Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

マーチフォーライフは大阪市役所前を午後3時に出発します。

2024年07月21日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフは大阪市役所前を午後3時に出発します。
【LIVE】マーチフォーライフ(大阪)_2024年7月21日_March for Life Osaka

【LIVE】マーチフォーライフ(大阪)_2024年7月21日_March for Life Osaka

マーチフォーライフ大阪_2024年7月21日_March for Life Osaka大阪市役所前からなんばまで御堂筋を行進▼マーチフォーライフ(東京/大阪)▼https://blog.goo.ne.jp/fatimanose...

YouTube





マーチフォーライフ TOKYO 2024 報告

2024年07月16日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マーチフォーライフ in TOKYO 2024 (主催:マーチフォーライフ委員会) はとても素晴らしく行われました。参加なさった愛する兄弟姉妹の皆様に挨拶を送ります。

マーチフォーライフのために、私たちは、日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)で荘厳ミサを捧げました。大宮に聖堂が設置されてからの最初の荘厳ミサでした。カルメル山の聖母の随意ミサを行い、修道院長のワリエ神父さまが司式しました。

ライブ配信の動画は⇩こちらにあります。

そののち、日比谷公園に午後3時に集合して、マーチフォーライフを開始しました。

いくつかの写真をご紹介します。

マーチフォーライフ TOKYO 2024  (主催:マーチフォーライフ委員会) の生配信は⇩次の動画です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

来週の主日には大阪でもマーチフォーライフがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様の参加をお願い致します。


皆さんは日本でのマーチ・フォー・ライフに参加されます。心から感謝します。2024年7月15日 日比谷公園に 15:00集合!

2024年07月06日 | プロライフ

マーチフォーライフ in 東京 2024年7月15日 日比谷公園に 15:00集合!主催:マーチフォーライフ委員会

そうです、皆さんは、もうすぐ日本でのマーチ・フォー・ライフに参加されます。心から感謝します。
フランスでは 2022年、23万4千件の人工妊娠中絶が行われ、2024年3月8日、私たちの大統領はこの行為を憲法に追加し明記しました。
 
しかし、私たちはあきらめません。私たちは、幼い子どもたちの命を守るための闘いを続けています。
日本では年間14万件の人工妊娠中絶が行われています。だからこそ、日本という文明社会にとって、すべての命が最初から最後まで生き、守るに値するものであることを思い出さなければなりません。
 
さあ、7月15日午後3時、日比谷公園に集いましょう。弱者を守ることは素晴らしいことなのですから。
 
7月15日(月・祝 海の日)
午後3時 日比谷公園 幸門集合  
出発は午後3時30分
弾正橋で記念写真と流れ解散の予定
 
 

ミュラー枢機卿の「フィドゥチア・スプリカンスに反対する声明は、福仁カトリック神学校生命倫理研究センターによって中国語にも訳されました。

2024年01月05日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ミュラー枢機卿の「フィドゥチア・スプリカンスに反対する声明は、福仁カトリック神学校生命倫理研究センターによって中国語にも訳されました。

2023年12月18日、バチカンは聖職者が同性カップルを祝福するための枠組みを提供する「信仰の嘆願者」声明を発表し、この文書が公布されるとすぐに司教やその他の教会指導者の間で広範な議論を引き起こしました。 一部の司教会議が自国でのこの文書の実施に対する反対を促進しているという深刻な懸念が提起されています。
2012年から2017年までバチカン信仰省を率いていたミュラー枢機卿は、2023年12月21日の記事で、この文書は「矛盾」しており「更なる説明が必要だ」と述べました。
ミュラー枢機卿は、「バチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」の声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを知る必要がある」と述べました。 」



穆勒樞機:《懇求的信賴》(Fiducia Supplicans) 聲明是「自相矛盾」
翻譯:輔仁聖博敏神學院 生命倫理研究中心
2023年12月18日梵蒂岡頒佈《懇求的信賴》(Fiducia Supplicans)聲明,為神職⼈員對同性伴侶進⾏降福提供框架,文件頒佈後立刻在主教和其他教會領袖中引起廣泛辯論。有⼈提出嚴重關切,⼀些主教團在他們的國家推動反對實施該⽂件。
從2012年到2017年曾帶領梵蒂岡信理部的穆勒樞機在2023年12月21日⼀篇⽂章中表⽰,這份⽂件是「⾃相⽭盾的」並且「需要進⼀步澄清」。
穆勒樞機表示:「此聲明並沒有明確地違反天主教會的教導嗎?信徒是否有責任接受這個新教導?神⽗是否可以執⾏剛剛被發明的這些新做法?如果這些新做法在主教所在的教區內發⽣,教區主教是否可以禁⽌它們?為了回答這些問題,讓我們看看這份⽂件到底教導了什麼,以及它依賴的是什麼論據」。


カトリック信者には、LGBTの狂気から子どもたちと社会を守る道徳的義務がある:同性愛活動家があらゆる公的機関、政策、学校、企業、教会を掌握しよう試みている中で無関心なままでいることはできない

2023年03月26日 | プロライフ

カトリック信者には、LGBTの狂気から子どもたちと社会を守る道徳的義務がある

カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする 第2回

Catholics have a moral obligation to protect children and society from LGBT insanity

カトリック信者は、同性愛活動家があらゆる公的機関、政策、学校、企業、教会を掌握しよう試みている中で、ただ無関心なままでいることはできません。

ルイス・ナフク

2022年12月2日(金曜日) 米東部標準時間午後2時42分

今回は、カトリック信者としてLGBT思想にアプローチする連載記事の第2回です。同性愛およびトランスジェンダーという無秩序について説明した第1回の記事は、こちらでお読みいただけます。

(LifeSiteNews)マスメディアの見出しが次々と出てくるにつれて、LGBTイデオロギーの真の標的がますますはっきりしてきています。ターゲットは、キリスト教的な結婚と幼い子どもたちです。

なぜ、この二つなのでしょうか? なぜなら、結婚はあらゆる社会の自然の基盤であり、子どもたちはその社会の将来の世代だからです。このイデオロギー全体の二つの前線は、
(1)政治による立法と教会による「祝福」という両方を通して、同性愛者の結合を別の種類の結婚として認めるのを確実にするよう公的に試みること、および
(2)公立でも私立でも、学校で恥じることなく同性愛者の結合を教えることによって、これらのライフスタイルを子どもたちに押し付けること――にあります。

このような状況の中で、カトリック信者には、これらの問題に対する意識を高め、LGBTイデオロギーを支持または促進する公共政策や法律に反対し、結婚および幼い無垢の子どもたちを守る法律を求めて積極的に活動する義務があります。

政治で同性婚法を求め、教会で同性カップルの「祝福」を求めるという積極的かつ先を見越したロビー活動に直面して、カトリック信者は、同性愛活動家があらゆる公的機関、政策、学校、企業、教会を掌握しよう試みている中で、ただ無関心なままでいることは不適切です。

ここで求められているのは、真の結婚とされるものと同じ公的な平等です。私が言っているのは、「聖伝の」結婚のことではなく、単純明快な結婚のことです。なぜなら、結婚の本質とは、一人の男と一人の女の間の揺るぎない結合であるからです。人間を男と女に創造された天主は、創造の最初にこの結合を定められました。人間は、自分自身の本性を変えることができないのと同じように、これをなかったことにすることも変えることもできません。

この文脈では、同性愛とトランスジェンダー・イデオロギーにもう一つの類似性があることが、さらに簡単に理解できます。同性愛やレズビアンの運動が結婚の本質を変えようとするのと同じように、トランスジェンダーの運動は男性と女性の肉体の根本的な本質を変えようとするものです。どちらも創造主としての天主に反逆することです。前者は、結婚の作者としての天主に反逆することであり、後者は、生命、すなわち肉体にある生命の作者としての天主に反逆することです。

LGBT運動は、自分たちのアジェンダ(行動計画)を学校に押し付け、幼い子どもたちの多感な精神や心を餌食にすることで、特に悪意を示しています。その中でも最悪なのは、「ジェンダー・アファーミング」(性別確認または性別肯定、gender-affirming)の「思春期ブロック剤(思春期ブロッカー)」(puberty blockers、【第二次性徴に伴う体の変化を一時的に抑制する薬】)を、親に知らせずに、あるいは親の意向に反して投与することです。

この問題は、最近、州法のレベルにまで上がってきており、カリフォルニア州の新しい法律で、州外から来た未成年者が親の同意なしに「ジェンダー・アファーミング」の介入を受けることができるようになっています。このような介入の記録はすべて、子どもの医療記録から削除され、そうすることで、将来、このような処置をめぐる法的な争いを妨げるようにすることまで、この法律は規定しています。

親の意思に反してこのような治療を行うことは、親の権利を著しく踏みにじるだけでなく、治療そのものが極めて犯罪的です。思春期ブロッカーの投与は、医学的には正式かつ合法的に「化学的去勢」に該当し、以前は罪を繰り返す性犯罪者にのみ行われていた実践でした。この実践は、心も体も十分に発達していない子どもに対して、実質的に不妊手術を行うものです。すべての州ではないにせよ、ほとんどの州の法律では、このようなことは子どもに対する極度の性的・肉体的虐待にも該当します。

ここにおいて、トランスジェンダー・イデオロギーの悪意の全貌が明らかになります。トランスジェンダーの擁護者たちは、混乱した成人を説得して不可逆的な切除手術を受けさせ、犠牲者たちに欲望も子孫も残さないようにすることだけで満足していません。そうではなく、彼らは、自然の秩序と天主の計画に従って愛する人々の美しい子孫である無垢な子どもたちを探し求めなければならないのです。彼らは、若者の無知や不安を食い物にして、自分たちが、社会の最も貴重な成員を犯罪的に不妊化して切断するために、邪悪にも法律や親を妨げるのです。

これらの幼い子どもたちや将来の世代のために、カトリック信者は、自分たちの学校や病院、議会、教会が、科学や平等、包括性、同情、慈愛の名によって前進していくトランスジェンダーの熱狂に乗っ取られるのを、黙って見ていることはできません。

かつて家庭を持つ父親たちが、死を覚悟して守っていたものがあります。その中に数えられるものは、子どもの命と子どもの無垢な心です。今、この運動に反対しなければ、遅かれ早かれ、好むと好まざるとにかかわらず、子供たちの破壊は私たちの目の前に現れ、その時には手遅れになってしまうでしょう。


同性愛とトランスジェンダー主義は自然そのものに反する罪である。「包括性」の余地はない。

2023年03月26日 | プロライフ

「包括性」の余地はない。同性愛とトランスジェンダー主義は自然そのものに反する罪である

―――カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする (第1回)

No room for ‘inclusion’: Homosexuality and transgenderism are sins against nature itself

カトリック神学は、同性愛やトランスジェンダーのライフスタイルを、善からの逸脱のうちで最も過激な種類のものだと認識している。

ルイス・ナフキ

2022年11月1日(火曜日) 米東部標準夏時間午前11時30分

分析

ローマ(LifeSiteNews)LGBT問題について、教会とカトリック神学はどう教えているのでしょうか? この記事では、カトリックの視点からLGBTイデオロギーにアプローチする連載の第1回として、以下の内容を取り上げます。

  • 教会中に広がっているLGBTイデオロギー
  • 人間の行動におけるさまざまな種類の秩序
  • 徳の秩序からの逸脱
  • 自然の秩序からの逸脱
  • 悪徳が極端になれば、さらに多くの極端な悪徳を生み出すのは、どのようにしてか

LGBTイデオロギーが教会中に広がっている

カトリック神学によれば、徳は中庸にありますが、その一方で、悪徳は人間の行動が極端になるところにあります。経験が裏付けるように、徳の中庸から逸脱する形はたくさんあり、複数の悪徳が極端になると、しばしば極端な悪徳を互いに生み出し合います。「滅びに至る門は大きく、道は広く、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13節)。

そのことは、カトリックの性道徳に関する教えに当てはめてみても、違いはありません。貞潔の徳から逸脱する形はたくさんあり、性的な悪徳が極端になれば、実際、互いに生み出し合います。貞潔の徳については、「門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」というキリストの言葉を正しく適用することができますが、その一方、性的放縦の道は大きくて広く、それを歩む人は多いのです。

LGBTアジェンダ(行動計画)が社会、学校、家族、ティーンエイジャー、そして幼い子どもたちにまでますます押し付けられる一方で、これらのライフスタイルの嘘と悲劇的な影響が、左派の政治家や目覚めた社会学者、そして巨大製薬会社によって沈黙させられるのを拒否する人々によって、続々と明らかになっています。巨大製薬会社は、親の意向に反してまで子どもに押し付けるトランスジェンダー手術から何百万もの利益を得る立場にあります。

教会内では、LGBTの「包括性」(inclusiveness)【受け入れ】の新しい波が、あらゆる階級の聖職者にまで広がっており、それは、LGBTのグループを謁見するローマにいる教皇から、虹をテーマにしたミサを公然と捧げ、同性婚を祝福し、秘跡としての結婚という「理想」とは異なるライフスタイルをさらに「受け入れ」るために教会の道徳的教えを変えるよう声高に呼びかけている司祭や司教にまで至っています。

これらの問題について、教会は正確にはどう教えているのでしょうか? 聖アウグスティヌスの格言「罪を憎むが罪人を愛する」を、カトリック教徒はどのように適用するのでしょうか? LGBT推進派がそう見せかけているように、キリストは「包括的」だったのでしょうか? これらのことは断罪されるべきものなのでしょうか、それとも耳を傾けて共に歩むという新しく発見された愛徳の名の下に受け入れるべきものなのでしょうか?

明確にするために、教会とカトリック神学がこれらの問題について教えていることを、ここでは体系的なアプローチで提示します。こうすることで、主にこれらの問題の道徳性を見ることになるでしょう。さらに完全な対策をするには、医学的で心理学的な側面からの考察が必要となりますが、それは他の人にお任せすることにします。

人間の行動における三つの異なる種類の秩序

性道徳の問題についてさらに具体的に特定の判断を見ていく前に、人間の行動には三つの基本的な秩序があって、それぞれに、その行動が善か悪かを判断する原則があることに注目すべきです。

第一の秩序は、人間の本性そのものから生じる最も基本的な秩序であり、それによれば、人間には、自分を完成または完全にしたり、あるいは人間の生活と繁栄に必要だったりする、いくつかの基本的な種類の善への傾きがあります。
第二の基本的な秩序は、正しい理性から生じる秩序であり、この秩序は、真理を理解し、いくつかの善は慎重かつ決定的な方法で求めるべきものだとみなします。人間にとって真に善であると理解されるものを求める、この慎重な方法が、徳の秩序です。
人間の行動の第三の秩序は、天主の聖寵によってもたらされるものであり、この秩序によって、人間は、主に秘跡を通して伝えられる、キリストの贖いの死の力および聖寵を通して、天主を信じ、天主に希望し、天主を礼拝し、天主を愛するように超自然的に高められます。

人間の行為の連続した各秩序は、前にある秩序を前提にし、それを高め、それを完成させます。これらの人間の行為の秩序は、時間的に連続しているのではなく、むしろ完成させるために連続しているのです。例えば、婚姻の秘跡において、キリスト教徒の配偶者の愛が、教会に対するキリストの愛を意味すると言うとき、これは同時に、配偶者が婚姻の貞潔において互いに忠実であるという徳の秩序と、互いへの愛がそれぞれ成熟した大人の男女の愛であるという自然の秩序を前提としています。

つまり、自然の欲求は、徳によって高められ、徳は聖寵によって高められます。そして、人間の本性は、創造主なる天主によって私たちに与えられています。

これらの原則を人間の性に当てはめると、カトリックの教えの基本的な概略は以下のようになります。性欲とは、子どもを残すために異性との性交渉に向かう自然な傾きです。この自然の欲求は、家族を増やすために婚姻状態にある配偶者との性交渉に限定されるとき、徳によって高められます。これが婚姻の貞潔の徳です。最後に、洗礼を受けた人同士の結婚は聖寵によって高められますが、それは、その結婚がキリストによって秘跡とされるからであり、またキリストの花嫁である教会に対する、キリストの忠実で実りある霊的な愛を表すものであるからです。このように、貞潔の徳は、聖寵によって高められ、完全になるのです。

自然または徳または聖寵の正しい秩序に反して、人間は、これら三つの秩序のいずれにおいても、天主が人間に望まれる特定の善に反して行動することによって、天主を怒らせるという方法で罪を犯すことがあり得ます。性的な罪は、具体的には、秘跡的な聖寵の秩序から、あるいは理性的な徳の秩序から、あるいはさらに深く基本的で根本的な自然の秩序から逸脱することがあり得ます。LGBTは、特に貞潔の徳に反する罪と、男女の自然で性的な違いと補完性に反する罪を犯しているため、ここで私は、LGBTのライフスタイルに内在する、徳の秩序と自然の秩序からの道徳的逸脱について考察してみます。

徳の秩序からの逸脱

婚姻の貞潔の徳に反して、避妊を実践して、第一の目的である出産を妨げながら性交渉を行うことで、配偶者とともに罪を犯すことがあり得ます。このような行為は結婚の範囲内にとどまりますが、それにもかかわらず、夫婦行為をその自然の第一の目的から切り離しているため、徳から逸脱することになります。姦淫の場合は他人の配偶者と婚姻外の、私通の場合は完全に婚姻外の性交渉を行うことによって、婚姻の貞潔の徳からさらに逸脱することがあり得ます。どちらの場合も、性交渉は婚姻の絆による安定した結合から切り離されています。

その他の罪は、性的な満足を性交渉そのものから切り離すもので、これらの罪の中には、ストリップクラブへ行くこと、ポルノを使うこと、自慰行為などがあります。いずれも、婚姻外だけでなく、婚姻において自然に一緒になるものを切り離すことで、性的な満足を得ることにより、徳の正しい秩序からさらに逸脱しています。このような罪では、快楽は、触れることなく視覚によって、あるいは個人と個人との関係なしに技術によって、あるいは他人がいなくても触れることによって得られます。これらの行為はすべて、性交渉そのものから切り離されており、個人同士の関係のない、まったく不毛なものとなっています。

自然の秩序からの逸脱:同性愛、トランスジェンダー主義

上記の貞潔に反する罪は、すべてが正しい理性によって確立された徳の秩序から逸脱していますが、それでも異性に対する自然の欲求や傾きはそのまま残っています。そうは言っても、人間が貞潔の徳から逸脱すればするほど、自然の秩序そのものが壊れ始めます。それについては、以下でさらに明らかになるでしょう。

自然の秩序に反する典型的な罪は、同性愛行為を通して、異性への傾きから逸脱することにあります。両性愛の行為やライフスタイルは、男女の違いを区別することさえせず、どこにでも性的満足を求めます。これは、多くの若い異性愛者が「一夜限りの関係」を通じて実践する、多くの性的パートナーとの無計画な性関係と類似しており、性交渉を最低限の特定の関係に制限することさえありません。

性的な逸脱やライフスタイルの中で最も憂慮すべきなのは、トランスジェンダー・イデオロギーです。ここでは、自然の秩序から逸脱した二つのカテゴリーに大別されるものがあるように思えます。

第一に、単に自分が異性だと認識するだけの人々がいます。これは、自分が違う種類の肉体を持っていると考えたり、想像したりする、主に心理的な状態にあります。肉体的な変更を求めずに、異性のスポーツ大会に参加したり、異性の浴室やロッカールームを使用したりすることを要求します。その結果、レイプや肉体的な性的虐待の事例が増加し、それは通常、自分を女性として認識している男性によって犯されることになります。性的衝動の強さを考えれば、男女の違いについて正しく考える人にとっては、このようなことは驚くことではないはずです。

第二に、「思春期ブロック剤」(puberty blockers)、ホルモン注射、肉体手術を受けて、自分がそうだと認識している異性の外見的特徴を獲得しようとする人々がいます。このような手術には、男性の場合は性器を、女性の場合は乳房を切除することや、異性の性器の「構築」などが含まれます。公式には、法律、医学、カトリックの道徳の枠内では、このような行為は、新しい子どもの生命を生み出して維持するために必要とする、健康で機能する肉体の一部を切除することです。このような切除は、無知で脆弱な犠牲者に対して頻繁にしつこく勧められるのとは逆に、元に戻すことはできません。また、その切除は、親の知らないところで、親の同意に反して、10代の若者、さらには思春期前の子どもたちに押し付けられることも頻繁にあるのです。

極端な悪徳がさらに多くの極端な悪徳を生み出す

社会が、ある極端な悪習をさらに受け入れ、さらに一般化するようになると、二つのことが頻繁に起こります。第一に、かつては当然と思われていた道徳の基本原則が疑われ始めること、第二に、社会に道徳の危機をもたらした小さな一歩一歩が簡単に忘れ去られることです。

カトリックの性道徳の基本原則を説明した上で、過剰な性的放縦という滑りやすい坂道が、まさに私たちが今いるところにいかにして私たちを連れてきて、私たちをLGBTプロパガンダの最前線に相対させているのかを説明したいと思います。

この文脈で注目すべきなのは、オープンな異性間セックスが過剰になると、欲望が満たされなくなるのは避けられず、現代のテクノロジーが指先に与えた、いつでも利用可能なポルノのようなものでしか、その欲望をなだめられなくなることです。インターネットやスマートフォンがどこでも利用可能になると、ポルノやそれに付随する性的満足は、ブラウザを開くだけで利用できるようになり、ポケットに入れてどこへでも持ち歩き、退屈な時間のほとんどで使えるようになっています。このような男女双方の目や想像力を使った私通は、結婚生活を破綻させる大きな原因の一つとなっており、その結果、過剰な視覚による性的刺激を受け続けるために性交渉ができなくなってしまうことさえあります。

このような状況において、私たちが扱おうとしているのは、単に婚姻内の性交渉から婚姻外の性交渉への移行だけではありません。むしろ、私たちが目撃しているのは、性交渉による性的満足から、性交渉を伴わない性的満足への移行、あるいは触れることや他人との親密な関係による性的満足から、触れることや親密な関係を伴わない性的満足への移行、あるいは自然に生命を生み出す性的行為から、新しい生命を生み出すことができない性的行為への移行なのです。

この最後の移行については、避妊、ポルノ、自慰行為、同性愛、トランスジェンダーの性行為に共通しているのは、子どもを得られないことであると認めなければなりません。このようなすべての行為において、性的快楽は、性交渉の主要かつ自然な目的である、新しい人間の生命を生み出す能力から切り離されています。この文脈において、避妊がいかに深刻なものであるかを、さらに深く理解することができます。たとえ婚姻内で行われたとしても、避妊は、出産の自然の秩序からの第一にして深刻な逸脱なのです。

また、不特定多数の異性との過剰な乱交は、不特定多数の同性との乱交の主要な原因の一つであることが、研究によって示されています。異性の肉体を単なる快楽の対象として完全に物とみなした後で、自分の同種の肉体も同様に物とみなせば、今度は同性から得られる性的快楽への転換は難しくないでしょう。同様に、避妊による異性との不毛な性交渉、ストリップクラブやポルノによる不毛な性的満足から、同性との性的満足を伴う不毛な性行為に移行することは簡単です。出産という最終目的がなければ、セックスは、異性への自然な傾きからさえも簡単に放たれてしまうのです。

同性愛により、男女を正しく区別する能力の崩壊が本格的に始まります。異性か同性かの確定した性行為から、両性との性行為を行うという確定していない流動性が、簡単に受け入れられるようになります。異性か同性かを選べるのであれば、同じ原理で両方を選んでもいいのではないでしょうか? その結果、同性に惹かれることを肯定して男性と女性の区別を維持した後、異性への傾きに戻るのですが、今度は同性に惹かれることを排除するわけではありません。なぜなら、両性愛者は単に、惹かれる対象として男女を区別しないからです。

性道徳における自然の秩序からの、両性愛者のライフスタイルの流動性からの、おそらく最も過激な逸脱においては、一方の性から異性への完全な「移行」が、男性または女性としての自身の肉体に不幸や不満を感じることの解決策になります。

このような「移行」は、同性愛から異性愛への一種の倒錯した回帰であり、あるいは異性愛から同性愛への倒錯した道です。同性愛の男性あるいはレズビアンの女性が異性に「移行」すれば、その同性愛的な愛は倒錯した形で「異性愛的」となり、その一方で、異性愛の男性や女性が異性に移行すれば、その異性愛的な愛はさらに倒錯した形で「同性愛的」となります。

悲劇的なことに、「移行」あるいは「脱・移行」した後、性的欲求自体が破壊され、新しい生命を生み出す能力が完全に損なわれることが頻繁にあります。その結果、新しい生命を生み出す可能性を奪われた関係、性交渉のない関係、そして性的欲求さえも奪われた関係になります。このような場合、自然からの逸脱がまさに完全になるため、自然な欲求がすべて破壊されてしまうのです。このようなイデオロギーによる真の犠牲者である「移行」手術を受けた人々が、若い年齢であっても自殺を考えることが頻繁にあるのも不思議ではありません。

今、学校や法律で、トランスジェンダー・アジェンダ(行動計画)の押しつけに最も率直な反対意見を持っている人々は、このような犠牲者たちなのです。


ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の「破壊的な」嘘を暴露する:結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである

2023年03月20日 | プロライフ

ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の「破壊的な」嘘を暴露する:結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである

同性間の関係は非常に倒錯したものであるため、結婚の影にさえも「絶対的に」似ていない。不毛で、罪深く、補完性を欠き、結婚と家庭についてのいかなる定義的特性をも欠く。

Benedict XVI exposed the ‘destructive’ lies of gender ideology and the LGBT movement

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ヨゼフの祝日おめでとうございます!

今日の混乱の危機において、ベネディクト十六世の教えは、ジェンダーと性的指向(sexuality)に関して切実に必要とする明瞭さを与えています。この記事の日本語訳が、日本におけるカトリック教会の司教さま方と、カトリック新聞を編集される方々と購読者の皆さまの参考資料としてお役に立てれば幸いです。

ベネディクト十六世、ジェンダー・イデオロギーとLGBT運動の

「破壊的な」嘘を暴露する

レイモンド・ウルフ

2023年1月23日(月曜日) 米東部標準時間午後9時間54分

(LifeSiteNews)―ジェンダーと性のイデオロギーは、社会のほぼすべてのレベルでかつてないほど飽和状態に達しており、それにどう対処するかについての指針はほとんどないように思えます。

カトリック教会においてさえ、LGBTに好意的な高位聖職者たちがバチカンを支配しており、以前は疑いようのなかった性倫理に関する教理を、公然と否定する司教が増えています。

人間の本性と道徳という最も基本的な事実に関するこの混乱の危機において、教皇ベネディクト十六世の教えは、ジェンダーと性的指向に関して切実に必要とする明快さを与えています。

ベネディクトは、1963年には早くもジェンダー・イデオロギーがもたらす脅威を認識していました。当時、ミュンスター大学での【教授】就任講義で、「男と女の違いの廃止」や、「最初から備わっていた人間の本性」に対する攻撃を断罪しました。

教皇聖ヨハネ・パウロ二世の下での教理省(CDF)のトップとして、同性愛に関する書簡(1986年)や、同性同士の結合に対する断罪(2003年)フェミニズムに対する断罪(2004年)など、性的指向に関する聖伝のカトリックの教えを擁護する、今でも適切な文書をいくつか書きました。

ベネディクト十六世は、教皇として、真理の擁護および生きる権利の擁護と並んで、結婚とキリスト教人間学の推進を教皇職の主要な優先事項としていました。

このバイエルン人の教皇ほど、ジェンダー・イデオロギーやLGBT運動に対抗して雄弁に、そして情熱的に世界を舞台に語った人はほとんどいません。この事実は、国際的左翼の不滅の憎しみを買ったのです。

「男女の正しい関係という問題は、人間存在の本質的な核心に根ざしています」と、彼は教皇選出直後の激しい演説で述べました。その問題に対する間違った答えの中には、同性「結婚」や、「肉体の発見で通用するものの、実際には肉体を卑しいものとする二元論」であるその他の形態の「性的放縦」があります。

ベネディクトは、ジェンダーと性的指向に関する自分の教えの根拠を、創世記にある記述、自らが「創造主の結婚に関する計画の三つの基本的要素」と呼ぶものに置きました。それは、天主は人を男と女に創造し、彼らの間に婚姻を成立させ、生命を伝達する使命を与えた、というものです。

彼は、これらの基本的な真理を損なうイデオロギーは、文明の未来と「人類社会全体の善」に対する重大な脅威だとみなしました。これらのイデオロギーを打ち負かし、結婚と家族の聖性を促進するための戦いにおいて、彼の教えはかけがえのない資源です。

ベネディクト十六世:ジェンダー・イデオロギーは「存在という概念そのものを攻撃している」

ベネディクト十六世は、男女の実在を否定するジェンダー論を、人間を真理から切り離し、「自己破壊」に導く相対主義の一形態であると特定しました。

ベネディクトは教理省長官だったとき、世界のカトリック司教たちに宛てたフェミニズムに反対する2004年の書簡で、ジェンダー論の主張を解体しました。

「この観点によれば、人間の本性は、それ自体で絶対的な形で特性を持つわけではないとされる。すべての人は、その本質的な構成に関連するあらゆる事前決定から自由であるため、好きなように自分を構成できるし、そうすべきだ、とされる」と、彼は書いています。

「『ジェンダー』という言葉でしばしば表現され理解されるものは、結局のところ、被造物と創造主から人間を自己解放する試みだと分かる」。

ベネディクト十六世は、左翼メディアのヒステリックな反発を招いた2008年のローマ教皇庁でのクリスマスの発言のように、教皇としてジェンダー論への批判を新たにしています。

「教会が人間の本性を男と女として語り、この創造の秩序を尊重するよう要求するとしても、これは時代遅れの形而上学ではありません」と、彼は宣言しました。

「『ジェンダー』という言葉でしばしば表現され理解されるものは、結局のところ、被造物と創造主から人間を自己解放しようとする試みだと分かります。人間は自分自身の主人になろうと欲し、自分に関することはすべて自分一人で、常にかつ独占的に、決定しようと欲しているのです」と述べました。

しかし、これは不可能なことだとベネディクトは説明しました。自分が創造された本性をもっているにもかかわらず、自分自身を「決定」しようとするならば、人間は「真理と対立し、創造主の霊と対立して生きる」のであり、最終的には「人間自身の自己破壊」という結果になるからです。

それは、先見の明がある観察でした。数年のうちに、欧米では「性別移行」(gender transitions)が爆発的に流行し、何万人もの子どもたちが「性別の肯定、確認」(gender affirmation)の名の下に去勢し、肉体を切除することになるからです。

性別とジェンダーに関する混乱が急増する中、ベネディクトは2012年のクリスマスに行った別の力強い講話で、ジェンダー論が「存在という概念そのもの」を攻撃していると非難し、その断罪をさらに強めました。

彼は、性別が「もはや与えられた自然の要素ではない」とする「この理論の明白」かつ「深い虚偽」を非難しました。彼は、フェミニスト作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女として生まれるのではなく、女になる」という宣言を取り上げました。

ボーヴォワールのフェミニズムには過激な「人間学的革命」が含まれており、人間からその本性を奪い取り、人間を単なる「抽象的な人間存在」に貶めてしまっている、とベネディクトは述べるのです。

「人々は、自分には肉体のアイデンティティーによって与えられた、人間を定義する要素となる本性を人々が持つという考え方に、異議を唱えます。彼らは自分の本性を否定し、それは以前から与えられていたものではなく、自分自身で作り出したものだと決めつけます。(…)【彼らによると】創造された現実としての男と女、人間の本性としての男と女は、もはや存在しない、とされます。人間は、自分の本性に疑問を投げかけます。これからは、人間は単なる精神と意志にすぎないとされます。今日、私たちの環境に関する分野で、私たちは自然の操作を嘆いています。しかしこの自然の操作こそが、今や、人間自身に関する分野では、基本的な選択となっているのです」。

二つの性別は現実のものであり、霊魂と肉体の両方を定義する

ベネディクト十六世は、ジェンダー・イデオロギーという嘘に対抗して、二つの性別という現実を、啓示された真理として強調しました。両性は、流動的な「社会的に作られたもの」ではなく、不変で内在的に異なるものであり、人間生活のあらゆる面を形作っていると、説きました。

「男と女は創造の最初の瞬間から別個の存在であり、永遠にそうあり続けるでしょう」と、ベネディクトはフェミニズムに反対する書簡の中で書きました。

彼は、「天主はご自分にかたどって、人間をつくり出された。人間を天主のかたどりとし、男と女につくり出された」(創世記1章27節)という、創世記の「すべてのキリスト教的人間学の不変の基礎」を引用しました。

男であることと、女であることは「存在論的に創造に」属する、「それゆえ、現在の時を超えて永続するように定められている、もちろん、変容した形で永続する」

「それゆえ、正に最初から、人類は男性と女性の関係で明確に表現されている」と彼はコメントしています。「これこそが人類であり、性によって区別され、これが『天主のかたどり』と明確に宣言されている」。

ベネディクトはまた、性別は、肉体だけではなく、霊魂にも適用されることを明確にしました。

性別による差は、「肉体的なレベルだけでなく、心理的、精神的にも男女を特徴づけており、表現の一つ一つにその痕跡を残している」と、彼はバチカンの指針を引用して書いています。「それは、単なる重要性のない生物学的な事実に矮小化することはできず、むしろ『人格の基本的な構成要素であり、存在、発現、他者との意思伝達、感情、表現、人間愛を生きる様式の一つである』」。

男性であるか女性であるかは、「人間という被造物の本質に付随する。この二元性は、天主によって定められたように、人間であるということのすべてに関する本質的な側面の一つである」と述べました。

性の区別は、人間の本性に非常に深く刻まれているため来世でも存在する、とベネディクトはさらに説明します。男であることと女であることは「存在論的に創造に」属するものであり、「それゆえ、現在の時を超えて永続するように定められている、もちろん、変容した形で存続する」と述べ、黙示録にある「小羊の花嫁」である女性的エルザレムのイメージを指し示しました。

ベネディクト十六世が宣言した性別に関するキリスト教の真理は、ジェンダー・イデオロギーに矛盾対立します。しかしこの真理は、事実、生物学的な現実と一致しています。

現代の生物学は、性別は受胎時に決定され、個人のDNAと全身の何兆個もの細胞にコード化されることを示しています。性別による差は、「神経科学のあらゆるレベルで」脳に影響を与え、病気のリスクから、認知プロセスや感情のプロセスに至るまで、あらゆる面で男女間の相違点をもたらしていると示しています。

米国小児科医師会によると、「遺伝性疾患を除いて、女性は、有核体細胞中に2本のX染色体を有し、男性は有核体細胞中にX染色体とY染色体を有しています」。「人の性的な外見を変えても、その人の遺伝情報を変えることにはなりません」。

男性と女性:互いのために造られた

ベネディクトは、二つの性による違いを強調する一方で、その基本的な補完性も強調しました。これもジェンダー論やその関連イデオロギー、特にLGBTイデオロギーによって脅かされている人類学上の基本的な事実です。

性による補完性を否定することが、結婚に性別は関係ない、男女は充足のためにお互いを必要としないという前提に基づく同性間の「結婚」の考えの支えとなっています。

ベネディクトは、このような誤謬に対して、自らの教えの中で反論し、男女は同性同士ではなく、明確に互いの完成のために創造されたということを強調しています。


天主から与えられた本性によれば、男と女は「肉体的、心理的、存在論的な補完性」を持っている

彼は、最初の回勅「神は愛」(Deus Caritas Est)の中で、男女の補完性を再確認し、再び創世記に言及しました。創世記で、天主はこう宣言しています。「人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう」(創世記2章18節)。

「他のすべての被造物の中には、人間が必要とする助け手となることができるものは誰もいない」と、ベネディクトは書いています。「そこで天主は、人間のあばら骨から女をつくられた。アダムは、自分が必要としていた助け手を見つけた。『これこそ、わが骨の骨、わが肉の肉』」(創世記2章23節)。

ここで、聖書の中には「異性との交わり(communio)においてのみ、人間は『完全』になりうるという思想」があると教皇は述べました。

ベネディクトは、フェミニズムを糾弾する書簡の中で、同じテーマを長く論じています。

「天主によって形作られ、自分が耕さなければならない園に置かれ、今でもアダムという総称(種の表現)で呼ばれる男は、動物たちが存在していても克服できない孤独を経験した。男には、自分のパートナーとなる伴侶(helpmate)が必要である。ここで、この言葉(伴侶)の意味は、劣った者ではなく、不可欠な助け手のことだ。これは、アダムの人生が、自分との不毛な出会いとなり、最後にはそれが破滅の出会いにならないためである」。

「同じ『肉』からつくられ、同じ神秘に包まれた女だけが、男の人生に未来を与えることができる」と、彼は記しました。

天主から与えられた本性によれば、男と女は「肉体的、心理的、存在論的な補完性」【男と女の二人は補完しあって一つとなる】を持っており、その結果、「『一致・二元性』(uni-duality)という調和のとれた関係」をもたらしている、とベネディクトは述べています。原罪は、その関係に不調和と欲情をもたらしましたが、その関係の本質的な秩序と善を破壊するものではありませんでした。

ベネディクトが中心となって発展させた「カトリック教会のカテキズム」も同様に、「男と女は『相互のために』造られ」、天主の意志によって「相互の交わりのため」、「男性、女性としては補い合うものです」と教えています【同カテキズム372】。

結婚の真理は「人間の精神」の中に刻まれている

互いを完成させるために天主によって造られた男女は、気軽で表面的な関係のためでもなく、結婚のため、つまり、自分を完全な贈り物とし、精神と肉体が一体となって解消のできないようになるために造られています。

ベネディクト十六世は、一人の男と一人の女の間でなされ、出産を目的とする結婚の本性を断固として擁護しました。彼の結婚についての神学は、再び、結婚が男女の本性に固有のものであると断言する創世記から始まります。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、二人は一つの肉となる」(創世記2章24節)。

「神は愛」の中で、このことについてベネディクトはこう書いています。「アダムは女性を見つけるために『母と父を捨てる』探究者であり、二人が一緒になって初めて完全な人間を表し、『一つの肉』となる」。

「創造の立場から、性愛(eros)は人間を結婚に向かわせ、唯一で決定的な絆に向かわせます。こうして、またこうすることによってのみ、その最も深遠な目的を果たす」と彼は付け加えました。

創世記はまた、結婚が基本的に出産に向けられていることを明らかにしている、とベネディクトは説明しました。

「天主は、男と女の結合を、天主の創造のみわざに特別にあずからせることをお望みになった。こうして、天主は『産めよ、増えよ』という言葉で男と女を祝福された(創世記1章28節)。それゆえ、創造主の計画では、性的な補完性と出産をもたらすことは結婚の本性に属する」。

子どもの多い結婚も同様に、両性の本性に属する。ベネディクトは、性別による差は「聖書にあるように、男女が一つの肉となることによって、生命の伝達に開かれた人々の真の交わりを実現し、それによって、新しい人間の出産のために天主と協力するという愛の形を表現している」と書いています。

「天主は、私たちを男と女に造られた。両者は、尊厳においては平等だが、同時に、それぞれの補完的な特徴を持っており、それは、両者が互いのために贈り物となり、互いを大切なものとし、愛と命の共同体を実現させるためである」と、彼は2012年の世界家庭会議の説教で述べています。

最近では、名誉教皇として、「男女の共同体と生命の伝達に開かれていることが、結婚と呼ばれるものの本質を決定する」と、彼は書きました。

社会運動やイデオロギーが結婚の原理を攻撃することはできても、人間の本性からそれらを根絶することはできない、とベネディクトは主張します。

「いかなるイデオロギーも、結婚は一組の男女の間にのみ存在するという確信を人間の精神から消し去ることはできない。男女は、固有で排他的な互いの個人的な贈り物によって、互いの人格の交わりに向かう傾向がある。このようにして、彼らは、新しい人間の命の出産と育成において天主と協力するために、互いに完成させる」。

同性の間の結合は、自然法と、天主の結婚の設計に「絶対的に」反する

結婚と性についての真理は、特に同性愛を根本的に排除するものである、とベネディクト十六世は教えました。

枢機卿として、そしてローマ教皇として、彼は、同性の肉体関係が本質的に悪であり、無秩序であることを再確認しました。彼の言葉によれば、その関係は、決して結婚や結婚に「ほんのわずかであっても」似たものを構成することはできない、です。

「同性間の結合を、天主の結婚と家族に関する計画と似ているもの、あるいは、ほんのわずかであっても類似していると考える根拠は全くない」と、彼は同性の結合の法的承認に対する2003年の教義信仰省の厳しい断罪文書の中で書いています。

同性の関係は「結婚と家族の生物学的、人類学的要素」や「人間的で秩序ある形の性のありかたを表す夫婦の次元を欠いている」と、彼は付け加えました。

ベネディクトは、「結婚は聖なるものであり、一方、同性愛の行為は自然の道徳律に反し」、「出産と人類の生き残りに適切な形で貢献する」ことはできない、と強調しました。

言い換えれば、同性間の関係は非常に倒錯したものであるため、結婚の影にさえも「絶対的に」似てはいないのです。不毛で、罪深く、補完性を欠き、結婚と家庭についてのいかなる定義的特性をも欠いている、と言います。

母親や父親を奪われ、そのような環境で子どもを育てることは、「実際にこれらの子どもたちに暴力をふるうことを意味する」と彼は書きます。

そのような関係は当然、本物の愛を反映することはできません。それは「本質的に身勝手(self-indulgent)」であり「本当の愛情と性的補完性とから出るものではない」のです。ベネディクトは、1986年に出された教理省の「同性愛者の司牧に関する書簡」の中で「同性愛の行為は生命を伝達することのできる補完的な結合ではない。従って、福音がキリスト教的生き方の本質であると述べている自己犠牲的な形の生活への呼びかけを妨害するもの」と書いています。

そのため、ベネディクトは、同性同士の「結婚」を、「正当な家族」とは対照的な「疑似結婚」であるとしました。そのような環境で、母親や父親を奪われた子どもたちを育てることは、「実際にこれらの子どもたちに暴力をふるうことを意味する」と書いています。

また、同性愛の傾向そのものも、賞賛すべきものとは程遠く、「客観的に見れば、無秩序なもの」であると明確にしました。

ベネディクト十六世は教皇在位期間中、同性間の関係を法的に認めることに反対して厳しい言葉で警告し、この関係を「重大な誤謬」であり、「共通善に対する今日の最も陰湿で危険な脅威」の一つであると非難しました。

ベネディクトは2008年の世界平和の日のメッセージの中で、「たとえ無意識であっても、家族という制度を避ける者は、国内的であろうと国際的であろうと、社会全体の平和を弱めているのです」と述べています。

ベネディクトはまた、同性愛とジェンダー・イデオロギーの間にある明確な関連性を指摘し、両者とも、人間の本質の基盤そのものを攻撃し、壊滅的な結果をもたらすものであるとしました。

同性愛という生活様式は、それを実践する人々を「破壊しようと常に脅かしています」と、1986年の教理省の書簡で書き、同性愛の生命を脅かす危険性とともに、重大な罪による霊的な害を指摘しました。

LGBT活動家グループが反映しているのは「唯物論的イデオロギー」であり、これはジェンダー論とは異なり「人間の人格の超越的な性質と、各個人の超自然的な召命を否定する」と教皇は述べました。

ベネディクトは、ジェンダー論が、LGBT運動を生み出し、LGPT運動の「多様な形態の性別を持つ新しいモデル」を実際に生み出した、と述べ、このモデルは、同性愛と異性愛とを「事実上同等」としている、と指摘しました。

「もし、創造において、あらかじめ定められた男女という二元性がないとすれば、家族もまた、もはや創造によって確立された現実ではなくなってしまいます」と、彼は2012年のクリスマス講話の中で述べました。

また、ジェンダー論と同様に、同性愛は、「人間が自分自身に対して好きなことをすることができる」という自由についての誤った感覚を反映している、とベネディクトは2005年のローマ教区大会の講話で述べました。「この疑似的自由は肉体を貶めることに基づいており、それには人間を貶めることが伴うのは避けられません」。

今日、カトリックの反体制派が同性愛に関する教理の変更を求めて騒いでいますが、ベネディクトは、この問題に関する教会の教えが決定的に定まっていることを繰り返し明らかにしました。

「教会は、天主の計画に従って(マテオ19章3-9節参照)、結婚と家庭はかけがえのないものであり、他の選択肢を許さないということを宣言するのをやめることができません」と、ベネディクトは教皇としての最初の書簡の一つの中で宣言しました。

同性愛に反対する現代のカトリックの教えは、「聖書の観点および自らの不変の聖伝と有機的に連続している」と、同性愛に関する1986年の教理省の書簡の中で、彼は書きました。

「カトリック教会のカテキズム」は、これを繰り返して、こう述べています【同カテキズム2357】。「同性愛行為を重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに、『同性愛の行為は内在的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました」。「どのような場合であっても、このことを認めることはできません」と付け加えています。


【書評4】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(4)

2023年03月09日 | プロライフ

【書評4】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(4)

アヴェ・マリア・インマクラータ!

【天主の愛の計画】

天主は憐れみ深い愛によって、私たち人間を無から創造された。天主には私たち一人ひとりに特別の愛の計画がある。

旧約聖書では、御自分と人間一人一人の霊魂との関係(宗教)を婚姻にたとえている。旧約聖書も、新約聖書も、一人の男性と一人の女性とが子供の出産と教育のために互いに自分を与えあい一つの体となることを婚姻だと教えている。

婚姻とは一人の男性が一人の女性と一つの体となることだ。肉体だけではない相互に自分を与えあうことだ。できるならば心も精神も信頼して全てを与える。できるならば心も精神も全てを受け入れる。特に婚姻の秘跡において、夫婦は、キリストとその神秘体である教会にならって、一つとなった体を天主に捧げる。捧げもの、贈り物、与えたものは、取り戻すことはできない。リサイクルはできない。再使用はできない。天主に捧げられたものはいけにえとして屠られる。婚姻でも同じだ。結婚前の貞潔を守ることは、配偶者に自分を完全に与えると言うことを意味している。司祭の独身制も同じだ。天主に心も体も全てを贈り物として捧げるからだ。それが創造主の婚姻に関する計画だ。

天主は愛である。人間が天主の愛深い全能にならって、男性が父親となり、女性が母親となることを天主はお望みだ。人間が、ウイルスやバクテリアのような下等生物にならって生きることをお望みなのではない。

天主は一人の男性と一人の女性とが家庭をつくり愛を学ぶことをお望みだ。そのような家庭から生まれた子供たちが父親と母親とから守られて愛されて成長し、また自分も愛することを学ぶことができるためだ。それはすべて、私たち人間が永遠の生命に到達することができるためだ。そのような家庭は、国家のできる前から存在する。国家は、そのような堅固な家庭に依存している。だから全聖書は、婚姻外での全ての性的な行為を禁止している。旧約も新約も、同性愛の行為を厳しく禁止している。

天主は人類に信頼して人類にとてつもない力を与えた。天主の創造の御業に協力する力だ。別の人間を生み出すことができる力だ。女性の偉大さは母親となることだ。女性は子供を産む機械ではない。母親となるべき存在だ。母とは、私たち一人ひとりにとって最も偉大な存在だ。母親から生まれてくる全ての子供たちは、どの子もすべて貴重で大切な存在だ。天主がお望みになって宿った子供たちだからだ。

天主は、女性が善き母となり、男性が良き父親となることを欲している。天主がお望みのように、私たちも、社会も、国家も、女性を母親として(母親となるべき方として)尊重し大切にしなければならない。天主が欲しておられるように、女性が良き母親として大切にされるために、男性を父親として尊重し大切にしなければならない。母親を尊重し、父親を尊重する社会は、子供たちをも尊重する。受精の最初の瞬間から人間として子供たちを愛する。それが天主の御計画だ。

しかし、性の快楽だけを追求する社会は、子供を尊重しない。子供を邪魔だと考えて、殺害する。堕胎だ。犠牲者の子供の数は、過去の大戦争の犠牲者の数を遥かに超えている。天主の愛の計画を無視する人々は、弱者である子供のことを無視する。

子供たちは捨てられている。何故なら、懐妊する前は、子供はいらない、邪魔だと考えているからだ。
もしも望まれないなら、子供たちは殺害されるからだ。性に快楽さえ楽しめれば、子供を殺す権利があると考えているからだ。
もしも望まれているのなら、子供を人工的に「生産」すれば良いと考えるからだ。卵子を買い、精子を買う。ペットであるかのように。人工授精用の卵子を取り出すために、女性は多くの薬剤を飲み恐るべき苦しみをうける。
子供たちは、胎児の時、「生産品」として凍結させられ、実験のために使われ、不要になれば廃棄される。
子供たちは、胎児の時、お金で貸し出された女性の胎内で成長する。そのような女性は出産直後の離別を準備しつつ、自分の胎内の子供に愛情が移らないように胎内の子供に冷たく接する。
子供たちは、お金で買われて、同性愛カップルによって育てられる。
そのようにして生まれてきて買われた子供たちは、自分の本当の父親と母親について知る権利を奪われ、父親と母親と一緒に生活する権利を否定される。
多くの子供たちは、生まれる前から、胎内にいながら、自分の親から捨てられている。
多くの子供たちは、親の離婚によって孤児となっている。
子供たちは、学校で性教育を強要されて、純潔を奪われている。
子供たちは、ポルノを簡単に目にすることができるようにさせられている。
子供たちは、性的に異性を挑発する大人の悪い見本を見せつけられている。
子供たちは、幼少のころから自分の性別を分からなくさせられている。
子供たちは、幼少のころから、自分の性別を自分で決めることができると教えられて、ホルモン療法や外科手術を受けることが合法的にできるとされている。
多くの子供たちは、子供としての幸せな幼少期を奪われている。
子供たちは、苦しんでいる。子供たちは、助けを求めている。

【性革命】

性革命は、人類を試みる。いざないの罠をかける。
「性的な行為をしてはいけないと天主は言われたそうだが、それは本当か?」
「婚姻の枠の中であれば性的な行為はよいことです。ただ婚姻の外では、それを行ってもならないし、望んでもならない、そうすると死ぬことになる、と天主は言われました。」
「いや、そんなことで死にはしない。おまえたちが、自由に、思いのままに、性について決めればよい、行えばよい、そうすれば神々のようになる。思いのままに愛すれば、この地上は楽園のようになる。」

現代人は、愛と命の天主の計画に背こうとする。現代人は、自由という名のもとに性欲の奴隷となり下がった。慎み深さ、貞潔、純潔の代わりに、性の「自由」が称賛され、女性が商品化され、搾取されている。その一つがポルノだ。現代人はポルノの中毒に犯されている。現代のアヘンだ。小学生でさえも性教育という名前でポルノのような教材を見せられている。

さらにジェンダー平等教育の名前で、子供たちは自分の性別も分からなくさせられている。子供が選択したジェンダーを誰もが尊重しなければならないとされる。親でさえも反対するならば処罰される。自由の名のもとに、慎み深さや貞潔、童貞を守るという本当の自由が剥奪(はくだつ)されている。自由の名のもとに、現実を語る自由、真理を語る自由が奪われている。そのために子供たちは苦しんでいる。

同性愛カップルは、統計によると、相手を頻繁に変える。「同性婚」が法律化された国の統計によると、国民の2%が同性愛カップルだとされる。その同性愛カップルのうちの2%が「同性婚」として登録する。つまり国民の0.04%だ。同性愛同士が生涯忠実に一緒に生活するのは極めてまれだからだ。統計によると、同性愛者の多くは性病や精神不安、うつ病、自殺などで苦しんでいる。

母親の胎内の子供たちは、「自由」の名前のもとに、毎日何百、何千という子供たちが虐殺され屠られている。現代人は自分の性の自由を楽しむために、子供を殺す権利があるという。それが女性の選択の自由だと叫んでいる。性革命は、たんなる嘘だ。人類を奴隷にするものだ。人類に死をもたらすものだ。性革命のために、人類はいま深く苦しんでいる。現代人が天主との関係を失ったからだ。

肉体の快楽だけを追求する社会の人々の心は虚ろで、傷ついている。求めても求めても満足することがないからだ。純潔と貞潔が生み出す美しさと喜びを失ってしまっているからだ。

カトリック教会は、現代人を助けることできる。それはイエズス・キリストをそのまま与えることだ。聖母の模範を伝えることだ。

現代人は、「私は自分で自分の人生を決める。私はやりたいことをやる。自分のことは自分で決める」という。

しかし、イエズス・キリストは私たちにこう教える。「天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを。御国の来たらんことを。御旨(みむね)の天に行わるるごとく地にも行われんことを。」聖母はこう言われる。「われは主のつかい女なり。仰せのごとく我になれかし。」
つまり「主よ、私は、自分の人生を主に委ねます。主のみこころに従います。私は主のしもべです」と言うことだ。私たちは天主の愛とつながっている。私たちが主に信頼するとき、私たちに本当の幸せと喜びが与えられる。

【聖母は私たちを助けてくださる】

聖母は謙遜で、天主に従順だ。自分の思いではなく、客観的な天主の掟に従う。

聖母は終生童貞だ。御自分を完全な贈り物として天主に捧げられる。われは主のつかい女なり、仰せのごとく我になれかし、これが聖母の生き方だ。罪の汚れがないお方だ。原罪の汚れさえもないお方だ。聖母は聖霊のいと清き浄配だ。

聖母は母親だ。天主の御母だ。最高の母親だ。女性の偉大さは男性のようになることではなく、善き母親となることにある。肉体的な母親、あるいは、霊的な母親となることだ。聖母は母親として最高の生涯を送り、ついには天の元后となられた。

聖母は、私たちの母親でもある。贖われた私たちの霊的な母親だ。聖母は私たちを子供として愛し、世話をしてくださっている。聖母は善き母として、私たちを革命から守られようとされている。私たちがしなければならないことは、聖母からの助けを受け入れることだ。

(続く)


【書評3】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(3)

2023年03月07日 | プロライフ

【書評3】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(3)
アヴェ・マリア・インマクラータ!

LGBTQ+運動とは性革命の一段階だ。

毛沢東は文化革命で中国の過去の遺産を全て破壊しようとした。しかし究極の革命とは天主の創造の秩序の破壊だ。性革命は、究極の革命の一部だ。

テサロニケ人への後の手紙には、主イエズス・キリストの再臨の時についてこうある。
「それ【主の来臨】より先に、棄教のことがあり、罪の人、亡びの子が、天主の聖所にすわり、自分を天主として示し、天主ととなえられるもの、崇敬されるもののうえに、自分を立てる反逆者としてあらわれるまで、主の日は来ない。」

「罪の人、亡びの子」とは一体誰か?「天主の聖所にすわり、自分を天主として示す」とはどういう意味なのか?

「罪の人、亡びの子」とは、天主の創造の秩序を破壊しようとする人間のことだ。天主の十戒をあえて破り、天主の御旨(みむね)に従おうとしない人々のことだ。
「天主の聖所にすわり、自分を天主として示す」とは、いにしえの蛇(サタン)の誘惑をうけた人祖のように、自分のやり方で天主のようになりたいと欲することだ。

現代人は自分が神だという

現代人は、天主など存在しないという。現代人は、自分こそが神だという。
何が善で何が悪かを決定するのは私だ、という。
天主の十戒など関係ない、という。そんなもの知ったものか!という。

私は、やりたいことをする。私は自由だ。
私は、男であるか女であるかさえも自分で決めるし、決めることができる!
子供が生まれてくるか、生まれてこないか、私が決める。
避妊薬を飲み、堕胎薬を飲み、堕胎手術も自由にする権利がある。これは、私の自由だ。
性的な快楽を自由に楽しみ、それにともなう一切の制限は拒否する。性の快楽さえあれば子供はいらない。結婚もいらない。私は自由だ。性交のパートナーは男だろうが女だろうが何人だろうが自由に選ぶ。複数の男が複数の女と関係があるのも自由だ。近親相姦も何が悪いのか。獣姦もやりたい放題だ。私は自由だ。

同性愛のカップルに子どもが必要なら、工場製品のように部品を買って生産すればよい、と現代人は言う。卵子を買う、精子を買う、代理出産の女性の胎を買うのだ、と。

こうして生まれてきた子供は自分の本当の親が誰かを知ることもできず生まれてくる。子供は自分の両親のもとで育つ権利を奪われて同性愛カップルに渡される。このようにして子供を「生産」することは、天主の定めた命の掟に反している。天主の計画に恐るべきやり方で逆らっている。

性革命のトランスジェンダーの段階

同性愛者の「結婚」の次は、トランスジェンダーの段階へと性革命は進む。トランスジェンダー・イデオロギーを幼少期から押し付けて洗脳する。何故なら、もしも「同性婚」が法律で認めらえるようになれば、それを子供にも教えなければならないからだ。合法化されたのだから。結婚が揺らぐことによって、家庭が傷つく。家庭が病むことによって社会の基礎が揺らぐ。

子供は幼稚園のころから性に目覚めさせられる。思春期の少女は、自然の摂理に従って自分の体がおかしいと思うようになる。しかしジェンダー・イデオロギーは、少女たちに女性ホルモンをストップさせる薬を与え、彼女たちを生涯不妊にさせる。医者は少女たちの健康な胸を切り取ってしまうこともする。現在18才の Chloe Cole はそれを経験させられた。彼女は脱トランスジェンダーした。

もし私がリストカットをしたら、もしも私が健康な足を切り取ったら、精神の病気だと言われるだろう。しかし、もしも私が自分の生殖器を切り取ったなら、小宇佐神父は「病気ではなく、多様に現れる人間の個性なのです」と言うかもしれない。しかしそれは私にとって本当に必要なアドバイスではない。そのような私に必要なのは、天主の秩序に戻らせてくれる真理の言葉だ。こころと体の不一致というジェンダー・ディスフォリアの原因を調べるべきだ。40%のトランスジェンダーの方々は「性転換」(本当の転換は人間にはできない)の前に自殺を試みている。「転換」の後でも40%が後悔して自殺を試みていると言われている。実際に自殺をするのは19~20%だ。ジェンダー・ディスフォリアの人々を救うのは、天主の御計画に戻ることだ。

人類は何千年もの間、男と女が結婚すると知っていた。男と女との違いを知っていた。現代の人間は、結婚が何かが分からなくさせられた。男と女が何かもわからなくさせられた。人間が何かも分からなくなりつつある。カトリック信者というアイデンティティも消えつつある。日本人というアイデンティティも失わされるだろう。全世界が全体主義の呪縛に陥る危険がある。

私たちは天主の秩序に戻らなければならない。
洗者ヨハネが来て、ユダヤの荒れ野で教えをのべ、「くいあらためよ、天の国は近づいた」といった。イエズスは、教えをのべはじめていわれた「くいあらためよ、天の国は近づいた」。
聖母はルルドでこう言われた。「痛悔しなさい、痛悔しなさい、痛悔しなさい」と。
聖母はファチマでも言われた。「ロザリオを唱えなさい。」「人々は自分の生活を改め自分の罪の赦しをこい求めなければなりません。彼らは私たちの主に罪を犯してはなりません。主は既にあまりにも多く侮辱されすぎています!」

私たちは聖母にならって、天主の秩序に戻らなければならない。

聖母の謙遜と従順

聖母は、無条件に天主の御旨(みむね)を受け入れた。天主にまったく従った。聖母は謙遜だった。聖母は従順だった。聖母は全てを受け入れた。童貞でありながら母親となるという不可能に思われることにも従った。石殺しになるかもしれないという危険もあったがそれを捧げた。
「我は主のはしためなり。仰せのごとく、われになれかし」、これが聖母の答えだった。天主のお望みになることを聖母は全て行った。聖母の謙遜と従順は、現代人の傲慢と反乱の対極にある。

聖母の汚れなき御心

聖母の心は、いとも清い汚れのない御心だ。聖母の清さは、聖母の美しさの秘密だ。女のうちで祝せられた聖母は、美しさの極みだ。女性は美しさに召し出されている。つまり、女性は清さに召されている。全ての女性は聖母の持つ美しさに招かれている。聖なる清い生活へと招かれている。避妊具や避妊薬によって自分の情欲を思うがままに満足させる招かれているのではない。貞潔で純潔な笑顔の聖徳の美しさこそ本当の美しさだ。女性の美しさはその慎み深さにある。それが聖パウロがテサロニケ人への手紙で書いたことだ。「実に、天主のみ旨はこれである、あなたたちが聖となること。あなたたちは淫行を避け、あなたたちのおのおのがうつわを神聖に尊く保ち、天主を知らない異邦人のように情欲に溺れてはならない。…天主が私たちを招かれたのは、不潔のためではなく、私たちの主イエズス・キリストにおいて聖となるためである。」

現代人は、子供に性教育を押し付けて子供からも清い純潔の美しさを奪おうとし、天主の秩序に逆らって情欲の奴隷となり、性欲に燃えることが「自由」の達成だと錯覚している。終生童貞である聖母は、現代人の反乱の対極におられる。

私たちは聖母の謙遜と美しさにならわなければならない。

(つづく)


【書評 2】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(2)

2023年03月06日 | プロライフ

【書評 2】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(2)

【小宇佐敬二神父は、谷口神父の書評を断罪する】

谷口神父の書評は、日本カトリック正義と平和協議会のみならず、カトリック新聞の連載記事でも断罪された。連載2の記事を書いた小宇佐敬二神父は、谷口神父の書評を「谷口幸紀氏【ママ】(カトリック司祭)のLGBTQ+の方々に対する無知と偏見、差別や侮辱、憎悪に満ちたヘイト記事」「言葉による暴力」であると決めつけた。



小宇佐神父は、善と悪との戦いという次元(「神と悪魔の戦い」)と、唯一の創造主という次元とを混同している。だから「善悪の二元論」は「主のみを神とする一元論」となじまないと主張する。従って小宇佐神父によれば、天主と、天主の愛に逆らう悪魔との間に戦いがあるとする聖書の読み方は、つまり、カトリック教会がそれまでやってきた聖書解釈は、唾棄すべき「原理主義」である。

創世記1:27「天主はその御姿のごとく人間を造り給えり。天主の似姿のごとくに、そを造り給えり。そを男性と女性とに造り給えり。」これを、ユダヤ教の時代から使徒たちと教父たちを経て、カトリック教会はつねに男性と女性の二つだけがあることと理解してきた。「性別二元論」という「論」ではない。カトリックの教えだ。しかし小宇佐神父は、自分の権威に訴えて、カトリック教会の二千年間の解釈を「偏った解釈」とうち捨てている。

LGBTQ+の本質は、天主が打ち立てた自然の制度である家庭を否定することだ。一人の男性と一人の女性が子孫の出産と養育のために一体となるという天主の御計画による家庭とは無関係に、"自分の好きなように自分の思うように、子供の出産と関係なく、誰とでも、どのようにでも性行為を行うこと"を正当化するイデオロギーだ。男と女とによる人類の繁殖のための自然の構造を、それとは無関係に使うことだ。それを法制度として認めるように要求することだ。

【アンウィン著「性と文化」による分析】

JD Unwin (1895–1936) は「性と文化」(1934)で、86の社会と文明を分析した。その結果、社会は、婚前の貞潔を守るか否かによって文化が発展するか否かが決まる。婚前の貞潔こそが社会の発展と存続のために最も重要な要素だという。

ちなみにアンウィンは、キリスト教信者ではなかった。オックスフォード大学の社会学の教授だった。アンウィンによれば、婚前の貞潔を守り、かつ絶対的な一夫一妻制を取る社会は、三世代のうちに、文化、芸術、科学、家具、建築、工学、農業全ての分野で他の文化を遥かにしのぐようになる。婚前の貞潔がなくなってしまうと、一夫一妻制、信仰、理性的思考力が三世代の内に消滅する。ある文化に完全な性の自由が認められると、三世代の内にその文化は崩壊する。自分の欲求と必要しか考えなくなり、他のより大きな社会的エネルギーを持った文化に征服される。性に関する制限の変化の全効果は、三世代たたないと完全に実現しない。

LGBTQ+は、性文化革命が進行することによって生ずる一過程だ。LGBTQ+はさらにその原理を推し進めて、アンウィンの言うように私たちの社会を崩壊に導くだろう。何故なら「性自認」はLGBTQIA2S+ とさらに呪文が続き、その次の段階があるからだ。その例証は、バイデンが昨年2月に任命したエネルギー省の高官サム・ブリトン(Sam Brinton)だ。ブリトンは、犬を自認している男と"関係"を持っている。つまり「犬自認」の男性だ。いや犬だけに限らない。Ant, Batterfly, Cat, Dog, Eagle, Fox, etc. etc. いわば、ABCDEF+ だ。革命は、誰かが止めなければ、社会の完全な崩壊まで続く。


ちなみにブリトンは昨年12月に飛行場で女性の荷物を盗んで逮捕され、エネルギー省を休職していると報道があった。彼は解雇されなければならなかったはずだ。

【LGBTQ+の問題は、法律によって公共の社会生活に影響を与える】

LGBTQ+の問題が公共の社会生活に法律によって影響を与えていること、社会の存続に関わる大問題になっていることに、小宇佐神父はまったく気づいていない。小宇佐神父は「自分はトランスジェンダー女性だ」と偽る男性が女性用の浴場やトイレに闖入することを「確かに犯罪」としつつ、「警察が扱う問題」だから「問題のすり替え」をしてはならないと、議論を放棄しているに過ぎない。いったいどうやって「偽る」ということを客観的に証明するつもりなのだろうか?

「差別禁止」という名前のもとで、社会生活において女性が差別をうけることを考えて見たことがあるのか?「自分はトランスジェンダー女性だ」という「性自認」を社会全体が受け入れなければならないと罰則規定がある法律ができた時、女性たちや子供たちはどう身を護ればいいのか?これこそが、核心的な問題だ。「差別禁止法」ができた場合、「自分はトランスジェンダー女性だ」と自認する男性が女性用の浴場やトイレに闖入することを「確かに犯罪」だと断言することさえも処罰の対象となるからだ。

ある司祭があるいは信徒が、カトリック教会の伝統的な教えを主張した場合、今現在は、日本カトリック正義と平和協議会あるいはカトリック新聞が、批判するだけだ。あるいは司祭は僻地に左遷させられるだけですむ。しかし「差別禁止法」ができてしまうと、逮捕され、投獄される危険がでてくるだろう。

【「NO!セルフID 女性の人権と安全を求める会」とノートルダム清心女子大】

最近、ノートルダム清心女子大が自主的に「自身の性自認にもとづきトランスジェンダー女性」を受け入れることとした。谷口神父が書評で指摘しているように、これに対して、「NO!セルフID 女性の人権と安全を求める会」は、ノートルダム清心女子大・津田学長宛に抗議の文書を送った。

「NO!セルフID 女性の人権と安全を求める会」が取り組むことは、次の三つだ。
1、私たちは、自認にもとづく性別が法律・制度・公共施設の運用などに適用されることに反対します。
2、私たちは、生物学的性別にもとづく権利(sex-based rights)が保障され、女性の人権と安全が守られることを求めます。
3、私たちは、性自認至上主義的な言動に対して異論を唱えても不利益を被らない民主主義的な社会を求めます。

【女性の人権と安全を求める立場からの抗議の手紙】

ノートルダム清心女子大・津田学長宛の抗議の手紙を参考資料として以下に転載する。

ノートルダム清心女子大学 学長 シスター津田葵様
ノートルダム清心女子大学 多様な学生受入れ委員会委員長 本保恭子様
 女子大である貴学が2023年度からトランスジェンダー学生を受け入れるというニュースに接してたいへん驚きました。これは一大学の方針転換にとどまらない大きな問題だと考えます。そのため、女性の人権と安全を求める立場から、いくつかの看過できない問題を指摘するとともに、強い抗議の意思を表明いたします。

1.他者から確認することができない「自認」によって入学の可否が決められ、しかも入学後は自認が不問とされること
 『山陽新聞』の6月16日付の報道(https://www.sanyonews.jp/article/1273504)によると、「診断書の提出は求めない」とあります。つまり、医師のまったく介入しない、純粋な自己判断による性別認識での出願・入学が可能です。これは根本的に客観性を欠き、女子大学としてのあり方を根本的に損なうものです。そもそも女子大学ができたのは、女性がその生物学的性別ゆえに高等教育から排除されてきた歴史があるからです。けっして性自認が女性だから教育の場から排除されてきたのではありません。女性であるがゆえに学ぶことを許されなかった女性たちに高等教育の機会を与えるためにこそ、女子大学が設立され、存続してきたのです。貴学の新しい方針は、このような女子大学の歴史と理念を真っ向から否定するものです。

 一方、貴学ウェブサイト内の「多様な学生(トランスジェンダー女性)受入れガイドライン」(https://www.ndsu.ac.jp/life/support/pdf/transgender.pdf)(以下、ガイドライン)には、「男性が自認を偽って入学するいわゆる『なりすまし』が発覚した場合、学則に基づき退学とします」とあります。しかし、医師の判断によらない主観的な自認にもとづくかぎり、なりすましなのかそうでないのか判断材料は存在しませんし、そもそも、貴学の「多様な学生受け入れ委員会」を含む他者から確認できるものではありません。確認することができないものを根拠に入学や退学を決定するならば、そこに必然的に恣意性が生じますし、それは教育機関としてあるまじきことです。しかし、実際に「なりすまし」であったとしても、ガイドラインには「入学後に、性自認や戸籍がどのように変わっても、そのことを理由に退学になることはありません」とあるのですから、それが適用されれば、問題は何もなかったことになるでしょう。それもまた教育機関としてたいへん不誠実なありかただと言わざるをえません。

2.「トランスジェンダー女性は『多様な女性のうちの一人』です」というメッセージは、現実においては女性の人権を侵害するものであること
 前述したガイドライン、および貴学学長のメッセージにおいて「トランスジェンダー女性は『多様な女性のうちの一人』です」とされています。しかし、「トランスジェンダー女性」であることの根拠は本人の主観と自称しかなく、それをもって「多様な女性のうちの一人」と断定するのは、女性の権利と安全を脅かすものです。

 女性はその身体性が男性とは異なることで、男性に比べて低く見られ、性暴力の対象となり、搾取されてきました。つまり、体格や筋肉・骨格などが男性に比べて相対的に脆弱であること、月経があること、妊娠する可能性のある身体であること、などです。だからこそ、女性を男性による侵害の可能性から保護し、その権利を守るために、女性専用のトイレや浴室、更衣室、女子スポーツなどが存在するのです。しかし、ただ性自認だけで決まる「トランスジェンダー女性」を「多様な女性のうちの一人」とみなすことは、このような男女間の身体差を否定することと同じです。それを押し付けるならば、女性の人権と安全を根本的に侵害することになります。実際、自認に基づく性別変更を安易に認めている国々において以下のような問題が起こっています。

・ 女子スポーツに身体的男性、とくに男性器を保有したままの人たちが女性を名乗って参加し、優勝し、賞金、栄誉、奨学金を得ています(アメリカの大学水泳選手権で優勝したリア・トーマスなど)。

・ 米国などで、性犯罪者を含む男性身体者が女性を名乗るようになった結果、女子刑務所に収監されるようになり、その中で性暴力事件を起こしています。妊娠させられた女性もいます(イギリス、カナダ、カリフォルニアなど)。

・ スパ施設などの女性用エリアに男性器を露出させ半勃起させている人物が入ってくることが可能になっており、施設側は法律の規定によりその人物を追い出すことができません(カリフォルニアのWi Spa事件など)。

 以上の事例は極端なものに思われるかもしれませんが、いずれも自認優先の性別変更がなければ起こりえなかった問題です。

3.女子トイレの使用の可否および『みんなのトイレ』の問題性
 貴学のガイドラインでは、「多くのトイレは女子トイレ/男子トイレにわかれていますが、男女の区別なく使用できる『みんなのトイレ』を……2か所に設置しています。どなたでも自由に利用でき更衣室としても使用できます」とありますが、「トランスジェンダー女性」にこのトイレを使うことを義務づけるものになっていません。ということは、貴学の女子学生には、男性器を具えたトランスジェンダー学生とトイレや更衣室をいっしょにしたくないという選択権は何ら与えられていないことになります。女性にとって男性から自分の無防備な姿を見られるだけでも生涯にわたる心の傷を残す可能性があります。トランスジェンダー学生には最大限の配慮をしながら、どうして女子学生たちの選択権や意向はないがしろにされるのでしょうか? あなた方は「女子大学」を名乗っているというのに!

 他方で、トランスジェンダーの学生にこの「みんなのトイレ」を使うよう促すとすれば、おのずとそのトイレのみを使う学生がトランスジェンダーであることを外部に示してしまうことになり、したがって、「それ自体がトランス差別でありアウティングである」との非難が起こりえます。もしトランス権利運動家からトランスジェンダーの学生に女子トイレを使わせないのは差別だと非難されたら、それに反論できるでしょうか。

4.「アウティングしてはならない」という心理的負担を学生たちに負わせること
 性自認は客観的なものではありません。入学審査はパスしたとしても、日々ともに過ごす女子学生たちの間で、「女性」として受け入れることに抵抗が生じる可能性は十分にあります。そうしたときにも、ガイドラインに従うならば、アウティングは「絶対にしてはいけない」ものとして「ハラスメントとして対処」されるものであるため、疑問に思ってもその感情を学生同士で話し合うことができません。  十代後半から二十代初めは、見聞を広めそれらについて考えをめぐらせ、その後の人生の基盤となる考えや価値観を形成する大切な時期です。その際に重要なことは、真実の追求が妨げられることなく、欺瞞なく、所与のものを疑ったり検討したりする場や雰囲気を持つことであり、大学とはそのような空間であるべきです。しかし、「トランス女性は女性である」と掲げられている大学の中では、自分の感覚や考えがそれに沿わないと入学後に気づいても、逃げ場がありません。それは思想信条の自由が十全に保障されないということであり、青年期の心の発達に対してもマイナスの影響が生じかねません。これもまた、教育機関としてあるまじきことです。

 貴学は来年の2023年度からトランスジェンダー学生の受け入れを開始するとの方針を公表しています。他の女子大学では、在学生の抵抗感を考慮して、在学生が卒業してからのトランスジェンダー学生の入学を決めた女子大学もあります。しかし、貴学はそのような配慮すらせず、2022年5月にガイドラインを発表し、6月1日に学長メッセージで全学生に伝えました。安心で安全な女子大学に入ったつもりなのに、何の相談も受けることなく、いきなり来年度から、男性器を有した学生といっしょに大学生活を送らなければならなくなった女子学生の気持ちを考えたことがあるでしょうか?

 貴学の教育理念の一つは、「時のしるしをよみとりながらも、時代の流れにおしながされることなく、人々が真に求めるものにまなざしを向け、人びとに奉仕する大学である」となっています。しかし、貴学の新しい方針のもととなるトランスジェンダリズム(性自認至上主義)は、「人びとに奉仕する」思想ではありません。それは女性を迫害し、女性の人権を抑圧する思想と運動です。どうか、人権擁護や多様性という美名に「おしながされることなく」、実際に世界中で何が起きているのかをよく調べ、貴学の方針をどうか再検討してください。貴学の女子学生たちの人権と尊厳を守ってください。

2022年6月25日
No!セルフID 女性の人権と安全を求める会
共同代表 石上卯乃 桜田悠希

【なぜ、今、女性の方々が声をあげて抗議しているのか?】

なぜ、今、女性の方々が声をあげて抗議しているのか。嫌ならノートルダム清心女子大学から退学する、入学を希望しない、転校する、ですむのではないか?いやノートルダム清心女子大学だけの問題ではないからだ。これが、小さな亀裂となって女性の安全を守っていたダムが決壊することが危惧されるからだ。同じことが日本中の女子専用施設に広がる危険があるからだ。「差別禁止法」ができると、女性の人権と安全が守られなくなるからだ。今が声を上げる最後のチャンスだからだ。だから私たちも、今、声を上げなければならない。

同じ原理が女子修道会にも適応されなければならなくなる。自認女性(外見男性)が入会を希望した場合、入会を認めなければならなくなる。自認年齢も認めなければならなくなる。若い修練女たちがレイプされることも覚悟しなければならなくなる。女子修道会の存続も危ぶまれるようになる。同じことがカトリックの神学校にも適応される日が来てしまうかもしれない。

カトリックの司教たちこそ、性革命に対してNO!と言わなければならないはずだ。女性や子供たちがジェンダーイデオロギーの犠牲者とならない前に。

(つづく)

【2023年3月7日追記】

或る読者の方が「カナダの高校生が、トランスジェンダーの男が女子トイレに入ることに抗議し、警察に逮捕される」という記事を教えてくださいました。

また別の読者の方が、WEFはLGBTの次のステップとして、動物と人間の婚姻を進めようとしていることを教えてくださいました。
https://newspunch.com/wef-says-its-time-to-legalize-sex-and-marriage-with-animals-to-promote-inclusion/

主よ、憐れみ給え!


【書評】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(1)

2023年03月03日 | プロライフ

【書評】谷口幸紀神父の書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで」を読んで(1)

「LGBTとキリスト教――20人のストーリー」という本については、その存在を知っていた。菊地大司教の書いたコラムについて言及したこともある。

しかし谷口神父はそれの書評を書いていた。谷口神父の書評について知ったのは、日本カトリック正義と平和協議会の「声明文」のおかげだ。谷口神父は自分のブログで「問題」の書評の全文を公開し、紹介している。それを読むと、この書評では問題を深く取り扱っていることがわかる。何故、日本で働いている二人の司教がこの書評を断罪しなければならないのかわからない。

書評「『LGBTとキリスト教―20人のストーリー』を読んで(上)」には、〈不都合なケース〉が紹介されている。

女性たちや子供たちはどう身を護ればいいのか?

谷口神父が指摘しているのは、「客観的で生物学的な基準に基づく外見上の男性(あるいは女性)」がなんであろうと、「自己申告による自認男性(あるいは女性)」に従って、社会も行政も「自認」に従って取り扱わなければならず、そうしないと罰せられる法律が生まれている、ということだ。

つまり「見た目は男性の自認女性」が、「見た目も女性の自認女性」の更衣室やシャワー室、温泉の女風呂に裸で闖入(ちんにゅう)し、レイプ事件が頻発している現実がある。

スポーツの世界では「見た目は男性の自認女性」が「見た目も女性の自認女性」に勝ち、優勝する。

さらにひどい被害者は子供たちだ。アメリカなどでは、子供たちにジェンダー・イデオロギーを押し付け、「男の子でも女の子でも、どちらでも好きなほうになれる」誘導して、その子の「自認した性」に誘導し、手術を含めて固定化しようとすることが行われている。

性自認の法律ができた場合、女性と子供たちにとっては、自分を守ってくれるものがなくなってしまう。

そればかりか、トランスジェンダーだったその人たちが、トランスジェンダーしたことを苦しみ後悔し自殺率が増加している。彼らは元に戻って幸せになっているという事実がある。

ヨーロッパの一部の国では、法律は、父、母ではなく「親1」「親2」と呼ばれている。父あるいは母だと自認している人々でさえ、自分たちのアイデンティティが認められなくなっている。

客観的な基準で判断するのは差別か?

男女を外見や遺伝子で判断すると差別とされるならば、その論理に従うなら、年齢による区別も差別になるだろう。なぜ未成年は結婚できないのか、なぜ老人だけが定年があるのか、「年齢自認」も認めなければならなくなる。年齢だけではない。学歴も差別だ。資格も差別だ。入試も差別だ。「自認医者」にも開業させろ。俺は「自認国会議員」だ、「自認聖徳太子の子孫」だ、という話に発展する。なぜ「自認女性」は認めて、ほかの「自認」は認められないのか?

まちがった原理を認めるならば、その論理的な結果も全て受け入れなければならなくなるからだ。

外国では、15歳の少女を自認する31歳トランス男性が他の女子と一緒にシャワー浴びる事を許可されたそうだ。これも受け入れなければならなくなる。

「埼玉県LGBT条例基本計画案に対するパブコメ」では、ほとんどの声が反対だった。しかしそれらは全く無視された。つまり「パブコメ」は形式だけで、LGBTの声だけを聞くためにあり、女性の声をきくためにあったのではなかったのだ。

富士見市議会議員 加賀ななえは、安全を求める女性の声が「差別」とされたのに驚き、女性の人権、生存権が尊重されていないことに声を上げた。https://twitter.com/Nanaekaga/status/1629798035726409734?cxt=HHwWjIDR8bWrmp4tAAAA

(続く)

【参考情報】【我那覇真子インタビュー】LGBT当事者ウォルト・ヘイヤー氏告発:性転換手術は「史上最大の医療詐欺」 Sex Change Regret : Walt Heyer - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

ミュラー枢機卿「『ドイツのシノドス・セクト』はカトリック信仰をLGBTイデオロギーに置き換えている」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

ハンガリーのマールフィ大司教はLGBTイデオロギーがイスラム教よりもさらに「大きな脅威」とし、欧州の多くの地域で同性愛を受け入れていることを強く非難 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

ポール・コークリー大司教は、カトリック信者の弁護士、実業家、CEOらの会合で、トランスジェンダー運動を「善意の狂気」だとして糾弾した。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


【参考情報】2月26日(日)午後1時国会前:経口中絶薬導入の反対演説 | いのちを守る親の会

2023年02月26日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考情報です。


2023年1月27日、厚生労働省は経口中絶薬「メフィーゴパック(ミフェプリストン/ミソプロストール)」の導入を了承しました。
ただしこの決定は慎重を要するため、パブリックコメントの結果を参考にしたうえで、3月に行われる薬事分科会での審議で正式承認がなされる見込みです。

メフィーゴパックは中絶後の母体への大きな影響(身体精神ともに)も懸念されるとともに、安易な堕胎(いのちの軽視)を加速させることが何よりの懸念事項です。

2月26日(日) 午後13時集合 
13時~14時 国会議事堂前にて声明・抗議


まさに闇から闇に葬られる赤ちゃんであります。

今回の事案ですが、母体保護法指定医のみが行えていた中絶が、密売や転売等により、かくれて中学生高校生でも、安易に行われるようになりかねません。

安易な妊娠に安易な中絶 この世はどうなってしまうのでしょうか。

今回の中絶経口薬。多くの人が「妊婦さんが安全に中絶できる」などと言われていますが、この経口薬承認により、闇中絶が倍増します。

殺される側。堕胎(おろ)される側。

赤ちゃんの立場でものを言う人が殆どいないことに驚きを隠せません。

明らかに母体保護法違反、堕胎剤212条にも抵触します。

この事は犯罪です!! 赤ちゃんは厳密に見ると3割以上の確率で自然流産しています。それを乗り越えて(母体に)「生まれてきた」のです。 どうかこの世に『産んであげて』ください!

(※どうしても育てる事ができない事実がある人は殺さずに、子を産めない方、授からなかった方が何十万人も赤ちゃんを待っていますので特別養子縁組でバトンタッチしてください。)




【参考情報】【我那覇真子インタビュー】LGBT当事者ウォルト・ヘイヤー氏告発:性転換手術は「史上最大の医療詐欺」 Sex Change Regret : Walt Heyer

2023年02月20日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考情報を提供いたします。「LGBT当事者告発/性転換手術は「史上最大の医療詐欺」ウォルト・ヘイヤー氏 Sex Change Regret : Walt Heyer」

独立系のジャーナリストである我那覇真子さんが、ウォルト・ヘイヤー氏にインタビューをした内容の動画です。

ウォルト・ヘイヤー氏は、8年間トランスジェンダーで女性になろうとした男性です。1983年4月に手術も受けました。しかしホルモン投与も手術も、性別を変えることができないという事実を体験によって知ります。彼によれば、手術により見かけは女性かもしれないが、男のまま残るのです。コスプレであり、ネームカードが男から女に変わるだけです。彼は後悔し、30年前に、脱トランスジェンダーをします。現在、世界中から1万人以上のトランスジェンダーの人々を、正常の生活の戻るように助けています。https://sexchangeregret.com/

研究によると、トランスジェンダーの手術を受けた方々の大多数(61.3%)は、痛みや出血、肉芽や尿漏れ、傷、などに苦しんでいます。多くの方々(20%)が後悔し、脱トランスジェンダー運動が起こっています。

トランスジェンダーを支持するスウェーデンにおける30年以上にわたる調査によると、トランスジェンダーの手術を受けた後の10年から15年の間には、あまりにもの後悔のために、トランスジェンダー手術を受けなかった人々と比べると、自殺率は20倍になります。

ウォルト・ヘイヤー氏の語ることを聞いてください。彼は自分が体験した苦しみから隣人を救おうとしています。彼の体験した苦しみを、無辜の子供たちに与えてはなりません。

Photo Credit


ザンビア・カトリック司教団、いかなる状況下でも同性愛の行為を認めることはできないと発言

2023年02月18日 | プロライフ

カトリック司教団、いかなる状況下でも同性愛の行為を認めることはできないと発言

The Zambia Conference of Catholic Bishops says acts of homosexuality are contrary to the natural law and under no circumstances can they be approved.

2022年9月30日

ザンビア・カトリック司教協議会は、同性愛の行為は自然法に反しており、いかなる状況下でも承認されることはないと述べた。

ZCCB事務局長のフランシス・ムコサ神父は、聖伝は常に、同性愛の行為は、生命の贈り物のための性行為に閉ざされ、本物の愛情と性的補完関係から発生していないので、本質的に秩序正しくない、と宣言してきたと述べた。

ムコサ神父は、この観点から、教会は、同性愛の傾向を持つ者を含むすべての迷った子供たちが、天主と人の前で正しいことを行うことを学ぶことができるよう、適切な援助と同伴を提供するよう求められていると述べた。

ムコサ神父は、社会の多くの勢力が、人間の性についての天主の目的と計画に反する、一般的な性、特に同性愛についての見解を促進していると述べた。

"したがって、上記の教会の立場に矛盾するソーシャルメディア上に出回っていることは、彼ら独自の意見であり、カトリック司教のザンビア会議は関与していない"と彼は言った。

 


「マーチフォーライフとは、日本では最も重要な開催です。」(ジェイソン・モーガン准教授)

2022年07月17日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹のみなさま、

明日のうみの日には、東京でマーチフォーライフがあります。

「マーチフォーライフとは、日本では最も重要な開催です。マーチフォーライフという催しほど大切な行動は、日本にはないでしょう。」(ジェイソン・モーガン准教授)





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】