Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天使からお告げを受けた聖母のお答え 悲しみの聖母マリア Ecce ancilla Domini! Fiat!

2015年06月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちがロザリオを祈るとき、天使祝詞を繰り返し唱えます。天使の挨拶の言葉です。

ヤン・ヘンリック・デ・ロセン(Jan Henryk de Rosen, 1891 - 1982)は、ワルシャワ生まれのポーランド人画家で、アルメニアのリヴィウ(Lviv)の司教座聖堂の壁画を多く描きました。その壁画の一つが「お告げ」です。天使が聖母マリアにお告げをしているのが前面に描かれ、背景にはカルワリオが重なり、顔は隠れてはっきりとは分からないけれどもイエズス・キリストが十字架を担いで歩み、その後を聖母マリアが嘆いている姿が見えます。この御影の背後には深い聖母神学があります。



アルメニアのリヴィウ(Lviv)の司教座聖堂




年によっては、3月25日(お告げの祝日)が聖金曜日に当たるときもあります。たとえば、1921年、1932年、2005年がそうでした。来年の2016年もそうです。お告げと御受難は、切り離せません。聖母マリア様のカルワリオはすでにお告げの時から始まっていました。我が子の苦しみの将来を知っていた母として、聖母マリアは、悲しみに満ちた母となりました。

今から2016年前(紀元前第1年)の3月25日に、天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレトという町の、ダヴィド家のヨゼフといいなづけである、マリアという童貞女のもとに、天主からつかわされました。

天使はマリアのところに来てこう言います。
「あなたに挨拶します、恩寵にみちたお方!」
「主はあなたとともにおいでになります。あなたは女の中で祝福された方です」

天使は、マリアがこれをきいて心乱れているのに気がつきます。天使は、童貞マリアは謙遜の故に心乱れたことを知っているので、その小ささ故に、その謙遜に故に、恩寵を得たと説明します。
「おそれるな、マリア!あなたは天主のみ前に恩寵を得たのです。」
「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。また、かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません。」

聖ガブリエルは童貞マリアの貞潔の誓願も尊重されることを保証します。
「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力のかげがあなたをおおうのです。ですから、生まれるみ子は聖なるお方で、天主の子といわれます。あなたの親族のエリザベットも、老人ながらみごもったではありませんか。うまずめといわれた人なのに、もう六ケ月目です。天主には、おできにならないことはありません。」

童貞マリアは、メシアに関する預言を知っていました。
救い主は、この世を贖うために恐るべき犠牲を捧げなければならないことを。
救い主の母となることは、すなわち、屈辱と悲しみと茨の道を歩まなければならないことだ、と。
贖いの業に協力する前に、贖いの業がどれほどの苦しみを求めるかを童貞マリアが知らなかったはずはありません。
むしろ、童貞マリアの功徳をいや増すため、「騙された」「裏切られた」という不平を避けるため、天主は童貞マリアに特別の光を与え、救い主の母となる使命と責任について、童貞マリアに深い理解をさせていたはずです。
贖いの計画の中に入ると言うことは、苦しみの中に入ることだ、と。
十字架に付けられる子供の母親となることに同意しますか、と。

もしも、メシアの母となることが純粋な栄光と名誉と喜びだけであったなら、童貞マリアは天使に喜びの歌を歌っていたことでしょう。もしそうだったなら、天使のお告げにたいして「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主によって喜びおどっています」と喜び答えていたことでしょう。

しかし、マリアはこう答えています。
「私は主のはしためです。あなたのおことばのとおりになりますように!」
Ecce ancilla Domini. Fiat! 「み旨のままに!Fiat!」

童貞マリアの「我になれかし fiat! 」は、キリストがこの世に来るために必要でした。しかし無原罪の童貞女は、全く自由でした。拒否も可能でした。もしも童貞マリアが「イヤだ」と言ったとしたら、童貞マリアは苦しみから逃れることが出来たでしょうが、同時に、私たちには救い主はあり得ませんでした。
人類の贖いが無原罪の童貞女の答え一つに掛かっていました。

救い主がこの世に来られるための道具として無原罪のマリアは答えます。
「私は主のはしためです。Ecce ancilla Domini. 」
無原罪の童貞女は受け入れます。天主への愛と、私たち人類への愛のために、童貞マリアは、贖い主の母となること、悲しみの母となることに同意します。
「Ecce ancilla Domini.」Ecce! ご覧下さい!ここにおります。

聖パウロはヘブレオ人への手紙の中でこう書いています。
「キリストは世に入るとき --- ingrediente mundum --- 言われた。『あなたは生贄も供え物も望まれず --- hostiam et oblationem noluisti --- 、(...) そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る Tunc dixi: ecce venio ut faciam voluntatem tuam" と言った』」(ヘブレオ10章)と。
Ecce! ご覧下さい!ここにおります。御身の御旨を行うために!
イエズス・キリストは、聖父の御旨の通り童貞女の胎内に宿り、将来世界中の御聖櫃のうちにいけにえ(ホスチア)として留まり給う「修行」をしたかのようです。

イエズス・キリストは、この世に来るときに、人となるその瞬間に、ecce! ご覧下さい!ここにおります、と言います。しかし、この言葉は、童貞マリアがあらかじめ「Ecce! ご覧下さい!ここにおります」と言ったから可能になったのでした。言い換えれば、無原罪の童貞女が ecce! と言ったその瞬間、それと同時に、救い主が ecce! と言ったのでした。救い主が人間となりいけにえとなるために童貞女の ecce! fiat! が必要でした。この言葉は、御受難の言葉にこだまします。
イエズス・キリストはナザレトで聖母と共に30年間の隠れた生活を送ります。人間の傲慢の罪を償うために。ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt, 1827年 - 1910年)は、有名な「死の影」という絵を描いています。イエズスは仕事の手を休めて、両手を挙げて祈って(背伸びをして?)います。私たちの主の影が壁に映っています。壁には水平に道具掛けがあって大工道具がぶら下がっています。私たちの主の影は、将来の十字架を予告すると同時に、ご自分の生活が十字架の生活であることを物語っています。聖母マリアは、その影をご覧になっています。二人とも、 ecce! fiat! と言っているかのようです。
聖母がイエズスをご覧になるときはいつも、いつでも、十字架の影をご覧になっていたことでしょう。ヘロデの迫害の時も、罪無き幼子たちは殺害されましたが、全く罪の無い幼子イエズスは聖母に抱かれて、危険を逃れました。聖母は、イエズスの全生涯にわたって、十字架を、逆らいの印を、イエズスに見いだすでしょう。





33年後、聖木曜日に、救い主はゲッセマニでこの言葉「み旨のままに!Fiat!」を祈りながら繰り返します。
「私の父よ、できれば、このさかずきを、私からとり去ってください。しかし私の思うままではなく、み旨のままに!」と。
「私の父よ、このさかずきを私が飲まずにはすごせないものなら、何とぞ、み旨のままに!」(マテオ26章)

同じく33年後、聖金曜日に、ポンシオ・ピラトはこう宣言するでしょう。Ecce homo! この人を見よ!と。おそらく聖母は、その様子をご覧になって、こう仰っていたことでしょう。
「おお、我が子よ! 私を悲しませないように、将来何が起こるかについておまえは、私にあまり語らなかったね。おまえが十二歳のとき、私はこう尋ねたことがありますね。"私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ" と。私はもうそうは尋ねません。おまえは、聖父のことに従事すべきなのだから。おまえの言葉をいつも考えていました。おまえが受けるべき苦しみについて私に話してくれなくても、私は全て理解していました。おまえがいつも私に話してくれた時が来ましたね。この世を救うために、苦しみが必要だと。母の苦しみも必要なのだから、私の苦しみも捧げます。Ecce ancilla Domini! 主の使い女がここにおります。」
お告げの時の ecce! のこだまは、続いて響かなければなりませんでした。Ecce homo! この人を見よ!Ecce ancilla!

私たちのために食されるパンとなった救い主をミサの最中に御聖櫃から取り出して、司祭はこう言うでしょう。Ecce Agnus Dei! 天主の子羊を見よ!と。聖母マリアが私たちに下さることを同意したイエズスを見よ!と。それならば、私たちもこう言わなければなりません。Ecce servus Tuus! 御身のしもべをご覧下さい!と。





「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章)天主聖父について言えたことは、童貞マリアの愛についても言えるでしょう。聖父がおん独子をお与えになるほど、この世を愛されたように、童貞マリアも御一人子をいけにえとして捧げるほど私たちを愛した、と。童貞マリアが「はい、御旨のままに!」と言ったとき、聖子イエズスはいけにえとなり、私たち人類は救われます。もしも童貞マリアが「イヤだ」と言ったのなら、聖子は苦しみから逃れるけれども私たちは永遠の破滅に留まります。

童貞マリアは、言います。「み旨のままに!Fiat!」 天主は誰かを道具として必要としております。ここに主の道具、奴隷がおります。自己犠牲、奉仕が必要ですか? ここに私がおります。天主のお望みのままお使い下さい。私は受け入れます。同意します。何とぞ御旨のままに!」「Ecce ancilla Domini. 主のはしためをご覧下さい、ここにおります。」

Ecce Agnus Dei! 天主の子羊を見よ!ならば、私たちもこう言わなければなりません。Ecce servus Tuus! 御身のしもべをご覧下さい!と。

ナザレトの聖母の家があった場所に建てられた「お告げの教会」の聖母の部屋の場所には、こう書かれています。Verbum caro hic factum est. 御言葉はここで人となり給うた、と。











キリストの全生涯は、十字架と殉教でした。(Tota vita Christi crux fuit et martyrium.)キリストの母の全生涯も、そうでした。悲しみの剣は聖母の心を突き刺し、聖母は、血を流さずに十字架に付けられ、十字架に付けられた聖子を聖父に捧げたのです。イエズスが母の優しい両の腕から、十字架の水平に伸びた木の腕に至るときまで。
それなのに、私たちは、休みと歓喜を求めるのでしょうか?(et tu tibi quaeris requiem et gaudium?)

以上は、イエズス会士ラウル・プリュス神父の The Little Book of the Blessed Virgin Mary に息吹を得て書きました。

私たちがロザリオを唱えるとき、天使祝詞を唱えるとき、この神秘をいつも黙想することが出来ますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


洗者聖ヨハネの祝日の晩課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris

2015年06月24日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、聖ヨハネの祝日です。この日に聖務日課の晩課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の日本語の訳をご紹介します。

この訳は、2年前の記事「聖ヨハネの有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌」の中からのものです。

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を奏でることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

Caeteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン


洗者聖ヨハネよ、我らのために祈り給え!
洗者聖ヨハネよ、日本のために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

シュテーリン神父様と共にするロザリオの玄義の黙想 SSPX Japan Akita Pilgrimage

2015年06月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田の巡礼では、ロザリオの時に、シュテーリン神父様が次のような黙想を提案してくれました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。時間の関係で、或いはその他の事情で、15玄義全てをご紹介できないのが残念です。

 ロザリオの祈りの時の黙想に役立てば幸いです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

喜びの玄義

喜びの玄義 第1玄義黙想 (秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』

この一連を捧げて、私たちは、マリア様の汚れ無き御心の中に入るお恵みを求めましょう。マリア様は、「我は主の婢女(つかいめ)なり。仰せの如く我になれかし。」「御身の御旨が果たされますように。私の意志ではなく、主の御旨が果たされますように。」

 この心は、謙遜の心です。主に全てを従わせよう、という謙遜の心です。この心に入るように、お恵みを求めましょう。

謙遜というのは、全て天主様の御旨のままに、天主様のお望みのままにする、という事です。ですから、謙遜な霊魂は、全て主に委ね、主の御旨のままに、主こそが全て正しく、全てが真理であって、私には、私の事は、何でもかまわない。

 これこそが、本当の謙遜で、マリア様の心です。


喜びの玄義 第2玄義黙想 (秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『喜びの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、聖母がエリザベトを訪問し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、人を愛する徳をこい願わん。』

この一連を捧げて、聖母がエリザベトを訪問し給いたるを黙想しましょう。この祈りは、隣人愛です。

イエズス様は、マリア様を送って、マリア様を通して、洗者聖ヨハネを聖化しました。

それと同じ様に、マリア様は私たちを送って、人々が霊魂たちが、イエズス様の方に戻ってくるように、罪人たちが聖化するように、私たちがマリア様の良き道具となる事を、求めておられます。


苦しみの玄義


苦しみの玄義 第1玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、罪を痛悔する恵みをこい願わん。』

この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想します。

マリア様は、この世の罪の為に、涙を流されています。マリア様は、ご自分の子供たちの霊魂を救おうと望んでいます。マリア様は、御子イエズス・キリストが、この霊魂たちを救う為に、全てを彼らの為に与え尽くした事を知っています。その命、御血、そして全てを与えた事を。

しかし、人々は、この天主様のはかり知れない愛について、全く無関心です。彼らは、光よりも闇を好みます。彼らは、天国よりもこの世を愛しています。

だからこそマリア様は涙を流しています。私たちは、このような母の愛を見て、感動せざるをえません。

また、第1に、このマリア様の涙の原因は、私たち自身である事を理解しなければなりません。何故かというと、よく非常にしばしば、マリア様の御子を、私たちは侮辱したからです。そして、何千回も、もうマリア様が私たちの母である事を拒んだからです。

イエズス様が、ゲッセマニの園で血の汗を流した時に、マリア様は心で血を流されました。

私たちの犯した全ての罪を心から痛悔する恵みを求めましょう。そしてマリア様が、天主の御怒りから私たちを救って下さるように、お祈りしましょう。私たちの過去多くの間、マリア様の開かれたこの手を拒否し、マリア様から遠ざかって来た事がもう決してないように祈りましょう。

苦しみの玄義 第2玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、罪を償う恵みをこい願わん。』

この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想しましょう。

イエズス様が鞭打たれたその現場には、マリア様はいらっしゃいませんでしたが、イエズス様の身体に身に付けた傷、多くの傷を見て、鞭打ちの傷を見て、マリア様は、イエズス様が受けた拷問を深く理解しました。

マリア様は、イエズス様が受けたこの苦しみの一部でも、自分の身体に受けたいと願っていました。

しかし、マリア様はその事ができませんでした。マリア様は、イエズス様が鞭打たれたその現場にも居る事ができませんでした。

これこそが、マリア様が受けた最も大きな苦しみの1つでした。何故かというと、愛する者を何とかして助けたい、と思いながらも、それができない、という苦しみです。

そこで、マリア様は涙を流します。これは同情の、そして同じ苦しみを同じくする、しるしの涙です。

マリア様の目から流される1つの涙一粒は、それは全ての聖人たちの祈りを合わせたよりも、もっと多くの慰めを、イエズス様に与えました。

イエズス様の鞭打ちを、私たちは助ける事ができない、私たちは少なくとも、同じ苦しみを私たちの胸に受け、そして私たちもマリア様と共に、私たちの心で、涙を流す恵みをこい求めましょう。

苦しみの玄義 第4玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みをこい願わん。』

 この一連を捧げて、主が十字架を担い給いたるを黙想しましょう。

 私たちを、マリア様はこの地に呼び寄せて、そして私たちの母であり、私たちの女王になりたい、と思っております。

私たちは、「天国」という永遠の至福の場所には、一人では行く事ができません。必ずマリア様と共にでなければ、行く事ができません。

私たちの人生というのは、すなわち十字架の道行きである、という事をマリア様は思い起こさせてくれます。

何故かというと、イエズス・キリストもこの道を通り、そしてこの十字架の道だけが、天に続く道であるからです。

十字架を理解して、それを受け入れる事は、最も大変な難しい事です。しかし、マリア様がいれば、私たちの人生の苦しみの意味や、十字架の意味について、深い理解を与えてくれます。

マリア様は私たちに、それを理解させてくれるばかりでなく、その十字架を私たちが担い、担いで行く事ができるように、助けてくれます。

だからこそ、マリア様はこの地で涙を流して、私たちの前に立って現れました。今日このマリア様の御像から、マリア様はこうやって私たちに声をかけてくれます、「我が子よ、あなたは本当にたくさん苦しんでいますね。私もあなたの為にたくさん苦しみましたよ。今、あなたの手とあなたの心を私に下さい。あなたの全ての試練と苦しみを私に下さい。あなたの困難な問題と、病気を病を全て私に下さい。あなたの全ての恐れと苦悩を下さい。そうしてくれれば、私はあなたに約束します、あなたの全ての苦しみと、苦痛は、きれいな花のようになるでしょう。何故ならば、イエズス様はこう詩編の中を通して言うからです、『涙のうちに種まく者は、喜びのうちに刈り取るだろう。』と。」

マリア様の涙が、私たちにものすごい大きな光と幸福を生み出した事を覚えて下さい。

マリア様と共であれば、私たちの苦しみ、地上での十字架は、天国での永遠の最も高い高貴な幸せに変わります。

苦しみの玄義 第5玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、主が十字架に釘付けにせられ、死し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、救霊の恵みをこい願わん。』

この一連を捧げて、主が十字架の上にて死し給いたるを黙想しましょう。

マリア様は、私たちをしていつも、私たちの永遠の命と聖化の源の場所である、十字架のカルワリオの地に私たちを招いて下さいます。何故かというと、このカルワリオの地にてマリア様は、私たちを子として受けて下さったからです。

そしてこの地に於いて、私たちは罪の赦しを受け、私たちの罪の汚れは浄められました。

そしてこの地に於いて、私たちは十字架の力によって、罪から解放され、そして悪の勢力から解き放たれました。

ここに於いて、イエズス様は私たちに、天主の命を与えて下さいました。

ここに於いて、永遠の命と、永遠の愛を下さいました。

ここに於いて、罪がどれほど醜いものかを理解する事ができます。罪とは、イエズス様をして、どれほどの値を払わせたほどか、という事を私たちに理解させてくれます。

ここに於いて、イエズス様が私たちを罪から救おう、と、地獄の火から救おう、と思ったそのはかり知れない愛について理解する事ができます。

ここに於いて、また私たちも苦しまなければならない理由が分かります。

ここに於いて、私たちは、マリア様からの呼びかけを聞いています。マリア様は私たちに、「霊魂の救いの為に助けてください。」と、私たちに呼びかけています。「イエズス・キリストから遠くいる人々を、イエズス・キリストの十字架の下に連れて来るのを助けて下さい。」

そこで私たちは、マリア様の御前に跪き、こう申し上げます、「マリア様、ご覧ください。私は御身の道具となりたいのです。御身のしもべとして、御身の奴隷として、霊魂の救いの為に使って下さい。」

栄えの玄義


栄えの玄義 第1玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、信仰の徳をこい願わん。』

 マリア様は、各地に現れて涙を流され、そして私たちの良心に訴えかけます。それは、ただ1つの目的の為です。私たちを、主の元に、天国に導く為です。

 しかし、天主を信ぜずには、誰も天国に行く事はできません。もしも、イエズス・キリストが私たちに教えて下さった全ての事を信ぜずには、心から信ぜずには、誰も天国に行く事はできません。

 そこで、マリア様は、私たちが容易に信じる事ができるように、涙を流します。

 例えばここでは、奇跡的なやり方で涙を流して、私たちが信じる事ができるように助けてくれます。もちろん木は涙を流しません。もしも、この木造のマリア像の目から涙が出たのならば、これは奇跡の涙です。

 これは、マリア様が生ける御方である、という事を私たちに確信させる為です。そして、マリア様には、燃える愛の心を持っている、という事を確信させる為です。

 マリア様は、その子供たちに対して、憐れみの心で充ち満ていらっしゃいます。

「主よ、我、御身を信じ奉る。されど、我が弱き信仰を強め給え。」


栄えの玄義 第2玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『栄えの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、天国の福楽を深く望む心をこい願わん。』

 この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、天国の福楽を望む心、希望の徳をこい願わん。

マリア様は、地球の上に御立ちになり、そして両手を広げておられます。マリア様は、この地上にいる私たちを全て、「天国に導きたい、連れて行きたい。」と、いう大きな望みに満ちておられます。

 ファチマではマリア様は、「私の汚れ無き御心こそが、あなたの避難所であり、天に導く道である。」と、仰いました。

 これこそが、マリア様が私たちに下さりたいものです。つまり、「天国への熱烈な望み」です。
 
 マリア様は今、天国にいらして、私たち一人一人をご覧になっておられます。「子よ、いらっしゃい。私はあなたに永遠の幸せを与えましょう。」


栄えの玄義 第3玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『栄えの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、聖霊の賜物をこい願わん。』

 この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し奉る。

 このマリア様の御像を私たちが拝見する時に、マリア様の深い御心の事を思わざるを得ません。マリア様の御心は、聖霊に満たされています。聖霊はマリア様を、聖寵に充ち満てる御方とされました。

 マリア様はここで、私たちに両の腕を開いて、私たちに、他の所でもそうですが、私たちに、この聖寵の充ち溢れを私たちに分けて下さろう、としています。

 そして聖母を通して、聖霊は私たちに、聖霊の賜物を下さいます。

そしてマリア様は私たちの心に、本当の愛を分けて下さいます。

それは、私たちの持っているちっぽけな、裏切りだらけの、安っぽい愛ではなくて、マリア様が下さるのは、天主様の御自身の、燃えるような愛の、その愛自身です。

ですから突然、マリア様を通して、私たちの心に変化が起こるのが分かります。

突然私たちの心に、愛の心が湧き立ち、そしてかつてなかったほどに、「マリア様をお愛ししたい。」と、望むようになります。

これこそが聖霊の賜物で、聖霊が私たちに与えられたしるしです。マリア様は、私たちに天主様御自身を下さいます。


栄えの玄義 第4玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『栄えの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、善き終わりを遂ぐる恵みをこい願わん。』

 この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し奉る。

 マリア様が被昇天された時に、ちょうどそのご様子は、今私たちが目の前に見ている、この御像のようだったかもしれません。マリア様は、イエズス様の十字架によって贖われた方ですから、いつも十字架と一致していました。

 この哀れなこの地上から、マリア様は肉体と霊魂を共に、天に上げられました。マリア様はこの地上から離れて、天国の永遠の王国に入って行くのです。
 
そしてマリア様は、私たち全てを、マリア様に随って天国に行くように、と招いておられます。「私が自分の十字架を取って担ったように、あなたたちも自分の十字架を担いなさい。この『死』を通して、私は御子イエズス・キリストと一致したように、あなたたちも『死』を通して、イエズス・キリストと一致しなさい。」

 「死」というのは、終わりの時ではなく、永遠の始めの時です。

 「死」とは、この惨めな、涙の谷のこの旅路を終える時です。

 そして、私に於ける、永遠の命の始まりを意味します。

栄えの玄義 第5玄義黙想(秋田巡礼にて シュテーリン神父様)

『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、永福の冠をこい願わん。』

 この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いたるを黙想し奉る。

 もう一度、この素晴らしい御像を拝見いたしましょう。このマリア様の単純さに満ちた御像を見る事にします。

 天国に入ったマリア様は、もう一度天から、その大きな御稜威と光に包まれて、私たちの元にやって来られます。そして、もう一度私たちに両手を大きく開かれます。そして、マリア様は私たちの目をよくご覧になります。そしてマリア様は、私たちの心に何があるかを、よくご覧になっています。私の苦しみ、私の困っている事、私の悩みをマリア様はよくご存知です。マリア様は私たちの耳元で、私たちの心にそっと語りかけて下さいます、「私はあなたを決して見捨てませんよ。もしもあなたが私を捨てないなら。私はいつもあなたのお母さんですよ。あなたが私の子でありたい、と思えば思うほど、私はあなたにもっと、私の持てるものを与えましょう。今、多くの霊魂たちを、私の汚れ無き御心に引き寄せる為に手伝って下さい。」

2015年 聖伝のミサによる御聖体の荘厳祭 SSPX Traditional Latin mass Corpus Christi

2015年06月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は、2015年6月7日の聖霊降臨後第2主日に東京でした「御聖体の荘厳祭」の説教をご紹介いたします。

 特に、私たちの主イエズス・キリストがどれほど私たちを愛するがゆえに、御聖体を制定し、私たちにご自分を与え尽くそうとしたかを黙想しましょう。

 私たちの主の狂わんばかりの愛の発明、御聖体の秘蹟をどうぞ愛して下さい。御聖体を礼拝して下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年6月7日 聖霊降臨後第2主日「御聖体の荘厳祭」
小野田神父 説教


 日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年6月7日、聖霊降臨後第2主日、御聖体の祝日の荘厳祭を祝っております。

 今日この御ミサの直後に、本来ならば教会の望みに従って、御聖体行列をしたい予定ですが、私たちにはそれなりの術がまだないので、いつものようにミサの直後に、御聖体降福式を行いたいと思っています。本日の御聖体荘厳祭の行列の代わりにしたいと思っています。

 今日14時30分頃から、いつものように公教要理と、洗礼を受ける方の準備の公教要理と、16時から聖霊降臨後第2主日の晩課があります。明日も朝7時からミサがあります。

 来月の7月のミサですけれども、7月5日は、私たちのいつものミサの予定の日ですが、残念ながら、この午前中のこの会場がどうも塞がってしまっているので、特別に午後にミサをする予定です。来月のミサは特別に、13時からロザリオ、13時30分からミサをします。告解はですね、既に12時から待機して2階でできる予定ですので、お間違えのないようにいらして下さい。来月は御ミサの後に、簡単な休息を挟んで、16時から晩課を行いたいと思っております。


「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に留まり、
私は彼の内に住む。」


 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


 愛する兄弟の皆さん、今日は御聖体の祝日の荘厳祭ですので、私たちは御聖体の秘跡の神秘について黙想致しましょう。

 一体何で、イエズス様が私たちの為に御聖体を制定して下さったのか。御聖体を制定して下さったイエズス様は、私たちに何を望んでいるのか。ところがその御聖体に対して、私たちはどのような態度を取ってしまっているのかを見て、それから私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 皆さん、ちょっと想像して下さい。今日ご自宅にお帰りになってみると、家に宅急便で夕方、特別のお手紙が届いていた。その手紙の送り主は宮内庁で、菊の紋章が付いていて、天皇陛下が直々に手を取って、達者な筆で、「何とか様宛」と書かれて、「大変お忙しいとは思うけれども、皇居で、皆さんと一緒に是非、私と一緒のテーブルについて、皇室と一緒に、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下と皆さんが一緒に食事をしたいと考えているけれども、何月何日の午前11時からその昼食会を開きたい。是非皆さん来てほしい。どうか用事はあるかと思うけれども、その時間を空けて来てほしい」と、そのような手紙を私たちが頂いたとしたら、何とありがたい、かたじけないお言葉であろうかと思って、その日がいつ来るか、と間違えないようにカレンダーに書いて、予定に書いて、それを指を折って数えて、その日には、決して遅れないように、ソワソワしながら、ウキウキしながら、まだかまだかと思って、「もしもお会いしたら、こういう話をしよう、こんな話をしよう、いや、この話が良いじゃないか。」などと色々考えて、私たちは出掛けるのではないでしょうか。





 もしも、天皇陛下がその時に、「ああ、何とかさん、親愛なる何とかさん。実は今回は食べ物を一緒に、この特別の昼食会ではなくて、私はあなたに全てを与えたい。あなたに自分の持てるものを与えたいと思うけれども、どうだろうか。受けてくれるだろうか。」と、仰ったとしたら、「天皇陛下、何を仰っておられるのですか。とんでもない、もったいないお言葉です。」と、申し上げるのではないでしょうか。

 ところで、このような話はおそらく私たちには起こりません。が、もっとすごい事が起こりました。この全宇宙を創った天主イエズス・キリストが、この太陽、星々、銀河、月、天の川、青い透き通るような大空と、透き通るような海、その海に棲む全ての魚と、森に棲む多くの動物と鳥たち、きれいな花々、高い雪山と、多くの森、金銀宝石、石油、大地全てを創った、私たちを創って下さった創造主の天主、その御一人子が、特に私たちの為に、私たちをただ、この畑で採れた野菜と、お米と、動物の肉で私たちを養いたい。さあ、この私と同じテーブルから食卓から一緒にご飯を食べよう。と、言うのみならず、天主御子が、私たちに御自分御自身を、御自分の持てる全てのものを私たちに与えよう、としておられます。











 私たちはそれを毎月、ここでミサの時に、御聖体拝領として受けております。今日、御聖体に於いて、天地の創造主を、私たちは受けようとしているのです。

 実は、今日イエズス様から特別のラブレターを頂いて、「さあ、私はあなたに、私自身を、私のもの全てを、食べ物として与えたい。受けて欲しい。」と。そう今日はお招きの言葉を頂いています。

 私たちは、その御聖体拝領のその瞬間を、どれほどウキウキしながらワクワクしながらお待ちしなければならないでしょうか。「イエズス様がいらしたら、私たちの胸にいらしたら、何と申し上げようか。」と、考えるのではないでしょうか。





 聖人たちは、この御聖体の秘跡をみて、「愛の秘跡だ。天主からの純粋の愛の秘跡だ。私たちの功徳が全くないにもかかわらず、これほどまで愛して、私たちに自分を全て下さる天主の愛の秘跡だ。愛の約束だ、愛の愛だ!」「ただ全体的に私たちを一般的に愛するのではなく、私たち個人個人を個々に愛しておられる、その秘跡だ!」と、仰いました。





 イエズス様がこの御聖体を制定したその「時」を見て下さい。人類は、このイエズス様を死に渡そうとした、憎しみの時でした。イエズス様はその時に、この人類に私たちに、御自分を愛によって与えようと思われたのでした。

 何故、一体イエズス様は、私たちにそうやって御自分を与えようとしたのでしょうか?

 イエズス様は天主であるにもかかわらず、人間となって人となって、私たちの間に共に遂に生活され、福音を述べ、奇跡を行い、遂に御自分の命を十字架の上で与えた、それで満足なさらなかったのです。

 何故かというと、それはイエズス様が、私たちといつも一致していたい、一つになりたい、と思ったからです。

 愛の効果は、愛する人々を一つにまとめる事です。見て下さい、愛する人々が、いつもお話をしたり、顔を見つめ合ったり、おしゃべりをしたり、いつも時を過ごしていたり。愛する家族もそうです、一緒に旅行したり、一緒にご飯を食べたり。

 イエズス様も同じでした。イエズス様は私たちを愛するがあまり、あたかも正気を失ってしまったかのように、狂ってしまったかのように、私たちに全てを与え尽くして、「私たちと一緒になりたい。」と、「共に居たい。」と、思っておられるからです。

 ですから、今日読んだ福音の中にもあるのです、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は私に於いて居り、私は彼に於いて在る。」と。

 サレジオの聖フランシスコは、「御聖体の制定よりも、より私たちを愛し、私たちに対してより優しい愛はないし、ありえない。」と、言っています。

 何故かというと、イエズス様は、私たちに単なる秘跡の恵みを与えよう、と思ったのみならず、私たちに、お恵みの作り主である御自身を与えよう、とされているからです。私たちと一つになろう、とされているからです。

 聖ディオニジウスという人はこう言っています、「だから、イエズス様御自身を受ける御聖体拝領は、御聖体の秘跡は、霊魂を聖化する為に、その他のあらゆる霊的な手段に勝って、効果がある。より大きな効果がある。」と、言っています。

 聖ヴィンセンシオ・フェレールというドミニコ会の立派な聖人は、「もしも霊魂が御聖体拝領するならば、例えパンと水だけで厳しい断食を一週間するよりも、たった一回の御聖体拝領で、多くの、もっと多くの霊的な利益を得る。」と、言っています。

 イエズス様は今日の福音で仰る通りです、「私を食する者は、私によって生きる。」と。

 教皇様イノチェンシオ3世は、「イエズス・キリストは、御受難によって私たちを、私たちが犯した罪から解放するけれども、御聖体拝領によって、私たちがこれから犯すかもしれないような罪から解放してくれる。私たちがその罪を犯さないように助けてくれる。」

 「私の肉を食べる者は、私によって生きる。」と、イエズス様が仰った通りです。

 ギリシャの有名な聖人である聖クリゾストモは、「だから、御聖体拝領は、私たちに天主様の愛の火を燃やしてくれる。御聖体拝領によって、私たちが、悪魔にとっての恐怖の対象となる。」とさえ言っています。

 では第2のポイントで、イエズス様が、御聖体を、私たちを愛するがあまり、私たちの聖化の為に、私たちをより良く聖なるものとして、イエズス・キリストによって生きる事ができるように、愛に満ちた御聖体を、愛の秘跡を制定して下さった事が分かりましたが、では、私たちはその愛の秘跡をどのように受けたら良いのでしょうか?

 御聖体を拝領しても、聖人となった、と私たちはもしかしたら感じないかもしれません。しかし、聖人たちは御聖体拝領をする事によって、すくすくと、ぐんぐんと聖性において成長していきました。一体どこが違うのでしょうか。御聖体は同じなのに、効果が違います。

 それは何故かというと、御聖体を受ける私たちの側が、良く準備が整っていたか、いないか、御聖体を受けて、それをうまく利用したか、しないか、に懸かっています。

 では、御聖体拝領からの恵みを受ける為には、どうしたら良いのでしょうか。聖人たちは口をそろえて、「イエズス様が、愛によって私たちの胸に来て下さるのだから、私たちはイエズス様を、愛によってのみ受けなければならない。イエズス様への愛にますます進歩する事を望んで、受けなければならない。」と、言います。



 だから私たちが、被造物に対する愛着や、罪に対する愛、愛情があると、イエズス様が入る余地がなくなってしまう。イエズス様の愛が来るのに邪魔になってしまう。だから私たちは、天主様以外の全てのものに対する愛着や愛情を取り除くように準備しなければなりません。私たちの心が、霊魂が、全くイエズス様だけのものになりますように、浄めなければなりません。

 第2に、心の準備を、愛によって、被造物からの離脱と、天主様への愛によって準備すると同時に、私たちは、御聖体拝領の後に、感謝をしなければなりません。愛を愛にもって応えなければなりません。愛情をもってイエズス様と親しく語りあわなければなりません。

 もしも、天皇陛下の皇居に招かれたならば、天皇陛下の前で、iPodとか携帯とかやって、そっちのけで雑念で、天皇陛下どころではない、となったら一体、天皇陛下も本当は私たちに、「あれの話もしたい、この事を与えたい、こうしたい。」と、思っていても、それもその気もなくなってしまうかもしれません。もしも、イエズス様を私たちの霊魂に受けたならば、イエズス様に愛をもって感謝致しましょう。心から感謝致しましょう。





 天主様が、私たちの糧となって下さったそのご謙遜に、私たちもへりくだる事に致しましょう。天主様は、イエズス様は、私たちに愛される為に来られたので、私たちもイエズス様をお愛し申し上げましょう、「イエズス様、御身を愛し奉る。イエズス様、私はイエズス様だけを愛しています。イエズス様だけを、欲し奉る。イエズス様、御身は全て私のものになりました。私に御身は全てを与えて下さいました。だから私も御身に、私を全て与え尽くします。御身を礼拝し、感謝し、御身を信じ、希望し、愛し奉る。」と、心の底から申し上げる事に致しましょう。

 私たちはそうやって愛の語らいをするのみならず、私たちに必要なお恵みを全て求めて下さい。聖アルフォンソ・デ・リグォリオは言います、「御聖体拝領の時こそチャンスだ。私たちの求めるお恵みを全て求めなさい。」と、言います。




 ファチマの3人の子供たちに天使が現れました。その時も天使はこう言いました、御聖体を持って、もう1つの手でカリスを持って、子供たちの前に現れました。見て下さい、御聖体からは御血がポタリポタリと滴り、カリスの中に落ちているではないですか。すると、ほら、御聖体を宙に置いて、カリスを宙に置いたまま、天使は地に跪いてぬかずいて、御聖体を礼拝します、「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ。我は御身を深く礼拝し奉る、その御子イエズス・キリストが、それによって傷付けられている、冒辱、瀆聖、無関心、全ての罪を償う為に、全世界の御聖櫃に於いて在し給うイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、御神性を、御身に捧げ奉る。願わくは、イエズス・キリストの聖心の無限の御功徳によって、聖母マリアの汚れ無き御心の御取り次ぎによって、罪人の回心を願い奉る。」と。





 私たちも、イエズス様を礼拝し、愛の言葉の後に、どうぞ私たちの必要なお恵みを求めて下さい。特に、罪人の回心の為に、たくさんのお祈りを捧げて下さい。「イエズス様の無限の御功徳と、マリア様の汚れ無き御心の御取り次ぎによって、罪人の回心を願い奉る。」と。




 イエズス様の受ける冒辱や無関心の償いをお捧げいたしましょう。このイエズス様の、この愛の秘跡は、残念ながら多くの人達によって、冷淡と無関心、果てには不当な取り扱いをもって、イエズス様の愛が返されています。

 最後に私たちは、今日このミサを、今日この御聖体拝領を、またミサの後の御聖体降福式を、イエズス様を愛する為に、イエズス様の御聖体に対して犯される罪を償う為にもお捧げいたしましょう。





 イエズス様がいつも私たちの心に留まって下さいますように、被造物に対する愛着をますます浄める御恵みを求めましょう。マリア様の汚れ無き御心のように、私たちの心も浄めてもらえますようにお願いを致しましょう。マリア様がイエズス様を胎内に宿したように、私たちもマリア様にならって、いつもイエズス様を胸に秘めている事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


無原罪の聖母が、聖霊の浄配であるということ 【聖伝のミサ トリエント・ミサ】

2015年06月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月9日、教会博士証聖者司教ナジアンスの聖グレゴリオの祝日に大阪で捧げた聖伝のミサの、お説教をご紹介します。

 ここでは、聖母マリア様が、聖霊の浄配であるということの意味を黙想します。

 天主御子の御母であり、天主聖霊の浄配、という神秘を垣間見てみましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年5月9日、ナジアンスの聖グレゴリオのミサをしています。今日この御ミサの後に、特にフィリピンからの巡礼者の方もいらっしゃいますので、皆さんにも良く分かる、英語でもよく分かるように、特別のプログラムを準備しました。

「もしも私の言葉を聞かなければ、ロシアはその誤りを世界中に広げるでしょう。」と、ファチマのマリア様が仰って下さったのですけども、ではロシアはどのように誤謬を広めたのか、というのをスライドで少し皆さんにお話できればと思っています。こちらにプロジェクターも準備されていますので、時間があれば是非いらして下さい。入場は無料です(^^

次のミサは、5月17日主日、夕方の6時からここであります。レネー神父様がミサを捧げて下さいます。

この機会に、秋田の巡礼、今年は非常に皆さん大変に満足して、喜んで、57名の方が参加され、その内37名は「無原罪の聖母の騎士」となり登録する事ができ、聖伝に従った「無原罪の聖母の騎士」となり、多くの方が特別のお恵みを受けて、この巡礼に参加される事ができました。この準備の為に、色々準備の仕事をして下さった方、色々な影で働いて下さった多くの方々、聖歌隊の方々、物質的な準備をされた方々、経済的に助けて下さった方々、ミサの侍者をして下さった方々、全ての方々に深く感謝を申し上げます。どうぞたくさんの報いとお恵みがありますように。マリア様も、私たちの巡礼を見て非常にお喜びになられて、このこれを特に、準備された方々を特に祝福し愛して下さいますように、お祈り申し上げます。

来年は、2016年4月29日から5月5日までの予定です。どうぞ今から準備なさって、来年も是非いらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日ナジアンスの聖グレゴリオのミサの中で、書簡書で、「もしも主がお望みならば、主は彼に知恵の霊を充ち満たせるだろう。」とあります。また今日は土曜日でもあり、聖母マリア様の土曜日ですから、ナジアンスの聖グレゴリオの御取り次ぎにより、またマリア様の御取り次ぎにより、知恵に、知性の霊が満たされて、是非このマリア様の神秘について益々深めよう、という事を提案します。特に私たちは秋田の巡礼で、マリア様について黙想したので、その続きとして、マリア様が新しいエワとして造られた、特にマリア様が聖霊の潔き淨配である、という事を今日は黙想する事を提案します。

第1に、マリア様が第2のエワとして造られた、という事。その第2のエワとして造られた為に、どのように三位一体は、このマリア様に働きかけたのか。

マリア様が聖霊の淨配である、という事はつまりどういう事を意味しているのか。聖霊とは何か。マリア様とは何か、どなたなのか。最後に私たちは結論を何か具体的な決心を取る事に致しましょう。

マリア様は第2のエワとして造られた、という事はどういう事かと申しますと、天主様は、この人類を永遠の命を与える為に、永遠の救いの為に創造しました。この地上が造られたというのは、ただ単にこの地上に於いて、短い人生を終えた後に、永遠の命が、天主の命が与えられる為でした。その為に、アダムとエワを創りました。アダムとエワは成聖の恩寵に於いて、永遠の命を受けるべきものとして創られました。しかし残念ながら、アダムとエワは共に罪を犯して、その恵みを全て失ってしまいます。子孫、私たちの為にも失ってしまいます。それを回復させる為に、天主は、「第2のアダム、第2のエワを創ろう。」と、永遠の昔から計画されていました。第2のアダム、第2のエワは、聖寵を与える、天主の命に全人類を産み出すべきものとして、全く潔い汚れ無きものでなければなりませんでした。第2のアダムはつまり、人となった天主、イエズス・キリスト。第2のエワは、罪のない、無原罪の御孕りである事をお望みになりました。

第2のポイントですが、では「無原罪の御孕り」とはどのように準備されたのでしょうか。ピオ9世の「無原罪の御孕り」のドグマの決定の勅令によると、「三位一体は、既にイエズス・キリストの十字架の無限の功徳を先取りして、その十字架、時間を超える無限の御方である天主三位一体は、そのイエズス・キリストの功徳がある事を予見して、その功徳が起こる前に、マリア様に適用させて、マリア様が聖アンナ様の、マリア様のお母様の胎内に宿るその瞬間から、原罪の汚れが全く無き者として、受胎される事を望まれた。」

つまり「マリア様には、ほんの一瞬の瞬間にも、ほんの一秒も、ほんのひと時も、原罪に汚れた瞬間はなかった。」と、いう事です。それと同様にマリア様も、イエズス・キリストの贖いの業を受けた者として、特別の贖いの業を受けた者として例外の無き者ですが、しかしマリア様の特別さは、その適用が、既にその受胎のその瞬間から適用されていた、というところにあります。原罪の汚れは一つも全く無かった、というところにマリア様の特別の存在があります。

では、イエズス様のその無限の功徳は、どのようにして十字架の下でなされていたのでしょうか。これは、十字架の下で、イエズス・キリストは、御父の命を死に至るまで、十字架の死に至るまで果たそうとして、御父に対する愛の、愛のゆえに、私たち人類を愛するがゆえに、私たちを救う為に、永遠の命を与えるが為に、十字架の上で、御自らを天主にお捧げになったのでした。

天主は、天主御父は、その御子をひたすら愛しておられました。天主御子は唯一の一人子、天主御父は唯一の一人子を、天主の御言葉を、人類を救う為に、この世に与えるほど、この世を愛して下さいました。

アブラハムも、御子を、自分の一人息子イサアクを、生贄に屠(ほふ)る為に、捧げようとされました。イサアクも、そのアブラハムの、お父さんアブラハムの命に従って木を担ぎ、屠りの場まで行きました。屠りのその瞬間、アブラハムもイサアクも、それを免れました。「その代わりに、藪に羊がかかっていて、頭が角が藪につながれていて、動けなくなっているのを、その代わりに屠れば良い。」と、天主から命があったからです。

しかし、十字架の聖金曜日では、天主御父は、まさにこのアブラハムとイサアク、この生贄の影が、現実のものとなる事をお望みになりました。もはや、その動物の代理ではなく、天主の子羊が、ちょうど頭に茨の冠を冠されて、最後まで、御父を愛するが為に、命を捧げました。御父も御子を愛し、この世を愛するが為に、御子をこの世に生贄として与えられました。

この天主御父と御子の愛の交流は聖霊となって、その聖霊として、愛自身として、あたかも、イエズス様の最後の息が引き取られた時に、「全ては成し遂げられた。」イエズス様は霊を出し、息を引き取られました。その霊が出ると同時に、聖心は開き、血と水が脇から流れ出ました。この霊と血と水は、聖ヨハネの証言によれば一つであり、これは聖父と聖子と聖霊が一つであると同じである、と言います。つまり、イエズス様の聖心から、イエズス様の聖心というのは、天主の愛の目に見えるシンボルですけれども、そこから私たちに対する愛が注ぎ出て、それが全て、その十字架の下に立っておられたマリア様に与えられます。

その同じ、このイエズス様の功徳が、時を超えて、マリア様の御受胎の時に、「無原罪の御孕り」として適用され、その同じ無限の天主の愛の激流が、十字架の下に立っていたマリア様にも与えられます。マリア様はその時、第2のエワとして完成されます。

ちょうど、第1のアダムの脇腹からエワが造られたように、第2のエワも、イエズス様の脇腹の脇から出る、血と水と霊を受けて、完成されなければなりませんでした。

新しいエワはつまり、イエズス様の受難をまさに同感した、全く同じ受難を心で、その汚れ無き御心で感じ取った。共同の苦しみを、イエズス・キリスト様と共に捧げた。もしもイエズス・キリスト様が、その御苦しみを、受難を御受難を、世の贖いの為に捧げたとしたら、マリア様は、イエズス様の御苦しみを共に、一緒になって苦しみ、受難を受けた方でありました。

ラテン語でイエズス様の受難は「Passio」と、言いますが、マリア様の共通の苦しみの事は、「Compassio“共に苦しむ”」と、言います。イエズス様はこの「贖い主」として、それと同時にマリア様は「共同の贖い主」としてなります。

イエズス様はこれを愛をもって、この贖いをなされました。聖心から出る御血と水は、まさにこの愛の実りを表しています。その愛の実りを受けたマリア様も、やはり愛をもってこれを捧げました。

ところで聖霊とはつまり、愛ご自身ではないでしょうか。天主御父と天主御子との愛の交流、天主御父と御子から発する、愛の実体なる愛なのではないでしょうか。

マリア様は、その聖霊の、愛である天主聖霊の、全ての愛を、全ての恵みを、全ての息吹を、決して拒んだ事がありませんでした。マリア様は聖霊に対して全て御心を開き、聖霊の恵みと愛を全て受けて、聖霊の為に、聖霊の天主の為にのみ、生きた方でありました。マリア様の御生涯は、全て愛の生涯でした。そのマリア様の生き様は、まさに聖霊が人となって歩いているかのように見えるほど、聖霊と一致されていたからです。

ですから、マリア様はまさに、私たちに対する、天主に対する愛、私たちに対する愛そのものを体現していたのでした。

マリア様は、聖霊の潔き淨配として、憐れみと愛の名前を持つにふさわしい御方であります。私たちの母となり、第2のエワとなり、私たち贖われた者の、全ての贖われた者の母となるマリア様はつまり、愛の母でもあります。聖霊と同じ名前を持つべき御方でもあります。

「聖霊の淨配」というこの言い方は、非常に私たち人間の言葉で限度があって、これでは十分ではないのですけれども、私たちの限りのある表現に於いては、聖霊とマリア様の一致を表すに、能う限りの言い方であって、つまり一体と、ほぼ、聖霊とマリア様はもちろん2つ別個の存在ですが、しかし、あたかも一体であるかのように、あたかも1つであるかのように、婚姻されているかのように、それよりももっと深く霊的に一致していた、という事を表しています。マリア様は、聖霊の愛を、三位一体の愛を全て受けた方であるからです。

では最後に、私たちは、どのような今日決心をとったら良いでしょうか。天主は私たちに、「全ての心、全ての力、全ての精神を尽くして、主なる天主を愛せ。隣人を己の如く愛せ。」と、愛の掟を下さいました。この愛の掟を私たちが果たす為に、どうしても私たちはマリア様の助けが必要です、マリア様のお手本と、マリア様の愛が必要です。マリア様に、ぜひこの特に聖母の月に、お祈り致しましょう。私たちがマリア様の御助けを以って、隣人を、天主を、愛する事ができますように。

マリア様の御助けを以って、第2に、全て私たちも益々、聖霊と一致する事ができますように。聖霊を悲しませる事がないように、誘惑や危険な場所を避ける事ができますように。いつも聖霊の導きのままに、聖霊をいつも喜ばし、マリア様をお喜ばせすることができますように、救霊の道を歩む事ができますように。

最後に第3に、この聖母の月には、マリア様の御助けと、聖霊の導きによって、益々マリア様の事を深く知る事ができますように、マリア様をお愛しする事ができますように、マリア様の神秘に深く入っていく事ができますように、特別のお恵みを求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2015年5月8日、大天使聖ミカエルの御出現の記念日 聖伝のミサ(トリエント・ミサ)

2015年06月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月8日の、大天使聖ミカエルの御出現の記念日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

 特に日本は、大天使聖ミカエルに捧げられました。

 聖フランシスコ・ザビエルが日本人を見て、「日本人たちが、天主様に対してもっと謙遜であるように、天主様の御旨を受け、天主様の真理を謙遜に受け入れる事ができるように。」と、日本の守護者として大天使聖ミカエルを選び、日本を捧げてくれました。

 どうぞ、大天使聖ミカエルに特別の信心をもって下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 



 「大天使聖ミカエル、我らの為に祈り給え。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年5月8日、大天使聖ミカエルのガルガノ山への御出現の祝日で、私たちは随意ミサとして、この大天使聖ミカエルのミサを捧げています。そこで、大天使聖ミカエルのこの御出現の話、大天使聖ミカエルはこの私たちにどのように御出現されたのか、大天使聖ミカエルの役割とは一体何なのか、大天使聖ミカエルの役割は、現代に於いては何なのか、最後に4番目に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 第1の点は、大天使聖ミカエルの御出現ですが、これはイタリアの南部のガルガノ山という所に、大天使聖ミカエルが現れて、その大天使聖ミカエルの至聖所、その教会を大天使聖ミカエルが聖別した、という史実に基づいています。




 大天使聖ミカエルは、そればかりではなく、歴史上何度も私たちに現れて、私たちに助けをしてくれました。

 例えば有名なのは、バチカンの聖ペトロ大聖堂の前に、サンタンジェロ城という建物があります。これは、ハドリアノ皇帝の、モゾレウムという記念の建物、皇帝の亡くなった時の記念の建物ですけれども、そこの建物と、聖ペトロ大聖堂では地下で繋がっていました。ちょうど聖グレゴリオ教皇様の時に、ローマではペストがあって、その時に教皇様自身が、ペストから守られるように、行列をしていました。連梼などを唱えていると、大天使聖ミカエルがそこに現れて、その後にペストがおさまり、ローマは守られた。そこで、このお城が「聖なる天使の城」と言われて、大天使聖ミカエルの像が造られました。







 或いはまた有名なのは、フランスのブルタ-ニュ地方には、海の中の満潮の時には島になり、引き潮の時には陸と繋がる小さな島があって、それが、「モン・サン・ミシェル」という所で、非常に美しい教会が建っています。そこにもやはり、聖オベールという司教様がいて、大天使聖ミカエルが現れた事があります。





 大天使聖ミカエルは、私たちに時々姿を現して、私たちを守り、私たちを導いて下さいます。何故かというと、天使は本当に存在し、私たちの目に見えないだけで、しかし天主様によって造られ、私たち一人一人に守護の天使が付き、多くの、それよりも多くの天使たちが、天主様の御旨を果たして、その業を果たしています。天主様の御旨を果たそうとしなかった、それに逆らった少数の天使たちが、元天使が、堕天使として、悪魔として地獄に落とされ、堕天使は悪魔として存在しています。これもおとぎ話や神話などでは決してありません。本当に、悪魔、サタン、堕天使が存在し、人間の滅びを望んでいます。

 天使たちの役割は、特に大天使聖ミカエルの役割は、この世の終わりには、黙示録の12章によると、大天使聖ミカエルが、竜、すなわち古の蛇、つまりサタン、堕天使と、諸聖人が、この世の終わりに戦う時に、私たちイエズス・キリスト側の聖人たちを助ける、と特別の任務を受けられています。

 大天使聖ミカエルは、ユダヤ教の時代から、ユダヤ人たちの時代から現れていましたけれども、実はそれは現実の影にすぎませんでした。「大天使聖ミカエルは、来たるべき生けるイエズス・キリストの神秘体の守護の天使として、イエズス・キリストの真の教会、カトリック教会を守るものとして、特に終末に、反キリストの時代に、この『時』の終わりに、特にその役割が重大になる。」と、黙示録は私たちに教えています。

 では第3の点に、大天使聖ミカエルのその最も素晴らしい、私たちの見習うべき徳というのは何なのでしょうか?よく大天使聖ミカエルの像を見ると、勇士と、兵士として描かれ、手には剣を持ち、また盾を持ち、盾にはしばしば、「一体誰が、天主の如くあるぞ“Quis ut Deus”」と書かれ、これはもちろん「ミ・カ・エル」というヘブライ語の、「ミ・《誰が》カ・《~のようであるか》エル《天主》“誰が天主のようであるか”」という、その名前の意味が書かれた盾を持って、悪魔を踏みつぶし、時々悪魔に剣でそれを貫き、戦う、悪魔と戦う、悪と戦う天使として、勝利者として描かれています。

 これは、私たちに何を教えているかというと、まず私たちも、この盾を持って、私たちを守らなければなりません。この盾は何かというと、私たちが、「謙遜でなければならない」と、いう事です。誰が、天主のようにあるか。私たちは被造物である、私たちはこの在らしめられている者である、天主こそが全てであって、私たちは全て天主様に依存している。天主様の御旨を、聖なる御旨を果たす事こそが、私たちの本当の幸せの道だ。悪魔たちは、天主の御旨ではなく、自分の思いの通りにやりたかった、その為に地獄に堕ちた。そうではなくて、天主の御旨を果たす。

 「誰が天主に如(し)く者あるぞ」これこそが、本当の謙遜であり、私たちを守ってくれるものです。

 第2に、私たちは悪に対して剣、「祈り」という剣を持って戦わなければなりません。もしも誘惑に襲われた時には、私たちは祈りをもって、射祷をもって、マリア様に、或いはイエズス様に、或いは大天使聖ミカエルに、「私たちが守られますように。」お祈り致しましょう。私たちが誘惑を受けた時のみならず、「多くの霊魂が救われますように。」「多くの霊魂が天国に導かれますように。」「多くの霊魂が真の天主を知りますように。」お祈り致しましょう。私たちもその為に戦いを続ける事に致しましょう。

 私たちの戦いは、肉の戦いではなく、ボクサーとかの戦いではなく、いつも天主の御旨を果たし、善を行い、謙遜に悪を避け、罪の機会を避け、自分よりも天主を愛する、天主を愛するが為に自分の隣人を愛する、という善の戦いを続けるという事です。

 特に日本は、大天使聖ミカエルに捧げられました、聖フランシスコ・ザビエルが日本人を見て、「日本人たちが、天主様に対してもっと謙遜であるように、天主様の御旨を受け、天主様の真理を謙遜に受け入れる事ができるように。」と、日本の守護者として大天使聖ミカエルを選び、日本を捧げてくれました。ですから私たちも、大天使聖ミカエルに特別の信心をもち、お祈り致しましょう。

 私たちも、大天使聖ミカエルのように、「謙遜の盾」と、「祈りの剣」を持って、悪と戦って行く事ができるように、お祈り致しましょう。

 「大天使聖ミカエル、我らの為に祈り給え。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2015年6月14日 聖ピオ十世会 聖伝のミサ レネー神父様 SSPX Traditional Latin Mass

2015年06月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日と今朝、レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!

 次のようなご報告を頂きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 兄弟姉妹の皆様のしもべは、昨日は香港にミッションに参りました。31名の方々が聖伝のミサに与りました。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での主日の御ミサの報告をお送りいたします。

6月14日 聖霊降臨後第三主日 の歌ミサには、17人の方が、
6月15日(月) 御聖体の聖心の随意ミサの歌ミサには、11人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

14日のお説教では、御聖体について黙想いたしました。
この日のお説教で触れた「御聖体の聖心のミサ」を月曜日に歌ミサで捧げて下さったことは、大変貴重な経験でした。日本語のミサ典書にはのっていないので、このような御ミサがあることを初めて知りました。ここ何十年間、日本では捧げられたことがなかったかもしれない御ミサに与ることが出来て、とても幸福でした。

レネー神父様のお説教をお聞きすると、私はしばらく大変深く黙想をする事ができます。お説教をこのブログでもう一度復習すると、新たにわかる事が増えます。聞き落としていた事も再確認できますし、さらにもう一度復習すると、少しばかりは人にも説明してあげれるようになります。(一度で深く理解される方もおられると思いますが・・・(;´∀`)

ぜひ沢山の方にこの素晴らしいお説教を読んで、聞いて頂きたいと心から願っています。

日本の為にミッションに来て下さるレネー神父様に心から感謝いたします。レネー神父様の上に天主様の特別の御恵みが ありますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

昨日、今日と、大阪にてごミサにあずかって参りました。
レネー神父様のお説教、とても素晴らしかったです。
特に生涯をイエズス様に お捧げする奉献生活をお勧めする言葉に励まされました。

ミサ後の講話は、フェレー司教様の最新のお手紙の内容と関連したもので、あわれみの聖年を開始することを教皇様が発表されたことにちなんで、公会議の精神による「あわれみ」と聖伝によるまことのあわれみとの違い、つまり、天主様からのまことのあわれみを得るためには、常に回心と償いが伴うというものでした。

翌月曜日のごミサは「ご聖体のうちにましますイエズスの聖心 the Eucharistic heart of Jesus」のごミサをして下さいました!
これは比較的新しい祝日で、ベネディクト15世教皇様がお定めになったそうです。
秋田の聖体奉仕会の祈り「ご聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心よ」を思い出し、秋田のマリア様への信心をさらに深めようと思いました。

いつも少ない信者のためにはるばる飛行機でいらしてくださるレネー神父様に感謝致します。
小野田神父様もお体ご自愛くださいませ。


【お説教】



お説教は以下のとおりです。

親愛なる兄弟の皆さん、

イエズスの聖心の驚くべきものは、いとも聖なるご聖体です。「イエズスのご聖体の聖心」をたたえる随意ミサさえもあります。これは、(カトリックという)まことの宗教だけにあるものです。異邦人の宗教にはなく、イスラムにも仏教やヒンズー教にも、またほかのどんな宗教にも似たものはありません。さらに言えば、たいていの異端、特にプロテスタントは、ご聖体について(の教えを)ゆがめてしまうか、信じていないかのどちらかです。ご聖体は、まことにカトリックという宗教だけにあるものであり、天主がご制定になったしるしです。天主のみが、このような驚くべきものを考え、つくることがおできになったのです。

神学大全において、聖トマス・アクィナスは問いかけます。天主はもっとよい世界を造ることができただろうか、と。聖トマスは答えます。天主は全能であり、すべての被造物は有限であるから、天主が造るものがどんなによいものだとしても、天主はさらによりよい世界を造ることができた、と。しかしながら、と聖トマスは説明します。天主でもそれ以上よりよいことをすることができないようなことが存在する、と。つまり、それらのことが天主的であるかぎり【それ以上よいことは出来ない】と。ですから、天主はご托身以上によいことを行うことはできませんでした。(ご托身になった)イエズス・キリストはまことの天主であり、かつまことの人間であったからです。天主以上に偉大なもの はないからです。位格的に結合すること、つまり人間の本性が天主のみ言葉ご自身と完全に結合すること以上に、天主とのより偉大な結合はありえないのです。同様に、「天主の御母であること」以上に、より偉大な「母であること」はありえませんでした。聖母マリアは「天主の御母」です。一人の母親が、私たちの主イエズス・キリスト以上に偉大な子を持つことはありえませんでした。同じように、私たちにとって、ご聖体以上に素晴らしい天主の賜物はありえません。なぜなら、ご聖体はまさに「私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、そして天主性」であるからです。

ご聖体の祝日の朝課の中で、聖トマスは旧約のモイゼを引用して言います。「われわれがこいねがうとき天主なる主はわれわれの身近においでになるが、それと同じほど神々を身近に持つ偉大な民がほかにあるだろうか」(第二法4章7節)。天主が民にマンナをお与えになっていた旧約の時代において、天主が身近におられることがすでに真実であったのなら、新約の時代においてはどれほど高いレベルの真実であるでしょうか。人はこう言うかもしれません。天主はどこにでもおられるのだから、どうすればそれが可能だろうか、と。霊は天主が働くところにあります。天主がどこでもすべてのものの存在を維持するために働いているのですから、天主は実際にどこにでもおられます。天主が創造し、その存在を維持していないのなら、何も存在できません。ですから天主は地獄にさえも存在し、悪魔の存在を維持し、悪魔を変わることのない正義に服従させておられます。すべての天主のみわざに天主が現存することは、「計り知 れないものの現存」です。しかし、天主の現存の度合いが大きければ大きいほど、そこでは天主の働きが大きくなり、天主のみわざはさらに素晴らしくなります。ですから、愛徳によって天主を愛する人々の霊魂には、天主が特別な方法で現存されます。実際、天主はこれらの霊魂たちを驚くべき方法で聖化し、彼らを天主の子、天主の友とされます。これらの霊魂を聖化する成聖の恩寵は、天地創造以上のみわざなのだ、と聖トマスは説明します。こうして、聖三位一体がこれらの霊魂に働かれれば働かれるほど、聖三位一体の彼らへの現存はさらにその度合いを増します。これは「恩寵の現存」です。しかしさらにその上に、天主の唯一の現存、いとも聖なる三位一体の第二のペルソナである天主のみ言葉の現存 があります。この現存は、天主なる御子と位格的に結合した、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性によるのです。この位格的結合は、聖三位一体の最も高いみわざであり、このため、唯一かつ至高の天主の存在と一致するのです。「天主の御子の位格的現存」。私たちがご聖体に見る現存は、これなのです。

私たちは、そんなことをどのようにしたら分かるのでしょうか? それは、イエズスがそう言われたからです。ただそれだけのことです。イエズスは言われました。「これは私の体である。…これは私の血の杯である」。ですから、聖別ののち、誰であれ「それは何ですか?」と質問をするなら、私たちの主イエズス・キリストご自身が言われたこと以外の正しい答えはありません。つまり「これは主の体。これは主の血である」と。教会は、私たちの主イエズス・キリストの言葉が真実であることを常に信じ、擁護してきました。プロテスタントはイエズスの言葉をむなしいものにします。イエズスは「私の体である」と言われましたが、彼らは「主の体のしるしにすぎない」と言います。これは、私たちの主イ エズス・キリストが言われたことではありません。主はその前に、カファルナウムの衆議所ですでに告知されました。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のために渡される私の肉である」(ヨハネ6章51)。プロテスタントの反応は、ユダヤ人の反応と全く同じです。ユダヤ人は「『この人はどのようにして自分の肉を私たちに食べさせるのだろう』と互いに議論し合った。イエズスは、『まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中に命がない』」(ヨハネ6章52-53)肉を食べるだけでなく血も飲むこと、これはユダヤ人やプロテスタントにとって行き過ぎだと思えるのです。しかし、イエズスは続けて強く言われました。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。これらの言葉によって、イエズスはその申し出を受け入れるよう、私たちの気を引き、私たちをひきつけるのです。驚くべき報い、霊魂だけでなく体に対しても永遠の命が待っているのです。これらの言葉によって、イエズスはまことに天主として話すのです。天主だけが永遠の命を与えることができるのですから。そしてイエズスは続けます。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章55-56節)。イエズスのこれら全ての言葉は大変はっきりしています。イエズスが私たちにお与えになる食べ物は、まことに「この肉と血」であり、霊魂と分離することはできず(主の生きる肉と血であるため、その霊魂によって命が吹き込まれます)、天主の本性とも分離することはできません。なぜなら「み言葉は肉体となった」(ヨハネ1章14節)のですから。

「そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった。イエズスは十二人に向かい、『あなたたちも去っていきたいか。』と言われた。シモン・ペトロは、『主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を有しておられます。また私たちは、あなたが天主の聖なるお方であることを知っていますし、信じています』」(ヨハネ6章66-69節)。私たちの主イエズス・キリストは、そのちょうど前に起きた奇蹟によって、それを証明されました。パンを増やしたことです。そして主の奇蹟はすべて、主が言ったことを行う力をお持ちであることを証明するためでした。「イエズスは手を伸ばして触れ、『私は望む。治れ』と言われた。するとすぐ、らい病は治った」(マテオ8章3節)。あるいは、「イエズスは、『起きて、床を取り上げて歩け』と言われた。その男はすぐ治り、床を取り上げて歩きだした」(ヨハネ5章8-9節)。あるいは、「イエズスが『見えよ。あなたの信仰があなたを救った』と言われると、盲人はたちまち見えるようになり、天主をたたえながらイエズスについていった」(ルカ42-43節)。私たちの主イエズス・キリストは天主のみ言葉であり、このみ言葉によってすべてのものは造られました。イエズスは、言ったことを行う力をお持ちなのです。ですから、イエズスが「これは私の体である」と言われたとき、その前にパンであったものはイエズスの御体に変わり、「これは私の血の杯である」と言われたとき、その前に杯にあったぶどう酒はイエズスの御血に変わるのです。イエズスの御体は生きているのですから、御体も御血もイエズスの霊魂から、イエズスの天主の本性から分離することはできません。

この偉大な神秘に目の前にして、私たちは何をすべきなのでしょうか。主のおかげで私たちはまず、信仰を告白し、使徒トマスと共に「わが主よ、わが天主よ」(ヨハネ20章28節)と言うことができます。これは初代教会の信仰であり、聖ユスティヌスは使徒たちの死から100年以内にこう書きました。「主の言葉の祈りによって祝福されたその食べ物、変質することによって私たちの血と肉を養うその食べ物は、人となったイエズスの肉と血であると、私たちは教えられてきた」。この信仰は、非常に早い時代に教会をご聖体の礼拝を行うように導きました。ですから聖アウグスティヌスは1600年前にこう書くことができました。「最初に礼拝しない限り、誰もこの肉を食べてはならない。また、礼拝するなら罪を犯さないというだけではなく、礼拝しないなら罪を犯すことになるのである」。私たちの主イエズス・キリスト、特にご聖体の主のおかげで、私たちは礼拝、讃美をすることができるのです。礼拝すべきときがあるならば、それは私たちが主を受けるために集うときです。聖アウグスティヌスははっきりと言います。最初に礼拝しない限り、誰もこの肉を食べてはならない、と。

さて次に、手による聖体拝領がいかに悪いことなのかを見てみましょう。教会の始まりにおいては、(ご聖体における)主の現存への素晴らしい信仰がありました。正確に言えば、聖霊に導かれ、その信仰によって、ひざまずいて舌で聖体拝領するという習慣を導入しました。のちに、現存を信じるのを拒絶した異端者たちが、立ったまま手にご聖体を受ける習慣を取り入れました。1960年代に、6人のプロテスタントが、新ミサを準備する委員会で協力しました。手による聖体拝領を導入するという実験が行われました。プロテスタントをまねるためにです。司教たちやパウロ六世の弱さと共謀によって、この大変悪い実践が全世界に広がりました。この悪い実践によって、主の現存という信仰を失った何十万、何百万という信者がおり、同じ理由で主の現存という信仰を失った司祭たちもいます。よき司教であるカザフスタンのアスタナのアタナシウス・シュナイダー司教がよき本を書きました。その中に、(手による聖体拝領という)この乱用が正されないうちは、教会の信仰の危機は続くだろう、とあります。この悪い実践は、初期の教会の信仰の精神に反し、私たちの主イエズス・キリス トの愛の秘蹟そのものにおられる主に対する敬意を大きく減らすことになり、恩寵を得るための障害物であるのです。実際「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)。ですから、私たちの主の前で主を受けるために敬意をもってひざまずくことは、イエズスが豊かにお与えくださる恩寵を受けるよう霊魂と心を開くことなのです。しかし、敬意のしるしもなしで立ったままでいることは、霊魂を閉じてしまい、熱意を小さくさせ、受けられる恩寵はあってもほんの少しだけか、全くないかのどちらかです。なぜなら、礼拝をしていないため、(そこには)恩寵を受けるための障害物があるからなのです。

聖トマス・アクィナスの教えによると、ご聖体はすべての秘蹟のうちで最も偉大なものであり、ほかのすべての秘蹟は秘蹟の頂点であるご聖体に対して方向づけられています。実際、ほかの秘蹟は恩寵を与えますが、ご聖体の秘蹟には恩寵を与えるまさにその方がおられ、そのため尽きることのない方法で恩寵をその源泉そのもので飲むのです。洗礼はご聖体の扉のようです。それは、まず洗礼を受けない限り、ご聖体を受けることが許されないからです。堅振は霊魂を強め、主を受けるのにさらにふさわしくしてくれます。告解は霊魂を回復させ、主を受けるのを許されるように霊魂を清めてくれます。終油は聖なる旅路への準備をさせます。これは最後の聖体拝領のようです。叙 階は、明らかにご聖体のためのものです。司祭はご聖体の人です。信者は、司祭がいなければご聖体のイエズスを得ることはありません。このことから、多くの聖なる良き召命のために祈ることは義務になります。最後に、結婚さえもが、ご聖体と関係があります。

実際、私たちの主イエズス・キリストはカナの奇蹟を行うことによって、結婚を秘蹟にまで高められました。この奇蹟は最初の全実体変化でした。イエズスの公生活の初めに、水をぶどう酒に変化させたことは、公生活の終わりに、ぶどう酒をいとも聖なる御血に変化させたことの前じるしでした。また実際、ご聖体はキリストと教会の神秘的結婚の秘蹟であります。アヴィラの聖テレジアによれば、これは霊的生活の最高の段階です。結婚は良いものですが奉献生活はさらに良いものだ、と教会は教えます。奉献生活はまさにより良いものです。それは、奉献生活がより高い結婚、ご聖体がその秘蹟であるキリストとの神秘的結婚を目的とするからです。

ご聖体は一致の秘蹟です。「私たちが祝する祝聖の杯は、キリストの御血にあずかることではないか。私たちが裂くパンはキリストの御体にあずかることではないかパンは一つであるから私たちは多数であっても一体である。みな一つのパンにあずかるからである」(コリント第一10章16-17節)。私たちの主イエズス・キリストと一致しているのですから、私たちは主の御体、教会に組み込まれているのです。聖アウグスティヌスは言います。ご聖体を自分の体に変えると思うな。ご聖体があなたがたを主の御体に変えるのだ、と。主は私たちを吸収し、私たちをもっともっと主ご自身に一致させるのです。主はかなめ、絆を強めます。すなわち「愛、それは完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)。ここから、聖トマス・アクィナスは、カトリック教会の外(たとえば離教の東方正教会)でご聖体を受ける者は、一致の秘蹟を受けながらも教会の一致を拒絶していることで、ご聖体の秘蹟に偽りをもたらす、と教えます。同じことが、教皇との対話を拒絶するすべての人々にも適用されます。私たちは教会を愛さなければなりません。そして、私たちの主イエズス・キリストにふさわしく生きていない教会の多くの霊魂の癒やしのために祈らなければなりません。

親愛なる兄弟の皆さん、実際、ご聖体の法というものがあります。大変単純です。私たちの主イエズス・キリストはご自身をすべて私たちにお与えになります。今度は私たちが、主にすべてを捧げなければなりません。私たちは、洗礼を受けたのですから、すでに聖性へ向かう義務があります。しかし私たちは、ご聖体を受けたのですから、聖となるべき義務がどれほどたくさんあるでしょうか。私たちは、もはや自分のために生きてはならず、「自分のために死んでよみがえったお方のために」(コリント第二5章15節)生きるのです。いやむしろ、主は聖パウロのうちに生きておられたように、私たちのうちに必ず生きておられます。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。私たちは、現代世界の異邦人のように生きることは許されません。私たちは、この時代の不道徳に従って生きることは許されません。私たちは、悪い模範に従うことは許されません。それが教会のメンバーや聖職者の模範であったとしてもです。私たちには聖性へ向かう義務があります。「私が聖なるものであるのだから、おまえたちも聖なるものとなれ」(レビ11章44節)。「天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。「あなたたちの体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章20節)。

特に、ご聖体と貞潔の徳の間には特別なつながりがあります。実際、ご聖体は「天使たちのパン」(詩篇77章25節)と呼ばれます。「若者たちを小麦のように伸ばし、乙女たちを、甘いぶどう酒のように栄えさせる」(ザカリア9章17節)。一方で、ご聖体を受けるのを許されるために必要とされる貞潔があり、成聖の恩寵の状態にあり、大罪から清められていなければなりません。他方で、ご聖体は犠牲としてまた一致として、私たちに天の喜びをあらかじめ味わわせることによって、私たちの愛着を地上の楽しみから引き離すのです。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。御父、御子、聖霊と永遠に一致し、天主の完全な似姿に変わることがないのならば、天国とは何でしょうか。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。正しい心構えで受けるご聖体において、貞潔の人生を生きるため、特に生涯独身であることを奉献した人生を生きるための恩寵を得るのであります。

反対に、成聖の恩寵の状態でないままご聖体を受けるなら、聖パウロが警告するように「主の御体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである(すなわち地獄の宣言をすること)」(コリント第一11章29節)。聖職者、そして枢機卿さえもが、同性愛や姦淫といった重い罪の状態で生きている人々が、ご聖体を受けることができるかもしれないとほのめかすとき、事態はまことに嘆かわしいものです。これは本当のスキャンダルです。このあわれな罪びとたちは、まず罪をやめて告解するように招かれなければなりません。ご聖体を受けることができるよう罪から離れ、そのあとでご聖体におられる私たちの主イエズス・キリストを受けるのです。私たちの主は聖福音の中で言われます。「聖なるものを犬にやってはならぬ。真珠を豚に投げ与えてはならぬ」(マテオ7章6節)。ご聖体以上に聖なるものがあるでしょうか? もしご聖体でないとすれば、私たち最も大切な真珠とは何でしょうか? 聖書の中では、同性愛者は時々犬に例えられます(黙示録22章15節)。また不浄な人々は豚に例えられます(ペトロ第二2章22節)。大罪の状態のまま、ご聖体におられる私たちの主イエズス・キリストを受けるのは、汚聖という重大な罪です。もし大罪を犯したのなら、ご聖体拝領の前に告解が必要です。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らないのか」(ローマ2章4節)。そうです、天主は罪びとに対して慈悲深い方ですが、その慈悲は告解を通さずに来ることはありません。それどころか、天主の慈悲によって罪びとは力を与えられ、告解をすることができ、そのあとでご聖体を受けることができるのです。

ご聖体と貞潔の関係で最もすぐれた模範は童貞聖マリアです。み言葉が人となったのは、そのいとも清らかなご胎内でした。親密な一致の状態だった九カ月の間、聖母には、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、そして天主の本性がご自分の中に現存するという喜びがありました。ご降誕のあとでも、霊的な絆は弱まることはありませんでした。それどころか、より強く、より深くなっていく一方だったのです。私たちが受けるご聖体は、聖母がそのいとも清らかなご胎内に宿しておられた同じ肉と血であるのです。ですから、私たちは聖母がなさったように「その体をもって天主に栄光を帰」(コリント第一6章20節)すべきです。ご聖体によって私たちが受けるイエズス、その肉と血を与えてくださった聖母に、私たちはいつも感謝すべきです。

聖母が聖ヨハネのミサにあずかられるたびに、十字架の聖なる犠牲のことを思い出しながら、その犠牲の再現にあずかっておられたのですが、その思い出はどれほどのものだったでしょう。これは「キリストの御体と御血の犠牲」を捧げることで、聖チプリアヌスがミサと呼ぶものでした。聖母がご聖体拝領において御体と御血を再びお受けになるとき、どれほどの信心があったことでしょう。聖母に私たちをお助けくださるよう願いましょう。ご聖体拝領のたびに、聖母と同じ信心をもって私たちの聖なる主を受けることができますように。また、十字架の下で主と共に聖母がご自分をお捧げになったように私たちも主と共に自分を捧げることができますように。そうして最後に、 熱心なご聖体拝領(コムニオ)によって、私たちが、ご聖体が美しい約束の手形(手付)である永遠の一致(コムニオ)、永遠の命を得ることができますように。

アーメン。



2015年6月6日 初土曜日 聖マリアの汚れ無き御心の随意ミサ SSPX Japan Traditional Latin Mass

2015年06月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 お元気でいらっしゃいますか。今月の初土曜日のミサの時のお説教を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。ファチマ100周年の準備として、私たちはファチマの子供たちに倣いたいと思います。ジャシンタがどんなこころで聖母の汚れなき御心を慰めようとしたか、イエズスの聖心と聖母の汚れなき御心を愛していたかを知って下さい。

 これを書き起こして下さった方に心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年6月6日 初土曜日 聖マリアの汚れ無き御心の随意ミサ

小野田神父説教





 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年6月6日、6月の初土曜日のミサ、マリア様の汚れ無き御心のミサをしています。今日このミサの後に、簡単な公教要理がいつものようにあります。どうぞいらして下さい。

 それから、お祈りと感謝の意向ですが、信徒のある方のご主人様が、癌ではないかと言われていたのですけれども、癌ではないという事が分かった、という事で、どうぞ感謝の祈りを捧げて下さい。

 また、今月の終わりには、ある方が手術を受けなければならないので、その手術がうまくいきますように、お祈りをお願いします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は、マリア様の汚れ無き御心の信心で、マリア様の汚れ無き御心のミサをしています。

 マリア様の汚れ無き御心は、イエズス様の至聖なる聖心と同じ火が、愛の火が燃えています。その事は、今日のミサのお祈りをみるとよく分かります。

 ミサの最初の方にある集祷文というお祈りで、神父様は、「天主三位一体は、マリア様の御心を、マリア様の汚れ無き御心を、聖霊の、三位一体の聖霊の神殿としてしつらえ、準備され給うた。マリア様の汚れ無き御心は、その中に聖霊の火が燃えている。それほど、天主様を愛する火で燃えている。」と、いう事を祈っています、確認しています。

 この、その次にある密誦というお祈りの中では、「汚れ無き天主の子羊を、御身の御稜威に捧げる私たちが、私たちの心の中にも、マリア様の御心の中に燃えているそのカノン、天主様の愛の火に、私たちも燃え盛る事ができますように。」と、お祈りしています。

 マリア様の心は、まさに天主様の愛、イエズス様に対する愛に、聖霊の愛に、盛んに轟々(ごうごう)と燃え盛っていた、愛の御心です。

 ちょうど、このマリア様の御心は、イエズス様と一緒に、共に、私たちの贖いを達成してくれました。ですから、イエズス様の聖心と、マリア様の御心は分かち難く、緊密に結ばれているのです。

 ちょうど1916年の秋に、ポルトガルの守護の天使が、3人の子供に現れました。それはポルトガルのファチマという所で現れました。その時に3人の子供に現れたのですけれども、3人の子供の内、一番小さな女の子は、ジャシンタちゃんでした。そのジャシンタちゃんは、そのポルトガルの守護の天使を見た時には6歳でした。この今ミサに与っているお友達と、同じ年齢だったんです。そのジャシンタちゃんは、その天使を見て、天使がこうやってお祈りをするのを聞いて、それをいつも心に留めていました。

 「至聖三位一体の聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を心より深く礼拝し奉る。イエズス・キリストが、その同じ御子イエズス・キリストが、それによって犯されている、屈辱を受けている全ての冒涜、瀆聖、無関心の罪を償う為に、全世界にある御聖櫃に於ける、御聖櫃の内に在し給うイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、御神性を御身に捧げ奉る。」

 天使は言葉を続けて、6歳のジャシンタちゃんにもこう教えます、「イエズス・キリストの至聖なる聖心の無限の御功徳によって、またマリア様の汚れ無き御心の御取次ぎによって、かわいそうな罪人たちの回心をお願い致します。」

 では今日この、昨日は初金で、今日は初土でしたので、この天使の言葉を聞いた3人の子供たちが、特にジャシンタが、その後どうやってこの天使のメッセージと、マリア様のメッセージを、マリア様のお言葉を実践したかを少しみて、マリア様は、私たちにどんな事をお求めになっているのかを黙想して、それから最後に、私たちの遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 ジャシンタは、マリア様を見た時に、その時には7歳の女の子でした。マリア様を見て、「とてもマリア様がお悲しそうだ。」人類が、マリア様からこんなにも愛されているにもかかわらず、イエズス様がこんなにも人類を愛しているにもかかわらず、この人類は、その愛して下さっているイエズス様、マリア様を全く無視して、無関心で、或いは冷たく氷のように冷淡で、時には、マリア様やイエズス様の事を、悪く口汚く罵ったり、或いはイエズス様に対して侮辱を行ったり、イエズス様の掟を無視したりしているので、「とても悲しそうでした。」

 ジャシンタは、マリア様から、「あなたは天国に行きます。」と、いう事を聞いて、天国に行く事をいつも考えていました。いつも、「天国に多くの人達が行く事ができるように、罪人が回心しますように、罪人がイエズス様の事をよく知って、イエズス様の事をお愛しする事ができるように。」お祈りをしていました。

 お祈りをするだけではなくて、辛い事もたくさんお捧げしていました。特に、教皇様の為にもお祈りしていました。「パパ様は苦しまれているので、お祈りが必要だ。」

 ちょうどその当時は、スペイン、ヨーロッパでは、スペイン風邪というインフルエンザが流行、感冒が猛威を振るっていて、ある学者によると、「多くの兵士たちは、戦争で死んだのみならず、風邪の為に、インフルエンザの為にバタバタと亡くなっていった。」とも言われています。3人の子供の内、ルチアを除いて、7歳のジャシンタもフランシスコも、風邪にかかって、フランシスコは既に亡くなってしまいます。フランシスコはファチマのマリア様を見た2年の後に、1919年に死んでしまいます。お兄さんのフランシスコが亡くなったので、ジャシンタはとっても悲しんでいました。

 ルチアとフランシスコとジャシンタのその3人の子供たちは、もういつもマリア様の事、イエズス様の事、お祈りの事、罪の償いの事、苦しみを捧げる事、教皇様の為にお祈りをする事、罪人の回心の事をいつも話して、その為にお祈りをして、その為に犠牲を一緒に捧げていたので、そのフランシスコがいなくなったのは、とても寂しい事でした。

 ジャシンタ自身も、病気でとても苦しんでいました。でもジャシンタはもう、天国に行く、という事をよく知っていたので、それを黙って捧げていました。ジャシンタの病気は、世界で一番最高のお医者さんでも治す事ができない、重い肺炎からかかった結核で、肺には大きな穴が開いていました。誰もジャシンタの事を治す事はできなかったのですけれども、ジャシンタはお医者さんの仰る通りに、その治療を受けて、それを犠牲として捧げていました。

 特に辛かったのは、病院に入院すると、ルチアとマリア様についてのお話ができなかったり、或いはお母さんと離ればなれになってしまったり、一人ぼっちに、病院で他の誰も知らない人の間にいるのが、教会に行く事ができない、というのがとても辛く感じていました。

 7歳の女の子は今、9歳になろうとしています。でも、ジャシンタちゃんが9歳の時に、こんな事を言っていました、「私は病院で大丈夫です、ルチア。私は天主様への愛の為に、マリア様の汚れ無き御心の為に、罪人の回心の為に、教皇様の為に、たくさん苦しんでいます。」

 フォルミガン神父様という、ジャシンタの所によく訪問に来た神父様は、詳しくジャシンタの事を知っていて、「もうその当時ジャシンタは、もう肉がなくなっていて痩せていて、ご飯もうまく食べられずに、骨と皮だけのようになっていた。でも心は生き生きとしていて、お祈りと苦しみを捧げていた。」と、言います。

 フォルミガン神父様によると、「ちょうどジャシンタを見ると、ルルドの聖ベルナデッタのようだ。マリア様は、この地上では、幸せを約束しないけれども、後の世での幸せを約束して下さった。」と、言っています。

 ジャシンタは、毎日毎朝、朝教会に行って、御ミサに与りたかったのです。でも病院にいたので、それも思うようにできませんでした。それでルチアから、「ジャシンタ、教会に来なくていいのよ。」と言われると、「イヤ、それでも行きたい。」「今日は日曜日じゃないからいいんだよ。」「イヤ、それでも行きたい。何故かというと、罪人は、日曜日でも教会に行かないから、その代わりに私が教会に行きたい。罪人の為に教会に行く、その代わりに行きたい。」と、言っていました。

 或いは、ある時にはルチアに、秘密の話を、マリア様についての話を、自分がどれだけ苦しんでいるか、というのをルチアにだけは打ち明けていました。他の人には秘密でしたけれども、ルチアはその事を知っていました。ルチアは後に私たちに、「ジャシンタはこう言っていた、こう言っていた。」と、こう記録を残しています。

 それによると、ジャシンタはこう言っていたそうです、「あぁ、イエズス様は、とっても悲しんでいます。マリア様は、『イエズス様がもうこれ以上犯されてはならない。』と、言いました。イエズス様は既にあまりにも罪によって傷付いているから。誰もその事に注意を払おうとしていない。」

 ある時、ルチアはジャシンタを見ていると、ジャシンタのお母さんがやって来ました。マルトお母さんです。すると、マルトお母さんがジャシンタに、「さあ、ミルクを、牛乳を飲みなさい。」と、言うのですけれども、ジャシンタは牛乳が嫌いでした。「飲みたくない。」と、言ってそれを拒否すると、お母さんはとても悲しそうに、「さあ、さあ。」と、言うのですが、それでもどうしても飲む事ができなかったそうです。

 するとルチアは、「おお、ジャシンタ。お母さんの言う事を聞かないとダメよ。従順でなければダメよ。」と、言うと、ハッと気付いて、「お母さん、ミルクを頂戴。」と、言って、ミルクをゴクリゴクリと涙を流しながら、飲み始めたそうです。このその時以来、ジャシンタは、お母さんの持って来るミルクを決して拒んだ事が無かったそうです。それで後に、ルチアには、「ルチア、私が牛乳を飲むのがどれだけ辛いか分かりますか?」と、ポロリと打ち明けたそうです。

 ある時、ジャシンタが一番好きだった果物のブドウの事を知っていたので、お母さんはブドウと牛乳を持って来ました。するとジャシンタは、「お母さん、ブドウはいらない。牛乳を下さい。」と、言って牛乳を飲んで、「罪人の回心の為に、教皇様の為に。」と言って、牛乳だけを飲みました。

 ある時、ルチアが教会に行ってから、ジャシンタの所に行くと、「あぁ、ルチア!今教会に行って来たの?」ルチアが「そうよ。」「ルチア御聖体拝領した?」「うん、した。」「あぁ!じゃあ来て来て来て!」ルチアの所に来て、「あぁ、イエズス様!ルチアの所にいるんだ。」ルチアに、「私もイエズス様が私の中にいるのが分かります。私、イエズス様と一緒にいるのはとっても好き!」

 ルチアの持っていた、ホスチアとカリスの御影を見ると、「あぁ!この中にイエズス様が隠れておられる。イエズス様の事大好き!」と言って、イエズス様の聖心の御影があると、「あぁ!イエズス様の聖心。私大好き!」と言って、その聖心にたくさん接吻するのだそうです。「イエズス様の聖心が一番好き!マリア様の御心も好き!マリア様の御心の御影があったら頂戴。」いつもイエズス様の聖心に接吻をしていたのだそうです。

 マリア様は、そんなイエズス様とマリア様の事だけを考えているジャシンタの所に、時々お現われになったようです。何故かというと、ジャシンタはたった9歳の女の子だったのですけども、とても深い、イエズス様とマリア様の秘密を知っていました。「イエズス様は、私たちに全てのお恵みを、マリア様の汚れ無き御心を通して与えて下さいます。」と、ルチアに言っていました。ジャシンタは、「イエズス様の至聖なる聖心は、御自分の聖心と一緒に、マリア様の汚れ無き御心が崇敬される事を望んでおられます。」

 ある時には、「ルチア、私の胸の中に火が燃えている!それでこの火が、イエズス様とマリア様の御心を愛するようにさせている。」と、言っていました。

 ある時、まだその時にお父さんもお母さんもお金がそんなに無くて、リスボンの一番そういう大都会の病院に子供を送るほどの余裕も無かったのですけれども、ある時にルチアにこう言い出すのです、「ルチア、私はこれからリスボンに行く。リスボンの病院に行って、一人で死にます。マリア様がそう仰いました。」誰もその時、想像さえも、頭の中にもそんな事思っていませんでした。

 ある時、その後にファチマの事を知ったとても裕福な方が、「是非ジャシンタに、最高の医学を、最高の治療を施したい。」という事で、「是非寄付をしたい。だから是非ジャシンタが、最高のお医者さんの元で、治療を受けるように。」と、いう事で、リスボンに本当に行かれて、リスボンの病院に行く事になります。

 ルチアから離れて、お母さんから離れて、遠くポルトガルの首都リスボンに行くのはとても、ジャシンタにとって、9歳の女の子にとってはとても辛い事でした。でもジャシンタはそれを全て、マリア様の御心を慰める為に、罪人の回心の為に、捧げていました。「私は、イエズス様の愛の為に、マリア様を愛する為に、苦しむのが大好き。」と、言っていました。「イエズス様とマリア様は、罪人の回心の為に、苦しみを捧げる人を愛して下さる。」とも言っていました。

 ある時は、シスターがジャシンタの所に来ると、「あぁ、マダム!そこに立たずにこっちに来て下さい。そこにはマリア様が来たのです。」と、言った時もありました。

 ある時ジャシンタはルチアに、「霊魂が、最も多くの霊魂が地獄に落ちる、その罪は肉の罪です。天主様に仕える人は、流行に従ってはいけません。教会には流行があってはなりません。イエズス様はいつも同じだからです。」とも言っていました。

 遂に、10歳になる少し前に、ジャシンタはマリア様から言われた通りに、リスボンの病院で手術を受けました。結核で骨が2本、肋骨が無くなっていて、肺に大きな穴が空いていて、とても苦しんでいました。お医者さんが手術をするのですけれども、当時の麻酔は、現代の様な高度な麻酔ではなく、局部麻酔で、それもうまく効くわけではありませんでした。しかしこの10歳になろうとする*ジャシンタは、「その痛みよりも、誰も知らないお医者さんの前で手術を受けなければならない事を、とても恥ずかしく、それがとても辛かった。」と、ルチアは言っています。
【*注:ジャシンタは1910年3月11日生まれで、1920年2月20日に亡くなりました。ジャシンタはあと3週間で10歳の誕生日を迎えるところでしたが、その前に霊魂を天主様に返しました。】

 その子供は、手術の間、おそらく拷問の様な痛みを感じていたと思うのですが、一言も、不平も、痛いとも言わずに、ただ一言、口から洩れたのは、「あぁ、イエズス様!罪人を回心して下さい!私は苦しんでいます。この苦しみを使って下さい。」という言葉が漏れたそうです。

 お医者さんの一生懸命の努力にもかかわらず、その手術の数日後、アウローラ・ゴメスという看護婦の見ている前で、たった一人で、霊魂を天主様の元に返します。約束の通り、マリア様は、ジャシンタの霊魂を引き取りに来ました。

 その後、30年の後に、ジャシンタの遺体は腐敗せずに、棺桶の中でまた見出されました。

 ジャシンタは、マリア様の汚れ無き御心が悲しんでいるのを見て、それを慰めようと、多くの霊魂を天国に連れて行きたい、とその事だけを考えていました。天国に行くという事だけを考えていました。その前に、マリア様をお愛しして、イエズス様をお愛しして、たくさんの祈りをしたい。もしもルチアと話をするとしたら、その事だけをいつも話をしていました。

「ルチア、今日はどんな犠牲をしましたか?どんな苦しみを捧げましたか?」「跪いてお祈りをしたい。ルチア、もう天使のようにもうぬかずいてお祈りもできません。痛くて倒れちゃう。」

 そしたらルチアが、「あぁ、それならベッドでお祈りしなさい。」「えぇ?それでも良いの?」「えぇ、神父様が仰ったから良いんだよ。」「あぁ、神父様が仰った事は全部する。」と。イエズス様とマリア様の御心を慰める事だけを考えていました。

 マリア様の汚れ無き御心も、私たちにその事を望んでいます。ですから、私たちは今日、初土のミサに与りにやって来ました。今日、この御ミサに与っている皆さんをご覧になって、マリア様の汚れ無き御心は、どれほど喜んでいるでしょうか。ジャシンタは言います、「罪人の回心の為にお祈りする人を、イエズス様の聖心とマリア様の御心は、心から愛している、お恵みを下さる。」

 ですから今日皆さんは、たくさんのお恵みを頂いて、家に帰って下さい。

 イエズス様を愛する為に、罪人の回心の為に、教皇様の為に、今日、御聖体拝領を愛を込めてなさって下さい。マリア様に、マリア様が受ける侮辱、イエズス様が受ける侮辱を償う為に、御聖体拝領を捧げて下さい。

 今日のこのミサと、御聖体拝領と、昨日と或いは今日のこの告解とロザリオと、15分マリア様と一緒にいる事によって、マリア様の汚れ無き御心をどうぞ慰めてください。ぜひ続けて初土の信心をなさって下さい。5回の初土を是非なさって下さい。もし良かったらお友達も誘って、一緒に初土の恵みを受けるようにお誘い下さい。マリア様がどれほどお喜びになるか、多くの霊魂を救って下さるか、私たちの想像も及ばないほどのお恵みが待っています。その遷善の決心を立てて、このミサを続ける事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)

2015年06月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 今日は、イエズスの至聖なる聖心の祝日ですから、ピオ十一世教皇様の定め(1928年)に従って、「人類の忘恩に対する償いの祈」を唱えましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


人類の忘恩に対する償いの祈(聖心の大祝日にこの祈りを唱える)



いと甘美なるイエズスよ、主が人々に示し給いし御慈しみはかえってかれらの忘却と冷淡と軽蔑とによりて報いらるるなり。
さればわれらは、主の祭壇の御前にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩ぼうとくを償わんがために、特に礼拝し奉る。
▲されどわれらもまた、かつて主に背き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御あわれみを願い奉る。
われらはおのが罪を償うのみならず、さらに進んで、救霊の途を遠ざかり、
主の御招きに応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。
すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、
主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖なる愛の秘蹟に対する無関心と恐るべき涜聖、主のさだめ給いし、教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。
ああかくの如き罪をば、われらの血潮もてことごとく洗い浄めんとすべもがな。
われら今ここに、主のいと高き御霊威に対する冒辱の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父に献げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳の完全なる実行をもつて、主の聖寵の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみに対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人の冒辱を防ぎ、かつ能う限り多くの人々を、主の御許に呼び集めんと心より約束し奉る。
いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖童貞なる協償者マリアの御取次によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。
聖父と聖霊と共に世々に生き、かつしろしめし給う主なるかな。アーメン。


MISERENTISSIMUS REDEMPTOR ENCYCLICAL OF POPE PIUS XI, 1928

Wherefore, we decree and command that every year on the Feast of the Most Sacred Heart of Jesus, - which feast indeed on this occasion we have ordered to be raised to the degree of a double of the first class with an octave - in all churches throughout the whole world, the same expiatory prayer or protestation as it is called, to Our most loving Savior, set forth in the same words according to the copy subjoined to this letter shall be solemnly recited, so that all our faults may be washed away with tears, and reparation may be made for the violated rights of Christ the supreme King and Our most loving Lord.

Act of Reparation


O sweetest Jesus, whose overflowing charity towards men is most ungratefully repaid by such great forgetfulness, neglect and contempt, see, prostrate before Thy altars, we strive by special honor to make amends for the wicked coldness of men and the contumely with which Thy most loving Heart is everywhere treated.
At the same time, mindful of the fact that we too have sometimes not been free from unworthiness, and moved therefore with most vehement sorrow, in the first place we implore Thy mercy on us, being prepared by voluntary expiation to make amends for the sins we have ourselves committed, and also for the sins of those who wander far from the way of salvation, whether because, being obstinate in their unbelief, they refuse to follow Thee as their shepherd and leader, or because, spurning the promises of their Baptism, they have cast off the most sweet yoke of Thy law. We now endeavor to expiate all these lamentable crimes together, and it is also our purpose to make amends for each one of them severally: for the want of modesty in life and dress, for impurities, for so many snares set for the minds of the innocent, for the violation of feast days, for the horrid blasphemies against Thee and Thy saints, for the insults offered to Thy Vicar and to the priestly order, for the neglect of the Sacrament of Divine love or its profanation by horrible sacrileges, and lastly for the public sins of nations which resist the rights and the teaching authority of the Church which Thou hast instituted. Would that we could wash away these crimes with our own blood! And now, to make amends for the outrage offered to the Divine honor, we offer to Thee the same satisfaction which Thou didst once offer to Thy Father on the Cross and which Thou dost continually renew on our altars, we offer this conjoined with the expiations of the Virgin Mother and of all the Saints, and of all pious Christians, promising from our heart that so far as in us lies, with the help of Thy grace, we will make amends for our own past sins, and for the sins of others, and for the neglect of Thy boundless love, by firm faith, by a pure way of life, and by a perfect observance of the Gospel law, especially that of charity; we will also strive with all our strength to prevent injuries being offered to Thee, and gather as many as we can to become Thy followers. Receive, we beseech Thee, O most benign Jesus, by the intercession of the Blessed Virgin Mary, the Reparatress, the voluntary homage of this expiation, and vouchsafe, by that great gift of final perseverance, to keep us most faithful until death in our duty and in Thy service, so that at length we may all come to that fatherland, where Thou with the Father and the Holy Ghost livest and reignest God for ever and ever. Amen.



2015年6月5日 初金曜日 イエズスの聖心の随意ミサ SSPX Traditional Latin Mass

2015年06月12日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。

 今月の初金曜日に大阪でいたしました説教をご紹介します。

 イエズスの聖心の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年6月5日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教





 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年6月5日、初金曜日です。イエズス様の聖心の随意ミサを歌ミサでしています。

 今日、初金のイエズス様の聖心のミサを捧げていますが、イエズス様が、私たちの事をどれだけ愛されているか、特に昨日は御聖体の大祝日でしたから、イエズス様が私たちに対して、御聖体に於いて、どれほど愛しておられるか、という事を黙想し、私たちはそれに対してどのように応えるべきか、或いは人類はどのように応えているのかを垣間見て、私たちは、イエズス様に対してどのようにしていかなければならないか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 イエズス様は、聖木曜日に十字架に付けられるその直前の晩に、「御自分の時が来られた事を知り、この世から聖父の元に行く時が来た、と知り、御自分のものを、この世にいる自分の弟子たちを愛し、極みまで愛された。」と、聖ヨハネは言っています。そこで、イエズス様が私たちをどれほど愛されていたのか、というのは、まずイエズス様が、この御聖体を制定したその「時」と、その「やり方」、その「御聖体の制定について」、それ自体について考察してみる事にします。

 まずイエズス様は、御自分の死の直前に、御聖体を制定しました。人は、よく死の直前に、愛する者たちに、自分の形見を残そうとします。これを愛のしるしとして与えようとします。ある人は、自分の着ていた特別の着物を、或いは指輪を、或いは時計を、自分の愛着していた物を、子供に、或いは愛する者に与えます。これは、愛情の表現としてです。

 ところで、イエズス様は死の直前に、御自分の愛の表現として、愛の極みとして、御自分、それ御自分自身を私たちに残そうとされました。イエズス様の御聖体の制定は、死の直前でありました。

 第2に、ちょうどそのイエズス様が御聖体を制定されようとした時には、人類は、ユダヤ人たちは、イエズス様を死に渡そうと準備していた、その真最中でした。イエズス様は自分が裏切られ、自分が死に渡されるという事をよく知りながらも、却ってそのような人類を愛そうと、そのような私たちの為に、御自分を全て与えようとされました。

 しかも御自分を、十字架の上で、自分の命を与え尽くそうとするのみならず、御自分の御体を、私たちの霊的糧として、与えようと思われました。イエズス様の私たちに対する愛は、御聖体の秘跡を生み出しました。イエズス様は、パンをお取りになってこう仰います、「これは私の体である。」と。

 第3に、イエズス様のその「天主である」という身分を考えてみなければなりません。

 皆さん、もしもある日、家に郵便物が届いて、宮内庁から特別の菊の紋章の入った招待状が来て、「親愛なる何とかさん、天皇陛下が、皇后陛下が、皇太子殿下と皇室全てが揃って、『皆さんを非常に深く敬愛して、皆さんをぜひ皇居に招待して、天皇陛下と一緒にお食事をされたい。』と、陛下が申しておられる。是非、お忙しいとは思うけれども、何月何日の何時に、宮中でその晩餐会にぜひ御招待、与って戴きたい。」そうしたら私たちは、「どれほど何と名誉な事であるか。」と思って、その日をきっと待ち遠しく思って、その日の為に綺麗な服を着て、皇居に赴く。入口の警備員にその招待状を見せて、「さあ、これで招待されたから。」私たちは皇居に行くのではないでしょうか。

 もしも、もしもその招待状が、その晩餐会のみならず、天皇陛下が非常に私たちの事を愛されて、天皇陛下は食事をするのみならず、御自分を、「私たちの友として、常にいつもいたい。」と思っている、天皇陛下は、「御自分を全て私たちに与え尽くしたい。」と思っている、と思ったら、私たちは、「とんでもない何という事を仰るのだろう。」と、思うかもしれません。

 しかし、日本を創り、全世界を創り、宇宙の全ての美しさと、鳥と花と太陽と銀河を創り、海の魚と、全ての宝石金銀を創った大宇宙の創造主、三位一体の生ける御一人子が、私たちに、単にその被造物である私たちに、食べ物を下さるのみならず、その御自分を全て与え尽くして、天主の御子の御自身を、私たちの日常の糧として、全てを与え尽くす。天主御子の持てる全てを、天主御子それ自身を、私たちへの贈り物として、全てを与え尽くしたい。御自身には何も残さずに、全てを与えたいと思っている、という手紙が、私たちの元に手紙が来たら、一体私たちは、どれほど感謝すべきでしょうか。

 実際、この至聖なる、いと貴き、全知全能の愛である天主が、その愛である天主の御一人子が、私たちを愛するあまり、その事をなさったのです。

 聖人たちは、その御聖体の事をみて、「愛の秘跡だ。」「愛の約束だ。」「愛の愛だ。」「全人類一般のみならず、私たち各個人、一人一人に対する、極みの無い、極限の愛がここにある!」と叫びました。

 イエズス様は、御聖体を制定する時に、「この過ぎ越しを、私は極めて大きな望みをもって願っていた、お前たちと共に食べるのを望んでいた。」私たちに御自分を全て与え尽くしたい、という燃えるような愛の望みをもって、この御聖体を制定しました。

 イエズス様は与えない事もできました。しかし敢えて、御自分を全て与える事を選び、それを望み、その事を極めて強く望みました。

 「もしも人の子の肉を食べるならば、お前たちには永遠の命があるだろう、もしもそれが無いならば、お前たちには永遠の命が無い。地獄に永遠の命が奪われる。」という脅しさえもして、イエズス様はそう懸けても、私たちに与えたい、と思っていました。イエズス様は、それほどまでして、私たちの元に来たい、と思っていました。イエズス様の愛は、私たちと共に一致していたい、という極みの愛でした。

 イエズス様は、このようにさえ仰います、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に於いて在り、私は彼の内に居る。」と。イエズス様は、御聖体拝領によって、私たちと、霊魂も肉体も共に一致したい、と思っています。

 愛というのは、その効果は、愛する両者を1つにまとめる事です。愛すれば愛するほど、その愛する者たちは1つに、心も1つになります。イエズス様は、愛するがあまりに、御聖体拝領によって、私たちと1つ、いつも一致していたい、と思っていました。

 サレジオの聖フランシスコは、「御聖体を制定されたほどイエズス様は、御聖体を制定されたほど、より私たちを愛し、これよりもより優しい愛が一体どこにあるだろうか。」と、言っています。

 まさに、私たちは天主様の愛を、信じたのであります。イエズス様は、私たちに全てを与えようとされている、その事を信じたのであります。

 では一体何で、イエズス様はそこまで私たちの事を愛され、そこまでして御自分を全て与えようと思ったのでしょうか。ただ、人間に、天主様が人間になる、それでも物凄い人間にとっての栄光であり、人間にとってのとてつもないお恵みでしたけれども、何故イエズス様は、私たちの霊的な糧となり、パンとなるほどまで、私たちにとっての糧となるほどまで、私たちを愛するのでしょうか。

 イエズス様の愛は、イエズス様をあたかも全てを忘れさせて、正気を失わさせたかのようにさえ思えます。イエズス様は、人間を天主のようにしたかったのであります。イエズス様は私たちを愛するがあまり、人となり、天主が人となり、私たちを天主のようにさせたかったのです。イエズス様は私たちの糧となり、天主御自身が私たちの糧となる事によって、私たちがまさに、天主化し、天主の命を生きる事を望んだのでした。

 この地上に於いて既に、天主の愛に、天主の命に生き、イエズス・キリスト、真の天主と一致し、永遠に天国で、天主の命を、無限の幸せを、味わい楽しむ事を、私たちが天主を愛し、天主から愛され、無限に幸せである事を望まれたのでした。既にこの地上でから、その事を望まれたのでした。

 まさに、ここに天主様の愛の極みがあります。まずここにこそ、天主様の望んだ真の秩序があります、天主様の望んだ真の平和があります。

 ですから、私たちはこのイエズス様の愛の計画に従わせ、イエズス様を愛をもって礼拝し、御聖体を愛をもって拝領する事に致しましょう。

 ところで、このような愛の極み、イエズス・キリストの愛をみて、人類はどのように応えたでしょうか。

 人類は、この愛の招きを無視して、無関心、冷淡、冒涜、罪に罪を重ねてそれに応えたのでした。イエズス様がせっかく、天主がせっかく人となり、私たちの糧となり、愛の極みを尽くして下さったにもかかわらず、このイエズス様の御聖体は、無視されています。冷淡に拝領されています。無関心に取り扱われています。信じられてさえもいません。そうでなく、イエズス・キリストのない人間の栄光化を、人間が偶像化されて、人間を、人間の理性を、人間の尊厳を礼拝したり、人間の尊厳をのみ語るようになっています。イエズス・キリストのない人間の偶像化が、人間中心主義が、はびこってしまっています。

 これは、イエズス様の望む秩序ではありません。イエズス様は、私たちがイエズス・キリスト、御聖体に於いて一致する事によって初めて、天主の命を与えようと思っています。それ以外には、私たちが天主のようになる事はできません。

 しかし、イエズス・キリストの無い、してはいけないやり方をもって、私たちを天主であるかのように偶像化させる無秩序、創造の秩序の崩壊が、破壊がなされようとしています。

 では、最後に私たちは、今日初金曜日に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

 私は、ちょうどファチマの天使が子供たちに教えたように、イエズス様の、天主の立てた秩序に従う事を提案します。3回目の御出現で、ポルトガルの天使、ポルトガルの守護の天使は、平和の天使は、子供たちにこう現れました。御聖体を持ち、カリスを持ち、その子供たちにそれを見せると、御聖体からは御血が滴り、カリスの中にポタリポタリと落ちていました。それを見せた後に、天使はそれを空中にそのまま置いて、地面に平伏し、跪きぬかずいて、深く頭を地面に付ける様に礼拝して、「いとも至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊を、御身を深く礼拝し奉る。我は、この同じ御子イエズス・キリストの、いとも貴き御聖体、御体、御血、御霊魂、神性を、全世界の御聖櫃の中に在し給うイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、ご神性を、イエズス・キリストが受けておられる全ての冒涜、瀆聖、無関心を償う為に、お捧げ致します。」さらに続けて、「イエズス・キリストのいとも至聖なる聖心の功徳によりて、また聖母マリアの汚れ無き御心の御取次ぎを通して、私は罪人たちの回心を御身に乞い求めます。」と。




 私たちも今日、イエズス様の聖心の無限の功徳によって、マリア様の汚れ無き御心の御取次ぎを通して、御聖体拝領しながら、深く礼拝し、感謝し、私たちに対するその愛の極みを感謝し、イエズス様が受けておられる冒涜と無関心、冷淡、瀆聖、全ての罪を償う事に致しましょう。私たちの拙い祈りも、マリア様の心を通して、それをお捧げする事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2015年6月 SSPX Japan 聖ピオ十世会 聖伝のミサ (Traditional Latin Mass, Tridentine Mass) 報告

2015年06月10日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!6月の日本での聖伝のミサのミッションの報告をご紹介します。
 特に、6月4日は御聖体の大祝日でしたので、御聖体についての礼拝と黙想がよく出来るように心をつかいました。

 日本では、初金と初土の信心が聖伝のミサで出来るので、これも深く感謝します。

 初土曜日には、ファチマのメッセージについて黙想しました。幼いジャシンタが聖母の汚れなき御心をお慰めすることだけに夢中になっていたことを紹介しました。

 主日には御聖体の祝日の荘厳祭を東京で行い、聖体降福式を行いました。

 6月8日の月曜日には、朝のミサを行い12名が聖伝のミサに与るお恵みを頂きました。天主様に感謝!

 過去の記事ですが、シュテーリン神父様のお説教や講話などに対応する動画がYouTubeにある場合は、それを時間があるときに組み込むようにするつもりです。お知らせまで。

 ところで、7月5日の東京でのミサ聖祭は、都合により、例外的に午後の1時からロザリオの祈り、1時半からミサ聖祭です。お間違えの無いようによろしくお願いいたします。

 日本の聖ピオ十世会に、聖堂(建物)が与えられるように、どうぞお祈り下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での御ミサの報告をお送りいたします。
6月5日(初金曜日)至聖なるイエズスの聖心の歌ミサでは、15人が、
6月6日(初土曜日)聖母の汚れなき御心の歌ミサでは18人(うち小学生2人)の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。
デオグラチアス!!
両日とも心に響くお説教を賜りました。

金曜日は、前日が御聖体の大祝日であったこともあって、どうして天主様が御聖体を制定されたのか?私達はその御聖体を対してどのような心をもって頂かなければならないかな、どのように感謝しなければならないかなどを黙想いたしました。天使でさえも拝領することのできない天主ご自身を、私達のような欠点や汚れのある人間が拝領できるということがどれ程のことか、天主様がどれ程人間を愛してくださっているかを思い、体が震えるほどの感動を覚えました。





土曜日はファチマの三人の牧童のひとり、ヤチンタちゃんのお話で、彼女が小さな体でどれほど大きな犠牲を苦しみを聖母への愛のため、罪びとの救霊のためにお捧したかを色々なエピソードを通して知ることが出来ました。涙を流しながら大嫌いな牛乳を犠牲として飲んだヤチンタちゃんを想像し、自己への愛着からいまだに逃れられない自分をを反省しました。(私も牛乳を飲むことが出来ないので、ヤチンタちゃんのつらさがわかるような気がします・ ・・)
ヤチンタちゃんにならって、イエズス様を知らない人々、信じない人々、愛さない人々、礼拝しない人々のために、マリア様をお慰めするために、日々小さな犠牲をおささげする勇気が出ました。





土曜日の御ミサ後には公教要理第六課 創造及び主宰 について解説して頂きました。
ご自分に全く必要ではないにもかかわらず、人間を創造し、その霊魂と肉体を特別におはからいくださる天主様を深く愛さねばならぬこと、また、人に与えられる禍(苦しみ)の意味を勉強いたしました。 信徒の方から意見がでましたように、天主様は天使よりも人間をひいきしてくださってるようなきがするほど、私達はずっと絶え間なく愛して頂いているんだなと実感しました。

いつもながら、信徒のために日本語と英語と両方でお説教、講話をしてくださる小野田神父様のご親切と愛徳に天主様が報いてくださいますように。

【報告】
小野田神父様、大阪のミッションをありがとうございました。

ヤチンタをお手本にして、無原罪聖母の子供、騎士、奴隷としてがんばります(*^_^*)
本当に、言葉では言い表せませんが、M.I.(インマクラータの騎士)のお恵みを感謝しております。
毎日の究明で、今日は何をインマクラータの騎士として、罪人の回心と救霊のために、聖母に苦しみをお捧げできたかが増えました(^_^;)

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。


 以下は東京でのミサ聖祭についてのメッセージです。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
主を賛美いたします!神父さまこんばんは!
今日はご聖体の祝日素晴らしいミサでした(^o^)/
今度、十世会の聖母の騎士会に入会したいと思います!(*^_^*)


【報告】Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供1人)
女: 19人(内、子供1人)
計: 38人(内、子供2人)


【報告】
御説教で、ファチマの天使が子供達に教えた御聖体に対する償いの祈りの話をしてくださいました。天使は子供達に血のしたたるホスチアとカリスを見せ、それを空中に残したまま地面に額ずきひれ伏してその祈りを唱え、子供達にも唱えるようにと。
ミサの中で、そしてミサ後に行われた御聖体降福式で御聖体に向かってその祈りを祈ることが出来た事が非常に嬉しかったです。

日本ではめったに御聖体降福式にあずかる機会がないので、大変貴重な体験が出来ました。
御聖体を口で恭しく拝領する姿、御聖体顕示台のホスチアの中に隠れておられるイエズス様に聖歌を歌い、礼拝し、祝福を受け、特別な主日となりました。
4月末に誕生された赤ちゃんもご両親と御兄弟とともに出席されていて、時折聞こえる小さな泣き声に教会らしさを感じました。


2015年5月5日 秋田巡礼 SSPX Japan 「無原罪の聖母の騎士」入会式 シュテーリン神父様御説教

2015年06月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月6日、秋田巡礼の最終日の朝のミサの後に、シュテーリン神父様が「無原罪の聖母の騎士」入会式をして下さいました。その時になさって下さったお説教をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月6日 秋田巡礼 「無原罪の聖母の騎士」入会式

シュテーリン神父様御説教




同時通訳:小野田圭志神父

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 親愛なる兄弟の皆さん、巡礼者の皆さん、将来の騎士の皆さん、この入会式は、聖マキシミリアノ・コルベによって、私たちに与えられました。しかし近代主義の影響によって、このやり方による入会式は捨て去られてしまいました。

 天主様とマリア様は、聖マキシミリアノ・コルベに息吹いて、この単に「無原罪の聖母の騎士会」を創ったのみならず、この「入会式」さえも作らせました。

 コルベ神父様は、まず私たちが「Veni Creator“聖霊来たり給え”」という聖歌を歌う事を望みました。教会の儀式では、何か特別な、荘厳な儀式が始まる前に、必ずこの「Veni Creator」を歌います。何故ならば、教会の教えと信仰によれば、全てのお恵みと祝福は、天主様のいとも高きお恵みであって、「Altissimi donum Dei」であって、それは聖霊であるからです。聖書によれば、「もし聖霊が私たちに息吹いてくれなければ、私たちは敬虔に、『主、イエズス』という名前を言う事さえもできない。」と、言います。この入会式をふさわしく遂行する為には、どうしても聖霊が私たちの心に来て、心を準備してくれなければなりません。聖霊は私たちの知性を照らし出し、意志を燃やし、それを強めてくれます。

 コルベ神父様は次に、マリア様に対してなされた最も尊敬すべき、崇敬すべき、最も太古からあるラテン語の聖歌、「Ave Maris stella」を歌う事を望みました。ですから、この巡礼のしおり149を必ず覚えて家に帰って下さい。149ページです。この「Ave Maris stella」の意味を、どれほど深い意味があるかを、何時間も何時間もかけて話したいほどです。

 最も大切な事は、コルベ神父様が、この教会の太古からあるマリア様への讃歌を、この儀式と結び付けようとした事です。この2つの祈りの後に、私たちの人生に於いて、荘厳な入会式が始まります。外的には、何も変わる事がないかもしれません。しかし内的には、心の内で新しい人生の歩みが始まります。

 コルベ神父様のやり方は、とても特別なやり方です。何故かというと、コルベ神父様はここで、私たちが洗礼の約束を更新する事を望むからです。この洗礼の更新をするという事は、私たちの信仰生活、キリスト教の信仰生活の最も根本まで、私たちを連れて行きます。何故かというと、洗礼の約束によって初めて、私たちは「天主の子」となったからです。洗礼によって初めて私たちは、「唯一の真の戦闘の教会」に属する事になったからです。

 私たちは洗礼によって、悪魔の暴君から、圧政から解放されました。私たちは、イエズス・キリストの王国に名前を登録しました。ですから、今回の巡礼で洗礼のお恵みを受けた方がいらっしゃる事を、私たちはとても嬉しく思います。おそらく、一番ご高齢の方が一番若い赤ちゃんになりました。

 洗礼の約束の更新をする事によって、もう一度私たちは、「悪魔の王国から解放され、天主様の王国に入った」という事を確認します。

 マキシミリアノ・コルベ神父様は、その後で、司祭が不思議のメダイを祝別する事を命じました。将来の騎士たちに、一人一人、メダイを着衣します。こうする事によって、創立者であるコルベ神父様は、「私たちが、マリア様の望んでいる事だけをする。」という事を見せようとしました。私たちは、マリア様がくださるものを受け取ります。マリア様は、この不思議のメダイを与えて、「それを敬虔に身に付ける人には、数限りないお恵みを与えよう。」と、約束されました。

 このメダイのお恵みによって、たくさんの何百万という方々が回心しました。アルフォンソ・ラティスボンという教会の敵の回心から始まって。

 司祭が不思議のメダイを皆さんに着衣する時、その時実はマリア様が、皆さんを両手で抱き抱えて、皆さんをマリア様の子供として、奴隷として、騎士として受け入れて下さる、という事を知って下さい。マリア様は仰ることでしょう、「この着衣の前は、あなたは一人でした。でもこれからは、あなたは私のものであって、私はあなたのものです。」

 そのようなマリア様の愛を受けて、私たちは結論として、自分を奉献します。それが奉献の祈りです。コルベ神父様が作ったこの奉献の祈りを、私たちは荘厳に唱えます。どうぞこの奉献の祈りを、頻繁に繰り返し唱えて下さい。1週間に1度もしも唱えたら、何週間か後にはそれはもう暗記してしまうと思います。入会証明書の裏には、英語でこの奉献文が書かれています。

 この奉献文には、特別な意味が含まれています。まず最初に、マリア様を賛美する言葉が書かれています。「マリア様が一体どなたであるか」という事を、コルベ神父様は私たちにここで説明します。天主様の前で、マリア様は、「汚れの無い御方インマクラータ」です。私たちにとっては、「天地の元后」であります。私たちのような、惨めな罪人にとっては、マリア様は「拠り所」です。子供である私たちには、マリア様は、「私たちを非常に愛して下さる母親」です。

 その後に、信じられないような本当の言葉が書かれています。それは、「御身に、天主は憐れみの王国を全て委ねた。」これは、聖ベルナルドのメモラーレの祈りにその影響を受けています。

 そこで私たちは、決定と契約をします。今日皆さんがなさるのは、ただ口先だけのお祈りではなく、契約です。そこで、「誰それ私は、偉大な者であって、どこかの会社の社長であって、このような事ができて…」という事をマリア様の前で言うのを、コルベ神父様は望んでおられませんでした。何故かというと、私たちにはそのような動機が何もないからです。コルベ神父様がこの奉献文で私たちに言わしめるのは、本当のタイトルであって称号であって、「我、価値のない罪人」「我、全く価値のない0(ゼロ)。汚いほうき。」です。

 最初の部分では、「私は、御身の子供であり、奴隷である事を望みます。」奴隷というのは、「マリア様、あなたの望むように私を使って下さい。」という事です。私たちは更に言います、「御身のお望みのままに、私を使って下さい。御身は、蛇の頭を踏み砕きたもう方です。御身は、一人で世界の全ての異端を滅ぼし給いました。その事を、私を使って続けて下さい。私があなたの道具となりますように。あなたがその仕事を続ける道具となりますように。」

 最後には「はい、私はあなたの道具となりたいと思います。マリア様が霊魂を救う為に、『私の為に、私の道具となって下さい。私を助けて下さい。』と言う、あなたのその懇願に応えたいと思います。どうぞ私を使って下さい。イエズス・キリストの王国を広める為に、私を使って下さい。私は、一人ではこの与えられた職務を果たす事ができないので、マリア様、もう一度あなたが私を助けて、私を強めて下さい。そうすれば、私は御身を賛美し始める事ができます。」

 では、今からこの偉大な事業を始めましょう。私たち自身をマリア様に奉献致しましょう。最初に日本語、次に英語で儀式が行われます。まず洗礼の約束の更新からです。

 

2015年秋田巡礼 SSPX 霊的講話9「聖母マリア様の時の終わりにおける役割、黙示録13章とファチマの秘密」

2015年06月03日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月5日に秋田巡礼でシュテーリン神父様がなさって下さった霊的講話その9をご紹介します。ここでシュテーリン神父様は、聖母マリア様の時の終わり----つまり現代----における役割について、黙示録13章と、ファチマの3つの秘密との関係について説明してくれます。

 黙示録の竜は、霊魂を地獄に落とそうと全力を尽くしている。【=ファチマ第1の秘密:地獄のビジョン】
 黙示録の第1の獣は、近代自由主義であり、1717年に開始したフリーメーソンによる啓蒙思想、1917年に権力を取った共産主義。【=ファチマ第2の秘密:ロシアの誤謬】
 黙示録の第2の獣は、偽の宗教的権力。【ファチマ第3の秘密:教会の危機、無原罪の聖母】

 とても興味深い内容です。どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話9




同時通訳:小野田圭志神父


 「無原罪の聖母の騎士」に入会した日には、全贖宥を受ける事ができます。入会の記念日、入会をしたその日には毎年、全贖宥を受ける事ができます。それから、イエズス様の大祝日にも全贖宥を受ける事ができます。小野田神父がすぐに、日本語で、私が今申し上げた本“インマクラータ無原罪の聖母、私たちの理想”を出版する事を願っています。

 今英語では、この「無原罪の聖母、私たちの理想」が再版、印刷中なので、できたら皆さんの手元に届くはずです。

 私が今回巡礼で申し上げた事は、特に今現代、この時代に於いて必要な事です。終末の時代、というのは特別な時代だという事を良く理解しておかなければなりません。

 世は、この世には終わりがあります。全歴史というのは、永遠の命の準備にしか過ぎません。この世の人生というのは、永遠の命、永遠の至聖所へと向かう巡礼にしか過ぎません。旅路というのには、必ず始まりと終わりがあります。天主の御国のみ、終わりがありません。私たちの旅路は、マリア様を通して始まらなければなりません。何故かというと、イエズス様はこの地上に、マリア様を通してのみ来られたからです。論理的にいえば、この私たちの旅路も、マリア様を通してのみ終わります。

 ですから天主はこのように決定しました。この世は、終末は、マリア様の時代で終わる。天主はこの全世界に、御自分の大傑作を見せようと思っています。全世界はこの事を自覚しなければなりません、「おお、インマクラータよ、無原罪の聖母よ、あなたは一体どなたですか?」もしも天主様が、これほどの大傑作を作る事ができたならば、天主御自身はどれほどのものでいらっしゃるであろうか。

 ですから、マリア様はこの「時」の終わりに、終末に、ご自分の力がどれほどであるか、ということを皆に見せます。私たちは「戦闘の教会」に属しています。戦闘の教会は、同時に、イエズス・キリストの淨配、花嫁であります。花嫁も、花婿の苦しみの一部、花婿の十字架の一部を共にします。イエズス様もですから、御自分の生きている間に、教会の終わり、特に終わりについての苦しみについて話されます。イエズス様の人生の一番大切な時期も、その終わりにかけてでした。つまり、十字架にかけられて、御死去される、その瞬間でした。

 この地上に於ける天主の王国であるカトリック教会も、悪との戦いを続けます。いつも戦っています。教会はやはりその最初に、苦しみの迫害の時代を通り、黄金の素晴らしい時代がありました。しかし、その後にも、イエズス様が、その黄金の時代を、素晴らしい時代を通った後に苦しみになったように、教会にも苦しみがあるでしょう。もちろん、悪魔はいつも教会に対して攻撃を仕掛けてきますし、教会に戦いを挑んできました。

 皆さん、日本では、血を流す殉教の長い歴史がありました。教会では、多くの異端や、或いは間違ったイデオロギーによって教会を破壊しようとする運動がたくさんあり、攻撃されてきました。しかし、少しずつ天主の王国は、木が成長して大きな大木になって、鳥が宿す事ができるようになるように、少しずつ成長して大きくなっています。

 ちょうど、イエズス・キリストが、聖金曜日の受難の日を迎えたように、花嫁である教会も、聖金曜日を迎えなければなりません。その時、見かけ上、悪魔は教会に勝って、教会を打ち負かしたかのように見えるかもしれません。しかしその瞬間、教会は勝利し、悪魔は敗北するでしょう。

 教会についても、イエズス様に起こった事と同じ事が、教会にも起こります。天主は、竜と獣が全世界を支配する事を許します。全諸国と、民族と言語は、悪魔のイデオロギーに従うでしょう。その時は大棄教の時代によって、民族たちはイエズス・キリストから離れてしまうでしょう。天主への愛は消え、無くなってしまうでしょう。つまり人々は、成聖の恩寵について、全く無関心で過ごすという事です。「聖なる場所には、荒らすもののいとわしいものが置かれるでしょう。」【ダニエル書9章26節、マテオ24章15~16節】「反キリストが登場するでしょう。」「黙示録の最初の獣、第二の獣が出るでしょう。」

 見かけ上、キリストの軍隊は、敗北を喫すかのように思われます。残った少数の者だけが、十字架の下で、マリア様の元に残るでしょう。全世界は悪魔のイデオロギーになびき、そのままイデオロギーは、二つの言葉に要約されます。まず、天主に対しては、「Non serviam.“私はあなたに仕えない。”」人類に対しては、アダムとエヴァに言ったのと同じように、「お前たちは神々のようになるだろう。」

 フリーメイソンというのは複雑なシステムです。しかし実際は、この二つの言葉を、「Non serviam.」【私は仕えない】と、「天主のようになるだろう。」この二つを、人間の生活の色々なところで、色々なうまいやり方で、非常に巧妙なやり方で浸透させるのがフリーメイソンです。

 第一の獣というのは、世界を支配する権力のことであって、フリーメイソンとか共産主義の事です。黙示録の第2の獣は、偽りの預言者です。宗教的な権力。黙示録によれば、見かけ上は、天主の子羊であるかのように見えるが、しかし、語る言葉は、竜の言葉を語っている。見かけ上、外見的にはキリスト教のように見えるけれども、しかしその語っている内容、その教えている内容は、この世の教えであって、フリーメイソンの教えであって、自由主義の教えであります。

 私たちは今この時代に生きています。今何故、私たちがこの時代に生きているかというと、宗教的にも、政治的にも、経済的にも、文化的にも、全てこのイデオロギーに浸透されているからです。

 ラサレットのマリア様はこう言います。マリア様は私たちの今の時代についてこう言っています、160年前に既にこう言っていました、「多くの人々は、信仰に背を向けるでしょう。真の宗教から遠ざかる司祭と修道者の数は、大きなものとなるでしょう。悪魔は、天主に奉献された人々の中でも、信仰を変えてしまうでしょう。悪魔は彼らを盲目として、堕落天使、悪魔の精神を彼らに受け入れさせるでしょう。悪い本【現代では、悪いebook】は、洪水のように全世界に溢れ、暗闇の精神が広がり、天主への奉仕に於いて緩慢な態度が、どこにも見られるでしょう。真の信仰は、ほぼ消されてしまったかのようです。偽りの光が世界を照らすでしょう。」

 これはマリア様のラサレットの言葉のいくつかの引用です。ラサレットではマリア様はこう言います、「私はこの世界に重要な呼びかけをしています。私は生ける天主の弟子たちに、イエズス・キリストの真に従う者たちに呼びかけます。私は私の子供達に呼びかけます。私に信心をもつ人々に呼びかけます。私に全てを与え、奉献した人々に呼びかけます。」マリア様は、このような方たちに呼びかけて、「道具となって下さい。」と、お願いしています。それは、勝利を収める為です。同じ様に、マリア様はルチアに同じ事を言っています。

 この全世界に於ける背教についての、唯一の解決策、唯一の答えは、マリア様です。わたしたちは最終の戦いに、今、挑んでいます。私たちの聖なる信仰について、ほぼ悪魔はこの世を征服し尽くしてしまったかのようです。

 ですから、この事をよく理解して下さい。天主様は、この最後の時に、黙示録の女性を、婦人を私たちに下さいました。悪魔はほぼ全能の様な、何でもできるような力で攻撃をして、カトリック教会とその真の信仰を破壊し尽くしてしまうかのように見えます。この信じられないような、悪魔の、悪からの大攻撃と大勝利を見て、私たちにはただ唯一のチャンスが残されています。それは、太陽をまとった女性、つまりファチマに太陽の奇跡が起こりましたけれども、マリア様のみです。

 では、「ファチマの偉大なる秘密」という事について語らせて下さい。1917年7月13日、マリア様は3人の子供たちに現れました。マリア様は、1つの大きな秘密を教えて下さったのですけれども、それは3つの部分に分かれていました。何故かというと、その徐々に1つ1つ教えて下さったからです。

 第1の秘密は、マリア様が子供たちに地獄の火を見せて下さった時に、教えられました。ルチアはこの秘密について、皆が「これは一体秘密は何なんですか?秘密は何ですか?」と聞かれた時に、言う事ができずに、ただ「黙示録12章を読んで下さい、そこに全て書かれています。」と、答えました。

 黙示録12章には、「太陽を着た女性」と同時に、その敵である、「竜と獣」について書かれていました。竜は非常に女性に対して怒り狂い、彼女の子孫の残りに対して戦いを挑んだ。この彼らの子孫は、天主の掟を守り、イエズス・キリストの証明を持っていた。この「竜」というのはサタン自身の事であって、サタンは天主からの呪いを受けています。『お前と女性との間に、お前と婦人との間に、敵対を置く。彼女はお前の頭を踏み砕くだろう。』この蛇、このドラゴンこの竜、サタンは、マリア様に対して何の攻撃もできないので、仕方なく、マリア様の子孫に攻撃をします。サタンの持つ野望、野心とはたった1つです、「彼らを地獄に引きずり落とす。」これだけです。どんな手段でも構いません、地獄に突き落とせば、それで用が足ります。

 そこで第1のファチマの秘密は、地獄の火の事でした。ルチアはこう言っています、「私たちは、火の、海の様な大海原を見ました。」この火の海の中には、悪魔や可哀相な霊魂達がたくさんいました。このルチアは、地獄で苦しんでいる恐るべき苦しみについて語っています。マリア様はその後に子供たちに、「あなたたちは今、可哀相な霊魂達が、罪人たちが落ちる地獄を見ました。地獄の火に落ちる事を避ける為に、天主は、この地上に於いて、私の汚れ無き御心に対する信心を確立する事を望んでいます。」

 この今住んでいるこの世の中を、この観点から見て下さい。この綺麗なマスク、或いはこの美しい見かけ上の姿の後ろには、悪魔の顔があって、「人間を一人残らず地獄に引きずり下ろそう。」という野望に燃えている、という現実を見て下さい。地獄に落ちるのを止めようとする人は、誰もいません。それと同時に、黙示録の女性が太陽を着飾って、皆さんの前に立っています。この方は皆さんに、「さぁ、地獄にこう駆け走っている、地獄に落ちようと走っているこの人たちの霊魂を救おうと思っています。だからその救うために、私の汚れ無き御心をあなたに見せています。私の母としての燃える愛を見て下さい。女王としての信じられないような輝きの光を見て下さい。」

 汚れ無き御心に対する信心とはすなわち、私たちがマリア様の子として、マリア様の奴隷として、マリア様の騎士として働くという事です。何千万、何百万という人々の霊魂を地獄の火から救う為に、一人の幼きイエズスの聖テレジア、一人の小さなヤシンタ、一人の皆さんが必要なのです。


 さて、では、悪魔を助ける獣について研究します。まず海から出る獣は、7つの頭をもっていて、7つの頭には10の角が付いていて、その角には10の冠がついています。冠というのは、王様のように、権力の事です。この獣に、全ての民族、全ての言語、全ての国民を支配する力が与えられた。命の書に書かれていない人々は全て、この獣を礼拝した。

 この黙示録の第1の獣に対応するのが、ファチマの第2の秘密であって、この第2の秘密とはすなわち、ロシアによる無神論的な迫害、或いはプロパガンダについてです。この第2の秘密は、2つの側面があって、1つは無神論的な唯物論、物、この物だけ物質だけ、というもので、それはフリーメイソンです。もう1つの側面は、唯物論的無神論であって、これは共産主義です。つまり【無神論的唯物論も唯物論的無神論も】元を正せば同じ事です。では、この獣に対してどうやって戦ったら良いでしょうか?政治を使いますか?いいえ。「聖母」がこの答えです。

 「私の汚れ無き御心に奉献しなさい。特にロシアを、私の汚れ無き御心に奉献しなさい。」

 このロシアの奉献については、この有名なビジョンの後に、マリア様のお願いされた事です。この「奉献」ということは、「真理に回心する」という事を意味しています。ロシアがカトリック教会に回心すると、私たちは今のところ、不可能な様に思われます。

 もしも私たちがマリア様に信頼するのならば、マリア様はアメリカ大陸を、メキシコや南米を、グァダルーペの聖母は回心させたではないですか。最悪の教会の敵であったラティスボンを回心させたではないですか。そのマリア様に信頼するならば、ロシアさえも簡単に回心できます。

 第2の獣も黙示録で現れます。先程、偽りの預言者、宗教的な権力について語りました。これは教会からそれが出て、表面的にイエズス・キリストの教えを真似します。ですから、子羊のように見えるのでけれども、教えは竜の教えです。これに対応するのが、ファチマの第3の秘密です。これは、この本当の第3の秘密というのは、2000年にローマによって発表されたものではありません。故グルーナー神父様と、その他ファチマの専門家たちは、声をそろえて、「まだ、第3の秘密は私たちに発表されていない、公表されていない。」という33の理由を説明しています。

 専門家たちは、第3の秘密の本当の内容は何か、という事をはっきりと言う事ができています。何故かというと、その第3の秘密を知って、読んだ事のある人々の証言を全てまとめると、それが全体像が、おぼろげながらに浮かんでくるからです。第3の秘密は、『教会の内部における、最悪の危機』について語っています。と同時に、この危機に打ち勝つ解決策について語り、それは『マリア様』です。

 この3つの秘密の最後をまとめくくるように、マリア様は最後に、『私の汚れ無き御心は大勝利を収めるでしょう。』

 ファチマの偉大なる大秘密によれば、悪魔の、3つの次元による、3つのやり方による、3面の攻撃について語られています。何故かというと、悪魔は、反三位一体を求めているから、真似するからです。

 竜は、霊魂の破滅を求めます。2頭の獣は、その目的を達成する為の手段です。
 第1は、近代的な、近代の自由主義であって、フリーメイソンと共産主義です。
 第2は、新しい世界宗教です。この2つの怪物のような獣に対立するのは、黙示録の女性、すなわちマリア様です。

 私はもう一度繰り返します。私たちには、勝つ、たった唯1つのチャンスしか残されていません。皆さん、マリア様の足下に身を委ねて下さい。マリア様のマントの下に身を隠して下さい。あなたの汚い手をマリア様にあげて下さい。あなたの卑しい惨めな生活をマリア様に捧げて下さい。マリア様のご謙遜なお願いに応えて下さい。マリア様はこうお願しています、「私が霊魂を救う為に、私を助けて下さい。」

 皆さんがこれをすればするほど、少しずつ私たちがこれをする事ができるように、学んでいかなければなりません。やればやるほど、もっと良くやる事ができるようになるからです。そうすればするほど、皆さんは益々強くなります。私たちが以前よく犯していた罪は、益々消えていくでしょう。

 皆さんはこの暗闇の世界で、益々光となるでしょう。主の前に、残された貴重な時間を失う事は益々少なくなるでしょう。皆さんは、天国でご自分の場所を確保する事になります。そこの同じ天国に、多くの霊魂たちを引き寄せる事になります。

 「無原罪の聖母の騎士」です。

 これで拷問を終わります。ご清聴ありがとうございました。(大拍手)



共産主義ルーマニアの秘密警察の元幹部:「われわれが解放神学を創り上げた」

2015年06月02日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 スパイ活動とKGBの秘密を、共産主義ルーマニアの秘密警察の元幹部であったヨン・ミハイ・パチェパ(Ion Mihai Pacepa)は、1970年代に転向しましたが、最近インタビューで、ラテンアメリカにおける解放の神学とソ連と関係があったことを話しました。

 彼のインタビューの抜粋の記事はここにあります。
Former Soviet spy: We created Liberation Theology

 非常に興味深く読んだので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 彼によると、解放の神学にはKGB(ソ連国家保安委員会)が深く関わっていました。ニキータ・フルシチョフとアレクサンデル・サハロフスキ(Sakharovsky)が1959年10月にルーマニアやって来て、共産主義を中央・ラテン・アメリカに輸出することを企みました。

 サハロフスキはキューバに共産主義を輸出し、ベルリンの壁を作り出した人です。「解放神学」とは、KGBが発明した名前で、KGBで生まれました。KGBは、コロンビアで、ボリビアで、パレスチナで「解放」運動を展開していました。それらの解放運動は、全てKGB本部のルビャンカ庁舎で生まれました。

 KGBは、スイスのジュネーブに本部を置く世界教会協議会 (The World Council of Churches. WCC) を秘密にコントロールし、解放神学を南米の革命の道具とする隠し蓑として使っていました。


 ファチマの聖母マリアは、1917年7月13日にこう言いました。

「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。彼らを救うために、天主はこの世に私の汚れ無き御心に対する信心を確立するように望んでいます。
 もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。
 戦争は終わるでしょう。
 しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。
 あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。
 これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。
 もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。
 さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。
 最後には、私の汚れ無き御心が凱旋するでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。
 ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]


 ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


御復活の主日の 公教要理 教会のなかに良い麦の中に毒麦がある神秘(レネー神父様)

2015年06月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が、大阪で、復活祭のミサの後に次のような公教要理のお話をして下さいました。元々はソウルで聖木曜日になさったミサ聖祭でのお説教です。

 まず神父様は、聖木曜日になされたユダの裏切りについて考察します。主から特別に選ばれ、愛され、恵みを受けてきた使徒でさえ、裏切りを働いたというのは、驚くことですが、私たちの主はそれが起こることを許しました。

 次に、裏切るものに対して私たちがどのような態度を取るべきかを考察します。教会の中の悪しきメンバーに対して、どのような態度を取るべきでしょうか。悪しき指導者たちに対してどう言う態度を取るべきでしょうか。

 悪しき者たちとの交わりは、絶対的に断固として拒絶するべきでしょうか。ちょうどノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、カタリ派、がそうしたように。

 レネー神父様は、聖アウグスティヌスに従って、教会のメンバーたちに対する愛の結びつきについて語ります。

「教会の中では、悪しき者と交わることは、その悪に同意しない限り、良い者を傷つけない。教会の中での交わりは本質的に私たちの主イエズス・キリストとの交わりであるから。」

 カトリック教会との結びつきは、ただ単に教皇を理論的に認めることではなく、まさに実際の結びつきのことである、と。教皇や教会のメンバーとの交わりを実際に拒絶することは重い罪であり、教会の最初から重い罪として常に非難されてきた、と。

 「カトリック教会において、教皇との交わりは、キリストの代理者としての教皇との交わり」であることをレネー神父様は確認します。だから、「教皇が現代主義者であるという口実のもと、教皇に対して実際に教会法上の従順を拒絶するならば、教皇を理論的にだけ認めているとしても、事実上キリストとの結びつきを断ち切ることになるのです。」

 聖ピオ十世会は、聖アウグスティヌスの教えに従い、もっともカトリック的な立場を取っています。

 何故なら、聖ピオ十世会は、修道会として当然もっているべき正当な教会法上の立場をローマに求めているからです。しかし、聖ピオ十世会は、教理的には、妥協することはありません。

 聖ピオ十世会は、たとえ教皇が現代主義者であったとしても、正当な教会法上の立場を求めることそれ自体は妥協ではないと認めています。これは正義にかなっていることだからです。

 しかし、現代主義者がいる限りローマとのいかなる接触も拒絶する人々の態度は、カトリック教会について間違った概念を抱いている人々の態度です。

 つまり、カトリック教会は健全な部分のみから成りたっているはずだ、というドナトゥス派かカタリ派のような態度です。

 つまり「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」(That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot.)という態度です。

 また言い換えると「 "公式の教会" は、四つの印に従えば、大部分が "公会議の教会" であってカトリックではない」(Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks.)という態度です。

 更に言い換えると「麦ともみがらが混ざり合っているような状況で、私たちは何をすればよいのでしょうか? 畑に赴き続けるのでしょうか? いいえ!」(In case of such entanglement, as for the wheat and the chaff, what do we do? Do we go on the field? No!”)という態度です。

 もしも "公式の教会" がカトリック教会ではないならば、もしも、今のローマが現代主義者に占領されている限りカトリックではないのならば、そのような態度を持つ人々は、ローマとは一切関係を持つべきではないと、ローマを破門する態度を示します。

 たしかに "公会議の教会" (今は癌のように成長し、ますます自己形成しつつあります)が、将来、カトリック教会とは全く別の独立的な自立的な存在として、決定的に生まれ出る可能性があります。しかし、間違った態度は、すでに、今のローマのもとにあるカトリック教会が、可能性(in potentia)としてでは無く完成された存在(in actu)として、イエズス・キリストの建てた教会ではない新しい公会議の教会として、一切の関係を絶つ態度です。

 これは聖ピオ十世会の創立者の態度ではありません。聖ピオ十世会の態度でもありません。

 ルフェーブル大司教は、聖ピオ十世会の正当な教会法上の立場を求めていました。聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の行なわれた努力をそのまま続けるだけです。

 レネー神父様は、ここでカトリック信仰のドグマを強調します。つまり「教会の中には善い人々と悪しき人々がいる」こと、「教会の外に救いなし(EXTRA Ecclesiam nulla salus)」ということ、「教会に悪しき人がいるという口実で、教会から離れてはいけないこと」です。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


大阪での御復活の主日(2015年4月5日)の
ミサの後になされた公教要理(レネー神父様)


 親愛なる兄弟の皆さん、

 「パンを取り、感謝して裂き、弟子たちに与え、『これはあなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行え』と言われた。食事ののち、杯も同じようにし、『この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約である。私を裏切る者は、私とともに手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去る。だがそれを裏切る者は災いである』と言われた」(ルカ22章19-22節)

 この聖ルカ福音書の一節から、私たちの主イエズス・キリストがご聖体を制定なさったとき、ユダが食卓に就いていたのは明らかです。そして、ユダは汚聖の聖体拝領を行いました。聖マテオ福音書、そして聖マルコ福音書は、ご聖体制定の前に、このユダの裏切りの告知を述べています。しかし、この違いは簡単に説明できます。聖マテオはしばしば、時系列よりも主題によって出来事を要約し、まとめているからです。私たちの主イエズス・キリストは、天主としてすべてをご存じでしたから、教会の中で、悲しいことですが、汚聖の聖体拝領がたくさん起こること、またたくさんのふさわしくない司祭や司教(そして、ふさわしくない教皇)さえもが現れることをご存じでした。ですから、主は使徒の一人がご自分を裏切るのを防ぐことはなさいませんでした。

 ユダは将来起こるすべての裏切りの型であり、そのような裏切りへの強い警告だったのです。「それを裏切る者は災いである」(ルカ22章22節)。救い主である天主が、私たちが天主を裏切ることのないようお助けくださいますように。いとも忠実なる童貞が、私たちをお守りくださいますように。裏切りをしない恩寵を得る条件は謙遜です。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。

 良きメンバーは、これらの裏切り者に対してどういう態度を取るべきでしょうか。狼が何頭か中に入って来たからといって、羊は主の囲いから逃げ出すべきでしょうか。(マテオ7章15節)もみ殻のせいで、良い麦は麦打ち場から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ3章12節)良い麦の中に毒麦があるからといって、良い麦は畑から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ13章26節以下)もし逃げ出してしまうなら、主の納屋に集められることは決してないでしょう。それどころか、去っていく者は、まさにその去っていくという事実によって、風で運ばれていってしまうもみ殻だとされます。悪い魚がいるからといって、良い魚は主の網から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ13章47-48節)。逃げ出す魚は、主の器に集められることは決してありません。

 親愛なる兄弟の皆さん、教会の歴史を通じて、主の網には悪い魚がおり、主の麦打ち場には良い麦と共にもみ殻があり、主の畑には良い麦と共に毒麦がありましたが、そのこと自体が多くの人々にとって大きな試みとなってきました。悪しき者たちとの交わりを拒絶する人々が繰り返し現れました。ノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、カタリ派がそのような人々であり、のちにはプロテスタントでさえこの点で教会を攻撃しました。しかし教会はいつもこのような態度を拒絶してきました。ですがそんな彼らは忍耐することを拒絶し、周りの人々を高慢に非難することで、事実上自らを教会の外に放り出すのです。そうなれば、「教会の外に救いなし」です。

 これは大変重要なことです。キリストの教会、つまりカトリック教会の中以外では、誰もキリストの命を生きることができないのです。キリストの体、つまりカトリック教会の中以外では、誰もキリストの霊によって命を与えられることができないのです。愛がなければ、つまり教会の愛と「完徳のかなめ」がなければ、誰も救われることができないのです。この教会との結びつきは、ただ単に教皇を理論的に認めることではなく、まさに実際の結びつきです。教皇との交わりを拒絶し、教皇に対して教会法上の正常な状況に自らを置こうとするのを拒絶するならば、教皇を認めると主張することは何の役にも立ちません。私たちが「一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る」というのはカトリック信仰の一部であり、その教会が、教会の外に救いなしというローマ・カトリック教会なのです。教皇や教会のメンバーとの交わりを実際に拒絶することは重い罪であり、教会の最初から重い罪として常に非難されてきました。

 正しい態度は聖アウグスティヌスの教えた態度です。教会の中では、悪しき者と交わることは、その悪に同意しない限り、良い者を傷つけません。その理由は、教会の中での交わりは本質的に私たちの主イエズス・キリストとの交わりであるからです。ですから、教皇との交わりは、たとえその教皇がアレキサンデル六世であったとしても、あるいはほかのスキャンダルのある教皇であったとしても、(更には信仰の内容に問題のあったホノリウス、世の終わり以前の至福直観を否定したヨハネ二十二世であったとしても、)教皇の誤りとの交わりではなく、キリストの代理者としての教皇との交わりなのです。これが本質的な要素です。ですから、どんなに悪しき教皇であろうとも、合法的な教皇である限り、教皇との交わりは教皇の現代主義との交わりではなく、キリストとの交わりなのです。教皇が現代主義者であるという口実のもと、教皇に対して実際に教会法上の従順を拒絶するならば、教皇を理論的にだけ認めているとしても、事実上キリストとの結びつきを断ち切ることになるのです。

 私たちは聖木曜日の本日、聖アウグスティヌスの原則を非常にはっきりと見ます。私たちの主イエズス・キリストはユダの接吻を拒絶なさいませんでした。教会はこれを、聖週間の朝課の答唱で歌います。これが、教会の悪しきメンバーに対してどれだけ我慢強くあるべきかを示しています。同時に、私たちの主イエズス・キリストがユダの邪悪に少しも同意なさらなかったのは明らかです。もし使徒のだれかが、ユダがいるからという理由で使徒の集まりから逃げ出したとしたら、その使徒は私たちの主イエズス・キリストから逃げ出していたことになったでしょう。

 ですから、聖ピオ十世会の立場は正しい立場なのです。私たちは、正当な教会法上の立場を求めますが、教理的に妥協することはありません。私たちは、教皇が現代主義者であったとしても、正当な教会法上の立場(を求めること)それ自体は妥協ではないことを認めます。これは聖アウグスティヌスの教理です。これは教会の教理を正しく実践に移したものです。しかし、ローマに現代主義者がいる限りローマとのいかなる接触も拒絶する人々の態度は、カトリックの態度ではありません。ドナトゥス派かカタリ派の態度と同類です。それは信仰の問題における誤りに至る態度です。そのような態度は、教会についての偽った考え、つまり、カトリック教会は目に見える教会の健全な部分のみからなると主張するカタリ派の考えにつながるものです。そのため、そのような偽りの原理に基づいて行動し、そのような偽りの原理に基づく司教聖別を始めるとき、これは非常に深刻なものになります。

 先々週の司教聖別について、ウィリアムソン司教やフォール司教が示した理由がどんなものかを調べると、彼らが拡大鏡で見ている小さなことを無視するならば、彼らの挙げる基本的理由は「(聖ピオ十世会本部である)メンツィンゲンはもはや真理の中にはいない」という告発にあることがわかります。では、メンツィンゲンがもはや真理の中にはいない、と彼らが言っているのはなぜでしょうか。その理由は、彼らが、ローマが現代主義者に占領されている限りローマとは一切関係を持つべきではないと主張し、そのためローマに現代主義がある限り教会法上のいかなる正常化も拒絶するとしているのに対して、私たちが正当な教会法上の立場を求めるルフェーブル大司教の行なわれた努力を続けているからです。

 ルフェーブル大司教が教会法上の実際的な正常化を求めることについてローマと議論するのに、ローマが現代主義でなくなるまで待ちはしなかったことは明らかです。丸一年の間、ルフェーブル大司教は実際的な正常化を実現するためにローマ当局と議論しました。またそれは非常に大きな醜聞(スキャンダル)だったアッシジの宗教間対話のすぐあとでした。ルフェーブル大司教は、一九八八年五月五日の議定書に署名したことを少し行き過ぎたとは言いましたが、教会法上の実際的な正常化を求めたことが間違っていたとは決して言いませんでした。そのようなことは決してありません。聖ピオ十世会の歴史を通して、この目的のためにルフェーブル大司教が繰り返し努力したことはよく知られていますし、記録もされています。またルフェーブル大司教は、司教聖別のあと、同じ議論がローマとの間で数年の内にも再開されることを期待するとさえ言っていました。フェレー司教が速く進み過ぎたと非難することはできません。ローマ当局から最初に提案があったのは二〇〇〇年でした。それから十四年以上たちますが、聖ピオ十世会はいまだ正当に正常化されていません。このように遅れているのは、聖ピオ十世会が教理上の妥協を拒絶しているからです。これこそ私たちが妥協していないという最も良い証明です。

 ウィリアムソン司教が先々週行った司教聖別の基本的理由が誤っているので、そのような空しい土台に基礎を置く行為は合法性を持たず、そのため、教会法がその行為に対して正しく適用する制裁に十分値します。なぜなら、教会においては、司教聖別は些細なことではないからです。司教聖別は教会の一致にとって本質的なものです。ルフェーブル大司教が司教聖別を行ったときには現実的な理由、司教聖別という行いにつり合った理由、正当な理由がありました。ですからルフェーブル大司教は、十分に、また行いによって教皇を教皇と認めつつ、司教聖別を行ったのです。ところがウィリアムソン司教が司教聖別を行ったときには、現実的な理由はなく、司教聖別という行いにつり合った理由もなく、教皇を完全に無視して行なったのです。

 これら両方の司教聖別には他にもいろいろな背景があり、私はこれを「著しい対照」という文章の中で詳しく述べましたが、恐らく皆さんもお読みになったでしょう。しかし、私が(今)ここで言いたいのは、この問題の中核です。それは信仰の教義(ドグマ)であって、教会の中には善い人々と悪しき人々がいるということ、また教会のメンバー一人一人、私たち一人一人のうちにもしばしば善と悪が入り交じっているということなのです。善と悪の区別は決していつも目に見えるものではありません。同時に、「教会の外に救いなし」は信仰の教義(ドグマ)です。ですから私たちは、教会に悪しき人がいるという口実で、教会から離れてはいけません。

 さて、兄弟の皆さん、これは皆さんに関係のあることです。皆さんの中には、最近までレジスタンスのミサに行っていた方々がいるのを私は知っています。司祭たちの罪のなかには、信者がそれを耐え忍ぶことができ、信者に影響を与えないものがあります。それは司祭たちの私的な罪です。(でももちろん、そんな司祭は避けるよう忠告します。)

 しかし、司祭たちの罪のなかには、それによって信者が彼らのミサに参加するのが禁じられるものがあります。それは教会の一致に反する罪です。その理由は、ご聖体の秘蹟(ミサ)はまさに教会の一致の秘蹟であるからです。教会をみずから離れた司教に付き従い、事実上教会から離れた司祭によって捧げられるご聖体の秘蹟(ミサ)は、まやかし(lie)になってしまうからです。教会の一致の秘蹟であるべきものが、教会の一致の外で行われるのです。これが聖トマス・アクィナスの教えです。ですから、信者がそのミサと少しでも関わるのは合法的ではありません。彼らと一緒に、皆さんの救いを危険にさらさないでください。この教義(ドグマ)を覚えていてください。教会の外に救いなしです。カトリック教会はカタリ派の教会つまり清い人々だけの教会ではないという教義(ドグマ)です。主の畑には良い麦の中に毒麦があり、良い麦と共にもみ殻があり、主の網には良い魚と悪い魚がいるのです。

 聖ピオ十世会に対する彼らの反乱は十分悪いものでしたが、それに対しては忍耐することもできるかもしれません。しかし彼らの教会に対する反乱、教皇その人との交わりに対する反乱は行き過ぎです。もう彼らとかかわることはできません。キリストの群れから去っていった人々を支持すると、教会の頭(かしら)であるキリストを攻撃することになってしまいます。二股をかけることはできません。彼らは今や、遠くに行き過ぎてしまったのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、私たちの兄弟であり、友人であった司祭たちが、これほど遠くに行ってしまったのを見るのは本当に大変悲しいことです。私たちが神学校でルフェーブル大司教から教えられたことは、決してこういうことではありません。彼らが戻って来るように、彼らのために祈るべきです。聖パウロが言うように、「彼らは天主のために熱心であるが、その熱心は深い知識の上に立っていない」(ローマ10章2節)、「彼らは躓きの石に躓いた」(ローマ9章32節)のです。悪しき教皇たちが、彼らには本当に躓きの石になったのです。

 彼らが戻って来る恩寵を、童貞聖マリアが取り成してくださいますように、また私たち皆が忠実を守り、彼らに騙されないようお助けくださる恩寵を取り成してくださいますように。

 アーメン。
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 Those Who Reject the Popes and are out of The Church - The Holy Thursday(2015-04-02)

 My dear brethren,

 “Taking bread, he gave thanks, and brake; and gave to them, saying: This is my body, which is given for you. Do this for a commemoration of me. In like manner the chalice also, after he had supped, saying: This is the chalice, the New Testament in my blood, which shall be shed for you. But yet behold, the hand of him that betrayeth me is with me on the table. And the Son of man indeed goeth, according to that which is determined: but yet, woe to that man by whom he shall be betrayed” (Lk. 22:19-22).

 From this passage of St Luke, it is clear that Judas was still at table when our Lord Jesus Christ instituted the most Holy Eucharist… and he made a sacrilegious communion. St Matthew, followed by St Mark, mentions the announcement of Judas’ betrayal before the Institution of the Holy Eucharist; but this is easily explained by the fact that he often summarizes and groups together events by themes rather than chronologically. Our Lord Jesus Christ, who knew all things as God, knew that there would be – sadly – many sacrilegious communions in the Church, even many unworthy priests and bishops (and some unworthy Popes).

 Thus He did not prevent one of the Apostles to betray Him, as a type of all those future betrayals, and as a strong warning to them: “woe to that man by whom he shall be betrayed” (Lk. 22:22). May our Divine Saviour always help us not to betray Him! May the Virgin most faithful protect us! And the condition to obtain the grace of not betraying is humility, because “God resisteth the proud, and giveth grace to the humble” (Jac. 4:6).

 What should be the attitude of the good members towards those traitors? Should the sheep leave the fold of the Lord because some wolves are infiltrated inside? (Mt. 7:15) Should the good grain leave the threshing floor because of the chaff? (Mt. 3:12) Should the good wheat leave the field because of the cockle in the midst of them? (Mt. 13:26 ) If it would, it would never be gathered in the barn of the Lord! On the contrary, he who leaves is by that very fact reckoned as chaff carried away by the wind! Should the good fish leave the net of the Lord because of the bad ones? (Mt. 13:47-48) It would never be gathered in the vessels of the Lord!

 My dear brethren, throughout the history of the Church, the very presence of bad fish in the nets of the Lord, of chaff together with the good grain on the threshing-floor of the Lord, of cockle together with good grain in the field of the Lord, has been a great trial for many. And there were repeatedly found some people who refused communion with the wicked: they were Novatians, Donatists, Cathars, and later even Protestants attacked the Church on this point. But the Church always rejected this attitude, and they, by their refusal of patience, by their proud condemnation of those around them, practically casts themselves outside of the Church. And “outside the Church there is NO SALVATION.”

 This is very important: no one can live of the Life of Christ except in the Church of Christ, which is the Catholic Church! No one can be animated by the Spirit of Christ except in the Body of Christ which is the Catholic Church! No one can be saved without charity, and therefore without the love of the Church and “bond of perfection”.

 That bond with the Church is not a mere theoretical acknowledgement of the Pope, it is a very practical bond – it serves to nothing to claim to acknowledge a Pope if one refuses to communicate with Him, to be in a regular canonical situation with him. It belongs to the Catholic Faith that we “believe in the One Holy Catholic and Apostolic Church” which is the Roman Catholic Church, outside of which there is no salvation. PRACTICAL refusal of communion with the Pope and the members of the Church is a grave sin, and has always been denounced as a grave sin since the very beginning of the Church.

 The right attitude is that taught by St Augustine: IN THE CHURCH Communion with the wicked does not harm the good so long as they do not consent with their wickedness. The reason is because in the Church communion is essentially communion with our Lord Jesus Christ: thus communion with the Pope, even if he is Alexander VI, or another scandalous one (even on matters of Faith as Honorius, or John XXII who denied beatific vision before the end of the world), such communion is not communion with his errors, but communion with him as Vicar of Christ: this is the essential element. So no matter how bad a Pope is, so long as he is the legitimate Pope, communion with him is not a communion with his modernism, but communion with Christ. If one rejects any practical canonical submission to the Pope under the pretext that the Pope is modernist, one practically severs the bond with Christ – in spite of a mere theoretical recognition of him.

 We see the principle of St Augustine in a very vivid way today, on Holy Thursday: our Lord Jesus Christ did not refuse the kiss of Judas! The church sings this in the responses of matins of these holy days. This is how patient one ought to be with an evil member of the Church! It is at the same time evident that our Lord Jesus Christ did not consent in the least to the wickedness of Judas. If an apostle would have left the college of the apostles because of the presence of Judas, he would have left our Lord Jesus Christ!

 Therefore the position of the Society of St Pius X is the right one: we want proper canonical situation without doctrinal compromise – and we affirm that a proper canonical situation is NOT IN ITSELF a compromise, even if the Pope is modernist. This is the Doctrine of St Augustine; this is the doctrine of the Church, doctrine rightly put in practice.

 But the attitude of those who refuse any contact with Rome as long as there are some modernists in Rome is not a Catholic attitude: it is a variation of the Donatists’ or Cathars’ attitude. This is an attitude that leads to errors on matters of Faith: it leads to a false notion of the Church, a Cathar notion of the Church, claiming that the Catholic Church is ONLY that healthy part of the visible Church. And this becomes very grievous when one acts upon such false principle, and starts consecrating bishops based on such false principle.

 If one searches what reason is given by Bishop Williamson or Bishop Faure for last week’s consecration, disregarding the small things that they look at with a magnifying glass, one finds that their basic reason is in the accusation “that Menzingen is no longer in the truth” , and why is Menzingen no longer in the truth? Because we continue the efforts of Archbishop Lefebvre for a proper canonical situation while they claim that one should not nothing to do with Rome so long as it is occupied by modernists, and they refuse any such canonical regularisation so long as there is still modernism in Rome.

  It is very clear that Archbishop Lefebvre did not wait for Rome to be free of modernism for discussing with them a practical canonical regularisation: for a whole year he discussed with the Roman authorities in order to obtain it, and he did so just after Assisi, which was a very big scandal. He said that he had gone somehow too far by signing the protocol of May 5th 1988, but he NEVER SAID that he was wrong to search for a practical canonical regularisation, never!

 His repeated efforts throughout the history of the SSPX for this end are well known and documented. And he even said, after the Consecration, that he expected within a few years that such discussions would start again. Bishop Fellay cannot be accused of having gone too fast: the first offers were made in 2000; more than 14 years later, the SSPX has not yet received a proper regularisation. This delay is because we refuse any doctrinal compromise; it is the best proof that we have not compromised!

 Given that the basic reason for last week’s episcopal consecration by bishop Williamson is false, then the act based on such empty foundation has no legitimacy, and therefore fully deserves the sanctions which the Canon Law rightly apply to such action. Because in the Church, episcopal consecrations are not a little thing! There are essential to the unity of the church. When Archbishop Lefebvre did it, he had a real cause, a proportionate cause, a just cause – and he did so while fully and practically recognising the Pope; when Bishop Williamson did not, he did not have a real cause, he did not have a proportionate cause, and did it with complete disregard for the Pope.

 There are many other circumstances about these consecrations which I have developed in the “striking contrast” which you have probably read. But I wanted to treat here of the core of the problem. It is a dogma of faith that in the Church there is a mixture of good and evil people – and often within each member, each one of us, there is a mixture of good and evil. The separation of the one and the other is far from being always visible. It is at the same time a dogma of faith that there is no salvation outside of the Church. So we may not cut ourselves from the Church on the pretext of the evil ones in the Church.

 Now this has consequences for you, my dear brethren. I know that some of you were still going to the resistance Mass until recently. There are some sins of the priests which one may be patient with, and which do not infect the faithful – private sins (though one is of course advised to avoid such priest!) But there are sins of the priests which forbid the faithful to participate with them: and such are the sins against the unity of the Church.

 The reason is because the Sacrament of the Holy Eucharist is the very sacrament of the unity of the Church. Celebrated by a priest who practically cut himself off the Church by joining a bishop who cut himself, the Holy Eucharist becomes a lie: it should be the sacrament of unity while it is done outside of that unity.

 This is the teaching of St Thomas Aquinas. And therefore it is not lawful to the faithful to have any part with it. Don’t risk your salvation with them! Remember the Dogma: outside the Church there is no salvation! And the Dogma that the Church is not a church of cathars, of pure ones: it is the field of the Lord with cockle in the midst of the good wheat, with chaff with the good grain, it is the net of the Lord with good and bad fishes in it.

 Their rebellion against the Society of St Pius X was bad enough – but one could be patient with that. But their rebellion against the Church, against the Communion with the Pope himself, is too much: one may no longer communicate with them. One would offend Christ, the Head of the Church, by supporting those who have left his fold. One may not have a foot in both camps: they are too far apart now.

 My dear brethren, it is indeed a very sad thing to see priests who used to be our brothers, our friends, and who have gone so far. This is NOT what we were taught at the seminary with Archbishop Lefebvre. We ought to pray for them, that they may return. As St Paul says, “they have a zeal of God, but not according to knowledge” (Rom. 10:2), “for they stumbled at the stumbling-stone” (Rom. 9:32). Bad popes have really been for them a stumbling stone.

 May the Blessed Virgin Mary obtain for them the grace to return, and for all of us the grace to remain faithful and to help us not to be deceived by them. Amen.

 Fr. Laisney (FSSPX)



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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