Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの主イエズス・キリストの御降誕おめでとうございます

2013年12月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます。

今日、大阪でクリスマスの聖伝のミサがありました。次の通りの御報告を頂きました。御紹介します。天主様に感謝します!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父


――――――――――

アベマリア!
おめでとうございます(^O^)

クチュ-ル神父様は予定通り到着され、

5時半から玄義の間にキャロルをはさみながらロザリオを唱え、その後聖歌を数曲歌い、ミサが始まりました。

今日は25人の方が御降誕の歌ミサに預かるおめぐみを頂きました!素晴らしいお説教に皆感動し大きなお恵みに感謝しました。

御ミサ後、クチュル神父様から皆さんにCDのクリスマスプレゼントを頂き、馬小屋のイエズス様の前で食事を頂きました。

デオグラチアス!!

12月の日本での聖伝のミサを天主様に感謝します。ご報告を紹介いたします

2013年12月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝! 聖母の汚れなき御心に感謝! 12月の日本での聖伝のミサが行われ、ご報告を頂きましたのでご紹介します。日本に行かれたレネー神父様に感謝します。また、神父様のお説教を翻訳してくださった信徒会長さまたちに感謝します。

 今月も引き続き台風の被害者のための献金をしてくださり、東京では JPY48,350 (approx. USD462)が集められました。感謝します。

 フィリピンでは明日から「ミサ・デ・ガロ」と呼ばれる暁のミサが始まります。私たちの教会では早朝4時半からで、24日まで九日間続きます。
 良き待降節をお過ごしください!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【大阪での聖伝のミサの報告】

アヴェ・マリア!
12月の大阪での御ミサの報告です。
12月13日金曜日には、11名の方が、
14日土曜日には17名の方が御ミサにあずかる御恵みをいただきました。
天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!聖ヨゼフ様に感謝!レネー神父様に感謝いたします!

14日は、遠く福岡から求道者の方が初めて聖伝の御ミサ、公教要理にあずかられました。この方がお持ちになったロザリオや御像を御ミサ前にレネー神父様が丁寧に祝別してくださり、とても喜んでおられたようでした。

13,14日両日とも無原罪の御宿りついてお説教していただきました。翻訳してくだ さいました会長さま方に感謝します。
14日の公教要理では、お告げの祈りの「三つの謙遜」についてと「罪といけにえ」の意味を対比形式で詳しく説明していただきました。
お説教、公教要理については両信徒会長さまからのアップを期待いたします(^_-)-☆

では、良いクリスマスをお迎えくださいませ。
大変お忙しいと思いますが、どうぞお体に気を付けてお過ごしください!


【東京での聖伝のミサの報告】

レネ神父は今日のミサ中のお説教で、先週教会がお祝いした聖母マリアの無原
罪の御宿りについて詳しく説明してくださいました。無原罪の御宿りについて
は一見御托身に最も関連していると思われているが、実はイエズス・キリスト
のあがないの業にご自分を一致された聖母という点から見れば、実は共贖者と
なるために無原罪であったのある、という事実を教えていただきました。ま
た、私たちが苦しむ時、十字架上で改心した盗賊にならって、自分自身の罪を
つぐない、隣人の罪をつぐない、主と聖母の御苦難と十字架に一致することに
よって真に功徳を積んでお恵みを受けることができる、というお勧めをいただ
きました。

昼食後の霊的講話は、主が二度の来臨とその対比、アダムと新しいアダムであ
るキリストの対比、偽りの自由と真の自由の違い等についての解説、またヘブ
ライ人が紅海とヨルダン川を渡ったことが、実は私たちキリスト教徒が洗礼と
死という渡りをすることの前徴になっていること等を教えていただきました。

その後、待降節の晩課を歌って終了しました。

ミサの参列者数
男: 12人(内、子供0人)
女: 14人(内、子供0人)
計: 26人(内、子供0人)

霊的講話の参列者数
男: 7人
女: 4人
計: 11人

晩課の参加者数
男: 5人
女: 4人
計: 9人

【レネー神父様のお説教の日本語訳】


親愛なる兄弟のみなさん、

洗者ヨハネはなんの奇蹟もしなかった(ヨハネ10章41節)のですが、人々は洗者ヨハネの聖なる生き方の故に彼をメシアだと考えていました。なぜでしょうか?それは人々がアダムから引き継いだ罪の傷、すなわち原罪があること、そして、天主からの大変大きなお恵みなしにはそのように聖なる生き方をすることが不可能であることを知っていたからです。実際洗者ヨハネは大変立派な人であったので、私たちの主も洗者ヨハネについてこうおっしゃっています:「それなら、なにをしようとして行ったのか?預言者を見にか?そうだ、私はいう、預言者よりもすぐれた人である。“私は、あなたの前に、私のつかいをおくる。あなたの道をととのえさせるために”と書かれているのは、その人のことである。まことに、私はいう、女から生まれた人の中で、洗者ヨハネよりも偉大な人は出なかった。」(マテオ11章9-11節)と。

洗者ヨハネは預言者以上の人、天使のような人です。それでも無原罪ではありませんでした。洗者ヨハネも原罪を持っており、その原罪は、まだ母の胎内にいた時、聖母の御声によって洗い流されたのです:「なんとしたことでしょう、あなたのあいさつのお声が私の耳にはいると、私の子は胎内で喜びおどりました。」(ルカ1章44節)

かつて原罪から守られた人間はただ一人しかおらず、その人こそ童貞聖マリアです。その無原罪の御宿りを先週の主日にお祝いしました。これは大変大事な教理ですので、無原罪の御宿りについて少し説明したいと思います。

教皇ピオ9世はこの教理を定める際、聖母は御托身のために、すなわち御托身される天主の御言葉にふさわしい器となるために無原罪であったとおっしゃいました。しかし、聖書の中で「無原罪」ないし「汚れなき」という言葉を探してみると、驚くべきことにこの言葉が最も普通に文字通りの意味で使われているのは…私たちの主についてではなく、聖母についてでもなく、貞潔の徳についてでもなく、御托身についてでもなく、むしろ贖罪に関して、犠牲の生け贄の条件として使われているのです。すなわち子羊は「汚れなきもの」でなくてはならず、また祭壇に供えられる他のすべての生け贄も「汚れなきもの」でなくてはならないという条件です。聖書の中でこの言葉が使われている箇所のうち64%は旧約の犠牲の生け贄の条件としてなのです。そして新約聖書では2度だけ、私たちの主イエズス・キリストについて使われていますが、これも汚れなき子羊としてです:聖ペトロは言っています:「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなく汚点(しみ)もない(ラテン語では”immaculatum”)子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている。」(ペトロ前1章18-19章)と。また、聖パウロは言っています:「ましてや永遠の聖霊によって、汚れのない(ラテン語では”immaculatum”)ご自分を神にささげられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生ける神に奉仕させ得ないことがあろうか。」(ヘブライ9章14節)と。まことに「神の子羊を見よ」(ヨハネ1章29節)、旧約で条件とされていた全ての「汚れなき子羊たち」によってあらかじめ示されていたその小羊、「世の罪をとりのぞく」(ヨハネ1章29節)ことのできる、またそのお恵みによって聖母が無原罪となされた唯一の小羊です。

これによって、無原罪の御宿りを大変特別な見方で見る事ができます。聖母は、生みの苦しみなしに、いえむしろ最大の慰めをもって生む天主の子であるイエズスをお生みになるためだけに無原罪であるのではありません。聖母はまた、十字架の下で生みの苦しみをもって私たちを生むために無原罪なのです。聖母は天主の御母となるためだけに無原罪であるのではありません。聖母はまた、共贖者として私たちの母となるために無原罪なのです。これはいったいどうなっているのでしょうか?天主がどうして罪のない人に受難をお命じになることができるのでしょうか?これは不正ではないのでしょうか?しかし、父なる天主は自らの子に苦しみ、死ぬという命令をお下しになりました:「父が、私を愛されるのは、私が命をふたたびとりもどすために、自分の命をあたえるからである。その命は、私からうばうものではなく、私がそれをあたえるのである。私にはそれをあたえる権利があり、またとりもどす権利もある。それは、私が私の父からうけた命令である。」(ヨハネ10章17-18節)どうしてこのようなことがあり得るのでしょうか?

実は、天主はまさに正義の方であるが故に、罪のない者が苦しむとき、天主は必ず溢れんばかりの報いを与えられるのです!私たちの主イエズス・キリストの御受難と死の報いはなんだったでしょうか?世界の救いです!私たちの主イエズス・キリストは御受難によってあがない主になられたのです:「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる神の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』といいあらわすためである。」(フィリピ人2章8-11節)

そして聖母はまたー私たちの主イエズス・キリストの御恵みによってー無原罪でおられますから、聖母が十字架の下でお苦しみになったので、天主は溢れんばかりの報いをお与えになったのです:すなわち聖母は共贖者になられ、すべての(聖性の状態にある)生ける人の母となられ、慈しみの母となられたのです。聖母がこの力を得られたのは、私たちの主のあがないの効果を人々に分け与えるためなのです。

私たちの主イエズス・キリストも聖母も罪のない方でしたが、その故に苦しみから逃れようとされることがないどころか、その正反対でした。罪は高慢の為にこの世に入りましたから、罪の傷を癒すためには謙遜をもってすることが必要でした。罪深い人間(すなわちアダムとその子孫)は至聖なる三位一体に対して示すべき光栄、従順が足りませんでした。これを正すためには、至聖なる三位一体に対してより大いなる光栄、より大いなる従順を示さなくてはならず、それは聖なる人ヨブが言うように、まさに苦しみを受け入れる事にあるのです:「われわれは神から幸をうけるのだから、災(すなわち苦しみ)をも、うけるべきではないか。」(ヨブ2章10節)苦しみは罪の結果です。ですから罪のない者が苦しみを受け入れるとき、罪の償いをするのです。

聖人の、特に罪のなかった(一生涯大罪を犯さなかった)幼きイエズスの聖テレジアのような聖人の生涯をみれば、聖人達がなぜそれほど苦しんだのか、と思います。しかし、私たちが苦しみの神秘を理解しなければ、聖人達のことを本当に理解することはできません。罪の償いのための苦しみを天主の御手からすすんで、よろこんで受け入れることによって、新しいアダムである救い主、そして「かれにふさわしい助け手」(創世記2章18節)であり、新しいエワである聖母マリア、またそれに続く聖人達が、十字架に付けられたイエズスと共に、汚れなき子羊という完全な生け贄を捧げることによって、世界全ての罪の償いが行なわれるのです。

聖母は私たちの主イエズス・キリストによる贖罪によるお恵みの最も美しい対象となられましたが、そればかりではなく、聖母はその贖罪のお恵みをだれよりも沢山受けられましたから、聖母をキリストの贖罪の傑作と呼んでもよいでしょう。しかし聖母はそれに対してお返しをされました。聖母は十字架の下のイエズスと共に、自分自身をお捧げになったのです。それゆえ、その見返りとして聖母には更なるお恵みが与えられました:聖母は共贖者となられたのです。天主のなされる業には一定のパターンがあることがわかります。天主はまず、その者が受けるに値しないようなお恵みをお与えになります:聖母には無原罪の御宿りを、もっと低いレベルでは私たちには洗礼のお恵みを、といった具合です。このような最初のお恵みは、私たちが全く受けるに値しない賜物です:お恵みを受ける前にはまったく功徳がないのです。そこで、天主からのお恵みを受けた私たちは、天主からの愛に、愛で応えなくてはなりません(例えば、自分の義務を果たすこと、善行、特に慈悲の業を行なうこと、自分を捨てること、苦行を行なうこと、などによって)、とりわけ私たちの主イエズス・キリストと共に自分自身を生け贄としてお捧げせねばなりません。これらの善行は、私たちが善いことを行なうのをキリストがお助けくださり、それによって私たちが功徳を積む、という「協力的なお恵み」の成果です。最後に、天主はこの功徳に対して、私たちに永遠の命をくださるばかりではなく、この世でも多くのお恵みを人々にお与えになるなど、溢れんばかりの報いを下さるのです。

罪に深く沈んだ現代の世界では、十字架上のイエズスと共に自分自身を罪なき生け贄としておささげする、私たちよりもしばしばずっと純粋な犠牲を行なう霊魂が必要なのです。これは宗教生活でも可能ですし、年齢に伴う、あるいは病気に伴う苦しみをすすんで受け入れる事などでも可能でしょう。

苦しみが始まったとき、私たちがまず覚えておかなくてはならないことは、私たちは罪のない者ではない、ということです。私たちの主イエズス・キリストの側で十字架に付けられていた改心した盗賊のように、私たちはまず自分の罪を償うため、自分自身の為に苦しまなくてはなりません。そして、改心した盗賊と共に、この世の終わりのキリストの再来まで煉獄に留まることを受け入れなくてはなりません:「イエズス、あなたが、王位をもってお帰りになるとき、私を思い出してください。」(ルカ23章42節)と。改心した盗賊はこれに至る前に、罪の痛悔をしていました:「もう一人の方は、かれを押し止めて、『あなたは同じ刑罰をうけながら、まだ神をおそれないのか。われわれは行なったことのむくいをうけたのだから当然だ。しかし、この人はなんの悪事もしなかった』。」(ルカ23章40-41節)と。しかし、私たちの主イエズス・キリストと共に自分自身をおささげすることの報いは大変大きいものです。主は彼におっしゃいました:あなたは一日も煉獄に留まることはない!「今日あなたは、私とともに天国にあるであろう。」(ルカ23章43節)と。

私たちは、私たち自身の罪のつぐないのために苦しんだ後、私たちの隣人の罪のつぐないのためにもっと苦しまなくてはなりません!幼きイエズスの聖テレジアは、あわれな罪人たちのために自分自身をイエズスの慈悲深い愛におささげするとき、これを理解していたのでした。

苦しみが始まったとき、「私がいないと、あなたたちにはなに一つできない。」(ヨハネ15章5節)ということがもっと良くわかります。私たちが善をなすためには、いつも私たちの主イエズス・キリストのお恵みを必要としていますが、これを忘れてしまいがちです。しかし苦しみのとき、私たちはすぐに自分の弱さ、そしてこのお恵みが今すぐ必要なことに気づき、力と忍耐をひたすら求めるのです。それでも、私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、「忍耐は、業(わざ)によって完成される。」(ヤコボ1章4節)、「あなたたちは、私の名のために、すべての人から憎まれる。しかし、終りまでたえしのぶ人は救われる。」(マテオ10章22節)、「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私にとどまっていて、私もまたかれのうちにいるなら、その人は多くの実を結ぶ。」(ヨハネ15章5節)

苦しみが始まったとき、私たちは反抗して、「なぜ?私が何をしたというのですか?」と言ってしまいがちです。私たちは汚れなき御心に心をむけねばなりません。聖母はそのような不平をおっしゃらず、主のお恵みによってご自分を天主の御旨に任せ、御受難の初めに「わたしの父よ、このさかずきを私がのまずにはすごせないものなら、何とぞ、み旨のままに!」(マテオ26章42節)とおっしゃった主の「fiat(われになれかし)」と共に、ご自分の「fiat(われになれかし)」を繰り返されました:「あなたのおことばのとおりになりますように!」(ルカ1章38節)と。

私たちが「(キリストの)御復活の栄えに達するを得」るのは「その御苦難と十字架とによりて」(御告げの祈)です。これこそが天国に至る十字架の王道です。これこそが私たちの主イエズス・キリストの道です。聖パウロは言っています:「私たちが神の子である…私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)と。

ミサの目的の全ては私たちを子羊の犠牲と結びつけることです。ミサは私たちの苦しみ、悲しみを聖化し、無限のお恵みをもたらします。ですから、ミサは天国への扉です。また、無原罪の聖母は十字架の下にいらっしゃいましたから、全てのミサにもいらっしゃるのです。

「神は喜んで与える者を愛する。」(コリント後9章7節)聖人達の生涯を見ると、聖人達がいかに十字架を愛していたかがわかります。聖アンドレアが遠くから十字架を見たとき、こう叫びました:「おお大切な十字架よ、主の御体が善きものとした十字架よ、いかに長く望んでいたことか!いかに温かく愛してきたことか!いかに常々捜してきたことか!いまや十字架が私に来たのだから、いかに私の魂が十字架に引かれることか!十字架が人々の中から私を迎え、私を私たちの主に再び結びつけんことを。主は十字架によって私をあがなってくださったので、十字架によって主が私をご自分のもとに引き寄せてくださいますように。」と。聖人でさえこのような感情を持っているのですから、十字架の下にいらっしゃる無原罪の聖母はいかにもっと強い感情をお持ちでしょうか!聖母はあがないの神秘が行なわれていることを理解し、至高の母なる愛をもってご自分の子と全く一体となられました。私たちも、聖霊のお恵みによって、イエズスとともに一つの生け贄となれるよう熱望しなくてはなりません。これがミサのお恵みです。

愛徳をもってすれば全てのものが変わり、愛することができるようになります、十字架でさえも!聖人達についてこのように書かれています:「るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、焼き尽くすいけにえの捧げ物として受け入れられた。主の訪れのとき、彼らは輝き渡る。」(知恵3章6節)と。金はるつぼの中で清められ、輝いて出てきます。霊魂も十字架の木とともに燃える愛徳の火によって清められるのです。そしてこれが聖霊の賜物です。

願わくは、私たちが「十字架の友」となれるよう、そして多くの人がそうであるように「キリストの十字架の敵」(フィリッピ3章18節)とならぬよう、無原罪の聖母がキリストの十字架の愛を私たちに下さいますように。願わくは、私たちが天国で栄光を受けておられるイエズスに近づけるよう、無原罪の聖母が十字架に付けられたイエズスに私たちを引き寄せてくださいますように。アーメン。



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二〇一三年十月十三日、カンザス・シティでのフェレー司教の説教より(その1)

2013年12月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日のフェレー司教様の講演の記事に「彼らが真実を述べる時、従って下さい。でも彼らが馬鹿げたことを言うなら、その論点には従ってはなりません。真実へのあらゆる従順は天主に関連していなければなりません。」という言葉がありましたが、今年の10月にティシエ・ド・マルレ司教様のお供をしてソウルやレイテ島で共に時間を過ごしたときのことを思い出しました。

 フランシスコ教皇様が、あまりにも俗っぽい行動をされていることを残念に思いつつも、ティシエ・ド・マルレ司教様は、フランシスコ教皇がシリアのために9月7日に祈りと断食とを呼びかけたとき、従順のためにその日は断食をしたことを教えてくださいました。さすが!

 ニュースによると、スンモールム・ポンティフィクムに従って聖伝のミサをしている修道会の創立者が左遷させられたこと、聖伝に対して迫害を始めたことがわかります。たとえば、Attack Against Franciscans of the Immaculate Because "Crypto-Lefebvrian, Anyways Traditional" 全くの不当な処置です。

 私たちは、しかし「天罰によって教会が改心するのを、待つほか無い」などと悲観するのではありません。私たちはすべてが天主に依存しているかのように祈り、同時にすべてが私たちの努力と知恵に依存しているかのように、行動しなければなりません。

 それでは、二〇一三年十月十三日、カンザス・シティでのフェレー司教の説教よりの抜粋(その1)をご紹介します。この日本語訳をしてくださった方には心から感謝します。

 この説教の中に出てくるフランシスコ教皇様のインタビューについては、「カトリック新聞」にも記事があります。

倫理より癒やしを:教皇インタビュー(上)
時間かけて改革:教皇インタビュー(下)

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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二〇一三年十月十三日、カンザス・シティでの
フェレー司教の説教よりの抜粋


原文はこちら

二〇一三年十月十三日、カンザス・シティでのフェレー司教の説教よりの抜粋


 フェレー司教は、教皇フランシスコががどれほど「本物の近代主義者」であるかを、教皇自身の言葉を引用して示し、信者たちに祈りを、特にロザリオの祈りを倍加させるよう熱心に勧めた。

 ここに、十月十三日日曜日、ミズーリ州カンザス・シティの聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ教会での、アンジェルス出版社の講演会において行われた、司教荘厳ミサにおけるベルナール・フェレー司教(聖ピオ十世会総長)による説教の一部を抜粋して紹介する。

 フェレー司教はファチマ、第三の秘密、二〇一二年のローマと聖ピオ十世会との関係に関して、論点を詳しく述べた。その後、教皇フランシスコにまつわる多くの深刻な問題について語った。

「最初から、私たちはこの教皇様に関して、何かがおかしいという印象を抱いていました。最初の時点から、教皇様は自らを他の教皇様たちとは違うのだと区別したがっておられました」

 私たちは、教会について、公会議について、教皇がどのように見ておられるか、彼の計画はなんであるかに目を向けなければならない、とフェレー司教は述べた。教皇フランシスコが、ひっきりなしの講話やインタビュー、電話をかけ始めたのは、今年七月下旬の世界青年の日の前後であった。

「私たちには今のところ全体像が見えていないかもしれませんが、それでも非常な恐れを抱くに十分です。」

教皇の矛盾した発言

 ピオ十世が「パッシェンディ」で警告したように、近代主義者に典型的なことであるが、近代主義者は時に異端的方法で語り、それから正統的流儀で語る。フェレー司教はこういった矛盾の一つの例を挙げた。司教は、教皇フランシスコがローマのラ・リバブリカ紙上で、無神論者のジャーナリスト、エウジェニオ・スカルファリを危険な相対主義へと導いているかのように思われる十月初めのインタビューについて語った。

スカルファリ: 教皇聖下、「善」について唯一の見方は存在しますか? そしてそれが何であるかを決めるのは誰でしょうか?

教皇フランシスコ: 私たち一人一人は善、そして悪についての見方を持っています。私たちは彼らが「善」であると考える方へと人々を動かすよう励まさなければなりません。

スカルファリ: 聖下、聖下は私への手紙の中でこう書かれました。良心は自律している、とおっしゃいましたね。そしてすべての人々は自分の良心に従わなければならないと。このお言葉は、教皇である方によって踏み出された勇気ある一歩の一つであると思います。

教皇フランシスコ: ここでもう一度先ほどの言葉を繰り返します。すべての人々は善悪について独自の思想を持っており、自分がそう考えるに従って、善に従うことを選び、悪と戦わなければなりません。世界をよりよい場所にするためにはこれで充分でしょう。

 非常に強調して、フェレー司教は教皇の回答についてこのように述べた。「これはまったくカトリックではありません! なぜなら、私の考えがどんなものであれ、それが現実に一致しないなら、それには何の価値もないからです。そして第一の現実とは、天主です!… 天主は唯一の善であり、すべての善に関連したお方です!……私たちには良心があります。けれど、私たちの良心が天主の鏡である限りにおいて、良心は私たちを天国へと導きます。良心は天主の法に従って形成されなければなりません」「ですから、"すべての人々が独自の思えに従うことができる"と主張することは、ナンセンスそのものです」「この言葉はカトリックの教えとは無関係です。まったくの相対主義です」と、フェレー司教は述べた。

 だが、このインタビューの数日後、教皇フランシスコは悪魔と戦う必要性、悪魔との最終的戦いについて述べた。それは、誰も悪魔と中途半端には戦えない、私たちは相対主義と戦わなければならないというものである。フランシスコはラ・リパブリカで述べたのとは正反対のことを述べた。「教皇は述べたばかりのことと矛盾したことを言ったのです!」

 教皇フランシスコは第二バチカン公会議についてどのような見方をしているのか?

 フェレー司教によれば、教皇フランシスコは「第二バチカン公会議は輝かしい成功をおさめたということを当然に思っている。公会議の主要なテーマとは何か? 近代文化の光に照らして信仰を読み返すことである」と述べている。「近代文化の光に照らして信仰を読み返すこと」とは「現代世界において福音を受肉化させること」と言えるかも知れません。フランシスコ教皇は「このことを大変幸せに思い、公会議は多くの善い実りを生んだ。最初の例は典礼──改革された典礼である。これは公会議のすばらしい実りである」と信じています。「これが教皇の言葉です。そして彼はこのことを大変幸せに思っているのです」

「フランシスコは私たちにこう告げています。『現代世界の中での福音を読み直すことは、後戻りできません。ですから私たちは引き返すつもりはありません』と。皆さんは私たちにどのようにして彼と同意せよというのでしょうか? 私たちは重要な戦いを目前にしているのです」

教皇フランシスコとミサ

 典礼と古いミサについて、フランシスコは「Vetus Ordo 古い司式」だと述べた。フランシスコは、おそらく、ベネディクト教皇が古いミサにまだ固執する人々のために、賢明な行為として古いミサを復興させようとしたと思っている。「しかし、フランシスコ教皇が、古いミサへと戻ってくるなどと期待してはなりません。たぶん、彼は古いミサを妨害することなく私たちに古いミサを執行させるでしょう。天主のみがご存じです。」

「しかし、フランシスコ教皇は「この古いミサには問題があると見て」います。"このミサをイデオロギー化する人々がいる"からです。彼の言う人々とは誰でしょうか? 多くを言う必要はありません。ということは、私たちに対して何が起こるのでしょうか?……私が思うに、教皇フランシスコは、過去に目を向けているこの人々について大きな強迫観念に取りつかれています。教皇様のお言葉を聞いてみましょう」

教皇フランシスコ: けれども、心配なことは「Vetus Ordo 旧典礼」のイデオロギー化の危険、そしてその悪利用です。もしもキリスト教徒が[過去の]復興者、法律主義者であるなら、すべてのものに明白さと確実性を望むなら、その人は何も見つけられないでしょう。伝統と過去の記憶は、天主への新しい領域を開くための勇気を与えてくれなければなりません。現代において、規律上の解決を常に求める人々、誇張された教義上の「確実性」を希求する人々、すでに存在していない過去を元通りにしようと固執する人々、彼らは静的で内的な方向に観点を持っています。このやり方では、信仰はその他のイデオロギーらの一つのイデオロギーになってしまいます。私の持っているドグマ的な確実性とはこれです。つまり、天主は全ての人々の生にましまし給うということです。

 フェレー司教はこう続ける。「現教皇について私たちが抱く印象は、教皇は『だいたい』『あいまい』に熱心だということです。非常に明確で確実なことからいかなる犠牲を払っても逃げたがっています。しかし、天主が明確で確実であるように、信仰とはそういうものです。教皇の考えはそうではありません」

(つづく)


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カンザス・シティでのアンジェルス出版社の講演会におけるフェレー司教の講演報告

2013年12月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大変遅れてしまいましたが、アメリカ、カンザス・シティでのアンジェルス出版社の会議におけるフェレー司教の講演報告を日本語に訳してくださった方がおられますので、それを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。これを訳してくださった方には心から感謝します。また「二〇一三年十月十三日、カンザス・シティでのフェレー司教の説教よりの抜粋」の日本語もできておりますので、後ほど、愛する兄弟姉妹の皆様にお知らせいたします。

 また、フェレー司教様は、来年の1月1日から6月8日まで、ロザリオの十字軍を起動させることを発表されました。多くの皆様のご参加をお待ちしております!

 さて、日本では明日から聖伝のミサが大阪と東京であります。

 また、2014年の典礼カレンダー(カラー)もできあがりました! ミサの会場でお分けいたします。今年は、制作費が昨年よりも安く上がったので、950円でお分けできることになりました。天主様に感謝! 

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



アメリカ、カンザス・シティでの
アンジェルス出版社の会議における
フェレー司教の講演報告


原文はこちら


アメリカ、カンザス・シティでのアンジェルス出版社の会議におけるフェレー司教の講演報告

十月十二日土曜日、フェレー司教はアンジェルス出版社の会議中の講演で、カトリック教会の破壊的状況のあらましと、教皇フランシスコがどのようにしてこの状況を「一万倍も悪くした」かを述べた。

聖ピオ十世会総長、ベルナール・フェレー司教は、十月十二日土曜日、アンジェルス出版社の会議中の講話において、ファチマの第三の秘密と、物質的懲罰と教会内の恐るべき危機の両方についての明らかな預言に焦点を当てた。

DICI編集部は、カトリック・ファミリー・ニュースよりジョン・ヴェナリ氏の報告書を載せる許可を得たことを感謝する。


「教会の現状はまぎれもない悲惨の中にあり、現教皇様はそれを一万倍も悪化させている」

 これは、フェレー司教が十月十一日から十三日にかけての、カンザス・シティでのアンジェルス出版社の講演会の講演で述べたことである。
 この報告書では、司教の土曜日の講演のさらに劇的な側面を強調する。

 フェレー司教は、シスター・ルチア、第三の秘密を読んだ人々、第三の秘密についての知識を持つ人々の言葉を詳しく引用した。司教は、私たちが第三の秘密の内容を知りたいなら、ヨハネの黙示録の第三章第八章から第十三章までを読むようにとのシスター・ルチアの言葉を指摘した(第三の秘密の詳細はカトリック・ファミリー・ニュースの次号、十一月号に載る予定である)。

 シスター・ルチアは、(第三の秘密については)黙示録の八章から十三章を参照せよと言うが、これは身も凍るような内容である。十三章の終わりでは反キリストの出現について語られているからである。

 フェレー司教は、聖ピオ十世教皇が自分の教皇職の始まりに「滅びの子」はすでに地上にいるかもしれないと述べたこと、また、レオ十三世作の大天使聖ミカエルへの祈りが、悪魔はローマに自らの座を打ち立てることを目的としていることに触れていることをも指摘した。

 フェレー司教は、ピオ十二世からヨハネ・パウロ二世までのすべての教皇たちの神学者であったルイジ・チアッピ枢機卿の次の言葉を引用した。「第三の秘密の中には、特に、教会内の大背教は頂点から始まると書かれている」と。

 フェレー司教はまた、一九五七年の、有名かつ劇的なフエンテス神父のシスター・ルチアへのインタビューにかなりの時間を費やして話した。その中でルチアは「さまざまな国々が地上から姿を消すでしょう」そして「悪魔は天主に捧げられた霊魂たちを圧倒しようと全力を傾けるでしょう」と繰り返した。

 天主に仕える人々が、この混乱と破壊で打たれたが故に、信者たちは自らの救霊を自力でやっていくよう取り残されている。聖職者たちが提供するべき助けの手が存在しない。これが「今だかつて想像し得ない教会にとっての最大の悲劇」である。

 この時代は非常に深刻である。私たちの救霊について深刻にならざるを得ない。「そしてこれを成し遂げるための重要な本質、教会権威者たちの援助を私たちは剥奪されています。なんという悲劇であることか」

 フェレー司教は、天主は私たちに最後に残された二つの救済手段をくださったという、シスター・ルチアの慰めとなる言葉について語った。すなわち、ロザリオとけがれなき御心への信心である。


 フェレー司教は二〇一二年の聖ピオ十世会とローマとの間の困難について以下のことを示唆した。

「現在[教皇フランシスコのもとで]起きていることを見て、私たちは去年のあらゆる合意協定のたぐいから守られたことを、天主にひたすら感謝しています。私たちがやり遂げたロザリオ十字軍の実りの一つは、このような不運から守られたことであると言えるかも知れません。天主に感謝します。これは、私たちがカトリックでありたくないということではありません。もちろん私たちはカトリックでありたいですし、私たちはカトリック信者です。そして私たちにはカトリック信者であると認められるべき権利があります。ですが私たちの宝をそのために台無しにするつもりはありません。そんなはずはありません」

 司教は続けてこう述べた。「想像してみて下さい。私たちがなおもローマと合意協定を得ようと決意していると見せかけている一部の人々のことを。かわいそうな人たちです。彼らの意図を証明するよう、私は心から異議を申し立てます。彼らは私が実行していることから別の何かを考えていると偽っています。私の頭の中にはそんなものはありません」

 ローマとの討論については、以下のことを語った。

「教会法的承認へのあらゆる類の指示は、彼ら[訳注:ローマ当局]が二〇一二年六月十三日に私にサインするよう書類を渡したときに終わりました。まさにその日に『私はこの書類を受諾できません』と彼らに告げました。前年の九月の初旬から、私たちはこの "継続の解釈学" を受諾できないと彼らに告げていました。これは正しいことではなく、現実ではないからです。現実に反しているからです。ですから私たちは受け入れません。第二バチカン公会議は聖伝と継続していません。違うのです。ですから、ベネディクト教皇が第二バチカン公会議は聖伝と分かたれていないと受け入れるよう要求してきた時、 『残念ながらそれは現実的ではありません。ですから私たちはサインするつもりはありません。それを認めるつもりはありません』と言っています」

「ミサに対しても同じです。新ミサは有効である、ただし正しく捧げられたらという条件で云々……だけでなく適法でもある、と私たちに認めるよう望んでいます。私は彼らに告げました。『私たちはその言葉を使いません。それはいささかの混乱を招きます。私たちの信者たちは有効性に関して相当に混乱しています。ですから私たちは信者たちに『新ミサは悪いものだ。それは悪しきものです』と告げています。そして信者たちはそれを理解します。これで終わりです!」

 言うまでもなくローマ当局は「それを聞いてあまり喜んでいませんでした」

「第二バチカン公会議が良いものであるとみなされ、新ミサが適法であるふりをすることも、二つとも私たちの決して意図しないことです」

「私たちがローマに提出した[二〇一二年四月十五日の]文書は、言ってみれば、正確に理解されるべき細心の注意を払う文書でした。つまり、すべてのことを導いていた大原則とともに読まれるべきでした。この大原則は教会内の新奇さではありませんでした」

「聖霊は聖ペトロとその後継者に、新しい啓示を通して教皇が新しいことを教えるというやり方を約束されたのでは決してない。聖霊のおん助けのもとで、教皇は信仰の遺産を清廉に保ち、忠実に伝える」これは[第一バチカン公会議からの]不可謬の定義に属します。これが原則であり、文書全体の基礎でした。この文書は始めからいかなる新奇さをも排除しています。

「ですから、この原則なしに、この文書からいかなる種類の文章を抜き出すことは、まったく私たちの思想と人生ではない文章を抜き出すことです。文書自体の言い回しの数々は曖昧です。ですから、曖昧さを取り払うため、私たちはこの[第一バチカン公会議]からの原則を挿入したかったのです。残念ながら、おそらくそれは微妙すぎるものでした。ですから、この文書を撤回したのです。この文書が書かれたような充分に明白さがなかったらです」

「私たちの原則は、忠実であり続けるために常に同じであることははっきりしています! 私たちは宝を受け取りました。この宝は私たちの「もの」ではありません。私たちはこの宝を受け取り、そして次世代にこれを手渡さなければなりません。私たちに要求されたことは忠実と貞節です。私たちにはこの宝の数々を台無しにする権利はありません。この宝は私たちの手の中にあり、私たちはこれらを台無しにするつもりはありません」

教皇フランシスコ

 フェレー司教はシスター・ルチアが一九五七年に言ったとされる、ロザリオとけがれなき御心への信心は、天主が人類に与え給うた残された最後の二つの治療薬であるとの言葉に戻った。

 司教は「間違いなく『物質的な』世界の大懲罰は間近に迫っている」と述べた。「私たちの目前で大事が起きようとしています。どうやって? いつ? 私にはわかりません。ですがすべての物事をまとめあげてみるなら、天主は人間の罪に辟易なさっていることは明白です」

 また、司教は、天に向かって復讐を叫ぶ罪の数々、例えば堕胎や自然に反する罪について語った。自然に反する罪は、結婚とそれに関する多くの罪の、不自然な「再定義」への錯覚である。

「私たちは何をなすべきか? バニックにならないで下さい。パニックは何の役にも立たないからです。必要なことは自分の職務──毎日の義務を果たすことです。これが準備のための最善の方法です」

 司教は続けて「私たちは『非常に恐るべき時代』にいますが、無力ではありません」と述べた。「教会の現状はまぎれもない破壊のうちにあります。現教皇様はそれを一万倍も悪化させています」と指摘した。

「ベネディクト十六世の教皇職の始まりに、私は『教会内の危機は続くでしょうが、教皇様はブレーキをかけようとなさっています』と言いました。言うなれば、教会は落下し続けるだろうが、パラシュートとともにであると。そして現在の教皇フランシスコの教皇職の始まりには、私は『教皇様は糸を切って、落下するロケットを持ち込んだ』と言います」

「現教皇様がご自分の教皇職を開始したやり方で続けていくなら、教会を分裂させていくことでしょう。すべてのことを爆発させるでしょう。ですから人々はこう言うでしょう。『あの方は教皇ではあり得ない。私たちは彼を拒絶しよう……」私はこう言います。「お待ちなさい、あの方を教皇様だとみなして下さい、でもあの方の言動には従ってはなりません。教皇様は(良き信徒たちの)怒りを挑発しています。多くの人々は教会内の人々の行いに失望するでしょう』そして『(宗教生活の)すべてを投げ捨てる』誘惑を受けるでしょう。」

 だが、天主は「私たちよりもずっとずっと巨(おお)きな存在です。天主は教会を存続させることがおできになります」と司教は喚起した。また、こういった不完全な聖職者たちを通じて[天主は]働くことさえ可能だとも述べた。「ですが、もう一度言います」と司教は繰り返す。「彼らに従ってはなりません。彼らが真実を述べる時、従って下さい。でも彼らが馬鹿げたことを言うなら、その論点には従ってはなりません。真実へのあらゆる従順は天主に関連していなければなりません。私がある方に従うと言う時、その方は『天主の鏡』であるべきです。ですが、鏡が天主に反することを告げるなら、もはや鏡ではありません。私はその人には従いません」

 私たちは疑うことなく現教皇様に単純に従うことはできない、とフェレー司教は指摘した。自分たちを破壊するかも知れず、信仰を危険にさらすかも知れないからである。

 シスター・ルチア、レオ十三世及びピオ十世教皇の警告に従って、フェレー司教はさらに、私たちは反キリストの時代に突入しているのかも知れないが、このことがどれほど先のことなのか知ることはできない、とさらなる警鐘を鳴らした。

(Source : Catholic Family News/sspx.org – 10/18/13)


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天主様に感謝!2013年11月の日本でのミッションの報告

2013年12月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ご無沙汰しております。10月15日にはセブ島やボホル島での大地震があり、11月8日には台風30号(国際名:ハイヤン、現地名:ヨランダ)がレイテ島のタクロバンを中心にサマール島なども襲いました。早速、レイテ担当の司祭であるヘラ神父様が、ティム神父様と共にレイテ島に直接行って救護活動をしました。ヘラ神父様の不在の間、マニラでの仕事は大変多くなりました。
 そういうわけで、私は、フィリピンの被災地には直接行く機会がありませんでしたが、マニラの教会で、日常の仕事をこなしながらお祈りと仕事をしていました。
 しかし、レイテ島やサマール島での被害があまりにも甚大で、復旧に時間が掛かるので、多くの被災者の方々が空軍によってマニラに運ばれてきました。そこで、空軍基地に行って手伝うように要請を受けた私たちは、11月16日、17日、19日、21日、22日などとフィリピン軍の基地に行ってボランティアとして働きました。多くのボランティアの方々が基地に来ていました。多くのシスター達も来ていました。食料も古着などもどんどん到着していました。

 そうして、着のみ着のままで飛行機に乗ってマニラに着た家族や子供たちと会いました。タクロバンから、サマールのギアンから、オルモックから、またその他の場所から来た方々で、家やその他全てを失った方々、身内を失った方々、あるいは家族をまだ残してマニラに来た方々に会いました。そういう方々と出会って、お話を伺いました。カトリック司祭の存在をとても心強く感じられたようです。ロザリオを差し上げたり、スカプラリオの着衣式や、祝福して差し上げました。そんな中で、私が出会った方々は、皆、この試練をとても肯定的に、超自然的に受け止めていたのが印象的でした。他人についてこう語るのは容易ですが、私たちも、試練をいつも肯定的に超自然的に受け入れて捧げる準備ができていますように! 

 日本では明日から聖伝のミサが大阪と東京であります。また、2014年の典礼カレンダー(カラー)もできあがりました! ミサの会場でお分けいたします。今年は、制作費が昨年よりも安く上がったので、950円でお分けできることになりました。天主様に感謝! 

 さて、大変遅れてしまいましたが、2013年11月の日本でのミッションの報告を申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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【大阪】
アヴェ・マリア!
11月の大阪の御ミサの御報告です。
8日金曜日には15人の方が御ミサに預かるお恵みをいただきました。
この日の聖福音にあるぺトロの舟についてお説教をしていただき、
1、イエズス様がいらっしゃる公教会は最後まで絶対に沈まないことを信頼し 
2、教皇様の為にたくさん祈り 
3、聖伝の信仰を守る御ミサに預かる人と、聖なる召命が益々増えるように祈る
ようにしなければならないことがわかりました。

9日土曜日には22人の方が御ミサに預かりました。

御ミサの後、公教要理では「カトリ ック信者としての心得」についてお話しいただきました。
私たちの使命は、「主のみ旨を果たすこと」つまり

1、掟を守り
2、時間を大切にし
3、すべてを天主のために為す

ことであると再確認いたしました。国家、世間の人々が私たちの主をなおざりにしている分、私たちはただただ天主様のためにすべてをおささげしなければならないと感じました。

ハードなスケジュールの中、日本に帰って来て下さった神父様に心から感謝いたします。神父様に天主様がたくさんのご助力とお恵みをお与えくださいますように!!!
聖母の汚れなき御心よ、我らの為に祈りたまえ!


【東京】
11月10日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 13人(内、子供0人)
女: 16人(内、子供0人)
計: 29人(内、子供0人)


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11月2日の葬儀ミサでクチュール神父様がなさったお説教をご紹介します。日本語訳をしてくださった大阪の信徒会長様に感謝します。

テレジアさんの葬儀の説教(2013年11月2日)


テレジアさんのご家族の皆さん、
信者の皆さん、
友人の皆さん、

私たちは、マリア・テレジアさんのために祈っています。テレジアさんは木曜日(10月31日)に亡くなられました。私たちは、なぜ亡くなった人々のために祈るのでしょうか。それには多くの理由があります。

第一に、私たちは、亡くなったあとにも命があり、死ぬことですべてが終わるのではないことを信じているからです。私たちの霊魂は霊的であります。死ぬことはなく、体のように腐敗することはありません。体は死んだあと、ちりや灰になってしまいます。霊魂が体から離れたあとも、霊魂は存在し続けます。

次に、死の瞬間ののち審判があります。霊魂は審判を受けるため、天主のもとへ行きます。テレジアさんも、生涯の中で行った良いことと悪いことについて裁かれました。私たちは、私たちが自覚して行ったすべてのこと、思い、言葉、行い、怠りによるすべてを天主の前で説明しなければなりません。私たちが天主の十戒に従い、天主を信じ、洗礼によって恩寵を受け、霊魂における天主の命であるこの恩寵を保ったならば、霊魂は救われるでしょう。つまり、天国へ行けます。天国は天主の国であり、天主とともに永遠に幸福でいられるでしょう。天国の幸福は大変素晴らしいため、人間の言葉で表現することはできません。 「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮ばず、天主がご自分を愛する人々のために準備された」(コリント前書2:9)。しかし、霊魂が天主を信じることを拒絶し、天主の命令に従うことや恩寵を保つことを拒絶するならば、決して天国へは行けません。地獄へ行くのです。

信じている人が亡くなったとき、よくあることですが、魂に小さな汚れが残っています。小さなちりのように。この場合、この人は天国に入ることができません。なぜなら、完全に清められた人だけが天国に入れるからです。しかし、地獄へ送られるのでもありません。この人の心に天主の恩寵があるからです。この人は、どこかで小さな汚れを清めてもらわなければなりません。その場所は、煉獄と呼ばれます。天国の玄関のようなものです。聖書は言っています。死んだ人々のために、罪から解き放たれるよう祈ることは聖なる考えだと。

それが、きょう私たちが行っていることです。亡くなった人々の霊魂に汚れがあり、まだ天国に行っていない場合、私たちは彼らの霊魂のために祈ります。私たちは彼らを見ることはできません。しかし、私たちは「念のために」に祈ります。聖アウグスチヌスが言うように、亡くなった霊魂のために十分祈らないよりは、多すぎるほど祈るほうが良いのです。もし亡くなった人々がもう天国にいるならば、私たちの祈りは助けが必要なほかの霊魂に与えられるでしょう。

亡くなった人々のご遺体に敬意を表すのは重要ですが、最も重要というわけではありません。実際、私たち自身のために重要なのです。私たち自身の慰めになるのです。なぜなら、霊魂は体を離れ、物質的なものは必要なくなるからです。にもかかわらず、亡くなった人々への愛のためにご遺体に敬意をあらわすのです。

皆さん、テレジアさんのために聖なるミサを続けましよう。ミサにおいては、私たちは天主の御子の御体、御血、霊魂、そして神性を天主のために捧げます。私たちは父なる天主、永遠の御父に申し上げます。これは、あなたの御子のいけにえ、御子は私たちのために、私たちがきょう祈っている霊魂のために亡くなられました。彼女のあらゆる罪、霊魂にまだ残っている汚れを赦し、速やかに天国へ連れて行ってください。聖なるミサは、人が亡くなったときに私たちが捧げるもののうち、最上のものです。

ミサののち、「赦祷式」と呼ばれる儀式を行います。亡くなった人への特別な祈りです。亡くなった人のご遺体に聖水をかけ、香をたきます。なぜなら、体は洗礼において聖香油が塗られ、聖体拝領で聖なるものとなります。そして、全能の天主の神殿になるからです。

最後に、イエズスの御母、童貞聖マリアに祈りましょう。マリア様がエステル王妃のように、王の中の王である御子に対し、テレジアさんと、煉獄にいるすべての霊魂のためにとりなしてくださいますように。アーメン。

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2013年11月3日(主日) 大阪での説教
煉獄について


信者の皆さん、

(逝去され、葬儀ミサを行うことになったことで)マリア・テレジアさんに感謝しましょう。諸聖人の祝日、死者の日、そして聖霊降臨後第24の主日のミサにあずかることができたのですから。今度は私たちが、彼女のために祈りを続け、本日のミサおよび聖体拝領を彼女のために捧げることで、感謝しましょう。

昨日の葬儀では、死者のためにミサを捧げる理由をお話ししました。今朝は、煉獄について詳しくお話しします。私たちは、この教えをよく知っておく必要があります。なぜなら、今の時代は多くの方法でこの煉獄の教えが攻撃を受けているからです。

第一のポイント:煉獄に関する誤り

まず、この煉獄に対する攻撃に関し、少し説明します。煉獄を信じていない人々を喜ばせるために、カトリック教会で多くのことが変更されました。たとえば、もう黒い祭服は使われず、紫色の祭服が使われるようになり、白い祭服が使われることさえあります。哀悼の日でなく、祝日を表すように祭壇に花が飾られ、アレルヤさえ歌われます。

もっと深刻なのは、死者のための時間、ミサ、祈りが、死者をたたえ、煉獄ではなく天国に入っているのを祝っていることです。葬儀ミサにおいて、煉獄に言及することはほとんどありません。地獄についても煉獄についても触れません。はっきり言いましょう、なぜなら、もはや罪はないからです。罪はもう、天主を攻撃しないのです。

第二のポイント:煉獄の教え

しかし、これらはすべて、しっかりと打ち立てられた煉獄に関する聖伝の教えに反しています。煉獄について言うべきことはたくさんありますが、私たちの信仰、カトリック信仰の一部をなす二つの点についてだけお話しします。一つ目は、煉獄が存在すること、二つ目は、私たちが煉獄の霊魂を助けることができるということです。

聖書にないから煉獄は存在しないという人々は、聖書をよく知っていません。また、プロテスタントの人々がするように、聖書を自分勝手に解釈しています。聖書には、死後の清めの場所が存在することを述べている聖句が、少なくとも三つあります。「煉獄」という言葉は使われていませんが、清めとそのための場所のことが確かにあります。

まずは、マカベオ書下の第12章です。(マカベオ書下は旧約聖書の最後の巻で、聖マテオ福音書の直前)戦いの後、ユダ・マカベオは、エルサレムにお金を送って死んだ兵士たちのためにいけにえを捧げさせます。聖霊はこう記しています。
(実に死んだ人たちのよみがえりを希望していなかったなら、死者のために祈ることは無益な空しいことであったろう。)彼は、敬虔に眠りに入った人たちに素晴らしい報いが準備されていると考えていた。これは聖い信心深い考えである。そのために彼は死者のための償いのいけにえを捧げ、罪から解き放とうとした。

次の聖句は、マテオ福音書第五章25―26節です。ここでは、イエズスご自身が生きている間に清い心を持つように仰せられました。さもないと、死んだ後、
「牢に入れられる。まことに私は言う、一厘残らず返すまで、あなたはその牢を出られない」。
これが意味するのは、私たちが罪のせいで天主に対して負い目があるのなら、死んだ後、天国に入ることはできないということです。

もう一つの聖句は、聖霊に逆らう罪についての有名な聖句です。
言葉で聖霊に逆らう者は、この世においても来世においても赦されることはない(マテオ12章31―32)。
このことは、来世において赦される罪が存在するということを意味しています。この来世は、天国でも地獄でもありません。ですから煉獄なのです。

トレント公会議は、煉獄についてのカトリックの信条、私がさきほど述べた二つのポイントを明確に表現した公会議です。煉獄は存在し、私たちは煉獄の霊魂のために祈ることができる。私たちは、「とりなし」によって煉獄の霊魂を助けることができる。トレント公会議はそう言っています。とりなしとは、私たちが霊魂のために天主に対して何かを捧げることです。私たちは、彼らを直接助けることはできません。私たちが捧げるものを、この霊魂に与えてくださいと、天主にお願いするのです。煉獄についての疑問、つまり煉獄にいる時間の長さ、煉獄の火、煉獄のいろいろな段階については、トレント公会議は定めていません。

ですから、煉獄は存在し、私たちはその霊魂を助けることができます。最上の方法は、彼らのためにミサを捧げることです。彼らのために、ミサ、ノベナ(九つのミサ)を捧げることができます。特に、グレゴリオ・ミサと呼ばれるものがあります。これは、特定の霊魂のために30日間中断せずに毎日連続でミサを捧げることです。グレゴリオ・ミサは、生きている人のために捧げることはできません。また、多くの死者のために同時に捧げることもできません。一人の死者だけです。

また、聖体拝領やロザリオの祈り、他の祈りや償いの業を捧げることもできます。そうすれば、死者のために贖宥(免償)を獲得します。贖宥とは、罪による罰を減らすことです。ご存じのように、贖宥には二種類あります。部分贖宥と全贖宥です。部分贖宥は苦しみの一部を減らし、全贖宥は罪による罰をすべてなくします。天国へのフリーチケットのようなものです。ところで、11月1日から9日まで毎日、お墓参りをしたり、霊魂のために祈ることで、全贖宥を獲得できます。

最後に、私たちは煉獄の霊魂のために、徳の行いを捧げることもできます。たとえば、怒りそうになる場合、こう考えましょう。いや、怒らずにいよう、そうすれば、怒りの罪のために煉獄にいる霊魂を助けることができる。また、試みに抵抗することができます。食べ過ぎないようにしよう、そうすれば、食べ過ぎたために煉獄にいる霊魂を助けることができる。このテレビ番組や、その危険なウェブサイトを見ないようにしよう、そうすれば、目の罪のために煉獄にいる霊魂を助けることができる。

信者の皆さん、皆さんは煉獄についての聖伝の信仰を知りました。さあ、実践しましょう、特に今月の残りの間に。多くの霊魂を天国に送り届けましょう、そうすれば彼らは、私たちのこれからの人生において、最上の友人になるでしょう。

あわれみの御母である聖母を通して、そう願いましょう。アーメン。


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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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