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「特殊な場合」の例外

2010年11月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちは「特殊な場合」にはコンドームが肯定的に評価される、と聞かされました。罪に染まった男娼の場合、などと。しかし、一般的には悪だ、と。

 歴代の教皇様たちは、本質的に・内在的に・それ自体で自然に反する行為はいかなる状況も場合も、どれ程「特殊な場合」であったとしても、自然に適合する良い行為にはならないことを教えています。

 本質的に・内在的に・それ自体で自然に反する行為は、「特殊な場合」のために肯定的な良い行為にはなりえないと、歴代の教皇様たちは教えてきたのでした。



 さらに別のことを考えました。ここからは私の感想ですが、「特殊な場合」が一般的することをあまりにも多く私たちは見て来たからです。

 第二バチカン公会議は、ミサは必ずやラテン語を使いグレゴリオ聖歌を守ることを高らかに謳いました。但し、「例外的に」国語のミサをすることが許可される、と。結局、例外が規則になりました。

 手による聖体拝領も本来は禁止され、「特殊な場合」の例外的に許されるはずでした。しかし、結局は例外であるべきが規則になりました。

 女子の侍者も禁止されていました。但し、ついに「例外的に」許され、一般的になりました。

 コンドームも同じ道を辿る危険性が有ります。


主よ、我らを憐れみ給え!

聖母よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

聖ピオ十世よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ベネディクト十六世のコンドームの使用に関する発言についての注釈:聖ピオ十世会によるコメントの日本語訳

2010年11月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ベネディクト十六世の新著「世の光」-- ドイツ人ジャーナリストであるPeter Seewaldとのインタビューで、ドイツ語とイタリア語でまず発売され、18カ国語に訳されました---の中で、コンドームについて教皇様が質問されました。



 これについて聖ピオ十世会の本部からコメントが発表されました(Note sur les propos de Benoît XVI au sujet de l’utilisation du préservatif)ので、その日本語訳をご紹介します。

ベネディクト十六世のコンドームの使用に関する発言についての注釈


 ドイツ語とイタリア語で2010年11月23日に公刊された「世の光」と題されるインタビュー形式の本---これは12月3日にフランス語と英語で公刊される---の中で、ベネディクト十六世は、初めて、「或る特定の場合には」エイズ菌による「感染の危険を減少させるために」コンドームの使用を認めている。これらの誤った発言は説明され訂正されなければならないだろう。何故ならこれによる悲惨な影響--- マスメディアのキャンペーンはこれを狡猾に利用することに事欠かないだろう---が信徒たちのスキャンダルと混乱をもたらすであろうからだ。

1. ベネディクト十六世の発言

「カトリック教会は根本的にコンドームの使用に反対なのではないか?」との質問に、教皇は、ドイツ語原文によると、「或る特定の場合には、その意向が感染の危険を減少させるという時には、これは今までそうではなかった生活からより人間らしい性生活への道を開くための第一歩でさえあり得る」と答えた。

 この発言を説明するために、教皇はただ一つだけ例を挙げる。それは「男娼」の例だ。教皇は、この特別な場合において、これは「道徳化への第一歩、全てが許されているのではないこと、そして私たちは自分我の染むことを全てすることが出来ないことをあらたに自覚するというう責任感の最初」であり得る、と考える。

 従ってこれは、肉欲の快楽のために自然に反する罪の行為を既に犯している或る男性が---自分以外にも---自分の客に死をもたらす病を感染させないようにという気遣いをしているような場合のことである。


2. 報道官による、ベネディクト十六世が言わんとしたこと。

 教皇のこの発言は、マスメディアと避妊を推し進める活動家らの運動とによって、避妊手段の使用についての教会の常なる倫理の教えにおける「革命」また「転換」、或いは少なくとも「突破口」として受け入れられた。そのためにバチカンの報道官であるフェデリコ・ロンバルディ神父は11月21日に注釈を発表した。そこにはこう読める。「ベネディクト十六世は、性行為が他者の生命にとって真の危険となるような例外的な状況を考察している。この場合において、教皇は、性行為の無秩序な行使を道徳的に正当化しているのではない。ただ、コンドームを使わずに他者の生命を危険に曝すよりは、感染の危険を減少させるためにコンドームの使用が「責任感の最初の行為」「より人間らしい性行為への道のりの第一歩」であるとする。」

 ここで、より正確を期すために、教皇は「責任感の最初の行為」について話すのみならず、「道徳化への第一歩」についても語っていることに注意しなければならない。同じ意味において、以前、ヨハネ・パウロ二世の元の神学者、さらにベネディクト十六世の教皇位初期の教皇庁付きの神学者であったジョルジ・コチエ枢機卿(cardinal Georges Cottier)が、2005年1月31日、Agence Apcomへのインタビューの際に次のように発言したことがある。「特定の状況において、--私は、アフリカやアジアの特定地域におけるような、麻薬中毒の人々の環境、或いは性的に大きな退廃が支配しているような環境、大いなる悲惨の状況のことを考えている---このような場合には、コンドームの使用が正当であると考えられると思う」と。

 特定の場合において、避妊用具の使用が道徳化への一歩であると正当化すること、これが「世の光」において教皇の発言が投げかけた問題である。


3. ベネディクト十六世が言わなかったこと、および、ベネディクト十六世の前任教皇たちが常に言ってきたこと。

「いかなる「示唆」あるいはいかなる必要性も、内在的に不道徳な行為を道徳的かつ合法的な行為に変えることは出来ない」(ピオ十二世、産婆たちへの訓話 1951年10月29日)

「それがどれほど重大なものであったとしても、いかなる理由も、内在的に自然に反することをして自然に適合し誠実になるように変えることが出来ない。」(ピオ十一世、回勅『カスティ・コンヌビイ』)


 ところで、避妊用具の使用は、人間的行為をその自然の目的から逸脱させることにおいて自然に反している。従って避妊用具の使用は常に倫理に反する。

 「カトリック教会は根本的にコンドームの使用に反対なのではないか?」とのジャーナリストの質問に、教皇は、例外的な状況によって答え、カトリック教会が常に根本的にコンドームの使用に反対していることを言わない。

 ところが、コンドームの使用は内在的に不道徳的であり大罪であることは、例えばピオ十一世、ピオ十二世などによって、カトリック教会の聖伝の教えにおいて常に教えられていた点である。そしてベネディクト十六世の考えにおいても、ジャーナリストに「明らかにカトリック教会はコンドームが現実の解決であるとも考えないし道徳的であるとも考えていない」と答えていることからもそうである。しかし教皇は少なくとも「或る特定の場合」を認めている。ところがこのことは信仰の観点からは受け入れられない。ピオ十一世は『カスティ・コンヌビイ』(II, 2)の中でこう教えているからである。「それがどれほど重大なものであったとしても、いかなる理由も、内在的に自然に反することをして自然に適合し誠実になるように変えることが出来ない」と。またピオ十二世が産婆たちへの訓話において1951年10月29日にこう教えているからである。「いかなる「示唆」あるいはいかなる必要性も、内在的に不道徳な行為を道徳的かつ合法的な行為に変えることは出来ない」と。これは聖パウロが断言していることである。「私たちは善をひき出すために悪をしてよいのか」(ローマ3:8)

 ベネディクト十六世は、この男娼のケースを「段階的道徳」の原理によって解決しようとしているようである。この原理は、極端な犯罪から無害へと段階的に導くために、より少なく重大である或る犯罪を犯すことを許すものである。より少なく重大な犯罪は、確かに道徳的ではない、しかしこれが徳への歩みの一部となることによって許されるとする説である。しかしこの考えは大きく誤っている。何故なら、より少ない悪は、それが示している改善の印がどのようなものであれ、悪に留まるからである。パウロ六世は『フマネ・ヴィテ』(n°14)の中でこう教えている。「まことに、より大きな悪を避けるために、より少ない道徳的悪を黙認する(tolérer)ことは時として許されるとしても、極めて重大な理由のためであったとしても善を帰結させるために悪を行うことは許されていない(ローマ3:8を参照)。すなわち、意志の積極的な行為の対象として、内在的に秩序立っていないことを望むこと、従って、人間のペルソナにふさわしくないことを望むこと、そしてたとえこれが個人の、家庭の、或いは社会の善を守り促進させるためという意向があったとしても、許されない。」

 より少ない悪を黙認する(Tolérer)とは、この悪を「合法的」にすることでもなければ、「道徳化」の過程の中に取り込むことでもない。『フマネ・ヴィテ』においてこう教えられている。「故意に避妊する、従って内在的に不誠実となった夫婦行為が、子だくさんの夫婦生活全体によって、誠実なものとなり得ると考えるのは誤りである」と。同じく、それ自体で不誠実なコンドームでも、これを使う男娼が徳への期待される歩みによって誠実なものとなり得ると考えるのは誤りであると言わなければならない。

 「より多く大罪」から「より少なく大罪」へと移行する「離乳期」とは反対に、福音の教えは明らかに「行け、これからはもう罪を犯すな」(ヨハネ8:11)と断言し、「行け、より少なく罪を犯せ」と言うのではない。


4. カトリック信徒らが教皇の口から聞く必要があること。

 確かに、対話形式の本は教皇の教導職の一部であると考えられることは出来ないだろう、それが常に決定的に変わることなく教えられてきたことから逸脱するときはなおさらである。さらに、カトリック信仰と道徳とに忠実に、コンドームおよび避妊薬を処方・販売することを勇敢にも拒否する医師や薬剤師たち、また一般的に聖伝に忠実な子供の多い全ての家庭は、教会の永久の教えが時代によって変わることがないと聞く必要が絶対にあることは確実なことだ。彼らは全て、自然法が人間本性に深く刻まれている故に、普遍的であるという確固たる教えを待ち望んでいる。

 ところが、『世の光』においては『フマネ・ヴィテ』の教えを相対化させる文章が掲載され、この教えに忠実に従う者たちを「深く確信している少数派」であり、その他の人々に「従うべき模範を」提示している、とする。あたかもパウロ六世の回勅が到達不可能な理想を示していただけのようである。このことは、司教らの大多数が、この教えを升の下に入れるために、既にいとも簡単に思い込んでしまっていることである。キリストは、「世の光」を正にこの升の下に入れないようにと禁止した(マテオ5:14)。

 福音の要求は、不幸にして、私たちの生きる快楽主義的な現代社会の一般規則を確認する例外となってしまったのだろうか?キリスト者がそれに適合してはならないこの世(ローマ12:2)、しかし、キリスト者が「パン種」(マテオ13:33)として変革させなければならないこの世、そしてキリスト者が「地の塩」(マテオ5:13)として天主様の智慧の味わいをそれに与えなければならないこの世の。

メンツィンゲンにて、2010年11月26日


Note on the remarks of Benedict XVI concerning condom use

2010年11月30日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

Note on the remarks of Benedict XVI concerning condom use

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In a book-length interview entitled Light of the World, which was released in German, Italian and English on November 23, 2010, Benedict XVI admits, for the first time, the use of condoms “in certain cases” “to reduce the risks of infection” by the AIDS virus.  These erroneous remarks require clarification and correction, for their disastrous effects—which a media campaign has not failed to exploit—cause scandal and disarray among the faithful.

1. What Benedict XVI said

To the question, “Are you saying, then, that the Catholic Church is actually not opposed in principle to the use of condoms?” the pope answered, according to the authorized English translation of the original German version, “She of course does not regard it as a real or moral solution, but, in this or that case, there can be nonetheless, in the intention of reducing the risk of infection, a first step in a movement toward a different way, a more human way, of living sexuality.”

To illustrate his statement, the pope gives only one example, that of a “male prostitute”.  He considers that, in this particular case, it “can be a first step in the direction of a moralization, a first assumption of responsibility, on the way toward recovering an awareness that not everything is allowed and that one cannot do whatever one wants.”

The case in question, therefore, concerns someone who, while already committing an act contrary to nature, for mercenary reasons, would take care not to infect his client fatally in addition.

2. What Benedict XVI intended to say, according to his spokesman

These remarks by the pope have been perceived by the media and by militant movements in favor of contraception, as a “revolution”, a “turning point”, or at the very least a “break” in the constant moral teaching of the Church on the use of contraceptives.  That is why the spokesman for the Vatican, Fr. Federico Lombardi, issued an explanatory note on November 21 in which we read:  “the Pope considers an exceptional circumstance in which the exercise of sexuality represents a real threat for the life of another. In that case, the Pope does not morally justify the disordered exercise of sexuality but maintains that the use of a condom to reduce the danger of infection may be ‘a first act of responsibility,’ ‘a first step on the road toward a more human sexuality,’ rather than not using it and exposing the other to risking his life.”

It is appropriate to note here, to be exact, that the pope speaks not only about “a first act of responsibility” but also about “a first step in the direction of a moralization”.  Along these same lines, Cardinal Georges Cottier, who was the theologian of the papal residence under John Paul II and at the beginning of the pontificate of Benedict XVI, had declared during an interview with the news agency Apcom on January 31, 2005:  “In some particular situations—and I am thinking about environments where drugs are circulated or where great human promiscuity and great poverty prevail, as in certain regions of Africa and Asia—in those cases, the use of condoms can be considered legitimate.”

Legitimacy of condom use, regarded as a step toward moralization, in certain cases:  that is the problem posed by the pope’s remarks in Light of the World.

3. What Benedict XVI did not say and what his predecessors have always said

“No ‘indication’ or necessity can turn an intrinsically immoral action into a moral and licit act” (Pius XII, Address to the Italian Catholic Union of Midwives, October 29, 1951).

“No reason, however grave, may be put forward by which anything intrinsically against nature may become conformable to nature and morally good” (Pius XI, Encyclical Casti Connubii, 54).

Now the use of condoms is contrary to nature inasmuch as it deflects a human act from its natural end.  Their use therefore remains immoral always.

To the journalist’s clear question, ““Are you saying, then, that the Catholic Church is actually not opposed in principle to the use of condoms?” the pope answers by citing an exceptional situation, and he does not recall that the Church is always fundamentally opposed to condom use.

Now the fact that condom use is an intrinsically immoral action, and matter for mortal sin, is a constant point in the traditional teaching of the Church, for example in the writings of Pius XI and Pius XII, and even in the thought of Benedict XVI when he says to the journalist who is questioning him, “[The Church] of course does not regard [the condom] as a real or moral solution,” but nevertheless the pope allows it “in certain cases”.  But that is inadmissible from the perspective of the faith.  “No reason,” Pius XI teaches in Casti Connubii, 54, “however grave, may be put forward by which anything intrinsically against nature may become conformable to nature and morally good.” Pius XII recalls this in his Address to Midwives (October 29, 1951):  “No ‘indication’ or necessity can turn an intrinsically immoral action into a moral and licit act.”  Saint Paul condemned the opinion that evil may be done so that good may come of it (see Romans 3:8).

Benedict XVI seems to consider the case of the male prostitute according to the principles of “gradual morality” which claims to allow certain less serious crimes so as to lead delinquents progressively from extremely serious crimes to harmless behavior.  These lesser crimes would not be moral, no doubt, but the fact that they are part of a path toward virtue would render them licit.  Now this idea is a serious error because a lesser evil remains an evil, whatever improvement it may indicate. As Paul VI teaches in Humanae vitae (no. 14), “Though it is true that sometimes it is lawful to tolerate a lesser moral evil in order to avoid a greater evil or in order to promote a greater good, it is never lawful, even for the gravest reasons, to do evil that good may come of it (cf. Romans 3:8)—in other words, to intend directly something which of its very nature contradicts the moral order, and which must therefore be judged unworthy of man, even though the intention is to protect or promote the welfare of an individual, of a family or of society in general.”

Tolerating a lesser evil is not the same as making that evil “legitimate”, nor including it in a process of “moralization”.  Humanae vitae (no. 14) recalls that “it is a serious error to think that a whole married life of otherwise normal relations can justify sexual intercourse which is deliberately contraceptive and so intrinsically wrong,” just as one must say that it is an error to propose the idea that a condom, which in itself is wrong, could be made right by the hoped-for path toward virtue of a male prostitute who uses it.

As opposed to a weaning process that would lead from a sin that is “more mortal” to one that is “less mortal”, evangelical teaching clearly affirms:  “Go and now sin no more” (John 8:11) and not “go and sin less”.

4. What Catholics need to hear from the pope’s lips

Certainly, a book-length interview cannot be considered an act of the Magisterium [i.e. of the Church’s official teaching authority], a fortiori when it departs from what has been taught in a definitive, unchangeable way.  Nonetheless the fact remains that the doctors and pharmacists who courageously refuse to prescribe and deliver condoms and contraceptives out of fidelity to their Catholic faith and morality, and in general all the many families devoted to Tradition, have an urgent and overriding need to hear that the perennial teaching of the Church could not change over time.  They all await the firm reminder that the natural law, like human nature upon which it is engraved, is universal.

Now in Light of the World we find a statement that relativizes the teaching of Humanae vitae by describing those who follow it faithfully as “deeply convinced minorities” who offer the others “a fascinating model to follow”.  As if the Encyclical by Paul VI set an ideal almost out of reach, which is what the great majority of bishops had already persuaded themselves of, so as to slip that teaching more readily under the bushel basket—precisely where Christ forbids us to place “the light of the world” (Matthew 5:14).

Should the demands of the Gospel become, unfortunately, the exception destined to confirm the general rule of the hedonistic world in which we live?  The Christian must not be conformed to this world (see Romans 12:2), but rather must transform it as “the leaven in the dough” (see Matthew 13:33) and give it the taste of Divine Wisdom as “the salt of the earth” (Matthew 5:13).

 

Menzingen, November 26, 2010


教皇様の発言に関する聖ピオ十世会の見解

2010年11月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇様のコンドームに関する発言についての聖ピオ十世会の公式見解の日本語版は、只今、準備中です。暫くお待ちください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

教皇様の新しい本の中のコンドームに関する言及について

2010年11月29日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 教皇様の新しい本の中のコンドームに関する言及について、聖ピオ十世会の見解






Note sur les propos de Benoît XVI au sujet de l’utilisation du préservatif

Dans un livre-entretien intitulé Lumière du monde, paru en allemand et en italien le 23 novembre 2010, Benoît XVI admet, pour la première fois, l’utilisation du préservatif « dans certains cas », « pour réduire les risques de contamination » par le virus du sida. Ces propos erronés demanderaient à être clarifiés et corrigés car leurs effets désastreux – qu’une campagne médiatique n’a pas manqué d’exploiter – causent scandale et désarroi parmi les fidèles.

1. Ce que Benoît XVI a dit

À la question « l’Église catholique n’est-elle pas fondamentalement contre l’utilisation de préservatifs ? », le pape répond, selon la version originale allemande : « Dans certains cas, quand l’intention est de réduire le risque de contamination, cela peut quand même être un premier pas pour ouvrir la voie à une sexualité plus humaine, vécue autrement. »

Pour illustrer son propos, le pape donne un seul exemple, celui d’un « homme prostitué ». Il considère que, dans ce cas particulier, cela peut être « un premier pas vers une moralisation, un début de responsabilité permettant de prendre à nouveau conscience que tout n’est pas permis et que l’on ne peut pas faire tout ce que l’on veut ».

Il s’agit donc du cas de quelqu’un qui, commettant déjà un acte contre nature, à des fins vénales, aurait le souci de ne pas – en plus – contaminer mortellement son client.

2. Ce que Benoît XVI a voulu dire, selon son porte-parole

Ces propos du pape ont été perçus, par les media et les mouvements militant en faveur de la contraception, comme une « révolution », un « tournant » ou à tout le moins une « brèche » dans l’enseignement moral constant de l’Eglise sur l’usage des moyens contraceptifs. C’est pourquoi le porte-parole du Vatican, le P. Federico Lombardi, a fait paraître une note explicative le 21 novembre où l’on peut lire : « Benoît XVI considère une situation exceptionnelle où l’exercice de la sexualité représente un véritable risque pour la vie de l’autre. Dans ce cas, le pape ne justifie pas moralement l’exercice désordonné de la sexualité, mais retient que l’utilisation du préservatif pour diminuer le danger de contagion est ‘un premier acte de responsabilité’, ‘un premier pas sur le chemin vers une sexualité plus humaine’, plutôt que de ne pas en faire usage, exposant l’autre au péril de sa vie ».

Il convient ici de noter, pour être exact, que le pape parle non seulement d’un « premier acte de responsabilité », mais aussi d’un « premier pas vers la moralisation ». Dans le même sens, le cardinal Georges Cottier qui fut théologien de la Maison pontificale sous Jean-Paul II et au début du pontificat de Benoît XVI, avait déclaré lors d’un entretien à l’Agence Apcom le 31 janvier 2005 : « Dans des situations particulières – et je pense à des milieux où circule la drogue ou à des milieux où règnent une grande promiscuité humaine et une grande misère, comme dans certaines zones d’Afrique et d’Asie – dans ces cas-là, l’utilisation du préservatif peut être considérée comme légitime ».

Légitimité de l’usage du préservatif envisagé comme un pas vers la moralisation, dans certains cas, tel est le problème posé par les propos du pape dans Lumière du monde.

3. Ce que Benoît XVI n’a pas dit et que ses prédécesseurs ont toujours dit
« Aucune ‘indication’ ou nécessité ne peut transformer une action intrinsèquement immorale en un acte moral et licite. » (Pie XII, Allocution aux sages-femmes du 29 octobre 1951)

« Aucune raison assurément, si grave soit-elle, ne peut faire que ce qui est intrinsèquement contre-nature devienne conforme à la nature et honnête. » (Pie XI, Encyclique Casti Connubii)

Or, l’usage de préservatifs est contre-nature en ce qu’il détourne un acte humain de sa fin naturelle. Leur utilisation demeure donc toujours immorale.

A la question claire du journaliste « l’Église catholique n’est-elle pas fondamentalement contre l’utilisation de préservatifs ? », le pape répond par une situation exceptionnelle et ne rappelle pas que l’Eglise est toujours fondamentalement opposée à l’usage des préservatifs.

Or, que l’utilisation du préservatif soit une action intrinsèquement immorale et matière à péché mortel, est un point constant dans l’enseignement traditionnel de l’Eglise, par exemple chez Pie XI et Pie XII, et même dans la pensée de Benoît XVI disant au journaliste qui l’interroge : « Evidemment, l’Eglise ne considère pas le préservatif comme une solution réelle ni morale », mais le pape l’admet néanmoins « dans certains cas ». Cela est pourtant inadmissible au regard de la foi : « Aucune raison, enseigne Pie XI dans Casti Connubii (II, 2), assurément, si grave soit-elle, ne peut faire que ce qui est intrinsèquement contre-nature devienne conforme à la nature et honnête ». Ce que rappelle Pie XII dans son Allocution aux sages-femmes du 29 octobre 1951 : « Aucune ‘indication’ ou nécessité ne peut transformer une action intrinsèquement immorale en un acte moral et licite ». Ce que saint Paul affirmait : « Ne faisons pas le mal pour qu’il en advienne un bien » (Rm 3, 8).

Benoît XVI semble envisager le cas de ce prostitué selon les principes de la « morale de gradualité » qui veut permettre certains délits moins graves pour amener progressivement les délinquants de délits extrêmes à l’innocuité. Ces délits moindres ne seraient pas moraux, sans doute, mais le fait qu’ils fassent partie d’un cheminement vers la vertu les rendrait licites. Or cette idée est une grave erreur parce qu’un moindre mal reste un mal quel que soit le signe d’amélioration qu’il donne. « En vérité, enseigne Paul VI dans Humanae vitae (n°14), s’il est parfois licite de tolérer un moindre mal moral afin d’éviter un mal plus grand ou de promouvoir un bien plus grand, il n’est pas permis, même pour de très graves raisons, de faire le mal afin qu’il en résulte un bien (cf. Rm 3, 8), c’est-à-dire de prendre comme objet d’un acte positif de la volonté ce qui est intrinsèquement un désordre et par conséquent une chose indigne de la personne humaine, même avec l’intention de sauvegarder ou de promouvoir des biens individuels, familiaux ou sociaux ».

Tolérer un moindre mal n’équivaut pas à rendre ce mal « légitime », ni à l’inscrire dans un processus de « moralisation ». Dans Humanae vitae (n°14), il est rappelé que : « C’est une erreur de penser qu’un acte conjugal rendu volontairement infécond et par là intrinsèquement déshonnête, puisse être rendu honnête par l’ensemble d’une vie conjugale féconde », de même il faut dire que c’est une erreur d’avancer l’idée que le préservatif, en soi déshonnête, puisse être rendu honnête par le cheminement espéré vers la vertu d’un prostitué qui l’utilise.

A l’opposé d’un sevrage qui passerait d’un péché « plus mortel » à un péché « moins mortel », l’enseignement évangélique affirme clairement : « Va et désormais ne pèche plus » (Jn 8, 11), et non pas « va et pèche moins ».

4. Ce que les catholiques ont besoin d’entendre de la bouche du pape

Certes un livre-entretien ne peut pas être considéré comme un acte du magistère, a fortiori lorsqu’il s’écarte de ce qui a été enseigné de façon définitive et invariable. Il n’en demeure pas moins que les médecins et les pharmaciens qui refusent courageusement de prescrire et de délivrer préservatifs et contraceptifs par fidélité à la foi et la morale catholiques, et que plus généralement toutes les familles nombreuses attachées à la Tradition ont impérieusement besoin d’entendre que l’enseignement pérenne de l’Eglise ne saurait changer au fil du temps. Ils attendent tous le rappel ferme que la loi naturelle, comme la nature humaine où elle est gravée, est universelle.

Or dans Lumière du monde se trouve une affirmation qui relativise l’enseignement d’Humanae Vitae en désignant ceux qui le suivent fidèlement comme des « minorités profondément convaincues » offrant à d’autres « un modèle fascinant à suivre ». Comme si l’encyclique de Paul VI fixait un idéal presqu’hors d’atteinte ; ce dont s’était déjà facilement persuadée la grande majorité des évêques pour mieux glisser cet enseignement sous le boisseau – là où précisément le Christ nous défend de mettre la « lumière du monde » (Mt 5, 14).

L’exigence évangélique deviendrait-elle malheureusement l’exception destinée à confirmer la règle générale du monde hédoniste dans lequel nous vivons ? Ce monde auquel le chrétien ne doit pas se conformer (cf. Rm 12, 2), mais qu’il doit transformer comme « le levain dans la pâte » (cf. Mt 13, 33) et auquel il doit donner le goût de la Sagesse divine comme « le sel de la terre » (Mt 5, 13).

Menzingen, le 26 novembre 2010

スペイン語 Nota sobre los conceptos de Benedicto XVI acerca del uso del preservativo

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(kreuz.net) Heute hat das in der Schweiz gelegene Generalhaus der Priesterbruderschaft Sankt Pius X. in einer französischen Stellungnahme das Kondom-Debakel von Papst Benedikt XVI. kommentiert.


待降節第一主日、近況報告

2010年11月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、如何お過ごしでしょうか?

 ついに待降節第一主日ですね。時が経つのは速いものです。

 こちらはマニラに戻って、戻るなりたまった仕事をしました。書類にサインをすること、現場の視察をすること、ミーティング、等々です。

 11月27日の土曜日には夕方の聖伝のミサの後、真夜中の12時まで、教皇様の呼び掛けに応えて、生命に対して犯される罪の償いのために聖体礼拝を行いました。

 今日はマニラでスエロ神父様と2人で主日の仕事を行いました。朝の歌ミサを私が、夕方の聖伝のミサをスエロ神父様が執行しました。教会はとくに後ろが人で一杯でした。いわゆるoutstanding catholicでしょうか。

 告解はミサの間に聞きました。スエロ神父様が午前中、夕方のミサの間には私が告解所で待機しました。ミサが終わっても、まだまだ多くの方々が告白しました。

 午後2時から3時まで、ラジオの放送局でライヴに番組に出ました。英語でしか話せませんでした。タガログ語が自由自在に喋れたらもっと良かったのですが!サーヤン!!

 多くの愛する兄弟姉妹の皆様から愛され、天主様に感謝しております。今週はマニラではもうスケジュールがぎっしりです。4日の土曜日にはフルーガー神父様がマニラに来られます。年末まで、いろんなイベントで待っています。

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに深く感謝しています。愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

只今ソウルにおります

2010年11月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 マックファーソン神父様と私はソウルにおります。ソウルの聖堂の仕事の「引き継ぎ」のようなことをしております。

 北朝鮮が昨日の2時半頃、韓国に攻撃したのですが、心配はいらないようです。お祈りに感謝します。

 わたくしの韓国の携帯電話は来月まで使用不可能になってしまいました。ご不便をおかけしますが、ご理解願います。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

参考資料 AIDE: BENEDICT XVI DOESN'T J USTIFY CONDOM USE

2010年11月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 参考資料です。

AIDE: BENEDICT XVI DOESN'T JUSTIFY CONDOM USE

Notes Pope's Ability to See Small Steps of Impoverished Humanity

VATICAN CITY, NOV. 21, 2010 (Zenit.org).- A Vatican spokesman is clarifying that Benedict XVI is not justifying condom use, though the Pope said it could in some cases be a first step toward moral behavior.
Jesuit Father Federico Lombardi, director of the Vatican press office, said this in a statement today regarding the words of Benedict XVI as recorded in a book,"Light of the World" (Ignatius Press), scheduled for release on Tuesday.
On Saturday, L'Osservatore Romano published some quotes from this book, which drew public interest and media misunderstandings.
At the end of the tenth chapter of the book, the writer, German journalist Peter Seewald, asked the Pontiff two questions on the fight against AIDS and the use of condoms. Seewald referenced the Holy Father's comments on this topic while aboard the papal plane on the way to Cameroon and Angola in March, 2009.
Father Lombardi noted that Benedict XVI answered Seewald by insisting "on the fact that focusing only on condoms is equivalent to banalizing sexuality, which loses its meaning as an expression of love between persons and becomes a 'drug.'"
The spokesman affirmed that "fighting against banalization of sexuality is 'part of the great effort to help sexuality be valued positively and have a positive effect on man in his totality.'"
He added, "In the light of this broad and profound vision of human sexuality and the contemporary discussion of it, the Pope reaffirms that 'naturally the Church does not consider condoms as the authentic and moral solution' to the problem of AIDS."
"In this the Pope does not reform or change the Church's teaching, but reaffirms it," the priest stated.
"At the same time the Pope considers an exceptional circumstance in which the exercise of sexuality represents a real threat for the life of another," the spokesman explained.

Recovering awareness
The Ignatius Press blog, Ignatius Insight, published these excerpts of the book
today, noting the Pontiff's words: "There may be a basis in the case of some individuals, as perhaps when a male prostitute uses a condom, where this can be a first step in the direction of a moralization, a first assumption of responsibility, on the way toward recovering an awareness that not everything is allowed and that one cannot do whatever one wants. But it is not really the way to deal with the evil of HIV infection. That can really lie only in a humanization of sexuality."
When Seewald asked the Holy Father to clarify the Church's position on the use of condoms, Benedict XVI responded: "She of course does not regard it as a real or moral solution, but, in this or that case, there can be nonetheless, in the intention of reducing the risk of infection, a first step in a movement toward a different way, a more human way, of living sexuality."
Father Lombardi explained, "In that case, the Pope does not morally justify the
disordered exercise of sexuality but maintains that the use of a condom to reduce the danger of infection may be 'a first act of responsibility,'" as opposed to "not using it and exposing the other to risking his life."
"In this, the reasoning of the Pope certainly cannot be defined as a revolutionary change," he said.
"With courage Benedict XVI thus offers us an important contribution of clarification and reflection on a question that has long been debated," the priest affirmed.
He continued, "It is an original contribution, because on one hand it maintains
fidelity to moral principles and demonstrates lucidity in refuting an illusory
path like that of the 'confidence is condoms.'"
On the other hand, Father Lombardi said, "it manifests a comprehensive and far-seeing vision, attentive to uncovering the small steps -- even if only initial and still confused -- of an often spiritually and culturally
impoverished humanity, toward a more human and responsible exercise of sexuality."
He pointed out that in this book, "the Pope again clearly stresses" that when he spoke to journalists aboard the papal plane "he had not intended to take a position on the problem of condoms in general."
Rather, the spokesman noted, the Pontiff "wanted to affirm with force that the
problem of AIDS cannot be solved simply by distributing condoms, because much
more needs to be done: prevention, education, help, counsel, being with people
both to keep them from getting sick and in the case that they do get sick."


--
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
Fr Thomas Onoda, FSSPX




トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

天主様に感謝します!!

2010年11月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は、マックファーソン神父様と来日しましたが、東京では主日に43名、月曜の朝のミサに約12名(ミサに遅れてしまった方々を含みます)の愛する兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与りました!!平日の朝ミサですが主日の3分の1の方々が聖伝のミサに与かるのは嬉しいことです!

 体調が悪く、いつも平日に来る愛する兄弟姉妹で来られない方々もいました。主日に来ることができなかったけれど月曜に来て聖伝のミサに与った愛する兄弟姉妹の方々もいました。天主様に感謝します!!

 マックファーソン神父様も日本の敬虔な兄弟姉妹をご覧になりとてもお喜びの様子です。


 来月は総長第一補佐のフルーガー神父様の来日予定です。多くの愛する兄弟姉妹の皆様のお越しをお待ちしております。来月には東京で愛する兄弟姉妹の皆様のためにプレゼントを用意いたします。
 では、愛する兄弟姉妹の皆様、また来月を楽しみにしております。愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

 愛する兄弟姉妹の皆様とまた会えるのが楽しみです。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

天主に感謝!

2010年11月20日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、こんにちは!!

 昨日の大阪での聖伝のミサには14名、今日の聖伝のミサには19名(なかに1名の方が、途中で帰っていかれました)の愛する兄弟姉妹の皆様が与りました。天主様に感謝します!!大阪の愛する兄弟姉妹の皆様と会えて幸福です!(ツッチーから連絡があって小野田神父のためにたくさんお祈りしてくださっていたそうです!感謝!)

 聖ピオ十世会40周年の記念メダルをお持ちしております。ご希望の方はお知らせください。マニラの勝利の聖母教会のTシャツもお持ちしました。

 秋田に巡礼に行ったら秋田の聖母のストラップがあったそうです。日本の聖ピオ十世会の特別携帯電話用ストラップがあったら良いと提案(?)されました。肯定的に対応していきたいと思います。

 明日は、少なくとも今日来れなかった2名の方々が大阪から東京に来て聖伝のミサに与かるそうです。

 明日は東京でも、午後2時半から「第二バチカン公会議による信仰」という講話があります。愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
アヴェ・マリア!

 あっという間に時間が経ってしました。天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

カトリック教会に聖なる召命が与えられるため:現在24767環のロザリオが集まりました

2010年11月19日 | ロザリオの十字軍

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 召命のための祈願の祈りの報告をご紹介いたします。
 2010年5月1日から11月1日までの分として、カトリック教会に聖なる召命が与えられるための意向で、現在
 ロザリオ  24767環
 聖伝のミサ 325回
 聖体拝領  54回
 霊的聖体拝領 820回
 巡礼    3回
 十字架の道行き 9回
 聖体降福式 14回
 教皇様、司祭様と召命の祈り合計237回
 連祷合計   1190回
 黙想    594回
 聖書朗読  153章
 ノベナ 78回
 射祷  346回
 その他の祈り 1121回
 7つの悲しみのロザリオ 2回
 聖歌    183回

 いろいろな犠牲

 などが報告されています。11月1日まで、できれば、愛する兄弟姉妹の皆様から(聖三位一体を賛美して)総計してロザリオを3万環捧げることを望んでいましたが、それは今回は適いませんでした。

 そこで、多くの聖なる召命がカトリック教会に与えられますように、という意向でもう一度、来年の5月に秋田への巡礼を行いたいと思っています。

 次の祈りが報告されています。

【報告】
JMJ

 召命の十字軍のロザリオ、まだ間に合うようでしたら十環加えてください。少なくてすみません。きちんとカウントできたのはこれぐらいです。
 その他の犠牲は、霊的聖体拝領二回と、ニュースレターの召し出しに関する記事の翻訳、煉獄の霊魂のためのごミサの依頼です(煉獄の霊魂たちに、召命がたくさんありますようにとの取り次ぎをお願いしました)。
 神父様も、マニラでの重責に加え、次から次へとたくさんのお仕事が降り掛かってきておられるご様子、とても心配であると同時に、神父様のこれまでのお働きに、天主様が降るようなお恵みで報いてくださっているようにも感じられ、嬉しい限りです。
 どうぞこれからも日本のためにご活躍くださいませ。
 聖ヨゼフにお祈り致しております。

【報告】
アウ゛エマリア!
小野田神父様、先月も告解ミサの際には本当に有難うございました。また日頃ブログ等を通して、いつもお世話になっております。
大変遅れてしまいましたが、5月~10月のロザリオ十字軍の報告をさせていただきたいと思います。ロザリオ153環です。何々しながらという唱え方をしていたため、しっかりと唱えられない事が多々ありましたので申し訳ありません。どうか少しでも聖母マリアに受け入れていただけますように願っております。また11月からのロザリオの十字軍も頑張っていきたいと思います。また色々とお世話になりますが宜しくお願いいたします。では小野田神父様お身体お気をつけて聖務に励まれますようお祈りいたします。


【報告】

 9月と10月でロザリオは61環です。
 聖母の連祷が5回です。(“夕の祈り”で唱えた分や“償いの祈り”で唱えた分は含めていません。)

 少なかったので、同じ意向で続けようと思っています。

 一日遅れですが、諸聖人の大祝日、おめでとうございます。
 また、聖ピオ十世会創立40周年のお祝いを申し上げます。

 修道会のさらなる飛躍と、マニラでのミッション、特に中等学校創設が修道会の精神に沿って着実に展開しますように、また日本と韓国の宣教もこれまで築かれたことがさらに発展しますように、お祈りします。加えて、小野田神父様のご健康が護られますように。

 インターネットがつながらなかったり、水道のポンプが故障したり、児童がケガをしたり、ただでさえお忙しい上に様々なことが重なりますね。
 お子さんのケガは大丈夫だったでしょうか。

 「遊んでいて転んでケガ」とありましたが、小学生は小さな傷はしょっちゅう作っても、大事には至らないことが多いという印象があります。鉄棒から落ちてひやっとしても、階段で足を滑らせても、小さい子の場合はあざを作る程度で済むことが多いです。上手に身をかわしますね。守られているのでしょうね。

 学校で「骨折」や「縫合するレベルの切り傷」をつくってしまう時には、ルール違反をしていることが多いというのが私の印象です。

 ケガをして痛い思いをしている子に、さらに「あの時の何が悪かった」と言うのは酷なようですが、時間がたつと本人の記憶が薄れますから、幼稚園に通う子以上の年齢なら、「何が悪かったのか、どうすれば防げたのか」をその事例に応じて話す必要はあると思います。通常、これは、担任(学校)や親(家庭)の仕事です。安全教育です。

 公立学校では月に1回、校内の「安全点検」というのがありました。これは主として教師側の仕事です。雨が降ってぬれたり、梅雨時の湿気や冬場の結露で滑りやすくなる箇所のチェックや、ベランダや窓の安全や、板に打ち付けた釘が出ていないかなど…。消火器の使用期限とピン。理科室の薬品管理。調理室や理科室のガス関係。灯油倉庫。ガスボンベ。電球のねじのゆるみ。コンセントのほこり。教室や図書室で地震で落下する危険のあるものの点検。

 これらの点については、公立学校では、子どもが暴れたり廊下を走ったりルールを無視する可能性があることを前提で、安全点検をするのですね。

 しかし、私の出身校でも、息子たちの通った私学でも、階段の踊り場や廊下にマリア様の(割れる)御像が置かれていたり、ガラスケースがあったり、花瓶に生けられた生花が置かれていたり、身を乗り出せば落ちる高さに窓があるのに、落下防止の鉄棒がなかったり、消火用の水を置かないでキャンドル・サービスをしたり、わりと安全に関する基準がゆるいように感じています。

 私学では子どもが、ルールを守れることが前提で、校舎の管理がされているようです。

 通常、教師は点検と報告し、修理や改善が必要な場合は担当の校務員さん(現業をして下さる方)にお願いしていました。

 神父様は本当にお忙しそうです。
 ビデオを拝見していると、おやせになったように感じます。
 もうすぐ、マックファーソン神父様とご一緒に日本に来て下さるのですね。
 ありがたいことですが、お疲れになられることだと思います。
 できるだけ睡眠時間を確保なさってください。

 どうぞお元気で。お祈りしています。
 それでは、今月の聖伝の御ミサを楽しみにしています。
 

【お返事】
 新米校長3ヶ月になりました。子供は校庭で遊んでいて、近頃の雨で生えたようなコケに滑ってしまったようです。早速ジェット水流の出る強力ポンプ付きの特別ホースでコケを落とす作業をしました。

 忙しいは心を亡ぼすこととはよく言ったものです。お祈りの時間だけはきちんと取るようにしております。出来れば神学の勉強もまじめに続けたいのですが・・・。ルフェーブル大司教様の伝記もまだ残っていますし。ルフェーブル大司教様はあれほどお忙しい中を、公会議を準備したり、公会議中には討論したり、ガリ版をすったり、大変だったろうなと思いながら仕事をしています。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに深く感謝しています。



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聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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2010年の10月31日の王たるキリストの祝日のフィリピン(マニラ)での写真をご紹介します

2010年11月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2010年の10月31日の王たるキリストの祝日のフィリピン(マニラ)での写真をご紹介します。


2010年の10月31日の王たるキリストの祝日のフィリピン(マニラ)での写真SSPX

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安田神父様の「聖母マリア像の涙 テープの文集(カナの水がめ)安田神父のお話」も

2010年11月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 安田神父様の貴重な本(A4判横開き)「聖母マリア像の涙 テープの文集(カナの水がめ) 安田神父のお話」も 7冊 手元にありますので、ご希望の方に定価でお譲りいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

フィリピンの「出産健康法」に反対する方々のビデオをご紹介します。

2010年11月18日 | ロザリオの十字軍

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

フィリピンの「出産健康法」に反対する方々のビデオをご紹介します。

最初のビデオは、元市長であったリト・アティエンサさんです。彼はフィリピンの有名なボクサーであるパキヤオを育てた「親」でもあり、そのパキヤオは先日テキサスで勝ち国民の絶対的な人気を保っています。アティエンサ氏はパキヤオもHR法に反対していると訴えています。

愛する兄弟姉妹の皆様、どうぞフィリピンのためにお祈り下さい。





 

 

District d'Asie : croisade du rosaire du 31 octobre 2010 au 16 janvier 2011

 

Accès à la revue de presse du District d'Asie

Communiqué publié à la demande du supérieur du District d'Asie

Le District d'Asie, par la voix de son supérieur, M. l'abbé Daniel Couture,
et de celle du prieur de Manille, M. l'abbé Onoda, invite tous les fidèles
de la Fraternité Sacerdotale Saint-Pie X à une croisade du rosaire
contre le projet inique d'une loi obligeant les Philippins à la contraception !

"Je voudrais faire un appel urgent de prières pour les Philippines, un des derniers pays bastions de la foi catholique qui est sous la menace d’une législation inique.

Le gouvernement veut imposer une loi (Reproductive Health Bill ) favorisant toute  contraception et même la gratuité, sous peine de sanctions sévères pour tous  ceux qui s’y opposeraient. Ceci implique d’ailleurs, également les évêques philippins.

En conséquence la Fraternité aux Philippines a lancé une croisade de  rosaires depuis le 31 octobre 2010 jusqu'au 16 janvier 2011.

La situation est tellement périlleuse que même le Cardinal Vidal (Cardinal  de Cebu), ainsi que l'Archevêque Aniceto (archevêque de San Fernando,  Panpanga) encouragent tous les Philippins à participer à notre Croisade. Ce  qui bien sûr nous réjouit.

Nous serions très reconnaissants envers les fidèles qui naviguent sur La Porte Latine s'ils peuvent s'associer eux aussi à cette croisade pour le maintien de la foi dans un des derniers pays encore catholique. 

Nous avons besoin de beaucoup de prières pour  toucher les cœurs des dirigeants philippins, d'autant qu'Il semble que beaucoup d'argent vienne de pays étrangers pour parvenir à  faire passer cette loi.

Pour bloquer cette législation mortifère, nous devons offrir  beaucoup de rosaires à Notre-Dame à qui rien n'est impossible."

Abbé Thomas ONODA



楽しみです

2010年11月17日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

如何お過ごしでしょうか?

 こちらは仕事をかたづようと頑張っております。フィリピンを留守にするそんな時に限って、極めて稀な会合に誘いを受けたり、テレビの出演の話しがあったり、みんな断ることになりました。

 しかし愛する兄弟姉妹の皆様とお会いすることを心から楽しみにしております。

 積もる話しはありますが、お会いした時にゆっくりと!お祈りのうちに愛する兄弟姉妹の皆様のことを思い出しています。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】