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【参考情報】イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

2023年11月29日 | カトリック・ニュースなど

イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

Italian priest suspended for criticizing errors of Amoris Laetitia in new book

「私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです」。

マイケ・ヒクソン

米東部標準時夏時間2023年5月1日午後5時2分

(LifeSiteNews)―2004年に叙階されたイタリア人カトリック司祭ドン・トゥリオ・ロトンド【ドンとは神父という意味】は、2016年の教皇フランシスコのシノドス後の使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Laetitia)に含まれる誤謬に反対する著書を出版したことで、司教から「聖職」(a divinis)停止処分を受けました。ドン・ロトンド【ロトンド神父】の本の序文を書いた世界的に有名な古典哲学者であるジョン・リスト教授は、LifeSiteに対して、彼の聖職停止処分は「全く不当なもの」であると語り、付け加えて、ドン・ロトンドは「何百年もの間、カトリックの道徳神学であると信じられてきたものを擁護したために罰せられた」と述べました。彼の聖職停職処分は、カトリック教会にはふさわしくない、一種の権威の隷属的濫用の一例です。

ドン・ロトンドはLifeSiteのインタビューに応じ(全文は下部参照)、その中で「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題した自著の論旨を詳しく説明しています。ドン・ロトンドによれば、この著書は「告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と協力者たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬」を浮き彫りにしています。この司祭は、いかなる秘跡の執行も禁じられるという聖職停職処分を受けていますが、心は平安です。

「今は私の人生で最も幸せな時間です」と彼はLifeSiteに語ります。「なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています」。イゼルニア=ヴェナフロ教区のカミッロ・チボッティ司教から著書の出版を撤回するように言われたとき、彼はそうするのを拒否しました。

教皇フランシスコがチボッティを司教に指名した後、チボッティは2014年にブルーノ・フォルテ大司教一人だけによって聖別されましたが、この大司教は2014年の家庭に関するシノドスにおいて、異端的な行動計画(アジェンダ)を押し進めるために教皇フランシスコと密接に協力し、重要な役割を果たしました。

LifeSiteNewsは、チボッティ司教が署名した2023年2月2日付の聖職停止命令を確認することができました。この命令は、「正当な教区長に対する不従順」について明確に言及しており、「警告後も不従順にとどまる」司祭は処罰される可能性があることを述べている教会法典1371条を引用しています。

イタリア人ジャーナリストのアルド・マリア・ヴァッリによって発行された自著の解説の中で、ドン・ロトンドは2022年6月、従順についての自分の理解をこう説明しました。

私はこの点に関して、明らかに法的に無能力な一部のキリスト信者が、聖書本文の誤った解釈のせいもあって、キリスト信者の従順とは、常に長上の言うこと、特にそれが教皇である場合には、それに従うことであると信じており、従って、彼らは、教皇の発言や裁定に反対する者は誰でも不従順であると指摘します。キリスト信者は、何よりもまず天主なる至高の長上に従わなければならず、従って、他の長上の指示や命令に従わなければならないのは、これらの指示や命令が天主の指示や命令と対立しない限りにおいてのみです。聖トマスはこの点について非常に明確です。

リスト教授――リスト教授自身も2019年、教皇フランシスコの異端を告発する公開書簡に署名したことで、ローマのすべての教皇庁立大学から教えることを禁じられる処分を受けた――は、ドン・ロトンドの著書の序文にこう書いています。

「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされた。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかだ。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂された。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)である。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証した」。

リストはこう付け加えています。「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすだろう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすだろう」。

LifeSiteへのコメントで、リストはこの著書が「教皇フランシスコが、教会内にある深くて実際には根本的な分裂をいかにして挑発したか(実際には、むしろ露呈させて助長したか)」を示していると説明しています。ドン・トゥリオは、細心の注意とプロ意識をもって、『愛のよろこび』に関する論争の両面を記録している」。この英国人リスト教授は、ドン・トゥリオ・ロトンドに対する司教の聖職停止処分が不当である理由を説明し、次のように述べています。「司教はドン・トゥリオに著書を撤回するよう命じた。それよりもむしろ司教は、聖伝のカトリックの教えを熱烈に擁護するドン・トゥリオを称賛すべきだったのだ」。

リストは続けてこう述べています。「司教は、そう行動することで、教皇に、正統神学の第一の守護者(唯一の守護者ではない)としての正しく聖伝的な役割に戻るよう促すのではなく、教皇が聖伝である(すなわち、教皇が主張することがカトリックの真理である)と信じている司教団の中のかなりのグループと足並みを揃えたのだ」。

「愛のよろこび」は、多くの聖職者や平信徒にとって懸念と苦悩の原因となっています。なぜなら、教会の道徳的戒律(例えば結婚に関して)に従って生活していないカトリック信者が、それにもかかわらず悔い改めることなく秘跡にあずかる道を開くものだからです。この文書に触発されて、2016年11月にカトリック教会の4人の枢機卿は、彼らの「ドゥビア」を発表しました。彼らはすでに、教皇フランシスコに個人的にこの文書を送りました。彼らの疑問は今日に至るまで教皇によって回答を与えられていません。

ドン・トゥリオ・ロトンドはLifeSiteとのインタビューの中で、オーストリアの国際的に有名な哲学者であるヨゼフ・ザイフェルト教授が当時、この教皇文書をどのように評価していたかを読者に思い起こさせています。
「ザイフェルト教授は、『愛のよころび』の303番は、『十戒とカトリックの道徳的教えという道徳的建築物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾である』と述べました」。ザイフェルト教授自身もまた、自分の批判に対して、2017年に自分が教えていたスペインのグラナダ教区から処分を受けました。地元の司教であるハビエル・マルティネス・フェルナンデス大司教は、彼が大学で教えることを禁じたのです。

これらすべてのカトリックの証人たちは、平信徒も聖職者も同様に、教会の道徳的教えを守るために苦しんだという事実のために、いつかたたえられる日が来るでしょう。

法学と道徳神学の大学の学位を持ち、神学博士でもある56歳のドン・トゥリオは、LifeSiteとのインタビューで、霊魂の救いのために誤った教えに抵抗するようすべての人にこう呼びかけています。

私はあえて公に言います。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広まっている非常に深刻な誤謬や関連するつまずきを明らかにするために、また、知っていながら声を上げない人々、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関して霊魂にもたらす大きな害を理解しながらも、声を上げず、反対しない人たちを非難するために、「石が叫ぶ」でしょう。

ドン・トゥリオ・ロトンドとのインタビュー全文は以下をご覧ください。

【問い(LifeSiteNews)】神父様がどの教区に籍を置いておられるのか、また神父様の教会における現在の状況を教えてください。

【答え(ドン・トゥリオ・ロトンド)】私はイゼルニア・ヴェナフロ教区に籍を置いており、現在は聖職停止状態です。ですから、私は家におります。

【問い】神父様を聖職停止処分にしたのは誰ですか。神父様の司教様がご自分で行ったのですか、それともローマからの介入があったのですか。

【答え】責任は司教様にありますが、司教様がローマと話し合って私にこの制裁を下したことは確実です。

【問い】聖職停止の理由は。

【答え】聖職停止命令は次の点を強調しています。

(a)2022年、私は「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題する本を出版した。この本の中で私は、教皇と協力者たちのうちの何人かが、特に「愛のよころび」を通して広めている重大な誤謬を示している。
(b)司教様はこの本を公式に撤回するよう私に求められた。
(c)私はそのような撤回をしなかった。
(d)その結果、司教様は私に聖職停止処分の制裁を課された。

したがって

(a)私は、公的に役職、地位、役務を行使できない。
(b)私は、叙階の権能や、統治の権能を行使できない。
(c)また、私は、いかなる権利や特権も行使できず、いかなる記章や称号も使用できない(したがって、私は教会の衣服も着用できない)。

この制裁にせいで、私の「ミサ執行許可書」(celebret)は撤回されました。私はすべての秘跡を執行することを禁じられています。

最初に明確にしておきたいのは、この本は、教皇と協力者たちのうちの何人かがさまざまな形で広めた重大な誤謬に焦点を当てた、私が執筆中の数冊のうちの最初の一冊であることです。PDF形式のこの本は無料であり、このサイトからダウンロードすることもできます

このサイトでは、ニューラル技術を使ったさまざまな言語への自動翻訳が提供されており、この技術は自動ではありますが特に優れているはずです。英語のサイトと本はこちらから。この本の参考文献は、現在約40ページですが、今後増える予定であり、こちらで略語とともに見ることができます。

参考文献の記事の多くはLifeSiteNewsから引用されており、私はLifeSiteNewsに対して、特に教皇フランシスコの誤謬に言及し、生命と健全なカトリックの教理を守るための素晴らしい活動に心から感謝しています。このサイトのおかげで、教皇フランシスコの誤謬に勇気をもって反対しているカトリックの高位聖職者や学者たちの多くの重要な声明について知ることができました。このサイトが無料でコンテンツを提供していることは、私の仕事に大いに役立っています。

【問い】神父様の著書で、おそらく神父様の聖職停止処分の原因となったと思われる主な主張は何でしょうか。

【答え】この聖職停止処分の原因となった私の本の主な論点は、教皇の誤謬、すなわち、教皇が聖伝と聖書に反していることを強調したことです。本書の第3章から、私は、告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と仲間たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬を強調しています。これらの誤謬はカトリックの教理の破壊転覆であって、進化ではありません。それらは霊魂の救いに大変有害であるため、私たちが反対すべきものです。

【問い】この本の概要を簡潔に教えていただけますか。

【答え】序章で説明しているように、第1章では教理上の問題での教皇の権力の限界について語っています。教皇が異端の可能性がある問題についてもいろいろ考えています。また、歴史が教皇の明白な誤謬をどのように記憶しているか、教皇の死後、エキュメニカル公会議によって教皇【の教え】が異端とされ、排斥されことさえあることを示しています。この第1章では、教皇フランシスコに非常に近く、使徒的勧告「愛のよろこび」のゴーストライターとされるアルゼンチン人高位聖職者、モンシニョール・V・M・フェルナンデスの発言を検証しています。本書の中で私は、「愛のよろこび」が述べていることをよりよく理解するために、モンシニョール・フェルナンデスの著作を何度か利用しています。

第2章では、「愛のよろこび」にまで至った教皇の明白な戦略と、それに続く深刻な結果を示しています。この戦略は、曖昧な発言と「暗号」(言葉と行動)から構成されており、この戦略によって、教理の変更および教皇が実行しようとしている「パラダイム・シフト」が目立たないように広まっているのです。

教皇フランシスコに最も近い協力者たち自身が、教皇フランシスコは「パラダイム・シフト」を実行していると述べています。一方、ミュラー枢機卿は、「『パラダイム・シフト』というまがいものの知的言説の背後には、天主のみ言葉を改ざんする隠しようのない異端しかありません」と述べています。教皇フランシスコの戦略は、まさにこの「パラダイム・シフト」を実行するために、2014年と2015年の2回のシノドスにおける「操作」によっても実行されました。

それ以降の章では、このような「パラダイム・シフト」がどのように実現されたのか、そしてそれゆえにカトリックの教理のさまざまな点に関して、「愛のよろこび」を通して「パラダイム・シフト」から生じる誤謬を示しています。これらの章では、教皇フランシスコと支持者たちが、誤った道徳を神学的に受け入れられるものとして罷り通らせるために、特に次の二つの手段を用いてきたことを示しています。

1.一つは、啓示された天主の法と、それとともに十戒の否定的戒律には絶対的な義務性があることを、特定の部分において、実質的に脇に置くものです。ザイフェルト教授は、「愛のよころび」の303番は、「十戒とカトリックの道徳的教えからなる道徳的建造物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾」であると述べています。

2.一つは、特定のケースに対する不正確で誤った識別を広め、その結果、人間の行為の情状酌量すべき事情をあいまいで不正確で逸脱した表現にしたことです。これらの事情は、実際には教皇とその協力者の一部によって狡猾に拡大され、真の重大な罪を小罪や不完全なものとみなすように導くことによって、天主の戒律を実質的に破壊することができるようにされています。
これに沿って、シュナイダー司教は、「過去2回のシノドス総会(2014年と2015年)において、新たなモーゼの弟子たちと新たなファリザイ人たちは、あわれみの概念を装って、結婚の不解消性とケース・バイ・ケースでの第六戒の一時停止を実践的に否定するのを覆い隠したこと、「識別の方法」、「同伴」、「司教の方向づけ」、「司祭との対話」、「内部フォーラム」、「さらに完全な教会生活への統合」、非正規の結合による同棲に関して責任を負わせることを廃止する可能性があること、といった表現を使っていました(最終報告書、84-86番参照)」。(これらはモンシニョール・シュナイダーの言葉であり、メールで私に送られてきたものです。2023年4月28日付のRorate Caeliの記事に同じような内容あることが明記されています。この記事には実際にはミスプリントがあります。)

教皇と協力者たちの中の何人かは、こうした道筋をたどりながら(その道筋だけではありませんが)、同性愛行為、避妊行為、姦淫行為を容認する道をも実質的に開いてしまいました。… したがって、そうした行為を実践しながら悔い改めない人々に対する秘跡としての赦免と聖体拝領を実質的に容認する道も開いたのです。中絶過激派のバイデン米大統領が、フランシスコと会見した際、教皇によれば、自分【バイデン】は「善きカトリック信者」であり、ご聖体を受けることができる、と述べたのも不思議ではありません。聖座はそれを否定していないのです!

もしバイデンのような中絶推進派の同性婚擁護者が合法的にご聖体を拝領できるのであれば、事実上誰でも、悔い改めない大いなる罪人であっても、そうすることができることは明らかです。なぜなら、バイデンは彼が行う悪を明らかに悔い改めていないからです。このことはすべて、痛悔、つまり罪を犯さないという意向が、もはや秘跡としての告解に絶対必要というわけではないという誤謬と関連しています。本書は第3章で、教皇フランシスコと協力者たちの主張が、悔悛者の痛悔を欠く限りにおいて、いかに無効な秘跡としての赦免と無効な告解につながるかを指摘しています。これらの無効な赦免と無効な告解は罪を赦すのではなく、単に悔悛者を欺くだけです。悔悛者の真の痛悔がなければ、真の赦免も、真の悔悛の秘跡も、秘跡による真の罪の赦しもないからです。

第6章は、死刑に関する教皇の誤謬を検証します。死刑の合法性は、場合によっては、自然法と啓示された法によって明確に肯定されており、教皇が死刑を「許されない」と宣言した際、教皇は明らかな誤謬状態にあります。

私が強調しているのは、本書で十分に示したように、教皇が「愛のよろこび」はトミズムの道徳的教理に忠実に従っていると主張していることは真実ではなく、実際には、この勧告は多くの箇所でアクィナスの道徳に完全に反している、ということです。たとえそれが、「トミストの文書」という肩書をまとって、あたかも確かな教理のように見せかけようとしていてもです。
天主の法とその絶対的な否定的命令をさまざまな戦略で実質的に踏みにじり、健全なカトリックの教理を捻じ曲げる教皇が、明らかに偽りのことを述べながら、それを至高の真理であるかのように見せかけるのは、奇妙ことではありません。十戒の否定的な命令に対して、場合によっては合法的な方法で実質的に違反することが可能なのであれば、場合によっては人は、合法的な方法で実質的に嘘をつくことさえできてしまうことは明らかだからです。

【問い】神父様はこれまで、教会の位階階級と問題を起こしたことはおありですか。

【答え】私はこれまで制裁を受けたことはありません。私は常に教皇と司教に従順であり、聖なる生活を送り、健全な教理についてもっともっと学ぼうとしてきました。実際、私は1992年にローマのサピエンツァ大学で法学の学位を取得し、2002年には道徳神学の免許状を取得しました。2008年には、ご聖体に関する聖トマスの教理とキリスト信者の道徳生活との関係に関する論文で神学博士号を授与されました。まさに私の神学的訓練のおかげで、また祈りによって天主が私に与えてくださった光のおかげで、私は教皇フランシスコが教皇在位期間の間に、私たちが知っていることに一致しない教理を広めていることに気づきました。そのため、私は「聖伝」を深く学んでから、教皇フランシスコの発言と比較することにしました。私は、偉大な専門家たちが述べていたことを読み、教皇フランシスコが、専門家たちが真の異端と表現する非常に深刻な誤謬を広めていることを確信するようになりました。

【問い】神父様の恐ろしい運命を考えれば、この重大な不公正にもかかわらず、神父様はどのようにご自分を支え、信仰を強く保っておられるのでしょうか。

【答え】恐ろしい運命ではありません。実際、私の人生の中で非常に幸せな時間です。なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています。基本的に、私は自分がしていたことを続けています。つまり、キリストに従い、キリストのみ言葉を広め続けています。私は祈り続け、教皇と仲間たちが広めている非常に深刻な誤謬のことを明確に語り続けています。

何人かの人々と、オンラインで祈りのグループを作って、私たちが教会で生きている状況のために祈っています。(このグループは私のYouTubeチャンネルにもあります。)私はその日の典礼について考え、また健全なカトリックの教理に反する教皇の誤謬について語っています。

昨日、例えば、私は次のようなことを観察していました。聖ユスティヌスは、「私たちが教えることを真理と信じ、罪の赦しと再生のために制定された洗礼によって清められ、キリストが教えられた通りに生きる者以外の者にとっては、ご聖体にあずかることは合法的でない」(殉教者聖ユスティヌス「キリスト教徒を擁護する第一弁明」66-67参照PG6、427-431)と述べています。
教皇フランシスコは、バイデン大統領やナンシー・ペロシ夫人のような中絶推進派の政治家もご聖体を受けることができると明確に主張しています。実際、米国の司教たちは、中絶推進派で同性婚推進派のバイデン大統領がご聖体を(拝領するのを)阻止したかったのですが、教皇は司教たちがそうするのを明確に止めました。

バイデン大統領が教皇のもとを訪れた際、教皇によれば彼は「善きカトリック信者であり、聖体拝領を受けることができる」と報告しました。聖座はこれらの主張を否定していません。バイデン大統領は、カトリックの教理に明らかに反して、継続的にご聖体を拝領しています! ナンシー・ペロシ夫人は中絶推進派として、またその他の不道徳行為の支持者として広く知られていますが、ローマに来たとき、もちろん教皇の許可を得て、ご聖体を受けました。これは誤謬であり、聖伝に反するだけでなく、重大なつまずきです!

私たちはこの小さなグループで、天主が介入され、教会がこうした誤謬や不祥事から解放されるよう祈っています。私は、天主が介入され、霊魂をひどく傷つけるこれらの非常に深刻な誤謬から私たちを解放してくださるよう、語り続け、祈り続けます。天主の思し召しにより、いかなる制裁を受けても、私はやめません。有名なリスト教授が私の著書の序文で述べてくださっているように、また、有名なオックスフォード大学のジョン・フィニス教授(1986年から1991年まで聖座の国際神学委員会の元委員、1990年から1995年まで教皇庁正義と平和評議会メンバー、2001年から2016年まで教皇庁生命アカデミー会員)が述べておられるように、私たちは教理レベルにおいて史上最悪の教皇職に直面しているのです。

フィニスは、この著書について次のように述べています。「賞賛すべき明晰さと豊富な証拠と論証によって、この時宜を得た本は、『教皇フランシスコによって意図的に広められた異端が今日、キリスト教史上最悪の危機の主要な原因かつ現れである』と主張する主な公表文書を集めたものです」(ジョン・ラモント、クラウディオ・ピエラントーニ著「現在の異端から信仰を守るDefending the Faith Against Present Heresies」[アローカ出版Arouca Press、2021年]の編集者書評)。

私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです。このような状況において、私は、天主が介入され、人々が理解し、この雪崩のような誤謬を止めるために動くように、祈り、語らなければならないと理解しました。天主はこのような誤謬を憎まれ、私たちを誤謬から救い出すために介入されます。天主はご自身ですべてをなさることを望んでおられるのではなく、そのような教理的・道徳的倒錯から私たちを解放するために、私たちの協力を望んでおられるのです。健全な教理は、私たちにこのことを理解させ、教会の歴史も理解させるのです。

【問い】カトリック信者、特に司祭や司教におっしゃりたいことは。

【答え】私はすべての人に、これらのテーマについて祈り、私の著書や他の同様のテキストを読んで、物事の本当の姿を理解する努力をしてくださるよう強く求めます。そして、これらの誤謬が消し去られ、否定され、教皇と協力者たちによって健全な教理が再び教えられるよう、祈り、行動するよう強く求めます。

人々が教皇のせいで広まっている誤謬に気づき、それに従わないようにするために、私は今の状況を理解した人々が大胆に発言するよう呼びかけます。天主は、私たちをこうした誤謬から救い出したいと望んでおられますが、私たちを使いたいと望んでおられるのです! イエズスは福音の中でこう述べておられます。「私は言う、もし彼ら(私の弟子たち)が黙ったとしても、石は叫ぶだろう」(ルカ19章39-40節)。

このテキストに関するオリゲネスの解説は照らしを与えてくれます。
Quando nos loquimur, lapides silent: quando nos tacemus, lapides clamant. Potest enim Dominus de lapidibus istis suscitare filios Abrahæ. ” Quo tempore nos tacebimus? Quando refrixerit charitas multorum, quando illud quod a Salvatore prædicatum est, fuerit impletum: Putas veniens Filius hominis inveniet fidem super terram? Propterea Domini misericordiam deprecemur, ne, nobis tacentibus, lapides clamitent; sed loquamur et laudemus Deum in Patre, et Filio, et Spiritu sancto: cui est gloria et imperium in sæcula sæculorum . Amen (オリゲネス「ルカ福音書講話」37:5)。
「われらが話すと石は黙り、われらが黙ると石は叫ぶ。なぜなら、天主はこの石からアブラハムの子らを起こすことがおできになるからだ。われらが黙るべきは、いかなる時か。愛徳が多くの者の中で冷えてしまった時、主が『人の子が来るとき、地上に信仰があると思うか』[ルカ18章8節]と予告されたことが成就する時である。それゆえ、われらは主のあわれみをもとめて祈る。それは、われらが黙っていても石が叫ぶようなことがなく、われらが語り、父と子と聖霊によって天主を賛美するためである。天主に栄光と力が永遠にあらんことを。アーメン」。

私はあえて公に述べます。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広がっている非常に深刻な誤謬とそれに関連するつまずきを明らかにし、知っていながら声を上げない者たちを、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関わる霊魂に大きな害をもたらすことを悟っていながら声を上げず、反対しない者たちを非難するために、「石が叫ぶでしょう」。

霊魂の救いは教会生活における基本原則であり、その救いのためにキリストは命を捧げられましたから、すべてのカトリック信者、とりわけ私たち天主の役務者は自分の命を捧げなければなりません。不幸なことに、私の著書で示したように、フランシスコの誤謬が霊魂の救いにとっていかに大きな害悪であるかを私たちは目の当たりにしています。例えば、痛悔がないために無効な告解さえももたらすのです。ある意味で、「石」はすでに「叫んでいます」。なぜなら、司祭でも司教でも神学者でもない多くの人々が事態をよく理解し、教皇の誤謬に反対して明確に語り、多くの神学者たちや天主の役務者たちの沈黙について不満を述べているのですから。

私の望みは、他の2巻を出版することに加えて、以下の通りです。

(a)教皇フランシスコと協力者たちの誤謬を暴き、それに反対するために、恒久的に介入できる専門家グループを創設すること。

(b)教皇フランシスコと協力者の誤謬が終わり、彼らの言葉を通して真理の光が戻ってくるように、祈りと償いの大きな世界的ネットワークを作ること。

私が望んでいるのは、教皇の死ではなく、教皇がこれらの誤謬から回心なさって、霊魂が聖なるカトリックの真理に生きるのを助けてくださることだということ強調したいと思います。

【問い】リスト教授は神父様の著書の序文を書いておられます。教授の主な主張は何だったのでしょうか。

【答え】まず第一に、私はリスト教授の勇気と証言に公に感謝しなければなりません。私は教授を、一種の現代の預言者とみなしています。教授は、教皇フランシスコの誤謬に反対する多くの公になった文書に署名され、そのために、大きな報復を受けなければなりませんでした。ですから、リスト教授が私の著書の序文を書こうと望まれたことを大変うれしく思っています。私にとっては大いなる名誉です。その序文で教授はまず、教皇フランシスコの在位中に教理レベルで生じた非常に深刻な状況を浮き彫りにされ、教会の一部が現教皇の広めた誤謬に追随し、別の一部がそれに反対していることを指摘され、私が書いた本がこの状況において有用性があることを強調しておられます。リスト教授が言われるように、「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされました。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかです。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂されました。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)です。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証しました」。

この仕事を私自身のものではなく、天主のものだと考えていることを明確にしておきます。この著書は祈りのうちに生まれ、祈りのうちに私はこの仕事を遂行しなければならないと悟り、祈りのうちに私はこの仕事を続けています。少なくとも私にとって、その仕事は本当に途方もないもので、ある意味では不可能なことです。そして今、私はその仕事に完全に専念しています。今のところ、たくさんの注のある約750ページの第1巻しか出版していませんが、もう少しすれば、たくさんの脚注のある約350ページの第2巻、そしてその後、同じくたくさんの脚注のある約500ページの第3巻を出版するつもりです。私が脚注を強調するのは、私自身が創作したことを書いたのではなく高名な神学者や高位聖職者が言っていることだということを、また、聖伝が述べていることを私が繰り返したということを、明確にするためです。

リスト教授の称賛は私のものではなく、私を執筆に駆り立ててくださり、続けることを助けてくださる天主のものです。リスト教授がご覧になった文章を、すべての人に状況を明確にするために、私は今も拡充しているところです。そのため、ページ数は今も増え続けていますが、教理的な内容は常に同じです。参考文献は行間の空白がない状態で、すでに40ページありますが、さらに増えることが分かっています。

リスト教授が私の著書について述べておられるように、「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすでしょう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすでしょう」。私は以下のことを付け加えたいと思います。教皇の教理的倒錯がどこまで進み得るのか、また、司教たち、天主の役務者たち、そして天主の民が、これらすべてに対してどんな反応を示したのかを証明する膨大な資料を、私たちの後に続く人々に残しておくことは重要だということです。それは、二度とこのような事態が起こらないようにするために重要なのは何かということを、未来の学者や高位聖職者たちが理解するためです。従って、参考文献の拡充に協力したいと思われる方は、Facebookの私のページ「Don Tullio Rotondo」または「Betrayal of Sound Doctrine」、あるいは私のYouTubeチャンネル「Don Tullio Rotondo」からご連絡いただけます。

結論

私はこの仕事を聖母に、聖母の汚れなき御心にお委ねしてきましたし、お委ねし続けます。教皇フランシスコが広めたこれらの誤謬に対して、聖母の汚れなき御心の凱旋をもたらす助けとなりますように。私は、私たちが生きているこの状況は天主の御手の中にあることを強調します。天主は、これまで言われてきたように、教皇のこのような異端的な誤謬さえも許されたのであって、望まれたのではありません。「カトリック教会のカテキズム」(412)には、聖トマス・アクィナスの文章があり、こう述べています。「天主はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかった。聖パウロはこれを、『罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた』(ローマ5章20節)と言っている」。ですから、復活ろうそくの祝別【実際には、その後の「Exsultet」】において、「このような偉大な贖い主をもたらした幸いなる過失よ」と言われています。天主は、霊魂の救いと天主の栄光のために天主の真理がより強く輝くように、私たちの協力によって、このような教理の曲解を一掃されるでしょうし、この悪をより大きな善に変える方法を承知しておられるのです。


私たちが聖伝のミサの典礼を保存し守るのは、聖伝の典礼がカトリック信仰を驚くほどよく表現し、信仰を効率的に養ってくれるから

2023年11月28日 | お説教・霊的講話

典礼用具の花、ろうそく、香の意味についての説教

ドモルネ神父 2023年11月26日

はじめに

先週の主日、私は祭壇とその典礼的意味についてお話ししました。祭壇は、私たちの主イエズス・キリストを表しています。天主にいけにえが捧げられるのが祭壇の上であるように、子なる天主は、イエズス・キリストの人間の肉体と霊魂を祭壇として用い、父なる天主に御自身をいけにえとして捧げられます。祭壇が、人間が天主と出会う神聖な場所であるように、イエズス・キリストは、天主と人間を一致させる唯一の仲介者です。祭壇が、人間が天主にそのいけにえを捧げる場所であるように、私たちが天主にすべてのものを捧げるのは、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストにおいてです。祭壇が、石で作られねばらず、また3枚の祭壇布で覆われ、装飾を施され、ミサの間に司祭が接吻し、香を捧げ、触れるのは、それがイエズス・キリストを表しているからです。

私たちの主イエズス・キリストは、すべての被造物の中心です。この世と教会にあるすべてのものは、イエズス・キリストへと向かいます。典礼のすべては、イエズス・キリストを表すか、あるいはイエズス・キリストへと至るものです。今日は、花、明かり、香の象徴的な意味についてお話しすることで、皆さんに、引き続きこの現実をお示ししたいと思います。

1. 花

まず、花について少し触れます。私たちは、償いをするときや喪に服するときを除いて、祭壇に花を飾ります。第一の理由は、単に祭壇を飾るためです。祭壇はイエズス・キリストを表しています。祭壇を美しくするものはすべて、イエズスの美しさと栄光を象徴するという目的のためです。花は、この役割を見事に果たしています。私たちの主イエズスが、ゆりの美しさについて言われたことを思い出してください。「ゆりの花を見よ。…私は言う、ソロモンさえ、その栄華のきわみにも、ゆりの一つほどにも装わなかった」(ルカ12章27節)。

祭壇に花を置く第二の理由があります。それは天国を象徴するためです。実際、天主がアダムとエワを創造されたとき、彼らを「楽園」と呼ばれる幸福の園に置かれました。それになぞらえて、私たちは、永遠の幸福の場所である天国を、「楽園」または「天国の園」と呼んでいます。しかし、園を特別なものにするのはそこにある花です。したがって、祭壇の花は楽園、すなわち、イエズスがおられ、イエズスが私たちを連れて行ってくださる天国を象徴しています。ところで、カトリック信者が墓地に花を供えるのを好むのも同じ理由からであり、そうすることで、天国での永遠の命への希望を表わしているのです。

2. 光

さて、祭壇の光、すなわち、ろうそくと聖体ランプについて考えてみましょう。聖体ランプは、ご聖櫃にご聖体が現存していることを示す小さな灯りです。

ミサにろうそくがあることは、カタコンベの時代を思い起こさせます。キリスト信者がローマの地下墓地に隠れなければならなかったとき、彼らは、聖なるミサを捧げるために、松明とろうそくを灯していました。

しかしもちろん、ろうそくは、過去を思い起こさせるだけではありません。ろうそくは、象徴的な意味も持っています。光は、祭壇と同様、私たちの主イエズス・キリストを表しています。実際、イエズスは、「私は世の光である」(ヨハネ9章5節)と言われました。また、「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)とも言われました。光と温かさを生み出す炎は、イエズスの神性を象徴しています。旧約では、天主は、火の形で、何度も御自身を現されました。例えば、モーゼに対しては燃える柴で、あるいは、出エジプトのときのヘブライ人に対しては、彼らを導いた火の柱でです。火が物質ではなく、照らし、温めるものであるように、天主は純粋な霊であり、真理で私たちの心を照らされ、愛徳で私たちの心を温められます。ろうそくの火はイエズスの神性を象徴し、白いろうのろうそくは、私たちの主の清く繊細な人性を象徴しています。中世において、童貞聖マリアに神秘の蜂という愛らしい名前が与えられていたことは、興味深いことです。ミツバチが花の間に住み、花の蜜で養われるように、童貞聖マリアは、「花」という意味を持つナザレトに住まわれ、天主のみ言葉で養われました。ミツバチがろうを作り出すように、童貞聖マリアは、私たちの主イエズスのいと清き御体を受胎されました。ミツバチが蜜を作り出すように、童貞聖マリアは、柔和であわれみ深いイエズスを私たちに与えてくださいました。

さて、聖体ランプについてお話ししましょう。伝統的に、このランプの燃料はオリーブ油です。この油もまた、私たちの主イエズスを表しています。聖ベルナルドは、これを次のように説明しています。「油は照らし、養い、強める。イエズスは、福音においては私たちの心の光であり、ご聖体においては私たちの霊魂の糧であり、その恩寵によって私たちの心の薬ではないか?」。一方、照らし、養い、強める油が、砕かれ、搾られたオリーブからできているように、私たちの主イエズスは、ご受難で砕かれることによって、私たちの光、栄養、力となられたのです。

では、光の数を考えてみましょう。それは最大で七つです。つまり、六つのろうそくと聖体ランプです。このことは何を意味するのでしょうか。聖ヨハネは黙示録の幻視の中で、七つの金の燭台を見て、このような説明を受けました。「七つの燭台は七つの教会である」(黙示録1章20節)。ですから、教会は、祭壇の七つの光を通して、私たちの主イエズスを信じるすべての民族を象徴しているのです。

最後に、読誦ミサで灯される2本のろうそくの意味を考えてみましょう。教皇インノケンティウス三世は、この2本のろうそくはユダヤ民族と異邦人、旧約と新約を意味すると説明しました。ろうそくの間には磔刑像のついた十字架があります。これは、イエズスを信じるユダヤ人と異邦人を、イエズスが一致させられること、また、イエズスとその贖いのみわざが、旧約と新約の中心であることを意味しています。

3. 香

最後に、香の意味を考えてみましょう。天に向かって立ち上るかぐわしい香の煙は、人間の天主への祈り、礼拝と感謝と赦しと祈願の祈りを象徴しています。すべての祈りは、最終的にすべての善の源である天主に向けられるものですから、香は天主のみに捧げられます。ミサの間、私たちは、天主である私たちの主イエズスに香を捧げます。祭壇に香が捧げられるのは、祭壇が私たちの主イエズスを表しているからです。福音書に香が捧げられるのは、福音書がイエズス・キリストのみ言葉であるからです。司祭に香が捧げられるのは、司祭がイエズス・キリストの役務者であるからです。ミサの侍者と信者に香が捧げられるのは、彼らが洗礼とご聖体を通してキリストの神秘体の一員であるからです。

教父たちによると、香炉そのものが私たちの主イエズスを表しています。穴の開いた香炉は、ご受難の間、釘で貫かれ、殴られ引き裂かれたイエズスを表しており、香炉の火は、すでに説明したように、イエズスの神性を表しており、香の煙は、特にご受難のときの、イエズスの御父への祈りを表しています。

香炉から立ち上る香の煙は、小さな雲のような形になります。この小さな雲は、預言者エリアの生涯に起こったことを思い起こさせます。当時、イスラエルの地は、民の罪の罰として、長い干ばつに見舞われていました。エリアは、偶像バアルの司祭たちをカルメル山に呼び寄せ、民の前で彼らの宗教の虚偽と邪悪さを証明しました。偶像崇拝と嘘の罰として、これらの司祭たちは全員殺されました。その後エリアは、雨を降らせてくださるよう、天主に祈りました。すると、手のひらほどの小さな雲が、海から立ち上ってきました。この小さな雲は、あっという間に大きくなって空を覆い尽くし、豊かな雨が国中に降り注ぎました。これは、ミサで起こることのかたどりです。小さな香の雲、すなわち、キリストの祈りが、祭壇から天主に向かって立ち上り、それに答えて、天主は世界中に豊かな恩寵を降り注がれるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、最後に、私たちが聖伝のミサの典礼を保存し、守るのは、過去への郷愁からではなく、この聖伝の典礼が私たちのカトリック信仰を驚くほどよく表現し、私たちの信仰を効率的に養ってくれるからだということを、ただ皆さんに思い出していただきたいのです。これらすべては、新しいミサの典礼にはないものですから。


祭壇はイエズス・キリストの人性を象徴し、祭壇には五つの十字が刻まれており、主の御体に刻まれた五つの御傷を象徴している

2023年11月28日 | お説教・霊的講話

祭壇の典礼上の意味についての説教

ドモルネ神父 2023年11月19日

はじめに

私たちの主イエズス・キリストが私たちを贖われ、私たちが永遠の命を得られるようにしてくださったのは、十字架の聖なるいけにえによってでした。十字架のいけにえは、ミサで更新されます。ですから、聖なるミサは、私たちのカトリック信仰と霊的生活の中心にあります。私たちの信仰と霊的生活を養うためには、ミサの典礼の意味、すなわち、聖なるミサが捧げられる際の祈りや儀式の意味を理解することが非常に有益です。このことを念頭に置きながら、今日は、祭壇とその意味についてお話したいと思います。

1)祭壇一般について

祭壇は、司祭が天主にミサのいけにえを捧げる場所です。祭壇は、元々は木で作られていましたが、これは、私たちの主が最初のミサを捧げられた木のテーブルと、主が十字架につけられた木の十字架を記念するものでした。6世紀以降、教会は、祭壇を石で作るように定めました。その理由は後ほど説明します。実際的な理由から、祭壇全体を石で作ることができない場合には、祭壇のうちで、ミサの際に司祭がカリスとホスチアを置く場所には、少なくとも、小さくて平らな石を挿入しなければなりません。この石は「祭壇石」と呼ばれます。

教会は通常、祭壇を墓の形に作ります。これには二つの理由があります。第一は、聖墳墓と私たちの主イエズス・キリストのご復活を思い起こすためです。第二は、最初の数世紀の迫害の間、カトリック信者がローマの墓であるカタコンベに隠れなければならなかったことと、殉教者たちの墓の上でミサを捧げていたことを思い起こすためです。

祭壇の内には、殉教者たちの聖遺物が挿入されています。これも、カタコンベでのミサの日々を思い起こさせるものです。しかし、それ以上に、この聖遺物は、私たちの主イエズス・キリストと信者たちとの間の完全な愛の一致を象徴しています。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)。私たちの主イエズスは、十字架上で私たちのために命を捧げられたのであり、このいけにえがミサで更新されます。殉教者たちはイエズスへの愛のために命を捧げたのであり、彼らがイエズスのために死ぬ力を見いだしたのは、ミサを通してイエズスと一致することによってでした。ですから、殉教者たちの聖遺物を祭壇内に置くことは、ふさわしいことであり、意味のあることなのです。

ご聖櫃は、ご聖体が保管される場所です。ご聖櫃の形は、何世紀にもわたって進化してきました。今日では、塔の形をしたものが最も一般的で、よく適したものです。実際、塔は強さの象徴であり、ご聖櫃の中には強き者のパン、すなわち、ご聖体が保管されています。

ご聖櫃の上には十字架が配置されています。これはもちろん、聖なるミサが十字架のいけにえを更新するものであることを思い起こさせるためです。イエズスは、十字架上でご自身を捧げられたように、祭壇の上でご自身を捧げられます。ただ、主がなさる方法が異なるだけです。十字架上では、いけにえはカルワリオにいた人々には目に見える形であり、血が流されるものでしたが、ミサでは、いけにえは秘跡の形態のうちに隠されており、血が流されるものではありません。

2)祭壇は私たちの主イエズス・キリストを象徴する

祭壇は、司祭がミサのいけにえを捧げる場所であるだけでなく、私たちの主イエズスご自身を象徴するものでもあります。そして、このことが、ミサの典礼のいくつかを説明しています。

しかし、まず、「なぜ教会は、祭壇を、私たちの主イエズス・キリストの象徴とするのか」という質問に答えましょう。祭壇は、司祭がいけにえを捧げる場所です。しかし、イエズスの御体と御霊魂は、子なる天主が御父にご自身を捧げられる場所のようなものです。実際、子なる天主が父なる天主にご自身を捧げることがおできになるのは、天主としてではなく、人間としてです。このように、祭壇は、イエズス・キリストの人性を象徴しています。このため、祭壇には五つの十字が刻まれており、これらの十字は、私たちの主の御体に刻まれた五つの御傷を象徴しているのです。

教会が祭壇をイエズス・キリストの象徴としたのには、第二の理由があります。祭壇は、司祭が人類に代わって天主にいけにえを捧げる場所ですから、祭壇は、天主と人類の接点のようなものです。しかし、イエズス・キリストは天主であると同時に人間ですから、天主と人間の間の接点、唯一の普遍的な仲介者なのです。このように、祭壇は、仲介者としてのイエズス・キリストを象徴しています。

最後に、祭壇が私たちの主イエズス・キリストを象徴するのには、第三の理由があります。私たちの犠牲も、祈りも、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストと共に、イエズス・キリストのうちに捧げられなければ、天主をお喜ばせすることはできません。このため、教会はすべての祈りを、「Per Dominum nostrum Jesum Christum」という言葉で締めくくっています。ですから、私たちの主イエズスは、私たちが礼拝、感謝、罪の償い、祈願を捧げる祭壇のようなものなのです。

教会は祭壇を石で作るように定めている、とさきほど申し上げました。それはなぜでしょうか。祭壇は、イエズス・キリストを象徴しているからであり、イエズス・キリストは教会が建てられている礎石であるからです。聖パウロは、エフェゾ人に対してこう言っています(2章19-22節)。「あなたたちは、聖徒たちの同市民、天主の家族である。あなたたちは、使徒と預言者の土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエズス自身がその隅の親石である。主において建物全体が建てられ、主において聖所に発展する。主においてあなたたちも、天主の住まいとなるために、聖霊によって建てられる」。

祭壇は、3枚の布で覆われています。これには、実際的な理由があります。すなわち、司祭が誤って尊き御血をこぼしてしまっても、これらの布に吸収され、地面に流れないようにするためです。しかし、布は、祭壇の両側の地面に届くほど長くする必要はありません。これらの布には象徴的な意味があります。祭壇は、キリストを象徴しています。祭壇は、聖墳墓を思い起こさせる墓の形をしています。布は、聖骸布とキリストのご遺体が包まれた葬儀用の亜麻布を象徴しています。

祭壇を飾るすべての装飾品は、私たちの主の美しさと栄光を思い起こさせるものです。そのため、降誕祭や復活祭、聖霊降臨祭など、私たちの主の最も栄光ある称号をお祝いする一級祝日には、私たちは祭壇をさらに多くの装飾品で飾ります。その反対に、聖金曜日には、キリストがご受難の間、いかにご自身からすべての栄光を取り去られたかを示すために、祭壇からすべてのものが取り去られるのです。

3)司祭の祭壇への身振り

祭壇が私たちの主イエズスを象徴していることを理解すれば、聖なるミサのときの司祭の身振りのいくつかを理解することができるでしょう。

司祭は、ご復活後のイエズスの御足に聖なる婦人たちが接吻したように、敬意をもって祭壇に接吻します。

司祭は、信者の方を向く前に、祭壇に接吻して私たちの主イエズスと一致します。そのあと、司祭は、「Dominus Vobiscum」と唱えたり、最後の祝福を与えたりして、主を信者に与えます。

香を祝別するとき、司祭は左手を祭壇に置き、右手で祝別します。これは、司祭が与える祝別が、私たちの主イエズスから来ることを表しています。

マグダラの聖マリアが、イエズスの葬りを告知するためにイエズスに香油を塗った(ヨハネ12章7節)ように、司祭は、聖変化の前に香の煙を祭壇に撒きます。

司祭は祭壇に香を捧げ、香の香りを、祭壇から天に向かって立ち上らせます。これは、イエズス・キリストの父なる天主への祈り、特に主の十字架上の祈りを象徴しています。

結論

親愛なる信者の皆さん、カトリックの典礼は信仰と霊的生活の学校です。典礼をさらによく理解するように努めましょう。そうすれば、聖なるミサをさらに深く祈ることができるでしょう。


煉獄の霊魂たちは、煉獄の恐ろしい苦しみで罪の償いをし、天主を愛することを学ぶ。苦しみを受け入れることが天主をお喜ばせすることを知り、霊的な喜びをもって苦しむ。

2023年11月23日 | お説教・霊的講話

あわれな霊魂が煉獄での苦しみをどのように耐え忍んでいるかについての説教

ドモルネ神父 2023年11月12日

はじめに

今月11月は、煉獄の霊魂がどのようにして苦しみに耐え忍んでいるかについてお話ししたいと思います。彼らは、私たちが地上での苦しみにおいて見習うべき模範なのです。

1.煉獄の役割

煉獄とは、天国に入る前に、苦しみによって清められる場所のことです。煉獄に行く人々は、成聖の恩寵の状態で死んだものの、自分の罪の償いが十分にできていなかった人々です。自分の罪を償うとは、どういう意味でしょうか。それは、心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして天主を愛するために、すべての自己中心と罪への愛着から自分を清めることを意味します。具体的に言えば、償いを行うのは、大斎や小斎のような自発的な自己否定によって、また疲労があったり無関心であったりするにもかかわらず、自分の義務を十分に果たすよう自らに強いることによって、また病気や事故のような人生の試練に我慢して耐えることによって、また怠惰や反感にもかかわらず、隣人に対する愛徳のわざを行うようにすることによってです。償いを行うことは必要です。私たちの主イエズスは、こう言われました。「償いをしないなら、あなたたちもみな、同じように滅びる」(ルカ13章5節)。

苦しみがあるにもかかわらず償いを寛大に行う人々は、天主への愛が深まり、人生の終わりには、直接天国に行きます。一方、償いを十分に行わない人々は、霊的に生ぬるいままです。彼らの天主への愛は、多くの自己中心と地上の物に対する乱れた愛着と、混在したままです。そしてそのため、彼らが死ぬときには、すぐに天国には行けません。なぜなら、天国には、完全な天主への愛しかないからです。

したがって、煉獄は死んだ後の清めの場所であり、そこで霊魂は、すべての乱れた自己愛から清められ、天主を完全に愛することを学びます。この清めと学びは、神秘的な火の中での苦しみを通して行われます。黄金が炉の火の中で清められるように、霊魂は煉獄の火の中で清められるのです。

煉獄の霊魂は、私たちの想像を絶するほど激しく苦しんでいます。これが、神学者たちの一般的な教えであり、地上に出現した煉獄の霊魂たちが明らかにしていることです。しかし、苦しみの激しさにもかかわらず、煉獄の霊魂は平安のうちに、さらには喜びさえもって苦しんでいます。このことを理解するためには、私たちはまず、天主の御摂理の計画における苦しみの役割を思い起こす必要があります。

2.私たちの人生における苦しみの役割

人間は、天主の善意によって創造されたため、原罪以前は、苦しみや死を受けませんでした。苦しみと死は、原罪と私たち個人の罪の結果です。そして、これは正当なことです。実際、罪を犯すこととは天主の法に背くことであり、天主のご意志よりも自分の意志を優先させることです。言い換えれば、それは天主を愛することを拒否することです。私たちの主は、私たちにこう言われました。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は、父にも愛され、私もその人を愛して、自分を現す」(ヨハネ14章21節)。罪の罰は、罪の反対の動き、つまり自分自身の意志に反することを負うことにあります。これが苦しみなのです。

苦しみは、私たちの罪に対する正当な罰です。そのため、限りなく正当である天主は、洗礼の後でも、私たちの人生から苦しみを取り除かれることはありません。しかし、天主は、その限りない知恵と慈悲において、苦しみを私たちの霊的解放の手段、つまり、私たちが乱れた自分自身への愛から天主への愛へと立ち戻る手段、私たちが失ったもの、すなわち永遠の幸せを私たちが取り戻す手段とされたのです。そのため、私たちを限りなく愛し、私たちが永遠に幸せになることを望んでおられる天主は、私たちが苦しみを受けることを望んでおられるのです。良い医者が、患者のために、患者を癒やす苦い薬を望むように、天主は、私たちのために、私たちを霊的に癒やす苦しみを望んでおられるのです。幼きイエズスの聖テレジアは、このことを特別に単純かつ深淵に説明しています。彼女はこう問います。「私たちが苦しむとき、私たちを愛しておられる善き主が喜ばれるということが、どうしてありえるのでしょうか」。そして彼女はこう答えます。「いいえ、私たちの苦しみが主をお喜ばせすることは決してありませんが、このような私たちの苦しみは、私たちにとって必要なものです。ですから天主は、まるで御顔を背けられるかのように、つまりご意志に反するかのように、その苦しみが起こるのを許されるのです」。聖テレジアは、こうも言っています。「天主は、私たちが涙の泉から飲むようにすることを好まれませんが、それが、天主がご自分を知っておられるように私たちが天主を知り、私たちが天主のようになるための準備を私たちにさせる唯一の方法であることを知っておられます」(セリーヌへの手紙、LT57)。

天主は、御摂理によって、私たちを永遠の幸せへと導かれます。そして、苦しみは私たちの聖化のために必要な手段であるため、既に述べたように、天主は、私たちが自発的に償いをすることを期待しておられます。そして、それだけでは十分ではないため、天主は、私たちへの愛のゆえに、私たちの選択にかかわらず、一定量の苦しみを私たちに経験させられます。そして同時に、これらの苦しみに我慢して耐え忍ぶために必要なすべての恩寵を、私たちに与えてくださるのです。

御摂理のご計画によれば、私たち一人一人は、この人生の償いと苦しみを通った後、直接天国に行くはずです。私たちが煉獄に行くことは、御摂理の計画ではありません。

3.煉獄の霊魂はどのように苦しむのか

煉獄に行く人々は、自分の罪に対して十分な償いをしていない人々、すなわち、自発的な償いや慈悲のわざをすることを拒否した人々、人生の試練のせいで天主に反抗した人々、または試練に耐えかねた人々です。彼らの心は、利己主義から完全に清められてはいないのです。

死んだ後の私審判のとき、これらの霊魂は、自分がいかに利己主義に染まっているか、そして自分が天国に入り聖三位一体の愛の命にあずかるに値しないことを知ります。彼らは、苦しみこそが、自分たちを利己主義から清めるために必要な手段であり、唯一の手段であることを理解します。彼らは、苦しみが、天主を完全に愛することを学ぶための学校だということを理解します。そこで彼らは、煉獄の恐ろしい苦しみに身を投げ出し、そこで罪の償いをし、罪に対するすべての乱れた愛着を取り除き、心を尽くし、力を尽くし、霊魂を尽くして天主を愛することを学びます。彼らはひどく苦しみますが、清めが完了するまでは自由になりたくないため、忍耐強く苦しみます。彼らはひどく苦しみますが、天主がこの方法で癒やしてくださることを知っているため、平安のうちに苦しみます。彼らはひどく苦しみますが、喜びをもって苦しみます。どうして喜びをもって苦しむことが可能なのでしょうか。もちろん、それは感覚的な喜びではありません。なぜなら、苦しみは、必然的に悲しみや重荷を負う感情を意味するからです。それは霊的な喜びであり、愛徳の実であり、自分の愛する者を幸せにする喜びです。煉獄の霊魂がこの喜びを持つのは、天主を愛しているからであり、また自分が苦しみを受け入れることが天主をお喜ばせすることを知っているからです。

結論

親愛なる信者の皆さん、煉獄の霊魂がいかに苦しむかについて私が今述べたことが、私たちが地上での人生の中でいかに償いを行うべきか、私たちの人生の中で天主が許される苦しみにいかに耐えるべきか、を示しています。あわれな霊魂たちは、自分たちの聖化のために償いと苦しみが果たす役割を理解します。しかし、それは少し遅かったのです。地上での人生において天主が彼らに求められた償いは、はるかに小さいものでした。私たちは同じ過ちを犯さないようにしましょう。

天主が煉獄の霊魂の清めの時間を短くしてくださるよう、ミサ、聖体拝領、ロザリオ、犠牲、愛徳と施しの行いを天主に捧げることによって、煉獄の霊魂を助けましょう。そのお返しに、煉獄の霊魂は、私たちがいつか、煉獄を通らずに直接天国で彼らに会えるように、私たちが忍耐をもって、平安と霊的な喜びのうちに、私たちの人生の苦しみを耐えることができるよう、私たちを助けてくれることでしょう。


煉獄は、少なくとも贖罪のための通常の場は、地の下に位置しており、煉獄の霊魂たちと呪われた霊魂たちは、同じ地下の空間に、つまり聖書が地獄と呼ぶ深い所にいる

2023年11月21日 | カトリックとは

「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」
フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著
第一部 煉獄、正義の神秘

第4章

煉獄の場所 - 神学者たちの教え - トレント公会議の公教要理 - 聖トマス・アクィナス

信仰は、煉獄の場所について正確なことは何も教えていないが、最も一般的な意見、すなわち聖書の言葉と最もよく一致し、神学者の間で最も一般的に受け入れられている意見は、呪われた者が落ちる地獄からそう遠くない地の底に煉獄を置くというものである。聖ロベルト・ベラルミンによれば、神学者たちはほぼ全員一致で、煉獄は、少なくとも贖罪のための通常の場は、地の下に位置しており、煉獄の霊魂たちと呪われた霊魂たちは、同じ地下の空間に、つまり聖書が地獄と呼ぶ深い所にいる、と教えている(1)。(1) De purgatorio. lib. 2. cap. 6.

使徒信経で、イエズス・キリストは死後、地獄【日本語では誤解を避けるために「古聖所」と訳されている】に下られた、と言うとき、トレント公会議の公教要理(1)は、「地獄【古聖所】という語は、まだ天国の永遠の至福を得ていない霊魂たちがとどまる隠れた場所を意味する。しかしこのような場所は全部、同一種類のものではない。そのうちのあるものは恐しい暗い牢獄で、断罪された人々の魂はそこで汚れた霊たちと一緒に永遠に消えない火によって苦しめられている。これはゲヘンナ、深い淵とも呼ばれ、厳密な意味での地獄である。つぎに煉獄の火がある。そこでは、敬虔な人々の霊魂がいかなる汚れも受け入れない永遠の天の祖国に入るため、一定の期間、苦しみを受けるところである。第三の場所は、キリストの到来前の聖人たちの霊魂がとどまっていたところで、かれらはそこで何らの苦痛も感じることなくあがないの希望に生き、平和な生活を楽しんでいた。キリストは古聖所にお下りになり、アブラハムのふところにあって救い主を待っていたこれの敬虔な人々の霊魂を解放した。救い主の現存は、直ちに捕われ人たちに輝かしい光をもたらし、かれらの霊魂を無限の喜びと歓喜をもって満たし、天主を直観するというあれほど望んでいた至福を分け与えた。こうして、主が改心した盗賊に対して「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」とおおせられて約束されたことが実現した。」

聖トマス(2)は言う。「煉獄の償いのために二重の場所があるというのは、非常にありうることである。第一の場所は、一般的な霊魂たちのためのものであり、地獄に近い所、地の下にある。第二の場所は特殊なケースのためのものであり、そこで多くの【煉獄の霊魂たちの】出現が起こったのであろう」。これは多くの聖人たちの言葉や、特別な【私的】啓示に対応した答えになる。- それゆえに聖なる博士【聖トマス・アクィナス】は、他の多くの人々と同様に、天主の正義が特定の霊魂の浄化に特別な場所を割り当てることがあり、生きる者を指導するため、あるいは死者に必要な祝福を与えるため、あるいは天主の知恵と憐みにふさわしい他の理由のために、それらの霊魂の出現を許すことがある、と認めている。

これが煉獄の場所に関する教義の概略である。私たちは論争のある問題点は取り扱わないので、その論証も反論も付け加えはしない。スアレスやベラルミンのような著者の著作を読めばわかることである。地獄が地の下にあるという意見は、現代科学を何も恐れるに及ばないということを指摘するだけにしよう。純粋な自然科学は、このような超自然的秩序に属する問題には無力である。

さらに、霊魂という霊は、物体が存在しないかのように、物体が占める場所にいることができることを知っている。したがって、地質学者がよく言うように、地球の内部が火の海であろうと、その他の状態であろうと、地球の内部が霊魂、それも復活した肉体をまとった霊魂の住処となることを妨げるものは何もない。

使徒聖パウロは、空気中には多くの闇の霊【悪霊】が満ちていると教えている。私たちは闇の力、すなわち大気中に蔓延する悪霊と戦わなければならない(3)。一方、私たちを守ってくれる善良な天使たちも、この世界では決して少なくないことを知っている。さて、もし天使たちや他の霊たちが、物理世界を全く変化を起こさせないで大気中に住むことができるのならば、なぜ死者の霊魂たちが大地の下の懐に留ることができないようなことがあるのだろうか。

(1) Catech. Rom. cap. 6. §1. — (2) Supplém. Part. 3. Quest. Ult. — (3) Ephes. VI, 12.


煉獄という言葉の意味、煉獄にいる霊魂の状況

2023年11月21日 | カトリック・ニュースなど

「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」

フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著

第一部 煉獄、正義の神秘

第3章

煉獄という言葉 - カトリックの教義 - トレント公会議 ー 論争されている問題点

煉獄という言葉は、地獄と天国の中間的な場所を意味することもあれば、状態を意味することもある。これは、死の瞬間に、自分自身が成聖の恩寵の状態にあるが、自分の過失を完全に償ったのでもなく、天主を至福直感で見ることを享受するのに必要な清さの程度に達したわけでもない霊魂の状況である。
したがって、煉獄は一時的な状態であり、至福の生命で終わる。煉獄は、もはや、功徳を積んだり、罪を犯したりする試練ではなく、正義を満足させる償いの状態なのである。この世の死すべき生は試練の時であり、霊魂が功徳を積む時であり、天主の憐みの時であった。この時が過ぎれば、天主には正義があるだけであり、霊魂はもはや功徳を積むことも反省することもできない。霊魂は死の時にあったそのままの状態に固定され、聖化された恵みの中に見出されたのならば、この至福な状態から落ちることはなく、天主を変わることなく所有するに到ることは確実である。しかし、霊魂は一時的な罰という負債を負っているため、あらゆる厳罰を受けることによって、天主の正義を満足させなければならない。
これが煉獄という言葉の意味であり、煉獄にいる霊魂の状況である。

ところで教会は、このことについて、信仰の教義によってはっきりと定義された二つの真理を提示している。第一に、煉獄が存在すること、第二に、煉獄にいる霊魂たちは信者の祈り、特にミサの聖なる犠牲によって助けられること、この二つである。

これら2つの教義上の問題に加えて、教会が決定していないいくつかの教義上の問題があり、それらは博士たちによって多かれ少なかれ明確に解決されている。それらの問題とは次に関することである。1.煉獄の場所、2.罰による苦しみの本性、3.煉獄にいる霊魂たちの数とその状態、4.煉獄にいる霊魂たちの救霊の確実性、5.罰による苦しみの期間、6.煉獄の霊魂たちのために地上に生きている人々ができる介入、さらに、教会の祈りの適用である。


【参考情報】テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

2023年11月21日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

Terry Barber reveals US nuncio Cardinal Pierre told Bishop Strickland ‘there is no deposit of faith’

テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

テリー・バーバーは、教皇フランシスコの駐米教皇大使であるクリストフ・ピエール枢機卿が、ストリックランド司教に「信仰の遺産について話すのをやめるべきだ。信仰の遺産はない」と述べたと言う。
エミリー・マンジャラシーナ

米東部標準時間2023年11月13日午後3時13分

(LifeSiteNews)―「Virgin Most Powerful Radio」(力ある童貞ラジオ)のテリー・バーバーは【2023年11月12日】日曜日に、教皇フランシスコの駐米教皇大使であるクリストフ・ピエール枢機卿が、3年前にジョゼフ・ストリックランド司教に対して「信仰の遺産はない」と語ったことを明らかにしました。

バーバーは、自分のラジオ番組「ストリックランド司教の時間」で、忠実で、最近退任させられたこのタイラーの高位聖職者と定期的に話をしていますが、ストリックランド司教によれば、ピエールは米国カトリック司教協議会の会議で、「ショッキングな」主張をしたと言いました。

「ストリックランド司教が私に伝えてくれましたが、…ピエールは(彼に)面と向かってこう言いました。『信仰の遺産について話すのをやめるべきです。信仰の遺産はありません』と」。

「さて、教皇大使が信仰の遺産はないと言うのを聞いて、それがどれほどショッキングなことか想像できるでしょう」とバーバーは言いました。「それは単に私の意見ではありません。それは教会の教えなのです」。

カトリック教会のカテキズムは信仰の遺産について明確に言及しており、「聖書と聖伝の中に含まれる信仰の『聖なる遺産』(depositum fidei)は、使徒たちによって教会全体に託されています」と述べています。

このラジオ司会者は、ストリックランド司教のための祈りと同時に、カトリック教会の指導者たちのための祈りと償いを求めました。

「彼は重い十字架を背負うことになり、聖人たちが真理を語ったために迫害されたように、彼も迫害されているのです」とバーバーは言い、リスナーに教皇フランシスコが決定を覆し、自分の役割が「群れを守ること」であることを理解するようになるよう祈ってほしいと続けました。

「それがなされていません。信仰の遺産を弱体化させる近代主義者の司教たちが世界中にいるのに、彼らには何もなされないのです」とバーバーは言いました。

実際、異端を推進する近代主義者の聖職者たちは、教皇フランシスコによって頻繁に昇進させられてきました。直近では、教皇フランシスコが選んだシノドスの投票メンバーに、LGBT推進やその他の異端的なスタンスで知られる聖職者や、ラテン語ミサへの反感を持つ聖職者が含まれていることからも明らかです。

一方、プエルトリコのアレシボ教区のカトリックの教えを率直に主張するダニエル・フェルナンデス・トーレス司教のような忠実な牧者は処罰されています。フェルナンデス・トーレス司教は、教皇フランシスコから説明もなくその地位を解任されており、報道によれば、新型コロナウイルスのワクチン義務に対する良心からの異議申し立てを支持したためだといいます。

バーバーは続けて、「私は、教会の指導者たちにそれが容認できないことを知らせるために、教会法212条を行使しているのです。私たちは、自分の群れのために命を捨てることを厭わない司教を求めています。妥協は求めません」と宣言しました。

教会法212条は、「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由がある」とし、また「各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権限及び時として義務を有する。同時にまた、…自己の意見を他のキリスト信者に表明する権利及び義務を有する」と述べています。

バーバーは、信者が「私たちがこのことに満足していないことを、バチカンに伝える必要がある」と考えています。

教皇フランシスコは11月11日(土)、理由を述べることなく、ジョゼフ・ストリックランド司教を、テキサス州タイラー教区の司教としての役割から解任した、と聖座の日報で発表しました。

フランシスコは、米国で最も率直で発言力のある司教の一人に対して、衝撃的な行動を取りました。同司教は、聖伝のカトリックの教えを推進することで教区内外から大きな支持を集めてきました。

ストリックランド司教の道徳的・教理的問題に関する公の立場には、教皇の「信仰の遺産を弱体化させるプログラム」を非難したり、ジェームズ・マーティン神父(イエズス会)による著名なLGBT推進の「冒涜」を非難したり、中絶支持をめぐるナンシー・ペロシ前米下院議長の聖体拝領を拒否するようフランシスコに求めたりするものがあります。

また、バイデン政権によるカトリック教徒へのスパイ行為や、自称「悪魔崇拝」グループによる公の場での展示など、米国の政治や文化における道徳的な論争にも率直な意見を述べています。今年の夏には、ロサンゼルス・ドジャースが、グロテスクな修道女に扮した「Sisters of Perpetual Indulgence」と呼ばれる反カトリックのドラッグ・クイーン劇団を主催したことに対する抗議デモで演説しました。

自分の解任のニュースに対するストリックランド司教の反応は驚くほど穏やかなものでした。その直後、彼はLifeSiteNewsの編集長ジョン・ヘンリー・ウェステンに、「私は、私に対する不平として挙げられたすべてのことを支持します。『トラディティオーニス・クストーデス』(Traditionis Custodes、聖伝のラテン語ミサを制限する教皇フランシスコの教令)を私が実施しなかったことは承知しています」と述べました。

ストリックランド司教は、「私は主と、主がそのために亡くなられた真理において、とても平安を感じています」と付け加えました。


死者のための祈り。- 死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。

2023年11月20日 | カトリック・ニュースなど

第一部 煉獄、正義の神秘

第2章

死者のための祈り。- 恐れと信頼。
死者のための祈り、死者のためのいけにえや祈りは、すべてキリスト教の礼拝の部分をなす。煉獄の霊魂への信心は、聖霊が愛徳をもって信者の心に広める信心である。聖書によれば、死者が罪から解放されるように、死者のために祈ることは、聖なる有益な考えである(1)。
(1) II マカベオ12:46

それが完全であるためには、死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。一方では、天主の神聖さとその正義が、私たちに有益な恐れを抱かせ、他方では、天主の無限の憐みが、私たちに限りない信頼を与えてくれる。

天主は、太陽が光である以上に聖であり、その御顔の前には罪の陰であっても全くありえない。あなたの目は清く、御目は不義を見るに耐えられない、と預言者は言う(1)。だから、被造物に不義が起こるとき、天主の聖性はそれに対する贖いを求める。この贖いが正義の厳しさをもってなされるとき、それは恐ろしいものとなる。この贖いが正義の厳しさを尽くしてなされるとき、それは恐ろしいことである。だから聖書はまた、「天主の御名は聖く、恐ろしい(2)」と言うのである。あたかも聖書は天主の正義は、その正義が無限であるので恐ろしい、とでも言っているかのようである。

天主の正義は恐るべきものであり、どんなに些細な過ちであっても極めて厳しく罰せられる。その理由は、私たちの目には軽いこれらの過ちも、天主の前ではまったくそうではないからである。ほんの些細な罪も、天主にとっては無限に不愉快なものであり、無限の神聖さを害されるため、ほんの些細な違反が巨大な割合を占め、巨大な償いを必要とするのである。これが、あの世での罰の恐るべき厳しさを説明するものであり、私たちを聖なる恐れで満たすべきものなのだ。

煉獄の恐れは救いに有益な恐れである。その効果は、苦しむ霊魂に対する愛徳に満ちた同情心だけでなく、自分自身に対する警戒心に満ちた熱意を私たちに起こさせることだ。煉獄の火を思い浮かべれば、些細な過ちも避けようとするだろう。煉獄の火を思い浮かべれば、償いを実践し、来世よりも現世で天主の正義を満足させようとするだろう。

しかし、過度の恐れに注意し、信頼を失わないようにしよう。天主の憐みを忘れてはならない。天主の憐みは天主の正義に劣らず無限である。「主よ、あなたの慈しみは天の高さにまさる(3)」と預言者は言い、また別の箇所では、「主は慈しみと寛容に満ち、忍耐強く、惜しみなく慈しんでくださる(4)」とある。この計り知れない慈しみは、私たちの強すぎる不安を鎮め、聖なる確信で満たしてくれるはずだ。In te Domine speravi, non confundar in aeternum. 主よ、私は御身に希望した、永遠に恥ずることなからん。

もしも私たちがこの二つの感情に基づくならば、つまりもしも、天主の憐みに対する信頼が、天主の正義がわれわれに抱かせる恐れと同じであるならば、われわれは死者に対する真の信心の精神を持つことになる。
さて、この二重の感情は、正しく理解すれば、正義と憐みの二重の神秘を含む煉獄の教義から自然に引き出される。この2つの観点から煉獄を考察し、その教義を説明しよう。

(1) ハバククI, 13 - (2) 詩篇110篇。- (3) 詩篇107篇 - (4) 詩篇144篇。- (5) 詩篇70篇。


天主の計画における煉獄:天主は私たちに、死者のための祈り、煉獄の霊魂への献身という、彼らの神秘的な牢獄への鍵を与えてくださった

2023年11月20日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」の一部をご紹介いたします。

第一部 煉獄、正義の神秘

第1章

天主の計画における煉獄。
煉獄は、私たちの聖なる宗教(カトリック)において重要な位置を占めている。それは、イエズス・キリストの御業の主要な部分の一つを形成し、人間の救いの経綸において本質的な役割を果たしている。
聖なる天主の教会は、その全体として考えると、三つの部分、すなわち、戦闘の教会、凱旋の教会、苦しみの教会つまり煉獄、から構成されていることを思い起こそう。この三重の教会はイエズス・キリストの神秘体を構成し、煉獄にある霊魂は、地上の信徒や天上の選民と同様に、その構成員である。
福音書において教会は通常、天の王国と呼ばれる。煉獄も天国や地上の教会と同様、その広大な王国の一地方である。
3つの姉妹の教会は互いに絶え間ない関係を持ち、諸聖人の通功と呼ばれる絶え間ない交わり(コミュニケーション)を行っている。これらの関係は、すべての選民が目指す最終目標である栄光へと霊魂を導くことであって、それ以外に目的はない。3つの教会は、永遠の都、栄光のエルサレムである天国に住むために、互いに助け合っている。
私たち地上の戦闘の教会の信徒が、煉獄の霊魂とどのような関係にあるかと考えれば、それは彼らの苦しみを助けることである。天主は私たちに、死者のための祈り、煉獄の霊魂への献身という、彼らの神秘的な牢獄への鍵を与えてくださったのだ。


大阪では追加のミサがあります:11月19日から22日まで。名古屋では11月23日にミサがあります。

2023年11月16日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪では追加のミサがあります。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 11月19日 日 【大阪】 18:00 ミサ聖祭
 11月20日 月 【大阪】 06:30 ミサ聖祭
 11月21日 火 【大阪】 18:30 ミサ聖祭
 11月22日 水 【大阪】 06:30 ミサ聖祭

【名古屋】

名古屋において聖伝の典礼にご招待いたします。11月は11月23日です。

場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
日時:11月23日(勤労感謝の日) 09:50 ロザリオ及び告解  10:30(午前10時30分) ミサ聖祭
場所は松屋の入っているビルの6階です。

 11月23日 木 【名古屋】 10:30 ミサ聖祭


東京では11月26日から新しい場所で主日のミサが捧げられる予定です:Our Sunday mass location will be moving, starting on November 26.

2023年11月16日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

東京では11月26日から新しい場所で主日のミサが捧げられる予定です。
新しい聖堂の内装工事は、その後も数週間かけて行う予定です。ご不便をおかけしてしまいます。床もカーペットなどまだ何もありません。座布団やクッションのようなものをご持参されることをお勧めいたします。ご了承お願い致します。
新しい聖堂の住所: さいたま市大宮区東町2ー256ー8 林ビル2F

Google マップ: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
※ JR 大宮駅から北東方向に1キロメートルほど歩いたところにある、ベージュ色の3階建のビル、林ビルの2階です。

大宮駅まで: JR 大宮駅へは、JR 宇都宮線・高崎線で東京駅から 31 分、上野駅から 25 分です。
大宮駅から: JR 大宮駅東口から、北東方向に歩いて約 14 分です。(ファイル New Chapel in Omiya-20231009.pdf をご覧ください)

大宮駅から新しい聖堂へ歩いての行き方ファイル:Walking from Omiya Station to the New Chapel

Dear Brethren,

Our Sunday mass location will be moving to the new chapel in Omiya, starting on November 26.  Although some internal works are still to be completed over the next several weeks, we will be having Sunday masses there going forward, from Sunday, November 26.
 
Please also note that the mass location for the next Sunday (November 19) will remain Iriya Hall 2F.

*****New Chapel in Omiya***** 

From November 26, 2023, we will celebrate Sunday Masses at the new location: 

Address: Hayashi Building 2F, 2-256-8, Azuma-chô, Ômiya-ku, Saitama City
Google Map link: <https://goo.gl/maps/3AiQkmFkdGYtVC2B6>
* The chapel is on the 2nd floor of Hayashi Building, a beige-colored 3-story building, located approx. 1 km north-east of JR Ômiya Station.
To Ômiya Station: JR Ômiya Station is a 31-minute train ride (on JR Utsunomiya Line or JR Takasaki Line) away from JR Tôkyô Station, or a 25-minute ride from JR Ueno Station.

From Ômiya Station: From the East Exit of JR Ômiya Station, walk approximately 14 minutes in the north-eastern direction to reach the chapel. (Please see the file New Chapel in Omiya-20231009.pdf.)

File : Walking instruction from Omiya station to the New Chapel


聖遺物は私たちに、聖人たちが行ったことやキリストへの愛のために耐え忍んだことを思い起こさせ、私たちがその模範に倣うよう、勧める

2023年11月14日 | お説教・霊的講話
聖人の聖遺物についての説教(判事の書第十九章)
 
ドモルネ神父 2023年11月5日
 
はじめに
 
諸聖人の祝日にあたって、聖人たちの聖遺物を、信者の信心のために一週間程度顕示するという伝統があります。今日はその週にあたりますから、聖書の判事の書第19章を通して、聖人たちの聖遺物についてお話ししたいと思います。この書は、歴史的な書です。つまり、この章に記録されている物語は、本当に起こったということです。これは、恐ろしい物語です。しかし、そこに含まれている霊的な意味は、驚くほど意義深いもので、聖人たちへの私たちの信心を奨励するのに適したものです。
 
1. 物語
 
エフライムの部族に属するあるレヴィ人が、ユダの部族の女性と結婚しました。その後、この女性は夫に対して不忠実になり、自分の両親の家に帰ってしまいました。4ヶ月後、その女性とよりを戻すため、このレヴィ人は彼女のところに行きました。すると彼は、妻と妻の両親に歓迎されました。しばらくして、二人の関係は完全に元に戻りました。そこで、このレヴィ人と妻は、自分たちの家に戻ることにしました。
 
その旅路は長いものでした。夜遅く、二人はベンヤミンの部族のガバアの町に着きました。このレヴィ人は、ガバアの住民たちが、ユダヤ人であり、選ばれた民の一部であるにもかかわらず、酷く邪悪な者たちであることは知りませんでした。この住民たちは、ソドマやゴモッラの人々のように、道徳的に腐敗していたのです。二人は、この地に住む他の部族の老人に歓待されました。
 
二人がこの老人の家で食事をとっていると、邪悪な者たちの一団がその家を取り囲み、その老人にこう言って脅しをかけました。「お前の家に入った男を出せ、その男を打ちのめしてやる。」その老人はこれを拒み、彼らにそのようなおぞましいことをしないよう説得しようとしましたが、無駄なことでした。遂にこのレヴィ人が「自分の女を彼らのところに連れてくると、彼らは彼女に乱暴をはたらいた。」(判事の書19章25節)この女は酷い暴行を受け、翌朝亡くなってしまいました。
 
するとこのレヴィ人は、妻の遺体とともに自分の家に戻り、刃物をとって、その遺体を十二の部分に切り分け、それをイスラエルの十二の部族に送り、起こったことを伝えました。もちろん、この遺体の一部を受け取ってその話を聞いた人は皆、ショックを受けました。人々は怒り狂い、ベンヤミンの部族に対して、罰として戦争を仕掛けることとし、その戦いに完全な勝利を収めました。これがその物語の概要です。
 
教会がこのような恐ろしい物語を聖書の中に記録したのは、明らかに、それに関わる霊的な教訓があるからです。聖パウロの言葉を思い出してください。「前にかきしるされたすべてのことは、私たちへの教訓のために書かれたものであって、聖書の教える忍耐と慰めとによって、希望をもたせるためである。」(ローマ15章4節)教父たちは、この物語の霊的な意味を、私たちに教えています。
 
2. 物語の霊的な意味
 
このレヴィ人は天主のかたどりで、その妻はユダヤ民族のかたどりです。レヴィ人がその妻と結婚したように、天主はイスラエルとの間に特別な盟約を結ばれました。その妻が主人に対して不忠実となり、自分の両親の家に戻ったように、ユダヤ人は天主に対して不忠実となり、自分たちの父親、つまり悪魔の下に戻りました。実に、私たちの主イエズスは、ユダヤ人の指導者たちに対してこう言われました。「あなたたちは、悪魔を父にもっている。」(ヨハネ8章44節)
 
しかし、このレヴィ人が妻を愛し続け、妻を自分の家に戻すためにユダの地にまで行ったように、天主はユダヤ人たちを愛し続けられました。聖三位一体の第二のペルソナが、ユダヤ人たちが再び天主を愛すよう、天から地上に降りて、ユダのべトレヘムに行かれたのです。
 
このレヴィ人が妻の愛を取り戻し、自分の家まで連れ帰ったように、私たちの主イエズスは、ご自分の使徒たちや弟子たちの心の中に、天主への愛を起こされました。主は、彼らの上に、ご自分の神秘的で汚れのない花嫁であるカトリック教会を建てられ、ご自分の家である天国へと、教会を導いておられます。
 
ガバアの邪悪な者たちが、そのレヴィ人を捉えて暴行しようとしたもののかなわなかったように、キリストの全ての敵たちは、時代を通じてキリストの名声を汚し、キリストの教えを腐敗させようとしたものの、それはかないませんでした。
 
そのレヴィ人が、妻をガバアの邪悪な者たちの手に渡してしまったように、キリストも天国に戻られ、ご自分の神秘的な花嫁である教会を、敵たちの手に渡されたかのようです。実際、時代を通じて、キリスト教徒たちは数多くの迫害に耐えねばならず、また様々な方法で拷問にあい、暴行を受け、殺されました。
 
このレヴィ人が、イスラエルの人々が正義を守るために立ち上がるよう、妻の遺体を部分に切り分け、それをイスラエル全土に送ったように、私たちの主は、地上におけるご自分の聖職者たちを通じて、聖人たちの体を切り分けられ、それを世界中に送られました。聖人たちの聖遺物は、キリストの敵たちの邪悪さを証言し、世界中のカトリック教徒を、キリストとキリストの教えを守るため、必要なら死に至るまで、立ち上がるよう鼓舞するのです。このことに関して、アリウス派の異端が教会を苦しめていた時、聖アタナシウスがカトリック教徒たちに述べたことを覚えておくのが良いでしょう。聖アタナシウスの言葉は、教会を内側から破壊している近代主義という恐ろしい異端に直面している私たちにも当てはまります。「このレヴィ人の不幸は、今教会に起っている災厄に比べれば、小さなことのように見える。この災厄は、我らがこれまで聞いたこともないもので、これほどの大きな苦しみを耐え忍んだ人は、いまだかつていなかった。この物語においては、ただ一人の女が暴行を受け、ただ一人のレヴィ人がそれに憤慨した。今暴行を受けているのは教会全体であって、憤慨しているのは教会組織全体である。この物語においては、各部族は殺された女の遺体の一部分を見たのみであったが、それで義憤に立ち上がるに十分であった。しかし今、教会の全ての民は散り散りばらばらになっている…。であるから、皆の一部に対してなされる不正義が全員に対してなされたかのごとくに、何とぞ皆立ち上がってもらいたい。皆、自らが義憤を感じたかのごとくに、我らの助けに急ぎ来たれ。教会の聖なる正典や信仰が地に落ちることを許してはならぬ。」聖アタナシウスが、アリウス派に対するカトリックの信仰の擁護のために全てのカトリック教徒の助けを必要としたように、聖ピオ十世会は、近代主義に対するカトリックの信仰の擁護のために、全てのカトリック教徒の助けを必要としています。
 
結論
 
親愛なる信者の皆さん、聖人たちの聖遺物は、このレヴィ人の妻の遺体がイスラエルの人々に与えたのと同じ効果を、私たちに与えます。それは、私たちの心の中に、私たち自身の罪を償い、私たちの社会の内でのキリストの権利を擁護するという、正義への聖なる渇きを起こします。聖遺物は私たちに、聖人たちが行ったことやキリストへの愛のために耐え忍んだことを思い起こさせ、私たちがその模範に倣うよう、勧めるのです。
 
また、聖人たちは、特にその聖遺物を安置し、讃える人々や場所に対して、とりなされます。5世紀のカトリック司教であったテオドレトゥスは、こう言っています。「聖人たちの勇気ある霊魂は、天において、天使たちの間を自由に動く。聖人たちの体は、もはや墓の中に隠されてはおらず、町々や村々はそれを分け、持ち合っている…。聖人たちの体は分けられたが、その力は分けられてはいない。その体のいかに小さな一部であろうとも、分けられる前の体全体と同じ力を持っているのである。」
 
この聖堂にある聖遺物の聖人たちが、特に私たちのために、また大阪におけるカトリック信仰の発展のためにとりなしてくださいますように。

【参考文献】中国の信者から教皇フランシスコへの公開書簡「あなたは私たちを殺そうとしている!」

2023年11月13日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】中国の信者から教皇フランシスコへの公開書簡「あなたは私たちを殺そうとしている!」

――― あなたは、民主主義より共産主義を、資本主義より社会主義を、人間より気候を大切にしておられる!

Open Letter to Pope Francis from Chinese Faithful: "You are killing us!"

2023年11月3日(金曜日)

中国の信者から教皇フランシスコへの公開書簡「あなたは私たちを殺そうとしている!」

報道発表

親愛なるフランシスコ教皇聖下

私たち、中国の地下教会と公認教会にいる目覚めつつあるカトリック信者は、あなたが私たちの教会を裏切って、私たちの国を破壊しておられることを嘆くために、この公開書簡をあなたにお送り申し上げます。

1949年の共産党による占拠以来、今日に至るまで、数え切れないほどの殉教者たちが、聖座に忠実であり続けるために、すべてを犠牲にすることを選びました。教皇ピオ十二世、教皇聖ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト十六世は、私たちに感謝し、励まし、慰めを示してくださいました。彼らは共産主義の悪を非難し、「愛国協会」が違法であることを確認し、中国共産党との不道徳な協力に抵抗するよう戒められました。

フランシスコ教皇様、あなたは私たち忠実な信者を以下のように裏切っておられます。

  • あなたは、地下社会のために新しい司教を叙階なさっていません。あなたは、中国共産党と協力しており、忠実な信者を絶滅に追い込もうとしておられます。あなたの認可なしに「司教」を叙階し始めた者もいます。
  • あなたは、聖職者たちが政府に登録するよう励まし、そうすることで離教状態の中国共産党支配の「愛国」教会の一部となるよう奨励されました。(あなたは、陳枢機卿との会談で、公認教会の離教的性格を認められました)。
  • あなたは、7人の破門された司教たち(その内少なくとも2人には子どもがいます)を合法化して彼らを教区に配置し、忠実な地下司教を追放することで、あなたの7人の悔い改めていない中国共産党の傀儡たちのために教区を明け渡されました。
  • 失踪して最後に目撃されたのが2003年である蘇志明司教、失踪して拷問を受けた崔泰司教、20年近く自宅軟禁された刘红更(Liu Honggeng)神父、中国共産党によれば「溺死」した若く率直な蔚和平(Yu (Wei) Heping)神父、その他多くの人々を擁護するのを拒否なさいました。

刘红更(Liu Honggeng)神父

  • 中国共産党がしている、複数の教会の大規模な取り壊しや教会への子どもの立ち入り禁止(これらは公認教会に対することか地下教会に対することかを問わずになされています)に対して、あなたは非難するのを拒否なさいました。
  • あなたは、上海司教や他の公認の司教・司祭など(例えば、あなたのシノドスに出席するよう招待された人々や深セン [深圳] の张天路(Zhang Tianlu)神父ですが、彼らは習近平の無神論思想や残酷な政策を賛美しています)の違法な就任を非難しようとしませんでした。

フランシスコ教皇様、あなたは、私たちの最も愛する陳枢機卿と何百万人もの香港人を、以下のように裏切っておられるのです。

  • あなたは、中国共産党による、陳枢機卿の逮捕、裁判、そして現在の自宅軟禁を非難することを拒否されました。あなたは、彼の事件の本質を知らなかったとか無登録車に対する罰則のようなものだと思ったと主張なさいました(パロリン枢機卿はあなたにすべてを伝えたのではなかったのですか?!)。
  • あなたは、陳枢機卿が逮捕された後、ローマで開かれた世界の枢機卿の集会で、陳枢機卿への連帯や祈りを勧めることを表明するのを拒否されました。
  • あなたは、2020年、あなたの88歳の兄がローマで4日間もあなたの返事を待っていたのに、会うことを拒否されました。
  • あなたは、2020年が終わろうとするときに、香港の宗教的自由への憂慮を表明することを拒否されました。現在と過去の香港の「カトリック」指導者たちであるジョン・リーとキャリー・ラムについて、中国共産党が彼らの人権を無視し、法の支配を破壊していることに沈黙なさっています。
  • あなたは、香港の民主主義と自由のために闘い、終身刑に直面しているカトリックの大物、ジミー・ライ(75才)が収監(1日23時間独房)されていることについて、沈黙なさっています。
  • あなたは、陳枢機卿とサビオ韓大司教を中国との交渉に参加させるのを拒否されました。あなたは、元福音宣教省次官の韓大司教をローマからある島【グアム島】に追い出しました。(あなたは、パロリン枢機卿や他の官僚が、この二人の忠実な中国の子らよりも中国を愛し、中国について知っているとでも思っておられるのですか?!)
  • あなたは、陳枢機卿が次期香港司教に指名した、正統派で勇気ある夏補佐司教を【司教に任命するのを】拒否されました。その代わりに、あなたは、イエズス会の中国共産党支持者で進歩派の周司教を選び、彼を枢機卿に昇格させられました。

フランシスコ教皇様、あなたは以下のように私たちの国を滅ぼしておられるのです。

  • あなたは、中国共産党の下では、組織的で重大な人権侵害はこれまで起きておらず、今も起きていないと思っておられるのですか。あなたは、中国を除いて、他の国々を名指しで非難されました。あなたは、民主主義より共産主義を、資本主義より社会主義を、人間より気候を大切にしておられるのです。
  • プロテスタントや非キリスト教の反体制派(大量虐殺や焼身自殺を経験したチベット人やウイグル人を含みます)は、あなたが、中国共産党と結託してすべてを取り締まっているのを見ています、さらには中国国内にいるローマ・カトリック信者をも裏切っておられるのを見ています。そのため、彼らはカトリック信者を一層遠ざけています。特に福音派は、性に関する問題や宗教的無関心主義に関するあなたの言動が異端的で非道徳的だと判断しています。
  • あなたは、カトリックの社会教説が私たちの【中国内の】教会で教えられていないことをご存じないのですか。中国共産党はそれを禁じており、洗脳された信者はそれを恐れています。あなたの司教マルセロ・サンチェス・ソロンドは、2018年の中国訪問の後、「まさに今、教会の社会教説を最もよく実践しているのは中国人です」と偽りの賛美をしました。なんと邪悪なことでしょうか。
  • あなたは、中国初のノーベル平和賞受賞者である劉暁波博士の殺害や、中国のボンヘッファー【ボンヘッファーはプロテスタントの牧師でナチスに抵抗して強制収容所で処刑された】王怡牧師の投獄を非難されませんでした。あなたが軽蔑するトランプ大統領でさえ、陳枢機卿と王牧師を、特にその道徳的勇気特のために称賛しています。
  • あなたは、「私は中国を非民主的だとは思いません」だとか「(中国人は)善きキリスト教徒であり、(同時に)善き市民であることができます」などと、つまずきを与えるようなことを述べられました。あなたは、中東で独裁者たちを排除し民主主義を構築している西洋を嘲笑的に批判されました。イエズス会北京センターは、おそらく中国共産党に排斥されていない唯一の教会の団体ですが、そのウェブサイトにあるQ&Aページには、次のように書かれていて、米国人の訪問学生たちを安心させています。「共産主義の国で生活することは、民主的な政治体制の国で生活することと、必ずしも大きく異なるとは感じられません」。常識や基本的な事実に反するこれらの全ての嘘は、良心を持つすべての人間をひどく傷つけるものです。

親愛なる教皇様、私たちは自分の心配事以前に、私たちの聖にして母なる教会、より正確にはあなたの教皇職の道徳的な偽善と腐敗を最も心配しております。陳枢機卿は悲痛な真実をこう語りました。「いつか中国が自らを再建するとき、誰もカトリック教会を信用しなくなるでしょう」。私たちが切実に支援を必要としているときに、あなたは私たちを裏切られたのです。今、あなたは中国における組織的迫害への無言の協力に加えて、私たちの国を西洋の無秩序と同じ道に誘い込むであろう性的不道徳を声高に推進しておられます。(中国共産党でさえ、同性婚、トランスジェンダー、LGBTなどを推進してはいません)

教皇様、私たちはあなたの終わりのないつまずきを前にして、どこでどのように嘆願を始めればよいのか分かりません。私たちの教皇様であり、キリストの代理人であるあなたが、私たちを殺そうとしておられるなどとは信じられません。それはあなたの決断でしょうか。あなたの背後には誰かがいるのでしょうか。あなたは、中国共産党から金銭を受け取っておられるのですか、それはどのような条件なのですか。気候の権利やパンダの権利は人権よりも重要なのでしょうか。なぜあなたは悪しき者を助長し、徳のある者を迫害なさるのですか。

教皇様、多くの人が私たちに「歎願をしても犠牲をしても無駄だ、フランシスコにとってはどうでもよいのだ」と言いました。私たちにはあなたに差し上げてなだめるものは何もありません。もしあなたがこのまま私たちを裏切り破壊し続けられるのでしたら、ついには轟(とどろ)いて流れあなたの手に渡る私たちの血以外にはありません。私たちは謹んであなたに次のことを懇願し促すために叫びます。

  • 中国共産党との現在の密約を終りにしてください。その密約は、さらなる中国共産党の迫害と教会内部の混乱・分裂をもたらしました。あなたがなさるべき最も緊急なことは、中国共産党に訴えて良心の囚人を直ちに釈放させ、私たちへの迫害をやめるよう促すことです。
  • 強姦犯ルプニクや異端者ジェームズ・マーティンのような、あなたのイエズス会の友人らを昇進させたり保護したりすることをやめてください。バイデン、クリントン、ペロシ(しかしペロシでさえ、中国での人権を擁護することに生涯を費やしました)のような赤ん坊殺しへの支持をやめることです。
  • マッケルロイ、スーピッチ、トービン、フェルナンデス、周、などなどの教会の教えに忠実でない枢機卿らを排除してください。ストリックランド司教のような真理に忠実な人物への嫌がらせをやめてください(米国の多くの真の信者は、あなたのストリックランド司教へのいかなる動きにも対抗するでしょう)。
  • 悔い改めていない7人の公認司教を破門状態に戻してください。沈黙と引き換えに中国共産党からどれだけの現金を受け取ったのかを世界に向けて認めてください。霊魂たちを同性愛と過激な左翼イデオロギーの地獄に導いたことを告白し、謝罪してください。

あなたの取るに足らない、
聖座には忠誠を誓うが、中国共産党には忠誠を誓わない、中国のカトリック信者の一部

2023年10月22日、教皇聖ヨハネ・パウロ二世の祝日

追伸。

教皇様、私たちはここにあなたへの新しい贈り物を掲載します。あなたの信頼する上海司教であり、違法な中国司教協議会の会長であり、違法な中国愛国カトリック協会の副会長である沈斌によって、彼の司教区出版物「Divine Love」による最近のインタビューの中で、正直な発言がなされました。あなたはパロリンのお世辞と嘘に騙され続けることもおできになりますし、あるいは、陳枢機卿と私たち皆の涙と血に耳を傾けることもおできになります。

「1980年から2000年にかけて増加した中国人の召命がなぜ減少したのでしょうか。その理由の一つは、上の世代の聖職者たちのリーダーシップにあると思います。【1980年から2000年にかけては】彼らのカリスマ性と証しが、私たちのような若者を教会に惹きつけたのです。2000年以降、私たちは【神学校を】卒業して教会を引き継ぎましたが、私たちはおそらくうまくやらなかったのでしょう。私たちは反省する必要があります。

私はこのことを強調しなければなりません。それは、司祭、修道女、神学生、そして主要な信者は、政治において信頼でき、信仰において成し遂げられ、徳において説得力があり、重要な局面で効果的でなければならないことです。中国人民政治協商会議全国委員会の汪洋主席はこう指摘しました。『宗教指導者の育成においては、政治的資質と姿勢を重視しなければならない。これこそが[1]【有意義な一点】であり、それ以外は[0]【無価値:ゼロ】である。これはいかに重要なことだろうか。上海教区はこの分野で間違いを犯し、われわれに重大な教訓を与えた。われわれは、中国教会運営の原則である、独立、自律、自治、民主、中国化を堅持しなければならない。これは最低限の条件であり、誰も違反することはできない』と」。


【参考文献】ルイーザ・ピカレッタの著書『天上の書』と「神の御旨の霊性祈祷会」に関する韓国カトリック司教協議会の信仰教理委員会が作成した意見書

2023年11月11日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ルイーザ・ピカレッタの著書『天上の書』と「神の御旨の霊性祈祷会」に関する韓国カトリック司教協議会の信仰教理委員会が作成した意見書が発表されました。ご参考までにご紹介致します。

CBCK
韓国カトリック司教協議会-韓国カトリック中央協議会 
CATHOLIC BISHOPS CONFERENCE OF KOREA
04918 서울시 광진구 면목로 74
TEL 02-460-7500 FAX 02-460-7505 www.cbck.or.kr cbck@cbck.kr 

中協司: 第2023-662号
2023. 10. 17.
受信 韓国男子修道会使徒生活団長上協議会会長 ユ・ドクヒョン大修道院長様
韓国カトリック女子修道会会長上連合会 会長 ナ・ヒョンオ修道女様
参照: 事務局長 キム・テワン神父、シスター キム・ウムジン様
タイトル: 『天上の書』と「神の御旨の霊性祈祷会」に関する司教会の信仰教理委員会の意見書伝達

+ 主の平安が共にありますように。

これまで司牧局長会議と総代理会議では、「神の御旨の霊性祈祷会」とここで教材として使用している『天上の書』ハングル翻訳書(1-20巻、カトリック出版社発行)についての議論があり、これらの会議の要請により、司教会の信仰教理委員会は何度か会議を行い、意見書をまとめました。

信仰教理委員会は『天上の書』に現れた深刻な誤りを提示し、「公的啓示よりも私的啓示に重要な位置を与えており、深刻な誤りがあるルイーザ・ピカレッタの著書を拡散させないようにし、「神の御旨の霊性祈祷会」の集まりも中止することが教会の善益のために必要であり、ソウル大司教区で取られた出版許可も撤回することが望ましい」という意見を伝えてきました。

司教会の2023年秋季定期総会は、このような意見に同意し、信仰教理委員会の意見書を教区と修道会に伝達し、信者の注意を促すこととし、ソウル大教区には『天上の書』の出版許可を撤回するよう要請することを決定したことをお知らせします。

つきましては、『天上の書』と「神の御心霊性祈祷会」に対する信仰教理委員会の意見書をお送りいたします。

主の豊かな恵みを祈ります。

添付:司教会議信仰教理委員会の意見書

          イ・チョルス
司教会議事務総長 イ・チョルス神父

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【訳者注】『天上の書』と「神の御心霊性祈祷会」に対する、韓国カトリック司教協議会の信仰教理委員会が作成した意見書によると、その概要は次の通りです。この意見書の日本語全訳については、あらためてご紹介いたします。

●『天上の書』は、ルイーザ・ピカレッタに起こった「私的啓示」を基にした一種の終末と予言の書である。その私的啓示は、ピカレッタの神秘体験、幻視、イエズスとの会話を主な内容としているが、ピカレッタに関する預言の言葉を主に含んでいる。
●天主の御旨が成就することを意味する 「フィアット( fiat)」 は聖書(聖母マリアの Fiat voluntas tua!)に根拠を置いているが、本書では特にピカレッタと共に開始された新時代の救い事業である「フィアット」事業を意味する。したがって、天主の御旨「フィアット」に従うとは、最終的にはピカレッタを通して開始される新しい時代についての預言の言葉に従うことをいう。
●この本では「フィアット」事業を通じて、ピカレッタが救いの歴史においてイエズスと聖母に匹敵する、さらにはそれらを上回る特別な場所に位置づけられている。ピカレッタは、単に救いの協力者や天主の特別な啓示を受けた者ではなく、救世主を完成させるために派遣された者、救霊事業の「道具」、天主の御心の「長女」、「新しい時代」を開く存在などとして描写されている。ピカレッタは聖母マリアと同じく救い事業の「道具」であるが、新しい救い事業をこの時代に展開するための「特権的な道具」として選ばれた人とされている。
●したがって、ピカレッタに下された「私的啓示」の根本的な特徴は、救いの歴史の中でピカレッタの「フィアット」事業の根源的な役割を強調することにある。このような主張はキリスト信仰にとって非常に深刻な結果につながるが、キリストを通して実現された救いの業績を退色させるだけでなく、キリストの救いを「 フィアット」事業に従属させるからである。
●新時代の救霊事業である「第三のフィアット」を強調し、それに伴うピカレッタの神性と使命を格上げしているため、イエズスの救いを軽視ないし無視する結果につながっている。実際に『天上の書』は、キリストの救霊事業よりもピカレッタ個人の位相と役割を浮き彫りにすることに重点を置き、ピカレッタをイエズスの救霊事業を完成させるために不可欠な存在として描写するため、イエズス様を通じて実現された救霊の経綸(けいりん:計画)をおとしめたり、未完成のものとする。まるでキリストの救いの業が不十分で、ピカレッタなしでは救いが実現しないかのように描写する。待望の「フィアット」(ルイサ・ピカレッタ)が待望の救い主(イエズス・キリスト)を上回るとまで言われる。
●このようなピカレッタの私的啓示に対する主張は、イエズス・キリストを通して実現された公的啓示を侵害するだけでなく、公的啓示が持つ唯一無二の決定的な特性を無視する結果につながる。


偽りの「表現の自由」:自由を適切に使う方法は、正しいものを選ぶこと。自由とは、何をしても、考えても、言ってもいいという許可ではない。

2023年11月10日 | お説教・霊的講話

表現の自由についての説教

ドモルネ神父 2023年10月29日

はじめに

先日、藝大アート・プラザにおいて、私たちの主イエズス・キリストに対する冒涜的な展示が行われました。この展示を正当化するのに使われる議論の一つは、表現の自由、すなわちすべての人は何でも自分の表現したいことを、公に自由に表現する権利がある、というものです。私たちは、この議論にどのように答えるべきでしょうか?表現の自由には、真の表現の自由と偽りの表現の自由があります。今日は、このことについてお話しします。

1. 偽りの「表現の自由」

偽りの「表現の自由」というのは、すべての人は何でも自分の表現したいことを自由に表現し、それを演説やマスメディアを通じて広める権利がある、というものです。具体的に言えば、これが意味するのは、例えば数学において、2足す2は4である、または2足す2は5であると言って、それを教える権利が私にあるということです。地理において、地球が平らである、または球形であると言って、それを教える権利が私にあるということです。歴史において、太平洋戦争の責任はすべて日本人にある、またはないと言って、それを教える権利が私にあるということです。道徳について、小児性愛はよいことである、またはそれは犯罪であると言って、それを教える権利が私にあるということです。誰に対しても、証拠がなくても、告発したり、中傷したりする権利が私にあるということです。宗教において、天主は存在しない、または存在すると言って、それを教える権利が私にあるということです。すべての宗教はよいものである、または全ての宗教は悪いものであるといって、それを教える権利が私にあるということです。キリストをサンドバッグにして、嘲る権利が私にあるということです。このようなことです。

端的に言えば、偽りの「表現の自由」とは、真実であることや偽りであること、正義であることや不正義であること、良いことや悪いこと、美しいことや醜いことを、見境なく、演説やマスメディアを通じて広めることができるという、いわゆる権利のことです。このような自由は本当に存在するのでしょうか?そうではありません。

2. いわゆる表現の自由は存在しない

真実であること、良いこと、美しいことを公に表現し、奨励する権利は、明らかに存在します。人は、互いにより良くなるよう助け合う義務があります。しかし、人は、真理を知り、良いことを愛して実行し、美しいことを称賛するとき、より良く、より尊厳ある者となります。

また、人が、互いにより良くなるよう助け合う義務を果たすためには、自分の尊厳を低めるものをすべて、できる限り取り除かなくてはならないことも、明らかです。しかし、人は、誤っているとき、不正義を行うとき、悪意をもった行動を取るとき、醜いものを作り出すときには、その尊厳が下がります。

ですから、偽りのこと、悪いこと、醜いことを広める権利とされる、表現の自由などというものは存在しません。その反対に、指導者には、自分の責任下にある人々の尊厳を低めることを防ぎ、その人々がより良くなることを助けるものを奨励する義務があります。父親は自分の家族に対して、会社の取締役は自分の会社に対して、アート・ギャラリーの責任者は自分のアート・ギャラリーに対して、学校の校長は自分の学校に対して、国の首長は自分の国に対して、のようにです。

3. いわゆる表現の自由はイデオロギー的な武器である

偽りの表現の自由は、自分たちの誤った考えや道徳的な腐敗を、妨害なしに広めるために作られた、イデオロギー的な武器です。実際具体的には、この偽りの表現の自由には、誤りや嘘や道徳的倒錯を広めることを許す以外の目的がありません。

この表現の自由は実際には存在しませんが、人々がそれに惹かれるのは、それが人の自尊心をくすぐるからです。それは、人がすべてのものごとの究極の審判者であり、真実と善の源であるという印象を、人に与えるのです。しかし、明らかにこれは誤りです。人が自分自身の人としての本性を作ったのではありません。人が自分自身に命を与えたのではありません。人が宇宙やそれを掌る法則を作ったのではありません。人が真実のものや、良いものを作るのではありません。人は、人としての本性をそのまま受け、自分の命を受け、自分の意思には基づかない法則に支配された宇宙の中に置かれるのです。人が真実や誤りを作るのではなく、自分の周りの現実をそのまま知る限りにおいて、真実の中にあるのです。人が良いものや悪いものを作るのではなく、自分の存在の理由や、自分の周りの宇宙の法則や、とりわけ自分を造られた天主の法と自分を贖ってくださったキリストの法に服従する状態にある限りにおいて、その行動が良いものとなるのです。

4. 真の「表現の自由」

私はここまで偽りの「表現の自由」についてお話ししてきました。では、真の「表現の自由」というのは存在するのでしょうか?はい、存在します。人には、互いがより良くなるよう、つまり、真理を知り、良いことを行い、種々の才能を開発するよう助け合う義務があると言いました。ですから、表現の自由は、真理を語り、良いことを奨励し、他の人がそれから恩恵を受けられるようにする全ての人が持っています。

表現の自由は、とりわけ、世界中におけるカトリック教会が持っています。それはなぜでしょうか?それは、カトリック教会は、天主に関する最も重要な真理や、人間の存在の理由に関する知識をすべての人にもたらし、またカトリック教会のみが、人が聖なる者となり、永遠の幸福を実現する方法を、すべての人に与えるからです。すべての政府は、カトリック教会に表現の自由を与えるだけでなく、できる限りそれを奨励しなくてはなりません。カトリック教会から表現の自由を奪う政府は、カトリック教会や自らの国民にたいして、たいへん重大な不正義を犯しているのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、偽りの表現の自由に騙されないようにしましょう。自由は、何をしても、考えても、言ってもいいという許可ではありません。自由は、私たちの持つ、選択する能力です。自分の自由を適切に使う方法は、正しいものを選ぶことです。実際、自分の知性を適切に使う方法は、ものごとをありのままに知ることです。間違いを犯すのは、自分の知性の使い方の誤りです。自分の意思を正しく使う方法は、良いことをすることです。悪いことをすることは、自分の意思の使い方の誤りです。自分の自由を正しく使う方法は、真実であること、良いこと、美しいことを選ぶことです。誤ったこと、悪いこと、または醜いことを選ぶことは、自分の自由の使い方の誤りです。

では、私たちに完徳や幸福を実現させてくれる、真実であること、良いこと、美しいことは、どこにあるでしょうか?私たちの主イエズス・キリストがおっしゃったように、それは主にあります。「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう。」(ヨハネ8章12節)「私は、心の柔和な、謙遜な者であるから、私のくびきをとってならいなさい。そうすれば、霊魂は休むであろう。私のくびきは快く、私の荷は軽いからである。」(マテオ11章29-30節)「まことにまことに、私はいう。信じる人は永遠の命をもつ。」(ヨハネ6章47節)ですから、私たちの自由を最も良く使う方法は、私たちの主イエズス・キリストを私たちの王として選び、一生涯主を愛し、主に従うことです。とこしえに、すべての栄誉と栄光が主にあらんことを。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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