アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
「モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状」という文章を日本語に翻訳してくださった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
モンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニによる聖ピオ十世会についての見解と公教会の現状
クリエ・ド・ローム(Courrier de Rome)誌の2010年5月版(第333号)で、パオロ・パスクァルッチ教授(Professor Paolo Pasqualucci)はモンシニョール・ブルネーロ・ゲラルディーニ(Msgr. Brunero Gherardini)による研究論文に関して啓発的論評を提供している。【ブルネーロ・ゲラルディーニ神父は、ローマの聖ペトロ大聖堂の教会参事会員(カノン)であり、ラテラン大学の神学部の元部長であった】
この論文は、神学雑誌 ディヴィニタス誌(Divinitas)上に、
"Quod et tradidi vobis - La tradizione vita e giovinezza della Chisa" 【私は受けたものをあなた方に与えた‐聖伝、生活、そして教会の若者たち】という題で掲載され、さらにカーザ・マリアーナ出版社(
Casa Mariana Editrice)により再度一冊の本に於いて取り上げられてもいる研究論文である。(
第7章 聖伝と第二バチカン公会議後 Cap. VII Tradizione e postconcilio は、ネット上で読めます。)
今年の初めにフランス語で出版された第二バチカン:公開討論(Vatican II:An Open Discussion) の著者モンシニョール・ゲラルディーニは、Quod et tradidi vobis 論評の中で、聖伝と第二バチカン公会議との神学討論という非常に当を得た分析を紹介している。次のものは、クリエ・ド・ローム 誌上で指摘されている、9つの障害のリストの大抜粋である。このリストの後に、私たちの方で三つの寸評を加えたが、その中でモンシニョール・ゲラルディーニは、非常に明確な個人的意見を述べる事を躊躇(ためら)わない。
「聖伝に賛成するルフェーブル司教により擁護された立場の体系をまとめてみようと私は努力を払い、しかしこの問題について取り残しのないほど徹底的に論じていると主張しているわけではないが、この対立それ自体は、次のようであると私には思える:
1.
聖伝の司祭養成と新しい司祭養成
教会の聖伝の上にまた天啓という超自然的価値の中に、その諸原則を打ち立てる聖伝の
司祭養成と、永続的変化にある文化の変動的水平に開かれた新しい司祭養成との対峙。
2.
聖伝の典礼と新しい典礼
聖伝のと呼ばれるミサに於いて確かに力強い点を持っている典礼と、[新典礼の]人間中心的で社会学的な典礼との対峙。また新しい典礼では、共同体は個人の価値に勝り、祈りは天主崇拝の側面が無視され、[司祭ではなく] 集会が主要な行為者となり、天主は人間に場所を譲っている。
3.
聖伝による自由と新しい自由
人の「解放」を、天主の十戒や、公教会の掟、身分上の義務による拘束、天主を知り、愛し、そして天主に仕えるという義務に依存させる自由と、あらゆる形式の礼拝<=あらゆる宗教>を対等に置き、神法に関しては黙し、個人と社会を道徳と宗教の分野と無関係にし、あらゆる問題の解決策を良心にのみ委ねる自由との対峙。
4.
聖伝の神学と新しい神学
特定の典拠(天啓、教導権、教父学、典礼)からその内容を汲み取る神学と、来る日も来る日も、その時々の文化的出現や、それどころか明らかにちょうど言及したばかりの典拠と相反したものに門戸を大きく開く神学との対峙。
5.
天主の救世論と新しい救世論
御託身された御言葉<イエズス・キリスト>の位格とその贖いの業と聖霊の働きとに密接に結び付き、救い主の御功徳の適用や、公教会の秘蹟による介入、さらに洗礼を受けて信徒となった人々の協力とに緊密に繋がっている 救世論 (編集者注:救霊の業に関する学問)と、 人類の一致(現代世界憲章22参照)を御言葉の御託身の結果であると考え、御言葉において個々の人間が自分固有の同一性をその中に見出すとする救世論との対峙。
6.
聖伝の教会論と新しい教会論
公教会をキリストの神秘体と同一であると見做し、キリストの秘蹟的現存の中に教会の存在と行動の極めて重要な命の秘密であると認識する教会論と、 カトリック教会を、キリストの教会を構成するその他の諸々の中の単なる一要素であると考え、このキリストの幽霊的教会において、宣教精神は眠りこけ、福音化をしない対話をし、あたかも大罪であるかのように改宗を考えてそれを放棄する教会論との対峙。
7.
ミサ聖祭に関する聖伝の概念と新しい概念
キリストの御受難、御死去、御復活の神秘を執行し、天主の正義を満足させて罪を償う贖罪を秘蹟的に再現させる、罪の償いのミサの犠牲 と、 "自分自身を啓示する天主" には基づかず、"我々に語りかける天主に対して為される存在論的返答" に基づく信仰ということにより、司祭が単なる座長であり、個々の信者がこの秘蹟に「積極的な」参加をするミサとの対峙。
8.
聖伝の教導権と新しい教導権
天主からの啓示の聖なる遺産を守るのみならず、この天啓を解釈し未来の世代に伝える義務を持つと自覚している教導権と、 教導教会の声である事を自覚するどころか、ローマ教皇と同等の権利と義務を持つ司教団に公教会それ自体を服従させる教皇の教導権と対峙。
9.
聖伝の宗教心と新しい宗教心
天主に奉仕する事、そして、天主への愛の故に、人類社会の兄弟たちに奉仕する事という共通の召命を実現させる宗教心と、 この自然秩序を覆して、人間をその中心とするに留まらず、理論上でなくとも少なくとも実際上、天主の地位に人間をたてる宗教心との対峙。
「今述べた事から、聖ピオ十世会が如何に聖伝を理解しているかを容易に推論することが出来ます。確かに、聖伝とは、聖ピオ十世会が否定することと反対するすべて、聖ピオ十世会が反対し対立する事柄と正反対のすべてです。直接に、あるいは間接的に発言の行間で、聖ピオ十世会は公会議の公文書に記された諸々の革新と、公会議後に行われたその適用を拒絶しており、また聖ピオ十世会は格式なく為された野蛮なやり方に反対しています。」
「聖ピオ十世会の文書に於いて、聖伝の概念が頻繁には説明されていないことは事実であり、そこでこの概念が体系的に展開されているとは思いません。しかし、そこで理解されている事は、ちょうど推測されていることのように、陰には決して留まりません。全ての基礎には『永遠の信仰』があり、この防衛の為にこそ聖ピオ十世会は誕生しました。『防衛』ということは、その反対のもの、あるいはその代用品に有利になるような何かが存在するか、又はあり得ると言うことを表しています。『永遠の信仰』こそが、ルフェーブル大司教様が守りたいと望まれた価値であり、つまり公会議から公会議後の時期に起きたありとあらゆる衰弱、再解釈、分裂や反論と入れ替えられている価値です。この『永遠の信仰』は、『Quod semper, quod ubique, quod ab omnibus creditum est‐至るところで、常に、万人によって信じられたもの . . . 』というレランの聖ヴァンサンの言葉に要約された聖アウグスチヌスの教えの鮮明なこだまなのです。まさに司祭養成を第一の目的とする聖ピオ十世会の創立は、この理想と、この『永遠の信仰』を守るための行動とに従います。信仰を守り誤謬と戦うことに。」
「聖座と聖ピオ十世会間の難しい関係について詳細に触れるつもりはありません。私は聖伝という共通のテーマから離れないようにします。『信仰を守り誤謬と戦うこと』は、公教会のみならず、その子らにとっての、理想であり、そのために参加すべき行動であるべきです。この事を考慮するなら、1988年にヨハネ・パウロ二世により言われた『不完全かつ矛盾する聖伝』(Motu Proprio Ecclesia Dei, 1988年7月2日)に対する非難が、現実的な根拠をどうやって持ち得るのか私には理解し難いものがあります。私が理解する事は、聖伝はアシジの精神と何の関係もないという事です。
(Mgr Gherardini, Quod et tradidi vobis – La tradizione vita e giovinezza della Chiesa, Ed. Casa Mariana Editrice, pp. 241-244).
【ブルネーロ・ゲラルディーニは、ローマ学派の85歳になる高名な神学者であり、聖ペトロ大聖堂参事会員にして教皇庁立神学院秘書、また教皇庁立ラテラノ大学名誉教授、さらに雑誌ディヴィニタス の編集者である。
その他にも
『第二バチカン公会議、開かれている疑問(Vatican II, question ouverte)』という論文を書き、2011年7月12日に Catholica 誌 no. 111, pp. 39-47 に掲載された。】