、天主によって啓示されたのであり、全ての信者によって固く常に信じられなければならないことを宣言し、発表し、定義する。」これで引用を終わります。
その結果何が起こったかというと、無原罪の御宿りのマリアさまの生涯は、十字架の生涯でした。つまりマリアさまは「十字架の御母」であり「悲しみの御母」でした。「贖い主の御母」Redemptoris Mater となるべく生まれてきたマリアさまは、贖い主に一致して、ご自分も贖いとしてお捧げになりました。つまり、罪のない被造物であったマリアさまは、罪の贖いのために苦しみを受けることによって、贖いに完璧に協力されたのでした。この贖いの神秘については、来週皆さんにお話ししたいと思っております。
これは永遠の大問題であって、天主の創造の究極の目的を達成することができるか否かの、究極の問いなのです。人間は、本当の幸福(しあわせ)を得なければなりません。これが天主の創造の目的です。しかしそのためには、どうしても罪が赦され罪を償わなければなりません。その罪を償うためには、どうしてもいけにえを捧げなければなりません。罪によって、この世に死が入ってしまいました。従って、罪の赦しを受けるためには、聖パウロの言葉によれば、血を流す必要があります。「血を流すことなしに罪が赦されることはない。et sine sanguinis effusione non fit remissio.」(ヘブレオ9:22)と。
マラキアの預言にかつてあったように、――「日の昇るところから日の沈むところまで、天主の偉大な御名に清いいけにえが捧げられている。」――つまり、時間と場所を超えて、唯一のイエズス・キリストのいけにえが全世界で捧げられなければならないことが、預言されていました。Ab ortu enim solis usque ad occasum, magnum est nomen meum in gentibus, et in omni loco sacrificatur: et offertur nomini meo oblatio munda. 」(マラキア1:11)