Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「彼が来るとき、罪について、義について、審判について、この世のあやまちを指し示すであろう」の意味は?

2024年04月30日 | お説教・霊的講話

2024年4月28日 御復活後第四主日 東京10時半ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、復活後第四主日です。

教会はわたしたちの主の口を通して、主のご昇天とまた聖霊降臨の準備をしようとしています。
今日の福音では、主はわたしたちに何をおっしゃろうとしているのでしょうか?よく理解することができるように、聖トマス・アクィナスが何と解説しているかを御紹介したいと思っています。

主は、立ち去ること、昇天されることを予告して、そして、聖霊を送ることを予告されます。そして同時に聖霊が来られることの利益を三つ述べておられます。それは、聖霊がこの世を非難すること、真理を教えること、キリストに栄光を与えることの三つです。

今日は特に聖霊がこの世を非難することについて黙想して、そして遷善の決心を立てることにいたしましょう。

【聖霊はこの世を非難する】
聖霊はこの世に来ることによって利益を与えます。そのうちの一つは、この世の過ちを非難することです。主はいわれます、「彼が来るとき、罪について、義について、審判について、この世のあやまちを指し示すであろう。」

では「罪について」というのは、何でしょうか。イエズス様はいいます。「かれらがわたしを信じないから。」

聖霊が不信の罪について非難するというのは、なぜかと言うと、信仰によってほかの全ての罪がゆるされるからです。なぜかというと、旧約聖書の格言の書には、「あわれみと信仰とによって罪が赦される」(格言15:27)とあるからです。信仰が無い限り、ほかの罪も赦されることはありません。

ところで、聖トマス・アクィナスによると、「私を信じなかった non crediderunt in me」の「私を」というところにはラテン語の前置詞 in がついています。クレド・イン・デウム、クレド・イン・ウヌム・デウムのinと同じことです。これは特別な意があって、「イエズス・キリストを希望と愛徳で生かされた信仰 (fides formata sperando et diligendo)で信じていなかった」ということを非難する、 ということです。

聖トマス・アクィナスはこう説明しています。信仰には、ただ頭だけで真理を信じるという信仰・愛徳で生かされていない信仰・命のない信仰と――つまり罪と共存している信仰と、愛徳を通してそして生き生きとした愛徳によって生かされている信仰との二つがある、といいます。

もしもわたしたちが頭だけのことでキリストの神性を、(キリストが)天主であることを信じていたら――これはあくまでも真実であるが――、しかしわたしたちは愛徳によって生かされた信仰によって信じなければならない、と言います。

【聖霊がこの世の過ちを指摘する義についてとは】
では第二に、聖霊がこの世の過ちを指摘する義についてというのは、どういうことでしょうか。「義についてとは、私が父のもとに行き、あなたたちはもう私を見ないから」。これはどういうことでしょうか。

この義というのは二つの意味があると言います。一つは、使徒たちが持っている義、つまり聖徳ということで、もう一つはイエズス・キリストの義、聖徳ということです。

使徒たちの義、聖徳ということは、――ここでいう義というは――律法によって義とされたのではなくて、信仰によって義とされたその聖徳のことである。つまり聖パウロが「イエズス・キリストの信仰によって天主の正義といった」(ローマ3:22)といった、その義のことを指していると、聖トマス・アクィナスは言っています。

「イエズス・キリストへの信仰によって聖徳を受けなかったから、この世は使徒たちの真似をしなかった。」聖霊はそのことによって、世の過ちを指摘するということです。

では、私が父のもとに行き、あなたたちはもう私を見ない」というのはどういうことでしょうか。これは、信仰というのは、目に見えないことにかかわるから、と、聖トマス・アクィナスは説明しています。つまりまず最初、使徒たちはキリストが人間であるということを見て、そしてその人間であるキリストを見て、天主であるということを信じました。ところがイエズス様が昇天されてイエズス様が目に見えなくなってしまうと、弟子たちはキリストが人間であることさえも見ることができなくなってしまいます。ですからこれ以後、イエズス様が人間であることも、天主であることも見ずに、この二つを見ずに信仰しなければなりません。これが信仰による義であって、この世はこれに従わない、これを聖霊は非難します。

あるいは義について使徒たちの信仰による義、聖徳、とは別に、イエズス・キリストの義についても理解できます。ユダヤ人たちはイエズス様が義人であることを、聖なる方であることを認めようとしませんでした。しかしイエズス様はご自分が正義なる者、義なる者であること、聖なるものであることを明らかにします。どうやって明らかにするかというと、ご自分が御父のもとに行って父によって受け入れられることが父によって最高の高みに行かれるということをもって、ご自分の聖徳を明らかにされます。主は、あわれみによってこの地上に来られ、その聖なるためには、天に行かれるからです。

【審判についてとは】
では、審判について、とはどういうことでしょうか。「この世のかしらが審判されるから」。ラテン語によると「審判されたから」とあります。
この世――つまりこの世を愛する人々という意味ですが――つまりこの世を愛する人々を支配しているのは何かというと、悪魔です。この世の頭のことです。なぜこの世の頭というかというと、この世を支配しているかというと、悪魔がこの世を作ったからではありません。天主がこの世のすべてを創造しました。天主がすべてを支配しておられます。しかし、この世の頭というのは、実はこの世が創造主でもないにもかかわらず悪魔の暗示に従って悪魔の真似をしているからです。悪魔の真似というのは何かというと、傲慢であって、嘘です。

ところが、イエズス様の御力によって 聖霊によって イエズス・キリストを信じることによって、わたしたちの心から悪魔を追い出すことができます。キリストに頼む者はキリストを信じて、聖霊の力を信じる者は悪魔を に抵抗できます。しかしこの世はイエズス・キリストを信じようとせずに、寄り頼もうともせずに、悪魔に抵抗しようともしません。ですから罪に同意することによって、悪魔にまた支配されてしまっています。つまりこの世は悪魔がすでに地獄に落されたと知りながら、この世の頭がすでに地獄に落されたと知りながら、その傲慢と嘘と悪行の真似をするので、この世の支配者である悪魔とともにこの世は審判を受けなければならない。だから、聖霊は“イエズス・キリストを愛する”というその生きている信仰を持たないという不信仰の罪を指摘する。そして、イエズス・キリストを信じることによって聖となるべきなのにそれがなっていないことを指摘する。あるいは、イエズス・キリストを信仰しなかったがために、義とならなかったために、悪魔の傲慢と悪口を真似している・・・すでに審判を受けた。罪と義と審判について、聖霊はわたしたちにこの世を指摘するとおっしゃっています。

【聖霊が真理を教え、キリストに栄光を与える】
聖霊は、ただこの世の過ちを指摘するばかりではありません。聖霊は真理を教えてくれます。つまり、真理の霊が来るとき、彼はあなたたちをあらゆる真理に導くだろうと、おっしゃっているからです。これについては長くはお話いたしません。

教えてくださる真理とは何かというと、イエズス・キリストがまことの天主であるということです。人となったまことの天主、永遠の御言葉、三位一体の第二のペルソナ、天主御父よりお生まれになった御子、そして御父御子から天主聖霊が発出しているということを教える、のです。

そしてそうすることによって、聖霊はキリストに栄光を与えます。なぜかと言うと、イエズス・キリストはまことに天主だということを教えるからです。

天主なる御言葉(つまり天主御子)は人となり、十字架の上で苦しまれ、私たちを罪の深い淵から救い出してくださり、そうすることによって、私たちが主の天主の御子であることに参与する、わたしたちもイエズス様に倣って天主の子どもとなることができるように、それに与ることができるようにさせてくださったこと、これを聖霊が、教えてくださいます。そして人間はキリストと共に、天主の栄光に入らなければならないことを教えます。わたしたちがつまりイエズス様に倣って罪を避けて天主に従順に謙遜に従うことによって主の栄光に入らなければならないことを聖霊は教えてくれます。

【遷善の決心】
では遷善の決心をいたしましょう。わたしたちは主の昇天と聖霊降臨をいま準備しています。真理の霊である聖霊は、2000年間、カトリック教会を導いて、はっきりと、三つの利益を与えてくれました。この世の罪をはっきりと非難しました。それを指摘しました。特に不信仰を指摘しました。教会を導いて、真理をはっきりと教えました。イエズス・キリストはまことの天主であると、教え続けてきました。そしてそうすることによって、キリストに栄光を与えてきました。

特に教会は多くの殉教者を生み出し、聖なる男女を、数知れない多くの聖人聖女を生み出し、教会博士を生み出し、キリストに栄光を与え続けて来ました。特に聖霊がそのために使ったのは、聖伝のミサでした。わたしたちが与っているこのミサは、聖霊が教えること、聖霊がなさることを、そのまま典礼で表明しているからです。たとえば今日の密誦を読んでください。  
 
Deus, qui nos, per huius sacrificii veneránda commércia, uníus summæ divinitátis partícipes effecísti : præsta, quǽsumus ; ut, sicut tuam cognóscimus veritátem, sic eam dignis móribus assequámur. Per Dóminum.
天主よ、御身はこのいけにえの尊い交換により、われらを御身の唯一・最高の神性にあずからせ給うた。願わくは、我らが御身の真理を知るように、ふさわしい生活によって、その真理に我らが至らんことを。天主として(…)。

どれほど美しい祈りでしょうか。わたしたちが与っているミサでは、はっきりとイエズスさまがまことの天主であり、まことの人であるということを表明しています。聖霊に祈りましょう。この教会の遺産を通してわたしたちも聖霊から受ける利益をその充満を受けることができますように。

最後にマリアさまにお祈りしましょう。マリア様の御取次を通して主の御昇天と聖霊降臨の準備を良くすることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「あなたたちは今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」

2024年04月29日 | お説教・霊的講話

2024年4月20日 御復活後第三主日 東京での10時30分お説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年4月21日、復活後第三主日です。

今日の福音では、主が使徒たちに語りかけ、将来ご自分と使徒たちに起こることを預言し、そして慰めの言葉をかけます。そしてこの予告が復活をもって本当であるということを証明されました。
今日は 私たち、つまり、現代の日本に生きている私たちにも、同じ言葉をもって主は語りかけて、同じく、私たちに起こることを予告されて、慰めの言葉を語ろうとされます。この言葉は本当です。真理で、必ず実現します。何故ならば主はご自分の復活をもって自分の語ることが本当であるということを証明されているからです。それは何についてかというと、わたしたちの喜びについてです。わたしたちのこの世での悲しみが非常に短いものであって、そしてそのあとで、はてしのない喜びに変わるだろうという予告であり、約束です。一緒に黙想いたしましょう。

【1:間もなく】
主は弟子たちにこう言います。「あなたたちは間もなく私を見なくなるが、また間もなく私にあうだろう、父のもとにいくからである。Módicum, et iam non vidébitis me : et íterum módicum, et vidébitis me : quia vado ad Patrem.」と。
こうやって主は、弟子たちに別れを告げます。が、同時に三つのことを告げて慰めようとします。それはなぜかというと、別れの期間は短いということ、またすぐに会えるということ、また主は名誉ある別れをするということ、です。これはご自分の御受難と復活に関わることをおっしゃっていました。
「間もなく」というのはラテン語で modicum 、「短い間」という意味です。
何が短いのかというと、イエズス様の御死去された「前」あるいは「後」の期間が短いということです。御死去の後が短いということは、つまり「間もなく私を見なくなるがそれは短い間だ、つまり、三日の後に私は復活するからだ」「また私に会うだろう、またそれも短い、なぜかと言うと復活の後、40日の間だけ、お前たちと共にいる、何故ならば私は父のもとに行くからだ。」という意味です。御死去のあとの会える期間が短い、また同時に御死去の前の期間も短いということも意味するとも考えられます。
私があなたたちから取りのぞかれるまでは、もはや短い間しかない。「間もなく」つまり明日、私は死去する。おなじようなことをイエズス様は何度もおっしゃっていました。たとえば、「私は、もうしばらくのあいだ、あなたたちといっしょにいるだろう Filioli, adhuc modicum vobiscum sum.」(ヨハネ13:33)とか。あるいは、こうも言われたことがあります。「もう少しすれば、世は私を見ない Adhuc modicum, et mundus me jam non videt.」(ヨハネ14:19)と。

【2:悲しみは喜びに代わる】
この悲しみは喜びに変わるということを主は預言されます。
弟子たちは、こういった言葉を、イエズス様がおっしゃった言葉を理解できませんでした。そこでさらに言葉を説明されます。「まことにまことに私はいう。私を見なくなる短い間、あなたたちは泣き悲しむだろう。」
ところが、この世は喜ぶ、非常に対照的である。つまり、この世とは 律法学者やファリザイ人のことだと理解できます。なぜかと言うと、彼らはキリストの死を喜んだからです。イエズス様の御受難を、弟子たちは、悲しみました。しかし、復活をもって、弟子たちの悲しみは、喜びに代わりました。「弟子たちは主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)と聖ヨハネの福音書には書かれています。

この喜びについてさらに、主は、たとえを出して、説明します。「婦人は、子を産むときになやむだろう。でも、子どもを産んでからは、もう苦しみをおぼえない。」この出産の苦しみは、イエズス様の御受難と理解することができます。

しかし言葉を続けてこう言います。「あなたたちも――この婦人と同じように――今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちに会うとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」本当に、主は 三日の後に、「間もなく」、復活されました。そして現実に嘘疑いがなく肉体において栄光をもって復活したので、それをみた弟子たちは、悲しんでいた 疑っていた弟子たちも、大きな喜びを覚えました。主は約束を守りましたし、これからもずーっと守り続けられます。つまり、弟子たちの喜びは、奪われることがありえないということです。

【3:主は現代の日本に住む私たちにも予告される】
では 同じことを主は、わたしたちにも今日おっしゃっています。聖アウグスチヌスは、この主の言葉を私たちに対する言葉として解釈しています。聖アウグスチヌスによると、modicum「間もなく」とか「しばらくの間」というのは、「私たちが審判を受けるまでの生涯の間」とかあるいはもっと長く考えると「全世界が存在して最後の審判まで存在し続ける間の期間」を意味すると言っています。聖ヤコボも同じことを言っています。「あなたたちの命とは何か?あなたたちはしばらく現われて、またたく間に消えていく湯気のようである。」(ヤコボ4:14)と。

これによると、「しばらくの間」というのは世の終わりまでという意味です。世の終わりまであなたたちは私を見ないだろう、何故なら私は聖父のもとに行くからだ。でも「間もなくあなたたちは私を見るだろう」 つまり、世の終わりは間もなく来るけれども、そうしたらあなたたちは私を見るだろう という意味だ、と聖アウグスチヌスは言います。

世の終わりというのは ではすぐ来るのでしょうか?いつでしょうか?これは比較の問題で、永遠と比較するならば、無限の期間である永遠と 果てしのない永遠と比較するならば、わたしたちの全生涯も、また全人類の長い歴史もあまりにも短いあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。ということだ、といいます。たとえ長いように思えても、世の終わりにはどれほどつかの間のことに過ぎなかったのかということがわたしたちは実感するだろうと。この短いつかの間のあっという間の人生の間、主はこういわれます。
「あなたたちは悲しむ、この世は楽しむだろう。あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる」と。

いったいわたしたちは何を悲しむのでしょうか。この世は何を喜んでいるでしょうか。わたしたちは自分の罪やあるいは罪のために霊魂たちが霊的に死んでしまっているようなことを悲しみます。喪に服するように悲しみます。また、罪を悔い改めようと、償いを果たそうと、します。またそれのみならず、わたしたちが人間が常に悪に傾きがちであること、極めてもろいこと、を悲しみます。この世はどれほどの苦しみや艱難や心配に取り囲まれているか、ということをどれほどこの世が惨めであるか、ということを悲しみます。どうして自分はこれほど欲望に縛られ過ぎて儚いことに気を使って、ひとつの悪にさえもなかなか勝てないこと、いつも冷たく生ぬるいこと、またちょっとした障害にあうと、もろくも落胆して人間の慰めを求めてしまうということを悲しみます、これは「キリストに倣いて」に書かれていた言葉です。

わたしたちはついには、地上の快楽あるいは物質的なものが、実はつまらないもの、どれほどつまらないものであったのかということを知って、この世の楽しみについて悲しみます。聖パウロはこうも言っています。「キリストは、私にとって、世を十字架につけたものとし、そして世にとって、私を十字架につけたものとされた。」(ガラチア6:14)

今日の密誦、奉献の後に誦える司祭の祈りはまさにこの世の儚さではなく永遠のものを愛する力を与えてほしいと祈っています。しかしこの聖人たちのわたしたちの悲しみはついには来世の永遠のよろこびに変わります。主は山上の垂訓で 至福八端でこう言われたではないでしょうか。「悲しむ人はしあわせである。かれらは慰めをうけるであろうから」(マテオ5:4)と。

なぜ慰めを受けるかというと、わたしたちの罪はすべて赦され現世の惨めさというのは永遠の生命の喜びに変わり、この世の楽しみを悲しむということは主に対する愛に変わるからです。主は言われます。「そうだ、あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」(ヨハネ16:20)

聖パウロもコリント人への手紙の中でこう書いています。「実に天主にもとづく悲しみは、悔いのない救いにいたる痛悔を生み、世の悲しみは死を生む。Quae enim secundum Deum tristitia est, poenitentiam in salutem stabilem operatur : saeculi autem tristitia mortem operatur.」(コリント後7:10)。

主はそればかりでなく、わたしたちを慰めようとこの短い人生の間においてももっと早くわたしたちに会おうと、すぐに会おうと、御聖体をもって、また、ミサ聖祭をもって、秘蹟を通して、わたしたちにお会いしようとされるではないでしょうか。出産の苦しみのたとえは、まさに、罪を痛悔する聖人たちの苦しみだとも理解できます。何故かというと、子どもが生まれた後には二重の喜びがあるからです。一つは苦しみがなくなったということ、もう一つは子どもが生まれたという喜びです。

ところで聖トマス・アクィナスはこのときに「(しかし子を産んでからは、)もう苦しみをおぼえない。この世に一人の人間が生まれたことを喜ぶからである。」とおっしゃっていて、一人の人間と言って一人の子どもが生まれたとは言っていないということに注目しています。

なぜかというと、イエズス様はご自分の受難によって、わたしたちを新しい人間として新しい命に産み出してくださったからです。わたしたちがいままで知らなかったような新しい永遠の栄光の天主の命に産み出してくださったからです。だから一人の人間が生まれたと言います。そしてわたしたちが新しく生まれた天主の命を歩んでいるので、またそしてついには天国では凱旋の教会の一部として、栄光の命の新しさを歩むので、一人の人間が生まれたというのは、まったくぴったりとしています。

【4:遷善の決心】

では最後に遷善の決心を立てましょう。
使徒たちは、キリストの御受難の時にキリストの死を悲しみました。しかしこの悲しみは、あっという間に、主の復活の喜びに代わりました。この喜びは永遠に続くと約束されます。何故かというとキリストは死者のうちから復活してもう再び死ぬことはないからです。キリストに対してもはや死は何の力ももっていないと、聖パウロは言っています。(ローマ6:9)

私たちも、同様に、この人生の間、苦しみ悲しみます。これはどうしても避けることができません。しかし、もしも私たちが主に忠実に従うならば、それはかならず喜びに変わります。主は忠実なしもべにこう言われるでしょう。「よし、善良な忠義なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、私は多くのものをあなたにまかせよう。あなたの主人の喜びに加われ!」(マテオ25:21)

主は、しかもこの喜びは永遠に続くと確証します。「あなたたちの喜びはうばわれることがない。」と。何故かというと、私たちの永遠の至福は、奪われることも失われることも、終わることもなく、いつまでも終わりなく続く喜びであるからです。何故かというと、私たちは主を見て、そしてその主を愛し、もうこの主以外のものを愛することができなくなるからです。もはや罪を犯すことがないからです。もはやその時には、不正も暴力もありえないからです。このイエズス様の約束は本当です。かならずそうなります。マリア様もそのことをご存じです。天国でそれをいま味わっていて、わたしたちがそこに至るようにお待ちになっており、わたしたちのために祈っておられます。

「あなたたちは今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、その喜びはあなたたちからうばわれることはない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


4月29日(月曜日:昭和の日)には、名古屋で午前10時半から聖伝のミサが捧げられます

2024年04月26日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年の良き牧者の主日にはアジア管区の神学生たちのために
東京では、41900円の特別献金が集まりました。
大阪では、69500円でした。
日本からは、計111400円が集まりました。ありがとうございます。

日本に司祭が常駐し毎日聖伝のミサが捧げられ、東京にも固定の聖堂が与えられたことに感謝して、日本から司祭の召命がたくさんありますよう祈りましょう。毎日ロザリオの祈りと犠牲をお捧げしましょう。

4月29日(月曜日:昭和の日)には、名古屋で午前10時半から聖伝のミサが捧げられます。多くの方々がミサに与かることができますように!

 


旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

旧約に登場する多くの羊飼いの太祖らと深いつながりがある主イエズス・キリスト:善き牧者

2014年4月14日 善き牧者の主日の説教 東京および大阪

レネ神父 

親愛なる兄弟の皆さん、

私たちの主イエズス・キリストは善き牧者、善き羊飼いです。さて、この偉大な真理をもっとよく理解するためには、旧約に登場する多くの羊飼いを思い起こすことが有益です。

【旧約に登場する羊飼い】
アベルは羊飼いでした。彼は天主に嘉せられるいけにえを捧げましたが、彼を殺した兄によって、自分自身がいけにえとなりました。ですから、アベルは、ご自身をいけにえとして捧げられる、司祭としてのキリストの像であり、かたどりなのです。

アブラハム、イサク、ヤコブは羊飼いであり、聖なる民の父祖でした。彼らも多くの羊のいけにえを天主に捧げました。

モーゼは羊飼いでした。義父エトロの羊の群れの世話をしていましたが、ヘブライ人をエジプトの奴隷状態から救い出すという使命のために、天主に選ばれました。彼は、羊の群れを率いていたことから、民を率いる者となり、また民を救う者となりました。このように、彼もまた、キリストの像であり、かたどりでした。

ダヴィドがイスラエルの王になるために選ばれたとき、彼もまた羊飼いでした。

さて、これは、まさにその通りのことなのです。ヘブライ語で「王として支配する」という言葉がまさに、「群れの羊飼いとなる」という意味なのですから。それゆえ、詩篇の「天主はわが牧者」は、「天主はわが支配者、わが王」と訳されることもあります。

【羊飼いの役割】
羊飼いは群れに餌を食べさせて養い、群れを良い牧場に導き、狼やその他の敵から群れを守ります。羊飼いは羊を世話し、羊の名前を、羊飼い自身が羊につけた名前を知っています。

【主イエズス・キリストは養う】
私たちの善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストは、その善き教えで私たちを養ってくださいます。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。最高の教師である私たちの主は、最高の預言者であり、モーゼの預言で約束された預言者です。「主はおまえの民の中から、おまえの兄弟の中から、私のような預言者をおまえたちのために立てられるであろうから、その者の言うことを聞け。…私は彼らの中におまえのような預言者を立て、その口に私の言葉を置く。私がその預言者に命じたことをすべて、彼が語る」(第二法の書18章15、18節)。この預言は、使徒行録で二度引用されています。ペトロによって一度(3章22節)、聖ステファノによって一度(7章37節)。

私たちの主はまた、ご聖体におけるご自身の肉と血で私たちを養ってくださいます。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる」(ヨハネ6章56-57節)。

【主イエズス・キリストは良い牧場に導き守る】
私たちの主は、まずご自身の模範によって、また新しい法を与えることによって、ご自身の掟の道で導いてくださいます。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天国への道で最高の導き手である私たちの主は、王の中の王であり、羊飼いの中の羊飼いなのです。

【主イエズス・キリストは汚れなき小羊といういけにえであり、自分を捧げる】
そして最後に、私たちの主は、ご自身のいけにえを捧げられます。主は、汚れなき小羊といういけにえであると同時に、「将来の恵みの大司祭」(ヘブライ9章11節)として、いけにえを捧げるお方でもあります。

【主イエズス・キリストは司祭であり預言者であり王】
私たちの主イエズス・キリストは、司祭であり預言者であり王です。これら三つの役割は、キリストのかたどりである旧約の偉大な羊飼いたちによって行われていました。注目すべきなのは、これらの三つの役割には、聖香油を注ぐことも必要だったことです。

アロンはモーゼによって、エリゼオはエリアによって、ダヴィド王はサムエルによって油を注がれました。ヘブライ語では「メシア」、ギリシャ語(とラテン語)では「キリスト」という言葉は、聖香油を意味する「クリスマ」に由来します。私たちの主イエズス・キリストは「油を注がれた者」です。物質としての油を注がれたのではなく、ご托身そのものによって、主の神性が人性に完全に浸透していき、唯一無二の方法で聖別されたのです。「あなたは正義を愛し、悪を憎んだがために、天主は、あなたの天主は、あなたの同胞の誰にもまさって、あなたに喜びの油を注がれた」とメシア詩篇の44篇(8節)は言います。

【三つの霊印の刻印】
さて、三つの秘跡が、司祭、預言者、王としてのキリストと私たちを一致させる霊印を刻印し、このしるしは、その秘跡を執行する際に聖香油を使うことによって示されます。その三つの秘跡とは、洗礼、堅振、司祭職です。洗礼志願者は、洗礼水で洗われる前、最後に「洗礼志願者用の聖油」を塗られることで洗礼の準備をし、洗礼水で洗われた後、司祭は新たな受洗者の頭頂部に聖なるクリスマを塗ります。また堅振の秘跡は、本質的には、司教の言葉とともに聖なるクリスマを塗ることにあります。司祭叙階においては、司教は司祭の両手に「洗礼志願者用の聖油」を塗って、親指と人差し指に特別な方法で聖油を塗ります。また、司教の聖別式では、モーゼがアロンに行ったように、聖別する司教が、司教となる者の頭の上に聖なるクリスマそのものを注ぎます。

洗礼の霊印は、人を、私たちの主イエズス・キリストの賜物を受けることができるようにします。ですから、新たな受洗者は、王たるキリストの導きを受け、その御国の市民となり、キリストの法、すなわち永遠の命へと至る命の法に従うのです。また、新たな受洗者は、聖ヤコブが言う(1章21節)ように、「あなたたちの霊魂を救うことのできる言葉を、(最高の教師であるキリストから)素直に受け」るのです。そして、新たな受洗者は、個人的な犠牲(「毎日の小さき犠牲」)を捧げ、大司祭たるキリストからご聖体を受けることができる能力を受けるのです。

次に、堅振を受けた信者は、堅振の霊印によって、大司祭であり預言者であり王であるキリストから受けたものを守ることができるようになります。この信者は、王たるキリストの兵士となり、最高の預言者たるキリストの真理の証人となり、大司祭たるキリストとともに殉教して自分の命を捧げる用意があるのです。

【主イエズス・キリストは役務者を通して群れの世話をされる】
そして、司祭であり預言者であり王であるキリストと共にあずかる最高のものは、叙階の霊印によって受けるものです。人は、王たるキリストの役務者となり、善き羊飼いであるキリストの御名によって群れの世話をします。人は、預言者たるキリストの真理の教師となります。また、人は、大司祭たるキリストの役務者となり、最高のいけにえを、十字架上の私たちの主イエズス・キリストという天主の小羊のいけにえを捧げます。その段階においては、人は司祭であり預言者であり王であるキリストの賜物を、実際に与えるのです。

ですから、私たちの主イエズス・キリストが、ご自身の群れの世話をされるのは、預言者エゼキエルによれば、特に役務者を通してです。「主なる天主はこう仰せられる。私は自分で群れを心にかけ、世話をしよう。羊飼いがその散っている羊とともにいるとき、群れを心にかけているように、私は自分の羊を世話し、霧と闇のときに散ったところから救い出す。私は、もろもろの民の中から彼らを引き揚げさせ、各地から寄せ集め自分の地に導きかえし、イスラエルの山々の上、水の豊かな谷の中、その国のすべての草原で牧する。私は肥えた牧場(まきば)に彼らを導く。その住まいは、イスラエルの高い山の上となる。彼らはここで、良い檻(おり)の中に住み、イスラエルの山々の上に豊かな牧草を見いだすだろう。私は自分で羊を牧し、彼らを休ませる、と主なる天主は仰せられる。私は失ったものを捜し出し、迷ったものを連れ帰り、傷ついたものを巻き、弱ったものを強め、よく肥えた強いものを守り、よろしく彼らを牧そう。私の群れよ、あなたたちについて、主なる天主はこう仰せられる。見よ、私は羊と羊の間の、雄羊と雄山羊の間のことを裁く」(エゼキエル34章11-17節)。

よき羊飼いであるキリストの使命を継続させるためには、刈り入れの主がご自身の刈り入れに働き人を送ってくださるように、また、聖職者全員が真に善き羊飼いになるように、抜きん出た善き羊飼いである私たちの主イエズス・キリストの役務者になるように、多く祈る必要があります。「私たちをキリストの役務者、天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは忠実である」(コリント前書4章1-2節)。この「忠実」という言葉は、聖パウロがキリストの役務者に要求しているすべてのことを要約しています。天主の御子ご自身によって啓示された不変の真理であるキリストの教えに対して忠実であること、キリストの聖性の模範に対して忠実であること、私たちの主イエズス・キリストの道徳に対して忠実であること、キリストの霊に対して忠実であること、一言で言えば、カトリックの聖伝に対して忠実であることです。これこそが、聖ピオ十世会の戦いなのです。皆さん、私たちが忠実であるように、私たちのために祈ってください! これは、自動的に与えられるものではなく、皆さんの祈りと私たちの努力が必要なのです。忠実であるためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が私たち全員に必要であり、それによって私たちは、皆さんが「満ち満ちる天主によって満たされる」(エフェゾ3章19節)ために、皆さんに対する天主の奥義の管理者となるのです。

【善き牧者の御母に祈る】
善き牧者の御母に、特に祈りましょう。キリストの霊を持つ人がいるなら、それは童貞聖マリアです。聖母は大司祭の御母であり、すべてのカトリック司祭の母です。私たちが、良き牧者として、また天主の奥義の忠実な管理者として、御子に忠実であるように、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように。それによって皆さんが、また私たちも皆さんとともに、天国に行くことができますように。アーメン。


復活したキリストの弟子たちへの御出現を黙想する。私たちに対するキリストの憐れみ深い愛、人間としてのキリストを見てキリストの見えない神性を信じたトマス

2024年04月26日 | お説教・霊的講話

2024年4月7日 東京 10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年4月7日、主の御復活の八日目、白衣の主日です。
では、今日は一緒に今日の福音を黙想いたしましょう。特に、キリストの私たちに対する深い愛、そしてそれにイエズス・キリストに対する信仰について、わたしたちにどのような信仰が求められているかということを黙想して、今日の福音から霊的な利益を引き出すことにいたしましょう。

【1:キリストの最初の御出現】
御復活の主日の夕方、キリストは、部屋の扉が閉じられていたにもかかわらず、使徒たちに現れました。使徒トマスは、その時不在でした。戸が閉じられていて夕方だったのにもかかわらず、主が来られたというのは、神秘的な理由として、聖トマス・アクィナスによると、主がこの世の夕暮れに、もう一度栄光あるお姿で来られるということを暗示しているといいます。主がなさった譬えのなかにも、「日暮れになったので、ぶどう畑の主人は、会計係に、"はたらく人を呼んで、あとの人からはじめて、最初の人まで、賃金をはらえ"といいつけた。」(マテオ20:8)ともありますし、また別の譬えには、「夜半に、"さあ、花むこだ。出むかえよ!"と声がかかった。」(マテオ25:5)という譬えもあります。主を迎える準備をしていた花嫁たちは、主と「いっしょに宴席にはいり、そして扉は閉ざされ」(マテオ25:10)ました。また、使徒たちに現われて、主が言ったことは、慰めの言葉と憐みの言葉以外の何物でもありませんでした。
「あなたたちに平安!」これを二回も繰り返されます。弟子たちの弱さや逃亡・裏切りなどをなじる言葉は一切ありませんでした。それどころか、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」とおっしゃいながら、罪を赦すという特別の権能さえも委託されます。なんという憐れみでしょうか。

【2:キリストの二回目の御出現】
復活の主日から八日の後、主はまた弟子たちのところに来られます。八日の後、これは聖トマス・アクィナスによると、神秘的な意味で、この世の第八の時代に、つまりこの世の終わりに、死者のうちから人々が復活したその時代に、イエズスが来られるということを暗示しているといいます。
イエズス様が来られる必要があったのは疑っていたトマスでした。しかし主はトマスだけではなく、弟子たち皆に現れました。これは、私たちが愛徳のうちに、一致のうちに生活することを望んでいるということを表しています。また、将来、世の終わりには、一人も不在する者がないように、全ての人々を集めるということを神秘的に暗示しているといいます。主は世の終わりについてこうも言いました。「はげたかは、体のある所に集まってくる。」(マテオ24:28)また世の終わりについてこうもおっしゃいました。「らっぱの高いひびきとともにつかわされた天使たちが、天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集めるだろう。」(マテオ24:31)と。
ですから八日目に弟子たちが集まっているところにイエズス様はもう一度あらわれました。かれらに何とおっしゃったかというと、また「あなたたちに平安!」とおっしゃいます。これだけをおっしゃいます。これは、イエズス様が、将来の、永遠の平和、不死の死ぬことがない平和、また愛徳の一致の平和を約束されたということです。もちろん、信じなかった、疑ったトマスに対する嫌味や皮肉などは一切ありませんでした。

【3:トマスの不在と不信】
イエズス様が最初にご出現になったときに、トマスは不在でした。「トマス」というのは、この語源によると、双子【ヘブライ語でトアム】、あるいは深淵【アラマイ語でトマ、ヘブライ語でタオム】つまり深みという意味があります。ディディモというのは、ギリシア語で双子という意味です。トマスというのはつまり、深淵であって、深みですが、この深みや深淵には闇があります。暗闇があります。確かにトマスには、深淵には、深い不信の信じないという暗闇がありました。このトマスに現われたキリストには、さらに深い憐れみの深さがありました。「Abyssus abyssum invocat. (Ps 41:7)」と詩篇にあります。「深淵は深淵を呼び求める」と。キリストの憐れみの深さは、トマスの不信仰の深みに呼びかけて、その深みから、キリストの信仰の深みへと呼び出されようとしたかのようです。
聖グレゴリオによると、トマスの不在は偶然ではありませんでした。主の御摂理によるものであって、憐れみの計画によるものでした。つまり、主の肉体の傷に触れることによって、疑っていた使徒が、私たちの不信仰の傷を癒すことを望んでいたから、だといいます。つまり聖グレゴリオによると、トマスが信じなかったこと、疑ったことは、信じていた弟子たちの信仰よりも、私たちの信仰にとってはもっと利益があったと言っています。ここに主の憐れみの深さが、またあらわれています。主はわたしたちの信仰を強めること、深めること、これをお望みになり、使徒の疑いを許されたのでした。わたしたちの利益のために、主は選ばれた義人であっても、苦しみを経験することをお許しになります。ですから、私たちの利益のために、使徒あるいは預言者あるいは殉教者たちが苦しむことが許されるのです。
聖パウロはこうも言っています。「私たちが患難を受けるとしても、それはあなたたちの慰めと救いのためである。」(コリント後1:6)。ですから時には、私たちの教訓のために、聖なるダヴィド王に起こったように、義人でさえ過失を犯すことをお許しになることさえもあります。それは私たちに、警戒していつも謙遜であるようにと教えるためです。また同時に、わたしたちが不幸にして倒れてしまったとしても、また立ち上がるように努力せよと教えるためです。聖パウロもこう言っています。「立っているとみずからおもう人は、倒れないように注意せよ。」(コリント前10:12)

さて 疑っていたトマスは、二つの条件を要求します。そうしないと信じない、と。まずそれは、主の手の釘の跡を見ること。次に、自分の手を主の脇に入れること。視覚と触覚。この二つでした。イエズス様が二回目に現われたときに、憐れみ深くこの二つの条件を一つ一つ満たされようとされます。「あなたの指をここに出して、私の手を見なさい」、また「あなたの手を出して、私の脇におきなさい」と。確かに復活された栄光体は完成されたからだですから、不具や欠陥などはありえません。ですから、傷がついているという欠陥がありえないはずですけれども、どうして、なぜ、復活したキリストには傷口がついていたのでしょうか?聖アウグスチヌスによると、確かにイエズス様は傷跡を取り除くこともできたけれども、理由があってわざと残しておいた、と。その理由は何かというと、トマスに見せるためだった、といいます。またもうひとつ理由があります。それは、最後の審判の時にこの傷口を見せて、キリストを信じなかった人々、あるいは罪人たちを叱責するためです。「わたしは、おまえたちが十字架に付けた者だ。おまえたちが痛めつけた傷を見よ。おまえたちが罪を犯すことによって、刺し貫かれた脇腹を見よ。おまえたちのために大きく開かれたけど、しかし、おまえたちはここから入ることを拒んだ。わたしを信じることを拒んだ。」と、主がおっしゃるためです。同じように殉教者たちの傷跡も、復活した後の栄光体でも、けっして醜いものではなく、彼らを美しく飾る尊厳として勲章のように燦然と輝き出ることでしょう。

【4:トマスの信仰】
この二つの条件を満たされたトマスは、「私の主、私の天主」と信仰宣言します。これは呼びかけではありません。断定です。文法的な言い方をすると、トマスは、呼格ではなくて、「主よ」と言ったのではなくて、主格で言いました。つまり「わが主なり、わが天主なり」と断定したということです。
トマスが「私の主」と言った時に、キリストがまことの人間であるということを宣言しました。何故かというと、イエズス様は御受難の前にこう言われたからです。「あなたたちは私を、先生または主という。それは正しい。そのとおりである。」(ヨハネ13:13)
またトマスが「私の天主」と言った時、キリストの神性を、天主であるということを、宣言しました。キリストが天主であるということを宣言したのは、トマスの前はペトロだけでした。「あなたはキリスト、生ける天主のみ子です」(マテオ16:16)とペトロは言いました。のちに、使徒聖ヨハネは、キリストについて手紙をこう書いています。「それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)と。
トマスは、確かに肉体を持ったキリストとその傷を見て、復活したお方がまことの天主であると信じました。つまり、信仰というのは、真理を信じることです。真理にかかわることです。しかも、目に見えない真理を信じることです。では、なぜイエズス様は、「あなたは私を見たから信じた」とおっしゃったのでしょうか。なぜならば、それは、人間としてのキリストを見て、キリストの見えない神性を信じた、という意味です。
また、主は続けてあたかも私たちにおっしゃっているかのように、こうもおっしゃいます。「私を見ずに信じる人は幸いである」と。つまり、イエズス様が人間として地上に生きておられるということを見ずに、たしかにイエズス・キリストが、私たちを友として愛してくださっておられる天主である、イエズス様が本当にわたしたちを憐れみ深く愛する天主である、まことの人となったまことの天主であると信じる人は幸いであると、おっしゃるのです。信仰というのは、ただ、算数や幾何学の無機質な真理を信じるということではありません。生ける天主が、人格をお持ちの天主が、私たちを子どもとして、友として、憐れみ深く愛しておられるということを、そういう真理を信じることです。イエズス・キリストを信じることです。またさらに言うならば、この天主なるイエズス・キリストが、わたしたちに対して友としての愛を持ってくださっているというこの真理を信じないところには、またそのようなことなどありえないという希望のないところには、天主に対する本当の愛徳もありえない、ということです。

イエズス様はわたしたちのことを、「私を見ずに、イエズス・キリストを見ずに信じる人は幸いである」とおっしゃっていますが、この理由は、私たちがどれほど大きな天国での至福を受けるか否かのその程度は、どれほどの功徳を積むかによっています。功徳が大きければ大きいほど、わたしたちの受けるべき幸せも大きくなるからです。ですから、見ずに信じるというのは、見て信じる人よりも、大きな信仰の功徳を積むことができる、のです。わたしたちにはより大きな幸せが準備されているということです。
聖ヨハネは今日の書簡で、こうも言っています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者以外に、だれがこの世に勝てるだろうか。」(1ヨハネ5:4-5)

【5:遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。わたしたちの人生の目的、わたしたちが信じる目的、それは何なのでしょうか。聖ヨハネは、今日の福音の最後にこう書いています。「イエズスが天主の子キリストであるということを、あなたたちに信じさせるため、そして信じて、そのみ名によって生命を得させるために、この福音を書いた」と。まさに、ここにわたしたちの人生の目的、信仰の目的があります。
旧約・新約の全聖書は、イエズスがまことに天主の子であり、キリストである、救い主であるということを、信じるために、この信仰のために、そしてそれを信じて、生命を得させるという目的のために存在しています。イエズス様はこうもおっしゃいました。「あなたたちは、聖書をさぐりそのなかで永遠の生命を得ようと思っている。その聖書が、私を証明している。」(ヨハネ5:39)福音は、生命を得させるという実りを生み出します。この世では義人として信仰によって生きることによって、正しい生命を生みださせます。また来世では栄光によって至福直感の永遠の生命を生みださせます。そしてこの両者の生命には、キリストの名前によってのみ、存在します。
聖ペトロはこう断言したからです。「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にはあたえられませんでした」(使徒行録4:12)。

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから、今日このミサに与りながら、特にミサの聖変化の時、司祭が聖体を奉挙する時に、トマスのように一緒に言いましょう。「これこそわが主なり、これこそわが天主なり」と。するとイエズス様はわたしたちにこうおっしゃってくださるでしょう。「見ずに信じる者は幸せである」と。

最後にマリア様に祈りましょう。マリア様の御取次によって、イエズス・キリストに対する、復活したキリストに対する信仰、憐れみ深いキリストに対する信仰がますます深まり固まり、そしてこの信仰が、ますます愛で満たされますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


洗礼は、新しい命の始まり、永遠の命への始まり:キリストが贖った命、堅振によって固められ、キリストの御体によって養われる命、悔悛の秘跡によって回復し、終油の秘跡によって準備される至福直観の命

2024年04月24日 | お説教・霊的講話

2024年4月7日 白衣の主日 大阪にて

レネ神父

親愛なる兄弟の皆さん、

この主日は「白衣(びゃくえ)の主日、ドミニカ・イン・アルビス(dominica in albis)」と呼ばれていますが、それは、復活祭に新たに洗礼を受けた人々が、洗礼のときに受けた罪のなさの象徴である白衣を身に着けていたからです。洗礼は、新しい命の始まり、つまり永遠の命へと花開くための始まりなのです。

「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を! 信仰はあなたに何を与えますか? 永遠の命を!」。これは聖伝の洗礼式の最初の言葉です。さて、洗礼を受けるためにやって来た洗礼志願者は、すでに信仰を学んでいます。正確に言えば、「信仰がなければ天主に嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)ことを学んでいます。また、洗礼志願者は、私たちの主がこう言われるのを聞きました。「信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章16節)。洗礼を受ける前に、洗礼志願者は助力の恩寵による信仰の行いをすることはできますが、永遠の命を得るためには、成聖の恩寵による信仰の徳が必要です。

死は罪の結果です。天主はアダムにこう言われました。「善悪を知る木から、食べてはならぬ。それを食べたら、必ず死なねばならぬからである」(創世記2章17節)。アダムは食べて死にました。悪魔は嘘をついて、「女に言った。いや、そんなことで死にはしない」(創世記3章4節)。アダムとエワは天主ではなく悪魔を信じたのであり、それは非常に重大な罪でした。

しかし、死が罪の結果であるように、キリストが復活祭に死に対して勝利されたのは、御父の命令への完全な従順によって、聖金曜日に罪に対して勝利された結果です。私たちの主が、「(私の命は)私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章18節)と言われたからです。

私たちの主イエズス・キリストの肉体の復活は、将来の私たちの肉体の復活の代表的な原因です。聖パウロが、主は「私たちの卑しい体を、ご自分の栄光の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)と教えているからです。

しかし、私たちには、肉体の命と霊魂の命という、二つの命があります。私たちの肉体が生きているのは、その肉体が私たちの霊魂と一致しているときであり、私たちの霊魂が生きているのは、その霊魂が私たちの主イエズス・キリストと愛徳によって一致しているときです。聖パウロはコロサイ人に対して、キリストは私たちの命である(コロサイ3章4節)と言っています。さらに彼は、「愛は完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)とも言っています。ですから、肉体の命と霊魂の命という、二つの命があるのです。自然な肉体の誕生と、洗礼による新しい誕生という、二つの誕生があります。霊魂が離れるときの肉体の死と、私たちを天主から引き離す大罪による霊魂の死という、二つの死があります。誰もが知っている肉体の食べ物と、天主のみ言葉とご聖体という霊魂の食べ物があります。肉体のための治療法と、霊魂のための治療法、特に悔悛の秘跡という治療法があります。

聖書には、この二つの命を示す箇所がたくさんありますが、ここでは一つだけ紹介しておきましょう。「まことにまことに私は言う。死者が天主の子のみ声を聞くときが来る、いやすでに来ている。そのみ声を聞く人は生きる。父が命を左右されるように、子にもそれを左右させ、こうして、父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである。こう聞いて驚いてはならぬ。墓にいる人々がみな、天主の子のみ声を聞くときが来る。善を行った人は命の復活のために、悪を行った人は審判の復活のために現れる」(ヨハネ5章25-29節)。

ですから、ここには二つの時があり、第一の時は今、第二の時は世の終わり(肉体の復活)です。第一の時には、天主の御子のみ声を聞く人、つまり生ける信仰によって信じる人は生きますが、それは「すべての人」ではありません。第二の時には、墓にいるすべての人が墓から出て来ます。第一の時には、結果は一つしかありませんが、すべての人がみ声を聞くわけではありません。第二の時には、すべての人がみ声を聞きますが、二つの結果、すなわち、命の復活と審判の復活があります。もう一つ、注意していただきたいのは、第一の時には、主は「死者」について語っておられますが、第二の時には「墓にいる人」について語っておられることです。

この二つの時は、二つの復活です。霊魂の復活が第一の時であり、肉体の復活が第二の時です。霊魂の命は肉体の命よりもはるかに重要ですから、霊魂の命を失った人は本当に「死者」であり、肉体の命を失った人は「墓にいる人」です。霊的に死んだ人は、生ける信仰により「天主の子のみ声を聞く」ことによって霊魂の命に戻るのであり、彼らは生きる、すなわち真の命に戻ります。肉体の死者はすべてよみがえりますが、義人だけが「命の復活のために」、栄光の命のためによみがえります。最後まで悪い生活を送り、大罪の状態で死んだ人は、最後の審判の終わりに、私たちの主が言われるように「審判の復活のために」、すなわち「永遠の苦しみ」の宣告を受けるために、墓から出て来るのです。そのような苦しみは、「命」と呼ぶにはふさわしくありません。

二つの命があることを理解すれば、重要な方は霊魂の命であることを理解するのは簡単です。これこそ、私たちが大切にし、失わないように細心の注意を払うべきものなのです。私たちの主イエズス・キリストは、何よりもまず、私たちに霊魂の命を与えるために来られました。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。私たちの主ご自身こそが命です。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。主は、決してその霊的な命を失うことはおできになりませんでした。このため主は、霊魂と死ぬことのできる肉体を持たれたのです。主の肉体の復活によって、主が保証してくださったのは、天主が私たちの肉体をよみがえらせることがおできになることだけではなく、私たちの霊魂をよみがえらせることもおできになることです。復活祭のときの主の新しい命は、私たちの新しい霊的な命の原型です。そしてその新しい命、私たちはそれを決して失ってはなりません。「死者からよみがえられたキリストは、もう死ぬことがない。キリストに対して、もはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章9節)。

私たちの弱さに注意してください。私たちはそれを失うことがあり得ますが、決して失ってはなりません! 洗礼のときに受けた、あるいは悔悛の秘跡で回復した、その新しい命を守り続けることは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって可能なのです。多くの聖人たちは、小罪をすべて避けたわけではありませんが、大罪をすべて避けて、洗礼の罪のなさを守りました。このことは聖母の特権であり、このことは聖母の汚れなき御心であり、聖母の無原罪の御宿りの継続なのです。初期のキリスト教徒は、洗礼の恩寵をもっと注意深く守っていたため、今よりも熱心でした。私たちは、自分の洗礼の恩寵を十分に理解しているでしょうか?

聖ペトロはこう言っています。「(キリスト)によって、私たちに尊い偉大な約束が与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。教会は、成聖の恩寵によるこの霊的な命とは、天主ご自身の命に真にあずかることである、と教えています! イエズスは、御父と聖霊とともに、私たちのうちに住んでおられます。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す。…私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちは、その人のところに行って、そこに住む」(ヨハネ14章21、23節)。聖パウロは、聖霊についてこう言っています。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。聖霊は愛の霊であり、天主を愛する人の中に住み給うのです。

天主の命とは何でしょうか? 永遠の真理を知り、永遠の善への愛を知るという、観想生活のことです。これこそが実際、最も実り豊かな生活です。天主の御子は知性によって御父から発出し、聖霊は愛によって御父と御子から発出します。これこそが、天主ご自身の永遠の命であり、最高の幸福です。また、聖人たちは、至福直観によってそれにあずかります。そして、この地上での霊的な生活は、信仰と愛徳による永遠の命の始まりなのです! このため、すべての善きカトリック信者の霊的な生活は、祈りという観想的な次元を持つべきなのです。祈りは、声を出す祈りから始まるでしょうが、どんどん観想的な次元を持つようになり、私たちがキリストによって満たされるようになるために、天主のみ声に耳を傾けて永遠の真理を黙想・観想するという沈黙へと至るのです。

これこそ信仰の生活です。聖パウロは三回、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)と言い、預言者ハバクク(2章4節)の言葉を引用しています。信仰は、私たちを啓示された真理に従わせるだけでなく、すべての超自然の徳に動機を与えます。実際、成聖の恩寵によって、私たちには、この注入された超自然の徳の全体が与えられます。それは、馬力のあるポルシェのハンドルを握っているようなものです。このエンジンには馬力がありますが、その恩恵を受けるためには、正しいギアを入れる必要があります。信仰の動機を与えることによって、私たちはこれらの徳のギアを入れるのです。例えば、貧しい人が食べ物を乞い願っているのを見たら、キリストがこう言われるのを聞きましょう。「私が飢えていたときにあなたたちは食べさせてくれた…、まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章35、40節)。そのとき、私たちにはその人を助ける勇気があります。あるいは、何か悪いことをしようという誘惑に駆られたとしても、罪のせいで多くの苦しみを受けて十字架につけられたイエズスを目の前にすれば、私たちは誘惑を退けます。主の御苦しみをさらに増やすことが、どうして私たちにできるでしょうか? 信仰の動機は、天主の法を実践し、忠実であり続け、「善を行う」(ティト3章14節)ために、私たちを力づけるのものなのです。

これこそ、キリストが私たちのために買い取ってくださった命、洗礼のときに私たちに与えてくださった命です。これこそ、堅振によって固められた命です。これこそ、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものによって養われる命です。それこそ、悔悛の秘跡によって回復し、癒やされる命です。それこそ、終油の秘跡によって、最終的には至福直観のために準備される命です。それこそ、司祭が皆さんに与える命であり、皆さんが司祭を神父と呼ぶ理由です。司祭はその命の源ではなく、天主だけが命の源です。しかし、司祭は、その命を皆さんに伝達しました。それは、皆さんの肉体上の父親が、皆さんの肉体の命を無から作り出したのではなく、ただ自分自身が受けた肉体の命を伝達したように、です。結婚は第一に、肉体の命を伝達するために行われるものですが、子どもたちが天国に住むことができるように、子どもたちに洗礼を受けさせ、善きカトリック教育を受けさせることは、両親の重大な義務です!

私たちの霊魂の命は、その中に住んでおられるイエズスですから、私たちにイエズスを与えてくださったお方、童貞聖マリアは、まさに私たちの母です。洗礼によって、私たちは天主の子、マリアの子となりました。そしてマリアは、すべての母の中の最高の母として、私たちの世話をしてくださいます。イエズスがマリアを愛されたように、私たちも、マリアに対して子どものような優しい愛を持つべきなのですから、私たちは「キリスト・イエズスの心を心とす」べきであり、その結果、イエズスの御母マリアに対する同じ愛を持つべきなのです。

復活された私たちの主が、永遠の命に至るまで、私たちの霊魂のうちに、より一層住んでくださいますように。そして、その途上で、童貞聖マリアが私たちを助けてくださいますように!

アーメン。


全ての歴史的な出来事はイエズス・キリストがほんとうに復活したことを示している:キリストの復活の事実から論理的に導き出される結論とは?

2024年04月23日 | お説教・霊的講話

2024年3月31日 東京 10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は主の御復活の主日です。イエズス・キリストはまことによみがえられました。私たちの主の御復活の喜びを申し上げます。

【1:復活は現実に起こった】
主は、ご自分が死者の中から復活することを何度も予告して、約束しておられました。実際その通り、約束の通り、本当に今日よみがえられました。つまり、御自分の天主の力で、肉体を伴って、死からよみがえりました。
主の御死去と御復活、これは、確実で客観的な歴史的な事実です。これは盲目的なものでも感傷的な思いこみでもありません。私たちがもし主が復活したと断言するのは、これには、極めて高い信憑性があるからです。全ての歴史的な出来事、これは、主がほんとうに復活したということを指し示しています。もしもイエズス様が復活したのでなければ、歴史の中では、説明できないことだらけになってしまいます。

まず、ユダヤ当局の要請によって、ローマ総督ポンシオ・ピラトはローマ兵らを送って、主の墓の警備をさせました。しかもユダヤ人たちはファリザイ人たちは、墓の入り口の岩に封印をするほど警戒していました。使徒たちといえば、逃亡し、隠れていました。主の復活など頭にもありませんでした。敬虔な婦人たちは、死後三日目の今日、朝まだきに、主の葬りの続きをするつもりで墓に行きます。しかし、婦人たちが発見したのは、空になった主の墓だけでした。マリア様をのぞいて、誰一人、主の復活のことは想定もしていませんでした。

しかし、そのような婦人たちに、またマリア・マグダレナに、イエズス様はお現れになります。昨日、復活の徹夜祭で読んだマテオの福音には、主が復活して墓を出た時には、墓の入り口を封印していた巨大な岩は動いていなかった、ということを知らせています。少し引用します。
「安息日を終えて、週のはじめの日の夜明けごろ、マグダラのマリアと他のマリアとが、墓をおとずれて来た。すると大地震が起こり、主の天使が天からくだって石をわきにころばし、その上に座った。その姿はいなずまのように輝き、その服は雪のように白かった。番兵たちはおそれおののいて死人のようになった。そのとき、天使は婦人たちに向かって、『おそれることはない。私は、あなたたちが、十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている。しかし、かれはもうここにおいでにはならない。おことばのとおり、復活された』」(マテオ28:1~6←追加)。

使徒たちは、マグダレナのマリアからこのことを聞いて非常に驚きますが、たわごとだと思っていました。しかしそのなかでもペトロとヨハネの二人は確認をしに行きます。墓に行ってみると、たしかに墓は空です。残っていたのは、主の御体を包んでいた布だけでした。それを見てようやく、使徒聖ヨハネは、主の御復活を信じるに至ります。

【2:復活の現実を前にした弟子たち】
では、復活の現実を目の当たりにした使徒たちは、どのような態度を取ったでしょうか。イエズス・キリストは、旧約の全ての預言と全ての前兆を一つ一つすべて成就させました。それだけではありません。主は、多くの奇跡をなさりました。特に御復活によって、御自分が約束された救い主であって、人間となったまことの天主であるということを証明しました。さらに、ご昇天までの40日間、主は、使徒たちに何度も現れてご自分の傷痕を示したり「共に語ったり、共に食し」(ルカ 24:39-43)たりして、御自分が本当に肉体をもって復活したことを証明します。

信じようとはしなかった弟子たちは、ついには、キリストの復活が現実である、疑うことができない、否定することができない、と結論づけざるをえませんでした。あまりにも確実な証拠を目の前に突きつけられていたからです。「これこそ事実だ。これこそ現実だ。本当だ。イエズスは本当にキリストだ。イエズス・キリストこそ約束された救い主だ」と。この復活の現実を受けて、御受難の時には、恐怖の余り、恐れおののいて怯えて隠れていた臆病な弟子たちは、態度を突然がらりと変えます。イエズス・キリストの御復活を力強く宣教しだします。その結果なにがあったかというと、予想されていた通り、迫害と困難とそして殉教の生活でした。

もしも、もしも万が一、イエズス様の復活が、弟子たちによる詐欺だったとしたら、命がけの詐欺だったとしたら、それが弟子たちにとっていったい何の利益があったでしょうか?もしもキリストが復活していなかったと知っていたならば、つまりキリストは弟子たちを欺いた、約束を果たしていなかったということになるので、キリストは天主でもないし何でもなかった、と知るに至ります。そうなったら、いったい何のための宣教だったのでしょうか?偽りの復活の宣教、これでいったい彼らは何を儲けることができたでしょうか?迫害、苦労、そして良心の呵責。それよりも、キリストの復活を何も言わないほうが、どれほどかれらにとって、利益になったでしょうか。もしも、大司祭のもとに行って、「ああ、キリストに騙されたよ」といえば、多額の報酬が入ったに違いありません。ですから、聖アウグスチヌスの言う通りです。聖アウグスチヌスはこう言っています。もしもキリストの復活が事実でなかったならば、数人のガレリアの漁師が全世界をキリストに信仰に回心させたということであり、これは、キリストの復活よりももっと大きな奇跡だ。あり得ない。

【3:復活の現実を前にする私たち】
では、復活の現実を直前に、わたしたちはいったい何を考えるべきでしょうか。わたしたちは特に恵まれています。なぜかというと、たとえイエズス・キリストのその御復活を目の当たりに見なかったとしても、トリノの聖骸布というようなキリストの御受難とそして復活の科学的な証拠さえも持っているからです。この秘密は21世紀に生きる私たちのために、特別に隠されて取っておかれました。すべては、イエズス・キリストが本当にまことに復活された、ご自分は天主である、ということを、証ししています。

【信仰】
これは、私たちにとっていったい何を意味しているでしょうか。キリストの復活の事実からいったい論理的にどんな結論が導き出されるでしょうか。わたしは三つあると思っています。それは、ひとつは、イエズス・キリストこそが、そしてイエズス・キリストだけが、まことの天主にしてまことの救い主であるという真理です。もしもキリストがまことの天主であれば、わたしたちを騙しもしませんし、間違いもありません。イエズス・キリストのおっしゃることすべて、真理です。つまり、イエズス・キリストが聖ペトロの上に立てた教会、つまりカトリック教会こそが、唯一の本当の宗教であるという真理です。
真理はいつでもどこでも同じで変わることがありません。イエズス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じ天主であり救い主であります。つまり、カトリック教会が2000年間の間、信じ、愛し、行い続けてきたこの聖伝の信仰と教え、聖伝の秘跡、これは間違うことがないということです。キリストの真の教会がそれを確証しているということです。つまり、わたしたちの宗教は本物であるということです。これが、イエズス・キリストが復活したということから導き出される第一の結論です。

【希望】
第二は、イエズス・キリストが墓からお一人で復活したように、私たちも最後の日にイエズス・キリストの力によって復活します。イエズス・キリストのご復活は私たちの復活の保証です。主は、私たちの信仰を完成させたのみならず、希望の土台となりました。イエズス・キリストの御受難・御死去また御復活は、すべて私たちのためだったのです。茨の冠は、栄光の冠に変わります。わたしたちの涙も至福の喜びに変わります。これが、イエズス・キリストが復活したということの第二の論理的な結論です。

【愛徳】
第三は何でしょうか。イエズス・キリストの御復活は、私たちの霊的な復活の模範であり、お恵みの源です。主は、私たちの罪のために死を受けました。そして私たちが聖となるために、永遠の命のために、復活されました。ですから私たちも、もはや、霊的に墓から復活しなければなりません。これはどういうことかというと、罪の機会から抜け出し、冷淡や無関心の状態から抜け出して、イエズス・キリストの愛に燃えて、新しい生活を生きるということです。主はもはや死も苦しみもなく新しい命に生きておられるからです。私たちの生活ももはや罪を避け、罪を忌み憎み、イエズス・キリストへの愛のために燃える生活とならなければならない、復活の生活を生きる、これがわたしたちに示されているということです。主がまことに復活したということは、わたしたちにこれをも、示しています。キリストへの愛による生活です。

【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。ユダヤ人たちによって、キリストの墓は厳重に封印されました。それにもかかわらず、キリストは復活しました。そしてこの信仰のために、初代の弟子たちは命をかけました。ローマ帝国をはじめとする世界各地でのおそろしい暴力とそして迫害、また何世紀にもわたる異端や誤謬などが広がったにしても、まことの信仰は勝利をおさめました。今でも、この信仰のために世界中に生きている多くの人々がいます。何億という人々がいます。

現代世界も、ファリザイ人と同じようなやり方で、イエズス・キリストを墓に封じ込めようと試みているかもしれません。イエズス・キリストがなさったこと、教えた信仰、秘跡、ミサ聖祭を全て取り消そうとしたり、あるいは使徒継承の聖伝の真理を墓に閉じ込めようと、封印しようと、そしてこの墓に番兵さえも立てようとするかもしれません。そのキリストの信仰に反対するために、科学技術やあるいはいろいろなイデオロギーが作り出されるかもしれません。民主主義、共産主義、人権宣言、環境主義、エキュメニズム、キリストのないような自由・平等・博愛、などなど。しかし、イエズス・キリストが、かつてそれらに打ち勝ったように、いつでもキリストは勝利をおさめます。なぜかと言うと、イエズス・キリストは全世界の創造主であって、まことの天主であるからです。カトリックの信仰は、昨日も今日も変わらず真理です。私たちにご自分の復活の命を与えるために、主は今日復活されました。

復活祭の今日、マリア様に主への信仰と、復活への希望、またイエズス・キリストの愛を、ますます燃え立たせてくださるように、そしてこれをいつも保ち続けることができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2024年2月12日 ファイファー神父様のお言葉:ドモルネ神父様のための謝恩会にて

2024年04月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

2024年2月12日 ドモルネ神父様のための謝恩会でのファイファー神父様のお言葉

今回、アジア管区長の命令で私は日本に聖母の騎士のミッションのために来ましたが、明日、同じ命令で韓国に行きます。日本には今回初めて来ました。韓国にも初めて行きます。
私は、今、フィリピンのダヴァオというところで働いています。その前はインドで働いていました。その前はアメリカで働いていました。

とにかく司祭は行って、また出かけなくてはなりません。しかし、新しいところに来るときには、いつも楽しいことがあります。なぜかというと、新しい人と出会ったり、新しいことを学んだり、これから何が起こるかということで、興味がたくさんあるからです。特にエチエンヌ神父様のように頭のよい素敵な方であれば、そうに違いありません。

わたしたちは、天主様への愛のために一生懸命働いて、私たちに任された人々を愛し、そして愛するので、自然と、自然の法則に従ってその人々を愛して愛されて、そして愛着がわいてしまいます。
それでも司祭は、来て、また行かなければなりません。なぜかというと、私たちがここに来るのは、誰かによって任命を受けたからです。“日本に行きたいんだ~”と言って来るのはボランティアで、そうでない限り任命を受けてきます。誰かに任命をされて、ある時“さあ出発の時が来た”という日が来ます。

司祭は、従順によって、それに従います。神父様は、日本を去って、そして新しくマニラに行かなければなりません。マニラは、日本とは本当に違うところです。

私は、フィリピンにもう何年もいて、フィリピンのことを愛しています。フィリピンが大好きですが、日本には初めて来ました。日本については映画でしか見たことしかありませんでした。

日本は、神父様にとってとてもぴったりしたところだと思います。なぜかというと、日本の人々は非常に知的で神父様に似て、そしてすべてが神父様のように整理整頓されていて、とても清潔なことが好きなところなので、まさに神父様にぴったりです。ですから、そのようなところで子供たちは、知的に学びすべてを整理整頓してそれをきれいにするのを学ばなければなりません。わたしは日本に来て“ほかに車も誰もいないにもかかわらず信号が赤なのでずっと待っている”というのを日本で見ました。初めて見ました。でも、マニラに行かれると、日本とはまったく違います。

日本のところがこうだというのかとかはわたしのこんな感じかたですけれども、フィリピンにはちょっとまた別の秩序があります。でも、神父様は、天主がそれをお望みなので、すべてを捨てて、すべてをそのまま残して、その命令に従おうとされています。とても良い模範を示されています。

誰もが、ここに来て、そして出ていかなければなりません。その例外はありません。
ドモルネ神父様は日本に来られて、また日本を出て行く。ファイファー神父も日本に来て、また日本から出て行きます。小野田神父も日本に来ていて、また日本から出て行く時が来ます。
司祭は、天主のためにすべてを棄て、ここを出て行きます。ドモルネ神父様は、天主様のためにすべてをやって、ここを出て行きます。小野田神父も同じです。

誰もが、この世界にやって来て、そしてこの世界を出て行かなければなりません。そのときに、わたしたちは天主の御前にいったい何を報告するでしょうか。“私は主のためにすべてをしました”と言うことができるでしょうか。でも、この世の人々は、天主のために何もせずに生きて、この世を出て行きます。まったくゼロです。この世に住んでいる皆さん、お父さんお母さんそして子どもたちは、すべてを天主様のためにやらなければなりません。司祭がやって来て、出てきて、みんなやって来て出て行って、その次はだれがこの仕事を天主様の仕事をするのでしょうか。若い人々は、このことをよく考えてください。そしてわたしたちは、この世から出て行ったときに、主に、この世でのことを報告しなければなりません。“主のためにこうしました。”と。

神父様はときどき私にEメールを送ってくださって、このEメールの交換をするときに、「日本語の勉強どうですか?」と尋ねると、こう答えがありました。
「はい、一生懸命やっています。何時間も何時間も勉強しています。今日本語の勉強をこんなにもしていました。」
それにもかかわらず
「さあ日本を離れて別なところに行きなさい。」・・・・・・

でも、神父様はそれをすべてそのまま残して、主の命令に、み旨に従って、日本を発ちます。
なぜかというと、神父様には離脱の心がある。被造物に愛着していません。そこで、これが天主様に奉仕するために必要なことで、どうして主のために仕事をする人、奉仕する人がこんなに少ないかというと、離脱の心を持っている人がいないからです。ほんとに少ないからです。日本の人はとても携帯で何時間も画面を見ているということで有名です。任天堂も有名です。

それでも、もしも主が、「おまえ、わたしのために仕えないか。」「仕えて欲しい。」と言ったときに、それらをすべて離脱して、すぐに、「ハイ!主よ、私はすぐにそうします!」と、神父様にならって仕えることができるでしょうか。

皆さんは、もしかしたらマリア様の御像の前で跪いてお祈りしたかもしれません。いったいどんなお祈りをしますか。
「マリア様、試験に合格しますように!」とお祈りするでしょうか。
「マリア様、デザートにシュークリームが食べられますように!」とお祈りするでしょうか。
それとも、みなさんは、
「マリア様、マリア様はわたしが何をすることがお望みですか?」
「マリア様、わたしはマリア様のために何をすることができるでしょうか?」
とお祈りすることがあるでしょうか。

もしも、そういうお祈りをするとしたら、それらは全く別なことです。もしも、主のみ旨がわかったら、「ハイ!そうします!」と言ってください。なぜかというと、それが離脱だからです。
そうしなければ、日本に司祭がいなくなってしまいます。
日本には、日本人のために働く司祭が必要です。修道者の召命がたくさん必要です。離脱の心を持つ若い人たちがたくさん必要です。

ご清聴ありがとうございました。


ローレンス・ノヴァク神父にインタビュー:主のぶどう園で奉仕した30年を祝う!

2024年04月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

主のぶどう園で奉仕した30年を祝う!
ローレンス・ジェラード・ノヴァク神父に編集部がインタビュー


“Apostle” SSPX ASIA DISTRICT NEWSLETTER, SPRING 2024, ISSUE NO 61
Celebrating 30 Years of Serving the Lord in His Vineyard!
An editorial interview with Rev. Fr. Lawrence Gerard Novak.

問1 神父様の家庭環境について簡単に教えてください。

私の家族は、私の人生における安定と熱意の最大の源泉です。私の家族の最大の特質は、何かをするという目的を持ち、それを成し遂げることだと、私は言いたいと思います。私の父は勤勉な歯科医でしたし、母はカトリック信者であり続けようと、そして同じ信念を持つ家族を育てようと決意した人です。

私には兄弟姉妹が7人います。私たちは8人です。男が4人、女が4人です。私は最後から2番目です。一番上の兄は聖ピオ十世会の司祭です。名前はケネス・ノヴァク神父です。姉妹の一人は聖伝のドミニコ会のシスターで、シスター・マリー・マルティン・デ・ポレスです。

私たちの家族の歴史を三つの部分に分けることができると思います。最初は、多くの家族の絆です。何年も前、私たちはシカゴ郊外に家を構えたほか、数時間離れたミシガン州にも農場を持っていました。その10年弱の間に私たちが持っていた緊密な家族の精神は、かけがえのないものになるのです。次の段階は、聖ピオ十世会との生活の始まりです。80年代の大半の間、聖ピオ十世会がシカゴにやって来て、そこでミッションを始めるのを、私たちは一致して援助していました。そして最後の段階は、私たちが教育の中で与えられたものを継続するために、それぞれの道を歩むようになった時です。私たちのほとんどは、両親から教えられたことに忠実であり続けました。

問2 最初に司祭になりたいと思われたのはいつですか?

私が3歳のとき、頭の病気が奇跡的に治りました。数カ月の間、気を失って床に倒れ込むほどのめまいの発作が続きました。医師は両親に、おそらく脳腫瘍か、頭に何か問題があるのだろうから、早く病院に連れて行くようにと言いました。その途中で母は、まずシカゴのダウンタウンにいるレオ・マクナマラ神父に見てもらいに行ったらどうかと言いました。マクナマラ神父は神秘家で、ピオ神父の同時代人でした。二人は直接会ったことはなかったものの、超自然的にお互いを知っていたのです。神父のアパートの教会には、ローマの殉教者、聖マクシミナの全身の聖遺物がありました。両親の話によると、私が聖遺物の前でしばらく過ごした後、神父は私の頭に手を置きながら、両親と話していたそうです。そして最後に、神父は、私たちに病院に行きなさい、しかし、すべての検査は陰性だろう、と言いましたが、これはまさに起きたことであり、もう二度とめまいの発作は起こりませんでした! それから数年後(1972年ごろ)、私が5歳くらいのとき、私たち家族は聖伝のミサにあずかっていました。現代のミサに行く必要はありませんでした。その司祭は、そのときでも聖伝のミサだけを捧げる60代の所属先のない司祭でした。そのころ、私はなぜか司祭になりたいと言い始めました。普通なら、そんな気持ちになる理由はありませんが、私はそうだったのです。マクナマラ神父と聖マクシミナが何か関係しているのだと、私は確信しています。

私が14歳のとき、聖ピオ十世会がシカゴにやって来て、ミサを捧げるようになりました。私は60歳より若い聖伝の司祭を見たことがありませんでした。いつもスータンを着ている聖伝の司祭も見たことがありませんでした。できるだけ多くの場所で聖伝のミサを捧げるために国中を飛び回って信仰を広めようとしている聖伝の司祭も見たことはありませんでした。私はこれら三つのことすべてに心を動かされ、天主がこのような形で私を司祭職に召されたのだと確信しました。私に同じことをするよう天主が望んでおられると確信したのです。当時、私は近代主義の高校に通っていました。私はその場所でつまずいていました。聖ピオ十世会の司祭たちは、とても新鮮な空気を吸ったようなものでした! 私は彼らと一緒にいることでとても安心していました。この時点で、自分の将来が私の前に開かれていくのを見たのです。

問3 神学校に入学するという決断を、ご家族は支持してくださいましたか?

家族は私の召命にとても協力的でした。実際、あまりに協力的だったので、時には、私が天主からの個人的な召命に応えているのか、それともただ「家族に従っている」だけなのか、見分けるのが難しいこともありました。お分かりのように、私の家族は、ミサを捧げるためにシカゴにやって来る聖ピオ十世会に深く関わっていました。父はミッションの信徒会長でしたし、母はミサを行うホテルの部屋ですべてを準備する中心的な世話役でした。自画自賛で申し訳ありませんが、私たちは素晴らしい仕事をしました。私たち、つまり母も兄弟姉妹も私も、そうするのが大好きでした。いずれにせよ、神学校に入学して数年を過ごすころには、私の未熟さが表れ始めました。私が神学校に行ったときは、高校を出たばかりの18歳にすぎませんでした。大学には行きませんでした。学位も取りませんでした。司祭以外の職業に興味を持ったこともありませんでした。私の目に星くずがついているようなものでした。するとその後、神学校に行ったのはただ「家族のため」だったのではないかと思い始めました。本当に解決困難な問題(頭のおかしくなった者)だったのです。

神学校の校長だったウィリアムソン司教様は、私がこのことで悩んでいるのを見て、神学校を去るように言うのではなく、向こうで私に任されるかもしれないどんな事務的責任も果たすことができるよう、聖マリア校で1年か2年過ごして「成長しなさい」と言われました。私は素直にそれを受け入れました。私はカテキズム教師とハウスファーザー(寮の管理人)になりました。ラモン・アングレス神父様が、聖マリア校の新しい校長として着任し、私にとても親切にしてくださいました。多くの時間を私と過ごし、いろいろな意味で私に自信を与えてくださり、私の疑問点の多くがいかにナンセンスなものであるかを教えてくださいました。そこで2年間を過ごして少し成長したあとで、天主が実際に私を呼んでおられること、そしてこれは単に家族を喜ばせたり、流れに身を任せたりする問題ではないことを、私は確信しました。

問4 神学生として最も大切にしておられる特別な時間や出来事はありますか?

神学生として最も大切にしている特別な時間を挙げるのは難しいですが、神学生としての2年目全体が本当に好きだったと言うことはできます。最初の1年間で、私は神学校の規律に慣れました。沈黙、黙想、大斎、そして家を恋しく思うことです。とはいえ、チャペルでのすべての時間や、聖体訪問は本当に大切なものでした。主日の晩歌、特に「巡礼者の旋法」(Tonus Peregrinus)の第5詩篇が大好きでした。ですから、私の背景にはそれがあったのです。そして2年目になると、若いころに一番好きだったことが大人になっても繰り返されるようになりました。神学校に行く前に、無私の心で私に教えてくださった男性、故ジョージ・ハンナ氏のおかげで、私はラテン語をかなり学んでいました。そのため、ラテン語の上級レベルにいたため、簡単だったのです。私は歌うのが好きでしたから、「聖歌隊」(Schola Cantorum)に入れられました。それも楽しかったのです。ウィリアムソン神父様(彼はまだ司教ではありませんでした)が哲学入門の授業と聖書の授業をしてくださいました。

どちらの授業も素晴らしいものでした。サッカーは間違いなく「神学校のスポーツ」でした。私は数時間プレーできました。仲間意識は最高でした。自分と同じように考え、自分と同じような人生の目的を持っている人たちとこれほど一緒にいたことはありませんでした。神学校は本当に居心地がよかったのです。ですから、神学校での訓練で最も大切にしたい時間があるとすれば、それは神学校の第二学年全体になるでしょう。

問5 叙階式の日に、どのようにお感じになりましたか?

感謝です! まず、それは私たちの誰もがこれまで決して受けることのできなかった恩寵だからです。でも同時に、安心したからでもあります。もし自分が司祭でなかったとすればどのような人生になるのか、という多くの考えが終わったのです。そのことは、もはや選択肢ではなくなりました。数回前のご質問で、聖マリア校での生活を終えた後、天主が私を召されていると確信していると申し上げたばかりですが、どういうわけか、悪魔はまだ私にそれができないと思わせることで、私を悩ませたかったのだと思います。ですから、叙階されるためについにその祭服を身に着けたとき、私はついにこの道に進むのだと安心し、もう後戻りはないのだと思いました。塹壕を抜け出し、前線を越える時が来たのです。「やるぞ!」と。

問6 さらに多くの熱意と信者への愛情をもって司祭職を続けるために、各国で神父様の心に触れ、神父様に影響を与えた最も忘れがたい経験をいくつか教えていただけますか。

私の赴任期間は、3年半のものが一つありましたが、他はすべて5、6年です。叙階された最初は、テキサス州エルパソに任命されました。それは幸運だったと思います。テックス・メックス(Tex-Mex)の米国人、つまり米国とメキシコの国境に住む、両文化を持つ人々と接することができたからです。米国人として、私はメキシコの人々の素朴さが大好きでした。彼らは、教会に行き、童貞聖マリアへの信心を示し、告解に行き、行列を行うときに、とてもエネルギッシュです。カトリックの信仰を公に表明することに関係することなら、何でもします。彼らはとてもいい影響を与えてくれます。司祭が午後のミサのために扉から入ってくるやいなや、告解のために長い列を作っていたのには感動しました。また、彼らはそれに真剣でした。告解がなければ聖体拝領もありません! ミサが終わると、子どもたちは皆、特別な祝福を受けるために、聖体拝領台のところまでやって来ます。

テキサスでの任務の一環として、私は米国のためのブラザーの修練院も担当していました。当時はまだそれほど大きくはありませんでした。召命はそれほど多くはありませんでしたが、私たちが得た召命は思い出深いものでした。特に覚えているのは二人の若者、現在のブラザー・グレゴリーとブラザー・アルフォンサスです。彼らの家庭の事情は全く異なっていましたが、ブラザーになることについてはとても真剣でした。私はよくこう思ったものです。「彼らはこれらの授業(神学校入学当初の私たちの授業と同じようなもの)を受けている。彼らはこんな訓練ばかり受けている。彼らは決して司祭にはなれないし、そのことを知っている。それでも、彼らは精いっぱい天主にお仕えしたいと思っている」。そのことが私の心を動かしました。このような謙虚さと、自分たちの人生は天主にとって意味のあるものだというこのような天主への信頼があり、何があってもその信頼を天主に捧げようとしていたのです。

私は、コンセプシオン・エルナンデス夫人という高齢の未亡人に定期的に病気見舞いをする機会に恵まれました。彼女は列聖されたメキシコの殉教者、ペドロ・マルドナド神父の姪でした。この神父はクリステロ戦争から10年後の1937年2月11日に、政府に殺されました。彼は、「この教会はメキシコ政府の所有物である」と記された紙に決して署名しませんでした。真剣でした。そこで彼らは神父を連れ出したのです! それは残忍な撲殺でした。行ったのは警察自体です。その日は一年の中で神父のお気に入りの日、ルルドの聖母の御出現の日の2月11日でした。彼女は、私に勇敢な叔父の話をするのが好きでした。それは私の心をとても揺り動かしました。

1999年の秋、私は慰めに満ちた出会いをしました。シカゴ地区で、心臓を患い、病院で死期を迎えていた高齢の司祭がいました。偶然にも彼は、1967年から1971年にかけて、マロン典礼で私たちのためにミサを捧げてくれた司祭であり、別の司祭が別の礼拝堂でラテン語のミサを始めるまで続きました。彼は何カ月もひどい体調でしたが、死にませんでした。その理由は、彼に聖伝の方法で最後の秘跡を授けることのできる人が誰もいなかったからであり、彼の小教区の司祭ですら近代主義の傾向のせいで授けることができなかったからです。私はたまたま2、3日家にいたため、病院に見舞いに行きました。私は彼に終油と使徒的祝福を授けました。彼はとても喜んで、私が帰る前に立ち上がってお礼を言いました。その2日後、彼は亡くなりました。彼はそれだけを待っていたのです。天主は祝されますように! それは慰めでした。私は、生まれたばかりの子どものころから3歳になるまで、彼のミサにあずかりました。彼と他の多くの人たちのおかげで、私はカトリックの信仰を持つことができました。そして、天主の御摂理の特別な恩恵によって、ついには、私は聖伝の方法で彼に最後の儀式を授ける司祭となったのです。

この後、オレゴン州での大きな任務がありました。それが5年ほど続き、その後は、米国外での任務を与えられました。これまでのところ、国外での任務は常に恩寵だと思ってきました。なぜなら、信者の群れに対する愛着は、自然のものよりも超自然のものに頼らなければならないからです。オレゴンの後、当時の総長だったフェレ―司教様は、私をメキシコ北部のゴメス・パラシオという町の小教区に推薦してくださいました。

そのような任務に私を考えてくださったことをとても光栄に思いました! しかし、正直なところ、言葉をもっと学ぶまで、そして文化を学ぶまでは、しばらくの間、現地で居場所を失った人のように感じました。そしてこのことが、これまでの司祭職における私のもう一つの大きな慰めなのです。約2年そこで過ごした後、私は米国で感じていたのと同じくらい居心地がよく、幸せだと感じました。それこそが、皆さんにとっての超自然の生活であり、それこそが司祭職なのです。それらは普遍的なものなのです。

そこでの忘れられない経験の中には、水曜日の午後のカテキズムの授業がありました。通常、人々は主日の一日にすべての宗教の務めを果たそうとします。しかし、ここは都市のコミュニティーではありませんでしたから、人々は教会からほぼ徒歩圏内に住んでいました。そのため、子どもたちは水曜日の放課後、自分でカテキズムの授業に出かけることができました。私がそこにいた間、子どもたちに多くの教育と養成を行いました。もう一つ、5月の毎日、修道院の外の中庭で、聖母への信心が行われました。一連が終わるたびに花を捧げるロザリオがありました。ロザリオが終わると、子どもたちは忠実だったことに対してチョコレートやキャンディーをもらいました。楽しいものでした!

この任務中に、コンセプシオン・エルナンデスの息子とその家族に会いました。コンセプシオンのことは、テキサスでの任務の前にも触れました。この家族は、メキシコのチワワに住んでおり、そこは私たちの修道院から北に6時間、テキサスから南に6時間のところでした。これは実は、マルドナド神父が1937年に殉教した場所にさらに近いところでした。このエルナンデス家は、私たちの教会で非常に活発に活動していました。私たちは非常に奇妙な状況にありました。私たちの教会に来ていたのは、マルドナド神父の親族の子孫だけでなく、神父の迫害者たち、つまり神父を残酷に殺した人々の子孫も、ちょうど通路を挟んだ向かい側にあるこの教会のミサに来ていたのです! 彼が死ぬ間際に迫害者たちのために祈ったことは、とても効果があったように思えます! 彼らはついには、神父の甥たちや姪たちと一緒に、聖伝のミサにあずかることになったのですから。

次の任地はベラクルス州のオリサバでした。ここはメキシコの南東部にあります。そこでの私の最大の楽しみの一つに、ドス・リオスというプエブロにある修道院付属のミッション教会の世話をすることがありました。そこは大人に対する子どもの比率が高いところでした。なぜなら、彼らはほとんどが農家で、親たちは子どもたちの手を必要としていたからです。私はその教会で、これまでで最も愛すべき教区民たちに出会いました。想像してみてください。土曜日の夕方のミサ(義務のミサではない)を終えて、その後、誰かの家に食事に行ったときのことを。その家は質素でした。土間。家の少女たちによって丸太の火(フエゴ・デ・レーニャ)で焼かれるトルティーヤ。そこにいたのは、とても聖化された素晴らしい教区民たちで、彼らはこのような状況の中で生活していました。それは私にとって大きな教訓でした。

それから3年半後、私は別の国、グアテマラに移りました。メキシコの南東に位置し、北米が終わって中米が始まる国です。この任地で最も印象に残っていることは、移動の多さです。パナマを除くほとんどの中米諸国に行かなければなりませんでした。ニカラグアは、共産党政権のあるカトリックの国です。共産主義者の盗賊が別の教会を襲撃し、さらに彫像や祭壇などを汚し、破壊したというニュースを定期的に目にします。でも私たちはそこに行きました。このような不幸な人々の中にあっても、私たちがそこで見た大きな信仰には驚きました。どんな迫害でもそうですが、残された人たちの信仰をさらに強める傾向があります。それは間違いなくそのケースであり、私には深く感動しました。

そしてついにシンガポールに赴任することになりました。とてもエキゾチックで、とても世界的に有名で、とても整って清潔でした。ラテンアメリカのさまざまな場所にいた私には、まるで地球ではない宇宙空間のように思えました。シンガポールの教会で印象に残っていることが二つあります。まず一つ目は、平日の毎日のミサに来ることをとても大切にしていることです。他の任地では、1週間のうち朝のミサに来るのは5人以下でした。また、夕方のミサには10人から20人が集まります。ここシンガポールでは、車を持っている人はほとんどいないにもかかわらず、朝のミサには30人、夕方のミサには別の30人が集まります。そんな様子は見たことがありません! 何かがこの人たちを動かしているのです。彼らは、平日に天主にカトリックの礼拝を捧げる必要があることを確信しているのです。おそらくそれは、異教に囲まれている彼らが自分の宗教を当たり前のものだと思っていないからであり、また、そもそも彼らの多くが異教を離れてカトリック信者にならなければならなかったからでしょう。もう一つ、この小教区について印象的なことは、さまざまなボランティアがこの教会で、いかに真剣に責任を果たしているかということです。ここに来る前は、人々が司祭を助けてくれることに少し慣れてはいましたが、これほど献身的に、特に無償でということはありませんでした。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。

おそらく、これらが壮大な経験のすべてではないでしょうが、彼らは、私の司祭としての務めを、もっと熱意と信者に対する愛情をもって続けていくために、私に感動と刺激を与えてくれたことは確かです。天主は祝されますように!

問7 司祭や修道者の召命を考えている人に何かおっしゃっていただけますか。

第一に、皆さんが天主を選ぶのではありません。天主が皆さんを選んでおられるのです。私たちは、「私は神学校に行くと決めました」「ずっと修道院に行きたかったから行きました」と話していますね。しかし、それは私たちの話し方に過ぎません。実は、呼んでおられるのは天主です。それが、(ラテン語のvocare=呼ぶ)に由来する「召命」(vocation)という言葉です。そうである以上、皆さんに「いいえ」と言う権利はありません。また、その次にあるのは、天主は、第一選択を受けるにふさわしいということです。「司祭や修道女になりたい」ということに確信がないとしましょう。大学に行って学位を取りたいと思うかもしれません。しかし、天主は私たちの第一選択を受けるにふさわしい方です。まず神学校や修道院を試してみて、うまくいかなかったら、次に、世俗的なキャリアを試してください。もしも、世俗的なキャリアから始めるなら、神学校に行くチャンスがなくなってしまうかもしれません。召命があったかもしれないのに、世俗的なものの追求に召命が邪魔されてしまったという可能性もあります。計算してみてください。1950年代には、何千人もの召命があり、司祭や修道者の居場所は常にありました。司祭の仕事には事欠きませんでした。しかし今、それに比べて司祭や修道女になる人の数は、かつての数パーセントにすぎません。あれだけの召命はどうなったのでしょうか? 天主が突然、人々を呼ばれなくなったのでしょうか? いいえ、男も女もそれに応えることにケチになってしまったのです。天主からの召命よりも、この世的な追求を優先してしまったのです。単純な数学がその疑問に答えてくれます。

この30年間の司祭職について、天主がたたえられますように! 確かに私はその日々に感謝しています。皆さんとこのことについてお話しできることをうれしく思います。私たちの祝された聖母なしにはこれは不可能でした。聖母は私たちの霊魂に、特に司祭の霊魂に御子を形作ってくださるお方です。こうして主の御国は広がっていくのです。聖母がこの召命のために私を用いてくださったのなら、聖母は多くの人々を用いてくださることでしょう。

皆さんに天主の祝福がありますように!


ラファエル・ヴィンセント・ファウスティーノ神父の司祭叙階【Apostle Magazine より】

2024年04月17日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

“Apostle” SSPX ASIA DISTRICT NEWSLETTER, SPRING 2024, ISSUE NO 61
ラファエル・ヴィンセント・ファウスティーノ神父の司祭叙階

2023年12月16日、ラファエル・ファウスティーノ神父は、一人のブラジル人および二人のアルゼンチン人と共に、ブエノスアイレスの「共贖者聖母神学校」で、フェレ―司教の司式により司祭叙階を受けました。

「アポストル」誌【聖ピオ十世会アジア管区機関誌】は、ファウスティーノ神父に対して、彼の深淵な召命の旅を垣間見ることのできる洞察に満ちたインタビューを行いました。

聖伝の発見と聖ピオ十世会

1998年に私が生まれたとき、私たち家族はノブス・オルド【新しいミサ】の教会に通っていました。天主の恩寵と憐れみによって、母が叔母を通じて聖伝のラテン語ミサを知るようになったのは、私が8歳のときでした。そのころ、教区は、小教区から全時代のミサを廃止し始めていました。根気強い努力により、叔母はニュー・マニラにある聖ピオ十世会の教会(現在の勝利の聖母教会)を見つけることができました。私が地元のカトリック学校で初聖体を受けた直後に、母は、勝利の聖母教会に行って初めての聖伝のラテン語ミサにあずかる決心をしました。わが家から勝利の聖母教会までは遠かったため、毎週の主日にミサに行くのは困難でした。しかし、約2カ月後、天主の恩寵の援助により、私たちは定期的にミサに行く方法を見つけることができました。

ミサの侍者をすることに興味

私はノブス・オルド教会にいたころ、侍者になりたい、また司祭にもなりたいと思っていました。侍者の責任者に何度も連絡を取ろうとしましたが、うまくいきませんでした。訓練を受けなければ、ノブス・オルドのミサで侍者をすることはできませんでした。勝利の聖母教会で聖伝のラテン語のミサにあずかった後、私は赤いスータンを着た少年たちの姿に心を奪われました。私も彼らのように侍者になりたいと思いました。私が強く興味を持っているのを知っていた叔母は、私を香部屋に連れて行き、侍者たちに会わせてくれました。そしてついに私は訓練を受け、ミサの侍者をすることができるようになりました。私は、ミサの侍者をするだけで、聖なるいけにえを愛するようになりました。司祭たちが恭しくミサを唱える姿を見て、私はとても感動しました。当時8歳の少年だった私は、自分にこう言い聞かせました。「そうだ、私がここで目にしている司祭、彼は、ミサを捧げておられる私たちの主イエズス・キリストご自身なのだ」。

勝利の聖母カトリック学校への入学

2008年に勝利の聖母カトリック学校が開校したとき、高額な費用と長い通学時間のために、私がこの学校に入ることは不可能でした。そのため私は、主日と祝日には勝利の聖母教会で聖伝のラテン語ミサにあずかって侍者をする一方で、地元のカトリック学校に通い続けなければなりませんでした。

天主の御摂理は再び、私に道を開いてくれました。ロバート・マクファーソン神父様(当時は勝利の聖母カトリック学校校長、現在は米国の聖トマス・アクィナス神学校副校長)が、私たちが同じ場所で学び、生活できるよう、全寮制の男子校を開校するという構想に着手されたのです。侍者をしながら司祭と話ができることは、私にとって大きな喜びであり、勝利の聖母カトリック学校に通えることは、天主からのさらに大きな恩寵でした。寄宿学校にいることで、神父様方と話す機会が増えました。勝利の聖母カトリック学校のビジョンの一つは、フィリピンのカトリック信者のために将来のカトリック指導者を育成することです。カトリック指導者とは、家庭の父親であったり、さらには霊魂を天国に導く司祭であったりします。年月がたつに連れ、司祭になりたいという私の望みはますます明確になっていきました。

聖ベルナルド修練院での養成

私の旅は、校長がマクファーソン神父様からマイケル・フォルティン神父様、そして現在の校長であるピーター・フォルティン神父様へと交代する中で続きました。私は、前校長のマイケル・フォルティン神父様とさらに長い時間を過ごしました。彼はこう言われました。「では、祈りましょう。あなたは今行っていることを続け、勉強に集中しなさい」。高校教育を終えた後、私の次の段階は、神学校への入学を申請する前に、キャリアを追求するために地元の大学で勉強を続けることでした。再び、天主の御摂理のおかげで、私は高校卒業後すぐに聖ベルナルド修練院に受け入れられました。聖ベルナルド修練院院長のコンラード・ダニエルズ神父様は、2015年6月に予備神学生として入学することを許可してくださいました。まだ年齢が足らなかったため、神学校への入学を申請する前に2年間の養成期間を過ごさなければならなかったのです。

2017年3月、ようやく養成期間を終え、すぐに神学校に入ることができました。養成期間中、ブラザーたちと一緒に暮らしたことは、神学校生活を準備するに当たって大いに役立ちました。彼らは清貧、貞潔、従順の誓願によって、私に彼らの修道生活を教えてくれました。また、自分の召命を厳格に守り、霊性を成長させることも学びました。私が第二の故郷と呼んでいる聖ベルナルド修練院で過ごすことができた数年間を、本当に天主に感謝しています。

司祭養成の開始

私は神学校で7年間を過ごしました。それは、言葉では言い表せない経験でした。簡単に言えば、驚くべき恩寵の時間だったのです。私は、オーストラリアにある聖十字架神学校で最初の数年間をスタートさせました。聖ベルナルド修練院ですでに生活を送っていた私にとって、神学校生活に慣れることは問題にはなりませんでした。ただ、聖十字架神学校は国際神学校で、神学生はフィリピン人だけでなく、他の国籍の人たちもいました。韓国人、インド人、オーストラリア人、アフリカ人などです。私たちは、同じ超自然の精神と信仰を持つ一つの共同体として共に生きることの大切さを学びました。私たちは皆、司祭になるという同じ目標に向かって努力していたため、一人一人が天主の御旨に従い、それを求めることで、互いに助け合い、励まし合いました。私たちは、カトリック教会という一つの家族の中にいる、聖ピオ十世司祭会の一員になりたいと願っていました。

司祭養成と霊的生活の原則の学びに重点が置かれたため、勉強はさらに熱心になりました。研修が進むにつれて、私は聖トマス・アクィナスの偉大な教えについてさらに学びました。創立者のルフェーブル大司教は、すべての神学生に聖トマス・アクィナスとその教えを学んで好きになってほしいと願っておられました。私は、聖十字架神学校の教授や指導者全員から多くのことを学びました。

聖十字架神学校の閉鎖

総長が聖十字架神学校の閉鎖を発表されたのは週の半ばでした。【訳注:コロナ禍のために外国人神学生がオーストラリアに入国できなくなったため一時オーストラリアの神学校を閉鎖する処置をとっている】私たちにとっては悲しいニュースでした。私たちは試験を終えて、すでに二学期を楽しみにしている最中でした。もちろん、総長に見捨てられたわけではありませんでした。私たちは養成を続けるために、ドイツ、米国、アルゼンチンの神学校に別々に移されることになりました。私はここアルゼンチンに送られることになり、数カ月でスペイン語を学ばなければならないと言われました。私はスペイン語について何も知りませんでした。タガログ語の中にある、フィリピンのスペイン文化に由来するスペイン語の単語をいくつか覚えることができていた程度だったでしょう。しかし、天主の恩寵により、アルゼンチンに到着して、現地の人々と会話し、コミュニケーションを取ることができるという生き残り作戦をこなすのに十分なほどには、何とか学ぶことができました。

アルゼンチンでの神学校過程の開始

私は神学の最後の2年間を続けるために、2022年4月にアルゼンチンに到着しました。それは私の人生の新たな章のような、新たな冒険の始まりでした。もちろん、私にとってすべてが新しく、すべてが異なるものであったため、不安もありました。聖ピオ十世会であるのは同じですから、すべては同じだと言われましたが、私はここアルゼンチンで新しいことを学ばなければなりませんでした。さまざまな国籍の人がいた聖十字架神学校と同じように、ここアルゼンチンにはメキシコ、ニカラグア、中米・南米全域から来た人たちがいます。オーストラリアにいたときと同じように、ここアルゼンチンやラテンアメリカの文化も学ばなければなりませんでした。到着したとき、私は神学校生活の新たなスタートを切ったばかりのように感じました。

神学の最後の2年間は、教授たちから再び多くのことを学びました。教授たちは、聖トマス・アクィナスに対する知識と愛、教会とその教えを伝える方法を本当に知っています。

ブエノスアイレスへの任命

さて、私の人生の新たな章が始まりました。叙階の直前に誰もが口にする質問は、「神父様はどこに任命されるのですか?」というものです。そうです、助祭として最後の年を迎えるとき、神学校生活にはいつもそんな不安がつきまといます。私の最初の任命先は、ここ南アメリカ管区、特にここアルゼンチンのブエノスアイレスの修道院になります。修道院長のルイス・クラウディオ・カマルゴ神父様を補佐することになります。

ブエノスアイレス修道院は、実際には南米における聖ピオ十世会の基礎となった場所です。それはまさに最初の共贖者聖母(Nuestra Señora Corredentora)神学校であり、ここアルゼンチンにおける聖ピオ十世会の最初のハウスでした。ルフェーブル大司教は、神学校をラ・レハに移す前に、何年もこの場所を訪れ、ここで司祭を叙階されました。現在は、約800人の教区民がいる修道院となっています。忙しい使徒職です。信者は今も増え続けています。年を追うごとに、もっと多くの霊魂が聖伝に目覚めるよう、私たちは祈ります。

修道院での将来の使徒職

今のところ、具体的な仕事の割り当ては受けていません。基本的には、修道院の一般的なミッションを手伝うことになるでしょう。主日のミサを捧げたり、告解を聞いたりするだけかもしれません。また、初聖体の信者に堅振の準備をするためにカテキズムを教えたり、あるいは成人にカテキズムを教えたりする可能性もあるかもしれません。アジア管区と同じように、ここブエノスアイレスにも侍者のための聖ステファノ会があります。この使徒職は本当に盛んですから、私も手伝いを頼まれるという可能性があります。

修道院のことをもっとよく知るようになれば、私の役割は将来にはさらにはっきりするでしょう。ウルグアイやブエノスアイレス郊外、その他の場所にある、他のミッションセンターで手伝うことも、将来的には可能性があるかもしれません。

さらなる召命を祈ってください

締めくくりに、すべての読者の皆さんに対する私の切なる願いは、召命が増えるように祈り続けてくださることです。読者の皆さんへの最後の言葉、それは、さらに多くの召命のために祈り続けてくださることです。サマーズ神父様が常々アジア管区の皆さんに伝えておられるように、さらに多くの召命のために祈ることが緊急に必要です。私たちの主が言われるように、仕事は多けれども、働く者は少ないのですから。

アジアだけでなく、どこの管区でも、なすべき仕事がたくさんあることがすでに分かっています。私は皆さんに、司祭職と修道生活のための召命が増えるように祈り続け、さまざまな方法で寛大になってくださるようお勧めします。教会への愛のためにルフェーブル大司教様が始めた聖ピオ十世会のミッションを支えてください。自分の子どもが司祭や修道者に召されることが天主の御旨であるならば、それを支援し、聖なるカトリックの家庭がさらに多くなるように祈ってください。皆さんの絶え間ない祈りを必要としているすべての神学生を支援してください。

最後に、この場をお借りして、すべての読者の皆さん、すべての管区の信者の皆さんのお一人お一人に対して、私の司祭叙階という喜びの日を実現させるためのお祈りとお力添えとご支援に対して感謝申し上げます!


ご復活の主日―信仰の勝利:信仰が歴史的事実と矛盾しないのを理解することは、非常に重要です。

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

ご復活の主日―信仰の勝利(大阪)

ワリエ神父 2024年3月31日

親愛なる兄弟の皆さま、

日本の祈祷書にある「信徳唱」とは異なりますが、英語の信徳唱では、こう宣言します。
「わが天主よ、われ、御身が唯一の天主にして、父と子と聖霊の天主の三つのペルソナを持ち給うことを固く信じ奉る。
われ、天主なる御子が人となり給うて、われらの罪のために死に給うたこと、また御子が生ける人と死せる人を裁かんために来り給うことを信じ奉る。
われ、これらおよび、聖なるカトリック教会が教えるすべての真理を信じ奉る。
そは、永遠の真理にして知恵なる御身、欺くことも欺かれることもなき御身が、それらを啓示し給うたがゆえなり」。

私たちが強く信じている私たちの信仰の神秘は、三位一体、ご托身、贖いです。
私たちはまた、キリストの復活など、キリストの奇跡も強く信じています。

信仰が歴史的事実と矛盾しないのを理解することは、非常に重要です。
近代主義者は、キリストの復活は歴史的証拠によって立証できないと主張していますが、これは完全に間違っています。

私たちの主は、こう預言されました。
「私には自分の命を与える権威があり、また、それを取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。

自然は、主の死にお応えしました。
・約3時間、闇が地上を覆いました。
・神殿の幕が、上から下まで二つに裂けました。
・地震がありました。

キリストの復活も、はっきりと自然に表れました。
・地震がありました。
・ローマの番兵たちは、光り輝く天使の出現を見ました。彼らは、慌てふためいて立ち去り、司祭たちに、私たちの主の復活を知らせました。
・多くの死んだ人々が死者の中から復活し、エルザレムに入って、多くの人々に姿を見せました。
・キリストご自身が、多くの人々(聖なる婦人たちや使徒たち)に直接ご出現になり、その中には「不信者」トマスもいました。

ですから、親愛なる兄弟の皆さま、キリストの復活への揺るぎない信仰を持ちましょう。
「世に勝つ勝利は、すなわち、私たちの信仰である!」【ヨハネ第一書5章4節】。
使徒たちの心が疑いと落胆に満ちていたとき、忠実に信仰を保っておられた私たちの良き母が、私たちのカトリック信仰の守護者でいてくださいますように。アーメン。


復活徹夜祭の聖なる夜、教会は水を恩寵の水として強調する:聖化する水、罪を洗う水、渇きをいやす水、「永遠の命に湧き出る水の泉」

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

復活徹夜祭―恩寵の水(大阪)

ワリエ神父 2024年3月30日

親愛なる信者の皆さま、

この聖なる夜、教会は、水を、恩寵の水として強調します。
洗礼水の祝別と、洗礼の約束の更新から抜粋しましょう。

「主の霊が水の上を舞っておられた。それは、その時でも、聖化する力を水の本性が受けるためであった」(祝別)。
【水に、人を聖とする力を与えるために、…主の霊は、水の上を覆い給うた=毎日のミサ典書】

「天主は、悪徳の終わりと徳の始まりであることを示すために、…水によって、(洪水を通して)汚れた世の罪を洗い給うた」(祝別)。
【汚れた世の罪を、水によって洗うことにより、その同じ水をもって、人の罪を除き、徳に立ち返らせるために、洪水をもって、再生のかたどりを示し給うた天主よ。=毎日のミサ典書】

「天主は、荒れ野において、(水の)苦みを甘みに変え、水を飲めるものとし、のどの渇いた民をいやすために、水を岩より湧き出させ給うた」(祝別)。
【天主は、砂漠においては、水の苦みを取り去り、飲めるよい水とし、人々ののどを潤すために、岩より湧き出させ給うた。=毎日のミサ典書】

「(われらは)キリストの死において洗礼を受け、キリストとともに葬られた。…キリストは、死者からよみがえり給うたが、われらも、…新しい人生を歩まねばならぬ」(更新)。
【われらは、洗礼によって、キリストとともに死に、かつ葬られたのである。キリストは、死者からよみがえり給うたが、われらは、…新しい生活の道を歩まねばならぬ。=毎日のミサ典書】

旧約で、天主は、私たちの霊魂を清めるために、どのように水を用いるかを告知されました。
「私は、おまえたちの上に、清い水を注ごう。こうして、おまえたちは、汚れを清められる。
私は、おまえたちに新しい心を与え、おまえたちのうちに新しい霊を置こう。
私は、おまえたちの肉から、石の心を取り除き、肉の心を与えよう。
私は、おまえたちのうちに私の霊を置こう」(エゼキエル36章25-27節)。

「さあ、渇く者はみな、水に近よれ。金のない者も、喜んで近よって飲め」(イザヤ55章1節)。

キリストによって与えられる霊的な水は、「永遠の命に湧き出る水の泉」(ヨハネ4章14節)です。

復活節には、歌ミサの「アスペルジェス」は、「ヴィディ・アクアム」に変わります。
「ヴィディ・アクアム。私は、神殿の右の脇から流れ出る水を見た、アレルヤ。その水が到達した人々は、みな救われた」。
恩寵の水は、聖金曜日に刺し貫かれたキリストの脇腹から流れ出るのです。

親愛なる兄弟の皆さま、この聖なる夜、そしてこの復活節の間、私たちの洗礼の恩寵を思い起こし、罪の死から恩寵の復活の命へと移った者の人生を生きましょう。アーメン。


最後の晩餐で始まって十字架上の最後の息で終わったのは、一つの同じもの。私たちの救いをもたらした、主の命のいけにえだった。

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

聖木曜日(大阪)

ワリエ神父 2024年3月28日

親愛なる兄弟の皆さん、今日のミサは、夕方の最後の晩餐とほぼ同じ時刻に行わなければなりません。
キリストは最後の晩餐で、いわゆる「過ぎ越しの小羊」を食べられました。
その何百年も前、ファラオの頑なな心のせいでエジプト人の初子が殺された一方で、ヘブライ人は、小羊をいけにえとして捧げて食べるように言われ、小羊の血が彼らを天主の御怒りから守りました。
そして毎年、「過ぎ越しの祭り」(つまりユダヤ教の復活祭)の時に、ユダヤ人は記念の儀式として、家で過ぎ越しの小羊を食べなければなりませんでした。
そのため、キリストは、使徒たちとともに最後の晩餐をなさったのです。

そのほふられた動物は、聖書が「世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ぶお方のかたどりでした。
ですから、キリストは、ご聖体の秘跡を制定するために、そのユダヤ人の祭りの時を選ばれたのです。しかし、単に聖体拝領としてのご聖体ではなく、何よりもまず、ミサのいけにえとしてのご聖体なのです。
実際、最後の晩餐で始まって、十字架上のキリストの最後の息で終わったものは、一つのものであり、同じものでした。それは、私たちの救いをもたらした、私たちの主の命のいけにえだったのです。

ノブス・オルドの聖職者たちは、最後の晩餐は単なる食事にすぎないと述べて、食事としての新しいミサという考え方を正当化しています。そして彼らは、聖伝の奉献の祈りを、食事の前のユダヤ教の祈りに置き換えるまでに至ったのです!

事実およびカトリックの教理を率直に述べましょう。第一に、過ぎ越しの小羊を食べることは、普通の食事だったのではなく、定められた儀礼のある、家で行われる宗教的な儀式でした。第二に、ご聖体の制定とキリストのご受難およびご死去は、二つの異なる行為でも、二つの異なるいけにえでもありません。それは、キリストが最初は(ミサを考慮して)血を流さない方法でお捧げになり、最後に本当に御血を流された、一つの長く続くいけにえなのです。
したがって、ミサとは、血を流さない方法で捧げられるカルワリオのいけにえの更新、あるいは再現なのです。

今日のミサの最後に、「祭壇布の剥ぎ取り」の儀式があります。これは、私たちに、キリストが衣服を剥ぎ取られたことを思い起こさせます。また、私たちの心にも、キリストの肉体的、精神的な苦しみを思い起こさせましょう。

そのあと、私たちは、ご聖体を礼拝します。この聖なる夜のすべての出来事、つまり、最後の晩餐でのキリストの愛徳、ゲッセマニの園での恐ろしい苦悩、キリストの逮捕と屈辱的な夜の裁判、使徒たちによって見捨てられたことに、思いをはせましょう。

詩篇には、次のような預言があります。「私は共に悲しんでくれる人を求めたが、私を慰めてくれる人はいなかった。その人を探したが、見いださなかった」。

親愛なる兄弟の皆さん、今晩は、私たちが過去にしばしば行ってきたような、キリストを見捨てることがないようにしましょう。

キリストの傍らにとどまって、御悲しみの聖母との一致のうちに、キリストのご受難と一致しましょう。アーメン。


私はあなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。

2024年04月09日 | お説教・霊的講話

2024年3月28日 聖木曜日ミサ説教

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日のこのミサの直後に御聖体の移動式そして真夜中までの聖体礼拝があります。夜中まで御聖体を礼拝したい方は、どうぞ礼拝なさってください。

その間に告解をされたい方は司祭が告解室で待機しています。どうぞいらしてください。

「時が来たので、イエズスは、使徒たちとともに、食卓におつきになった。そしてかれらに "私は苦しみの前に、あなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。"とおっしゃった。」(ルカ22:14-15)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、今日はイエズス・キリストが、御聖体を制定なさった聖木曜日です。聖ルカによると、主は、この夜苦しみを受ける前に、この過ぎ越しを食べることを切に望んでいた、と書かれています。主は、私たちと一つになることをお望みになって、御聖体を制定されました。今日このわたしたちの主への、わたしたちの愛を黙想いたしましょう。

【イエズス・キリストの私たちへの愛】
「私はあなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。Desiderio desideravi hoc pascha manducare vobiscum.」(Luc. 22:15)

この言葉を幾つかの点において黙想いたしましょう。

いったいどなたがこの言葉をおっしゃったのでしょうか?それは主イエズス・キリストです。私たちが滅んでしまわないように、天から降られて、わたしたちのかわりに罪の償いを果たした、私たちを至福で満たそうとされる、天主イエズス・キリストです。
主は、無から全宇宙を創り出しました。目に見えるまた目に見えない全ての被造物は、愛によって全く自由に創り出されました。私たち人間について言えば、私たちが主と同じように幸せであるように、主の似姿にしたがって肖像にしたがって創りだされました。天主の超自然の命を受けることができるものとさえして創造されました。
主はわたしたちを無から創造されたばかりではありません。残念ながら罪を犯して主に逆らったのちであっても、罪の負債からわたしたちを解放するために、人間となられました。罪をのぞいて、罪の結果であるすべての苦しみと死をさえも受けることができるものとして人間となりました。そしてその苦しみを極みまで受けようとされました。その時に主は言われます。わたしはこの過ぎ越しを食べることを切に望んでいた。

これは何を言おうとしているのでしょうか?御自分の無限の愛を証明しようとしておられます。なぜかというとこれは御聖体の秘跡を制定すること、カルワリオの犠牲という秘跡を成就させることを云わんとしているからです。この御聖体、そしてカルワリオの生け贄によって、自分のあふれるばかりの愛を証ししようとされたからです。そしてわたしたちに全てを与え尽くしたいと思いました。つまり、主が云わんとしたことは、わたしたちを燃える愛によって、わたしたちにご自分の命を与えたいと、最も大切なものすべて与えたいと、ご自分をわたしたちにすべて与え尽くすことを望んでいると、いうことを仰っています。

ではこの言葉はいったい誰に向けられたのでしょうか?使徒たちだけにいわれたのでしょうか?いえ、教父たちによると、イエズスの聖心はこの言葉は、御聖体を拝領しようとするすべてのわたしたちのことを思っていわれた、と言います。わたしたち一人一人のことをすべて最後の晩餐のときに、聖木曜日に、考えておられて、わたしたちが御聖体を拝領しようとするたびに、主はこのことを言われます。「私はあなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。」つまり、わたしたちに向かって、「私は、この世の創造主である私は、道であり真理である私イエズス・キリストは、限りを知らない愛によっておまえたちを愛している。私の肉体も、御血も、霊魂も、天主の本性も、全ておまえたちに与え尽くしたい。このことを望んでいた」と言われているのです。
全宇宙を無から創造した全知全能の天主が、わたしたちのために人間となった天主が、わたしたちと一つとなるために、パンとなろうと、御聖体となろうと、された!それをのぞんでいた!と、いうことを表明しています。何という主の深い愛でしょうか!

【私たちのイエズス・キリストへの愛】
この最後の晩餐で御聖体が制定されたこの夜、私たちは何を思うべきでしょうか?私たちは御聖体において主を受けることを切に望まざるを得ません。わたしたちは主のご聖体の愛に、愛で応えたいと思います。御聖体を 愛で、愛をこめて、拝領したい。できる限りの尊敬と礼拝と感謝をこめて拝領したい。御聖体を心から渇望して、愛で燃え尽きたいと思います。

ではわたしたちは、主の愛である御聖体を拝領するために、どれほど熱烈な準備ができるでしょうか!
イエズス様ご自身、御聖体となりました。つまり御聖体には天主そのものがおられます。この世の全ての楽しみや富にまさる宝が御聖体に在しまし給うのです。
イエズス・キリストの愛の聖心が御聖体に在しますのです。全てにまさる善、そしてすべての善の源が、御聖体にはあります。
この無限の愛の神秘において、イエズス様は私たちに特別な祝福と最も貴重なお恵みを私たちに注ぎたい、あふれ出したいと思っておられます。
私たちの心は、わたしたち人間は、天主を知り天主を愛することができるように、超自然の命のために、創られました。
私たちの心は、イエズス・キリスト、まことの真理である天主を、愛するまで、安らぎを知りません。光、力、またわたしたちの本当の友であるイエズス・キリストこそが、私たちの本当の喜びや本当の幸せです。
主がどれほど愛に満ち甘美な御方であるか、その愛を、この聖なる夜に味わいましょう。どうぞ愛をこめて、イエズス・キリストへの感謝をこめて、心からの礼拝をこめて、御聖体を拝領なさってください。そしてそのことがよくできるために、イエズス様に御助けを請い求めましょう。地上の物事からの愛着から離脱することができますように。また、主の聖寵の働きを妨害するようなすべてのものをわたしたちの心から取り除いてくださるように、お祈りいたしましょう。

【遷善の決心:今日の御聖体拝領】
最後にマリア様にお祈りいたしましょう。私たちがイエズス様の愛の深さを少しでも垣間見ることができますように。そしてそれに愛をもって答えることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母の目を通してイエズスの御受難を黙想し聖母の苦しみに与る―その理由。

2024年04月09日 | お説教・霊的講話

2024年3月22日(金)「童貞聖マリアの七つの御悲しみ」大阪ミサ 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

あと一週間で聖金曜日です。その前に教会は常に、聖母の七つの悲しみの記念を行っています。

特に、聖ピオ十世会のシスター会そして奉献修道女は、悲しみのマリア様に捧げられているので、この記念を一級の大祝日として祝っています。教会の精神に従って、マリア様の目を通してイエズス様の御受難を黙想いたしましょう。そして、マリア様の御悲しみに与ることにいたしましょう。

なぜ、マリア様の目を通してイエズス様の御受難を見て、またマリア様のこの苦しみに与ろうとするのでしょうか。その理由を黙想することを提案します。

【1:聖母はイエズス・キリストがどなたであるかよく御存じであった】

ひとつは、イエズス・キリストがどなたであるかということを、わたしたちは深く知らなければならないからです。知れば知るほどそのご苦難の意味が分かるからです。もしもイエズス・キリストがどなたかを知らなければ、その意味が、ポイントが、わからないのです。

イエズス・キリストは、まことの天主であって、まことの人です。もしもただの人であれば、イエズス様が苦しんだ、それがいったいなんなんだ・・・。冤罪をかけられた人が二千年前に亡くなった・・・。たったそれだけで終わってしまいます。しかし、「人となった天主が苦しまれた」のであるので、そこにわたしたちにとっての意味が出てきます。

もしもイエズス様がただの天主で純粋な天主であるのであれば、主は――天主は苦しむことも死ぬこともできませんから――ただの演劇になってしまう。

しかし、イエズス・キリストはまことの天主そしてまことの人であるので、本当に苦しまれました。わたしたちよりももっと敏感に苦しまれた。なぜマリア様の目を通して御受難を見るかというと、マリア様は天主がどなたであるか、そしてイエズス・キリストがどなたであるかどのようなかたであるかということを、最高に一番よく御存じであったからです。ですから、マリア様の目を通してみることによって、わたしたちは御受難の神秘がより深く理解することができるのです。

【2:聖母の目で御受難を考える】

第二は、では、イエズス様がまことの天主であり、まことの人であったということを、マリア様がどのように見ていたのでしょうか。

天主は、永遠の昔から、永遠にかけて、無限に幸せであって、充足していて、何一つ必要とするものもない、最高のしあわせを得る、愛の天主です。この愛を、天主は、まったく自由に愛と憐れみによって、ご自分の永遠のしあわせを他のものにも分け与えたいと思いました。そして全く自由に、無から、何もないところから、被造物を造ります。天使や私たち人間を造って、そして、ご自分の無限のしあわせを永遠のしあわせを与えようとされました。ただ愛によって。もちろんそのためには、その愛を受けるためには、その天主の愛の永遠の三位一体の至福の中に入るには、わたしたち人間が被造物が真理を知り善を愛する、天主を認識して天主を愛するという能力がなければなりません。自由に愛するという能力がなければなりません。しかも、それを乱用することができるような、それほどの自由を与えなければなりませんでした。そして愛とあわれみによって、ご自分の似姿に寄せて、ご自分の肖像に似せて、わたしたちを天主の像として造られました。眼に見える被造物の世界の最高の傑作を造りました。人間です。これはわたしたちが天主のように幸せになるためでした。

しかし、人間はこの自由を乱用して愛を裏切ります。主を愛し続けませんでした。自分を愛しました。しかし、この全能の天主、無からわたしたちを愛によって造ってくださったこの天主がわたしたちのために苦しまれた、ということをマリア様はよく御存じでした。この天主は、わたしたちを天主のようにするために、天主の像に従って造ったのみならず、ご自分がわたしたちの罪を贖うために、わたしたちに代って苦しむことができるために人間となることさえもお望みになりました。そんな必然性もそんな必要も全くありませんでしたが、まったく自由に愛によってあわれみによって人間となりました。ただ単にかわいい赤ちゃんになった――この全宇宙さえもその中に入り切れない偉大なる天主が小さな赤ちゃんになったのみならず、罪によって死に苦しみそして罰を受けなければならない私たちのようになって、まったく同じに――罪以外すべて同じになって、わたしたちを天主の永遠のしあわせに導こうとさえしました。マリア様はそのことをよく御存じでした。イエズス・キリストが、まことの天主でありまことの人であり、苦しむこと、敏感に苦しむことができるということを御存じでした。

マリアさまは、この目の前で、御子が十字架の不当な宣告を受けて、そして苦しめられ、十字架につけられて、死し給うのを、目撃します。そして、そのイエズス様の御苦しみ、御痛み、御悲しみ、その天主御父から捨てられ人々から捨てられたその苦しみ、その拷問のような嘆きを、自分のものであるかのように感じ取っておられました。それと同時に、人となった天主がどれほど人間を愛しておられるかを、深く理解しました。わたしたちが察するのはほんのちょっとであって、わたしたちはただの理論でそう考えているだけかもしれませんが、しかし、マリア様はそれを現実のものとして、現前に目の前にして、それを感じ取っていました。それと同じ苦しみを、苦しんでいました。イエズス様の呻(うめ)き苦しみその声を、直接に聞いた方であるからです。イエズス様が幼いころから、どのように成長していたかを、すべてご存じの御方であるからです。

【3:聖母とともに、聖母の苦しみにおいて、主の御受難を黙想する】

では、マリア様の目を通して、イエズス様の御受難を黙想するのみならず、マリア様と共に、それをわたしたちが黙想するのはいったいなぜでしょうか。なぜかと言うと、イエズス様の愛は、ご自分が苦しむのみならず、人類のアダムとエワの愛の裏切りを、同じようなやり方で贖おうとされたからです。イエズス様はわたしたちのなかからマリア様をお選びになって、第二のエワとしてお選びになって、この二人で、わたしたちを贖おうとされたからです。それほど人類を、わたしたちを大切にされて、一緒に贖いをすることをさえも望むほどわたしたちを愛されました。マリア様は、わたしたちを代表して、イエズス・キリストとともに、第二のエワとして贖いの苦しみを――恐るべき苦しみを二人で耐え忍んだのです。

すべてはわたしたちを愛するためであり、わたしたちへの愛の現れであり、あわれみの最高の表現でした。これを見ると、このわたしたちは、イエズス様の愛の深さとあわれみの広さとその智慧の高さ、そして、それと同時に人類がどれほど愛を受けつつも主を悲しませているか、その罪の醜さに圧倒されるばかりです。

マリア様に今日はお祈りいたしましょう。マリア様の目を通して、イエズス様のあわれみと愛の贖いの業の神秘の中に深く入って、それを少しでも理解することができますように。理論だけではなくて、わたしたちもそれに参与することができますように。マリア様と同じように、マリア様と一緒になって、わたしたちも十字架のもとに佇むことができますように。わたしたちも、わたしたちの人生をわたしたちの生涯・生活を、それに添えることができるように、マリア様の特別の御取り次ぎをこい願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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