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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.8.婚姻の目的

2008年08月31日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

婚姻の目的

 ルフェーブル大司教は、共産主義に反対するのみならずキリスト教的婚姻を擁護するというこの極めて崇高な行動の主要な推進力であった。キリスト教的婚姻の擁護とは、つまり、婚姻の第一の目的として出産を人間の愛の上に置くという伝統的な教理【レオ十三世の回勅『アルカヌム』、1917年版カトリック教会法典1013条§1、ピオ十一世の回勅『カスティ・コンヌビイ』など参照】を擁護することだ。

 ルフェーブル大司教はすでに公会議間に、自由主義者たちが婚姻において二つの目的の転倒をはかっていると告発した事があった。

「47ページ、16目行以降の婚姻に対する章は、夫婦間の愛を婚姻の第一要素だと紹介し、出産という副次的要素の前に置いている。全章を通して、49ページ、24目行と 25目行にあるように、夫婦の愛をすなわち婚姻であると同一視しています。
 これも、教会の聖伝の教理に反しています。それを認めるとすると、極めて悪い結果に至るようになるでしょう。もしもそれがそうであるなら、実際に、こういうことになってしまうでしょう。つまり、"夫婦間の愛がない、従って、婚姻もない!" と。ところで、すでに夫婦間の愛のない婚姻が、どれほど多くあることでしょうか! それにもかかわらずこの婚姻は正真正銘の婚姻であるのです。」

 これには極めて重大なことがかかっていた。つまり、新しい教理を受け入れると、産児制限、避妊を奨励することであり、堕胎を許容することに繋がり、どう転んでもキリスト教家庭を必ず崩壊させるものだった。

 一年前の1964年 10月 29日、スーネンス枢機卿が出産に反対する攻撃を指揮し、それに対してオッタヴィアーニは自分が 12人という多くの兄弟と一緒に育った貧しい家庭に生まれたことを例に出してスーネンス枢機卿に対して素晴らしく抗議したこと、次に、ブラウン枢機卿が“Cauti ergo esse debemus! 夫婦間の愛の権利をあまりにも誇張して人々が要求するとき、私たちは警戒しよう!”と叫んだこと、などの感情を高ぶりをルフェーブル大司教は思い出していた。

 一年後の 1965年 11月 25日、パウロ六世が介入して概要の XIII にあるこの主題に関する四つの修正案を押しつけた。なかでも一つは避姙に関するものだった。

 しかしパウロ六世は、婚姻の二つの目的の秩序を回復させなかった。そこで、ルフェーブル大司教はそれを変えるために最後の試みをしたが、残念ながら成功することはできなかった【概要 XIII の第一章に関する1965年12月2日の投票では、131名の教父が無神論に関する部分を拒絶したが、婚姻と家族に関する部分については155名が拒絶していた。1965年12月7日の全体投票の際には、反対票は75票に減少していた】。

 共産主義を明確に断罪するのを拒否したのと同じく、最終文書では、婚姻の目的の順序を入れ替えることになった。『現代世界における教会にかんする司牧憲章』すなわち Gaudium et Spes -- 喜びと希望 -- の公布は、ルッフィーニ枢機卿が記述したように、むしろ‘Giorni di dolore’(悲しみの日)であった。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

フリブールの(スイス)のブルギヨンの聖母マリアNotre-Dame de Bourgillon

2008年08月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 エコンの神学校の学頭のド・ジョルナ神父様が、私たちをフリブールの巡礼に連れて行って下さいましたので、写真をご紹介します。フィリピン人のブラザーたちとエコン神学校教授のビゼル神父様と私とで参りました。

 まずは、フリブールの(スイス)のブルギヨンの聖母マリア(Notre-Dame de Bourgillon a Fribourg; U.L.F. von Bürglen)の聖堂に行きました。


フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアの聖堂にて
フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアの聖堂にて

フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアの聖堂にて
フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアにて Notre-Dame de Bourgillon a Fribourg

フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアの聖堂にて Notre-Dame de Bourgillon a Fribourg
入り口

Notre-Dame de Bourgillon a Fribourg フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアの聖堂にて

Notre-Dame de Bourgillon a Fribourg フリブール(スイス)のブルギヨンの聖母マリアの聖堂にて


聖ピオ十世会のオブレート・シスター(奉献修道女)の修練院(サルヴァン)にて

2008年08月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会のオブレート・シスター(奉献修道女)の修練院があるサルヴァンの、幼きイエズスの聖テレジア修練院を訪問してきましたので、ご紹介します。


オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
オブレートのシスターたちの修練院のあるサルヴァン(Salvan)

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
チャプレンのエルバック神父様とフィリピン人ブラザーたち

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
チャペルで、誓願をした修道者と修練女たち

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
サルヴァンの洗濯場でフィリピン人のシスターと

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
シスターや修練女たちと

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
記念写真

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
シスターたちのハイキング

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
オブレートのシスターたちとハイキング

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland

オブレート・シスターの修練院 Noviciat Ste Thérèse 1922 Salvan (VS) Switzerland
スイスの山から見た町の眺め


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【関連記事】


聖ピオ十世会創立者の伝記 12.3.7.共産主義を排斥しなければならないという要求

2008年08月30日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

共産主義を排斥しなければならないという要求

 ここで、チェトゥスの美しい活動の一つ、最大の共感と支持を得た活動を見てみよう。

 既に、第二総会の幕を閉じる前日の 1963年 12月 3日、デ・プレンサ・シガウド大司教は 46ヶ国から来た 213人の教父たちが署名した嘆願書を、チコニャーニ枢機卿(Amleto Giovanni Cardinal Cicognani)に渡した。この嘆願は、「社会に関連するカトリック教理を詳らかに解説し、マルクス主義、社会主義及び共産主義を論駁する」特別概要が用意されるべきことを要求していた。この要求はデ・カストロ・マイエル司教及びシガウド司教がブラジルでした反共産主義の闘いをこだますると同時に、ルフェーブル大司教がダカール及びアフリカで見せた絶え間ない関心を反映していた。

 1964年 2月 3日、シガウド大司教は 510人の高位聖職者たちが署名した別の嘆願書を個人的にパウロ六世に提出した。その嘆願では、聖母がファチマの三人の羊飼いの一人であるルシア修道女に要求した要請に従って、教皇が公会議教父らと共に、ロシアと世界を聖母の汚れ無き御心に奉献することを求めたのだった。この奉献を通じて「ロシアが回心する」はずだった。教皇はこの要求を忘れるままに放置し、遂に、1965年 1月この請願を最終的に拒絶した。

 1964年 10月 21日、討論は無神論を扱う「世界の中の教会」に関する概要(Schema)--概要 XIII--の部分に集中された。「共産主義」という用語は相変らず注意深く使用が避けられていた。

 この長く続く沈黙を前にして、第四総会の初めの 1965年 9月 29日にチェトゥスは行動を開始した。公会議が共産主義を調査し断罪することを要求する手紙が司教 25人の署名を受けて配付された。
 この手紙はカルリ司教によって作成され、あまりにも目立ったいたのでそこに署名しなかったシガウド大司教とルフェーブル大司教によって教父たちに配布された。そこには、共産主義に関する公会議の沈黙は先任の教皇たちの断罪を否認することであると書かれていた。

 書簡には、共産主義を排斥することを要請する嘆願書が付け加えられており、そこには既に 332人の署名があった【ルネ・グラファン大司教(Archbishop René Graffin, C.S.Sp.)が署名を集めた】。遂に合計して 454の署名が集められた【そのうち 104 がイタリア人教父、30が国外追放された中国の司教であった。アフリカからは二十六カ国の代表がそれぞれ署名し、ラテン・アメリカの二十三カ国の司教が署名し、合計八十六カ国の司教たちからの署名で成り立っていた】。この嘆願書と最初の 332名の署名の原本は、11月9日という望まれた時期に、ルフェーブル大司教が直々に【シガウド司教が付き添って】公会議事務局に提出され、文書が受付されたことを証明する領収証を受けた。

 その結果はどうなったのか? 11月 13日、概要の新しいバージョンは嘆願書の要望事項に対して何らの言及もしなかった。共産主義という言葉がまだ言及されていないのだ。カルリ司教も、すぐその日に公会議議長団に抗議して、公会議執行裁判所に告訴した。

 それだけではなく、修正案の形態でもう一度要請する事にすると同時に、特別に共産主義に関する明確で正確な討論を提案した。チェトゥスの助力者たちは 11月 13日土曜日夕方と 11月 14日日曜日を消費し、車に乗ってローマを回りながらすべての教父たちに二つの文書を配って回った。11月 16日までに、更に 209名の署名が集められ、11月 15日にはシガウド大司教の激しい抗議が公会議を揺るがした。ところが全ては無駄だった。

 しかしながら、ティスラン枢機卿(Cardinal Tisserant)はこれについて調査を命ずると、・・・嘆願書が、机の引き出し中に「見あたらなくなってそのままになっていた」ことをが暴露された。実は関係委員会の秘書であるモンシニョール・アシル・グロリユ (Achille Glorieux) は嘆願書を受け取りながらもそれを委員会に渡さなかったのだった。

 ガロンヌ大司教モンシニョール・グロリユの「失念」を公に謝罪したが、もうどうしようもなかった、共産主義に関する段落を追加するように与えられた猶予時間は、すでに過ぎ去ってしまった。

 それに共産主義の断罪は、公会議がどんな誤謬に対しても断罪はしないと決意した教皇ヨハネの司牧的な意向とあまりにも明らかな対照をなしていた。それだけではなく 1963年 4月 11日の回勅『地上での平和 (Pacem in Terris)』でヨハネ二十三世は、「その中に肯定的で賛同するに値する要素が見いだす」(d’y reconnaître des éléments positifs et dignes d'approbation, the possible existence of good and commendable elements)ことができるとさえ言うほど、共産主義を受け入れ、それに対する批判をまったく排除していた。

 これはピオ十一世教皇が、共産主義を「内在的に邪悪である」(Le communisme est intrinsèquement pervers, ) と言った断罪を否認することであると同時に、カトリックが共産主義と結託することを許容するものであった。

 フェーブル大司教は 1965年 9月 9日に書面でなした発言でその同じ否認を告発した。

「[概要 XIII の中の] 18ページの §19: 共産主義は、無神論という観点の下でのみ語られており、共産主義という個別のことは言及がなされていません。
 この文書からは、共産主義が無神論であるということだけが断罪される理由である、と推論することができ、これははっきりと教会が常に教えてきた教理に反しています。
 ですから、文書の中で、或いは、間接的にであっても、共産主義を全然言及しないほうが、或いは、反対に共産主義についてはっきりと言及して共産主義の本質的な悪を明らかにするほうが、良いと思われます。」


 この論争の審判者であったが、ヨハネ二十三世の後継者でもあったパウロ六世は「共産主義」という用語に関して沈黙を守った。彼はただ 12月 2日に「無神論に対する過去の断罪」に関して言及することで満足し、そうすることによって、ただ無神論であるだけでなく邪悪な社会活動を企てる組織であり手段 (ジャン・マディランが言ったように、大衆を奴隷にするテクニックと弁証法の実践)としての共産主義という理由で共産主義を排斥したピオ十一世の教理を歪曲させた。

 ピオ十一世の回勅である『天主である贖い主 (Divini Redemptoris、無神論的共産主義に関して)』に付けられた脚注の参考文献を見ると、誰でもこの裏切り行為を確認することが出来る。

 ガロンヌ大司教の謝罪と言い訳はチェトゥスを満足させることが出来なかった。また彼らの闘いの熱を止めることも出来なかった。

 またもや 1965年 12月 3日、ギリギリになって、彼らは名簿にあった 800人の教父たちに、概要 XIII の中で共産主義、婚姻の目的及び「戦争と平和」というテーマに関する部分がまだ満足させるものではないことを五つの理由を上げて説明する最後の書簡を配った。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire d'Econe

2008年08月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 夏休みで神学生はいませんでしたが、エコンの神学校を訪問してきました。写真でご紹介致します。


聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコンの神学校にて、イギリスで働いているフィリピン人ブラザーたち

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコンの神学校にて、フィリピン人ブラザーたち

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコンの神学校の駐車場にて

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコン神学校

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコン神学校の中庭で。聖ピオ十世教皇様の像の前で。

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコンの神学校のキッチンにて。フィリピン人ブラザーとオブレート・シスターたちと

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコンの神学校から

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
エコンの神学校からの景色

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
神学校の祭壇

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe

聖ピオ十世会エコン神学校(聖ピオ十世国際神学校)Seminaire International Saint Pie X a Econe
最近建てられたばかりの教会なので、まだ内装はシンプル


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聖ピオ十世会創立者の伝記 12.3.6.NOTA EXPLICATIVA PRAEVIA

2008年08月29日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

‘NOTA EXPLICATIVA PRAEVIA’(予備解説的注釈)

 1964年 9月 15日、第三総会開会の時、スタッファ(Staffa) 大司教は 70人の教父たちを代表して発言する許可を求めた。彼の要請は拒否された。チェトゥスはあきらめて、「教会に関して」という概要の中の司教団体主義に関する章に、何種類か修正案を提案することにした。

 9月 21日から 29日まで本文は一句節ずつ表決に付した。結果的には 572票の条件付き賛成(placet juxta modum)、つまり何らかの修正を加えたうえでのという条件付きの‘賛成’があった。

 神学委員会は修正案(modi)を検討し始めた。しかしこの事が完結される前に、チェトゥスは自分たちの出した修正案(modi)は、排除され、他方であまり重要ではない修正案だけが残されてたことを知った。

 スタッファ大司教はこれを自分の耳で聞かず、パウロ六世に手紙を書いた。それは、司教団体主義の命題という「極端な形式」の利益のためにローマ・カトリック系神学を沈黙させようとする手続上の邪悪を告発する書簡だった。この書簡の内容は、チェトゥスの中でもっとも活動的であった教父たちの 12人の手にも渡され、その内の一人がルフェーブル大司教だった。この書簡を渡された教父たちは、各自にそれぞれ他の十二名の公会議教父たちの署名を取り付けることを要請された。

 「スタッファ作戦(Operation Staffa)」と呼ばれたこの行動は、パウロ六世がこの書簡を手続上の規則違反に対する調査を命じて、神学委員会に伝達したので効果的であった。

 そうこうしている間、第三総会開会の前日、活動的なララオナ枢機卿のおかげで、35人の枢機卿と 5人の総長--彼らの中にルフェーブル大司教がいた--が動員され、彼らはパウロ六世に 10月 18日付で ‘非公開メモ’を送ってモンティーニ教皇が後援する新奇な教えに関する彼らの「憂慮」を表明した。

「その概要は、教会の姿を変えています。何故なら、
--- 君主制である教会が、司教制となり司教団体制になっているから、しかも司教団体制度は、天主から与えられた制度として、そして司教聖別を受けることによって成立することになっているから、
--- [教皇] 首位権は、傷つけられその内容を虚ろなものとされている、・・・ただ首位権の役割は位階制度を一致させ分裂しないように維持するためにあるだけとされているから、
--- 叙階による位階秩序とは区別されたものとしての裁治権の位階秩序は、揺り動かされ破壊されているからです。」


 署名人たちは、次に「静かな討論を難しくし、真の自由を妨げ拘束する、圧力団体や大胆な神学顧問、印刷物の配布」を告発し、公会議のために考察するための休憩時間と、「新しい教理を充分に熟考する期間」を要請した。

 パウロ六世は、自分が個人的に攻撃を受けていると感じ、ララオナ枢機卿に、辛辣な皮肉で一杯の自筆の手紙を書いて返事を返し、枢機卿に次のことを注文した。

「そのような大多数の司教たちに反対する、また公会議の成功にも不利な態度が(もしもその態度が本当で証明された理由を失っていたとしたら)、どれほど有害な結果の原因になるかを考えてみよ」

 パウロ六世は概要の多義性が持つ危険性を見ようとしなかった。しかしそれは、公会議後にこの文章はそのように理解されるだろうと概要の極端な解釈を、或る一自由主義の教父が書面で提出するという間違いをやらかすまでだった。

 自分が欺瞞され騙されたと見て取った教皇はうなだれ、涙を流した。そこでオッタヴィアーニ枢機卿にその本文の中の幾つかの表現を正確に記述するように求め、本文をどのように解釈しなければならないかを示す「予備解説的注釈」作らせた。

 1964年 11月 14日、予備解説的注釈 (Nota explicativa praevia) が教父たちに提示された。自由主義教父たちはそれをしんらつに批判した。

 自由主義者たちが「暗黒の一週間 (Black Week)」と呼ぶ週の初日の 11月 16日に行われた告知の中、公会議事務総長であるペリクレ・フェリチ (Pericle Felici) 大司教は、論争を終息させるために、司教団体に関する概要の教理は「上述した注釈の意味及び主旨によって」解釈されなければならないと言った。

 チェトゥスの活動は、ローマ教皇の首位権を致命的な危険から救った。その注釈は、公会議文献--穏健な自由主義命題を載せている--の解釈を、ルフェーブル大司教が受け入れることができる製限された意味に固定させた。この注釈は『教会憲章』の一部をなすものとなった。この注釈がなければ多義的な文献にすぎないという、内属的な弱点を見せている『教会憲章』の。

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

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1964年11月16日第二バチカン公会議第123回総会において公会議事務総長がなした告知

2008年08月29日 | 第二バチカン公会議
告知

1964年11月16日第123回総会において公会議事務総長がなしたもの

「投票を受ける、『教会についてDe Ecclesia』の草案において示されている教義の神学的資格は何であるかと求められた。
この質問に付いて、教義委員会は次のように答えた。
「論を待つまでもなく、公会議の文章は公知の一般的な規則によって解釈されなければならない。

教義委員会は1964年3月6日の宣言を参照するようにと求める。以下がその文章である。

「公会議の慣習と本公会議の司牧的目的を鑑みて、この聖なる会議自身が明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきもの(tenenda)として定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義する。

聖なる教会会議が教会の最高教職による教理として、述べる他の事柄は、すべての、そして各のキリスト信者はそれを教会会議自身の方針に従って(juxta mentem)受け入れ(excipere)、受領し(amplecti)なければならない。この教会会議の方針は取り扱われている題材と表現方法から神学的解釈の法則に従って知ることができる。

 『教会について』の草案第3章に出された修正意見に、あらかじめつけられた次の解説的注釈が、最高権威によって教父たちに伝えられた 。第3章に書かれている教えはこの注釈の意向と意味にしたがって 説明され理解されなければならない。



予備解説的注釈

委員会は諸修正意見(modi)の審査に先立ち、以下の一般的所見を述べることに定めた。

1. 団体(Collegium)は厳密に法的意味において理解されるのではない。すなわち、その団長に自分の権力を付与する(demandarent)平等な人々の集団ではなく、団体の構成と権威とが啓示から導き出されるべき永続的集団(coetus stabilis)を意味する。従って修正意見12に対する回答の中で、12使徒について、主は彼らを「団体すなわち永続的集団の形に」制定された、と明確に言われている。(修正意見53C)をも参照。同じ理由から司教たちの団体についても職位(Ordo)または団(Corpus)と言う用語が区別無しに用いられている。一方ではペトロと他の使徒たち、他方ではローマ教皇と司教たち、と言う二者間における平行的類似は、使徒たちの例外的権能が彼らの後継者に伝えられたことを含まないこと、また団体のかしらと団体との平等を意味するものでもないことは明らかであり、第1の関係(ペトロ―使徒たち)と第2の関係(教皇―司教たち)の間における比例を含むものである。従って委員会は22条の中で、同じ理由(eadem ratione)ではなく、似たようなの理由(pari ratione)でと書くことを定めた。(修正意見57参照。)

2. 人は司教聖別の力、および司教団体のかしらならびにその構成員との位階的交わりによって司教団体の構成員となる。(22条1節の終わり参照。)聖別において聖なる任務(munera)への実体的(ontologica)参与が与えられることは、典礼伝承をも含めた伝承から確実に証明される。故意に任務(munera)という言葉が用いられ、権能(potestates)と言われていない。それは、後者は実際に行使しうる権能(potestas expedita ad actum)の意味にも解されうるからである。このような実際に行使できる権能を持つためには、位階的権威による法典的すなわち法的限定が必要とされる。権能のこのような限定は特別な職務の授与または管轄を受ける人々を指定することによって行われることができ、最高権威によって承認された規則に従って与えられる。このような追加された規則は、ことの本質から(ex natura rei)要求されるものであって、それは多くの主体がキリストの御意志によって位階的に協力しながら実行すべき任務に関することだからである。教会の生命の中でこの「交わり」は法の中で法制化される前に、時代の状況に応じて実施されたことは明白である。

 従って教会のかしらならびに構成員との位階的交わりが必要であるとはっきり言われる。交わりは古代教会において(今日でもとりわけ東方においてそうであるように)大きな栄誉が与えられている概念である。それは漠然としたある感情(affectus)ではなく、法的形式を要求すると共に愛によって生かされている組織的な実在として理解される。そこで委員会はほとんど満場一致の同意をもって「位階的交わりにおいて」と書くべきであると決めた。(修正意見40および24番において法的任命について言われていることをも参照)



3. 司教団体はかしら無しにはありえないが、その団体は「全教会の上に最高完全な権能を有する主体でもあるsubiectum quoque supremae et plenae potestatis in universam Ecclesiam exsistere」と言われる。これを承認することは必要であって、それはローマ教皇の権威の充満について疑いが起こらないようにするためである。事実、司教団体は常に必然的にそのかしらと共に理解されるものであって、かしらは司教団体の中においてキリストの代理者および不変的教会の牧者としての自分の任務を保持している。言いかえれば、区別はローマ教皇と司教たちの集合体との間にではなく、単独のローマ教皇と司教たちと共にあるローマ教皇との間にある。ローマ教皇は司教団体のかしらであるから、一人彼のみが、司教にとってはまったく権限外のある種の行為をすることができる。例えば司教団体を召集し指導すること、行動の規則を承認すること、など。修正意見81参照。ローマ教皇には群れ全体についての配慮が委任されているのであって、この配慮を実行に移すにあたり、いかなる方法によるのが適当であるか、個人的方法によるか団体的方法によるかを、教会の時代の移行によって異なる必要に応じて決定することはローマ教皇の判断に属するのである。ローマ教皇は団体的行使を規制し、推し進め、認可するに際して、教会の善を考慮して、自己の判断に従って行動する。

4. ローマ教皇は教会の最高牧者として、その任務自身から要請されるように自らの権能をあらゆる時に欲するままに行使することができる。司教団は常に存在するとはいえ、それだからと言って常に厳密な意味で団体的に行動するものではない。このことは教会の伝承から証明される通りである。言いかえれば、常に「完全な行使の中にin actu pleno」あるのではなく、むしろ厳密な意味で団体的に行動するのは間隔を置いてでしかなく、かしらが同意するときだけでしかない(nonnisi consentiente Capite)。「かしらが同意するとき」と言われるのは、あたかもあるよそ者に依存すると解されないようにするためである。「同意するconsentiens」という字句はこれに反して、かしらと団体構成員との間の交わりを考えさせ、かしらの固有の権限に基づく行為の必要性を含むものである。このことは22条2節に明らかに肯定されており、同条の終わりに説明されている。「だけでしかないnonnisi」という消極的な言い方は、全ての場合を包括する。従って最高権威によって承認された規則が常に守られなければならないことは明白である。修正意見84参照。

これら全てのことにおいて、司教たちとそのかしらとの結合(conjunctio)について言われているのであって、決してローマ教皇から独立した司教の行動についてではないことは明らかである。後者の場合、かしらの行動が欠如しているので司教は団体として行動することができない。このことは「団体」の概念から明らかな通りである。ローマ教皇と全ての司教とのこの位階的交わりは伝承においてたしかに不動のものである。

注意事項。法典的、法的観点(aspectu canonico-iuridico)と区別すべき秘蹟的・実体的任務(munus sacramentale-ontologicum)は、位階的交わり無しには実行できない。しかしながら委員会は神学者の議論に任されている合法性と有効性の問題について、特に分かれている東方の諸教会において実際の行使されており、またその解釈について種々の説がある権能の問題については、介入すべきではないと判断した。

+ペリクレス・フェリチ

サモサタ名義大司教
聖なる第バチカン公会議事務総長

EX ACTIS SS. OECUMENICI CONCILII VATICANI II


【訃報】大阪の信徒会長様

2008年08月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 大阪で我らのためにまた戦後カトリック教会のために尽くしてこられた池山様が、今朝、霊魂を天主様のもとに返されました。

 まさか、今回のミサ聖祭で最後になってしまうとは、残念です。池山様には、私にとって言葉に尽くせない御恩があり、天主様のなせることとはいえ、司祭叙階以来初めて体験する深い悲しみを覚えます。

 あれほどまで池山様が望んでおられたカトリック教会が過去の栄光にたち戻ること、昔のミサ聖祭の復活と信心の復活、教皇様への祈り、キリシタンの信仰に倣うことを、この胸に深く刻み込みます。池山様には、深い尊敬と感謝の念でいっぱいです。池山様の笑顔のお顔が脳裏にはっきりと映り出されます。残念です。今は、思い出を、色々ありますが、言葉で語ることが出来ません。

 私は、池山様の霊魂のためにロザリオの祈りをたくさん捧げ、明日から多くのミサ聖祭を捧げます。愛する兄弟の皆様のお祈りを心からお願い申し上げます。

 池山様、感謝します。

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

泣く人はしあわせである。かれらは慰めをうけるであろうから。

2008年08月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 或る方から、こんなメールを戴きました。とてもうれしく思いました。(引用をどうかお許し下さい。)


【お便り】
 「しゃっくりですが、新生児は授乳後よくしゃっくりをしました。なかなか治まらない・・。そのうち不快感で、大声で泣き出すのです。赤ちゃんは全身で泣くので横隔膜を使うのでしょうね。しゃっくりも止まるのです。
 ミルク→しゃっくり→大声で泣く→止まる→泣き疲れて寝る→親も一息つける・・・でした。
 うまくできていますね。
 大人は大声で泣けませんが、普通はそんなに続かないです。お疲れがたまっていたのではないでしょうか。「疲れ」を消去するデリート・キーがあればいいのですが・・。」


【お便り】

感動!
神父様が訳して下さった聖務日課の祈祷文と、素晴らしい御歌の数々に、はい、
どっぷりと浸っておりました*^^* ・・・

大感動!!!

神父様の御作の、感想をば…。

>聖心は 一途の愛を 知り給う
>主、彼女(かれ)を愛し 彼女(かれ)、主を愛す。

特に、ここが大好きです!

涙出ます。

後半の、御聖体拝領後の感謝の祈りに出てくるこれは、私も大好きなお祈りです。

こういう素敵な祈りを、教養と知性とともに歌に詠めるなんて、やっぱり「神父」
という人はすごいものだなあと改めて思った次第です。

感動…。

はい、小野田神父様ご自身を褒めてもいますが、もちろん神父様にこのようなお
仕事をなせるお方というのは、やはり全能なのだなあと思いました。

全能なる天主様の手となり足となり働かれる「神父」という人がますます、そし
てもれなく、天主様から与えられる権能を間違いなく行使して下さるようにと祈
るばかりです。

さてこれを私は・・・携帯画面で拝見していたのですが、出にくい涙(合併症
による涙腺の障害があり涙少ないのです)で目がかすんで先が読めなくなってし
まいました^^;

で、用意していた読書の続きに戻ったのですが、そこで、まさしく神父様に差し
上げたい文章に出会いましたので、以下にそっくり引用します。

=====

  司祭へ

 あなたは聖なるみことばを呼吸する
 そして、見よ
 われらの神は
 あなたの願いのままにあまくだりたもう
 神はわれらのうちにあり
 されど、おおいをたれて
 主はその友に
 ぶどう酒とパンの姿となりて
 まみえたもう


 (『心の歌(アントアネット・リタ・クーンの生涯)』
 ローレンス G ロヴァーシキ著、小池静子・今野悦共訳
 昭和37(初版36)年、中央出版社刊)より
 
=====

アントアネット嬢は、カテキスタを目指す折に、多発性硬化症に罹り、全身の痛
みや筋力の衰え等と闘いながらも信仰に生きた人のようです。(まだ完読してい
ません。)

その彼女が、指導司祭に捧げた詩のようですが、彼女は自身の苦しみのすべてを
司祭達のために天主に捧げ、苦しみに苦しみ抜いた死の直前、ごく身近な一人に
「神父様が霊魂のために働いていらっしゃるのをお助けするために祈りをささげ
ることは私の喜びです。救霊のお仕事にいっしょに働いていることになるのでは
ないでしょうか。」とこっそり打ち明けているそうです。

す、すごいっ!

・・・
そんな力強い祈りに支え続けられた往年の司祭方はさぞかしお幸せだったろうなと思うので、現代に生きる私は、現代の神父樣方に同じような幸せを味わっていただきたいと願っています。

>O vera, Christe, caritas,
>おお、キリストよ、真の愛徳よ、

この「真の愛徳」という形容、なんと素晴らしいのでしょうか!

どんな形容をもっても表しようの無い素晴らしいお方を、精一杯に表す言葉だと思います。

感謝、多謝!

【お便り】

 お元気でお過ごしでしょうか。
 8/24主日のごミサに与れそうです。よろしくお願いいたします。・・・

 猛暑は落ち着き、涼しくなりました。今日は25度です。ここ3日、毎夕、雷鳴を伴う激しい夕立です。改めて、雷雨をしのげる「住居」のありがたさを思います。

 アルザスやストラスブールの写真、見とれてしまいました。クレーン車やトラックのない時代に、どのようにあの壮麗なカテドラルを建築したのでしょうね。終生誓願式のシスター、おめでとうございました。
  
------------------


 心の温まるお便りを深く感謝致します。

 年をとると涙腺が緩くなるようです。ちょっとしたことにも目頭が熱くなってしまいます。
 愛する兄弟姉妹の皆様から受けたものを、しみじみと感謝しております。お礼し尽くすことが出来ません。

 涙を流す、って不思議なことですね。感謝の涙。うれしさの涙。喜びの涙。もらい泣き。

 中世のヨーロッパの人は、イエズス・キリストへの愛のために、愛の感動のために、汗を流してあの荘厳なカテドラルを作ったのでしょうね。永遠の記念のために。私たちを慰めてくれる天主、私たちの主イエズス・キリストのましましたもう家を、心を込めて造ったのでしょうね。雷雨をしのげる家を、私たちの涙を拭いてくれるイエズス・キリストのまします家を。

 「大人は泣かない」と読んだとき、また永井博士のことを思い出しました。永井博士は言います。「大人は泣かない。泣いたって慰めて慰めて止めてくれる母がいないのだから」と。

 永井博士の娘、茅乃さんですが、博士の弟である元さんも家をなくして博士の家族と同居していました。元さんの小さな娘が昼寝からおきてきて、茅乃に「おかあちゃんは、どこ?」と言いながら、母親の姿を探し回っていたとき、茅乃は自分の母親のことを聞かれているのだと思って、あどけない表情で「母ちゃんは、天国よ」と答えたのです。

 そのとたん、元さんの奥さんが部屋に入ってきて、何がなんだか分からない幼児は「お母ちゃん!」と叫ぶや、母のエプロンの中に飛び込みました。

 茅乃の顔がみるみる曇るのを隆はじっと見つめていました。茅乃は障子のところに行くと、その桟を指でなぞりながら、ただ立ちつくしていました

 ただそれだけの仕種でしたが、父親の隆には幼い娘の気持ちが痛いほど分かりました。

 家の回りは、割れ瓦や瓦礫が散らばったままで荒れ果てていました。茅乃は幾度も躓いて、膝に切り傷を作ったか分かりません。そんな時、茅乃は指でそっと血をふき取っていましたが、泣くということはありませんでした

 ある時、犬が茅乃にじゃれつこうとしていたので、こわがって茅乃が父の部屋に飛び込んできたことがあります。が、泣きじゃくることはありませんでした。それどころか一声も挙げなかったのです

 泣くことが出来ない娘の姿。・・・

 隆は「この子を残して」の中でこう書いています。

「子どもの時の幸福はいつも母と繋がっているようだ。しかも泣いた後で慰めてくれたことに関係しているようだ。・・・ 茅乃よ、おまえのお母さんが死んでから、この父にも、思い切り大声を張り上げて泣きたいことがあった。・・・ けれども、大人は泣かない。泣いたって慰めて慰めて止めてくれる母がいないのだからつまらない。孤児院で様子を見ていると、泣けば大勢に笑われてしまう。笑われるために泣く馬鹿はいない。全てのことを知って下さっているただ一人のお方は、こう言われる。泣く人は幸い。その人は慰められる。おまえたちはいつでもこの神様の前で泣くがいい。その涙の慰め手は天主様である。」

(「長崎の歌」288ー289ページ)


 誠一が14歳、茅乃が8歳の時に、二人に向かってこう書いています。
「真実、孤児の道は寂しい。孤児の真実の道は苦しい。この道は暗く、細く、険しい。・・・信仰によって、その寂しさが消えるのではない。苦しさがなくなるのではない。・・・
宗教はアヘンではない。肉体的な苦痛や、人間感情の悲哀を消してくれるのが信仰の目的ではない。信心の御利益ではない。さみしいときは、その寂しさが天主様の摂理の表れであるから、それをそのまま感謝しなさい。ありがたく痛いなぁと感じ、そうして、そのさみしさ、痛さの中に身を置きながら、天主の御栄えを現すにはどうすればよいかと考え、祈り、出来る限りのことを行っていゆく。その時、肉体的にまた精神的に苦痛があるまま、超自然に完全な幸福を感じているのである。」

(「長崎の歌」336ページ)


「病気や災いは天主から遠ざかっているしるしだとか、天主が私たちをお見捨てになった証拠だとかではないのです。・・・ 私たちは、愛する者たちを試みたり、気まぐれに人をもてあそんだりする天主を信じているのではありません。天主はそのような方ではありません。もっと心の広い大きな存在です。」

(「長崎の歌」337ページ)


「天主様はよく生きることとは、決して国や人類のために大いなる行いをすることだとはおっしゃっていません。もしそうしなければならないとしたら、世界中の病人は一体どうなるのでしょうか。・・・
役に立たないと言うのが問題ではないのです。私たちが天主様の御計画を喜んで受け入れ、愛に満ちて生きていけば、私たちの人生は大いに価値があるのです。」

「天主の摂理が不公平だという考えに陥っている人がいます。何故知能の低い人たちがいるのか、体に障害を持った人たちがいるのか、何故貧しさに苦しむ人がいるのか、と。私たちには分かりませんが、しかしこれだけは確信して言います。
つまり、もし私たち一人一人がじぶんのあるがままを受け入れれば、天主の御計画がどのようになされたかを知る日が、やがてやってくることを。それも私たちの弱点を通して。
才能があることと、弱点を持っていることでは大いに違いますが、天主の偉大さを世界に現し、天主を知り、愛し、仕えるために生まれ、死後、永遠の生命に与ることにおいて、みんな平等なのです。
愛し子よ、おまえたちは、天才ではないし、未来には厳しい生活が待っているだろう。

しかし、へりくだった心で、しかも愛に満ちた生涯を送るならば、人生は実り多いものになるだろう。」

(「長崎の歌」337ー338ページ)


「終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やされるべき清き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか? ・・・【戦争という】この大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を捧げて神にお詫びをせねばならないでしょう。・・・しかるに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、たちまち天皇陛下に天啓をたれ、終戦の聖断を下させ給うたのであります。信仰の自由なき日本に於いて迫害の下四百年殉教に血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に捧げられるべき唯一の清き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を被る筈であった幾千万の人々が救われたのであります。」

「浦上を愛し給うが故に浦上に苦しみを与え給い、永遠の生命に入らしめんが為に此世に於て短きを与え給い、しかも絶えず御恵みの雨をこの教会の上にそそぎ給う天主に心からの感謝を献ぐるものでごさいます。」


 病院で、看護婦さんから、永井博士の著書を読んでもらっていた或るライ病の患者(日原さんという人)がいました。

永井博士は、このライ病の日原さんにこんな歌を送られたそうです。
「人にとりて、尊きものは魂と 知らしめるために らいはあるなり」

 日原さんは、こう答えたそうです。
「ハンセン病にかかったとき、私には美しい妻と娘がいましたが、考えの浅い若者でした。
社会から見捨てられ、妻と娘の元から追われ、塀に囲まれたハンセン病患者の居留地に追放されたのです。絶望して死のうともしました。しかし、そこに、全てを失い、死に瀕しながらも我が身とこの世の中に安んじている永井博士がいたのです。
永井博士らの導きでキリストと信仰に至り、人生に起きる全てのことは賜物であり、また恩寵であると悟るようになりました。病気にかかってから50年たちましたが、ハンセン病を神に感謝、永井博士との出会いを神に感謝と言うことが出来ます。」


 隆は、しっぽをクルリと巻いたブタの絵をよく描いていました。
ある時、寝たきりで役立たずだと自らを嘆く原爆犠牲者からの手紙に答えて、ハガキにこのブタの絵を添え、そのしたに、
「私たちはお互いに、原子病で倒れはしたが、人生から退却しないでおきましょう。
ブタのしっぽのように、あらゆるものの後に付いていても、しっぽはしっぽの役目があります。」と書き送りました。

(「長崎の歌」335ページ)

聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ、「ローマ式典礼様式のミサ」)にようこそ!

2008年08月24日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

■ 聖伝のミサ(いわゆるトリエント・ミサ、「ローマ式典礼様式のミサ」)にようこそ!

 愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに歓迎します! 

何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。

何故なら、「この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明している」から「この新しい信仰は私たちの信仰ではない、カトリック信仰ではない」(ルフェーブル大司教)からです。

何故なら、新しいミサはエキュメニズムのために作られたからです。

<2008年8月の予定>



 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2008.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。
それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2008, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2008" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/

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【関連記事】
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
■ カトリック典礼が普通に有するべき三つの性質:新しいミサはこの三つの特徴を満たすか?
■ モンシニョール・クラウス・ガンバー(Msgr Klaus Gamber)の「ローマ典礼の改革」
■ 今日経験している教会の危機は典礼崩壊が原因であると、私は確信する。(ベネディクト十六世)

聖ピオ十世会のブラザーと散歩して見たニースの街並み

2008年08月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ニースの聖ピオ十世会の教会のすぐ後ろは丘になっていて、ニースを見渡すことが出来ます。
【おまけです】

ニース(フランス)Nice (France)
ニースの街並み

ニース(フランス)Nice (France)
「ほら、あれがニースのカテドラル(司教座聖堂)だよ」とブラザー。

ニース(フランス)Nice (France)
ドームがついているのが、カテドラル

ニース(フランス)Nice (France)
ニースの海岸

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)
右に見える日時計は、聖ピオ十世会の信者の方が設計して作ったのだそうです。

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)
ニースの港

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス)Nice (France)
日時計を設計した信者の方は、天体望遠鏡のある天文台で勤務しているそうです。

ニース(フランス)Nice (France)
昔のカテドラルの跡

ニース(フランス)Nice (France)
古代のニースのカテドラル跡

ニース(フランス)Nice (France)

ニース(フランス) Nice (France)
ニースの人々のためにたくさんお祈りをしなくてはね。

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【関連記事】

ニース(フランス)の聖ピオ十世会の教会を写真で紹介します

2008年08月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ニースにある聖ピオ十世会の教会をご紹介します。

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
ニースの聖ピオ十世会の教会です。 昔は別の女子修道会が使っていたのですが、召命がなく使われなくなったので、聖ピオ十世会が使うようになりました。

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
聖ピオ十世会の教会

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
教会の玄関でナンスネー神父様と

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
聖ピオ十世会のブラザー

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
ニースの聖ピオ十世会の教会の主祭壇

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
脇祭壇(福音側)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
脇祭壇(書簡側)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
主祭壇

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)


ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
教会の内部


ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
教会の香部屋 ナンスネー神父様

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
亡くなったシスターたちの名前があります。

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
主日に歌ミサでミサ聖祭をすることを依頼されました。

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
日本にもこのような教会があるといいですね。





ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
ドン・ギユー神父様から譲り受けたニースの小聖堂

ニース(フランス)にある聖ピオ十世会の教会 SSPX/FFFPX in Nice (France)
御聖体降福式

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【関連記事】

ストラスブールのカテドラル ノートルダム大聖堂の内部(機械仕掛けの天文学時計)

2008年08月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ストラスブールのカテドラルの内部をご紹介します。

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
ストラスブールのカテドラルの有名な機械仕掛けの天文学時計です。

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
昔の聖伝のミサの通りのままの聖人の祝日を指し示していました。

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
時計の横の柱

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
説教台

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
説教台

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
説教台

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
説教台の足元にも子犬がいました。(一節によると、大変御説教の上手い神父様がおられたのですが、その神父様には「弱点」があって愛犬家だったそうです。そこで説教する神父様をじっと待っている犬のようです。)

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg
ストラスブールのカテドラルの古い建物 (La Maison Kammerzell)。いまはホテル・レストランになっています。

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg の隣の家

ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg の隣の家

【おまけ:レストランにて】
ストラスブールのノートルダム大聖堂 Notre Dame de Strasbourg の隣の家
向かって右は、聖ピオ十世会のストラスブールの修道院長のクニテル神父様(Monsieur l'abbé Knittel)


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【関連記事】

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 12.3.5.司教団体主義に反対する闘い

2008年08月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

司教団体主義に反対する闘い

 多くの公会議教父たちの考えでは、第二次バチカン公会議の目標は第一次バチカン公会議の教えと均衡を取ることであった。第一バチカン公会議は教皇の首位権に関する教理を表明した。彼らの考えでは、第二バチカン公会議は当然、教皇とともに教会を治める司教の権利を宣言することを提案するべきであった。

 教会憲章の新しい概要は、準備されていた概要が廃棄された後に、1963年、第二会期の間に激しく論議された。競争関係にある三つの命題類がぶつかりあった。

 極端的な自由主義命題は、司教たちが一つの団体を構成し、教皇はその頭でしかなく、司教団体の意見を参照してのみ始めて教皇は決断を下すことが出来る、とするものであった。

 穏健な自由主義命題--パウロ六世はこの意見であった--は、司教たちは一つの団体を構成するが、天主の権利による頭である教皇に従い、教皇は、司教団体とは独立して、第一バチカン公会議で定義された個人的な権能を行使することができる、とした。従って、教会の最高の権能は二つの権威によって行使されることになる。つまり、一つは教皇の権威であり、もう一つは「その頭と共かつ頭の下にある」司教団の権威である。

 この緩和された自由主義命題に直面して、チェトゥスは次のように反論した。つまり、もしその通りなら、この説が主張するところの天主により教会に与えられたその構造の力によって司教たちに属する最高の権能を行使することを、神授の権利により、司教たちは教皇に、自分たちがそれを望むときに、つまり恒常的に要求することができることになってしまう、と。もしもそうなれば、教皇の個人的な最高の権能は、この説に合うように縮小されてしまう危険があるのだった。この危険に対処して、チェトゥスは、ベルト神父が概要の草案で解説し、ルフェーブル大司教が支持した、ローマ系のカトリック神学の命題を固守した。

 このチェトゥスの命題は、全聖伝と歴史とによって、教皇のみが神授の権利により、全世界の(普遍の)教会の唯一の頭であり、教皇だけに最高権威の充満が完全にあることを証明していた。司教団に関して言うならば、共通の行為の唯一の主体としての法的な意味における団体を、天主から受けた権利として構成しない。司教団は、公会議において例外的にのみ、合議的な固有の行動をこうしするだけである。司教団は、全世界の教会に対しては教皇がそれを望んだときに、司教団に権威を共に持たせることによってのみ、教皇の最高権威に参与することによって、全教会に対して権威を持つ頃が出来る【司教団に天主から与えられたような全教会に対する最高権威などというようなものは無い】。

 このような反対を前にして、新しい文書の草案が準備された。パウロ六世はこの草案に満足することができず、この下書きは見直され、訂正され、ようやく 1964年 7月 3日にそれを第三会期の討論の俎上になるものとして承認された。そこでは、神授権により教会が恒常的に公会議という状態であるという、穏健な自由主義命題が提案されたのだった。

 チェトゥスは教皇に対立してでも、教皇の首位権を守り抜き、いわゆる司教団体が天主の権利によるという主張に反対することを決意した

 1964年 7月 15日、ルフェーブル大司教、モリロ司教(Mgr Morilleau)及びドン・プルーは、フランスのソレムで、少なくとも 十三名の教父たちが署名した陳情書あるいはラテン語でポストゥラートゥム (postulatum) と呼ばれるパウロ六世に対する申請を作成した。これは教皇に、童貞女聖母マリア様を「教会の母」として宣言すること、また、聖伝の教理に反対するすべての概要を第三会期の討論で排除することを要請するものだった。この陳情書で、彼らは、ペトロがキリストの代理者だからこそ、使徒団の頭であったのであり、現在人々が暗示させようとしているように、司教団の頭だからキリストの代理者であるのではない、と教皇に思い出させていた。

 パウロ六世によって承認された概要をこのように阻止しようとすることだけでは満足せず、ルフェーブル大司教及び彼の友人たちはソレムに集まり、幾つかの概要には不正確さと曖昧さが隠されていると告発する手紙を教皇に書いて、公会議の多くの教父たちがそれに署名するように、より大きな射程を定めた。

 奇妙なことに彼らの関心事はスキレベクス(Schillebeeckx)神父と合致した。彼は極端な自由主義者ではあったが、第二会期に大きなショックを受けたのだった。何故なら、スキレベクス神父は、或る神学顧問が教会に関する概要をわざと曖昧にして穏健な自由主義の命題を提示しているのだと自白したのを聞いたからだった。その神学顧問はこう言った。

「私たちは、外交的に表現している。しかし公会議の後では、公会議文書にある暗示的なものを結論として取り出すだろう。」

 スキレベクス神父には「この戦術上の不誠実を見出す」という誠実さがあった。

 ルフェーブル大司教は、行間に隠されているが将来再生するであろうこのような誤謬のメッセージを見抜いていく内に、もしもパウロ六世が行動を取らなければ、公会議の名誉は失墜し、格下げられ、さらには公会議が教会を汚染することになるだおる、と考えた。


 ルフェーブル大司教は教皇にこう手紙を書いた。
「既に、"公会議の神学顧問たち" は、私たちが昔神学校で習ったことによれば軽率、危険、或いは基本的に間違いと判断しなければならない結論に至っています。教導権の教えとは正反対の用語と意味において活用されている概要もあります。概要の不正確さが、一世紀以上絶えず排斥され断罪されてきた考え、理論、誤謬が教会に浸透するのを許しているように思えます。」

 公会議の名誉と公会議について将来人々がつける評価にとって決定的なこの書簡は何らの回答も受けることができなかった

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第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)



ストラスブールの司教座聖堂 ノートルダム大聖堂Notre-Dame de Strasbourg

2008年08月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ストラスブールの有名なカテドラル(司教座大聖堂) ノートルダム大聖堂 Notre-Dame de Strasbourg をご紹介します。

ストラスブール
ストラスブールの町並み

ストラスブール

ストラスブール

ストラスブールのカテドラル CATHEDRALE DE STRASBOURG 高さ142メートルの尖塔をもつ街のシンボル的存在。
カテドラルの正面

ストラスブールのカテドラル CATHEDRALE DE STRASBOURG 高さ142メートルの尖塔をもつ街のシンボル的存在。

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
下が最後の審判、下から二段目が御受難

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
殉教者たち

ストラスブールのカテドラル
旧約の義人たち

ストラスブールのカテドラル
十名の乙女の内、愚かな乙女たち(油を準備せず、油入れを逆さにして持っている。)
向かって一番左の青年は、少女たちを誘惑している悪魔(この像の後ろに彼の本当の姿が彫られているそうです。)

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
賢い乙女たち(油を器の中にいれてきちんと持っている。)

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル


ストラスブールのカテドラル
カテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
鐘の塔に登る。

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
塔に登って見渡す

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
アルザスの街並み

ストラスブールのカテドラル
アルザスの風景

ストラスブールのカテドラル
カテドラル前の広場を眺め降ろす

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル

ストラスブールのカテドラル
カテドラルの塔の一番高い部分

ストラスブールのカテドラル
屋根に犬がいて下を見ていました。

ストラスブールのカテドラル


日本語参考資料:ストラスブール大聖堂

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