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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会 聖伝のミサ 【トリエント・ミサ】 2015年10月3日 幼きイエズスの聖テレジア

2015年10月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 幼きイエズスの聖テレジアについて、その「霊的幼児の道」について、ますます深めることにいたしましょう。

 「霊的幼児の道」は、私たちが自分の小ささを自覚し認めることから始まります。私たちは全て天主から受けたこと、天主が全てであり、私たちは何でもないこと、私たちが一人では何も出来ないことを愛を込めて受け入れることです。私たちのあるべき立場に身を置くことです。私たちの自分の持つ力にあまりにも頼りすぎないことです。私たちが天主の助けを常に必要とすることを理解することです。幼子が父親に助けを求めるように、天主の子らが、聖父なる天主に信頼を込めて助けを求めることです。
 聖テレジアは言います。「私の道は、信頼と愛とに満ちたものです。」(ロラン神父への手紙1897年5月9日)「信頼の欠如はイエズスを侮辱し、聖心を傷つけます。」(マリ・ゲランへの手紙1889年5月3日)「私たちの望みと私たちの希望を制限することは、私たちが天主の無限の良さを拒否することを意味します。」「イエズスは偉大な行動を求めておられるのではなく、委託と感謝だけを求めています。」
 たとえ私たちが欠点だらけであっても、霊的生活に成長することに失敗しているとしても、私たちはがっかりしてはなりません。失望は自己愛から生じるものだからです。ある修道女が聖テレジアに天主の御前に幼子として留まるとは、どう言うことかを聞きました。聖テレジアはこう答えました。
「それは、私たちが自分の無であることを認め、良き天主様から全てを期待し、私たちが実践する善徳を自分に帰することを拒み、自分だけでは良いことをすることが出来ないと信じることです。」(最後の言葉8月6日)
 私たちの過去がたとえ罪にまみれていても、私たちがたとえ弱くても、決心を守れなくても、イエズスの憐れみに信頼することを聖テレジアは教えています。何故なら、イエズスは私たちの努力をご覧になっているからです。聖女が教えるのは、私たちの誠実な努力が成功を収めなかったとしても、天主の憐れみに信頼し続けることです。
「私たちは自分の力の及ぶ限り全てをしなければなりません。私たちはどれほどの骨折りをするかを数えずに与えなければなりません。私たちは、絶えず自己放棄しなければなりません。一言で言うと、私たちは私たちの愛を私たちが行うことの出来る全ての善行で証明しなければなりません。しかし私たちが出来ることは全て極めて小さいので、これらの仕事を聖化する唯一のお方に信頼すること、そして私たちが役に立たないしもべであり、私たちの望む全てをお恵みによって私たちに与えて下さると期待することが極めて重要です。」(マリ・ゲランへの手紙1890年7月)

 では愛する兄弟姉妹の皆様、聖テレジアに倣って、イエズスの憐れみ深い愛に信頼しましょう。私たちの祈りと犠牲と生活の模範によって、多くの霊魂の回心と救霊の恵みを求めましょう。私たちの誠実な努力を憐れみ深くご覧になって、私たちの主イエズスが、奇跡的な聖化の恵みを与えて下さいますように!

 2015年10月3日 童貞女幼きイエズスの聖テレジアの祝日にしたお説教を以下にご紹介いたします。

 無原罪の聖母よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月3日 童貞女幼きイエズスの聖テレジア 
小野田神父説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年10月3日、10月の初土曜日のミサです。今日は幼きイエズスの聖テレジアのミサをしています。何故かというと、幼きイエズスの聖テレジアは、宣教地に於いて、1級の祝日として祝う事になっているからです。宣教地の守護の聖人として、宣教師たちの守護者として、聖テレジアを祝っています。

 今日のこの御ミサの直後に、公教要理の続きがあります。先月は原罪についてみましたが、その続きを、その原罪の後の人類の歴史について、少しふれる事に致します。

「もしも幼子のようにならないならば、あなたたちは天国には入らないだろう。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は幼きイエズスの聖テレジアの大祝日です。幼きイエズスの聖テレジアの人生を顧みて、一体この聖女が人生に於いて、一体宣教にかかわる何をしたのだろうか?なぜ私たちは、幼きイエズスの聖テレジアの祝日をこれほどまでに、1級祝日として、宣教地では全て祝わなければならないほどの、宣教の為の一体何をしたのだろうか?世界のどこを駆け回ったのだろうか?という事をみて、その幼きイエズスの聖テレジアの生涯を垣間見て、その後に、ではその何故、宣教の守護者となったのか、その理由を第2にみて、最後に私たちは、幼きイエズスの聖テレジアの精神を受けて、それをみて、霊魂の救霊の為に、イエズス様の聖国の到来の為に、一体何をしなければならないのか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 第1のポイントは、では聖テレジアの生涯をざっと垣間見る事に致します。幼きイエズスの聖テレジアは、1873年、フランスのアランソンという所に、敬虔なお父さんとお母さんの元で生まれました。その子供の時から、修道生活に憧れていました。お父さんは元々神学生で、お母さんは修道女になりたい、と思っていた方でした。幼きイエズスの聖テレジアは小さい時から、「決して天主様に何も拒否しない、天主様のお望みの事は全てする。」という望みを立てていました。この望みを死ぬまで守っていました。5歳になると、お母さんが亡くなります。そこで幼きイエズスの聖テレジアは、マリア様の特別の御保護の下に、愛するお父さん、優しいお姉さんたちの世話の下に、すくすくと育っていきました。

 リジューにある、ベネディクト会経営の修道女の経営の学校で9年間勉強し、それから10歳の時には、非常に大きな大病を患いました。その時に、マリア様の、本人の語るによれば、「マリア様の姿を見て、マリア様がお現われになった。勝利の聖母のマリア様だった。」と言います。その勝利の聖母のマリア様に9日間のノベナをして、奇跡的に病気から治りました。

 この感謝の為に、幼きイエズスの聖テレジアは、パリの勝利の聖母の教会に巡礼に行き、その後にローマにも行きます。何故ローマに行くかというと、「司祭たちの為に、多くの霊魂がイエズス様の元に行くように、救霊の為に、自分自身を生贄として、修道女として捧げたい。」その為にまだ年齢が若かったのだけれども、しかしその為に特別の許可を求めに行きました。

 15歳になると、本来ならば普通は許可されなかったのですけれども、レオ13世教皇様と面会ができ、特別の許可を得たので、15歳でカルメル会に喜んで入会する事ができました。マリア様のように隠れた生活、マリア様のように閉ざされた、秘密の美しい花園として、天主様にのみ捧げられた、聖徳の、天主の花園として、天主への愛と隣人への愛に咲き誇る花園として、幼きイエズスの聖テレジアは修道生活を送っていきました。

 ある時、聖書を読んでいて、「もしも、誰かが子供であるならば、彼は私の元に来るがよい。」という1節を読んで、「私も、子供としてイエズス様の元に行きたい。」と、思いました。

 幼きイエズスの聖テレジアは、「天主様を、愛する父親として、その御手に全き信頼と愛を以って委ねる。」という幼児の道でした。

 「幼児の、子供の、霊的幼子の道」というのは、子供っぽいとか、幼稚だとか、幼じみている、という意味ではありません。「罪を知らない子供が、全くお父さんお母さんに依頼して委ねて、それを全く信頼して、そのお父さんお母さんの導かれるがままに、その自分の幼さを、その弱さを委ねて、全て依頼する。」というところにあります。

 もしも、この世が傲慢と虚栄で膨れ上がっているとすれば、幼きイエズスの聖テレジアは、福音的な単純さと謙遜さで、それに対抗しようとしました。全てをイエズス様の愛の下に、信頼をもって委ねました。

 幼きイエズスの聖テレジアはこの事を、「愛のエレベーター」と読んでいます。「ちょうど、エレベーターがスイッチを押すだけで上がるように、イエズス様の鷲の様な大きな翼が、私を連れて空の高い所まで上げて下さる。」

 ちょうど、子供が階段を上がる事ができなくて困っている時に、お母さんにニコリと笑えば、お母さんがそれを見て、階段の上に連れて行って下さる、というその信頼の心でした。

 亡くなる2年前、すなわち1895年、幼きイエズスの聖テレジアは、天主のあわれみ深い愛に自らを奉献致しました。1897年の9月30日、24歳でその霊魂を愛の内に天主様の元にお返しする事になりました。亡くなる前に、「自分は、天国からたくさんのバラの花を降らせましょう。」と約束し、幼きイエズスの聖テレジアの取り次ぎを以って、数多くのはかり知れない奇跡、また奇跡が、無数の奇跡が起こりました。回心の奇跡、治癒の奇跡。「本当に、テレジアは私たちにバラの花の雨を降らせている。」と皆確信し、ピオ11世教皇様が、まず列福、その2年後に列聖し、全ての宣教地の守護者として定めました。

 第2の点は、では幼きイエズスの聖テレジアは、カルメル会の自分の地元から、ローマには巡礼に行ったかもしれないけれども、一生涯ずっとカルメル会の修道会の家の中に閉じこもっていて、一体、宣教の何をしたのか?アフリカに行ったのか?アジアに来たのか?アメリカに行ったのか?一歩も出ずに何故、宣教地の宣教者の守護者として、私たちはこれほど祝わなければならないのか?なぜ祝っているのか?その秘密は何なのか?

 これは、幼きイエズスの聖テレジアの愛による一致に秘密がありました。

 ある時、聖テレジアは、聖パウロの書簡を読んでいて、「私たちはキリストの体の一部だ、肢体だ。ある者は使徒、ある者は教師、ある者は預言者、しかし皆が大切で、皆がその役割を果たしている。しかし、1つの体だ。」というのを見て、「私は宣教師になって、世の終わりまで、この世の地の果てまで、福音を告げ知らせたい。或いは殉教者となって、イエズス様の為にこの命を捧げ、血を流し尽くしたい。」などと、色々な望みを持っていました。「しかし自分にはそれができないので、それを動かしている原動力になりたい、教会の愛になりたい。」と、思っていました。

 最後に、「イエズス様の神秘体の一部だ」という事を自覚するあまり、自分を天主のあわれみ深い愛に奉献した時に、こんな祈りを祈っています、「私は自分の無力を感じているので、願わくは、御自らが私の聖徳となって下さい。もはや私ではなく、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のものですから、私の聖徳は、あなたがなって下さい。」また、同じお祈りの中では、「御身は私たちに、御一人子を私たちの救い主として、また私の淨配としてお与えになったのですから、これほど私たちを愛して、全てをお与えになって、御子の全ての功徳は、無限の功徳は全て私のものです。だから私はこの無限の功徳をあなたに捧げます、これは私のものですから。ですから、私を見る時には、私をこのまま見るのではなくて、イエズス様の尊き御面影、御顔を通して、私を見て下さい。イエズス様の聖心を通して私を見て下さい。私はイエズス様の一部です、イエズス様の聖心の一部です。」

 更に、幼きイエズスの聖テレジアはこう言います、「私は神秘体の一部として、全ての聖人たちの全ての功徳と、全ての礼拝と、全ての愛をお捧げします。全ての天使たちの功徳と愛徳をもお捧げします。マリア様の愛もお捧げします。何故かというと、同じ体の一部ですから。マリア様の功徳を、マリア様の御手を通してお捧げします。」同じお祈りの中で、「あなたはこう約束しました。あなたは、もしもご自分の、『私の名前によって頼むなら、御父は必ずお前たちに与えるだろう。』だからその約束の通り、私はあなたの名前で求めます。御父は決して拒否する事がないでしょう。それは、私をイエズス様の一部として見て下さい、という事です。御聖体をいつも拝領している事ができますように。」

 実は、私は昨日、イエズス様への聖心の信心と、私たちのイエズス様との一致について黙想して、その後に、昨日、初金の御聖体拝領の時に、「あぁ、イエズス様は、皆さんの霊魂1つ1つと、こんなに1つとなりたい、全てを与えておられる。皆さんも、イエズス様に、全ての1つを与えておられる。」というのを見て、「あぁ、」御聖体を授けながら、非常に大きな感動を覚えておりました。イエズス様の聖心の私たちに対する愛、一致の愛と、皆さまのイエズス様に対する一致への愛、それを何か目前にして、とても美しいと思っていました。

 幼きイエズスの聖テレジアも全く同じで、「いつも御聖体拝領をしていたい、御聖体と一致していたい。できるならば、私は御身の御聖櫃となりたい。ですから私はお願いします。私を御身の聖櫃として下さい。決して私から離れないで下さい。」というお願いをしました。「私は御身と1つとなりたいのです。私の中にいつも留まって下さい。私のものはあなたのものです、あなたのものは私のものです。」「私は、イエズス様の望みの通り、この世の罪を償いたいと思います。御身をお慰めしたいと思います。だから、私をして罪を犯すような自由を与えないで下さい。御身を悲しませる事がないようにして下さい。いつも御身を喜ばせる事、慰める事だけ、御身の望みを果たす事だけを考えるように、いつもそれだけに1つにして下さい。」最後にこのお祈りの中で、「私は御身に感謝します。何故かというと、あなたは私に苦しみを与えて下さったから。この苦しみの坩堝の中で、私を溶かして下さったから。これほどの十字架と苦しみを与えて下さった事に感謝します。」

 永井博士のようです、「長崎に原爆を落として下さった事を、皆感謝しよう。私たちは、天主様の生贄として選ばれた者となった、感謝しよう。」原爆の落とされた、その直後、多くの修道者、神父様たち、教会を失った、家族を失った博士は、皆にそう言って、「感謝をしよう。」と呼びかけました。

 幼きイエズスの聖テレジアも、「この苦しみを感謝します。だから御身の御栄にも、苦しみにもこう与ったお恵みを感謝して、どうぞ御身の御栄にも与るのを許して下さい。できれば御身の5つの聖痕の栄光を私にも下さい。」「私は、御身の正義を纏い(まとい)たい。愛の生贄となりたい。愛の殉教者となりたい。愛に生きたい。愛に於いて死にたい。」と、いつも思っていました。

 まさに、イエズス様との深い愛による一致によって、幼きイエズスの聖テレジアは、イエズス様の心を、愛で傷付けてしまったのです。幼きイエズスの聖テレジアの祈りに対して、もはやイエズス様は、何の拒否もできずに、「あぁ、我が愛する花嫁よ、さあ来なさい。レバノンから来なさい。さあ我が妹よ、我が花嫁よ、さあ来い、私の心は傷ついた、愛によって傷付いた、とろけてしまった、さあ。」

 そうする事によって、幼きイエズスの聖テレジアは、多くの霊魂をイエズス様のもとに引き戻すお恵みと、バラの花を天から雨と降らすお恵みを受けたのでした。

 では、私たちは今日どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?私たちも、幼きイエズスの聖テレジアに倣って、愛に生きる事に致しましょう。私たちも幼きイエズスの聖テレジアのようにおそらく、隠れた謙遜な単純な生活をして、奇跡を起こすわけではないし、世界を巡礼して旅するわけではないし、殉教の血を流して十字架に付けられて火で燃やされるわけではないし、皮を剥がれるわけではありませんが、しかし、愛によって、イエズス様の全ての、イエズス様から与えられる全ての日常の試練を、感謝をもって受け、イエズス様の聖心を決してお悲しませする事がないように、私たちとイエズス様は1つである、という事をいつも自覚していますように。私たちの行動はイエズス様と共に於ける行動であって、私たちの祈りはイエズス様と共の祈りであって、私たちの全ての生活はイエズス様と共の生活でありますように。

 幼きイエズスの聖テレジアは、これをマリア様から学びましたので、私たちもマリア様から、勝利の聖母から、汚れ無き御心から習う事に致しましょう。聖母の御取り次ぎと、聖テレジアの御取り次ぎによって、私たちがますますイエズス様と一致できますように。多くの霊魂がイエズス様のもとに来ますように。イエズス様を知り、愛し、礼拝し、多くの霊魂が救われ、救霊のお恵みを頂けるように、お祈りを致しましょう。

 「もしも幼子のようにならないならば、誰も天国には入れない。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

イエズスの至聖なる聖心 イエズスとの一致とは。聖ピオ十世会聖伝のミサ SSPX Japan

2015年10月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 本来なら、単なるお説教だけではなく、色々な別のお話を記事に書きたいのですが、別の義務が増えてしまいそこに十字架に付けられるように動きが取れなくなってしまっている感じがします。

 そこでこのブログの愛読者の方々には、退屈な思いをさせていることを残念に思います。6月21日の主日にマニラの教会で「主任司祭」として主日のミサを捧げて以来、後は今に至るまで、別のミッションの各地で主日のミサを捧げています。次回のマニラの教会での主日ミサは11月15日の予定です。

 ミンダナオ南部のミッションの話、レイテ島でのミッションの話、バギオでのミッションや、ボルネオ島でのミッションの話、お伝えしたい話もいろいろあります。幼きイエズスの聖テレジアに倣って、カトリック教会のために役に立つことは、「祈りと犠牲」であると確信し、お捧げしております。

 さて、イエズスの聖心は、私たちを極みまで愛しておられるのに、人々はそれを無視しております。私たちの人生の目的は救霊なのに、それだけは気に掛ける人々があまりにも少数です。

 イエズス・キリストの聖心について黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ




小野田神父説教
 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年10月2日、10月の初金曜日です。

来週の月曜日から、アジア管区の司祭たちの黙想会がありますので、良い黙想会ができますように、皆さまのお祈りをお願い致します。

それからローマでは、「家庭に関するシノドス」というのが始まります。そこで、このシノドスを、第1総会、去年行われたものを見ると、この方針や或いはその内容が、教会の今までの教えに触れる、それに抵触する内容が揉み込まれており、非常に心配されます。多くの枢機卿様や司教様たちも、それについて声を上げています。どうも教会では、枢機卿が枢機卿に、司教が司教に、今、家庭の事について対立して、そのシノドスでもそれが明らかになるように思われます。それで、フェレー司教様は最近、教皇様に対する、「カトリックの教えをはっきり証明して下さるように」嘆願のお願いをなさいました。どうぞこのシノドスの為に、特別のお祈りをお願い致します。アジア管区では、「特に今週、お祈りと或いは断食、犠牲を払うように。このシノドスの為に捧げるように。」と、管区長様からの呼びかけがありました。どうぞ皆さんも、多くのお祈りと犠牲を捧げて下さるようにお願い致します。

10月は、フィリピンのマニラで、アジア管区の修道院長、フィリピンの修道院長たちとレネー神父様が集まって、来年のミッションの計画を立てる、それを管区長様に提案する、という計画があります。来年、できるだけ私は、そこの会議で、日本にミサの回数を増やすように、お恵み倍増計画を提案しようと思っています。そこでその為に、他にもミッションで、人数が増えて席がなくて、教会の外にいる人たちの方が多い、というような所がたくさんあるので、それにも負けないように説得する事ができますように、皆さん、この会議が良く、日本にたくさん、毎月2回これからありますように、どうぞこのような、大阪で金、土、東京で主日、月曜日、というようなのが2回毎月あるように計画を立てる、という事を提案しようと思いますので、是非それが受け入れられるようにお祈り下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は10月の初金曜日です。私たちは、イエズス様の聖心の信心の黙想を、更に深める事に致しましょう。

 イエズス様の聖心の信心の核心とは何でしょうか?それは、私たちが、人となった天主の御言葉の愛を、イエズス様の肉の聖心、心臓に認め、私たちもその聖心の償いの業に参与する事です。私たちもイエズス様の聖心の思いと1つになって、イエズス様と共に、人類の贖いの業を為す事に協力する事です。私たちが、イエズス様と1つになる、救霊の業に、償いの業に協力する事です。

 言葉を言い換えると、私たちがイエズス様と1つになって、別の、第2のキリスト、或いは小さな、イエズス様と共に贖いをする者となる、という事です。

 では、この事がどういう事かを説明するのを許して下さい。では、イエズス様と1つになるとは、どういう事なのか?イエズス様は、その1つになるという事を、どの、どういう風に説明しているのか、という事を黙想して、私たちは最後に、今月の遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 イエズス様と1つになる、という事は、私たちは先月少しだけ黙想しましたが、例えば、イエズス様と分かち難く1つになるという事は、イエズス様の一部になる、という事です。イエズス様はこれを、色々な例えで話しました。例えば、「私はぶどうの木である。お前たちはその枝である。私の父は、その栽培者だ。もしも私に付いていなければ、お前たちは実を結ぶ事ができない。枯れて焼かれてしまうだけだ。私に留まれ。」と、言われました。イエズス様は、「私たちと1つの生命体になっている」という事を言おうとしました。

 或いは聖パウロには、キリスト信者を迫害している聖パウロには、現れてパウロにこう言いました、「サウロ、一体なぜお前は私を迫害するのか。」と。イエズス様は、「なぜ、私の弟子たちを、私を信じる者を、私の信者を迫害するのか。」と言わずに、「私を迫害するのか。」と言われました。

 聖パウロは、イエズス様と私たちとの関係の事を良く理解していました。そこでそのパウロは、書簡の中に色々、イエズス様と私たちとの関係について説明しています。「キリストはオリーブの木だ。ユダヤ人たちは、天然の野生のそのままの元々の付いていたオリーブの枝だけれども、私たちは異邦人は接ぎ木された者だ。」とか、或いは、「イエズス様を信じる私たちは、キリストの神秘体の一部である。」或いは、聖パウロは別の所では、「天主の家の家族の一員である。」或いは、「使徒たちや預言者たちの基礎の上に建てられた、その隅の親石はイエズス・キリストであるけれども、私たちは1つの家である。私たちは生ける石である。1つの家を建てているものである。」と、言うのです。

 聖パウロによると、イエズス様が私たちの贖いをなさった時に、ただ私たちの負債を払って、私たちと別々のものとして、こう例えば大阪の総合庁舎の市役所に行って、「この、誰それさんのその税金を、私が払います。」その窓口に行ってはい払ってそれで終わり、ではなくて、イエズス様は私たちを自分のものとして、私たちを自分と同一のものとして、自分の体の一部として、自分を植え込まれたものとして、私たちの負債を支払った、という事です。

 ですから御父は、もしも私たちをご覧になる時に、イエズス様によって贖われた私たちを見る時に、単なる、イエズス様がただそう払ってくれたから、「あぁ、負債が払われたからじゃあ」というのではなくて、私たちを見ると、イエズス様の一部である、と、イエズス様のものとして、私たちをご覧になる、という事です。

 考えてもみて下さい。このイエズス様の十字架の御像の、この色々この御光が射している、色々な金のほんのちょっとの欠片、それでもイエズス様の十字架の御像の一部として、それがなければ美しさがなくなってしまいます。

 或いは、イエズス様の一部になった、という事は例えば、大きな木の、ほんの小さな、ほんのちょっとした葉っぱの出かけの様な、この芽の様な小さなものでも、木の皮のちょっとしたものでも、大きな大木の一部であって、生ける一部であるので、これはその一部を構成するものとして、その木に属するものであります。

 とても豪華な大御殿の、その大阪城の建物のほんのちょっとでも、塀のほんのちょっとの石の1つでも、それは大阪城の1つを造っているもので、大阪城の一部であります。

 それと同じように、たとえ私たちがもう、イエズス様の体の神秘体の、ほんのちょっとした産毛の、或いはもうほんの爪の一部であったとしても、イエズス様の神秘体の、御父は私たちをイエズス様のものとして、ご覧になるのです。

 つい最近私が読んでいた本の中で、フランスの王ルイ15世の娘が、ルイーズという娘がいたそうです。そのルイーズちゃんは子供の頃、とても気性が荒くて、時々怒りっぽかったのだそうです。でも後に、お父さんの罪を、ルイ15世の罪を償う為に、カルメル会に入った、償いの生活をした、というそのルイーズちゃんが子供の頃、養育係りの人から怒られて、その叱られたので、「私は、あなたの王様の娘ですよ、という事を知っていますか?」と、言ったそうです。「あまりきつく叱らないで下さい。あなたの王様の娘ですよ。」そしたら、その養育係りの人が答えて、「あなた知ってますか?私はあなたの天主様の娘ですよ。」それを聞くと、ルイーズちゃんは何も言えなくなって、怒りがおさまったそうです。

 実に、この養育係りの方が言ったように、私たちは天主の家族の一部であって、私たちは天主の子供、養子であって、天主の王家の一部であって、イエズス・キリストの神秘体の一部であって、イエズス・キリストの一部である。これを天主御父も、イエズス様も、それを事実として受け入れている事です。

 これはどういう事かというと、イエズス様は、私たちとイエズス様はもう分かち難く、分かれる事ができないように、1つである、という事です。

 第2のポイントで、では、これはどのように説明されているでしょうか?

 聖パウロはこのように言うのです、「私たちは、キリストと共に死んだ (commortui: ティモ後2:11)。十字架に付けられた者である、「私たちの古い人間が、かれとともに十字架につけられた」(ローマ6:6)。「イエズスとともに葬られた」(consepulti: ローマ6:4)。キリストと共に復活した (corressuscitati: エフェ2:6)。キリストと共に永遠に生きるだろう (convivemus: ティモ後2:11)。」或いは、キリストと共に、天に於いて統治する者である、永遠に君臨する者である。「私たちもキリストとともにその王国をつかさどる。(ティモ後2:12)」或いは、キリストと共に天に座す者である、「キリストとともによみがえらせ、ともに天に座らせてくだった。(エフェ2:6)」或いは、キリストと共に、イスラエルの十二の部族を裁く者である、「人の子がその栄光の座につくとき、私に従ったあなたたちも十二の座につき、イスラエルの十二族をさばくであろう。」(マテオ19:28)

 私たちはつまり、イエズス様と同じく十字架に付けられ、同じく復活して、同じく永遠に、イエズス・キリストと共に栄光を受ける者である、とパウロは言います。

 そればかりではありません。イエズス様は、私たちの一人一人の中に生きておられ、貧しい者の中に生きておられる、捕われ人に生きておられる。或いは、私たちに於いて、迫害される者に於いて苦しんでおられる。或いは、私たちの苦しみに於いて、神秘体の苦しみの欠ける所を満たすものである。私たちに於いて戦っておられる、私たちに於いて勝利を収めるものである。

 イエズス様は、私たちがイエズス様と共に死に、復活し、永遠に支配するのみならず、イエズス様は今私たちと共に生きておられて、私たちと共に祈っておられ、私たちと共に苦しんでおられる。

 つまり、私たちの目には見えないけれども、私たちは、歩く生ける第2のキリストとなっている、という事です。聖パウロは言います、「もはや、生きるのは私が生きるのではなく、キリストが私に於いて生きる。」と。私たちの命はイエズス様の命となって、イエズス様の命は私たちの命となる、という事です。

 先月も少し同じ話ですけれども、カリスの奉献の時に司祭は、ワインの中に一滴の水を垂らします。これはカトリック教会がいつもやる事を命じてきたものです。その意味は明らかです。「私たちの生贄を、キリストの生贄と共に捧げる。」という事です。6世紀にアルメニア人たちが、実はこの儀式を廃止しようとしました。しかしその後に、コンスタンティノープルの公会議で、「そのような事をやったアルメニア人たちは間違っている。それは何故かというと、それを廃止する事によって、生贄の本当の意味がよく表明できなくなってしまうからだ。」と言っています。

 そして、この水を一滴垂らしながら、一滴ワインの中に入れながら、司祭はそれを祝福して、「素晴らしいやり方で自然を創造された天主は、人間の本性を創造された天主は、更に素晴らしいやり方で人間の本性を新たに贖い給うた。この水の神秘によって私たちが、キリストの神性に、御神性、天主性に参与する者となりますように。」と、祈っています。

 トリエント公会議は、はっきりと、「この水とワインの一致は、私たちキリスト教の民と、イエズス・キリストの神秘との、その全き一致の神秘を示している。」と、言っています、

 では私たちはここで、一体どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?私たちの中に、イエズス様が一致して生きておられる、という事を更に自覚する事です。私たちが祈る時、イエズス様も共に祈って下さっている、私たちが謙遜の業を果たす時に、イエズス様も共に、私たちの謙遜を補って下さっている、イエズス様と共に、私たちは苦しむ、私たちのどのような日常の生活でも、それはイエズス様と共に、捧げられたものとなっている、という事です。そこで私たちにとって、もはや生きるのは私たちではなく、キリストが生きる事になる、という事です。

 イエズス様の最も人生の究極の目的は何だったのでしょうか?私たちの救霊です。そこで、私たちがイエズス様の聖心の信心をする時に、イエズス様の聖心とますます一致して、多くの霊魂の救霊の為に、祈りと犠牲をお捧げ致しましょう。

 この御ミサが、イエズス様との一致をますます深めるものとなりますように、自覚を深めるものとなりますように。ますますイエズス様の御旨に聖心に入るものとなりますように。イエズス様の聖心をお慰めするものとなりますように。イエズス様との愛の一致になりますように。

 最後に、このイエズス様の聖心の神秘体の神秘を、よく理解されて、完璧な共贖者となった、イエズス様と共に贖いの業を果たしたマリア様に、私たちもマリア様の御取り次ぎによって、良き第2のキリスト者となりますように、ますますイエズス様との一致ができ、聖心への信心をよく深める事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 聖伝のミサ [トリエント・ミサ ラテン語ミサ] 2015年10月の報告 SSPX Japan

2015年10月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日はファチマの太陽の奇跡の九十八周年記念日ですね。

 10月の初金、初土(10月3日)、また主日には、日本での聖伝のミサを捧げることが出来、天主に深く感謝します。22年前、叙階されたばかりの司祭として8月15日付けでマニラに任命を受けた後(実際にマニラに到着したのは8月16日の月曜日でした)、日本への定期訪問の最初が10月3日の主日で、幼きイエズスの聖テレジアの祝日でした。聖ピオ十世会の日本のミッションを、宣教の守護の聖人である小花聖テレジアに委ねたことを思い起こします。

 10月3日には、大阪では20名の方々が、10月4日には東京で39名の方々が、10月5日月曜日の朝6時15分の早朝ミサには10名の方々が、聖伝のミサに与ることが出来たことを天主様に感謝いたします。

 東京のミサ聖祭では、3名の方々が初めて聖伝のミサに与ることが出来ました。天主様に感謝!一人の方は、インターネットで聖ピオ十世会のことを知り聖伝のミサに行ってみたいなと思っていたその翌日お友達から「行こう」と誘われて、来てよかったとのことです。

 月曜日のミサが終わった後、司祭黙想会がダヴァオでありご報告をすぐに申し上げることが出来ませんでした。黙想会の間、お祈りを感謝します。

 10月4日の主日ミサで、お忘れ物をした方がおられるようです。カトリック聖歌集などが入っている手提げをお忘れになった方は、保管してありますので、ご連絡下さい。

 来月から大阪では、初金曜日のミサの後に御聖体降福式を行うことになりました。これは、イエズスの至聖なる聖心に、まず日本が受けている恵みを感謝のためにする降福式です。次に、イエズスの聖心が受けている冷淡・無関心・冒涜を償うために行います。どうぞ、多くの方々の参加をお願いいたします。


 今回のミッションについて、次のようなご報告やお便りを頂きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

初金と初土の御ミサ、また公教要理等本当にありがとうございました!♪(*^▽^*)
来年の、日本のお恵み倍増計画が是非うまくいきますように、お祈りさせて頂きます!!)^o^(
またシノドスや黙想会の為にもお祈りさせて頂きますm(__)m
マリア様の御取次ぎによって、いつもイエズス様が私たちと一致して生きて下さっているという事を自覚して、良き第2のキリストとなる事ができますように!!デオ・グラチアス!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。
お疲れのところ、お見舞いまでして頂いて感謝しています。
神父様の手をご自分の額にあてて、祝福を願われたヨゼフさんを拝見して、確かにマリア様はヨゼフさんにお恵みを送られているなと感じました。
来月は神父様が少しでも休憩がおできになればと思います。

10月の初金、初土の御ミサの報告です。
10月2日(金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ(歌ミサ)には13名が、
10月3日(土)童貞女幼きイエズスの聖テレジアの歌ミサには20名の方々が御ミサに与り、御聖体拝領する御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

初金曜のお説教では、イエズス様の聖心の信心の核心とは何かを黙想いたしました。
イエズス様の愛をその聖心を認め、贖いの御業にイエズス様と同じ心をもって協力すること。何をするにもどんな時でも、イエズス様と共に、自分が生きるのではなく、キリストが生きるように第二のキリストになること、がイエズス様の聖心の信心であり、イエズス様をお慰めする事である事を黙想し、遷善の決心を立てました。
私のような罪深い者がイエズス様と一致するをイエズス様ご自身が望んで下さっていることに改めて天主の愛の大きさと、御憐みの深さに驚嘆せずにはおられませんでした。お説教中、「救霊!・救霊!・救霊!」 イエズス様の聖心の叫びが聞こえてくるような思いがいたしました。

この初土曜日は幼きイエズスの聖テレジアの祝日であったので、宣教師たちの守護者でもあるテレジアについてのお説教でした。
霊的幼児の道とは、親(天主)に全てを委ねる道の事で、テレジアはまさにこの道を修道院の中での隠れた生活をとおして実践された方でした。
「自分はイエズス様のものであるので、イエズス様は自分のもの」という完全にイエズス様と一致する様は金曜のお説教で聞いた聖心の信心の核心そのものでした。
私達も愛によってイエズス様から頂いた全ての日常の試練を感謝をもって受け、イエズス様といつも一致する決心をたて、テレジアがこれをマリア様から学んだように私達もマリア様に聖心をお慰めする方法をよくわからせていただくお恵みを願いたいと思います。
宣教師の保護者である幼きイエズスの聖テレジアが、小野田神父様、レネー神父様、聖ピオ10世会の神父様方に特別のバラの雨を降らせてくださいますようお願いいたしました。

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様も今は黙想会中の事と思いますが、

天主のあわれみ深きはんさいに自分自身を捧げる祈り、以前小野田神父様がブログでとてもお勧めして下さっていたので、母と私はほとんど毎日唱えさせて頂いています(*^^*)


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供1人)
女: 20人(内、子供1人)
計: 39人(内、子供2人)


【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様

 私のためにお祈りをありがとうございます。
 「シノドゥスのための特別の祈りの呼びかけ」について了解しました。
 「家族に関するシノドゥス」のために、私も祈りの呼びかけにお応えします。
 いつも以上にロザリオを唱え、犠牲を捧げます。聖ピオ十世会で捧げられているトリエント典礼によるラテン語ミサに心を合わせ、ご聖体を礼拝します。
 ミサに与ることができませんので自分にできることは限られていますが、霊的に与りたいと思います。

 フランシスコさんの救霊のために、お祈りをお願いいたします。私のいる病院に入院しておられる末期癌の方です。この方は現在のカトリック教会の信者です。

 神父様のお祈りの時に思い出してください。


【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様
 守護の天使の祝日おめでとうございます!
 私のためにお祈りをありがとうございます。

 また、フランシスコさん(87歳)のためにお祈りくださり、ありがとうございました。フランシスコさんは今日亡くなりました。

 霊名の祝日、アシジの聖フランシスコの祝日(10月4日)がもうすぐ来ることを知っておられましたが、やはりその日を迎えることはありませんでした。守護の天使がフランシスコさんの霊魂を天国へ導いてくださるように願っています。

 シュテーリン神父様の回状「無原罪聖母の騎士たちへ」の邦訳を読みました。

 私は残る生涯を最善の形で無原罪聖母への奉仕に捧げたいと思います。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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