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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ヴィガノ大司教「物事を本当の名前で呼ぼう。過ちや悪徳を許容する時だけ「寛容」「受容」を語る幻想をやめよう。敵の欺瞞や搾取、専制や迫害を覆い隠す『対話』『連帯』『自由』の呪文の言葉をやめよう」

2020年06月30日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

カトリック・ファミリー・ニュース(CFN)に掲載された、ヴィガノ大司教、第二バチカン公会議について「すべてを取り下げて忘れることが望ましい」の記事の日本語訳をご紹介いたします。

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ヴィガノ大司教、第二バチカン公会議について「すべてを取り下げて忘れることが望ましい」
マイケ・ヒクソン博士
2020年6月17日

編集者注:カトリック・ファミリー・ニュース(CFN)では、これまでCFNに記事を寄稿したことがあり、夫のロバート・ヒクソン博士と共に、私たちの使徒職の長年の友人でもあるマイケ・ヒクソン博士をお迎えしています。最新の手紙の英訳を含めた、ヴィガノ大司教閣下の最新情報について、博士の報告を掲載できることを光栄に思います(下記参照)。―CFN編集長マット・ガスパーズ

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カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、イタリアの法学教授【パオロ・パスクァルッチ教授】への回答の中で、第二バチカン公会議(1962ー1965年)の「異端的命題や異端を支持する命題」に対するカトリック教会の対応はどうあるべきかという問題について論じています。大司教は、「それらは排斥されるべきであり、私たちはこの排斥ができるだけ早く起こることを願うことしかできません」と説明しています。アタナシウス・シュナイダー司教とのわずかな意見の相違はありますが、このイタリア人の高位聖職者は、公会議は「取り下げられ」、そして「忘れられるべきだ」と考えていると述べています。大司教はパオロ・パスクァルッチ教授の次の言葉を、自らの言葉としています。「公会議が信仰から逸脱しているなら、教皇は公会議を無効にする権限を持っています。実際、それは教皇の義務です」。

イタリアの伝統的カトリックのウェブサイト「Chiesa e post concilio」(ここの日本語訳全文を参照)に掲載されたヴィガノ大司教によるこの新たな介入の背景には、第二バチカン公会議の重大な誤謬のいくつかに関する、シュナイダー司教によって触発された議論があります。6月1日、シュナイダー司教は、信教の自由への自然権があるという公会議の声明を批判し、この正しくない教えは将来的に教導権によって修正されなければならないと付け加えました。シュナイダー司教は、この誤った教え ―天主が積極的に人々に偽りの宗教を選択させようとするという考え方― が、「宗教の多様性」は「天主のご意志によるもの」であるとする教皇フランシスコが署名した2019年2月4日のアブダビ声明の根底にあると見ています。

シュナイダー司教が言うように、「善と悪、真理と誤謬の間で選択する能力があるからといって、誤謬すなわち偽りの宗教を選択し、実行し、広める自然権があるということを結論づけることはできません」。

こうして、司教は、「他の公会議によってなされた声明の中には、廃れて忘れ去られてしまったものや、後の教導権によって修正されたものさえある」と結論づけています。

シュナイダー司教自身の介入を支持する6月10日の対応の中で、ヴィガノ大司教はシュナイダー司教の批判を支持しましたが、"公会議自体は有効であり続けることができる一方で公会議の誤った教えの一部を公式に修正することができる"というシュナイダー司教の発言には、丁重に反対しました。

6月15日の新しい声明の中で、ヴィガノ大司教は、6月10日のコメントに関するパオロ・パスクァルッチ教授のコメント(下記参照)に答えています。この引退したイタリアの法学教授は、ヴィガノ大司教とシュナイダー司教を「勇気ある」高位聖職者と呼び、彼らの介入に感謝しています。同時に、教授は、将来の教導権が第二バチカン公会議を全面的に拒否する必要があると考えています。なぜなら、「文書の至るところに散りばめられた信仰に反する誤謬」のためです。

教授は、「教会のこの信じられないような危機によって提起された神学的かつ教会法的な問題は非常に大きく、解決するには困難を伴うでしょう」と信じています。そのため、教授は、「私たちは、天主の恩寵を通して私たちに与えられた導き、この二人の勇敢で最も正当な司教たち、正面攻撃において敵と向き合っている今のところ唯一のこの司教たちによって与えられた導きを用いて、自分の進むべき方向を定めようとしています」と付け加えています。

パスクァルッチ教授は次のように述べています。「私は平信徒としてこのようなことを考えていますが、私の考えでは、文書の至るところに散りばめられた手続き上の裏技や信仰に反する誤謬を明確に強調した後で、教皇は最終的に公会議全体を取り消し、『それによって信仰における兄弟たちを強める』ことができるでしょう。これは、jure divino[天主によって与えられた権による]教皇の教会全体に対する summa potestas iurisdictionis [裁治権の最高の権能]の範囲内に完全に収まることになります。公会議は教皇より上位にある訳ではありません。公会議が信仰から逸脱しているなら、教皇は公会議を無効にする権限を持っています。実際、それは教皇の義務です」。

パスクラルッチ教授は、教皇フランシスコの異端的な教えを調査し、その後、将来的に排斥することを世界の司教たちに求める公開書簡を書いて署名した学者や司祭の一人です。

ここに掲載された声明にあるように、ヴィガノ大司教は公会議に関するパスクァルッチ教授のコメントに全面的に同意しています。大司教もまた、「教皇が公会議全体を最終的に取り消すことは十分にあり得る」との見解を持っています。また、このイタリア人高位聖職者は、公会議について「すべてを取り下げて忘れることが望ましい」と考えています。

「第二バチカン公会議が修正される可能性があるという事実だけでも、公会議の最も明白な誤謬が明らかになればすぐに、その忘却を宣言するのに十分です」と、ヴィガノ大司教は説明しています。ヴィガノ大司教によると、公会議は「不連続性を持つ曖昧な定式化以上に、その破壊主義的な価値のために意図され、計画され、それがゆえに多くの悪を引き起こしてきた」のです。

この議論の中で、ヴィガノ大司教は、自分とシュナイダー司教の間には対立はないと主張し、「私の兄弟であるアタナシウス司教とのこの実りある交流から、浮かび上がってくることは、愛徳における一致のために必要不可欠な土台として、私たち二人がカトリックの信仰を再確立することだけを、どれほど願っているかということです。私たちの熱意は、私たちの主の御聖体の聖心から湧き出て成長し、主への愛に費やされるようにそこに戻ってくるのです」と説明しています。

ヴィガノ大司教が、教会の問題とその根源について、カトリック教会の中で、開かれた正直な議論が行われることを望んでいることは明らかです。また、マルコ・トサッティが発表した別の介入の中で大司教が述べているように、「私たちは、素朴さと冷静さをもって、物事を本当の名前で呼ぶことを学びましょう。また、過ちや悪徳を許容する時だけ、私たちに寛容と受容のことを語る人々の幻想に、静かに生きるために、従うことをやめましょう。敵の欺瞞を隠蔽(いんぺい)し、反対者の搾取、専制、迫害を覆い隠している『対話』『連帯』『自由』など呪文のような言葉を使うのはやめましょう」。

ここにお読みいただくのは、ヴィガノ大司教の許可を得て掲載した手紙の全文です。

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大司教閣下が手紙を書かれる元となったパオロ・パスクァルッチ教授のコメントを全文から抜粋してご紹介します。

このたび明確な議論をしてくださったヴィガノ大司教に感謝いたします。そこにはいつものように、非常な明晰さと知的な率直さがあります。また、貴重な議論でいつも私たちを照らし、慰めてくださるシュナイダー司教にも感謝いたします。他の聖職者の方々もすぐにお二人の議論に加わってくださるよう願っています。

ヴィガノ大司教がシュナイダー司教に提示されたと思われる批判については,次のようなことが言えると思います。シュナイダー司教は一般的な原則を述べておられるようです。それによると教会は、それまでの教理(それが「教導権の決定」に含まれているという理由で教理とされる)を、変更することができるという原則です。しかし、シュナイダー司教の挙げられる例は、教理的な面での意義がなく、教理的な面の変更には関わらないため、実際には本質的な、本来の「教導権の決定」ではありません。ですから、シュナイダー司教が表明された原則を教理に適用したいと思うのであれば、その原則は否定されなければなりません。教会は何世紀にもわたって、少数の問題に関する意見を変更してきました。例えば、借金に利息を課すこと(最初は高利貸しとして禁止されていましたが、その後、一定の条件のもとで認められました)や、教皇の物理的な統治権は最初、たとえそれが直接行使されていなくても全世界に対する直接的な権限であると理解されていましたが、その後(ベラルミーノによって)間接的な権限として理解されるようになりました。しかし、これらの問題は教義には関係しないので、いわゆる本来の教理に関わるものではありません。では、公会議の教えについては、すべてが問題ないのでしょうか? いいえ、違います。

さて、すでに指摘されているように、シュナイダー司教は、第二バチカン公会議やその他の特定の点を是正するための新しい誤説表(シラブス)[イタリア語の参考記事はこちらを参照]の必要性を常に主張してこられました。しかし、誤説表(シラブス)には教理上の意義があり、実際には、公会議に含まれている誤謬は、たとえそれが「司牧的な公会議」に過ぎなかったとしても、教理的な意義を持っているのです。これを否定することはできません。

ですから、ここで提案されている新しい誤説表(シラブス)というのは、過去に教皇たちによって有効に教えられてきた教理を変えるということではなく、ただ、教理に浸透してしまった誤謬を根絶するということだけです。[公会議の]誤謬は教理ではありません。[公会議の]誤謬は、教理を全面的かつ完全に否定することです。そしてそのような誤謬は、自らを司牧的に過ぎないと主張したにもかかわらず、同時に深刻で反復的な違法性に染まっていた集会によって広められた誤謬でした。

正直なところ、第二バチカン公会議というコンチリアボロ(不正公会議)の誤謬に対する将来の教導権による具体的な介入に関して、ここでヴィガノ大司教が提起された問題があるとは思いません。もし私たちが理解したとおりであれば、彼の論旨は、教会のまことの教理に関連しては明らかに正しいものです。しかし、当時の教皇たちの共謀の下、混乱と違法性が続く条件の下で開催された激動の公会議によって作り出された偽りの教理に関しては、それはあてはまらないように私には思えます。

これらすべては私の平信徒としての考えですが、私の考えでは、様々な文書に散りばめられた手続き上のごまかしや信仰に反する誤謬を明確化したうえ、教皇は最終的にこの公会議全体を取り消し、「これによって、信仰における兄弟たちを強める」ことができるはずです。このような行為は、天主の権による(jure divino)教皇の教会全体に対する裁治権の最高権能(summa potestas iurisdictionis)の範囲内に完全に収まることでしょう。公会議は教皇より上位にあるのではありません。もし公会議が信仰から逸脱したのであれば、教皇はその公会議を無効にする権限を持っています。実際、それが教皇の義務です。

さらにパスクァルッチ教授は 読者のコメントにこう答えています、「撤回するかどうかはヴィガノ大司教にかかっています」。

よくよく見てみると、ここには「撤回」するようなことは何もありません。私たちがヴィガノ大司教の考えをよりよく理解できるよう、適切な方法でさらに説明して下さるかどうかは、ヴィガノ大司教にかかっています。また、平信徒である私たちは、大司教と同じような神学的・教会法的なすべを持っていないからです。私たちは聖職者に反対している平信徒ではありません。私が、「これらすべては私の平信徒としての考え」だと言ったのは、反論するためではなく、単に私が神学者でもなく、この問題の専門家でもないことを示すためだけであって、そのため、私は法律や哲学の知識を持つ「平信徒として議論している」のです。

ヴィガノ大司教とシュナイダー司教は、反証さるべき二人の敵ではありません! この信じがたい教会の危機によって提起された神学的問題や教会法的問題は非常に大きく、解決するには困難を伴うでしょう。私たちは、 天主の恩寵によって、唯一、敵の攻撃に正面から立ち向かうこの二人の勇敢で最も正当な司教の与えてくださる導きを用いて、自分たちの方向性を定めようと務めているのです。

ジュゼッペ・ペレグリノ訳

7月4日には大阪で、7月5日は東京で、初土の信心として聖伝のミサに与ってください。初土の信心をしなければならない理由を説明します。

2020年06月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年6月28日、聖霊降臨後第四主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。


【聖体の黙想】聖体は慈悲深い天主である

2020年06月30日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

天主である聖体

聖体は慈悲深い天主である

 礼拝 聖体のいともやさしく、いとも近づきやすい被(おお)いの下に在す恐るべき天主を礼拝しよう。特に、天主の神聖なご性質の中で私たちだけをその目的、その理由とするようにみえる天主の御慈悲を礼拝しよう。天主の御慈悲は、御自らの正義に打ち勝たれた天主の愛であり、あらゆる徳において無限に完全な天主のすべての完徳のかしらであり、冠である。聖書には『主のあらゆるみわざの上に主の慈悲あり』とある。
天主の御慈悲は、天主が罪人を見逃しになる忍耐であり、確かに行なおうとされる天主の正義のご命令を妨げる力であり、あるいは万物を見通しになる天主が、見えぬようにと罪の上に投げかけられる被いであるといえるであろう。またそれは、ほとんど浪費であるかのように人々に賜物と恩恵とをお分かちになる愛のみわざ、最も巧みに、最も気長に罪人の改心の機会と手段とをおつくりになる天主の摂理である。そしてまたそれは、罪をその根本から滅ぼし、その汚れを洗い清めて雪のようにし、罪人が失った天国の宝を彼に取り戻し、永福の権利を再び彼に与え、最後の審判の日においても彼の罪悪が思い出されないようにしてくださる御恵みである。
負債を赦し、汚れを清め、罪をお忘れになる天主の御慈悲は、ただ天主にだけ属する大いなる権能である。それは、天主が他の何ものにも依存せず、他の何ものよりも束縛されず、また欲したもうままに万事を処理なさることがおできになるからである。
ああ拝すべき完徳よ、天主の御慈悲はなんと尊く好ましく頼もしいものであろうか。この完徳こそ私たちにとって唯一の救かりの希望であり、唯一の宝である。もし私たちが永遠に生きることができるとするなら、全く天主のこの御徳によると言わなければならない。それは私たちが仰いでいる天主のみ姿である。天使の天主がいとも聖なる天主でおいでになるなら、私たちの天主はいとも慈悲深い天主にて在すのである。
天主の御慈悲を、恩恵を与え罪の赦しをお分かちになる玉座の上において礼拝しよう。聖体とは何か。聖体とは、地上に続けられる贖罪であって、罪人の改心をいつまでもお待ちになる忍耐であり、和睦の接吻であり、罪の赦しの証印であり、子たる喜びと平和と名誉とが、放蕩息子に回復される祝宴ではなかろうか。聖体の被いは忍耐、柔和、同情、憐れみの被いではなかろうか。天主の御慈悲を、そのいとも慈悲深い表現のもとに礼拝しよう。

感謝 感謝はここでは礼拝とほとんどひとつになってしまう。なぜなら私たちは、天主の御慈悲を眺め、研究し、礼拝するとき、心の底から幸福と喜びと感謝との念があふれ出るのを抑えることができないからである。
注意して聖体の中にあらわれる天主の御慈悲を研究しよう。救い主はかつて自分に従ってくる群衆を見て、荒野の中で彼らのためにパンを増やし『われ、もし彼らを空腹にて帰さば、おそらくは道にて死なん』と仰せになった。主はこれと同じように、まず第一に憐れみ深い心づかいをもって私たちのために聖体をお定めになった。
次に聖体は十字架上の贖罪の実を確実に私たちに与えるものである。そのためにだけ主は聖体の秘蹟を十字架上の犠牲の絶え間ない繰り返しとされて、私たちが必要に応じていつでもこれを利用できるものとされたのである。
さらに聖体は告解の秘蹟に始まる罪の赦しを私たちのために完成する。すなわち、聖体は罪によって生じた霊魂の傷を癒し、その名残りを滅ぼすだけでなく、腐敗した天性の源泉を乾かし、罪の最も隠れた種子をも根絶するのである。
それだけではない。聖体は罪人の立ち帰りをたやすくし、罪の赦しを飾るものである。それで罪人は告解の秘蹟の法廷から出てくるや、義人とともに天使のパンを食し、救い主の御血で洗い清められた霊魂の中にお臨みになる天主を礼拝することができるのである。彼は痛悔の苦しいわざを終えて、今もまだ自分の赦しの真偽を疑いためらいながらいるのに、さきの恐ろしい審判者はおいでになって平和の接吻を彼に与え、『わが子は失われたるに、また、見出だされたり。われなるぞ、恐るるなかれ、われは世の罪を除く天主の小羊なり』とささやかれるのである。
あなたは、かつて祭壇の前で、天主の御慈悲を感じて流した涙を忘れてはならない。たとえば、あなたの初聖体の前にした総告解の日、あるいは天主を離れて過ごした幾年かのあとに天主があなたをその御もとに導いて戻されるその日、または少しずつの不熱心や怠惰、恩恵に対する不忠実などによってだんだん大罪の谷底に陥ったあとに天主があなたをもう一度その谷間から逃れさせてくださったその日、すべてこれらの時に、あなたがした聖体拝領を思い出そう。そうすればたやすく聖体の無限の御慈悲に対して感謝の賛美を捧げることができるであろう。

償い 聖体の中にかくも明らかに、かくも恵み豊かに、かくも自分を犠牲として存在されている天主の御慈悲を軽蔑する者の罪の重さと、その罰の恐ろしさとは、どれほどであろう。私たちによって無視され、無益になった天主の御慈悲、私たちの恩知らずの心に触れることができなくて、虚しく天に戻られた天主の御慈悲は、ついに、どんな恐ろしい罰と変わるであろうか。
天主の正義の御腕を支え留めていた御慈悲が、現世とともに過去のものとなってしまったならば、天主の正義はどれほど激しい御力をおあらわしになるかわからない。天主の御怒りは長い間、御慈悲の下に埋(うず)まっていた。それが突然に爆発する恐ろしさはどうであろうか。天主の御慈悲が忍耐深いだけに、それだけこれをふくしゅうする天主の正義が厳しいということを忘れてはならない。あなたが、のちに天主の正義のふくしゅうの鞭(むち)の下に落ちないように、急いで、憐れみ深い天父の御慈悲のもとに来なければならない。

祈願 不幸にして罪を犯すことがあっても、決して天主の御慈悲に対する信頼を失うまいと決心し、その恩恵を求めよう。どんなにあなたの罪が多く大きく、また繰り返して犯されたとしても、慈悲深い聖体の秘蹟の前に祈ってその赦しを請い、またすぐに告解の秘蹟を受けに行く力を願うようにしよう。絶対的になおすことのできない唯一の罪というのは、天主の御慈悲について失望することだけである。
また、天主の御慈悲に対する感謝のために、あなたは兄弟たちに対して、心と言葉と行ないとをもって慈悲深くなければならない。

実行 あなたが聖体の秘蹟の中においでになるイエズスの御慈悲に対して、いつも大いなる信頼をもつことを、人々にも知らせよう。




ヴィガノ大司教「第二バチカン公会議のすべてを取り下げて、忘れるのが望ましい。公会議が信仰から逸脱していたのであれば、教皇はその公会議を無効にする権限を持っている。それが教皇の義務だ。」

2020年06月29日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐米教皇大使)が、2020年6月14日付でグァリーニ博士に宛てに書いた手紙の日本語訳をご紹介いたします。

原文はイタリア語ですが、英語訳から日本語に翻訳しました。英語版に付けられている、Dr. Maike Hicksonによるカトリック・ファミリー・ニュースの解説文ですが、この部分は、明日、日本語訳をご紹介いたします。大司教様がこの手紙を書く機会となったパスクァルッチ教授のコメントについても明日、改めてご紹介いたします。

この手紙における、ヴィガノ大司教の主張は次の通りです。

*第二バチカン公会議には、異端の命題あるいは異端を奨励する命題がある。これらは、一刻も早く排斥されるべきである。この点で、アタナシウス・シュナイダー司教と、ヴィガノ大司教とは一致している。

*シュナイダー司教は、第二バチカン公会議の中にある異端的な命題を排斥して、第二バチカン公会議を聖伝の光に当てて、カトリック的に解釈することができるように修正したり、注解を加えることを主張するが、しかし、ヴィガノ大司教はむしろ、第二バチカン公会議を全て捨て去り、忘れ去るほうが良い、と考える。何故なら、

*第二バチカン公会議には、破壊のために計画され、多くの悪を引き起こしてきた「孤語」があり、第二バチカン公会議を破棄しないならば、これらの聖伝と断絶した特殊な表現が、保存される危険があるから。

*第二バチカン公会議には訂正の余地があるという事実だけをもってしても、ピストイアの司教会議(シノドス)の時がそうだったように、直ちに公会議が忘却されるべきことを宣言するのに十分だから。

*司牧的な観点から見ると、第二バチカン公会議を丸ごと廃棄したほうが、信者の啓発のために有用であるから。何故なら、異端の命題を排斥したとしても、公会議から派生した悪しき結果を取り除くことにはならないから。

*教会の悲惨な状況で、今、緊急に必要なのは、一部専門家たちの長い神学議論による異端命題の訂正であるよりは、教会を二千年の聖伝に戻し、奪われた宝を取り戻すこと、混乱している信徒の群れを養うことだから。

*教皇は公会議よりも上にあるので、信仰から逸脱している第二バチカン公会議全体を廃棄することで、「信仰における兄弟たちを強める」ことができるから。教皇には公会議を無効にする権限を持っており、実際、それをするのが教皇の義務だから。

*ただし、シュナイダー司教とヴィガノ大司教との二人は、愛徳における一致のための必要不可欠な土台として、カトリックの信仰を再確立することだけを願っている。二人の間には対立、反対はない。

最後に、この翻訳を素晴らしく作ってくださった大阪と東京の両信徒会長に、深く感謝申し上げます。

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カルロ・マリア・ヴィガノ大司教閣下の手紙
初出:「Chiesa e post concilio

2020年6月14日
御聖体の祝日の八日間内の主日


親愛なるグァリーニ博士、

ご好意でお送りいただいたパスクァルッチ教授のご意見を拝受しましたので、できるだけ沢山、簡潔にお答えしてみたいと思います。

第二バチカン公会議の決定事項を訂正する可能性については、異端の命題あるいは異端を奨励する命題は排斥されるべきであるという点で、私たちは合意できると思います。そして、私たちはそれが一刻も早く実現することをただ願っています。

シュナイダー司教に対する私の異議は、むしろ、教会の公式な決定の中に、不連続性を持つ曖昧な定式化以上に、その破壊主義的な価値のために意図され、計画され、それがゆえに多くの悪を引き起こしてきた「孤語」【言語データを収集して単語の使われ方を研究するコーパス言語学で、特定の文脈で1回しか使われない単語。ここでは第二バチカン公会議が他のどの公会議とも異なる特殊性を持つことを指す】が将来にわたって保存されてしまう可能性があるという懸念から来るものです。法的な観点から見れば、おそらく最も適切な解決策が見つかるかもしれませんが、司牧的な観点から見れば、つまり、公会議が信者の啓発のために有用であるかどうかという観点から見れば、そのすべてを取り下げて、忘れさられるようにするのがより望ましいことです。また、パスクァルッチ教授が断言しているように、誤謬は教理ではないことはたしかに真実ですが、一方、異端の命題を排斥したとしても、必ずしも公会議という複雑な事業全体を取り囲み、公会議の文書組織全体に偏見を与えている影の部分を取り除くことにはならず、また、公会議から派生した様々な結果を取り除くことにもならないということも、同様に真実です。さらには、公会議という出来事が、公会議が作り出した諸文書をはるかに超えるものであることも忘れてはなりません。

第二バチカン公会議には訂正の余地があるという事実だけをもってしても、その最も明らかな誤謬が明確に理解され次第、直ちに公会議が忘却されるべきことを宣言するのに十分なはずです。パスクァルッチ教授が、その会議が教えた個々の誤謬が単に排斥されたのではなく、その会議全体が排斥されるべきものとなったピストイアの司教会議(シノドス)のように、第二バチカン公会議を「コンチリアボロ(不正公会議)」と呼んでいるのは、偶然ではありません。私は、教授の声明を自らの声明とします。「様々な文書に散りばめられた手続き上のごまかしや信仰に反する誤謬を明確にしたうえ、教皇は最終的にこの公会議全体を取り消し、『これによって信仰における兄弟たちを強める』ことができるはずです。このような行為は、天主の権による(jure divino)、教皇の教会全体に対する裁治権の最高権能(summa potestas iurisdictionis)の範囲内に完全に収まることでしょう。公会議は教皇より上位にあるのではありません。もし公会議が信仰から逸脱していたのであれば、教皇はその公会議を無効にする権限を持っています。実際、それが教皇の義務です」。

教会が今置かれている悲惨な状況と、教会を悩ませている数多くの悪に直面している今、「専門家」たちの間で長い話し合いをしても、それは不適切であって結論にも至らない、と思われることを付け加えさせてください。キリストの花嫁を二千年の聖伝に戻し、略奪され散逸した宝を取り戻し、それを与えることによって、混乱している信徒の群れをよく養うことが緊急に必要なことです。

どんな議論も、正当な見解の相違があるにせよ、真理の歪曲との妥協をその目的としてはならず、むしろ真理が完全に勝利することも目的としなければなりません。聖徳とは、二つの悪徳【超過と不足】の間にある正しい中庸であり、二つの谷の間にある尾根のようなものです。これが、私たちの目的でなければなりません。

私の兄弟であるアタナシウス司教とのこの実りある意見交換から浮かび上がってくることは、私たち二人が、愛徳における一致のための必要不可欠な土台として、カトリックの信仰を再確立することだけを、どれほど心して願っているかということです。私たちの間には対立、反対はありません。私たちの熱意は、私たちの主の御聖体の聖心から湧き出て成長し、主への愛に焼かれるべく、またそこに戻るのです。

親愛なるグァリーニ博士、あなたの読者の皆さんが、皆さんの牧者たちのために、特に現在の危機を苦悩と苦しみの中で生きている牧者たちのために、そして天主なる師匠から受けた務めを果たすために努力している牧者たちのために、熱心に祈ってくださるよう私からお招きいたします。私たち皆が攻撃を受け、四方八方から包囲されている今、私たちを統率する御婦人【聖母】のマントの下に、信仰と謙遜をもって集うことが、これほど必要であったことはありません。ご自分の子どもたちを一つにする勝利の元后への愛こそが、私たちの間に敵の特徴的なしるしである分裂は起こり得ず、また起こってはならないという最も明白な証拠です。

私の祝福を、あなたとあなたの読者の皆さんへ送ります。

+カルロ・マリア・ヴィガノ


【聖体の顕示に関する黙想】 聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である

2020年06月29日 | カトリックとは
聖体の顕示に関する黙想

聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である

礼拝 祭壇上の私たちの大司祭、仲介者、弁護者なるイエズス・キリストを礼拝しよう。聖体降福式は、まことにこれらの重要なご職務を執行される主のみ姿を明らかに私たちに示す聖式である。
聖書を黙想しながら、今、天地の間にあげられる聖体が、いかに完全にこのあわれみのご職務を満たしてくださるかを感嘆しよう。
聖パウロは、主がメルキセデクのように天父に選ばれて永遠の大司祭となり、天主の幕屋の中に自ら入り、人々の罪のために犠牲と供え物とを捧げて天主の御あわれみと慈しみとを願ってくださること、またこの唯一の仲介者イエズス・キリストのみ、天主と私たちとの間、すなわち審判者と罪人との間の深い淵を渡ることがおできになることを教えている。
また、聖ヨハネは、私たちが義者イエズス・キリストを全能の弁護者としてもっているから、たとえ罪を犯す不幸に陥ったとしても決して失望してはならないと教えている。
絶え間なく天主と人との間に立って私たちのために祈られる、この拝すべき大司祭の御仲介と御執り成しとの御効力は、まことに無量である。
聖体降福式は以上の事実をはっきり示し、キリストは、ここに永遠の大司祭のたえなる御姿をもって、すべての信者の眼前に聖櫃の中からお出ましになるのである。それまでは主の存在は、ほのかなランプの光、ひと張りのカーテンによって示されるだけであった。ところが今、主は無数の光に囲まれ、燦爛(さんらん)たる聖体顕示器の輝きのうちに、いと高き玉座におのぼりになるのである。
使徒たちは復活された主のご肉身、御手足、御脇腹の傷をはっきり見た。主は今日もこれらの傷を御父に示されて、その求められるところのものが、すでに御血をもってあがなわれ、その代償をお支払いになったことを力説されるのである。
だから、聖体降福式の玉座の上における天主なる仲介者、力強い弁護者を、その御祈りと御執り成しとのみわざのうちに礼拝しよう。

感謝  聖体降福式をこのように理解することは、私たちの信仰をふるい起こし、熱心な礼拝を行なわせ、また、私たちの心を燃やし、感謝の念を盛んにさせるためにも非常に有益である。聖パウロやヘブレオ書の中で、私たちの大司祭がいかにあわれみ深く、いかに私たちに同情されるかを、感謝をもって語っている。私たちもまた大いなる信頼と感謝とをもって主のもとに急がなければならない。『われらが有せる大司祭は、われらの弱点をいたわりえたまわざる者にあらずして、罪を除くほか、万事においてわれらと同じく試みられたまえる者なり。ゆえに、われらは慈悲をこうむらんため、また、適切なる助けとなるべき恩恵を見出ださんために、はばかりなく恩恵の玉座に至りたてまつるべし』と。このように、主は種々の試練に悩み、かずかずの罪に陥る私たちをお助けになるために、ご自分から試みられ、すすんで多くの苦しみを受けられたのである。
まことに、主が私たちの弱さに深く同情され、罪人に対するあわれみに富んでおられるのは、主ご自身の御苦しみの経験によるのである。主はご自分の過去を思い起こされるとき、今日、人性の苦悩を忍んでいる私たちのために、同情の念の油然と湧き出るのを制したもうことができない。しかも主が聖体の秘蹟の中にとどまり、私たちと一緒にこの涙の谷をたどられるのは、なおいっそう御身の過去を思い起こし、かつての経験をよみがえらせ、私たちの重荷をおわかちになるためにほかならない。ああイエズスよ、信じられないまでに善良なみあるじよ。

償い 礼拝すべき仲介者のあわれみ深い不断の御執り成しは、最も力強い助けであり、それとともに私たちに極めて重大な祈禱の義務をも課すものである。
私たちはすでに被造物として、またさらにキリスト信者として祈禱の義務がある。私たちは自分の貧しさと無力とを告白して、天主の大能と恩恵により頼まなければならない。これは日常の義務、規則正しくなすべき本質的義務で、決して、不幸、艱難(かんなん)の場合だけに限られるものではない。祈りの怠慢は、天主に対する義務の不履行であるばかりでなく、私たち自身の救霊に関する不熱心を示しているのである。そのうえ、この義務は、私たちの大司祭なるイエズスが、聖櫃の中から、または顕示台の上から、絶えず公の祈りを御父に捧げておられる事実によって、なおいっそう重大なものとなる。
多くの犠牲を伴っている主の不断の御祈りは、あらゆる意味で、あなたが受けなければならない審判の標準となる。主がこれほどまでにお祈りになるなら、あなたはどれほど熱心に祈らなければならないことであろうか。
『われ、ひねもすわが民に腕(かいな)をさし伸べしも、彼らはわれを見ず、われを捨てたり。』これはユデア民族に対しての天主の非痛なお嘆きであり、お叱りである。ホスチアの中においでになる慈愛深い大司祭の御口から、これと同じ寂しいお叫びが漏れている。私たちは主の御言葉に感激して、祈禱の義務を十分に果たすよう心がけなければならない。

祈願 主に祈りの恩恵を願い、主のみ前で必要な決心を作るのに今は最もふさわしい瞬間である。なぜなら、聖体中の大司祭が今、大いなる光栄のうちに公の仲介の任務を尽くされながら、聖会の上に新しい祈りの霊を豊かにくだしておられるからである。この霊を受け、すべての祈りの機会をとらえよう。特に、聖体礼拝の時間を利用して、全能な仲介者のみ前で、主とともに、また主によって、あなたの祈りの義務を遂行しよう。また恩恵の玉座のみ前に出て、許しと助力とを請い求めよう。

実行 聖体降福式に与るため、どんな犠牲も惜しまないようにしよう。主は百倍の報いを与えてくださるだろう。




2020年6月28日主日の聖伝のミサの報告

2020年06月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

こんばんは!
今日、聖霊降臨後第四主日は、東京では、67名(ミサは三回)、大阪では21名がミサに与ることができました。天主に感謝いたします。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

09:00のミサ
男: 13人(内、子供1人)
女: 12人(内、子供2人)
計: 25人(内、子供3人)

11:00のミサ
男: 14人(内、子供3人)
女: 11人(内、子供4人)
計: 25人(内、子供7人)

12:30のミサ
男: 8人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 23人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの6人を除く)
男: 31人(内、子供4人)
女: 36人(内、子供7人)
計: 67人(内、子供11人)

以下は東京での二回目のミサです。




以下は大阪でのミサです。









【聖体の黙想】聖体の礼拝は最も有効な祈りである

2020年06月28日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由

聖体の礼拝は最も有効な祈りである

 礼拝 尊敬と愛とをもって、秘蹟のおおいの下にまことにおいでになる救い主イエズス・キリストを礼拝しよう。主は教会の名において天父に祈り、またそのご生涯のすべての御功徳、ご受難ご死去の時の御苦しみをこれとともに捧げて、祈りの効果をさらに有力にしてくださる。
イエズス・キリストは全世界のために祈り、また取り次ぎをしてくださる最高の大司祭である。主は地上で、ご生涯の間、特に十字架上でこのみわざを始められ、今もなお、これを天国または聖体の中で継続される。主の御祈りは無限の価値を有し、主の天主性、主の望徳、ご受難の無限の御功徳、および天父の無限の愛に支えられるから、必ず天父の聞き入れられるものとなるのである。
在天の仲介者、至聖なる大司祭であるイエズスを礼拝しよう。主はあなたのために天主の正義に赦しを願い、天主の慈愛に平和を願い、天主の寛仁(かんにん)に豊かなる賜物を願われる。主に一致し、主に寄り頼み、主とともに祈り、あなたの心の中で、天地の間、すなわちあなたと天主との間に、主を高くささげて、大いなる信仰と謙遜とをもって次のように言おう。『天にましますわが父よ、御身の愛したまえる御子をみそなわして、わが不義と忘恩とを忘れたまえ。御身のすべての喜びと楽しみであるキリストに御まなざしをめぐらしたまえ。彼の聖徳、彼の大功徳、御身の聖名の光栄のためには死をすらも辞したまわざりし彼の無限の愛を思い出したまえ。至聖なる天主よ、いかに彼が御身のみ前にへりくだりたまいしかをみそなわしたまえ。恐るべき正義よ、彼の御手、御足、御脇腹の大いなる傷口を眺めたまえ』と。
私たちの祈りが、このようにイエズスの御祈りと合わせられ、主の聖名と、主の御功徳によって、いわば主のみ手から天父に捧げられるとき、それは最も有力で最も効果ある祈りとなるのである。

感謝 主が聖体のおおいに隠れ、私たちのために取り次ぎをしようとして、ここにおいでになるのは、私たちの祈りを助け、これを支え、これを励まされるためである。だから、この秘蹟の中における天主なる大司祭の祈りに対する私たちの信頼は、無限でなければならない。
最大の感謝をもって主に感謝しよう。この秘蹟は、信頼をもって主に祈るすべての人々になさった主の御約束の保証である。最後の晩餐の時、使徒たちに愛の秘蹟をお授けになった直後はじめてなさった、あの愛にあふれた偉大な主の御約束の言葉を聖櫃のみ前で黙想しよう。
『なんじらは天主を信ずればわれをも信ぜよ。なんじら父のわれにましまし、わが父のうちにあることを信ぜざるか。まことにわれ、なんじらに告ぐ、すべてわが名において父に願うことはわれこれをなさん。そはわが父はその御子において光栄を受けたもうべければなり。なんじらわが名においていかなることを願わんとも、われ必ずこれをなすべし。』
『われはぶどうの木にしてなんじらは枝なり。わがうちにとどまり、わがそのうちにとどまる者は多くの実を結ぶ。われなくして、なんじら何ごともなすあたわざればなり。もしなんじらわれにとどまり、わが言葉なんじらのうちにとどまらば、なんじの欲するところは、われこれをなさん。』
『われ、もはやなんじらをわがしもべと呼ばずしてわが友と呼ぶ。そはわが父より受けしものは、ことごとく、われ、なんじらに与えたればなり。われこそなんじらを選べり。そはなんじらが多くの実を結ばんためなり。すべてなんじらがわが名において父に請うところのものは、父なんじらに与えたまわん。』
『われ去るがゆえに悲しみなんじらの心に満てり。されどわれは、なんじらをみなし子として残さじ。われ、帰り来たらんとき、なんじらの心喜ぶべく、しかしてなんぴとも、なんじらの喜びを奪い去る者なし。まことにまことに、われなんじらに告ぐ、なんじら、わが名によりてわが父に願うところは、何ごとにてもあれ、なんじらにこれを与えたまわん。今までは、なんじらわが名において何ごとをも願わざりしも、願え、さらば与えられん。かくてなんじらの喜びは全かるべし。』
私たちの祈りを聞き入れてくださるという、以上の御約束は、最後の晩餐の直後になされ、最初の聖体の授与によって保証されたことを、今いちど思い出そう。私たちが今礼拝しつつある聖体は、最後の晩餐の賜物を世の終わりに至るまで継続し、イエズス・キリストによって祈る者には、なんぴとにもこの御約束が守られることを示すものである。
それでは、愛の秘蹟のみ名によってささげられる祈りに無限の信頼をおこう。天父は聖体のみ名によって祈る者になにも拒まれない。それは聖体がイエズスご自身であって、絶えずその御役目を果たされる仲介者にほかならないからである。

償い もしも、聖体の秘蹟における仲介者によって捧げられる祈りが、それほど有力ならば、私たちが、彼によって彼とともに祈ることの少ないのは、いかに大いなる損失であろう。
地獄に落ちた者が最も残念に思うのは、彼らがこのような有力なたすかりの手段をもっていたにもかかわらず、永遠の不幸を逃れるためにこれを用いなかったということである。
私たちもまた臨終の時、この完全な祈りの取り次ぎの力を無視したことを後悔するのではなかろうか。臨終まで待つ必要はない。私たちに必要な一切の助けを得るため、聖体の秘蹟がこのように有力であることを知りつつ、これを無視していたことを、今心から嘆こうではないか。
私たちは盲目で、 私たちの中においでになる御者を知らないでいる。 これは、真実である。私たちは、主の愛、主のご親切、主の聖心のあたたかさ、私たちの友情を求めておられる主のお心持、主の御力、天父に対する主のご権利、絶えることのない主の御祈りなど少しも知らずにいるのではなかろうか。私たちはこの無知を償い、これからは主によって、主において、主とともに祈るよう努めよう。

祈願 聖体の偉大な御力にふさわしい、堅固な生きた信仰を与えられるよう祈ろう。熱心な信仰によって主が何者にましますか、また何ごとをなしえたもうかを知ることは、一切の賜物にまさる最大の祝福である。しかし私たちには、聖体が、無限の愛の全体であり、無上の能力の全体であり、天主のご慈愛の全体であること、また、人とおなりになった天主が、その人性と天主性との全能力を尽くして私たちを天国に導くために私たちに仕え、私たちを助けるすべての恩恵の与え主でいらっしゃることを知り尽くすことはとうていできない。
ああ主よ、御身の愛の秘蹟に対する私の信仰を強めたまえ。

実行 常に聖体の秘蹟中における大司祭なる仲介者の前で、主とともに、また、主の聖名によって祈ることを学ぼう。







2020年6月28日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for June 28, 2020

2020年06月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年6月26日(金)27日(土)28日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 6月26日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月27日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 6月28日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 6月29日(月)  06:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

6月28日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of June 28, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live

11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, Sunday mass attendances were as follows:

May 24
09:00 - 22
11:00 - 21
12:30 - 18

May 31
09:00 - 26
11:00 - 15
12:30 - 25

June 7
09:00 - 22
11:00 - 21
12:30 - 33

June 14
09:00 - 39
11:00 - 24
12:30 - 22

June 21
09:00 - 26
11:00 - 28
12:30 - 27

Mass location:
Iriya Hall 3F
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, June 26: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, June 27: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, June 28: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, June 29: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.






"ローマ教皇は教会の宝。教皇職を愛してください。カトリック教会に対する忠誠と愛を示してください!" 説教 4th Sunday after Pentecost 2020

2020年06月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、今日2020年6月28日聖霊降臨後第四主日です。

福音では私たちの主イエズス・キリストが、シモン・ペトロの船に乗って、そこから教えておられたと読みました。

そこで、今日は、初代教皇シモン・ペトロの船、つまり、教皇という教会の宝について黙想しましょう。

第一バチカン公会議の不可謬の教えから【聖ペトロの役割:教皇職】についてその特能と権限を知るためには、

特に、教皇に与えられた【不可謬のカリスマ】と【裁治権】を正しく理解しなければなりません。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

6月聖心の聖月を、今日のこの日を聖として良くお過ごしください。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

▼全文はこちら▼

アヴェ・マリア・インマクラータ!

Ascéndens autem in unam navim, quæ erat Simónis,... sedens docébat de navícula turbas. Ut cessávit autem loqui, dixit ad Simónem : Duc in altum, et laxáte rétia vestra in captúram.

イエズスは一隻の舟にのられたが、それはシモンの舟であった、...その小舟から、すわって、人々にお教えておられた。話しおえてから、シモンに言った。「沖にのり出せ、あみをおろして漁をしなさい」と。

+ 愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖霊降臨後第四主日です。福音では私たちの主イエズス・キリストが、シモン・ペトロの船に乗って、そこから教えておられたと、読みました。そこで、今日は、初代教皇シモン・ペトロの船、つまり、教皇という教会の宝について黙想しましょう。

【1:聖ペトロの船:カトリック教会】

私たちの主が多くある船の中から特別に選んで乗ったのが、ペトロの船です。そこから主は群衆に教えを垂れました。主はペトロに「魚を捕れ」と命じます。

これは、将来、ご自分が聖ペトロを特別に選んで、使徒たちの頭として首位権を与え、このペトロの上に、新約のノアの箱舟であるご自分の教会を創立し、このキリストの教会つまりカトリック教会からご自分の代理者つまり聖ペトロの後継者を通して全世界に教えることの前兆でした。

私たちの主イエズス・キリストの聖心の愛は、十字架の上でご自分の命を私たちに与え、ご自身を御聖体として本当に与え、十字架の犠牲を続ける司祭職を与え、さらに、聖霊を与え、七つの秘蹟を与えました。それのみならず、さらには、ご自分の教会を花嫁として創立し、ご自分の代理者である教皇を私たちに与えてくださいました。

教皇制度という、歴史上の史料が証明するとおり最も古くから続いている君主制度は、激しい愛の宝の激流の私たちへのプレゼントです。

天主が立てた制度で私たち人間の作ったものではありません。

【2:聖ペトロの役割:第一バチカン公会議の教え】

では、イエズス・キリストからの愛のプレゼントがどのようなものであるのか、ペトロの役割、つまり教皇職、その権能と特能を、第一バチカン公会議の不可謬の教えから見てみましょう。

私たちの主は、信仰の最高の教師として使徒達をたてましたが、使徒たちの頭としてペトロを選びました。ローマ教皇は、聖ペトロの後継者であり、司教たちは使徒達の後継者です。

教皇や司教たちは、キリストの教えを自分に委ねられた者たちに伝え、それを純粋に守るように注意を払う責務を天主から受けています。こうして教皇と司教たちは、御昇天の後でも、イエズス・キリストの業を続けるのです。

御昇天の時、イエズス・キリストは宣言しました。「私には、天と地との一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子をつくりにいき、聖父と聖子と聖霊とのみ名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる」と。

私たちの主は使徒達に向かって「あなたたちの言うことを聞くものは、私の言うことを聞くものである、あなたたちを拒否するものは私を拒否する」(ルカ10:16)とも言われました。使徒達の後継者である司教たちについても同じことが言えます。

【不可謬のカリスマ】

特に、聖ペトロの後継者であるローマ教皇には、聖霊が約束され、不可謬のカリスマ(特別な能力:特能、特権)が与えられています。第一バチカン公会議ではこれが信ずべき信仰箇条であることがはっきりを宣言されました。

【第一バチカン公会議 第4総会(1870年7月18日)キリストの教会に関する第1教義憲章「Pastor aeternus」第4章 教皇の不可謬教導職】

「ローマ教皇が使徒座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒継承の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、天主なる贖い主は、定義されるべき信仰と道徳おいてご自分の教会が不可謬的に教えられることを欲したが、聖ペトロにおいて約束された天主の助力を通して、不可謬性が与えられている。そのため、このローマ教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである。」

Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.

(Pastor aeternus, DS 3074)

教皇が不可謬であるための条件は、第一バチカン公会議によって明確に提示されています。つまり教皇が、使徒座、教皇座から(ex cathedra)発言するときには不可謬です。つまり、次の四つの条件を満たすときです。

(1)【誰が】教皇が「全キリスト信者の牧者として教師として」、つまり、個人的な意見を述べるのではなく、教会の頭として、キリストから直接に受けた「その最高の使徒継承の権威」をはっきりと行使する時です。

第一バチカン公会議は「個人として、或いは、私的な教師として」の教皇が「異端に陥ることや異端を教えることは決して出来ない」とは教えているのではありません。「個人として、或いは、私的な教師として」ではなく、「全キリスト信者の牧者として教師として」教える場合に不可謬だと言います。

(2)【何を】内容は「信仰と道徳についての教義」でなければなりません。政策や行政問題、経済や雇用、移民、軍事基地、領土問題、その他などではありません。

(3)【どうする】この「信仰と道徳についての教義」を「守るべき信仰と道徳」であると「定義」し、その教義を強制しなければなりません。もしもこれを信じることを拒否する人がいるなら、彼は、カトリック信仰をもはや持ってはいない、教会の外にある、排斥される、と明確に宣言しなければなりません。

(4)【誰に】この強制は、「全教会」が守るべきものとして、全教会に向けられるものでなければなりません。

つまり、諸民族の最高の教師として、ある信仰と道徳についての真理を、全ての信者たちが必ず信じなければならないドグマとして宣言するときです。

ただし、第一バチカン公会議が断言するように、聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、新しい教義を教えるためではありません。第一バチカン公会議には次のようにあります。

「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」

つまり、教皇はキリストの代理者であって、キリストの後継者ではありません。新しい教えを教えるのが役割ではありません。

【最高かつ十全な権限:裁治権】

第二に、教皇の不可謬のカリスマのみならず、教皇は地上における教会の目に見える頭として、全教会をキリストの名前において、最高かつ十全な権限(supremam et plenam potestatem iurisdictionis in universam Ecclesiam)をもって統治します。教皇は、正当に選出されたその瞬間から、キリストご自身から裁治の権能を直接得ています。(カトリック教会法109条及び218条)

「首位権における聖ペトロの後継者であるローマ司教(Romanus Pontifex)は、名誉首位権のみではなく、全教会に及ぶ最高、且つ、十全な栽治権の権能を(supremam et plenam potestatem iurisdictionis in universam Ecclesiam)有する、この栽治権は信仰と道徳および全世界に広まる教会の規律と統治に関するものである、この権能は、全ての、且つ、個々の教会(omnes et singulas ecclesias)に対する、並びに、全ての、且つ個々の司牧者および信者(omnes et singulos pastores et fideles)に対する、真の司教の固有の且つ直接の(episcopalis, ordinaria et immediata)権能であり、いかなる人間的権威からも独立したものである」

教皇が「全教会に及ぶ最高、且つ、十全(完全)な栽治権の権能」を持つ、とは、教皇が最高の目に見える頭だということです。最高で十全な権限を持つものは、一人しかあり得ません。ですから、カトリック教会は君主制と言われます。指導権力は二つでも三つでもない、ということです。教皇のみが普遍教会に対する最高かつ十全な権限・権能の唯一の主体ということです。

教皇は、たとえば、日本にいる私たち個々の信者に対しても、誰をも介さない直接の、通常(固有)の、司教としての権能をお持ちです。教皇は、イエズス・キリストから直接裁治権を受け、世界中の司教たちは教皇によって裁治権を受け、司祭たちは司教から裁治権を受けます。

教会を統治する裁治権は、教皇が司教に伝えるのであって、司教になる儀式を受けることによって、裁治権を自動的に受けるものではありません。ですから、聖伝によれば、司祭を司教にする儀式のことを「叙階」ordinatio とは言わずに、「聖別」consecratio と言います。何故なら、叙階による聖職の位階秩序とは区別されたものとして、裁治権の位階秩序は教皇によって与えられることを暗に示していたからです。

教皇は、時として、自分のもつ最高権力を、望みのままに、ほかの司教たちに伝えることができます。特別な場合には、ほかの司教たちに伝えて、団体的なものとすることもできます。公会議とは、教皇の最高の権能がほかの司教たちに伝えられた特別な場合です。特別というのは、聖伝によれば、天主から与えられた制度として、キリストの教会は君主制だからです。ですから、公会議というのは、教会にとっては、きわめて特殊な権力の形態なのです。

【3:第二バチカン公会議の団体主義は、聖ペトロの首位権を脅かす】

ところで、私たちが初代教会から信じ続けてきている教皇という聖心からの賜物は、第二バチカン公会議によると、「司教団体主義」と呼ばれているイデオロギーによって、別のものに替えられようとしています。

第二バチカン公会議は、「司牧的であることを目指し、新しい教義決定を行いませんでした。パウロ六世も1966年の一般謁見で言う通り、第二バチカン公会議は教会の教導職の不可謬権を使う荘厳な教理決定を避けた」

https://www.vatican.va/content/paul-vi/it/audiences/1966/documents/hf_p-vi_aud_19660112.html

シュナイダー司教も2020年6月24日にこう言っています。

「最近カトリック教会を愛する神学者や信徒の方々の中にも、第二バチカン公会議によって発言されたことを盲目的に擁護するという態度を持っている方々がおられます。しかしそのためには、丸を正方形にするほどのメンタル・アクロバットが必要です。第二バチカン公会議や教皇が言ったことやることは全て不可謬だと事実上考えているような方々もいます。

これは不健康な教皇中心主義です。教会の聖伝の中で、敬意のある批判と落ち着いた神学的議論はいつも存在し、許されてきました。何故なら私たちが求めているのは、真理であり、天主の啓示への忠実さ、教会の常なる聖伝への忠実さだからです。

私たちが必要とするのは、理性であって、メンタル・アクロバットではありません。もっと知的に誠実なやり方で、絶え間なく続いた教会の教えの光に照らして考察したとき、第二バチカン公会議の文書の明らかにあいまいで誤解を生じさせる表現に対する説明は、人工的で納得させるものではありません。」

では司教団体主義とは何でしょうか?

司教団体主義、collegialitas, collegiality, collégialité とは、教会憲章(Lumen Gentium) 第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について(§§18 - 29) に由来しています。

教会憲章によると、イエズス・キリストは12使徒たちを「使徒団」という団体(collegium)として制定し、「司教団」がこれを継承するとされています。

世界中の司教たちは「使徒団」を継承して「司教団(Collegium Episcoporum)」構成し、司教聖別を受けることによって自動的に司教団の中に組み込まれ、司教は、司教聖別と同時に教皇が望もうが望むまいが、司教団の一員として裁治権上の権能を受け取ることになっています。

第二バチカン公会議の新しい司教団体主義の教えが取り込まれた、新しい教会法336条によるとこうあります。

「司教団は、かしらとともに普遍教会に対する最高かつ十全な権限の主体として存在し、そのかしらなしには決して存在し得ない」と。

つまり、教皇という最高権力保持者と、かしらと共なる司教団という団体という、最高かつ十全な権力の保持者としての団体という、権力の主体が二つになっています。

そして、最近では、教皇は、一人で最高の権力を行使するよりは、シノドスの道といわれる「司教会議主義」で、教会の重要事項を決定するようになっています。司教団の構成員が、全世界の普遍教会を教皇とともに、あるいは多くの司教区を他の司教たちとともに、統治する権を持つことになってしまいます。

つまり、教皇は自分が持っている全世界に及ぶ普遍的権威を、常設的な司教団と共有しなければならないし、司教たちは羊の群れの牧者として彼らに固有の且つ直接の権能を全国の司教会議とともに共有していることになります。第二バチカン公会議は、教皇制度に反対しているのです。

たしかに、古代から、教会のかしらならびに構成員との位階的交わりがあり、法的形式を要求すると共に愛によって生かされている組織的な「交わり」があります。これは、sub et cum Petroという言葉で表現され、司教たちの指導者としての教皇と、従属的に、かつ合法的に、団結しています。

しかし、聖書のどこにも、また聖伝のどこにも、「使徒団」という団体に権力を与えたという記録も実践も存在していません。聖書の記述によると、唯一使徒たちが全て一致して行ったことは、omnes relicto eo fugerunt (Matth 26)「弟子たちはみなイエズスをすてて逃げ去った」です。

司教団体主義が問題な理由はもう一つあります。個人的な権威にかわって、数による支配が行われることです。多数決です。キリストの権威に基づく天主教会というよりは、民主主義の原理に基づく民主教会になってしまいます。キリストは、ご自分の権威を教皇という人格に与えられます。司教も、人格に与えられた権威です。しかし、数の原理によって、権威の根源はキリストから数に移行します。

団体主義により、教皇は自分の権威の十全をもはや効果的に行使しえなくなっています。

さらに司教たちは、──第一バチカン公会議の教えに反して──団体的にかつ恒常的に、最高権力の充満を分かちあっていると考えるようになりました。

教会とは、「天主の民」「神の民」であるという新しい概念とともに、教皇と司教たちとは、司祭らともに、新しい主権である「天主の民」に聞き従うことを自らに課しています。これは、権威の破壊を、教皇制度の破壊、従ってキリスト教的制度である家庭、神学校、修道会の荒廃を意味しています。

第二バチカン公会議の団体主義を拒むことこそ、真の意味での教皇職の支持者であり、カトリック教会に対する忠誠と愛とを示すことができます。

【4:遷善の決心】

ベネディクト十六世はカトリック教会全般について「沈みかけている船」と表現したことがありますが、日本でも世界のどこでも、司祭および修道者の召命不足のために、小教区の統廃合、修道院の事業縮小が進められ、以前カトリック国家と言われた国々では、大量のカトリック信徒の棄教や離教がテレビや新聞で報じられています。

ベネディクト十六世はかつてこう言ったことがあります。

「現在、地上の広大な地域で、信仰がもはや燃え尽きてします炎のように消え去ってしまう虞がある私たちの生きている時代において、何より先になされるべき優先的ことがらは、この世に天主を現存させ、天主へ近づくことが出来るように人々に開くことです。・・・私たちの歴史のこの時点において、本当の問題は、天主が人々の水平線から姿を消し、また一方で天主からの光が消えると同時に、他方で人類は方針を欠き、ますます自分の内部に人類を破壊するような結果が現れ出ていることです。

人々を天主へと導くこと、聖書において語り給う天主に導くこと、それが今日、カトリック教会とペトロの後継者との最高で基本的な優先課題なのです」と。

つい最近、元・駐米教皇大使のヴィガノ大司教は、現在のカトリック教会の信仰の危機は、第二バチカン公会議に由来すると警告しました。

キリストの教会つまりカトリック教会は、その君主制的教皇制度を変えることができません。昔のままの聖伝の使徒継承の教会を愛してください。教皇制度を愛してください。教皇のために祈ってください。

ファチマの聖母に祈りましょう。ファチマではマリア様は私たちに教皇のためにたくさん祈りなさいと願われました。

イエズスは一隻の舟にのられたが、それはシモンの舟であった。

 


【聖体の黙想】聖体は摂理の天主である

2020年06月27日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

天主である聖体

聖体は摂理の天主である

 礼拝 聖櫃の沈黙のうちに、無感覚の眠りに沈んでおられるようにみえる天主と、その尊い摂理とを礼拝しよう。イエズスは聖体の中から、あなたの必要を満たし、やさしく賢明に、無数の障害をおかしてあなたを永遠の目的地に導いてくださるのである。
聖なるホスチアは、ただ天主の摂理の御知恵と愛とを最もよくあらわしているだけではない。それはいとも尊い摂理それ自身である。なぜなら、それはまことに天主ご自身であられるからである。摂理とは、天主がご自分でお造りになったすべてのものをお保ちになる御徳である。いや、それだけではない。天主がその全能をあらわして、前もって永遠の御知恵をもってお定めになった目的に、一切のものを誤りのないよう導いてくださる方法のすべてであって、創造の際に、お示しになった愛の継続である。だから摂理は天主の御愛と御力と御知恵から成立する。すなわち、御愛はすべてのものにその目的、すなわち最上の完成を与え、御知恵はすべてのものがこの目的に達するために歩まなければならない道を定め、これに必要な手段を彼らのために選び、御力は彼らのおのおのを天主の目的を妨げるすべての危険から守り、何ものも抵抗することのできない力をもって、あらゆるものを目的にまで導くところのものである。
私たちは、自然界においても超自然界においても、万事について、またあらゆるできごとに際して、この全能なる摂理に頼らなければならない。私たちは自由をもつ被造物である。だが天主から独立することはできない。私たちは、私たちが望まなくても、摂理によって導かれ、支配される。だから、もしも私たちが、摂理に協力するなら、私たちは天主のお定めになった幸福な目的に進むことができて、どんな妨げも私たちを阻止しないし、どんな過失も私たちに重大な損害を与えることをしない。なぜなら摂理は私たちの敗北も勝利と変えるすべを知り、私たちの弱さをもって大事を成就することをわきまえ、死の中から生命をお造りになることもできるからである。
しかしながら、もしもこれに反して、摂理の御導きに抵抗するなら、第一にこの抵抗は罪である。もとより一時の間は、摂理はその知っておられる深い理由によって、私たちの抵抗をお許しになることもある。しかし私たちは抵抗しながらもやはり摂理の下にある。天主はそのみわざを行なわれるにあたって、なんぴとの助力も要されない。その時、私たちは、ちょうど苦しい軛(くびき)の下におかれた謀反の奴隷のようなもので、早くても遅くても、この地上においてか、または死後においてか、必ず天主の正義に裁かれ、その報いを受けなければならないのである。聖体のおおいの彼方に隠れておいでになる天主の摂理を礼拝しよう。
従順な道具のようにその御導きを尊び、躊躇しないでその御勧めに従おう。

感謝 天主が万物を創造されたときにもっておられた目的は、天主のご生命とその無限の完徳との幾分かを、ご自分以外のものに分け与えることであった。そして摂理は、前に述べてあるように、天主の愛と、ご好意とに基づいて、天主のこのご計画を実現し、それを完成するものである。『ああ父よ、万物を治むるものはなんじの摂理なり。』との勤勉で注意深い摂理の愛が、いかにうまく聖体の秘蹟のうちにあらわれていることであろう。子どもも老人も、尊い人も卑しい人も、万人みな聖体のご保護を受け、そのおかげを受けないものはひとりもない。聖体の住んでおいでになる聖櫃は、地球上のあらゆる場所にある天主の望樓である。天主はそこからすべての人々を眺め、彼らを守ってくださる。なお、聖体は天主が慈母のような心づかいをもって、敬虔な人々のために用意された食卓であることはいうまでもなく、もしも子どものひとりでも病の床に横たわっているなら、主はすぐにそのそばに来て彼を慰め、必要の際には永遠の国に旅立つための伴侶となってくださるのである。
ああ、もし私たちが、どれほど天主に見守られているかを知っていたなら、また、聖体の白いおおいの下から、戦いの世界に住んでいる私たちを、いかに注意深く、大いなる愛をもって、天主の摂理が守りたもうかを知っていたなら、私たちはどれほどの信頼を天主にもつことであろうか。

償い だから天主の摂理を公に否定する人々の罪悪はどれほど大きいことだろう。また、たとえこれを否定しなくて少しも摂理に依頼しないで暮らす人々は、なんという不幸な誤りの中にいることであろうか。天主の大いなるみわざを見ながら、これをなしとげられる全能のみ手を見ず、宇宙の中に存在する微妙な秩序を前にして天主の御知恵を拒み、または万事が天主の慈愛と寛仁とを示すにもかかわらず、天主の愛を知らないとは、なんという恐ろしい盲目であろうか。
けれども天主の摂理をあなどって、天主のみ前において人間の絶対的独立自由を主張する大胆な冒瀆者は決して少なくない。また世の中には、たくさんの無頓着者がいる。彼らは必要の中にあっても祈ることをしないで、また、助けが必要な時にも人間の手にこれを求めるばかりである。これらはみな摂理に対しての罪である。
これらの罪は、天主の摂理が聖体をそのお住まいとしてお定めになったことによっていっそう大きくなるのである。聖体の中には、私たちの救済に必要な一切が含まれ、生きた摂理がおいでになるから、必要において、また必要の程度に応じて、聖体を訪問しない者、聖体に祈らない者、聖体を礼拝しない者は、みな天主の摂理にそむく者である。これによって彼らの困難は、ますますその度を加え、彼らの力はますます衰えて、ついに飢饉のために倒れるであろう。しかも彼らの苦しみには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは愚かな誇りによって、天父の摂理が無尽蔵の愛をもってお与えになる食物と助力とを拒んだからである。
摂理に対するこのような罪が、どれほど多く行なわれているかということを考え、できるだけの熱心をもってこれに対する償いをしなければならない。

祈願 最善の償いは、あなたが天主の摂理の御導きのもとに生き、そのご計画を実現し、その教えられるあらゆる方法、お示しになるすべての道について、最も従順にこれに従い、どこでも、どんな事がらに関しても、これを認め、これを礼拝することを決心して、この決心を忠実に守ることである。

実行 毎日摂理を尊敬し、これに従うことを約束し、このために聖体拝領に際して、そのつど自分自身を新たに天主に捧げよう。





エコン神学校での司祭叙階式の生中継(日本時間の2020年6月29日午後4時00分)

2020年06月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

エコン神学校での司祭叙階式の生中継が、日本時間の2020年6月29日午後4時00分から始まります。









【聖体の黙想】聖体の礼拝は、いともたやすく最も楽しい祈りである

2020年06月26日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体礼拝の理由

聖体の礼拝は、いともたやすく最も楽しい祈りである

 礼拝 あなたに間近く、あなたの眼前においでになる祭壇上の主イエズス・キリストを礼拝しよう。あなたが努力をしないで、容易に楽しく祈らせようとして、あなたのそば近くにおいでになる慈愛にあふれる天主を礼拝しよう。
祈りは、私たちが聖徳に進んで確実に天国の幸福を得るために必要で欠くことのできないものである。しかし、もし天主がこの世においでになり、聖体の秘蹟によって私たちの目を見えるものとされなかったなら、私たちは信頼と愛と忍耐とをもって、ふさわしく祈ることは、かなり困難であったにちがいない。けれども幸いに、主は聖堂を祈りの家とされたから、そこにはいれば、私たちは主のここにおいでになることを感じて自然に祈ることができるのである。ことに祭壇に近づいて、聖櫃のみ前に出ると、私たちは、その中にとどまっておられる御者の気配を感じて、祈りをやめようとしても祈らなければならなくなる。
この祝福、この恩恵、自然にあふれ出るこの熱情は、いうまでもなくイエズスの賜物である。このためにこそ主は私たちに近づいて、私たちのために卑しい姿をおとりになった。もしこのことがなければ、自分の虚無と卑賤とをわきまえ知るなんぴとか、あえて至聖なる天主の御稜威のみ前に進み出ることができよう。
だから、あなたの祈りを聞き入れるために、あなたに近づかれたホスチアの中の愛すべき天主を礼拝しよう。
しかしながら主は、まだこれで十分と思われず、さらに天主と人間との仲介者として、また祈りの大司祭の資格をもって聖体の中にとどまられ、万人の名において祈り、万人のために天父の御怒りを和らげて罪の赦しをお願いになる。聖体が私たちの祈りをたやすくする第二の理由はこれである。私たちは罪によって、天主にふさわしくない反逆者となって、天主の怒りと憎しみと復讐とに価する者となった。刑罰を受けなければならない罪人だと知るとき、私たちは、どうして天主の祝福をあえて願うことができようか。しかし、イエズスは罪人のために祈り、御血とご受難の際の苦痛とを天父に捧げてくださる。だから私たちがこの全能なる仲介者の背後に隠れ、主の御功徳を利用して折るならば、私たちの罪悪を忘れて私たちの祈りを受け取ってくださるのである。
ああ愛すべき慈悲に富んだ聖なる秘蹟よ。私たちを天主の御もとに導いて、私たちのためにその御憐れみをたれたもう御者よ。私は心の底から御身に感謝し、御身を礼拝し、無限の信頼をもって御身に祈りたてまつる。

感謝 私たちは安心して、祝福と喜びとに満ちたこの秘蹟を賛美しよう。この秘蹟によって、私たちは地上のどこにも、またどんな日にも、慈悲と柔和の限りない救い主をもっている。主は恵みを施し、私たちを癒し、救い、慰め、照らし、赦すためにのみ、私たちのもとに来たもうた。
その昔、ユダとガリレアとの地で、病人、不具者、その他ありとあらゆる不幸な人々が、主に従い、主に願って、必ずその求める賜物を得ることができたように、私たちもまた主をもち、主に願うことができる。
主の清い御まなこは、悲しみのうちにある者らの上にいつも同情深く注がれ、主の御耳は、罪人の叫びを聞き、主の聖心は、彼らに対する憐れみに鼓動した。その同じ主を私たちは今、所有している。
主は一度も祈りを拒むことがおできにならなかった。主は自ら自分が医者であり、よきサマリア人であり、友であり、幼児の父であるとおっしゃった。その同じ主を今、所有しているのである。
その昔、ユデアの国を巡られたように、主は今日、聖体の中に隠れて、荒涼とした地上にさすらいの旅を重ね、恵みと情けとの聖役を続けられている。
主は私たちの間に実在を続け、(ちょうど私たちにとって最も有利な状態のもとに)私たちの祈りを促される。これについて、私たちはどれほど主に感謝しなければならないだろうか。主のホスチアは、どこにあっても『われに来たれ、われなんじを慰めん、そはわれは心柔和にして謙遜なればなり』と言っておいでになるのである。

償い イエズス・キリストが、聖体の秘蹟によって祈りをこのようにたやすくしてくださった以上、私たちが主に祈らず、必要に際して主の御助けを願わず、主を少しも信頼しなかったなら、それが主にとってどれほどの苦痛であり、辱めであるか、あらためて説く必要もない。
恩を知らないエルサレムは、主を信じようとせず生命の御言葉を聞こうとも思わない。せっかく主がもたらされた救いをも受けなかった。主はこれを見て、いかに激しくお悲しみになったことか。今では、主が地球上のすべての地点においでになるにもかかわらず、人々は歓楽を追い、黄金を求めて主を忘れ、主にそむいているのである。あなたはこの聖体の中から『われ終日慈悲のかいなを伸ばせども、わが民はわれにそむき、われを受け入るることを拒めり』との御嘆きの声の聞こえるのに気がつかないのか。
主は使徒たちに『求めよ。わが名によりて祈れ。今までなんじらはわが名によりて求むること知らざりしも、求めよ、さらば与えられん』と仰せになった。これは主がすべての人々に対して仰せになったお叱りの言葉である。主の友と自称する私たちもまた、十分な信頼をもって主に祈ろうとせず、主の御力と、愛と、私たちに恵んでくださろうとする主のお望みとを信じようとしない。
ああ、聖体の秘蹟によって、私たちのために祈りをかくもやさしくしてくださった救い主なる天主に、もっと多く信頼し、もっとたびたび祈り、これによって必要な償いをしよう。

祈願 深い信頼の念をもって、祈りの恩恵を熱心に願おう。私たちが祈りの大切なことを悟り、祈りの中に、まことの平和と幸福とを発見できるのも、全く天主の恩恵によるからである。
旧約時代において、天主は預言者に『彼らの上に祈りの霊を注がん』と仰せになった。この祈禱の霊は、おもにイエズスの永遠の祈り、秘蹟なる聖体によって与えられる。私たちが聖櫃の前に出るとき、特に顕示された聖体のみ前にひれ伏すとき、私たちは自然に神聖で甘美な感情に満たされ、それが私たちを自然に出る祈りへと導く。また聖体拝領の時に、私たちの心は自然にイエズスを思い、イエズスと一致して、主は私たちの中でお祈りになり、私たちはまた主において祈るようになる。これらはすべて祈りのあらわれである。
だから、私たちは毎日聖体を訪問し、できるなら毎日聖体を拝領し、そこで他の一切にまさる賜物、すなわち信頼と愛とをもって祈禱する恩恵を請い受けなければならない。

実行 よく祈るために、たびたび聖体のみ前に出ることを決心しよう。










【参考資料】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の現代のカトリック教会における混乱と逸脱の原因に関する考察(2020年6月8日付)

2020年06月25日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)は、2020年6月9日付けで、第二バチカン公会議を冷静に見直す文章を発表しました。原文はイタリア語で、英語にも翻訳されています。ここでは、英語から日本語に訳しましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


ヴィガノ大司教の訴えの要点は、次の通りです。

*シュナイダー司教は、今日まで急進的に進んできた教理的、道徳的、典礼的、規律的逸脱の原因は、第二バチカン公会議によって宣言されあるいは暗示された諸原理にあり、第二バチカン公会議の論理的結果として起こっている、と因果関係を正しく指摘している。

*"継続の解釈学"の名の下に公会議の様々な行き過ぎを正そうとすることはむなしい努力だ。第二バチカン公会議は、カトリック教会の教えと断絶していることがますます明らかになってきている。

*カトリック教会とは別の、平行の教会ができつつある。人々は奈落の底へとまっしぐらに突き進んでいるが、それに気づいている人はほとんどいない。

*ほとんどの人々が、現在の危機の根本的原因を知ろうとせず、あたかもこの危機が第二バチカン公会議で組織的に準備された計画の論理的で不可避の結果ではないかのように、現在の行き過ぎを嘆くことしかしていない。

*しかし、第二バチカン公会議は、教義からの最も常軌を逸した逸脱や、最も大胆な典礼の革新や、最も無節操な濫用を正当化するために使われてきたが、その間も最高権威は沈黙を守ったままだった。

*第二バチカン公会議は、それだけが唯一正当な基準として提示され、教会が常に権威をもって教えてきた聖伝の教理を軽侮したり、千年以上にわたって信者、殉教者、聖人たちを生み出してきた聖伝の典礼を禁止した。第二バチカン公会議は過去と断絶している。

*第二バチカン公会議は、それ以前の教導権に関する非常に多くの解釈上の問題と多くの矛盾を引き起こした唯一の公会議となった。第二バチカン公会議は過去と矛盾している。

*教会の民主主義化。職位的司祭職の廃止。汎エキュメニズムへの静かな移行。宗教的相対主義を前提とし、宣教を排除する宗教間対話。教皇職の非神話化。政治的に正しい様々な流行のイデオロギーの急進的な正当化。これらの混乱の根源は、第二バチカン公会議による原理にある。

*私たちは、善意のうちに、誤りに導かれてきた、と認めなければならない。

*離教を引き起こすことを恐れるがゆえの沈黙、意図的な曖昧さを直すために教皇文書をカトリック的意味に修復する努力、フランシスコ教皇に提出された後明らかに返答されない訴えやドゥビア、これらすべてが、教会位階の最上位である教皇さえもが今晒されている最も深刻な背教の状況にあることを再確認している。キリストの民と聖職者たちは絶望的に見捨てられ、自分たちが司教たちによってほとんど頭痛の種とみなされていると感じている。

では、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)の文章を、参考資料として、以下に掲載します。


2020年6月9日 シリアの聖エフレムの祝日に

「宗教の多様性には天主の肯定的意志も自然の権利もない」とのタイトルで、6月1日に米ニュースサイトの「LifeSiteNews」に掲載され、続いてイタリアのブログ「Chiesa e post concilio」【教会と公会議後】によってイタリア語に翻訳されたアタナシウス・シュナイダー司教の論説を、私は大きな関心をもって読みました。シュナイダー司教の研究は、キリストに従って話す人々の言葉の特徴である明確さをもってまとめているのは、聖書の証言と聖伝の声、それとこの両者の忠実なる守護者であるカトリック教導権に矛盾して、第二バチカン公会議が理論化した宗教的自由の執行に正当性があるとする主張に対する反論です。

シュナイダー司教の論説の功績は、何よりも、第二バチカン公会議によって宣言されあるいは暗示された諸原則と、それらの諸原則の論理的結果として起こり、そして今日まで急進的に進んできた教理的、道徳的、典礼的、規律的逸脱との間に因果関係を認めるところにあります。近代主義者のサークル内で生まれたこの怪物(monstrum)は、当初は人を惑わせかねないようなものにすぎませんでしたが、しかしその後それは成長して強くなり、今日ではその破壊活動的で反抗的な性質という本性を現すようになりました。その時代に生み出された生物は常に同じものなのですから、その倒錯した本性が変わるかもしれないと考えるのは甘すぎるでしょう。"継続の解釈学"の名の下に公会議の様々な行き過ぎを正そうとする試みは、不成功に終わりました。Naturam expellas furca, tamen usque recurret[熊手で自然を追い払っても、自然はすぐに戻ってくる](ホラティウス、書簡詩第1巻、10、24)。アブダビ宣言と、シュナイダー司教が正しく観察するように、アッシジのパンテオン【諸宗教の集まり】におけるその最初の兆候とは、ベルゴリオ【フランシスコ教皇】が誇らしげに認めるように、「第二バチカン公会議の精神によって生まれた」ものです。

この「公会議の精神」こそが、自分たちを批判する者たちに対抗する際に革新主義者たちが使う自らの正当性の許可証のようなものなのですが、この精神そのものが、今日の諸宣言が誤っていることを確認するばかりか、それらの諸宣言を正当化するものとされている基盤が異端的なものであることをも証明する、まさにこの系譜を自認していることに彼らは気付いていません。さらに詳しく見れば、教会の歴史において、一つの公会議が他のどの公会議とも異なるような歴史的出来事であると自称したことは決してありませんでした。「ニケーア公会議の精神」や「フェラーラ・フィレンツェ公会議の精神」についての話というものがあったことはありませんし、「トリエント公会議の精神」の話などというものはいささかもありませんでした。第四ラテラノ公会議や第一バチカン公会議の後に「公会議後の」時代というものが決してなかったのも同じことです。

その理由は明白です。それらの公会議はすべて、例外なく、聖にして母なる教会の声との一致を、そしてまさにこの理由から、私たちの主イエズス・キリストの声との一致を、表現したものだったからです。重要なことは、第二バチカン公会議の新奇性を支持する人々が、あたかも聖三位一体の天主の位格の間に矛盾があり得るかのように、旧約の天主を新約の天主と対立させる異端的な教理を信奉しているということです。明らかに、ほとんどグノーシス的またはカバラ的なこの対立が、カトリック教会とは自発的に異なり、そしてそれに対立する新しい主題の正当化につながっています。教理上の様々な誤謬は、ほとんどいつも聖三位一体に関する異端を含んでいるものですから、聖三位一体の教義に反する誤った教理を打ち負かすためには、聖三位一体の教義の宣言に立ち戻ることが必要です。ut in confessione veræ sempiternæque deitatis, et in Personis proprietas, et in essentia unitas, et majestate adoretur æqualitas. こうして、われらは、まことの永遠の天主をたたえ、その神性において、位格の区別と、本性の唯一性と、天主の御稜威の平等性を讃美し奉る【聖三位一体の序誦】。

シュナイダー司教は、たとえばユダヤ教徒を衣服で区別する義務や、キリスト教徒がイスラム教徒やユダヤ教徒の主人に仕えることの禁止など、彼の見解では今日受け入れるのが難しいような諸公会議によるいくつかの宣言を引用します。これらの例の中には、フィレンツェ公会議によって宣言された「traditio instrumentorum(トラディチオ・インストゥルメントールム)」【訳注1】という【司祭叙階のための】必要条件もありますが、これは後にピオ十二世の使徒的憲章「Sacramentum Ordinis(サクラメントゥム・オルディニス))【訳注2】によって修正されたものです。シュナイダー司教は、第二バチカン公会議によって「なされた誤謬のある声明を、将来の教皇または公会議が訂正することを正しく希望し、信じてよいだろう」と述べています。これは最善の意図をもって作られた理論でしょうが、カトリックという大建築物をその土台から倒してしまうものであるように、私には思われます。もし実際、感性の変化により、時間の経過に伴って廃止、変更、または異なる解釈が可能であるような教導権による行為があるかもしれないことを私たちが認めるならば、私たちは必然的に教令「Lamentabili(ラメンタビリ)」【訳注3】による排斥の対象になってしまい、最近、まさにその同じ誤った仮定に基づいて、死刑は「福音に従っていない」と宣言し、そのため『カトリック教会のカテキズム』を修正した人々への正当化理由を提供することになってしまうことでしょう。また、その同じ原理に基づけば、ちょうどシュナイダー司教が「Dignitatis Humanae(ディニターティス・フマネ)」【訳注4】が将来何らかの形で修正されることを希望しているように、回勅「Quanta Cura(クアンタ・クーラ)」【訳注5】における福者ピオ九世の言葉が第二バチカン公会議によって何らかの形で修正されたという説を、ある意味では主張できることになってしまいます。シュナイダー司教が提示する例の中には、それ自体が重大な誤謬や異端であるものはありません。フィレンツェ公会議が「トラディチオ・インストゥルメントールム」が叙階の有効性に必要であると宣言したという事実が、教会における司祭の役務を妨げたことはいささかもありませんでしたし、その結果として教会が無効な品級を与えたようなこともありませんでした。私が思うには、この側面がいかに重要であったとしても、それによって、直近の公会議でおいてのみ起こったように、信者の側の教義上の誤謬につながったと主張することはできません。また歴史の過程でさまざまな異端説が広まったとき、たとえば1786年のピストイアの司教会議(シノドス)【訳注6】の時に起こったように、教会はいつもすぐ介入して、それらの異端説を排斥しました。特にこのピストイアの司教会議が、ミサ以外での聖体拝領を廃止し、俗語を導入し、典文の祈りをsubmissa voce[低い声]で唱えることを廃止するばかりか、さらには司教団体主義の原則を理論化し、教皇の首位権を単なる役務的機能に格下げしたことを見れば、この司教会議は第二バチカン公会議をある意味で予期していたものだったのです。この司教会議の教令を読み返すと、ヨハネ二十三世とパウロ六世が主宰する公会議において、その[ピストイアと]同じ誤謬が、さらに膨れ上がった形で、文字通り定式化されたことに驚かされます。一方、まさに真理が天主から来るように、誤謬は敵【悪魔】によって養われ、また敵を養うものです。この敵は、キリストの教会とその心、すなわち聖なるミサといとも聖なるご聖体を憎んでいるのです。

【訳注1】「トラディチオ・インストゥルメントールム」(traditio instrumentorum=聖具の伝達):1439年、フィレンツェ公会議が司祭叙階の秘蹟の必要条件の一つ(質料)と教えたカリスとパテナの授与のこと。ただしフィレンツェ公会議は、この教えを不可謬権を行使して宣言したのではなかった。実際のところ、叙階の質料は聖具の伝達であるとするこの教義は、普遍教会の常なる典礼の教義と実践とに対応していなかった。
【訳注2】「サクラメントゥム・オルディニス」(Sacramentum Ordinis=叙階の秘蹟):教皇ピオ十二世の使徒憲章(1947年)。ピオ十二世は、不可謬権を行使して、司祭叙階など聖職者の品級の秘蹟を有効に授与するのに必要な形相と質料とを明らかにし、司祭叙階のために必要な質料は司教の按手であると宣言した。
【訳注3】「ラメンタビリ」(Lamentabili=嘆かわしい):聖ピオ十世時代の検邪聖省教令(1907年)。近代主義者の命題を排斥。
【訳注4】「ディニターティス・フマネ」(Dignitatis Humanae=人間の尊厳):第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(1965年)。
【訳注5】「クアンタ・クーラ」(Quanta Cura=注意深く):教皇ピオ九世の回勅(1864年)。近代主義に関する誤謬表(シラブス)つき。
【訳注6】「ピストイアの司教会議」:イタリアのピストイアで開かれた司教会議(シノドス)。トリエント公会議が信仰箇条として決定した聖体の「全実体変化」という言葉を使用しないなど、あいまいな表現で異端をほのめかした。


私たちの人生の中で、御摂理の思し召しによって、私たちが教会の将来と私たち自身の永遠の救いのための決定的な選択に直面するときがやって来ます。私がいま話しているのは、大抵悪意のないまま私たちのほとんど全てが陥っている誤謬を理解することか、あるいはそこから顔をそむけたり自分自身を正当化したりし続けることを望むのか、ということです。

また私たちが犯してきた間違いのひとつは、私たちの対話の相手を、 考えや信仰の違いがあるにせよ、やはり善意の動機を持ち、私たちの信仰に対して心を開くことができるならば、彼らは自分たちの誤謬を進んで正す人々だと見なしてきたことです。数多くの公会議の教父たちとともに、私たちは、エキュメニズムが、反対派たちをキリストの唯一の教会に、偶像崇拝者や異教徒たちを唯一のまことの天主に、そしてユダヤ教徒たちを約束のメシアに呼び寄せる過程、招きだと考えました。しかし、それが公会議の委員会で理論化された瞬間から、エキュメニズムはそれまで教導権によって示された教理に直接反するような形に設定されてしまったのです。

私たちは、一定の行き過ぎは、新奇性への熱狂に駆り立てられてしまった人々の誇張にすぎないと考えてきました。ヨハネ・パウロ二世が、魔術師・信仰治療師、仏教の僧侶、イマーム【イスラム教の指導者】、ラビ【ユダヤ教の指導者】、プロテスタントの牧師、その他の異端者たちに囲まれているのを見たとき、天主に平和を求めるために人々を一箇所に招集する教会の能力が証明されたと、私たちは純粋に信じました。しかし一方で、この行為が権威ある模範となり、それを端緒に多かれ少なかれ公式なものとしてパンテオン【諸宗教の集まり】が、常軌を逸したように継続して行われるようになってしまいました。ついには、聖なる母性の代表であるという口実の下に、冒涜的に隠されたパチャママ【南米アンデス地域の地母神の像。2019年のアマゾン・シノドス期間中にバチカンの庭でこれを礼拝する儀式が行われた】の不浄な偶像を司教達が背負うのが見られる段階にまで至ったのです。

しかし、この地獄の神の像が聖ペトロ大聖堂に入ることができたのは、反対勢力が最初から予見していたクレッシェンド【次第に強くなること】の一部です。今日、教会に通うカトリック教徒の多数、そしておそらくカトリック聖職者の過半数も、永遠の救いにカトリック信仰はもはや必要ではないと確信しています。彼らは、私たちの先祖に啓示された三位一体の天主はモハメッドの神と同じであると信じているのです【ここここ】。すでに20年前、いくつもの説教壇や司教座からこのようなことが繰り返し述べられていると私たちは聞いていましたが、最近では、最高の教導の座からも、これが強調され、確認されていると聞きます。

進歩主義者たちや近代主義者たちは、聖書の言葉 Littera enim occidit, spiritus autem vivificat[文字は殺し、霊は生かす(コリント後書3章6節)]を口実に、公会議の本文中に曖昧な表現を隠しておく方法を抜け目なく知っていたということを、私たちはよく分かっています。このような曖昧な表現は、当時ほとんどの人には無害に見えたのですが、今日ではその破壊活動的な価値が明らかになっています。それは、subsistit in【~に存する】という語句の使用において用いられた方法です。対話の相手方を怒らせないため(天主の被造物である人間を敬うために天主の真理について沈黙するのが正当であると仮定して)半分の真理を表明するというよりも、むしろ、もしも真理の全体が宣言されたならば即座に一掃されるであろう半分の誤謬を使うことができるようにするという意図を持って行われたのです。従って、「Ecclesia Christi subsistit in Ecclesia Catholica【キリストの教会はカトリック教会に存する】」という表現は、この二者のアイデンティティー【同一性】を特定せず、かわりに一方の本質が他方に存すること、そしてまた意味の一貫性を保つために、その他の諸教会にも存するということを示しているのです。【訳注】これが、諸教会合同の儀式やエキュメニカルな祈りへの道を開き、そしてその帰結として、救いの経綸、教会の唯一性、教会の宣教的本質におけるカトリック教会の必要性に終わりが告げられることになるのです。

【訳注】カトリック教会は、常に「キリストの建てた教会とはカトリック教会のことである」、つまり、キリストの教会=カトリック教会である、とイコールの関係であることを教えてきた。Ecclesia Christi est Ecclesia Catholica である。しかし第二バチカン公会議は、この両者が同じであるとはいわずに、Ecclesia Christi subsistit in Ecclesia Catholica つまり「キリストの教会はカトリック教会に存する」という表現を使った。

最初のエキュメニカルな集会が東方の離教者たちと、また非常に慎重に、他のプロテスタント各派と開かれたことを覚えている方々もおられるでしょう。ドイツ、オランダ、スイスは別として、当初、カトリックの伝統のある諸国は、プロテスタントの牧師とカトリックの司祭が共に行う混宗儀式を歓迎しませんでした。私が思い出すのは、当時、フィリオクエ(Filioque)を受け入れない正教会の気分を害さないように、ヴェニ・クレアトール(Veni Creator)の最後から2番目の栄唱を削除する話があったことです。今日、私たちは私たちの教会の説教台からコーランのスーラ【章】が唱えられるのを聞き、木の偶像が修道士や修道女によって崇拝されるのを見て【訳注:2019年10月にローマで行われたパチャママの偶像崇拝を暗示】、ほんの昨日まで非常に多くの過激主義の一番もっともらしい言い訳であるように思われたものさえ、司教たちが否定するのを聞きます。【訳注:教会に氾濫している過激な行動を今までは「乱用」「誤解」であると言い訳していたが、もはや司教たちは言い訳ではない、第二バチカン公会議の正しい解釈であると説明していること。】フリーメーソンとその地獄的な触手による扇動により、この世が望んでいるのは、人道的でエキュメニカルで、私たちが礼拝する妬みの天主が追放された、一つの普遍的宗教をつくり出すことです。

そして、もしこれがこの世の望んでいることであるならば、教会による同じ方向へのいかなる一歩も不幸な選択となりますが、やがて、自分たちは天主を嘲ることができると信じている人々へのしっぺ返しとなることでしょう。カトリック教会を廃止して、環境主義と普遍的な友愛関係によって結ばれた偶像崇拝者たちや異端者たちの連合をもって置き換えることを目標とした世界主義的計画によって、バベルの塔の希望をよみがえらせることはできません。キリストにおける以外の友愛関係は存在し得ず、友愛関係はキリストにおいてのみ存在し得るのです。qui non est mecum, contra me est.【私の味方でない人は、私に背く(マテオ12章30節)】

当惑させられるのは、奈落の底へと向かうこのレースに気づいている人がほとんどいないということ、そしてまた、あたかも教会の指導者たちが、提携する思想の流行の中に自分たちの居場所や役割を確保したがっているかのように、これらの反キリスト教イデオロギーを支持していることについて、教会の最高位の者たちにその責任があることに気づいている人がほとんどいないということです。また、驚かされるのは、人々が現在の危機の根本的原因を調査したがらず、あたかもこの危機が数十年前に組織的に準備された計画の論理的で不可避の結果ではないかのように、現在の行き過ぎを嘆くことしかしないことです。

パチャママが教会で礼拝され得るのは、第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」が原因です。私たちが、プロテスタント化され、時には異教化さえされた典礼を持っているのは、モンシニョール・アンニバレ・ブニーニの革命的な行為と公会議後の改革が原因です。アブダビ宣言が署名されたのは、「Nostra Aetate(ノストラ・エターテ)」【訳注7】が原因です。司教協議会に決定を委任するまでに至ったのは、———イタリアでそれが起こったのはコンコルダート【政協条約】の重大な違反でさえありましたが、————それは司教団体主義【ここ】とその最新版であるシノドス主義【司教会議主義 ここ】が原因です。司教会議主義のおかげで、「Amoris Laetitia(アモーリス・レティチア)」【訳注8】の登場とともに 、私たちはそのうち起こるのが誰の目にも明らかなことが起こるのを防ぐ方法を探さなければならないことになりました。それはつまり、驚くべき幹部組織によって準備され、離婚して【新しい相手と】同居している人々への聖体拝領を正当化することを意図していたのです。【ここここ】それはまた、ちょうど「Querida Amazonia(ケリーダ・アマゾニア)」【訳注9】が、(フライブルクの「女性司教代理」という最近の事例のように)女性司祭を合法化し、聖なる独身性の廃止を合法化するために使われようとしているのと全く同じです。フランシスコ教皇にDubia(ドゥビア)【訳注10】を送った高位聖職者たちは、この同じ敬虔な純真さを示していた、と私は思います。つまり、フランシスコ教皇が、その誤謬について合理的に議論された反論に直面すれば、異端であるポイントを理解して訂正し、赦しを求めるだろうと考えたのです。

【訳注7】「ノストラ・エターテ」(Nostra Aetate=我らの時代に):第二バチカン公会議の「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(1965年)。他の宗教に対して開かれた態度を推奨した。
【訳注8】「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia=愛のよろこび):2014年から2015年にかけて開かれた家庭に関するシノドスを受けて発表された教皇フランシスコの使徒的勧告(2016年)。離婚して民法上の再婚をした男女でも聖体拝領にあずかる可能性について述べている。
【訳注9】「ケリーダ・アマゾニア」(Querida Amazonia=愛するアマゾン):2019年に開かれたアマゾン周辺地域のための特別シノドスを受けて発表された教皇フランシスコの使徒的勧告(2019年)。シノドスで提言された既婚男性の司祭職や、同じく検討を求められた女性の終身助祭の可能性に直接は触れていないものの、含みを残した。
【訳注10】「ドゥビア」(Dubia=疑問):アモーリス・レティチアに対する抗議として4人の枢機卿が連名で教皇フランシスコに提出し(2016年)、返事がないため公開した書簡。


公会議は、教義からの最も常軌を逸した逸脱や、最も大胆な典礼の革新や、最も無節操な濫用を正当化するために使われていましたが、その間も最高権威は沈黙を守ったままでした。この公会議は余りにも褒めそやされていたため、カトリック教徒、聖職者、司教たちにとっての唯一正当な基準として提示され、教会が常に権威をもって教えてきた教理を軽侮して隠したり、別の意味にしたりしたほか、また千年以上にわたって信者、殉教者、聖人たちの途切れることのない信仰を育ててきた長年の典礼を禁止したのでした。とりわけこの公会議は、それ以前の教導権に関する非常に多くの解釈上の問題と多くの矛盾を引き起こした唯一の公会議となりました。一方、エルザレム公会議から第一バチカン公会議に至るまで、全教導権と完全に調和しなかったり、あるいはこれほど多くの解釈を必要としたりする公会議は他には一つも存在しないのです。

私は、冷静に、かつ論議を求めることなく、ここに告白します。私は、多くの困惑と恐れにもかかわらず --- この困惑と恐れにちては、今では完全に正当だったことが明らかですが ---、無条件の従順をもって教会の位階の権威を信頼した多くの人々の一人でした。事実、私を含む多くの人々は、「位階の命令への従順」と「教会自身への忠実」との間に矛盾が起こり得るなどという可能性を、当初は考えていなかったと思います。実際に、位階と教会との間の、従順と忠実と間の、この不自然な、あえて言うならば邪悪な分離をより明白にしたのが、間違いなくこの最近の教皇職のもとでした。

システィーナ礼拝堂に隣接する「涙の部屋」で、モンシニョール・グイド・マリーニは「新しく選出された」教皇【フランシスコ】の初登場のために白いロシェトゥム、モゼッタ、およびストラを準備していましたが、ベルゴリオは、「Sono finite le carnevalate! [カーニバルは終わった!]」と宣言して、それまですべての教皇がキリストの代理者であることを示す衣装として謙虚に受け入れていたしるしを軽蔑して拒否しました。しかしその言葉は、たとえそれが無意識に発せられたものだとしても、真実を含んでいました。2013年3月13日、共謀者たちから覆面が落ちました。彼らはベネディクト十六世という不都合な存在からついに自由になり、自分たちの理想、すなわち教会に革命を起こし、教理をしなやかなものとし、道徳を融通のきくものとし、典礼を粗悪なものとし、規律を任意のものとするという自分たちのやり方を具現化した一人の枢機卿を昇進させることについに成功したことを、臆面もなく誇ったのです。そして、このすべてのことを、陰謀の首謀者たち自身は、それまでベネディクト十六世によって示された批判によって弱体化されてきたと彼らが思っていた、第二バチカン公会議の論理的帰結かつ明白な適用だと考えました。彼らにとって、そのベネディクト十六世教皇のなした最大の侮辱は、敬われるべきトリエント典礼の挙行を寛大に許可し、ついにその正当性を認め、50年に及ぶ排斥が非合法であったことを明確にしたことでした。ベルゴリオの支持者たちは、公会議を新しい教会の最初の出来事と見なし、その前には古い典礼を持つ古い宗教があったと考える人々と同じ人々なのです。

これは偶然ではありません。これらの男たちが臆面もなく断言し、穏健派をつまずかせていることは、カトリック教徒自身も信じていることです。それは、継続の解釈学のあらゆる努力が現代の危機の現実に一度遭遇しただけで惨めにも沈没してしまった一方、第二バチカン公会議以降、キリストのまことの教会の上に、それに真っ向から反対する並行の教会が建てられたことは否定できない、ということです。この並行の教会は、私たちの主によって創立された天主の制度を徐々に覆い隠しましたが、その目的は、フリーメーソンによって最初に理論化された、望ましい普遍的宗教に対応する、偽造の存在に置き換えることでした。

新しいヒューマニズム、普遍的友愛、人間の尊厳などの表現は、まことの天主を否定する慈善的な博愛主義、あやしげな心霊主義的霊感による水平主義的連帯、教会が明白に排斥するエキュメニカルな平和主義などの合言葉なのです。「Nam et loquela tua manifestum te facit[なぜなら、あなたの話しぶりがあなたを明らかにする=あなたの方言で分かる]」(マテオ26章73節)。敵の同じ語彙を、これほど非常に頻繁に、更には執拗なほど頼りにするのは、敵が霊感を与えているイデオロギーへの忠誠を表すものです。一方、教会の使う明確で、疑いの余地のない、クリアな言語を体系的に放棄するということは、カトリックの形からだけでなく、カトリックの実体からも離れる望みであることを証明しているのです。

何年にもわたって最高の教導の座から、漠然と、明確な含意なしに発せられていたことを、現在の教皇の支持者による本当の、正確なマニフェスト【宣言】において詳しく説明されていることに私たちは気付きます。それらは次のようなものです。もはや第二バチカン公会議によって発明された司教団体主義によるのではなく、家庭に関する司教会議【シノドス】によって始められたシノドスの道による教会の民主主義化。教会の聖職者の独身制に例外を設けて弱体化し、また司祭に類似した義務を持つ女性の役職を導入することによる職位的司祭職の廃止。離れた兄弟たちに向けられたエキュメニズムから、三位一体の天主の真理を偶像や最も地獄的な迷信のレベルにまで貶める一種の汎エキュメニズムへの静かな移行。宗教的相対主義を前提とし、宣教的な信仰宣言を排除する宗教間対話の承認。ベルゴリオが自身の教皇職のテーマのひとつとして追求する教皇職の非神話化。政治的に正しい[politically correct]ものすべて、すなわちジェンダー理論、同性愛、同性婚、マルサス主義の学説【人口抑制策を説く】、ecologism【エコロジズム=生物と環境の相互作用を扱う学問の生態学をイデオロギー化したもの】、immigrationism【イミグレーショニズム=移民に好意的なイデオロギー】などの急進的な正当化。これらの逸脱の根源が、公会議によって定められた原則にあることを認識しなければ、治療法を見つけることは不可能です。もし私たちの診断が、あらゆる証拠があるにもかかわらず最初の病理を除外するものであれば、適切な治療法を作成することはできません。

知的に正直であるというこの作業のためには、大いなる謙虚さが欠かせません。何十年もの間、権威の地位にいながらもどうやってキリストの群れを見守り保護するかを知らなかった人々によって、私たちは善意のうちに誤りに導かれてきた、ということをまず認めることです。そのような権威者たちのうち、ある人は静かに暮らすため、ある者はしなければならない義務が多すぎるため、あるいは自分の都合のため、そして最後に、ある人は不誠実や更には悪意によって、そのようにしてきたのです。この最後に挙げた教会を裏切ってきた者たちについては、彼らが誰であるかを明らかにして、職務から外し、行いを改めるよう求め、もし悔い改めないならば、聖なる囲い【カトリック教会】の外に追放しなければなりません。これが、羊の幸せを心に留め、羊に自分の命を与えるまことの牧者が行動すべきことです。過去には、そして今もまだ、キリストの浄配【カトリック教会】への忠実よりもキリストの敵どもの同意を重要だとするあまりに多くの雇い人の牧者らがいるのです。

60年前、教会の愛のある声を代表していると信じて、疑わしい命令に正直に、そして冷静に従ったのとちょうど同じように、今日、同じ冷静さと正直さをもって、私はだまされてきたことを認めます。誤謬のうちに耐え忍ぶことによって今日も首尾一貫しているというのは、惨めな選択であり、そうすれば私はこの詐欺の共犯者ということになるでしょう。最初から判断は明快であったと主張するのは正直ではありません。私たちは皆、公会議が多かれ少なかれ一つの革命であることを知ってはいましたが、公会議が、このようなことを防ぐべきであった人たちの努力にもかかわらず、これほど破壊的なものになってしまうとは想像すらできませんでした。そして、ベネディクト十六世の時までは、第二バチカン公会議というクーデター(これをスーネンス枢機卿は「教会の1789年(フランス革命)」と呼びました)が減速してきたと想像することもできましたが、ここ数年で、私たちの中で最も純朴な人々でさえ理解していることは、離教を引き起こすことを恐れるがゆえの沈黙、意図的な曖昧さを直すために教皇文書をカトリック的意味に修復する努力、フランシスコ教皇に提出された後明らかに返答されない訴えやドゥビア、これらすべてが、教会位階の最上位が今晒されている最も深刻な背教の状況の再確認であるということです。その間も、キリストの民と聖職者たちは絶望的に見捨てられ、自分たちが司教たちによってほとんど頭痛の種とみなされていると感じているのです。

アブダビ宣言は諸宗教間の平和と協力という思想のイデオロギー的宣言であり、それがもし信仰の光と愛徳の火を持たない異教徒たちから来たのであれば、許容される可能性もあるでしょう。しかし、聖なる洗礼のおかげで天主の子という恩寵を持っている人なら誰であれ、選ばれた民になされた約束の世継ぎであるキリストの唯一まことの教会を、メシアを否定し三位一体の天主という考えそれ自体を冒涜的だとみなす人々と一緒に一つにまとめようとするために、冒涜的な現代版のバベルの塔を構築することができるという考えに恐れおののくはずです。

天主の愛は限りなく、妥協を許しません。そうでなければそれは愛徳ではありませんし、この愛徳なしでは天主に留まることはできません。qui manet in caritate, in Deo manet, et Deus in eo[愛をもつ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまる](ヨハネ第一4章16節)。それが宣言であろうと教導権文書であろうと、ほとんど問題ではありません。革新主義者たちがその破壊活動的な精神で、誤謬を広めるためにこの種の屁理屈を使うことは私たちがよく知っています。また、これらのエキュメニカルで諸宗教間のイニシアチブの目的が、唯一の教会から遠く離れている人々をキリストに改宗させることではなく、今もカトリック信仰を持っている人々を惑わせて堕落させ、三つの偉大なるアブラハムの宗教を「一つの家に」結集させるという偉大なる普遍的宗教を持つのが望ましいと信じ込ませることだということも、私たちはよく知っています。それは、反キリストの王国の準備をするフリーメーソンの計画の勝利です! これが、ある教義的教令、一つの宣言、あるいはイタリアの日刊紙「ラ・レプブリカ」でのスカルファリ氏【訳注:無神論で有名なジャーナリスト】とのインタビューを通じて具体化するのかは、ほとんど問題ではありません。なぜなら、ベルゴリオの支持者たちは、すでに時間をかけて準備し、組織している一連のイニシアチブをもって自分たちが答えるシグナルとして、彼の言葉を待っているからです。そして受け取った指示にベルゴリオが従わなければ、複数の神学者たちや聖職者たちが、彼の辞任の根拠として、「教皇フランシスコの孤独」を嘆く準備ができています(例えばマッシモ・ファッジョリの最近のエッセイの一つが思い浮かびます)。一方、教皇が彼らの計画に従う限り教皇を使い、教皇がそうしないとすぐに彼を取り除くか攻撃する、というのは初めてではないでしょう。

この前の主日、教会はいとも聖なる三位一体の主日を祝いました。そして聖務日課では、教会はアタナシウス信経の朗読を定めています。この信経は、今や公会議後の典礼によって非合法化されていますが、1962年の典礼改革においても、すでに年に2回のみに減らされていました。この今は姿を消した信経の最初の言葉は、今でも金文字で記されています。「Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est ut teneat Catholicam fidem; quam nisi quisque integram inviolatamque servaverit, absque dubio in aeternum peribit ― 救われんと欲するものは、誰といえども、まづカトリック信仰を擁せねばならぬ。この信仰を完璧に且つ欠くことなく守りし者でなくんば、誰といえど、疑うことなく永遠に滅びるべし」。

+カルロ・マリア・ヴィガノ
ジュゼッペ・ペレグリモ英訳

【参考資料】
ここには別の日本訳もあります。

イエズス様は良き牧者、百匹の羊の内のたった一頭が、子羊が失われた、それを探しに行く牧者。これはまさに、イエズス様の聖心の祝日の続きです。

2020年06月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2020年6月21日(主日)聖霊降臨後第3主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教の書き起こしを御紹介いたします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2020年6月21日、聖霊降臨後第3主日のミサをしています。

3つほどお知らせがあります。

来週も、いつもの時間でミサがあります。金曜日の夕方18時から、土曜日の午前中の10時半から、そして主日の夕方の18時、そして月曜日の朝の6時半にあります。いらして下さい。

第2のお知らせは、7月24日、体育の日スポーツの日ですけれども、大阪のど真ん中を、マーチ・フォー・ライフを、大阪で初めてしたいと思っています。どうぞ皆さんいらして下さい。24日金曜日です。

第3のお知らせは、8月13日・14日・15日と3日間(12日の夕方18時のミサから)、秋田巡礼を行ないたいと思っています。今年は日本政府から給付金も来ましたし、そして政府が色んな所に旅に出るようにと励ましております。私たちもこの機会に是非、マリア様にお祈りに行きたいと思っています。

特に、今まで毎週主日にここでミサがずっと、聖週間もずっと捧げられた事、たとえ他の教会が閉められたとしても、ここだけは特別に守られていた事を感謝して、そして聖ピオ十世会の最初の修道院が日本に与えられる予定ですので、その御恵みを感謝して、そしてそれが実現しますように、そして今年は聖ピオ十世会創立50周年、今私たちがこうやって、昔ながらの尊い宝である聖伝のミサを捧げ続けている事ができるのも、本当にルフェーブル大司教様、そして聖ピオ十世会という、教会が公認した修道会があったからこそ、これを感謝してしたいと思っています。どうぞ皆さんいらして下さい。


愛する兄弟の皆さん、

今日、聖霊降臨後第3主日の福音は、イエズス様が良き牧者である、そして百匹の羊の内のたった一頭が、子羊が失われた、それを探しに行く牧者の例えをしているものが読まれました。これはまさに、イエズス様の聖心の祝日の続きです。

イエズス様の愛、天主の愛、無限の愛は、私たちの想像を本当に超えるもので、感謝しても感謝し尽くせません。

天主は、永遠の昔から、全く至福の、何の不自由もない御方でした。しかし、私たちを創ろうと、存在させようと、そして私たちに御自分の幸せを与えようと思われました。そして私たちを無から創られました。

そして私たちにものすごい御恵みを下さいました。不死の恵み、死なない、苦しまない恵み。そして全被造物を、この目に見える全てを支配する恵み。守護の天使をつけて。

そして更に天主は、その愛の極みにおいて、私たちを天主の似姿として創ったのみならず、私たちを天主の子供として、養子として下さいました。成聖の恩寵を下さり、そして天の全ての至福を、相続人として、子供として与えるとされました。

愛の永遠の計画を、私たちに無償で与え、与え、与え尽くして下さいました。

人間はそれに対して、その愛に対して、罪で答えました。不従順で答えました。全人類はもはや、永遠に失われてしまいました。もうこれで万事休すでした。私たちにはどうしても回復の力がありませんでした。呪われたもの、捨てられたもの、反乱したもの、そしてもうこれで失われて、永遠に失われたものだったのです。

しかし、この人類を救おうと、無限の愛はその形を変えました。「憐れみの愛」になりました。この哀れな人類に対して、寄り添い、身をかがめて、これを救われようとされました。そしてその為に、私たちを探して来られました。

天主三位一体の第二のペルソナ、天主の永遠の御言葉は、王の王は、天主よりの天主、光よりの光、真の天主からの真の天主は、私たちを探す為に、人間の本性を取って、私たちの為にお生まれになりました。

見て下さい。そして30年間、貧しい労働の生活、従順の生活を送りました。私たちを探す為に。

3年間の公生活。そして十字架の贖い。

ご覧下さい。私たちを買い戻す為に、御自分の尊い天主の血を全て流されました。悪魔のその支配下から買い戻す為に。

そのそればかりでありません。私たちを養う為に、私たちが「罪」という癩病で汚くなり、形も醜くなり、そして変形してしまって、この病気、どのような医者も治す事ができない罪という癩病を治す為に、医者として、世の終わりまで、慰め主として、私たちを癒す為に、私たちを慰める為に、私たちに祝福を与える為に、私たちと共に居る為にのみ、愛のあまり、パンになって、私たちの食べ物となって、王がしもべの食べ物となって、私たちの傍におられました。

「憐れみの愛。」私たちの一体、天主の愛、全能の愛でなければこれほどの事を、想像する事すら思い付きませんでした。

そしてこのような愛を受けた私たちは、ただこの良き牧者の手に抱かれて、イエズス様の胸に、聖心に帰って行くしか、私たちにはする事がありません。

私たちは発見された、天主の似姿を付けているドラクマ貨です。昔のコインは、昔の銀貨や金貨は皆、王の像が描かれていました。天主の似姿が私たちの霊魂に備わっている、失われた硬貨です。発見されたドラクマ貨です。

イエズス様のこの愛、この憐れみの愛を、ぜひ皆さん知って下さい。そしてこの愛にもかかわらず、その愛に答えようとしない人々があまりにも多くいるのを、私たちは知らなければなりません。イエズス様は仰いました、「見よ、この聖心の愛を。これほどお前たちを愛している愛を見よ!しかし、この愛は愛されていない。無視されて、軽蔑と、冷淡と冒瀆とで答えられている。少なくともお前たちは、私を愛してほしい。私の方にやって来て欲しい。」

そして愛する兄弟の皆さん、イエズス・キリストは、イエズスの聖心は、この同じ聖心の愛に燃える司祭を、カトリック司祭を作りました。カトリック司祭の心は、イエズスの聖心と全く同じでなければなりません。つまり「救霊」を、救霊をのみ追求しなければなりません。霊魂の救い、霊魂を永遠の死から救い、そして御聖体で養う、良き牧者の代理者。

私たちに、この多くの聖なるカトリック司祭たちが与えられますように、お祈りしましょう。そしてその牧者が、イエズス様のその聖心の愛を私たちに深く悟らせて下さるように、お祈り致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、マリア様の御心は、イエズス様の聖心と全く瓜二つです。私たちもマリア様の御心によって、このイエズス様の聖心をよく知り、これを愛する事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




イエズス様の、救い主の聖心はまさに、超自然の命を与え、超自然の御自分の御体で、私たちを養う事です。司祭もまさに、イエズス様の聖心と同じ心を持たなければなりません。

2020年06月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

2020年6月21日(主日)イエズスの聖心の祝日の荘厳祭

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教の書き起こしを御紹介いたします。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2020年6月21日、イエズスの聖心の祝日の荘厳祭を行なっております。

2つお知らせがあります。

1つ目は、来週28日の主日にも、ここで、同じ時間にミサがあります。しかし7月からは、私たちは通常の場所に戻る事を考えております。またはっきりと詳しい事は、来週の主日にお伝えさせて頂く予定です。

2つ目のお知らせは、このミサの退堂の前に、今日はイエズス様の聖心の荘厳祭を行なっているので、教皇ピオ十一世の命に従って、「人類の忘恩に対する償いの祈り」を致します。


愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の聖心の荘厳祭をしているので、入祭誦の黙想をするのを許して下さい。

入祭誦には、「主の心の考えは、代々永遠に、霊魂たちを死から救い、そして彼らが飢えているのを養う事だ」と。

全く、イエズス様の聖心は永遠に、私たちの霊魂を地獄の永遠の死から救い出し、天国の永遠の至福に導き、そして御自分の御体を以って、超自然の命を以って、私たちを養う、御聖体を以って養う、この事を、永遠の昔から考えておられました。愛の御業です。

イエズス様の、救い主の聖心はまさに、超自然の命を与え、超自然の御自分の御体で、私たちを養う事です。

司祭もまさに、イエズス様の聖心と同じ心を持たなければなりません。司祭が願う事はたった一つ、イエズス様の望み、「霊魂を死から救い、霊魂を地獄の火から救い出して、天国に導き、イエス様の至福を与え、そしてその為にも、イエズス様の御体を霊魂に与える。イエズス・キリストを与える。イエズス・キリストの真理を与える。」

まさにこれです。このようなカトリック司祭が私たちに多く、数多く与えられますように、日本中に送られますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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