Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

大天使聖ミカエル、祈り給え!

2009年09月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか?先日の9月27日の主日には、東京の聖伝のミサ聖祭では33名の愛する兄弟姉妹の皆様がミサ聖祭に与りました。天主様に感謝します!

 新しく聖伝のミサ聖祭に与ったかたは二人ほどおられました。

 9月は、私についても、主日ごとに別の国にいて、ニュージーランド、フィリピン、韓国、日本と移動しておりましたので、あっという間に時が経ってしまったように思えます。それでも、多くの聖寵をくださる天主様に感謝でいっぱいです。

 昨日は、日本の保護者である大天使聖ミカエルの祝日でした。日本のために祈りましょう。新しい首相と政権のために祈りましょう。何故なら、1994年から始まった「就職氷河期」のために多くの青年たちが苦しむようになったのですが、そのようなことが起きないように願うからです。
 日本が、また新政権が、天主様が作った家族の制度を尊重しますように。

 さて、9月23日にカトリックの東京カテドラルで行われた日本聖公会の記念礼拝の記事が掲載されたブログのことを教えてもらいました。

http://nomoreheresy.blogspot.com/

 この礼拝式には、カトリックの司祭も二人参列したそうです。つまり、日本のカトリックはアングリカンの150年のパラレルな活動を公認して、よくやった、と言っているようなものなのです。過去の教皇さまの不可謬の教えは、信じなくてもいいのだ、アングリカンの方々が本当の司祭職から離れてもどうでもいいのだ、というメッセージを送っているようなものです。

 問題は、それと同時に、カトリック教会のやっていたことをやり続けようと願うカトリック信徒たちには、カトリックの指導者たちが非難と迫害とをしていることです。ご聖体を大切にしたいというカトリック信徒たち、カトリック教会の聖伝を守りたいという司祭たちには、居る場所を与えないことです。プロテスタントの方々やアングリカンの方々は、おそらく、何をしているのかご存じないでしょう。だから、私たちは、そのような愛するべきアングリカンやプロテスタントの兄弟姉妹たちを非難したくありません。少なくとも私は、彼らの誠実を信じています。

 しかし、カトリック教会は真理を知っているのです。だから私たちは真理を信じてカトリックになったのです。それでいて、カトリックの指導者たちは、プロテスタントの方々に150年よくやりましたねぇ、アングリカンの方々にも150年間カトリック教会とパラレルによくやりましたねぇ、と言いつつ、カトリック教会の2000年の聖伝を守ろうとする私たちには、不法ミサだ、許可が無い、廃止された、コスプレだ、破門だ、傲慢だ、一致を乱す、カトリック教会は使わせない、言ってみればのたれ死ねばよい、などのような言い方で非難をしているのです。信徒の方々も、信仰の問題と真理の問題を、見せかけの「従順」と「許可」の問題にすり替えてしかものを見ようとしないことです。

 今までは、カトリック教会は、これは私たちの主から伝えられた真理だ、だからこそこの真理をすることが合法だ、誤謬は不法だ、と言いました。しかし、今では、司教さまが許している、だから良いことだ、カトリックの認可済みだ、カトリックの真理だ、となってしまいました。だから、「真理」はコロコロ変わるようになってしまったのです。

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

大天使聖ミカエル、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ルフェーブル大司教の伝記:13.2.6.今まで教会が経験したことのない最大の悲劇(その2)

2009年09月26日 | ルフェーブル大司教の伝記
今まで教会が経験したことのない最大の悲劇(つづき)

 ルフェーブル大司教は、危機の原因を明確に指摘しようとつとめた。彼は少しずつその責任を公会議自体にあると指摘するようになった。

「準備委員会を通じて、公会議はこれらの誤謬を眼前に、正面から真理を宣言する用意をしていた。....ところで、この準備は身の毛がよだつことにも全て拒否され、かつて教会が経験したことがない、最大の危機という悲劇いに席を譲った。私たちは、教会と自由主義思想の結合を目撃した。」

 ルフェーブル大司教のこの中心的な表現は、公会議の目的に関する深い直観を伴っていた。すなわち、「新しい統合」であるこの 「カトリック教会と自由主義思想の結合」を実現させるために、一方でカトリシズムと他方ではプロテスタント精神、人権、及び近代主義との間に横たわる、過去・現在の対立を乗り越えることであった。

 この悲劇の責任は、公会議自体にあるのだろうか、あるいは公会議の精神にあるのだろうか、それとも公会議の反精神にあるのだろうか?

 初めは、大司教は次のように公会議の反精神を告発する傾向があった。

「公会議は、歴代教皇たちが断罪した誤謬及び風潮を口にする者たちをして、これからは彼らの教理が承認されたものであるかのように、合法的に信じることを許した。」

 しかし、もしも彼らが「合法的に」信じたとするならば、公会議の精神自体が、さもなければ公会議それ自体がその原因である。

「不幸なことではあるが、ほとんど一般的に言って、公会議が革新をはかった時、教会の正真正銘の教導権によって、確実に聖伝の宝に属する真理であると数えられた真理の確実性は、根底から揺り動かされたと言うことができ、またそう言わなければならない。」


 従って、公会議は、公会議に出席していた、或いは公会議の周囲にいた新しい異端者たちの反響の箱であったばかりではなく、公会議はその多くの革新によって、カトリック真理を揺り動かし、動揺させもした。

 1964年にルフェーブル大司教が予測していたその動揺の結果を挙げてそのリストを作りながら、大司教は「事実に裏付けられて」と言いながら次のように結論を下した。

「公会議は想像を超越するやり方で、自由主義の誤謬の拡散を促進した。すべての教皇たちが見越していたように、信仰、道徳、及び教会の規律は根こそぎに揺り動かされている。教会の破壊は、急速に足を進めて先に進んでいる。」

 ところがルフェーブル大司教は、神学者であると同時に司牧者でもあったので、大司教はためらうことなしに枢機卿に教皇に提示すべき必要な解決策を指摘した。

すなわち、
--- 誤謬をまき散らす者等を阻止して彼らを沈黙させること。
--- 司教たちに督促し、神学校を改革すること、神学校の教育課程に聖トマス・アクィナスに従う神学の勉強を復校させること。
--- 修練院と修道会共同体において、キリスト教的な全ての修業(ascèse)の原則、特に従順を維持するように修道会総長たちを激励すること。
--- カトリック学校の発展を奨励すること。

 以上のことは、彼が総長に選出された後、自分の修道会で実現させようと努力した内容そのままだった。

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言



II. 苦悩と希望の間

東京のカトリック・カテドラルで

2009年09月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 一昨日の9月23日には、カトリック東京大司教区のカトリックで、アングリカンの日本宣教150周年の記念宗教儀式が行われたそうです。

 カトリックのカテドラルで宗教儀式をしようと思ったアングリカンの方々には、悪気があったわけではないでしょう。ようやく、ローマ・カトリックもわれわれのやっていることを承認するようになった、アングリカンの日本宣教150周年をカトリックも協力して祝ってくれている、ローマ・カトリックもアングリカンも同じことだ、と思っただけでしょう。

 私たちは、天主様の聖寵に助けられて、日本のカトリックの指導者たちに、疑問を提出いたします。これは、ローマ教皇を目に見える頭としないカトリックとはパラレルな教会組織と活動の150周年を祝うことを承認することではないでしょうか?! プロテスタントたちの活動150周年にはカトリック司教が直々にお祝いの言葉を述べていますが、その続きではないでしょうか。

 カトリックの指導者たちは、こうして、愛するべきアングリカンやプロテスタントの兄弟姉妹たちが、あたかも、キリストの本当の教会にいるかのように暗黙のうちに認めているのです。

 私たちの主イエズス・キリストがその上に建てたペトロの後継者である教皇様の教導権と裁治権を認めるように、真のキリストの教会に戻ってくる必要性を暗黙のうちに否定しているのです。

 今回はさらに、このことによって、教皇レオ13世の不可謬的に教えたカトリック教会の教え、つまりアングリカンの叙階が無効であるということを暗黙のうちに否定しています。これは、愛するべきアングリカンの兄弟姉妹に、過去の教皇たちの教えが怪しいと暗黙のうちに語っているように思えます。

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母マリアよ、日本のカトリック教会の指導者たちのために祈り給え!

天主の御母聖マリアよ、日本のカトリック教会のために祈り給え!

天主の御母聖マリアよ、アングリカンの愛する兄弟姉妹たちのために、カトリック教会のもとに帰ってくる聖寵を取り次ぎ給え。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母の汚れ無き御心に教皇様がロシアを奉献するため:現在11,126環のロザリオが集まりました

2009年09月25日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。

 匿名の方から、3環のご報告がありました。
 また、匿名の方から、7回捧げられた犠牲の報告があります。

 2009年8月までの分で、9月23日現在の報告の総計は 11,126環です。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご理解とご協力に心から感謝いたします!

 2010年3月25日まで、183日残っていますが、私たちの目標の12万環まではあと108,874環が必要です。(ということは、毎日595環です!是非、お知り合いの方々にご協力をお願いしてください。よろしくお願いいたします。)

【報告】

トマス小野田神父様

ロザリオの報告です。9月6日から本日まで7環です。

先日は聖伝の御ミサでの祈願をありがとうございました。月曜日の午後に結果がわかります。
ロザリオの報告はまた次の土曜日に。

【報告】

トマス小野田神父様

ロザリオの報告。日曜日から本日まで8環です。

【報告】

アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様

8月の御ミサの時、3冊の本をプレゼントいただき大変有難うございました。
他ではもう手に入れることが出来ない貴重な本、最初は公教理の本を夢中に読み、今まで聞いたことのない初めてのことがいくつかあり(例えば261番で、正しい戦争、正当な裁判による死刑執行の場合等には他人の生命を害しても罪にならない)、聖歌集を見たときにはカトリックという偉大な真理の力の前に信仰が鼓吹される思いが致しました。

さて、ロザリオのご報告ですが、遅くなりまして申し訳ありません。7月~8月までのロザリオをご報告致します。118環でした。よろしくお願い致します。

+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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【関連記事】ファチマとロザリオの十字軍

ウィリアムソン司教様のお説教

2009年09月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、ルフェーブル大司教さまの司祭叙階80周年の日でした。

 日本の聖ピオ十世会のWebサイトでは、ウィリアムソン司教様が来日された時のお説教が新たにアップされました。どうぞごらんください。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会創立者の伝記:13.2.5.今まで教会が経験したことのない最大の悲劇(その1)

2009年09月19日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
今まで教会が経験したことのない最大の悲劇

 エキュメニカルな公会議が幕を閉じてから 9ヶ月が経つや否や、教皇パウロ六世は司教たちに注意を促し「公会議の教えを解釈する際にますますもっとひどくなる乱用」や「やりたい放題の自分勝手で大胆な意見」また「信仰の基礎とドグマそのもの」を脅かす「誤謬」に関するレポートを提出せよと命じる必要があると確信した。

 どのようにして教会はそれほど早くそのような地境にまで至ることができたのだろうか?

 フランスの司教たちは危険を小さく見せかけようと努力してこう報告した。「いつでも風潮、傾向、不安、考えの動揺、あるいは左翼傾向があるものだ」(ブェイヨ司教が語った「大失策」に関する対して言葉)。

 他方で、聖霊司祭修道会の総長であるルフェーブル大司教は、極めて深刻な危機を「極度に混乱する思想」のみならず更には「修道会、神学校、およびカトリック学校のような教会の機関の崩壊」を指摘した。

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言



II. 苦悩と希望の間

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記:13.2.4.新しいドグマ: 人間のペルソナの尊厳

2009年09月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
新しいドグマ: 人間のペルソナの尊厳

 同僚の司祭たちのために、彼らと一致して大司教が司祭職に関する文書を誉めたとしても、すでの上に引用された文章であるが、第三総会の間に書かれた 1964年 10月 11日付けの文章では、より批判的で現実的であり、故意に挑発的なタイトルが付けられていた。「良きカトリックであるためには、プロテスタントにならなければならないのか?」と。

 ところがモリロ司教(Mgr Morilleau)の懇願を受けて、ルフェーブル大司教はこの記事をその時は発表せず、 1970年になってようやく公開された。

 そこでルフェーブル大司教は「教会の真理」に対して、司教団体主義、エキュメニズム及び信教の自由がどれほど大きな害を与えるか問うことを見分けている。

「教会の真理は、まさしくプロテスタントと、更に不幸なことにも自由主義にかぶれた幾多のカトリック信徒たちにとって邪魔となる結果を引き起こす。だから、今後は、教会の真理の代わりに新しいドグマがその地位を占めるようになるだろう。その新しいドグマとは、人間の尊厳と自由という優位な善となるだろう。

 「教会の真理」という表現で、ルフェーブル大司教が言わんとしたことは、まず教会を「他宗教と同じレベルに置くことができない(そのようなことは最高の不正義である)、天主によって立てられた唯一の真の宗教である」【レオ十三世の回勅「Humanum genus】ということである。そして、カトリック教会が「すべての異端説の上に立つ確実性の首位権を行使し、絶対かつ不変の真理を保持している」【サルト大司教:将来の聖ピオ十世】真理の教師であり、永遠の救いの唯一の方舟である。

 公会議はこの教会の真理を「人間のペルソナの真理」【ヨハネ・パウロ二世の回勅「真理の輝き」】と取り替えた。つまり、その選択がなんであれ人間が必ず持っているとされる超越的な尊厳性、その行使がいかなるものであれ(絶対視される)人間の自由、どんな権威からもいかなる制限も受けない人間の独立性、教導権を無視して行使できる探求の自由、すべての人間の法よりも上位に立つ良心の優先権という新しいドグマである。

 ところでルフェーブル大司教は「自由を "束縛がないこと" と定義することは、天主によって立てられたすべての権威を破壊することである」と述べた。天主によって立てられた権威、すなわち、教会の教導権の権威もそうであるが、家庭における、特にキリスト教信者の家庭の両親の権威を破壊することである。

「人間の尊厳、良心の自律、人間の自由の高揚によって、権威の合法性や従順の要求に対して疑問が投げかけられ、これは教会にはじまって、修道会、司教区、市民社会、さらに家庭など、すべての社会を揺るがしている。」【1966年12月20日付けのルフェーブル大司教のオッタヴィアーニ枢機卿への手紙】

 それに同様に、「教会の真理こそが、カトリック校が存在している理由である。この新しいドグマをもって、彼らは世俗学校と「統合させることを暗示している」。

 新しいドグマは、召命に対する情熱を殺し、召命自体を無とする。

「教会の真理は、福音化しようという熱意、カトリックへと改宗させようちう熱意の存在理由である。したがって、それは司祭であろうと修道者であろうと宣教者であろうと、数多くの召命の深い窮極的な理由である。」

 最後に、教会の真理はカトリック一般信者たちが「カトリック国家を立てる、或いは再建するために働く」情熱の源泉である。とことが新しいドグマによれば、カトリック信徒らは、むしろ多元主義を尊重し、「彼らは国家の宗教的無差別主義を維持する義務がある」とされている。

 教会は人間の尊厳の名の下に置かれ、教会は真理であるということを放棄しなければならない、とされている。教会はただ単に、自分の真理を持つだけとなり、多くの真理の中で一つの真理に過ぎないとされるだろう。

 新しいドグマの背後には、天主の上に君臨する人間の首位性と、王たるキリストの廃位を見出すことができる。この新しいドグマに、教会は教会の真理を、教会の製度を、教会の礼拝儀式とついには教会の司祭職とを服従させなければならなくなるだろう。

 ルフェーブル大司教が感じた最大の苦痛は、新しいドグマの宣布に対して、教皇ヨハネ二十三世とパウロ六世とが共犯であったというますますはっきりした証拠を確認したことであった。

 この二人の教皇らが、時々励ましや勇気を引き立てる個人的な介入をしていたにもかかわらず、彼らはほとんど常にリベラル派や近代主義者たちの陰謀を支援していた。彼らは「真理の教師、すなわちローマのもっとも高貴な機関」である「ローマ・クリア(ローマ聖省)の口を開かせないようにし」、公会議の大多数の一致という名の下に、新しいドグマとその適応について「反対意見あるいは警戒を表明したいと望む教父たち」に対して極めて頻繁に沈黙を強要した。

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言


II. 苦悩と希望の間

9月の聖伝のミサ聖祭

2009年09月18日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 9月の予定は、いつもより一週間ずれた最後の主日(9月27日)を中心としております。お間違えのないようにお願いいたします。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【訃報】聖ピオ十世会司祭であるボンテール神父様が、9月15日、亡くなりました

2009年09月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会司祭であるディディエ・ボンテール神父様(Father Didier Bonneterre)が、9月15日の朝、交通事故で亡くなりました。神父様はパリの聖ジェルマン修道院院長であり、9月15日は年老いた御母堂様を訪問した後にパリへと戻る途中での車の事故でした。神父様の霊魂の永遠の安息のためにお祈りをお願い申し上げます。

 ボンテール神父様は、1954年生まれで、1972年にエコンの神学校に入学、司祭叙階後にエコンの典礼の教授をつとめ、アルバノ(ローマ)の神学校の初代校長、フランスのナントの修道院長・主任司祭を22年務め、最近では数年の間パリの聖ジェルマン修道院院長を勤めていました。

神父様は、聖母マリア様の祝日に死ぬ恵みを求めていたとのことです。神父様は悲しみの聖母マリア様の祝日に霊魂を天主様にお返しになりました。

 私もエコンの神学生で助祭だったとき、夏休みをナントの修道院に行って過ごしたことがあります。日本からの助祭であった私は、主日にはお説教をさせてもらったり、ナントの教会でいろいろと父親的な心温まる親切を受け、いろいろと教えていただいたことがあります。とても優しい親切な神父様でした。典礼に造形が深く典礼運動(movement liturgique)についての本も書かれました。

 愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い申し上げます。

 天主の御憐れみによって神父様の霊魂が永遠に憩わんことを。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


MESSAGE FROM FR COUTRE:
In your charity please pray for the eternal rest of the soul of Father Didier Bonneterre, a priest of the Society of St. Pius X, who died in the morning of September 15. Father had a car accident when he was returning to Paris after visiting his elderly mother. She has now lost all of her three sons, and she could use your prayers as well.

Born in 1954, Father Bonneterre entered the seminary in 1972. Professor of liturgy at Econe, then first rector of the Seminary of Albano, Rome, then prior for 22 years at Nantes, he had been prior of St. Germaine's Priory in Paris for a number of years.

He had said some time ago that he wanted to die on a feast of the Blessed Mother. He was taken from us on the feast of the Seven Sorrows of Our Lady.

+ + + + +

Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X
District de France - Suresnes, le 15 septembre 2009


Monsieur l'abbé de Cacqueray, Supérieur du district de France de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X a la douleur de vous faire part du décès accidentel de monsieur l'abbé Didier BONNETERRE ce mardi 15 septembre.

Monsieur l'abbé Bonneterre était actuellement prieur du Prieuré Sainte-Germaine à Paris, après avoir été professeur de liturgie au séminaire Saint Pie X à Ecône, directeur de la maison d'Albano en Italie et pendant 22 ans Prieur du Prieuré Saint-Louis de Nantes.

En ce jour de la fête de Notre Dame des Sept Douleurs, nous confions à la prière de tous ceux qui l'ont connu et aimé le repos de l'âme de notre cher confrère.

Le lieu et la date de ses obsèques seront communiqués ultérieurement.

Requiescat in Pace.

日本で最初のカトリック総理

2009年09月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日の午前の閣議でカトリック総理の麻生内閣が総辞職したそうです。在任期間は358日だったとのことです。前任者の任期途中の政権投げ出しのしりぬぐいをしながら、マスコミの大きなネガティブキャンペーンの攻撃を受けて大変だったと思います。

 麻生元首相は、党の利益と政局よりも、日本の全体の利益のための政策を選んで働いてこられた方でした。ありがとうございました。愛する兄弟姉妹の皆様の日本初のカトリック総理のための暖かいお祈りを感謝いたします。

 ちなみに9月20日は、麻生元総理の69歳の誕生日だそうです。

 私たちは聖なる指導者を頂くにふさわしくない身ですが、天主の聖母の御憐れみによって、日本に多くの聖なるカトリックの政治家・国家指導者をお与えくださるように私たちの主に切に祈ります。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

使徒ヨハネの神秘

2009年09月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちの主イエズス・キリストから愛された特別の使徒たちが三人います。ペトロと大ヤコボとヨハネです。彼らだけは、イエズス・キリストの御変容を目撃し、会堂司の娘の蘇りを目撃し、ゲッセマニで私たちの主の直ぐ近くで祈りを目撃しました。

 聖ペトロは、イエズス・キリストが天主であることを宣言し、信仰の基礎となりました。聖ヤコボはスペインに宣教しに行き、希望のシンボルとなりました。聖ヨハネは、その書簡で愛することを命じ、私たちは天主の愛を信じたと書き、愛徳の使徒となりました。

 そこで、聖ペトロが宣教したローマは信仰の都市、聖ヤコボが宣教したスペインは、希望の国、聖ヨハネの直弟子が宣教したフランスは、愛徳の国と言われます。だから、スペインはイスラムの侵略で領土を失っても希望し、あきらめなかったのです。だから、フランスからは愛徳の使徒たちがたくさん輩出したのです。ドロ神父、小さき聖テレジア、聖マルガリタ・マリア・アラコック、聖グリニョン・ド・モンフォール、アルスの聖司祭、などなどを。

 ところで、私たちの主の御受難のときにあたり、信仰の聖ペトロは私たちの主を三度否み、希望の聖ヤコボは私たちの主について希望を失いました。ところが、聖ヨハネだけは、使徒として一人、聖母マリア様と共に十字架の下に留まりました。なぜなら、聖ヨハネは天主の聖母のそばに留まったからです。悲しみの聖母を慰めようとしたからです。そして信仰を失っていた聖ペトロと共に私たちの主の空の墓まで走ったのも聖ヨハネです。聖ペトロより早く到着し、聖ペトロより早く私たちの主イエズス・キリストの復活を信じました。

 フランス人のルフェーブル大司教さまは、その司教紋章に使徒聖ヨハネの手紙から引用して Et nos Credidimus caritati 私たちは天主の愛を信じた、と書きました。悲しみの聖母マリアの汚れ無き御心に対して篤い信心を持ち聖ピオ十世会のシスター会や奉献修道女を、十字架のもとにたたずむ悲しみの聖母マリアの保護のもとに置きました。使徒の後継者としてほとんどただ一人で十字架のいけにえの再現である聖伝のミサ聖祭のもとに留まり、これを保持しました。

 願わくは聖母マリアの御とりつぎによって、ルフェーブル大司教の遺産である聖ピオ十世会が、聖ヨハネの神秘を行い続けますように! 第二バチカン公会議の誤ったエキュメニズムなどなどによって眩まされている聖ペトロの都市ローマを助けて、聖伝のカトリック信仰に立ち直るために聖ヨハネのように力を尽くすことができますように!

悲しみの聖母マリアよ!!我らのために祈り給え!

聖母マリアの悲しみに満ちた汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

聖母マリアと共に十字架のもとに留まった聖ヨハネよ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて

聖ピオ十世会(SSPX)創立者ルフェーブル大司教の伝記:13.2.3.司牧的愛徳と司祭の聖性

2009年09月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
司牧的愛徳と司祭の聖性

 公会議の終了、及び (チェトゥスとルフェーブル大司教の努力にもかかわらず) 公会議文書を支配する精神の影響を受けた公会議の教令の宣布に、大司教はしばらく言葉を失った。四年間の闘いを経て、後ろに退いて総括する必要があった。

 大司教が極めて肯定的に評価しその目にかなった極めてまれな公会議文献が、「司祭の役務と生活に関する教令」 Presbyterorum Ordinis だった。彼は、聖霊司祭修道会員たちに自分のこの文献についての考察を伝えた。

 すでに大司教の最大の関心事になることそれは、司祭職がいかなる道にも逸脱することがないように保護し、司祭職の本質と聖性とを構成することに焦点を絞らせることだった。

 その点でルフェーブル大司教は文献が重点を犠牲祭祀(いけにえ)を捧げるという司祭の役目よりも、説教者としての役目に焦点がずれているということを看破していた。

 彼は次のように訂正している。「この(説教という)職務はそれ自体では目的ではない。準備だ。これはもっと本質的で司祭職の特別な目的である他の職務へと導いている。」


 しかし総長は、公会議文書の中でより良い部分をつまみだした。第一は司祭の定義に関する事柄だ。

「...聖霊の塗油によって、特別な霊印を司祭にしるし、こうして、司祭は「かしら」であるキリストの代理者として行動できるように、司祭キリストの姿に似たものとなる」(§2)

 次に、司祭の目的自体と役務に関することであっった。

「信者の霊的供え物(原文:いけにえ)は、司祭の役務を通して、唯一の仲介者であるキリストの供え物との一致のうちに完成するものであり、このキリストの供え物は、主自身が来るときまで、司祭たちの手によって(原文:手を通して)、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘蹟的に捧げられる。司祭の役務はこの事を目ざし、このことにおいて完成する。」(§2)


 最後に内的な生活を使徒職と一致することに関して、多くの司祭たちがその調和を保ちにくいということにかんして、

「司祭は牧者的愛の実践の中に、その生活と行動とを統一させる司祭的完徳のきずなを見いだすであろう。この牧者的愛は、特に聖体のいけにえから流れ出るものであるから、聖体のいけにえは司祭の全生活の中心であり、根源である。従って司祭的精神はいけにえの祭壇上で行われることを司祭の中に内在化させるように努める。」(§14)

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言




II. 苦悩と希望の間

静かに過ぎゆく二周年

2009年09月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2007年7月7日のモートゥー・プロプリオの執行日である2007年9月14日から今日で二周年です。

 日本では、あたかもこのモートゥープロプリオが存在していなかったかのように、何も起こりませんでした。日本であるのは、東京パワーの集いと、非カトリックの宗教儀式にカテドラルを使わせること。

 日本における教会は、カトリックの聖伝を、カトリック教会にとって「ガンのような異質細胞」であるかのように考えて、新しい教会を作ろうとしてかのようです。

 私たちは、何という黙示録的な時代を生きていることでしょうか!! 何という十字架でしょうか!! 私たちには祈りが必要です。償いが必要です。ロザリオの十字軍に是非、参加してください。

 天に昇る道は十字架の道にて、すなわち苦しみの道なり。A cruce salus. A cruce ad lucem. 救いは十字架による。

 願わくは聖母マリア、慈母の心にて、我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記:13.2.2.「私は、余りにも楽観的すぎた」

2009年09月14日 | ルフェーブル大司教の伝記
「私は、余りにも楽観的すぎた」

 ルフェーブル大司教は、公会議の幾つかの概要の背後に息づいている精神に対して次のように峻厳で明快な判断を表明している。すなわち、彼が 1964年に言ったように「[公会議文書には] 断絶の精神及び自殺の精神、カトリックではないエキュメニズムの精神、カトリックの教義を歪曲させようとその未知の手を使う雄羊となった理性一本主義者のエキュメニズムの精神」である。

「公会議教父たちのきわめて正当な望み」は、「大部分の教父たちが決して考えたこともないような」命題を承認させるために「彼らの知らないうちに、或る特定の教父のグループあるいは顧問たちによって」利用されたかのようであった。

 大司教はまだその時は公会議自体を告発するのを拒んだ。その代わり公会議に寄生しながら真の目標から離れて無関係の目的へと道を誤らせている反精神を攻撃した。

 第四総会以前の 1965年に、ルフェーブル大司教は教父たちに毒を盛って討論に影響をかける「世論という現代世界の新しい教導権」を告発した。どれだけ多い調整案が「その新しい教導権に一致しないかもしれないという恐れによって」震えながら作成されたち、承認されたことか!

 しかし大司教は楽観的だった。

「これは、教会の教導権以外の一つ別の教導権である。公会議総会を閉会する教皇たちの訓話、教皇たちの発言などは、このことを確かするだけである。しかし、ペトロの後継者のペルソナにおいて、教会はまだ聖伝的な教導権を新しい教導権で取り替えることもしなかったし、ローマ教会もそうしなかった...。大部分の枢機卿たち及び特にローマ教皇庁の枢機卿たち、そしてローマにある教会の枢機卿たちは、この新しい教導権の支持者ではない。カトリック教会の教義に対立反対する司教団体主義も、悪しく理解された信教の自由も、成功することはないだろう。」

 ずっと後になってようやく、公会議の間に書かれた文をまた読み直しながら、大司教はこう言うだろう。「私はその時、公会議と教皇とに関して、あまりにも根拠のない楽観主義を抱いていたことを、今は認識している」と。


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記:13.2.1.「実りある中道」を探して

2009年09月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
第13章 王たるキリストの使者

II. 苦悩と希望の間


 たとえ公会議会場で信仰のための闘いに跳びこんだりしても、大司教はたびたび活動をやめて自分の個人的な思想が盛られた文を好意的なジャーナルやはなはだしくは聖霊会総合会報(General Bulletin)にまで寄稿した。その文を見れば公会議の作業に対する彼の教えと苦悩と希望の間を行ったり来たりする気持ちが盛られている。ルフェーブル大司教は 二次元的な人物ではなかった。彼は否定的なことを見ても、肯定的なことを探そうと労力したりする人だった。


「実りある中道」を探して

 「典礼に関する憲章」の宣布があった第二総会に引き続き、ルフェーブル大司教イティネレール(Itineraires)誌 [Itineraires N. 81. mars 1964, 28-41] で「ペトロの後継者の行動の元」における状況に対して総括的に説明した。彼は「憲章の適用を自分勝手にあらかじめ先走る」権利が自分にあると思ている者たちを咎め、パウロ六世を非難しなかった。そうではなく、大司教は「司祭たちによる典礼の即席化よりもっと悪いことは大っぴらな不従順の悪習と悪しき模範である」と考えていた。

 聖霊司祭修道会の総合会報で、ルフェーブル大司教は修道会の会員たちに、計画された改革は本質的な要素を維持しているようであると説明している。「聖なる典礼に関する憲章(Dacrosanctum concilium)」はラテン語もグレゴリオ聖歌も廃止することなど問題外である、よって -- そしてルフェーブル大司教の基本的な態度は次のようだった -- ローマを信頼し、ローマの命令に厳格に従順でなければならない。この命令が改革の規範が合理的な適用を保証するからだ。

 こうは言いつつも、会報の中で大司教は公会議の憲章の弱点、及び憲章の裏面にある危険な精神を隠さなかった。

「典礼を使徒職の道具に下げ落とし、典礼をもはや天主に対する公式的な礼拝且つ賛美であると考えないということは、典礼を過小評価することではないだろうか?」

 これによって、「典礼の軽視」を誘発し「信者たちのうちで精神と宗教の精神とを減少」させることになる、と。

 1965年 6月、改革のまっただ中にありながら「実りある中道」を探そうと努力し、そんな路線が果たして見つかるのだろうか?と自問した。

 ルフェーブル大司教はミサの最初の部分、言い換えると「求道者のミサ」とオッフェルトリウムから始まる固有な意味でよりいけにえ的であるミサ (信徒のミサ) の部分との明らかな差を認識した。

「信者たちを教えるために作られたミサの最初の部分は、・・・更に明らかにその目標を果たす必要がある。司祭は信者たち近づき、彼らに語りかけ、彼らと共に祈り、歌うことが、聖書朗読台で行われ、彼らの言葉で祈願や書簡と福音朗読もなされるように。」

 しかし、ミサの二番目の部分については、ルフェーブル大司教は祭壇で為されるべきであり、またラテン語で小さい声で唱えることが保存されることを望んだ。

 ミサの第一の部分に関するこの高位聖職者の広い視野は興味をそそる。ルフェーブル大司教は、聖書の朗読と説教とが、犠牲に信者たちを準備させるにあって必要不可欠だと考えている。もちろん、オッフェルトリウムとミサの典文とは、このいけにえの難攻不落の要塞として残るべきである。

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第13章 王たるキリストの使者
I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言

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