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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第12号 ― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

2016年04月30日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第12号

*** 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です! ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

今年の聖金曜日は3月25日ですから、天主の御摂理は、二つの最も偉大なる信仰の神秘を一つにして黙想することで、私たち自身を聖化する方法に私たちを導きたいと望んでおられます!

(通常は3月25日であるお告げの祝日の)ご托身の神秘を、主のご受難と一つにさせるものは何ですか?

 謙遜です!

両方の神秘において、私たちは屈辱のまったくの頂点を目の当たりにするのです。3月25日(お告げの日)に天主は人となられ、まるでほとんどとるに足りないものになることによって、ご自分を無にされました。天主の御母、天と地の元后は、ご自分を主の最も謙遜な奴隷としかお考えにならないのです。

聖金曜日には、御子と御母はお二人とも、邪悪で、「うじ虫で、人間ではな」く、人間に捨てられたもの、らい病者…のようにみなされるという最大の不名誉のうちに無となられました。

私たちがただしなければならないことは、謙遜において無原罪の聖母に従い、聖母に倣うことだけです。聖母はなぜ、すべての聖人の中で最も偉大な方になられたのでしょうか? それは、聖母の謙遜によってです! 謙遜によって、いとも聖なる童貞マリアは完全にご自分から離れられ、天主のものではないすべてのものをご自分からなくされました。聖母の霊魂は貧しく、自分の「所有する」ものは全く何もありません。金でできた貴いカリスのようです。貴い液体を満たすために、このカリスは空っぽで、ほんのわずかなほこりもないものでなければなりません。貴い液体は、他の何とも混ざることなく、その新鮮さが保たれなければなりません。

マリア様の人生は謙遜の行い、屈辱の連続です。その人生は、最も謙遜な霊魂のまま揺るぎがない状態です。しかし、前提として、聖母の謙遜と、他のすべての人々の謙遜との間に大きな差があることに注意すべきです。人々は第一に、原罪と多くの個人の罪を原因とする、自らのあらゆる悲惨な状態を見ることができます。彼らの霊魂の廃墟と化した宮殿のような屈辱的な光景が、その謙遜の主な原因です。

マリア様の謙遜は罪の意識によるものではなく、それはマリア様がいかなる罪も決して犯したことがないからです。マリア様の謙遜は愛の謙遜、天主の友情を受け入れた友の謙遜であって、マリア様は、この友情が完全に公平で純粋な賜物であり、まったく功徳によらない恩寵であることを知っておられます。ご自分に授けられた賜物の計り知れないほどの偉大さを知っている愛すべき浄配(聖母)は、全くの献身と自己否定の行いで応えられます。

この比類なき謙遜な霊魂は、天主の美しさを非常に喜ばれ、天主の偉大さ、天主の無限の完全さに非常に心を奪われておられるため、その望まれることは、天主が自由にマリア様に与えられるすべてのものについて、ただ天主を讃美することです。天主とは何か、天主がお与えになるのは何かを知れば知るほど、マリア様の謙遜は増していきます。ですから、マリア様はその賛歌「マグニフィカト」で、こう歌われます。「けだし全能にまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」。

従って、マリア様の人生で起こることは、私たちの人生で起こることとは逆です。私たちは自分に徳や才能を見いだせば見いだすほど、そしてそれを伸ばせば伸ばすほど、すべては自分自身の力だと思う危険、自分自身を喜ぶ危険が大きくなります。観客の前で披露すること、他人を自分自身で喜ばせること、注目を集めること、賞賛されること―これらはすべて、私たちの人生に満ちあふれている古典的な高慢の例です。

マリア様は、ご自分の霊魂にある宝を知っておられましたが、そこにそれらの宝を置いたお方を忘れてはおられませんでした。しかし、私たちは、自分の才能や強さ、徳を自分の力だと考えます。賜物の与え主としての天主は、私たちの視界から消えているのです。私たちは、アヴィラの聖テレジアの賢明な言葉を忘れるのです。「謙遜は、天主の賜物を無視することにあるのではなく、その賜物がどこから来たのかを学ぶことにあるのです」。

マリア様の人生における特定の各出来事を考察すれば、私たちもまた、謙遜についてのさまざまな特性と表現を学べます。今特に、マリア様の秘密について黙想しているときに起こってくる問題を自問することは価値があります。すなわち、私たちは、これらの深遠な真理を生きる(実現する)のか? 人生における最高の誤りなき模範として私たちに与えられたマリア様に、私たちはどのようにして倣うのか?

まず(聖母の無原罪の御宿りとご出生の後)、私たちが見るのは、エルザレムの神殿にいる幼い子どもとしてのマリア様です。多くの教父や神学者によれば、聖母は「scientia infusa(天賦的知、すなわち天主によって注ぎ込まれた知)」を受けておられ、その存在のまさに最初の瞬間から、天主によってあらゆる知識を持つという特別な権限を与えられておられました。従ってマリア様は、聖書全体だけでなく、聖書の最も深い意味をも完全に知っておられました。

しかし、何年もの間、マリア様は、人々からその知識を隠しておられただけでなく、神殿の当局者によって育てられ、教育される間、辛抱強く服従されました。神殿の司祭がユダヤ教の決疑論についての授業をしたとき、マリア様は辛抱強く耳を傾けられました。マリア様はまた、律法学士の教えに耳を傾けられましたが、主イエズスは後に彼らを、文字にとらわれて霊を殺すと非難なさるのです。

次に例を示します。「いつ朝の祈りを始めるべきですか? 夜明けの、光が夜の青さに対して目立ち始めるときです。しかし、それはどの程度の青さですか? 山のような青さですか、それとも空のような青さですか? それに、どんな見え方ですか。穏やかですか、それとも鋭い感じですか?」。その教えを受ける生徒は、すべての解釈を知らなければならず、一人の師が一つの方法を教え、別の師が別の方法を教えたことを知らなければなりませんでした!

ですからマリア様は、ご自分が経験することをただ退屈に思ったり、それらに批判的になるあらゆる権利を持っておられました。それでもなお、マリア様は神殿の当局者に服従なさったままでした。謙遜のこの面はdocilitas(従順、服従)です。確かにこの時点で、マリア様は偉大で素晴らしいことを学ばれ、それをさらに大きな愛のために用いられました。その反対のことが私たちに起こります。私たちがいったん神学的知識を得れば、それが誰かによって繰り返されるのを聞いて、私たちはすぐに退屈だと意志表示します。私たちが誰かよりも多くを知っていると思う場合は、自分が優位にあるのを誇りとする感覚が私たちのうちに起こり、私たちは他の人たちに軽蔑を見せようとします。しかし、私たちはそのような状況からも利益を得ることができるのです。なぜなら、知識の10%だけでも私たちにとって新しいものである場合、あるいは私たちが知っている主題の新たな一面を発見した場合、私たちは天主にさらに近づくことができるからです。

また、天主の神秘は無限であり、謙遜な従順(docilitas)の行いに対して、天主はしばしば、何年もの真剣な研究で得ることができる以上のものを与えてくださいます。天主の霊感から、マリア様は貞潔の誓いを立てることによってご自分を天主に奉献なさいました。これは、童貞聖マリアの奉献の祝日として、典礼暦にあります。

神殿の当局者は童貞性に対して非常に否定的な態度をとっており、子のいない女性を天主によって呪われたものと見なしていました。それゆえに彼らは、結婚生活以外の、女性のまともな生き方を知りませんでした。当時、両親が子どもの結婚を決めましたから、女の子が神殿で奉仕するために送られたとき、神殿の当局者は親の責任を引き継ぎました。その時代の女の子は、結婚したいかどうか、また誰と結婚したいかについて尋ねられることはありませんでした。神殿の当局者は、女の子のためにただ夫を選んだだけでした。ですから、彼らはマリア様にそうしました。ダビド家のヨゼフをマリア様のために選んだのです。

マリア様が、ご自分の霊魂の状態について何も理解していなかった人々に対して逆らわないため、いかに多くの謙遜が必要であったのかは簡単に分かります。童貞のままでとどまりたいというご自分の意向に対して、ヨゼフがどのように反応するかという恐れを克服するため、どのくらいの忍耐と信頼が必要だったでしょうか。このような状況では、女の子たちは通常、心では逆らい、天主に不平を言い、天主に対してささやくものでした。

マリア様は謙遜な信頼を保ったままでした。謙遜であることの素晴らしい表現のひとつは、盲目的に神の御摂理を信頼することです。私たちが問題の解決法を見つけられないとき、すべてが失敗や悲惨な状態になろうとしているとき、すべてがもう失われたように思えるとき、資源を使い果たしてしまったとき、そして自分が無力だと体験したとき、混乱や心配をすることなく、詮索もすることなく、すべてを天主にお委ねし、辛抱強く待つべきです。これは謙遜の頂点です。謙遜であって自分の惨めさと無力さを知っている人は、一生懸命に天主のご意志を行おうとしますが、いつでもどこでも、何とかしてすべてを与えてくださる天主からすべてのものが与えられることを期待しています。

最も重要な瞬間であり、謙遜が最大に現れたのは、受胎告知です。その瞬間、すべてはただ謙遜だけしかありませんでした。偉大な天使ガブリエル(その名は「天主の力」を意味します)は、最大限の謙遜をもって少女の前で深くおじぎをしました。それから、マリア様の謙遜が示されました。そしてついに、謙遜の頂点、人間の肉・本性への天主のご托身がありました。

その決定的な瞬間に、マリア様の中で何が起きていたのでしょうか? マリア様は、天主の本質、天主の御稜威、天主の無限についての黙想に集中なさっていたのを、私たちは知っています。マリア様は、天主がすべてのものの絶対的な主であるという真理を熱愛なさいました。でも天使がマリア様の前に立ったとき、マリア様は深く心を動かされました。マリア様は天使の挨拶を聞いたとき、同様に心を動かされました。誰もそんな言葉を聞いたことはなかったのです! マリア様は、「聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられた」という言葉が何を意味するのか、完全に理解されました。ですから、「これを聞いて心乱れ」られたということは、マリア様はこのような名誉の背後にある理由が分からず、すべての人々の中で最も小さい者であるご自分が、なぜそんな賜物を受けたのか理解できなかったということです。天使は話しました。そして、マリア様が最大の名誉、天主が被造物に授けることができる最高の賜物を受け取ったことが明らかになりました。マリア様は天主の御母となり、いとも聖なる三位一体への最も親密な命に導かれました。それに対するマリア様のお答えは何だったでしょうか? マリア様が最初に発した言葉はこうでした。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか?」。これが、天主のご意志を行うための、マリア様の唯一の心配事です。天主のご意志を行うことは、聖なる童貞性を天主に奉献することにあると、マリア様はあらかじめ理解しておられたからです。

そこで天主は、マリア様に夫として聖ヨゼフをお与えになることによって、マリア様の童貞性が守られることを厳粛に承認されました。この男性は、マリア様の童貞の誓いを尊重するだけでなく、まったく同じ理想を持っていたのです。従って、童貞の捧げものによって、マリア様は天主に完全に自分自身を捧げ、天主の御あわれみに限りなく自分自身を開くことができたのです。そして今、マリア様はメシアの御母になろうとしていました。自然の秩序では、これら二つの現実、つまり童貞であって同時に母であることはできませんから、マリア様は説明を求めて天使に尋ねました。すると天使は、預言者イザヤによって七百年前に予告された偉大な奇跡を説明しました。「見よ、おとめが身ごもる!」。天主には不可能なことは何もないという結論を目の前にして、マリア様は「フィアット(われになれかし)」を言われ、同意をお与えになりました。

非常に敬虔な、聖人のような人であっても、このような状況にあれば、天主がまさに自分をお選びになったという満足感を少し感じたかもしれません。次のように思うのは簡単でした。「このような名誉を与えられたことは何と素晴らしいことでしょう、他の人々に対して私はどんなに多くのよいことをすることができるのでしょう、私にこのような名誉を与えてくださるとは、なんとお優しい天主でいらっしゃるでしょうか」。ほんの少しでも自分自身に喜びを感じることがないというのは、そのような瞬間には困難なことです。では、マリア様は? マリア様は、すべての被造物の中で祝福され、人類で可能な最高の名誉を受けるよう選ばれましたが、それがすべての天主の賜物であることを完全に知っておられました。いと高き御者は御あわれみによって、マリア様の偉大な使命にもかかわらず、自分では何も持たないはしためであるマリア様の謙遜をご覧になりました。マリア様は、天主の創造のみわざによって、無からつくられました。マリア様は自分のものは何も持っておられませんでした。マリア様の中にあるすべての美しいもの、すべてが美しいと私たちが知っているものは、天主によって与えられました。天主の無限の御稜威と、マリア様自身の無限の無を考察して、マリア様は論理的な結論を引き出されます。「御身はすべて、われは無。御身はわれにおけるすべて。仰せのごとく、われになれかし。われは主のつかいめなり!」。私たちは知っています。この完全な信心が、そのお返しとして、失われた世界に救済をもたらす天主の本性からあふれ出る天主の愛の大海を動かしたことを。

一日三回、私たちは、お告げの祈りでこの神秘を思い起こします。三という数字は、充満、全体、不変、持続を表します。三度の祈りは、一日を通して私たちがいつもマリア様の謙遜に倣うべきであることを意味します。これにより、教会は、世界の救いのための受胎告知の重要性だけでなく、謙遜の徳の重要性をも強調するのです。この出来事で、謙遜が、その最も深い本質において、完全なる自己放棄、完全なる天主への信心、天主への回帰であることが示されています。マリア様のお答えがこれをなんとよく示していることでしょうか。Ecce ancilla Domini(ここに主のつかいめがおります)。この言葉には、人称代名詞の「私」はありません。人間の言語の中で最も大きな従順さを伝える言葉、つまりancilla―つかいめ、奴隷という言葉しかないのです! マリア様は常に最も謙遜で、天主の御前で自分を無とお考えだったのです。

お告げのとき、マリア様の謙遜は試され、最も過酷な試練を受けました。マリア様は、ご自分が地上にいるすべての人々に勝っているだけでなく、位階において、天のすべての天使より無限に勝っているというメッセージをお受けになりました。天と地の元后であり、天主を除いて、最高にして最も偉大で最も力あるお方…。実際、人がそんなメッセージを聞くと、めまいを感じますが、マリア様の場合は、それほど大きな名誉を与えられたにもかかわらず、平安のうちに、御自ら唯一聖にして偉大である天主とご自分の中におられる天主への静かな礼拝を育まれたのです。

マリア様の謙遜は、お告げの直後にも現れました。急いでザカリアとエリザベトの家へ行き、家事やささいな仕事を行い、こうして従姉を助けられたのです。

マリア様は、謙遜な人々、屈辱を受ける人々とさえも付き合いを求められました。そのような人々の中にいる時にのみ、マリア様は心安く感じられました。ザカリアとエリザベトは、律法の細則に正当性を見つけるのを誇りとしていたファリザイ人とは逆に、慈悲深い天主からの助けと救いを、天主の約束への信心と信頼を通して待っていた数少ない謙遜な人々の内に含まれる人たちでした。また、二人は世間から侮辱されていました。結婚していても子どもがいないことで、二人は天主によって罰せられ、天主に呪われているとさえ見なされていました。ザカリアがものをいうことができなくなり、天主への奉仕を終えてもおしであった時、それはこの呪いの明確な証拠であると村の人々は信じました。多くの人々は、それが彼の隠された罪に対する天主の罰であると信じたのです。そのため、彼らはザカリアを軽蔑しました。しかし、ザカリアはどんな言い訳もせず、書面または手話で説明することもしませんでした。

これもまた、謙遜の大きな現れです。私たちは皆、天主の御前では無ですから、謙遜な霊魂は、この真理を認める人々を好みます。また、地上では謙遜は常に屈辱を伴うため、謙遜な霊魂は屈辱を受け入れる人々に、特に甘んじて天主の御手で屈辱を受け入れる人々に引きつけられます。マリア様がザカリアとエリザベトの家を訪問なさったときに、心を開いて賛歌「マグニフィカト」を歌われたことは、この意味において理解すべきです。

謙遜のもう一つの側面は、最も重要なこと、つまり天主の御あわれみについて、無である私たちを満たそうと望まれる天主の聖心の偉大さについて思い起こすことです。しかし、天主はこのことを謙遜な霊魂にだけ行おうと望まれます。賛歌「マグニフィカト」は非常に複合的な祈りであって、全能である御者を讃美する新たな方法を継続的に探し求めずにいられない謙遜な霊魂の状態を伝えています。

謙遜のもう一つの側面は苦しみです。謙遜の行いそのもの(これは天主の方に向かおうとする霊魂の状態です)は、多くの場合、他の被造物に関して苦しむことにつながります。謙遜な霊魂が天主の聖心の偉大さの前に自分自身を開くと、天主はその霊魂に天主の無限の神秘を与え給うのです。この神秘は無限ですから、その霊魂は自分の心に起きていることを他人に語ることはできないか、また時には語ってはならないのです。その霊魂の最も親しい友人たちでさえ、そのときにはもはやその霊魂を理解することはできません。友人たちは、このために苦しみ、その霊魂も苦しみます。彼らは誤解され、あるいは拒否さえされたように感じ、引き下がり、そして古い友情と親密さが次第に消えていき、なくなってしまうかもしれません。

マリア様が身ごもったと知ったときの聖ヨゼフの苦しみは、この意味において理解すべきです。聖ヨゼフには、愛する人のもとを去り、自分は引き下がり、最愛の人の周辺から消える以外の可能性を見いだせませんでした。消える覚悟をするということは、自分が無であると認める行いでした! この覚悟はまた、聖ヨゼフが圧倒された御稜威をお持ちである天主の神秘的なやり方や命令に直面した際の謙遜の行いでもありました。

しかし、天主は常に謙遜の行いに報いられます。必要であれば、天主は奇跡を使ってでもそれをなさいます! そして、謙遜な霊魂は、天主を喜びにおいて信頼するだけでなく、苦しみにおいても信頼するのです。最後に、この世では謙遜は事実上、常に屈辱と結び付いています。堕落した被造物である私たちの場合は、屈辱なくして謙遜の徳を得ることは不可能です。マリア様は、原罪のけがれから守られていたという異なった状況でしたが、この点においても謙遜の模範となるために、私たちに比べ無限に大きくかつ多数の屈辱を自発的に受け入れられました。証明され、試された謙遜のみが真実のものです。「あなたがたのための部屋はない」という言葉がベトレヘムで発せられた瞬間から、マリア様は御子の屈辱にあずかられました。御子は御体においてその屈辱に耐えられる一方、マリア様は御心においてその屈辱を受けておられました。粗末な洞窟の中で天主の御子を生むという屈辱、逃亡者である屈辱、言葉で表せないほどのエジプトでの流浪の屈辱、ナザレトでの貧困の屈辱(その有力な証拠はロレトの家です!)、マリア様ご自身が悪しき人々の御子に対する敵意が増えていくのを経験された、イエズス・キリストの公生活の間の数多くの屈辱など。

キリストが全くの肉体的な無へと向かわれたとき、このすべてが屈辱の頂点にまで至りました。その瞬間、マリア様は、霊的に無となられ、十字架の下に立ち、そこで動かずにお立ちになったままでした。マリア様は、この最も過酷な試練に置かれたとき、引き下がることなく、動揺することなく、ためらうことなく、不平を言うことなく、逆らうことのない謙遜を示されました! それ以上に、これは、最も高貴な特性を示すことを完全に放棄した人の謙遜でした。

御子のためだけに生きておられるマリア様は、御子の代わりに、私たちをご自分の子どもとして受け入れられました! 最も聖なるお方の代わりに、マリア様は罪びとを受け入れられ、天主の愛の代わりに、マリア様は私たちの冷たさと無関心を受け入れられ、美の代わりに、怪物のような醜さを受け入れられました。そしてマリア様は、心をこめて天主のご意志を受け入れられました! 見よ、謙遜の頂点を!

これらの考察の助けによって、特にこの四旬節という聖なる期間に考察することによって、インマクラータの謙遜で悲しみに満ちた御心の中に入ることができ、私たちも心が謙遜になるように助けてくださるよう聖母に願うことができますように! そうすれば、槍にて貫かれたる主の聖心から流れ出る恩寵が、豊かに私たちを満たし、聖化し、変容させてくださるのです!

ジェネラル・サントスにて、2016年2月14日

カール・シュテーリン神父

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(ファチマに向けて この手紙は、ここまでですでに非常に長いため、皆さんは1917年5月13日の出来事に関連する別の手紙を3月の初めに受け取ることになります)

シュテーリン神父のすべての手紙は、ウェブサイトの Publication/Letters の階層にあります

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

パーフォーマンス課題にチャレンジしてみて下さい。Try this Performance task

2016年04月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
Ave Maria Immaculata

愛する兄弟姉妹の皆様、

「真性パーフォーマンス課題」と言われているものを提案したいと思います。これの目的は私たちのカトリック信仰の理解が深めるためです。ただ頭の中で知っているだけでなく、それを使うことができるためです。単語や文章の意味だけではなく、自分で発見して何故かの理由が説明できるようになるためです。

 もしよろしかったら、GRASPS によると言われている、パーフォーマンス課題にチャレンジしてみて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


この課題の目的:
日本の歴史におけるカトリック教会について理解を深めること。
日本においてあまり知られていないカトリック教会の歴史についてもっと知りたいと興味を抱くようになること。

この課題を実行するに当たって、背景になる疑問
日本において、特別に知るに値するカトリック信仰の実り、記念碑、場所、出来事とは何があるか。何故それらが、日本におけるカトリック信仰を代表するのか。何故重要なのか。
日本において、キリシタン時代には、いつどこで何が何故あったのか。
聖フランシスコ・ザベリオが日本に到着した後の100年間(1549-1649年)、日本におけるカトリック教会には何が起こったのか?
いろいろな国籍の多くのカトリックの先祖たちは、何故信じられないような拷問や苦しみを終わりまで耐え抜くことができたのか。
拷問を苦しみ抜いていったいどのような利益があったのか。
カトリック教会を迫害した人々の動機は何なのか。迫害した人々は幸せだったのか?どのような終わりを遂げたのか。
様々な国々のいろいろな時代に亘る殉教者たちの共通の特徴はあるか、あればそれは何か。ローマ帝国や、李氏朝鮮、ヴェトナム、イスラム諸国におけるカトリック殉教者と、日本の殉教者とを比べると、どのような違いとどのような似ている点があるだろうか。
もしも聖フランシスコ・ザベリオの来日の時代の日本に生まれていたとしたら、私はカトリック教会のために、日本のために、何ができただろうか。

役割(Role):
小教区教会の主任司祭から依頼を受けて、東京におけるカトリック関係の観光ガイドを一日することになった。

対象(Audience):
日本に観光・巡礼に来たフィリピンのカトリック信者の観光客(日本は初めて)


想定状況(Situation):
今年の5月に、フィリピンから初めて巡礼・観光に日本に来る10名からなる観光団体のために、一日、東京見学を計画するように、東京都内の或小教区の主任司祭によって依頼されました。
グループはその日は文京区で朝七時から聖伝のミサに与って、午後の七時まで自由時間があり、日本と、日本におけるカトリック教会と、日本とフィリピンについて、文化的、歴史的、地理的、経済的、政治的な理解が深められるような場所を訪問することを望んでいます。
ただし旅行のための予算はあまりありません。

パーフォーマンスで求められていること(Product Performance and Purpose):
出発地は文京区で、終点地は上野になるような一日の観光計画を立てること。単に訪問場所と道のりだけではなく、何故、その場所を選んだのか、その場所の重要性、関連性、意義、歴史性、などを、主任司祭に説明する必要があります。
司祭が良く理解できるように、地図(パワーポイント)などの視覚資料を使って司祭に説明して下さい。


パーフォーマンスの評価のスタンダード基準 (Standards and Criteria for Success):
次の点に照らし合わせて評価されます。

*選ばれた訪問場所の重要性、意義。日本とカトリック教会とにとってどれほどの意味の深さを持っているかその理由。
*日本人にとってだけでなく、外国人観光客にとっても、意義や重要性を見いだせるか。
*選ばれた訪問場所を、訪問する物理的・経済的な制約が考慮されていて、現実的であるか。
*説明は、はっきりしていて、明確で、分かりやすく、説得力があるか。
*視覚資料は、有効に選ばれていて、説得力を増すものであるか。


2016年4月15日から18日までの聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN

2016年04月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 熊本地震で被害に遭われた皆さまには、心よりお見舞い申しあげます。

 4月15日、16日には大阪で、4月17日の主日、18日には東京で聖伝のミサを捧げることができました。天主様に感謝!

 16日には大阪で土曜日のミサの後に、17日には東京で午後の2時半から、公教要理の時間に、長崎巡礼の準備のためにも、パワーポイントを使って長崎の16聖殉教者について講話をいたしました。東京でのお話の時には、欲張りすぎて、あまりにも多くの内容をカバーしようとして、よく言われるように結局最も大切な内容をカバー(覆い隠して)してしまったのではないかと反省しております。

 長崎の巡礼を準備しつつ、西坂という聖地、雲仙岳のある島原、何万という英雄的な殉教者たちの大群を生み出した長崎の土地は、日本のカトリック教会の誇るべき遺産であり宝であるとますます思いを深めました。

 明日から始まる巡礼の準備のために、愛する兄弟姉妹の皆様にご報告をするのが遅れてしまいました。どうぞ、ご容赦下さい。

 ところで、アジア管区長のシュテーリン神父様のご意向によって、ロザリオの後で唱える呼祷を次のように、宣教地の守護の聖人である聖テレジアにも祈りをして、「幼きイエズスの聖テレジア、我らのために祈り給え」をつけて下さい。

主よ、我らに司祭を与え給え。(繰り返す)
主よ、我らに聖なる司祭を与え給え。(繰り返す)
主よ、我らに多くの聖なる司祭を与え給え。(繰り返す)
主よ、我らに多くの聖なる修道者の召命を与え給え。(繰り返す)
主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。(繰り返す)
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え。
聖ピオ十世、我らのために祈り給え。
聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え。
幼きイエズスの聖テレジア、我らのために祈り給え。
日本の尊き殉教者、我らのために祈り給え。


 また、ファチマ100周年を準備するために、聖母の汚れなき御心の凱旋のため、教皇様がロシアを聖母の汚れなき御心に奉献するために、フェレー司教様は今年の8月からロザリオの十字軍をもう一度起動させるご計画です。愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご参加をお願いいたします。


 以下のようなご報告をいただきましたので、ご紹介いたします。


"O Maria sine labe concepta, ora pro nobis, qui ad Te recurrimus et pro omnibus, qui ad Te non recurrunt, et praesertim pro massonibus et commendatis Tibi".

ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る我らのために祈り給え。
また御身により頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられしすべての人々のために祈り給え。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。
遅くなって申し訳ありません。

4月15日(金)ご復活後第二主日の平日には9名が
4月16日(土)聖母の土曜日の随意ミサ12名の方々御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

15日は善き牧者の御ミサでしたので、お説教では善き牧者について黙想いたしました。
善き牧者である条件は、①羊のために命を捨てる ②羊のことをよく知っている。(羊も私の事をよく知っている。)
私達のためにご自分の命を捨てられ、私達の事をよくご存知だからこそ必要なすべてをお与え下さ るイエズス様の事を黙想していていると
嬉しくて、ありがたくて、もったいなくて、感無量になりました。
イエズス様を認め、その創造、贖い、御聖体の秘跡などを通してイエズス様の声をよく聞いて良い羊になりたいと思います。

土曜日の御ミサの後には日本の16聖人についてスライドショーを見ながら勉強いたしました。
あまり日本では知られていないこの聖人方ですが、26聖人と同じ西坂で残酷な穴吊りなどの刑で殉教されました。その拷問は本当に残酷で恐ろしいものであったにもかかわらず多くの聖人が微笑みをたたえながら殉教に耐え、天主様への信仰のため、御聖体への愛を最後まで現わしながら天へ召されたそうです。殉教された神父様方には、聖ピオ十世 会の神父様方を重ねてしまいました。
続きがあるそうなのでまた次回を楽しみにしています。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

4月15日と16日の御ミサ、そして長崎16聖人についてのお話など、色々ありがとうございました!!(o^▽^o)
日本26聖人は有名ですけれども、長崎16聖人については全く無知でしたので、詳しいお話をしてくださってとてもありがたかったです!拷問の話はいつ聞いても身の毛がよだちます。本当に、マリア様の特別の御助けに縋らなければ、堪え忍ぶことは不可能だと思いました。殉教者達にこれほどの聖寵を与えられる天主は讃美されますように!

今回、諸事情により御ミサ会場がいつもより小ぶりでしたが、そのおかげで、普段では絶対見ることができない、小野田神父様が御ミサを立てて下さっている時の細かい祭壇上の手の仕草や、ホスチアの聖変化までの経緯などを間近で拝見することができ、聖伝のミサの神聖さ、荘厳さ、司祭という身分の高貴さを改めて感じました。
そしてどのような場所でもきれいな祭壇を準備して下さるヨゼフさんファミリーにも心から感謝致します。

デオ・グラチアス!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私たちも、日本の殉教者やマリア様、イエズス様に倣って、この世では、祖国天国を目指す旅人であるということをいつも目の前に描いていることができますように!そして、大きなホスチアであるイエズス様と共に、小さなホスチアとなって犠牲を捧げ、私たちの隣人、友人、日本の方々と共に、遂には永遠の喜びである天国に導かれることができますように!

特に長崎の殉教者に、日本の回心の為にお取り次ぎをお願いしようと思います!
いよいよ長崎・秋田巡礼ですね!

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供1人)
計: 37人(内、子供2人)


今日は聖グリニョン・ド・モンフォールの帰天300 周年です

2016年04月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖グリニョン・ド・モンフォールの帰天300周年です。

聖グリニョン・ド・モンフォール、我らのために祈りたまえ!

我が主、我が天主。

2016年04月24日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月3日 白衣の主日に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月3日 白衣の主日
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年4月3日、白衣の主日のミサをしております。

今日このミサの後、14時半から、いつものように公教要理の勉強会があります。特に今回は、復活のイエズス様について、それから聖書の、聖書の歴史的な価値について、話を進めていきたいと思っています。16時からは第2晩課があります。

明日はマリア様のお告げの祝日です。3月25日が聖金曜日でしたので、明日に移動しています。7時からミサがあります。4月はもう1つ、2週間後の17日にもミサがあります、いらして下さい。

5月は残念ながら1回しかミサがなくて、レネー神父様がいらっしゃいます。5月は、5月の22日です。

 
“Dominus meus, et Deus meus.”
「我が主、我が天主。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟のみなさん、今日福音で、イエズス様が弟子たちにお現れになった、復活のイエズス様がお現れになった、2回の、2回お現れになった話があります。私たちは是非その、その場所に身を置いて、一体このイエズス様が2回お現れになったという事は、どんな事だったのか、歴史的に一体何が起こったのか、もしも私たちが今その場所にいたとしたら、例えばこの児童会館の、このミサの会場が、弟子たちの居た最後の高間の、最後の晩餐の高間で、ユダヤ人を恐れて、ドアも閉め切って隠れて、意気消沈していて、ひっそりとしていた、その中にイエズスが現れた、という事は弟子たちにとってどのような事だったのか、という事を黙想して、それから、イエズス様が確かに復活された、その復活はどういう事だったのか、という事を、聖書に基づいて見る事に致しましょう。最後に、この復活の決心を、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

もしも私たちが、復活のその高間に、最後の晩餐の高間にいて集まっていて、そしたらそれは一体どんな状況があったのでしょうか?それは私たちは、その歴史的なコンテクト文脈の中に身を置いて、一体弟子たちが何を考えて、何を思っていたのか、という事を考えなければなりません。この弟子たちの心の変化、復活の前と後の変化を、私たちは深く理解するようにしなければなりません。復活の前と後で、弟子たちの態度はガラリと変わります。このとてつもない変化に注意して下さい。

イエズス様は聖金曜日に、復活の3日前、聖金曜日に、お昼から午後3時にかけて、十字架に付けられました。ローマ帝国の、ローマ皇帝に逆らう反逆者として、2人の盗賊の間に付けられて、ユダヤ当局、宗教的に最高の権威の大司祭が、ローマ当局、政治上の最高の権威者であるポンシオ・ピラトから公式に、死刑の宣告を受けました。ただの死刑ではありません、極刑です。何故かというと、ローマ市民にはこれを与える事が許されていない、十字架の死刑だったからです。反逆罪でした。イエズス・キリスト様には「ユダヤの王、ナザレトのイエズス」という罪標が書かれていました。それが皆に分かるように、ラテン語とギリシャ語とヘブライ語で書かれていました。

そればかりではありません。その当時、このイエズス様を裏切ったのが、最も近い弟子だったのです。ユダがイエズス様を奴隷のお金で、奴隷の値で売り飛ばしました。一番の弟子の頭であったペトロは、女中の声に恐れて、「この人を知らない、俺は知らない、誓って言うから、知らない!」と言って逃亡しました。弟子たちは全て、イエズス様を捨て去って、隠れて、恐れのあまり閉じこもっていました。

そればかりではありません。イエズス様を信じて、その5日前までは、「ユダヤの王、ダヴィドの王にホザンナ!」と叫んでいた人々は、「十字架に付けよ!」と叫び、イエズス・キリストの事を信じる人は誰1人もいませんでした。マリア様を除いて誰1人、イエズス・キリストの復活などを信じる人はいませんでした。

ところが、それから第3日目の主日、弟子たちは確信に満ちて、「確かに、イエズス・キリストは自分の力でよみがえったのだ、確かにイエズス・キリストは真の天主だ!天主の御一人子だ!」という事を何も恐れずに、「イエズス・キリストが天主である、という事を証明するならば死も恐れない、殉教も覚悟だ、イエズスキリスト様に於いて聖書が全て成就した、という事を私は証明する、説明する事ができる。」この今まで、ガリレアの田舎の、何の勉強もした事がない、学校にも行った事がない、魚を捕っていた漁師が、おじさんたちが田舎からやってきて、エルサレムのその首都に、最高権威の前で、学問を積んで、聖書を研究した人の前で、「こうだ、こうだ」「こうして、こうして、こうある」と説明し出したのです。すると、それらを聞いて、「確かにそうだ、その通りだ。」と言って、何千名、最初には5,000名が洗礼を受けて、「イエズス・キリストが真に天主である」と信じたばかりでなく、ユダヤのその最も大切なエルサレムの神殿、エルサレムで多くの人々が、「イエズス・キリストが真の天主の子で、メシアだ」と信じたのみならず、遂にはローマ帝国、その首都であるローマに行って、聖ペトロが、「キリストは、イエズス・キリストこそ救い主であって、真の天主だ。」と言って、ローマ帝国をさえも回心させて、ヨーロッパをもキリストの信仰に導いた、というほどの大転換がありました。

一体何故、ガリラヤのおじさんが、漁師のおじさんがそんな事ができたのでしょうか?今まで隠れて、おっかながって、「知らない」と言った人が、3日の後に、そんなに変わる事ができたのでしょうか?何故ローマ帝国は、ローマ皇帝も、ローマの文学者たちも、知恵のある人たちが、「ユダヤの片隅のナザレト出身のイエズスこそが、真の天主であり、真の天主の人だ」という事を信じて、ローマ帝国全体が、全ヨーロッパが、この方をが真の救い主だと信じるようになったのでしょうか?

これには2つの事実があります。この事実をよく知って下さい。今日イエズス様が私たちの間に是非お現れになって、御自分の傷跡を見せて下さいますように。

どんな事実があるかというと、1つは、イエズス様のお墓が、確かにイエズス様は亡くなられて、ローマの使者、死んだか死なないかの鑑定の人がやってきて、2人の盗賊はまだ息があったので脛を折られて、だけれどもキリストは、イエズス・キリストはもう既に死んでいる。それで脛を折られずに、その代わりに胸を槍で突いて、そこから血と水が流れて、確かに窒息したところを確認して、弟子たちも、その御母マリア様がその御遺体を、冷たい御遺体を傷を洗って埋葬して、新しい墓に埋葬しました。ユダヤ人が当局は、「これは盗まれるといけないから、これを固く守って下さい」と警護を固めました、警備を固めました。ローマ兵士が武器を持って、墓を守っていました。墓には大きな、数名では動かす事ができない大きな石がありました。

ところが聖金曜日の夜から1日挟んで、朝明け方まだ早く、まだ日がまだ昇って白々としていないような、まだその朝早く、婦人たちが、「早く、安息日の為にできなかった埋葬の儀式を早くしよう」と、行っている、行ってみると、あんなに大きかった墓の石はゴロリと転がっていて、兵士はいないし、墓の中は空っぽでした。マグダラのマリアはそれを見て、「誰かが盗んだ」と思いました。すぐに弟子たちの方に行って、「盗まれました!墓が空っぽです。誰かが盗みました!」ペトロとヨハネが走って行って、「確かに空だ。」という事を見て、「でも彼らはイエズス様が復活するという事は理解できなかった、知らなかった」と書いてあります。

婦人たちが、他の婦人たちが弟子たちの方に行って、「私たちは天使を見た。墓に天使が座っていて、『復活した』と言っているの見た。」と言うと、弟子が、「くだらない話をするな、ばかばかしい。」聖ルカに書いてあります、「ばかばかしくて、弟子たちは信じなかった」と書いてあります、「婦人たちが天使を見た、男は信じない。」

エンマウスに行く弟子たちはその夜、「あぁ、残念だ、イエズスという方が本当に私たちのメシアだ、力のある方だと思ったのに、これで万事休すだ。十字架に付けられた。もうダメだ。」「なんかおかしい話があるけど、婦人が朝行ったら、墓は空っぽで盗まれてて、天使を見たと言うけど、ばかばかしいよ、何の話だ。」と。「もうエルサレムなんか行っても知らない、エンマウスに行こう」と、そういう話をしていました。そういう時に弟子たちは、部屋の中で恐れて、隠れていたのです。

考えて下さい。私たちの信じていた誰かが、天皇陛下に対する反逆罪で無実の罪で捕まった、死刑になった、オウム真理教の第2だ、危ない。さあその弟子たちは全て警察が調査している、機動隊も動いている、インターネットでも新聞でも大騒ぎだ。と言ったら、私たちはどうなるでしょうか。もしかしたら鍵をかけて、アパートの中に、マンションの中に隠れているかもしれません。人の顔を見ないように。そのような時にイエズス様は、真に復活して現れました。

第2の歴史的な事実は、墓が空であったのみならず、イエズス様が何度も何度も、多くの弟子たちに同時に、或いは別々に現れて、自分が本当に肉を持って復活した、という事を証明した事です。いきなり、ドアはビタッと鍵がかかっていたのにもかかわらず、窓はピタッと閉めていたにもかかわらず、イエズス様は入ってきて、「お前たちに平安あれ!」と慰めるのです。「え?何の事だろう?」疑う者があって、「幽霊を見ているのか」と言う者があると、「お前たちに平安あれ。」と言って手を見せたり、「幽霊には肉があるか、さぁ食べ物を持ってきなさい、食べ物はあるか。」と言って食べてみたり、或いはガリレアの畔に行って、一生懸命魚を捕って、捕ろうとしても捕れなかった弟子たちに、「さぁ右に網を下ろしてみろ。」と言って、大量の奇跡的な大漁があって、その弟子たちの前で一緒に朝ごはんを食べて、或いは今日の福音のように、聖トマスは、「あぁ、僕はね、信じない。僕はね、科学的なんだよ。科学というのは反証可能でなければならない。この目で見て、この手で触って、実際に触れてみなければ信じない。君たちはほんとに夢の話をしている。」これだけ疑ったトマスが、ガラリと変わって、インドまで行って殉教するようになります。

「確かに、イエズス・キリストは復活して、私はそれを触って、見て、それを話をして、イエズス様が復活した為に奇跡を行って、その通りに、十字架に付けられたそのままのイエズス・キリスト様が復活した」というのを確かに確認したのです。何度も何度も、40日間。弟子たちもこれをどうしても疑う事ができませんでした、「イエズス・キリストが確かに今、生きている」という事だけは疑う事が出来ませんでした。いくら迫害があって、いくら「もう信仰を捨てろ」という人がいたとしても、「イエズス・キリストが復活しなかった」という話はありませんでした。

弟子たちの中には、イエズス・キリストを迫害しようとした者がいます。例えばパウロがいます、パウロはダマスコの途中で、キリスト教徒を投獄しようとして、怒りに燃えていたのですけども、復活のイエズス様を見て、「主よ、私は何をしたら良いですか。」洗礼を受けてキリスト教信者となり、「イエズス・キリストが真に天主の御子だ」と、「メシアだ」と、宣言するようになりました。「もしもイエズス様が復活しなかったら、私たちの信仰は全く空しい。もしも信仰の事を疑うようだったら、そのイエズス様と会った人が今生きているから聞いてみろ。ペトロには現れたし、誰にもそれにも現れたし、500人の人にも同時に現れたし、こんな事もあるし、こんな事もあって、こんな事もあって、聞いてみろ。」と言います。

この弟子たちは声を合わせて、「イエズス様は御自分の力で、天主の力で生き返った、復活した。昔誰かが預言者が、死者からよみがえらせた事があるけれども、イエズス様だけは自分の力でよみがえった。」聖パウロは言っています、「天主は天主の力によって生きておられる。」聖ヨハネによるとイエズス様はこう仰いました、「私は命を与える権利があり、また取り戻す権利もある。この神殿を壊したなら、私は3日でそれを建て直そう。」聖書によると、時々人間としてのキリストが出てくるので、天主御父によって復活させられた、復活された、と言う表現もありますが、天主としてのキリストでは、例えば聖パウロはローマ人の手紙の中で、「自分の力で復活した」と言っています。

今まで死者の中から復活した人々がいますが、イエズス様の復活だけは、死者の初穂として、死者の中から最初に生まれた方として、もうキリストは死ぬ事がない、死は何の力も持っていない、永遠に生きる、第1の復活をされた方として、使徒たちは私たちに教えています。昔生き返らされた人々はもう一度死ななければなりませんでした。しかしイエズス様の復活だけは、もはや死ぬ事のない、究極の復活でした。

1人の人によって死が来たように、1人の人によって死者の復活が来た。

このイエズス様は、私たちにお現れになって、確かに復活して、「本当に私こそが救い主であって、約束のキリストであって、命の与え主である。」という事を伝える為に、「あなたたちに平安あれ。」と何度も繰り返します。私たちに御傷を見せて下さいます。

どうぞ今日、イエズス様の御傷をご覧下さい。私たちに見せて下さる御傷は、御自分の栄光のしるしです、勝利の武器のしるしです。これによって、この御血、御傷によって、「死と地獄に打ち勝った」という勲章です。どうぞ、イエズス様のこの傷の中に手を深く入れて下さい。イエズス様は私たちの為に苦しまれて、本当に復活されました。これは歴史的な事実です。イエズス様の御傷をよくご覧になって、その中に手を入れて下さい。

聖ペトロはこう言います、「イエズス様の痛みと傷によって、私たちは罪を癒された。罪を許された。」

ですから、これほどまでにして私たちを許して下さったイエズス様の為に、この傷の中に深く手を入れて、聖トマスのように入れて、これから私たちは罪を避ける決心を立てましょう。イエズス様はこの特に、自分の心臓のすぐ近くの傷を大きく開いて、私たちに「手を入れろ」と言います。心臓が愛のシンボルなくて何でしょうか。イエズス様のハートの近くの傷の中に手を入れて下さい。信仰が、私たちの信仰が強まりますように。イエズス様への愛が強まりますように。イエズス様の為に苦しむ事ができますように。

イエズス様はこうやって、私たちに御傷を見せて、「確かに復活した」という事を見せて下さいます。もしもイエズス様が復活しなかったら、弟子たちの宣教はありませんでした。弟子たちはそのまま恐れ怖がって、そのまま歴史から忘れ去られてしまっていた事でしょう。「イエズス様が復活した」という事だけが、今2000年間キリスト教が続き、全ヨーロッパと、アメリカ大陸にキリスト教が伝わり、多くの方が殉教し、キリスト教文明が作られた、という事が唯一説明できます、合理的に説明できます。イエズス・キリストは真に復活されました。

どうぞ今日は聖トマスと声を合わせて仰って下さい、「我が主、我が天主。これこそ我が主、我が天主である。」

遷善の決心を立てて下さい。まず1つは、「イエズス様が必ず勝つ、確実に復活した」という事をもう一度深く確認なさって下さい。これよりも堅固な、歴史的な事実はありません。イエズス・キリストは真に復活されました。それこそが、今の歴史上説明する事ができる、唯一の合理的な答えです。

第2に、イエズス・キリストは死から復活して、私たちに慰めを与えようとして下さいます。ですから私たちは、イエズス様に感謝と、その復活の喜びの中に深く入って下さい。

第3に、イエズス様が私たちの為に、これほど苦しみと復活を受けたのですから、私たちもイエズス様の為に、犠牲と苦しみを捧げて、私たちの十字架を担い、遂には、イエズス様と同じ復活に辿り着く事ができますように。その王の道を、十字架の道を雄々しく歩む決心を取る事に致しましょう。

最後にマリア様にお祈りします。マリア様が私たちに、御子の傷を深く刻んで下さいますように。私たちがそのいつも、イエズス様の手と足と胸の5つの傷を忘れる事がないように、復活のイエズス様の傷に、いつも指を入れている事ができるようにお祈り致しましょう。

 “Dominus meus, et Deus meus.”
「我が主、我が天主。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

マリア様の御心は、カルワリオと神秘的に全く同一であることについて

2016年04月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月2日 復活の土曜日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月2日 復活の土曜日 のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年4月2日、復活の土曜日のミサを捧げています。今日は4月の最初の土曜日、初土曜日ですので、マリア様の御心に対する信心でこの御ミサを捧げていきましょう。このミサの後には、いつものように公教要理の勉強会があります。今回はプロジェクターを使って、皆さんに、聖ヨハネによる福音の最近の映画をご覧になって頂いて、是非そこからイエズス様の御復活と、聖書について話を、勉強をしていきたいと思っています。

それから次のミサは4月10日の主日に、夕方の18時からミサがあります。また4月15、16日にもミサがあります。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は復活の土曜日で、土曜日はいつもマリア様に捧げられた曜日です。なぜマリア様に捧げられたかというと、色々な理由があります。

一番の理由は、イエズス様が十字架に付けられてお亡くなりになった時、十字架の上で、霊魂と肉体が離れてお亡くなりになって、復活の主日までその丸1日間、その安息日の間、弟子たちは皆イエズス様を、イエズス・キリスト様を信じず、逃げたり、隠れたり、もう絶望したり、心を失ってしまっていたにもかかわらず、マリア様だけは固く、イエズス様の傍に留まって、心も留まって、イエズス・キリスト様の御復活を深く信じて、待ち望んでいたからです。そこで今日は、復活の土曜日ですので、マリア様の御心に私たちも、心を馳せる事に致しましょう。

昨日、夕食の時に皆さんと、「エンマウスの弟子たちには、イエズス・キリスト様は違った形で姿を現わしたけれども、しかしそれは、エンマウスの弟子たちがもう既に、キリストに対する信仰を失いかけていたからだ、心が遠くあったからだ。しかしパンを割いて共に食事をした時に、『あ!これこそイエズス・キリスト様だ!』と認識した、目からウロコのようなものが落ちて、主と分かった。イエズス様に近ければ近いほど、すぐに分かる」という話をしましたが、マリア様は、イエズス様の心に最も近くおられた方でした。ルカの聖福音によると、「マリア様は、全てのイエズス様の御誕生の事など、全ての事を自分の心に深く留めておいた。それを思い巡らしておいた。」と書かれてありますから、マリア様の御心はいつも、イエズス・キリスト様の神秘を深く留めて、黙想していた方です。

では、イエズス・キリスト様の贖いの神秘、一番大切な行為というのは一体どこで行われたでしょうか?

それはもちろん、カルワリオです。そこで今日は、「カルワリオで行われた事」という事と、「マリア様の御心で行われた事」というのを比較しながら、実はマリア様の御心というのは、カルワリオと神秘的に全く同一であるのではないか、という事を黙想したいと思っています。その黙想をして、ではマリア様の御心の、カルワリオのそのますます似通ったところを見て、では私たちもマリア様に倣ってどのようにしたらよいのか、私たちはこの復活祭の決心をどうやって立てたら良いのか、という事を黙想致しましょう、決心を取る事に致しましょう。

カルワリオというのは一体何でしょうか?カルワリオというのは、聖地に於いて、全人類の贖いの業が行われた、天主の御子、人となった御子イエズス・キリスト様がその上で亡くなられた、私たちの救いの十字架の立てられる、最も重要な山です、丘です。

マリア様の御心というのは何でしょうか?マリア様の御心というのは、マリア様の御体と霊魂に於いて、最も高貴で、最も高い頂点に立つものです。ですからマリア様の心も、マリア様の最も高貴な山のようなものだ、と言う事ができるではないでしょうか。

創世記によると、創世記の20章によると、アブラハムは天主ヤーウェの命令によって、「イザアクを屠りにモリヤの山に連れて行け」と書かれています。モリヤの山というのは、聖伝によると、実はカルワリオの山と全く同じ山です。ですからダビドは、王のダビドは、このモリヤの、イザアクが犠牲(いけにえ)に捧げられようとして、その最後の最後の段階にストップがかけられて、その代わりに羊が捧げられましたが、その山にやはり祭壇を立てて、ペストが止まるように、その当時困らせていたペストが止まるように、犠牲(いけにえ)をヤーウェに捧げています。同じ場所に、何故かというとモリヤの山とシオンの山というのは繋がっているのでそうなのですけれども、サロモンは神殿を、エルサレムの神殿を建てます。

つまりカルワリオというのは、アブラハムの犠牲(いけにえ)、イザアクの犠牲(いけにえ)、ダビドの犠牲(いけにえ)、ソロモンの神殿が建てられて、遂には十字架のイエズス・キリスト様の犠牲(いけにえ)によって完成させる、犠牲(いけにえ)の祭壇の場所であると分かります。

ではマリア様の、マリア様というイエズス・キリスト様を宿した、天主の御母のマリア様というアブラハムの娘、ダビドの娘の心を見ると、その御心には最も高貴な、もっとも聖なる神殿が建てられていたではないでしょうか。イエズス・キリスト様という本当のソロモン、永遠の知恵、人となった天主が、そこに於いて屠られるべき最初の十字架が、そのマリア様の心に立てられたからです。

何故かというとマリア様は、イエズス・キリスト様と一心同体に十字架の苦しみを受けられた方です。何故かというと、シメオンの預言があった通り、「あなたの心も、剣で刺し貫かれるだろう。」イエズス・キリスト様の苦しみを、全く自分のものであるかのように、心に苦しんだお母様であるからです。

十字架の立てられたカルワリオは、イエズス様の、天主の御血であって、ダラダラと垂れる血潮によって真っ赤に染められました。ですからカルワリオの地は、本当に天主様の流された、黄金や銀の値よりもはるかに高貴な値によって聖化されて、特別の土地となりました。聖ペトロは、「あなたたちは、単なる金や銀の値ではなく、天主の子羊の御血によって贖われたものである。高貴なものである。」という事を言っています。

その血はカルワリオに流されたのですけれども、でもマリア様の御体には、イエズス様に与えた、養ったその同じ血潮が流れているばかりではなく、愛と同感受難によって、愛とイエズス様と全く共感した御苦しみによって、イエズス様の御血潮が全くマリア様の心に染み渡って、染み通り、貫いて、あたかもイエズス・キリスト様の御苦しみが自分の苦しみであるかのように感じ取られたはずです。ですから霊的に、神秘的に、マリア様の心には、イエズス様の貴き御血潮が染み渡っていた、と言う事ができるのです。

カルワリオでは、イエズス・キリスト様が多くの傷を受けました。十字架の茨の冠は刺し貫かされて、釘によって手足は貫かれましたし、槍によって聖心は開かれました。またロープによって縛り付けられたり、或いは苦いものや酢を飲まされたりしました。

シメオンの預言によれば、お母様であるマリア様の心は、イエズス・キリスト様が受けたのと全く同じ傷を心に、霊的に受けて、それを自分のものであるかのように苦しんでいました。聖ボナヴェントゥーラという神学者は、「マリア様は、十字架の下にただ単に突っ立っていただけではなく、霊的に、御子キリストの十字架と共に、十字架の上に共に付けられて、イエズス・キリストと同じ苦しみを受けて、愛する心で十字架の苦しみを受けていた。その心は御心は、苦しみの剣によって刺し貫かれていた。シメオンの預言は全く成就していた。」と言っています。マリア様は、十字架に付けけられたイエズス・キリストと共に、ご自分もその心に於いて、御心に於いて、屠られていたのです。

教父たちによると、教会の伝統を受けた、イエズス・キリスト様の事をよく知っていた昔の人たちによると、「イエズス様が十字架の上で最初に言った言葉、『父よ、彼らを許し給え。その彼らはそのなすところを知らざるがなり。』と言ったこの言葉こそ、本当の愛の奇跡だ。」と言います。聖アウグスチヌスはそのこの言葉を黙想して、「これこそ愛の奇跡であって、マリア様はこの言葉を聞いて、おそらく自分の心でその言葉をこだまさせていただろう、『父よ、彼らを許し給え。彼らはそのやっているところを知らないからです。』と、何度も何度も、繰り返し祈っていたに違いない。」と言っています。

キリスト様は、天主の最高の権威を以て、はっきりと宣言します、「見よ。女よ、汝の子ここにあり。」ヨハネを通して、最高の権威を以て、「汝の母ここにあり。」「見よ、これがお前の母だ。」とマリア様を指して言います。マリア様の御心はそれを聞いた時に、「自分はこれからは、ヨハネを通して全人類の母となった。」という事をはっきりと自覚します。「自分がイエズス・キリスト様を愛した、その母の愛を持って、全人類を愛そう。その人類の救いの為に祈り、苦しもう。この為に全てを使おう」「子供を愛した、そのイエズス・キリストを愛したその愛を以て、人類を愛そう」と決心されました。

カルワリオというのは一体何でしょうか?カルワリオというのは、イエズス様がまさにそこによって亡くなられた、十字架の上で亡くなられたその場所であって、そのすぐ近くに墓に葬られて、よみがえった場所であります。つまり私たちの贖いの業が完成させられた所であって、私たちの贖いの成就した所です。

ここまで見てくると、マリア様の心もまさに同じです。イエズス様と共に、第2のエヴァとして、第2のアダムであるキリスト様と共に、贖いの業を十字架の木によって完成させて、イエズス・キリスト様と共に葬られて、最初に十字架の死による贖いを完成させたその所が、「マリア様の汚れなき御心」でした。

そればかりではありません。マリア様の御心は、イエズス様の御復活を最初に受けた所であります。教父たちによると、教会の昔からの偉い学者たちによると、「イエズス・キリスト様は、御復活のその最初に、御自分のお母様であるマリア様に現れて、御自分の復活の喜びと、栄光を、マリア様に伝えて、マリア様を慰めた。」と伝えられています。何故かというと、マリア様だけは、イエズス・キリスト様の復活を決して疑った事もつゆ1つ、夢疑った事もない、忠実な霊魂だったからです、汚れのない霊魂だったからです。ですからこの汚れのない、最後まで忠実に従って、ビダリとも微動とも動かなかったその御母の心に、子供がその喜びと、復活の栄光をすぐに見せて、無限のほぼ無限の喜びと、幸せを、お母様に伝えたのは、全くイエズス・キリスト様に相応しい事であって、道理の適うものであります。

こうすると、マリア様の御心はいつも、「主の御旨を果たそう」と、自分の都合や、自分勝手な事や、自分のやりたい事というよりは、「主の御旨を果たしたい」「主の聖なる務めを果たしたい」というその事に於いて、自己に、自分に死んでいた、主の為に生きていた霊魂だ、と言う事ができます。

マリア様の御心はいつも、イエズス・キリスト様の神秘を黙想していて、その中に完全に溶け込んでいた霊魂だ、という事が分かります。マリア様の霊魂は、その主を愛するが為に、その「主の御旨は何か」という事をいつも考えて、その御旨を遂行する事だけに生きていた霊魂だ、と分かります。

マリア様の霊魂はですから、イエズス・キリスト様の御旨と、その聖心と全く一致していた、1つになっていた、分かち難く1つになっていた心だ、と分かります。マリア様の御心はつまり、イエズス・キリストの心であって、つまりイエズス・キリストと一心同体だ、と言う事ができます。

そのマリア様の心に、イエズス様が復活の喜びと、栄光を、どうして与えられない事があったでしょうか。もしも聖パウロが、「我にとって生きるはキリストなり。」と言う事があるのならば、マリア様は、「もう私の心は常にイエズス・キリストだ。私にとって生きるというのはイエズス・キリストだ。私にとってイエズス・キリストは全てだ、一番ではなく全てだ。」と言っていたに違いありません。

ですからマリア様は、そのイエズス様を愛するがあまり、人類の贖いの為に、人類の救いの為に、いつも心を砕く母となって、私たちの事を天国から深く愛して、見守って下さっています。

では最後に、復活のこの土曜日に、マリア様の心に倣って私たちは、何を、どのような決心を立てたら良いでしょうか?

私たちもマリア様の御心に倣って、私たちの心をいつもカルワリオに一致させる事を提案します。カルワリオというのは、イエズス様の十字架が立てられた場所であって、イエズス様の贖いが行われた場所であって、復活の場所であって、マリア様の心と全く一致している所ですから、私たちの心にも、イエズス・キリスト様の十字架を深く植えて、その木を立てる事に致しましょう。

イエズス様は仰いました、「もしも私の弟子となりたいならば、自分の十字架をとって私に従え」と。「キリストは苦しみを受けて、復活の栄光に入るべきではなかったのか」と。

私たちもマリア様に倣って、私たちの心に、イエズス様の十字架を深く立てて、イエズス様に従い、復活の栄光まで辿り着くように致しましょう。その為に、私たちの心から十字架が決して取れてしまう事がないように、マリア様の御取り次ぎを、お祈りを、深く乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第11号 ― 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

2016年04月20日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第11号」の日本語訳をご紹介いたします。

今年、「あわれみの御母」なる聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。

私たちは、霊魂を永遠の火から救うために「あわれみの御母」の道具になろうという情熱を増加させましょう。

聖母は、ファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。

シュテーリン神父様は、皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案してくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第11号

*** 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

新しい年になりました。私たちは自分たちの目的を思い出さなければなりません。

毎年、毎月、毎週、毎日、毎時間、毎分、毎秒がそれぞれただ一つの意味を持っています。無原罪の聖母を通して、私たちの主にますます近づくことです。私たちは聖母に奉献されているのですから、私たち聖母の騎士は、こう付け加えるべきです。この新しい年に、私は聖母のために、これまでにないほど多くの霊魂を、さらにずっと多くの霊魂を勝ち取らなくてはなりません。彼らが、聖母を母、そして元后として認めてお愛しし、そうして、その御子、私たちの主によって救われるように。

それぞれの年もまた、特徴を持っています。重要な記念日や聖年のお祝い、または他の重要な出来事(洗礼、初聖体、結婚、最終試験、仕事上の業績など)です。一般に、このような例外的な出来事は、天主の栄光と霊魂の救いのために、これらの出来事をお祝いするか、これらにあずかる人々に対して、天主の御摂理によって与えられる特別な恩寵の源です。私たち聖母の騎士は、これらの降り注ぐ天主の愛に感謝し、徳と使徒的熱意を成長させるよう、その愛から利益を得るべきです。

2016年に注目すべきなのは、二つの特別な行事があることです。天主のあわれみの年であることと、ファチマの聖母ご出現と無原罪の聖母の騎士会設立の100周年を荘厳に準備する年であることです。

私たちは、あわれな罪びとの回心と聖化のために彼らに捧げられた天主の無限の御あわれみという現実についてしばしば考え、黙想すべきです。

さて、聖ベルナルドによると、私たちの主は「御母にあわれみの秩序」を委託なさいました。

そのため、今年、聖母は特別な意味で「あわれみの御母」になられます。聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。

私たち騎士にとって、これは、聖母の奉仕にもっと自分を捧げようとする信じられないほどのよい動機となります。通常時に私たちの小さな祈りと犠牲が一日あたり多分一つか二つの霊魂を救うとすれば、「あわれみの年」のおかげで、私たちの主は、私たちの小さなつまらない捧げものに対して、さらに寛大にお応えくださるでしょうし、同じ祈りや犠牲に対して、多分10から20の霊魂を救われるでしょう。

言い換えれば、騎士としての私たちの小さな使徒職は、天主の御あわれみのおかげで、はるかに効果的になります。このことは、私たちの望みを大きくしてくれるはずです。ああ、無原罪の聖母よ、あなたは多くの美しい絵を描く力を、あなたの小さなほうきにしか過ぎない私に与えようと望まれるほど、私をたくさん愛してくださいます。「私の愛する子よ、霊魂を救うために私を助けてください!」というあなたの要望と訴えに対して私はどれだけもっと進んでお応えしなければならないことでしょうか。

霊魂を永遠の火から救うためにあわれみの御母の道具になろうという情熱を、私たちが増加させる最良の手段は、私たちがこの2016年中に実現しなければならない第二の事柄です。それは、終わりの時代における聖母のすべてのご出現の中で、おそらく最も重要なご出現に対する準備です。この御出現では、聖母がファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。

皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案させてください。


2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

1.知性のために
a)可能であれば、毎日数分間、少なくとも1週間に1時間、ファチマのメッセージと精神について、深い文章や記事、本を読んだり聞いたりすること(www.fatima.org/resources/books.aspに豊富な文献があります)。
b)少なくとも3回、可能なら各土曜日(聖母の日)に、この手紙に掲載されたファチマに関する文章「ファチマに向けて」を読んで黙想すること。

2.意志と心
a)毎日、可能であればできるだけ頻繁に、罪びとの回心のために射祷を唱える。特に「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。
b)毎日、可能であれば少なくとも3回、ファチマの天使の祈りを唱える。
c)毎日、ファチマの聖母の意向でロザリオを唱える。
d)可能であれば、毎月13日に、マリアの汚れなき御心の意向で大斎を捧げる(その日が日曜日または守るべき祝日である場合は、前日または翌日に大斎を移す)。
e)毎初土曜日の務めに参加する(汚れなき御心に対して犯された罪を償う精神で、聖体拝領をし、その月のうちに告白を行い、さらにロザリオとロザリオ十五玄義の黙想を行う)。

3.行動
無原罪の聖母の騎士会の使徒職(不思議のメダイやリーフレットなどを配布すること)に熱心に参加する。

皆さんが、これらの決心を実行に移そうと努力するなら、汚れなき御心が、この2016年に非常に特別な方法で、皆さんのうちに聖母のこの御約束を実現してくださるのは確実です。「私の汚れなき御心は、あなたの避難所となり、あなたを天主へ導く道となるでしょう」。

2016年1月4日、シンガポールにて
カール・シュテーリン神父


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ


聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教へのインタビュー──2016年3月4日 Interview with Bp. Fellay

2016年04月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年3月4日、メンツィンゲン(スイス)で、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様がインタビューでいくつかの質問に答えています。ここでは、その日本語訳をご紹介いたします。これをすぐに日本語にすばらしく訳して下さった方がおられ、心から感謝します。

 ローマやフェレー司教様が、聖ピオ十世会の「正常化」(regularisation)という言葉を使っているこの言葉の意味にご注意下さい。これは「合法化」(legalisation)でも、「正当化」でもありません。

 「正常化」とは、いわば、聖ピオ十世会の活動は良いものだけれども、それを証明する紙、公文書が欠如しているので、それを発行して「正常化」する、という意味です。

 たとえば、賊に襲われて半死半生となった犠牲者を、本来ならそれをなすべき義務を持っている人々が見て見ぬふりをして通り過ぎたので、良きサマリア人が看病したことは、愛徳にかなった合法的で正当なことだ、サマリア人には「看護許可書」がなかったのに看護したのだから、これからはその許可書を作って、「正常化」する、というようなものです。

 フェレー司教様のインタビューを聞くと、次の点が注目に値すると思います。ローマの聖ピオ十世会に対する態度がより好意的になっていること、です。

1) 聖ピオ十世会の司祭たちに通常裁治権を与えたこと。これは、聖ピオ十世会は修道会として存在しているし、聖ピオ十世会の司祭たちはいかなる制裁も受けていない、ということを意味している。

2) ローマから正式に派遣された高位聖職者らが聖ピオ十世会に訪問して、聖ピオ十世会がいつも問題視してきた、第二バチカン公会議の諸問題点は、議論の余地のあるものだと認識し、そう打ち明けてきたこと。つまり、信教の自由、司教団体主義、エキュメニズム、新しいミサや、秘跡の新しい典礼様式などは、信じなければならないドグマではなく、解決されていない問題(オープン・クェスチョン)だ、と言うことを認めていること。

ではお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら

ベルナール・フェレー司教へのインタビュー──2016年3月4日、メンツィンゲン(スイス)






聖ピオ十世会とローマとの関係はどうなっているのか?

数週間に渡って、ローマによる聖ピオ十世会の教会法的承認の可能性に関するさまざまな噂がマスコミ[1]を駆け巡っている。DICI編集部は、この噂を解説するよりも、聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教に次の課題の分析をしていただくように求め、インタビューする手段を採ることにした。

1. 聖ピオ十世会とローマとの関係
2. ローマの新たな提案
3. "私たちをあるがままに受け入れてもらうこと"
4. 教皇と聖ピオ十世会
5. 聖ピオ十世会に与えられた裁治権
6. ローマより派遣された高位聖職者らの訪問
7. 教会の現状
8. 私たちは聖母に何を願うべきか?


1-2000年からの聖ピオ十世会とローマとの関係

 ローマとの関係は──実際のところ──常にあります、が、これは文字通り正確な言葉ではなく……継続している、決して中断されていないという意味においてです。その頻度や、その強さの程度はいろいろですれども…。西暦2000年以降、ローマとのコンタクトは続けられています。ローマ当局のほうが、聖ピオ十世会をゆくゆくは正常化するという目的でこのコンタクトを求めてきたのです。先ほど言ったように、いくつもの浮き沈みがありましたが、2000年にカストゥリヨン・オヨス枢機卿とともに始まったこのコンタクトは──一時の間──かなり定期的に行われていました。私たちが提示した、皆さんよくご存知の前提条件が設置された後[2]、双方の関係は、そうとは言いたくないのですが、ほぼ... 中断したような時がありました。2005年にもう一度コンタクトがありました。そして2009年以降、つまり撤回──私たちが破門撤回と呼ぶもの、つまり破門宣言の訂正──の時、さらに定期的なコンタクトがありました。特に教義上の話し合いを含んだものでした。これは私たちとローマの両方が要求し、約二年間続けられました。[3] 新局面と言えるものが再び出てきました。今回は二つの要素からなる解決案を含み、それに関係したものでした。すなわち教義上の宣言、そして教会法上の解決、この二つです。この話し合いはほぼ二年に渡って続けられましたが、不首尾に終わりました。

 その後、二年間、この関係は細々としたものになり、ポッゾ司教がエクレジア・デイ委員会に復帰したことで──こう言ってよいと思いますが──振り出しに戻ってしまいました。ディノイア司教のもとではコンタクトがありました。これは事実です。が、ポッゾ司教のもとでは新局面があって、それは再び、二つの要素からなるものでした。まず一方では話し合い、教義上の話し合いが、もっと柔軟なやり方でもう一度スタートしました。従って完全に公式というより、むしろ非公式なものとなりました。この司教様たちはローマから派遣されたからです。話し合いは続いています。この話し合いはやる価値があります。同時に、別のレベルで、いくぶん同時進行的でもありますが、去年(2015年)7月に、私たちがこの教会法的正常化に達することがどうやって可能かを見るため、じっくり考えてみようという新しい提案、新しい招きが差し出されました。ここでも話し合いや、考察が前向きに行われています。焦ってはいません。これは確実です。私たちは本当に前進しているのでしょうか? はい。そう思います。しかしゆっくりと進んでいることは間違いありません。


2-聖ピオ十世会上層部によって検討されたローマの新たな提案

 ローマの新たな提案について考察するように、私たちは長上の職務にある人々を始めとする多くの同僚たちにこの考察に参加してもらうよう望みました。これは重要なことです。聖ピオ十世会内部に数々の摩擦を引き起こした2012年の問題からいろいろと学びました。その摩擦の理由の一つはコミュニケーション不足だと考えます。この時はいささか困難な時期でした。ですから今回は、多くの考察を必要とするこの問題の数々を伝えるため、もう一つの方向性を選択することにしました。

 ローマや教会全体の状況を見てみると、確かに、私たちが何かをしようとする気持ちは薄れてしまいます。ローマの方から招きが私たちに来るのは、良く理解できます。私たちは教会にとって一つの問題を突きつけているからです。エキュメニズムのためになされているあらゆる努力を見る時──どんな一致であるかは、天主のみがご存知です!──、そして同時に、聖ピオ十世会が教会内でどんなふうに扱われているかを見る時、間違いなく私たちは一つの問題【訳者注:他宗教は寛大に友好的な待遇を受けているが、カトリック教会内の聖伝は排斥されているという矛盾した態度という問題のこと】を突きつけているのです。現代エキュメニズムのシステムの中で、私たちは大きな棘でさえあります。これだけを見ても、ローマが歩み寄りしている理由を説明することができるかもしれません。私の考えでは、これだけではないと思います。しかし、いずれにせよ──ローマの真意が何なのかを直接考慮しなくても──、ローマがこの問題を解決しようとの動きがあります。
 他方では、教会の中の悲劇的状況を私たちは観察しています。そこでは前進しようと励みとなるものがほとんどありません。ですからよく掘り下げた考察が不可欠であり、私一人でできることではありません。この問題を正しく観察するため、問題の内側と外側について考察するため、各方面からの見解が必要です。このため、この課題に関して全長上の方々の考察を求めることを決定したのです。

3- 曖昧も妥協もなく "私たちをあるがままに受け入れられること"

 一切の妥協を避けることは、絶対的に不可欠です。言葉の両方の意味における「妥協」のことです。つまり、私たちとローマのどちらかが、何かを得るために何かを譲歩するという意味の妥協です。最初から私はローマにこのように告げていました。「私は曖昧さを望みません。両者が違ったやり方で理解している文書について同意に達することをあなた方が望むなら、ゴタゴタがすぐに起きます。その混乱を準備するようなものです」と。ですからこれを絶対的に避けなければなりません。同意の始めにおいては、現状において両方の異なる見解を考えると、合意文書は曖昧になりがちという傾向があるだろう、ということはほとんど確かです。しかし、そんな曖昧なものを私たちはまったく望みません。

 このため、明らかに、私たちは「頑固」になる、と言えるでしょう、ともかく、かなり頑固になると。これで問題はもっと難しくなりますが、私たちにとっては簡単な解決法はありません。こういうことです。「はい、理論上は、それは真理の解決法です。しかし、その真理は完全で、十全なものでなければなりません」と。

 これが、ローマと共有しなければならないと私の考えた最初のアプローチです。すでに最初の文書をローマから受け取った時に私はこう言いました。「これは曖昧です。これではうまくいきません。私たちはこんなものを一切望みません!」と。これは2011年の最初の文書のことでした。今回は前よりはずっと良いもののにように思えます。事実、曖昧ではないということでは、優れた進歩があります。だからといって、一切の曖昧さが取り除かれているという意味ではありません。

 さらに、合意文書の明確化に関する課題を除くと、もっと深刻でもっと重要な問題がもう一つあります。つまり「正常化に達した場合、活動の幅はどのくらいになるのか、私たちに与えられる、与えられるかも知れない自由の範囲はどうなるのか?」ということです。この文脈に関して、最初の時点から、私は一つの言い回しを、ルフェーブル大司教の、実際問題に関する要求を採用しました。大司教様はそれをあらゆる合法化のための必須条件だと考えておられました。つまり、私たちがあるがままに受け入れられること、です。

 ですから私は(ローマで)それを再確認しました。「あなた方が私たちの受け入れを望むなら、これこそが私たちのあり方です、あなた方は私たちを知らなければなりません、後になって私たちが何かを隠していたと言うことがないように。これが私たちの姿であり、今後もそのままに留まり続けるであろう姿です」と。私たちはあるがままに留まるでしょう。なぜ? これは強情のしるしではありません。私たちこそが最善だと考えているのではありません。そうではなく、教会がこれを教え、教会が決定してきたことだからです。信仰に関することだけではありません。信仰と完全に一致している規律の全てがそうです。これこそが教会の宝となり、過去に多くの聖人たちを生み出したのです。私たちはこれを手放すつもりはありません。ローマとのやりとりで私はたくさんのことを主張しています。「ここに私たちの姿があります。ここに私たちの考えがあります」と、具体的な例を示すこともしながら。もしローマが私たちのこういった考えや態度は改められ、変えられなければならないと思うなら、ローマは今、そのことを私たちに告げなければなりません。同時に、その場合、私たちはこれ以上は進めません、と説明してきました。

4- 教皇と聖ピオ十世会──逆説的な好意

 ここで「逆説的」という言葉を使うことが必要でしょう。「第三バチカン公会議」とも言えるもの、この表現にはこの言葉の最悪の意味が含まれていますが、これをさえ求める意志があって、他方では、聖ピオ十世会に対して「あなたたちはここで歓迎されている」と言おうとしています。これはまったく逆説的であり、正反対のものを結びつけようとする試みです。
 これはエキュメニズムのせいであるとは思いません。そう考える人々もいるようです。なぜ私はエキュメニズムのせいではないと思うのか? エキュメニズムという課題について司教たちの取る通常の態度を見て下さい──彼らはすべての人々に両手を広げていますが、ただし私たちを除いてです! 私たちがなぜ仲間外れにされるのか、彼らはしょっちゅう私たちに説明してくれます。「聖ピオ十世会が自分はカトリックであると主張するから、他の宗教の人々にするように扱わないのです。この主張で混乱を作り出す【カトリックと言いながらたとえばエキュメニズムに反対しているので信徒たちが混乱する】ので、あなたたちを望みません」と。エキュメニズムを除外するこういった説明を、私たちは何度も耳にしてきました。【訳者注:ローマの聖ピオ十世会への歩み寄りは、エキュメニズムという説明では成り立たない、エキュメニズム説は除外される、と言うこと。】ではどう言うことでしょうか! もしも「すべての人々を家の中に受け入れる」という【エキュメニズムの】言葉が、私たちには当てはまらないのなら、残される説明は何でしょうか?【エキュメニズム以外の理由で、何故ローマは聖ピオ十世会に歩み寄るのでしょうか?】 それは教皇様である、と私は考えます。

 まずベネディクト十六世が、次に現在では教皇フランシスコが、たった今言及したばかりのエキュメニズムの視点とは異なった別のやり方で聖ピオ十世会を見ていなかったなら、今の事態はまったく別のものになっていただろうと思います。それどころか、私たちは再び、処罰と排斥と破門、そして離教宣言のもとで、【エキュメニズムに対する】邪魔者を取り除こうとするあらゆる試みのもとにあったかも知れないとさえ思います。

 ベネディクト十六世、そして教皇フランシスコは、なぜ今、これほど聖ピオ十世会に対して好意的に見ているのでしょうか? この二人が必ずしも同じ見方をしているとは思いません。ベネディクト十六世の場合は、彼の保守的立場、古い典礼への愛、教会内の昔の規定への尊敬の念のためであると考えます。多くの、繰り返して言いますが非常に多くの司祭たちが、彼らの多くのグループさえも、教会内の近代主義者に関して問題を抱えており、ベネディクト十六世がまだ枢機卿であった時に彼を頼り、彼らは、ベネディクト十六世の中に──始めは枢機卿、のちに教皇として──好意的な見方が、少なくともできる限り彼らを守り、助けようとする願望がある、と気づいていました。

 教皇フランシスコの中に、古い典礼や規定の両方への愛着があるとは見えません。それとは相入れない多くの言葉を見ると、まったく正反対であるとさえ言えるかもしれません。これが、教皇の好意を理解することをより困難に、複雑にしています。にも関わらず、いくつかあり得そうな解釈が存在すると思います。しかし、私には、この問題への最終的回答を出すことができません。

 解釈の一つは、のけものにされている人々について彼の態度です。教皇が「片隅に追いやられた存在」 « périphéries existentielles » と呼ぶ人々のことです。教皇が明らかに好みを見せている、この「片隅に追いやられた」ものの一つとして私たちを考えているとしても、私は驚きません。この見方から、教皇は、片隅に追いやられた人々とともに「道を歩む」« faire un cheminement » という表現を使って、事態を改善しようと望んでいます。これはすぐに何かを成功させようという確固たる意志ではありません。そうではなく、歩くこと、どこへ行こうともとにかく行こう…、結果がどんなものになるか正確にわからなくても、穏やかで、優しくなろう、ということです。おそらく、これが[教皇の取る態度の]根深い理由の一つです。

 もう一つの理由はこうです──私たちは、フランシスコ教皇がエスタブリッシュメントとなった教会をかなり頻繁に批評していることを見ています。英語で言うところの──時々フランス語でも言いますが──エスタブリッシュメント化した教会とは、つまり自己満足に陥っている教会、もはや失われた羊たちを捜し求めようとしていない教会、つまりあらゆる段階で、貧困問題であれ、物質的であれ、問題を抱えている人々に手を差しのばそうとしない教会のことです。教皇が関心を持っているのは、物質的事柄についてだけだとは思いません、たとえ外見上はそう見えているとしても、です。教皇が「貧困」と言う時、彼は霊的貧困を、罪のうちにいる霊魂たちの貧困を、そこから抜け出して、聖主のもとへと連れ戻されるべき霊魂たちの貧困をも含めているのだとよくわかります。たとえ常にそのことが明確に表現されていないとしても、これを示唆するいくつもの表現を見つけられます。そしてこの見方において、教皇は聖ピオ十世会の中に、非常に活動的な団体を──特にエスタブリッシュメントの状況と聖ピオ十世会とを比較する時に──非常に活動的で、つまり霊魂たちを探し求めて行く、霊魂たちの霊的善に心をかけている、そのために腕の袖をまくり上げて働く準備ができている団体を見ているのです。

 教皇はルフェーブル大司教のことを知っています。彼はティシェ・ド・マルレ司教が書いた大司教様の伝記を二回読まれました。このため、教皇が関心を持っていることは間違いありません。そして好意を抱いていると私は思います。また、彼がアルゼンチンで私たちの同僚司祭たちと持つことができたコンタクトもあります。教皇は、聖ピオ十世会司祭たちの中に、おおらかさと率直さを見ました。彼らが何も隠そうとはしなかったからです。もちろん彼らはアルゼンチンのために、あることを得ようとしていました。アルゼンチンでは滞在許可証に関して政府との間に問題を抱えていました。が、同僚たちは何も隠さず、問題をはぐらかしたりしようとはしませんでした。このことが教皇の好意を得たのだと思います。これは聖ピオ十世会の人間的側面を表したものかもしれませんが、教皇はとても人間的だと私たちは見ていますし、彼はこのようなことを重要視しています。

 これが、教皇の聖ピオ十世会に対する好意を説明できるかもしれません。繰り返しますが、私にはこの問題について決定的な答えはありません。確実なことは、こういったすべてのことの裏にはみ摂理の手が働いているということです。教皇の頭に良い考えを吹き込んでいるのはみ摂理です。教皇様は、多くの点で私たちを大いに警戒させているのですが。私たちだけではありません。多かれ少なかれ教会内の保守的な人々は全員、起こりつつあること、教皇様が言われたことに恐れを抱いています。にも関わらず、み摂理は驚くべきやり方で、私たちをしてこのような岩礁(がんしょう)を通り抜けようとさせているのです。非常に驚くべきことてす。なぜなら教皇フランシスコは、私たちがこのまま生き、生き残るようにしていることが明白だからです。教皇は、質問した人に、聖ピオ十世会をいじめるようなことは絶対にしない、と言いさえしました。聖ピオ十世会はカトリックだ、とも言われました。教皇は聖ピオ十世会を離教者として排斥することを拒否しました。「彼らは離教者ではない、カトリックだ」と言って。たとえその後、やや不可解な表現、つまり「完全な交わり」への途中にあるとおっしゃったとしても。この「完全な交わり」という言い回しのはっきりした定義がいつの日か得られることを希望します。この言い回しは、明確ないかなるものにも対応していないからです。これがフィーリング(感傷)であるからです。これが何か誰にも正確には分からないからです。

 ごく最近でさえも、私たちに関するポッゾ司教へのインタビューで、彼は教皇自身に由来するとして繰り返し引用しています──ですから公式の意見としてこれを受け取れます──教皇がエクレジア・デイ委員会に語って確認したことは、聖ピオ十世会は完全な交わりの道のりの途上にあるカトリックだ[4]、ということです。そしてポッゾ司教はどうやってこの完全な交わりが実現するかを説明しています。つまり、教会法上の形式を受け入れることによって、と。これは相当に驚くべきことです。何故なら、教会法上の形式が交わりにまつわるすべての問題を解決するのですから!

 同じインタビューの中で、その少し後でポッゾ司教はこう言っています。この完全な交わりは主要なカトリック原則[5]、つまり、教会内の一致の三つの段階、信仰、秘跡、そして統治機構を受け入れることで成り立つ、と。信仰について語りつつ、彼はここで教導職について語っています。ですが私たちはこの三つの要素のどれに対しても決して疑問を投げかけたことはありません。ですから私たちの完全な交わりについて疑問を持ったことは決してありませんし、むしろこの「完全な」という形容詞を省き、ごく単純にこう言います。「教会の中で昔から使われてきた言い回しに従って、私たちは交わりの中にある。私たちはカトリックだ。私たちがカトリックなら、交わりの中にいる。なぜなら交わりの決裂とは、正しく離教だからだ」と。

5-聖ピオ十世会の司祭たちに与えられた裁治権──教会法的結論

 教会法を見ると、完全に正常な状況にいる者でなければ、教会内で通常裁治権を持つ主体にはなり得ません。つまり、処罰されていない者、という意味です。ローマは常に、私たちの司祭は聖職停止の罰を受けている、なぜなら彼らは修道会に所属して(incardinare して)いないからだ、と。もちろん、一地方司教が教会法を正しく遵守せずに聖ピオ十世会を不当かつ無効なやり方で廃止してしまったので、聖ピオ十世会司祭は聖ピオ十世会に所属して(incardinare して)いる、と私たちは言っています。しかし、ローマは、【聖ピオ十世会は廃止されているので】私たちの司祭は聖職停止のもとにあると言い続け、今日に至るまでそうしています。聖職停止、これは何を意味するのでしょうか? これは、その正確な意味は、司祭がその職務を執行することを禁じること、ここで言う職務とは、ミサであったり、その他の秘跡だったり、告解もその中に含まれています。しかし【フランシスコ教皇は】通常裁治権を与えると言っています[6]。つまり、例外的ケース、例えば死の危険にある場合のように例外的栽治権ではありません。教会は実際のところ、こういった場合のことを予見しています。ある人が死の危険にある場合、道で死にかけている場合、すべての司祭はその身分に関係なく、たとえその司祭が破門されていたとしても、カトリックではないが有効に叙階された正教の司祭であっても、その時は告解を聞くことができ、有効にだけでなく合法にゆるしを与えることができます。これは例外的なものです。これは「通常栽治権」ではありません。ここで私たちが話しているのは通常栽治権のことです。裁治権の通常行使権を持ち、実行できるためには、繰り返しますが、いかなる制裁も受けていない必要があります。教皇がこの通常行使権を私たちに与えると宣言されたその時、この事実によって制裁は取り消された、廃止された、と教皇は暗示しています。これこそが、教会法による、──教会法の何条とか何それの書簡だけによるのではなく、教会法の精神による──教皇のこの命令を理解するための唯一の方法です。


6-ローマから派遣された高位聖職者らの訪問──教義上のまだ解決されていない問題は?

 この訪問はたいへん益あるものでした。確かに、聖ピオ十世会の一部の人々は、やや疑惑の目を彼らに向けていました。「この司教たちは私たちの居場所で何をするつもりか?」と。しかし! これは私の見方ではありませんでした。この招きはローマから来ました。たぶん、私が彼らに提案した考えの結果でしょう。それはこうです。「あなた方は私たちを知りません。私たちはここ、ローマの事務室で話し合っています。私たちのところに見に来て下さい。私たちに見に来ない限り、私たちを本当に知ったことにはならないでしょう」と。宣言文や公式発表は──インターネット上で大反響を呼んだにしろ、そうでないにしろ──私たちのあるがままの姿を知らせることはできません。こういった公式発表ではほとんどの場合、私たちの公的立場を取らねばならず、現在の教会内で出された、しかじかの表現やなにがしの行動を排斥さえしなければならないときがあります。しかし、カトリックとしての私たちの生活は、これだけで要約できるものではありません。本質的なことはそれ以外のところに見いだせるとさえ言えます。本質的なこととは、天主の十戒に従いつつ、私たち自身の聖化に励みつつ、罪を避けながら、教会の全規定に従って生きるため、私たちがカトリック信仰を生き抜くという意志にあります。私たちの経営する学校、神学校、私たち司祭、私たちの司祭としての生活、この全てが、聖ピオ十世会のまことの現実を、私たちの現実の姿の全てを形作っています。

 だから私は何度も主張しました。何度もこのように言いました。「ですから、私たちに会いに来て下さい」と。彼らは決してそう望みませんでした。その後、突然、私たちに会うために司教を派遣するという申し出があったのです。ローマが始め、どんな考えを持っていたとしても、私としてはこれは良い考えだと賛成しました。なぜか? この方法で、彼らは私たちをあるがままに見るだろうからです。事実、司教たちが訪問するすべての場所に、私が与えたモットーはこれでした。「何も変えないこと、良く見せようとしないこと、私たちは、あるがままの私たちだ、彼らにこの方法で私たちを見てもらいましょう!」そして、実際に、枢機卿一名、大司教一名、そして司教二名が私たちに会いにやって来て、さまざまな状況下で訪れて来ました。ある方は神学校に、また修道院にも来られました。これら機会の話し合いの最中に、これらの出会いの最中とその後に、出された第一印象やコメントは、とても興味深いものです。私がこのローマの招きを支援したとは正しかったのだと、これらのコメントは確認していると思います。

 彼らが私たちに告げた最初のこと、全員が言ったこと、──これはそう言えと命じられた見解なのか、個人的な意見なのか? 私にはわかりませんが、事実です──彼らは皆、こう言いました。「これはカトリック信者同士の間で行われている話し合いだ。これはエキュメニカルな話し合いとは無縁だ。私たちはカトリック信者同士の中にいる」と。こうして最初から私たちは次のような考えを一掃しました。つまり「あなたたちは完全に教会の中にいるのではない、あなたたちは半分だけだ、教会の外にいる──それがどこなのかは天主のみがご存じですが!──離教的だ……!」といった考えは吹き飛んでいました。そうですとも! 私たちはカトリック信者同士で話し合いをしているのです。これが最初のポイントで、とても益あるもの、とても重要なものでした。時としては、現在のローマでさえなお、逆のことが言われているにも関わらず。

 第二のポイントは──私はこれをさらに重要だと考えます──この話し合いで取り上げられている問題は、常に躓きの石であり続けている古典的な問題です。信教の自由、司教団体主義、エキュメニズム、新しいミサや、あるいは秘跡の新しい典礼様式についてでした。彼らは皆、この話し合いは、まだ解決されていない問題(オープン・クェスチョン)を議題として行われている、と言いました。この見解は第一級の重要性を持つと考えます。現在まで、彼らは常にこう主張してきました。「あなた方は公会議を受け入れなければならない」と。この言葉が意味する現実的意味を正確に述べることは困難です──「公会議を受け入れよ」これはどういう意味でしょうか? 
第二バチカン公会議の諸文書は、均等な価値を持つものではありません。そこで第二バチカン公会議の諸文書の受け入れも、段階的な基準や、いろいろなレベルの拘束力に沿ってなされるものです。この事実があるからです。もしも文書が信仰に関する文書であるなら、ただ単純に受け入れる義務を持っています。ですが、完全に間違った方法で、公会議は不可謬であると主張し、公会議全体への完全な服従を要求するなら、これが「公会議を受け入れること」だとするなら、私たちは公会議を受け入れません、と言います。第二バチカン公会議の不可謬性を否定するからです。公会議のある文章が、教会が以前から不可謬のやり方で述べてきたことを繰り返しているのなら、間違いなくその文章は不可謬であり、不可謬性を維持しています。私たちはそれを受け入れますし、これに関して何の問題もありません。これこそ、誰かが「公会議を受け入れよ」と言う時に、その意味するものをはっきりと区別することが不可欠である理由です。にも関わらず、この区別をもってしても、ローマの側の断固とした主張「あなた方はこれらの論点を受け入れなければならない、これらは教会の教えの一部であり、従って受け入れなければならない」ということに、現在に至るまで私たちは気づいています。ローマでだけでなく、司教たちのほぼ大多数にも、私たちへのこの態度、「あなた方は公会議を受け入れていない」という重大な非難を見ています。

 ところが、今、突然、躓きの石であり続けてきたこの論点について、ローマからの使者たちは、解決されていない問題だ、開かれた問題だ、と告げています。開かれた問題とは、議論の余地がある、議論可能な問題です。ある立場に固執しなけばならないという拘束力は、実質上、そしておそらく全体的に、軽減され、あるいは撤回されてさえいます。これは極めて重大なポイントだと私は思います。これが確認されるかどうかは、私たちが第二バチカン公会議について自由に、さらに言えば、率直に、本当に話し合うことが可能なのかどうかは、後で見てみることになるでしょう。ローマ当局に払うべきあらゆる敬意をもって、非常な混乱に陥っている教会の現状をさらに悪化させないように、正確に信仰について、信ずべきことについて、話し合うことができるかを。ここで私たちは明確さを、当局からの明確化を求めているのです。私たちはこれを長いこと要求してきました。「この公会議には曖昧な論点がいくつもあります。これらを明確にするのは私たちではありません。私たちは問題を指摘できますが、これらを明確にするのは、本当はローマの側なのです」と。繰り返しますが、それにも関わらず、これらの司教たちが、公会議には明らかな問題があると言ってきた事実は、私の意見では、極めて重大なことです。

 話し合い自体は、私たちの対話者ひとりひとりの人柄に沿って行われました。おおよそ喜ばしいものでした。なぜなら良いやりとりもありましたからです。その中には必ずしも同意できないものもありましたが……。それでも、対話した人々全員は、その評価について満場一致していました。つまり彼らは話し合いに満足していた、ということです。自分たちの訪問にも満足していました。彼らは神学生たちの資質をこう言って褒めていました。「彼らはごく正常だ(よかった! ここから始めなければならないとは……)、偏屈でも鈍感でもないし、それどころか生き生きして、おおらかで、楽しそうで、ひとりひとりは普通の、ごく素朴な人たちだ」と。この言葉は訪問者全員の口から出ました。これは人間的側面であることは否定しようもありませんが、この側面を忘れてしまうべきではありません。

 私にとってこの話し合いは、あるいはもっと正確に言えば、話し合いのより簡単な側面は大切です。問題の一つは、不信頼です。確かに、私たちはこの不信頼を抱いています。そしてローマもまた、私たちに対して同じ思いを抱いていると言えると思います。この不信頼が上まわっている限り、自然の傾きは、言われたことを何であれ悪く解釈し、あるいは解決法が提案されてもできる限り最悪のシナリオを想定してしまう、ということです。私たちがこの不信頼の目で物事を見ている限り、ほとんど進歩はないでしょう。こういった「あらかじめそうであると決めつけた非難」を取り除くためには、ある程度、最小限の信頼、平和な環境を持つことが不可欠です。私たちにはまだこの不信の目があることを認めますし、ローマの側もそうです。これは時間のかかることです。互いの人柄とその意向を正確に見極めるために、あらゆる偏見を超えるために。これには時間がかかるだろうと思います。

 これはまた、善意を示すこと、私たちを壊す意向ではなく善意を示す行為を要求しています。現在でも、私たちはまだ心の奥底にこのような考えを秘めています。この態度はかなり広まってしまっています。つまり「ローマが私たちを望むなら、それは私たちを窒息させたいからだ。最終的には私たちを破壊し、完全に吸収し、分解してしまいたいからなのだ」と。これは統合ではない、崩壊だ!と。 こういった考えが優っている限り、間違いなく私たちは何も期待することはできません。

7-教会の現状──憂慮と希望

 教会内で起きている一連の行為を見て、私には悩みの種がたくさんあります。混乱が大きくなっているのを見ています。まさに矛盾する要素から起きている混乱、教義や道徳、規定の希薄さから来る混乱です。教会が、自分一人一人の勝手なやり方に陥っています。司教たちは、言いたいことを言っています。しかも司教同士、互いに矛盾することを言っています。秩序への、公式の、明確な呼びかけもありません。どのようなものであれ、方針への呼びかけもゼロです。二、三年前にはまだ方針がありました。それは近代主義者の方針でした。例の第二バチカン公会議の精神でした。今日では、これらの問題に関して司教たちの間に、ローマにおいてさえも、深刻な不一致があるのがわかります。どの方針が勝利を得、どの方針が優っているのでしょうか? 今のところ、私には分かりません。

 私たちが前進すればするほど近代主義者たちは衰退する、あるいは衰退させられるのは間違いないという、考察、しるしに寄りかかることができます。近代主義者たちには信者たちが減少し、召命も不足しています。衰退している教会です。これは真実です。他方では、大勢の若者たちが──正確に見積もるのは難しいですが、見ることができるほど十分に大きい数であるのがわかります──、全てのレベルで、特に教義レベルにおいて、教会はもっともっと厳粛なものであって欲しいと望んでいます。若者たち、神学生たちは、聖トマスを勉強することを望んでいます。健全な哲学への回帰を、明確で健全な神学を、聖トマスのスコラ神学を求めています。彼らの中には典礼を熱烈に求める者たちもいます……「刷新された」典礼のことではなく、聖伝の典礼へ戻ることを望んでいるのです。この若者たちの数は、目覚ましいものです。どのくらいの人数なのか推し量るのは私たちには難しいのですが、現行の神学校で、これらの若者たちの世話をして働いている司祭たちの声を聞くと、フランス、イギリスで、新しい神学生たちの50%は聖伝のミサを熱望しているのだと教えてくれさえします。多すぎるのではないかと私には思えるのですが、それが本当であることを望みます。

 それにも関わらず、こういった傾向ははっきりとわかるのです。グラフの上昇ラインを示していて、何年にも渡ってこの傾向が成長していくのを見ています。ただ一つだけ例を挙げますと、去年からというもの、結婚とカトリック家庭に関するシノドの問題に関して、二つの陣営の間に以前よりもずっとはっきりとした対立があるとわかります。これは保守派が強力になってきたことが原因だと思います。間違いなく、彼らの数、少なくとも彼らの強さが徐々に高まってきていると思います。他方では、今なお多数派が支配しているとしても、力を失ってきていて、強制することができなくなってきている、少なくとも今までそうであったように何もかもを強いることはできなくなっています。

 かくして、この二つの路線が存在しています。この状況下での私たちの未来はどんなものでしょうか? 何よりもまず、しっかりと維持することです。大混乱があります。勝利するのは誰か? 誰にもわかりません。これは私たちとローマとの関係をひどく困難なものにしています。なぜなら私たちは、多くの議論を重ねたのち、明日、私たちがようやくのことで同意に達するような文書が、決定的な文書となるのかどうかを知らずに、議論の相手と話し合いをしているからです。2012年には、一つの文書がどのように、干渉によって直され修正されていくのか、そのさまを私たちは目撃してきました。この干渉は、より高位のローマ当局からのものでしたが、それは教皇様ではありませんでした。ここでも、教会を統治しているのは誰なのでしょうか? これは未回答のまま残される非常に意味深い問いだと思います。はっきりと定義できない勢力が存在するのです……。


8-私たちは聖母に何を願うべきか?

 ああ! たくさんのことをです! 何よりもまず救霊を。私たちの救霊を、一人一人の救霊を、聖ピオ十世会に、聖ピオ十世会司祭たちに、みずからを委ね、やって来る一人一人の霊魂たちの救霊をです。ですから聖ピオ十世会が忠実であるよう聖母に願いましょう。教会への忠実を。私たちの手にある教会のすべての宝──なぜなのか、どうしてなのかは天主だけがご存知です──教会の宝である非凡な遺産への忠実を。これは私たちのものではありません。私たちの唯一の願望は、教会の中にこの宝のための場所を、正当な場所を取り戻すことだけです。

 聖母の凱旋を求めましょう。聖母はこれを告知されました。私がいつも言っていることですが、私たちは待たされ続けていて、少しじれったくさえなります。特にこれと矛盾するように見えるあらゆることが起きているのを見る時に。でも、これは矛盾ではないのです。天主がお許しになる発展段階に過ぎません。恐るべき、身震いする勝負です──すなわち、人間の自由が、天が要求なさることとに答えていないことです、キリスト信徒でさえもそうです。ファチマで宣言された天の意向──つまり、天主の意向──キリスト信者たちの心にマリアのけがれなき御心への信心を導入すること、それがなされるにはあまりにも苦労しています。でも、これはそれほど難しいことではありません。これは非常に素晴らしいこと、非常な慰めなのです! 善き主とサタンとの間のこの主要な戦い、天主が自由であるように計画され、武器によることなく征服することを望まれた霊魂を戦場とするこの戦いを私たちは理解しています。全人類に膝をかがめさせるというやり方で、天主はご自分の意志を威厳をもって課すことがおできになるのです──これは世の終わりに起きることでしょうが、それはずっと後のことでしょう。戦闘は今、行われているのです。

 ですから、天主のために霊魂を勝ち取る恩寵を、この事業に協力する恩寵を願いましょう! このようにして私たちは多くのことを天主に願うのです。救霊という使命を成し遂げるためのすべての要素を教会が再発見することができるよう、私たちは天主に願います。一つのこと、教会のためになる第一の、唯一の材料は霊魂の救いです!

インタビュー独特の雰囲気を残しておくため、話し言葉のまま載せてあります。

(Video interview filmed by DICI on March 4, 2016―Transcription and translation DICI dated March 21, 2016)

[1] See, in DICI no. 332 dated March 11, 2016, “Press clippings: Aftermath of Bishop de Galarreta’s conference in Bailly”.
[2] These preconditions were: the Tridentine Mass granted to all priests and lifting the censures against the Society. See DICI no. 74 dated April 12, 2003.
[3] From October 2009 to April 2011.
[4] Here is the answer of Msgr. Guido Pozzo, Secretary of the Ecclesia Dei Commission, in the interview that he granted to Zenit on February 25, 2016. Question: “Your Excellency, in 2009 Pope Benedict XVI lifted the excommunication of the Society of Saint Pius X. Does that mean that now they are once again in communion with Rome?” Answer: “Since Benedict XVI lifted the censure of the excommunication of the bishops of the SSPX (2009), they are no longer subject to that grave ecclesiastical penalty. Even after that step, however, the SSPX is still in an irregular situation, because it has not received canonical recognition by the Holy See. As long as the Society has no canonical status in the Church, its ministers do not exercise in a legitimate way the ministry and the celebration of the sacraments. According to the formula of then-Cardinal Bergoglio in Buenos Aires and confirmed by Pope Francis to the Pontifical Commission Ecclesia Dei, the members of the SSPX are Catholics on the path toward full communion with the Holy See. This full communion will come when there is a canonical recognition of the Society.”
[5] Msgr. Pozzo, ibid.: “What appears crucial is to find a full convergence on what is required to be in full communion with the Apostolic See, namely the integrity of the Catholic Creed, the bond of the sacraments and the acceptance of the Supreme Magisterium of the Church.”
[6] 2015年9月1日、教皇フランシスコが新福音化推進評議会議長のサルバトーレ・フィジケッラ大司教宛に送った書簡:「わたしは、特別な配慮として、いつくしみの特別聖年の間に聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を受けた信者の罪のゆるしを、有効かつ合法なものとすることを認めます。」

天主は木によって諸国を支配されたもう

2016年04月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年4月1日 復活の金曜日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年4月1日 復活の金曜日 のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年4月1日、復活の金曜日のミサをしています。4月の初金のミサは、典礼の法規上する事ができませんが、しかし初金の信心はする事ができますので、今日のこのミサの直後いつものように、御聖体降福式を1時間して、聖時間を過ごす事に致しましょう。

それから今日は、黙想の前に1つだけお知らせがあります。今日、会長が実際にその場所に行って見て来られて、私も行ってその場所を見て、シュテーリン神父様もそれについてOKして下さって、「とても良い事だ」と仰って下さったので、今そのように話を進める事にしていますが、私たちはクチュール神父様のもとで、「御聖堂が与えられますように」と、いつもお祈りをしています。
毎月いつもミサの度毎にお祈りをしてきました。ヨゼフ様に特にお祈りして、ヨゼフ様に、「もしも御聖堂が与えられたら、祭服を、ヨゼフ様の祭服を作ります。」と。
皆さんのご協力によって、もうヨゼフ様の祭服を作ってしまいました。3月19日には御ミサをここで捧げました。
その同じその日に、不動産屋さんから連絡がありました。...
とても良い条件で、とても交通の便の良いこのすぐ近くに、1フロア全部使う事ができて、建物も新しいし、駅のすぐ近くで、このコロナホテルのこの部屋を借りると思えば同じくらいで、特に、このクリスマスとかもう何時間も延長する事を考えると、そのように24時間いつも使う事ができるのは、はるかに経済的になるという、そういう場所があるという事です。
その場所にヨゼフ様の御取り次ぎと、管区長様の許可と、皆さんの寛大な援助で、引っ越しをする事を考えています。まだいつそれが実現できるか分からないのですけれども。...


「私には、天と地の全ての権能が与えられている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日復活の金曜日に、イエズス様は弟子たちを集めて、とても深い真理の言葉を仰って下さいました、「私には、御自分には全ての権能が与えられている。天と地の全ての力が与えられている。だから、行って私の教えた事を教えよ。洗礼を授けよ。私は世の終わりまでお前たちと共にいる。心配するな。」

今日のミサの中には、天主は、「こう諸国に言え、『天主は木によって諸国を支配している』と。」

私たちはこのことに、イエズス様が全ての力を、天と地の全ての権能を持っておられる、イエズス様は私たちと共におられる、世の終わりまでおられる、という事に深く信頼致しましょう。御復活なさった時のイエズス様は、最初に仰った言葉は、「汝らに平和あれ。」という言葉でした。私たちにイエズス様は、安心と、平安と、喜びを与えようとして下さっています。イエズス様は私たちに、十字架をも下さるかもしれません。しかしそれは平和の為です。私たちが、イエズス様との永遠の栄光と平和を受ける為です。ここに、私たちの本当の進むべき道が現れています。

聖パウロはその書簡の中でこう言っています、「一体誰が、私をキリストの愛から離す事ができるだろうか。」と。「艱難だろうか、憂いだろうか、飢えだろうか、裸だろうか、迫害だろうか、剣だろうか、いや何も、そのようなものは何も、私からキリストの愛、私をしてキリストの愛から離す事ができない。」

一体何故でしょうか?何故かというと、聖パウロは自分の本当の平安を、イエズス・キリストの愛に深く根付かせていて、「イエズス・キリストが、この全てを支配しておられる、十字架に於いて支配しておられる、十字架の木に於いて支配しておられる。もしも私たちに十字架を送られるとしたら、それは私たちの栄光の為だ。」と知っているからです。聖パウロにとって、私たちにとって、「キリストの為に苦しむ、十字架を担う、或いは愛着していた被造物を失ってしまう、或いは侮辱を受ける、苦しみを受ける、辱めを受ける、笑われる、キリストの為に苦しむ、という事は、実は私たちにとっては喜びの元であって、栄光の元であって、平和の元だ」という事を知っているからです。

イエズス様は現れて、御自分の傷を聖トマスにお見せになりました。もちろん聖トマスが、「私はこれを、この指をその傷に入れなければ、科学的な態度を取って、実験して、本当だと確かめられければ信じない。」と言ったので、「さぁ」と言ってみせたのですけども、イエズス様はその同じ傷を私たちにも、こう見せて下さいます。私たちにもこの傷を見せて、「さぁ、お前の手を入れてみろ。」と仰います。この傷をお見せになるという事は、私たちの為にイエズス様はどれほど苦しんだのか、どれほど私たちを愛して下さっているのかを、「見よ」という事なのです。

また同じこの傷をイエズス様は御父に見せて、「父よ、私は御身の為にここまで従順でした。十字架の死に至るまで従順でした。だから、この私の兄弟を憐れみ給え。」と取り次いで下さる傷でもあります。イエズス様は、この苦しみを受ける時にいつも考えていたのは、御父の事と、私たちの救いの事でした。

聖パウロと私たちにとってもやはり同じです。もしも苦しみがあるならば、イエズス様が私たちに、辱めや辛い事を受ける事をお許しになるならば、「これは、私たちも天主の為に、霊魂の救いの為にこれを捧げる機会が与えられたのだ。」「これは、私たちの栄光に、復活に繋がっているのだ」という事を思い出さなければなりません。イエズス様がその苦しみを全て、御父と私たちの霊魂の事を思って捧げて下さったのと同じようにです。

聖パウロはですから、こう言います、「救い主イエズス・キリストの十字架の他に、私たちは誇るものは何もない。」と。

今日は4月の初金曜日で、復活の金曜日ですから、是非イエズス様の傷に、御脇腹の傷に、私たちの手を深く入れる事を許して頂くようにお祈り致しましょう。イズ様の聖心の一番近くに手を、頭を沈めて、イエズス様の聖心に触れる事ができますように。御父を愛し、私たちをどれほど愛されて、この苦しまれ、復活されたイエズス様の聖心のその愛に、私たちもその愛の火を受ける事ができますようにお祈り致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。私たちの為に十字架に付けられて、傷付けられた御子の傷を、私の心にも傷付けて下さるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日の大阪のミサ会場は302です

2016年04月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日と明日の大阪でのミサ会場のお部屋は、本館の302号です。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

天主の十戒「第四戒」 ー隣人に対する掟の中で、第一の掟ー:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年04月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第5回目は、第四戒「汝、父母を敬うべし。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年4月10日 復活後第二主日―大阪 霊的講話「第四戒」


親愛なる兄弟の皆さん、

天主は、最初の三つの掟で、天主に対する欠かすことのできない義務を私たちにお命じになったのち、次の七つの掟で、隣人に対する義務を私たちにお命じになります。これらすべての掟は、愛徳という掟によって実現されるのです。「隣人を自分のように愛せよ」(マテオ19章19節)。実際、「天主を愛する者は自分の兄弟も愛せよ。これは私たちが天主から受けた掟である」(ヨハネ第一4章21節)。聖パウロ自らが説明します。「全律法は『自分と同じように隣人を愛せよ』という一言に含まれているからである」(ガラツィア5章14節)。天主はモーゼに、二つの「石版」に書かれた十戒をお与えになりました。最初の三つの掟が「第一の石版」で、残りの七つの掟が「第二の石版」でした。これは二つの愛徳の掟に対応しています。これについて私たちの主イエズス・キリストは言われます。「すべての律法と預言者はこの二つの掟による」(マテオ22章40節)。

英語で愛を示す「love」という言葉は包括的すぎ、意味が広すぎます。愛は、ギリシャ語では三つの言葉に対応しています。感覚的な愛である「エロス」、「博愛」である「フィロス」、そして霊的であり全面的な自己犠牲の愛である「アガペー」です。この三番目の愛がラテン語で「カリタス」、英語では「チャリティー(慈愛)」と訳されます。この最高の愛について、こう言われます。「天主は愛である!」(ヨハネ第一4章8節)。現代の世俗的な言葉では、チャリティー(慈愛)は低いレベルの概念ですが、カトリック信者は、霊的であり全面的な自己犠牲の愛である「アガペー」という高いレベルの概念を守るべきです。私たちは信仰のために、天主に敬意を示す(第一戒)ために、殉教者となって死ぬ覚悟を持つべきであるだけでなく、隣人の救いのためにもその覚悟を持つべきです。聖ヨハネがこう言うように。「主が私たちのために命を捧げられたことによって、私たちは愛を知った。私たちもまた、兄弟のために命を捧げねばならぬ」(ヨハネ第一3章16節)。このように、天主の掟が私たちに教えるのは、まことの愛であり、まことの愛における順序です。

隣人に対する掟の中で、第一の掟は私たちに「汝の父と母を敬え」(脱出[出エジプト]20章12節)と命じています。この掟は「汝殺すなかれ」(脱出20章13節)よりも前に置かれており、この掟の重要性を示しています。自分の親を大切にしない者は、いったい誰を大切にしようと思うでしょうか。誰も大切にはしません! この掟は大変厳しいため、天主はさらにこう付け加えられました。「父あるいは母を呪う者は死と定められる」(脱出21章17節)。また私たちの主イエズス・キリストは山上の垂訓の中でこの両方の節を取り上げられます。旧約においては、死刑は非常に重大な罪、大罪を示しているのです。

気を付けていただきたいのは、天主が言われたのは汝の父母を「敬え」であって、汝の父母を「礼拝せよ」ではないことです。私たちは親を、被造物に見いだされ得る相対的な優越性のために尊重し、尊敬しますが、それは天主の最高の優越性のために行なう礼拝とは違います。なぜでしょうか? 私たちは両親から命を授かりました。両親が私たちに命を与えました。しかし、両親は命の源ではありませんでした。天主だけが命そのものであり、すべての命の源なのです。両親にできたのは、自分たちに授けられた命を私たちに伝達することだけでした。天主が命の源そのものなのであり、またそれゆえに最高の優越性を持っておられるのですから、私たちは、天主に最高の敬意、すなわち礼拝を捧げるべき借りがあるのです。親は私たちに自分たちが授かった命を与えてくれたのですから、私たちは両親に、最高の敬意ではないものの、まことの敬意である相対的敬意を示すべき借りがあるのです。

従って、この掟に反する罪は二つあります。一つは親を大切にしないという怠慢の罪であり、もう一つは祖先の崇拝という行き過ぎの罪です。親を大切にしないことは、現代世界に共通に見られますが、これは全くキリスト教に反しており、良きカトリック信者にはありえないことです。旧約はこの罪に対して非常に厳しかったため、それが反抗の段階にまで達すれば、その罰は死刑であり、これは大罪を示していました。「ある男の子どもが、がんこで反抗的で、父の言うことも母の言うことも聞かず、懲らしめても言いつけを聞かなければ、父母はその子を捕らえて町の長老たちのいる門のところへ連れて行き、自分の町の長老にこう言う、『この息子はがんこで反抗的で、私たちの言うことを聞かず、女狂いするし酒におぼれています』。そこで町の男たちは彼に石を投げて殺さねばならぬ。こうすればおまえの町から悪を取り除ける。全イスラエルはそれを聞いて恐れるだろう」(第二法[申命記]21章18-21節)。

祖先崇拝という行き過ぎの罪は、中国文化(圏)の異教の人々によく見られます。祖先崇拝もまた、唯一のまことの天主以外の「他の神々」の崇拝と同じく、旧約では死刑によって罰せられました。そのような環境の中で生きているのですから、皆さんもこの行き過ぎの罪を避けるよう注意しなければなりません。これもまた大罪なのですから。

若年のときに親に敬意を示すべきだということは、子どもは親に従順である義務があるということを暗示しています。従順は幼年時代の大きな徳です。聖グレゴリウスはこれを「すべての徳の母」と呼んでいます。なぜなら、子どもが親に従順であるとき、それによって他のすべての徳を行うことを学ぶからです。その理由は、親が、たとえ自分たちが常に正しいことをするわけではないにしても、ほとんどの場合、子どもに正しいことをするよう命じるからです。従順は幼子イエズスの徳でした。幼いときだけでなく、十代のときも従順でした。聖書がこう言うようにです。「イエズスは彼らとともに下り、ナザレトに帰って、二人に従って生活された」(ルカ2章51節)。イエズスはそれまでずっと大変従順でしたから、マリアとヨゼフは、イエズスがなぜエルザレムで離ればなれになったのか理解できませんでした。しかし、それは天の御父への従順からであり、その後のイエズスはマリアとヨゼフに「服従」しておられました。

この従順の義務がどんな理由に基づくのかというと、子どもは自分の生活を方向づける知恵をまだ持っていないからです。そのため、子どもは自然に親の指導の下にいて、従順によって正しいことをすることを学ぶよう、天主が定められたのです。このように、親の権威は子どもたちの善のためです。ですから、聖パウロは命じます。「子どもたちよ、主において両親に従え。それは正しいことである」(エフェゾ6章1節)。

従順は道徳上の徳であり、怠慢―つまり不従順、合法的な命令を守らないこと―と、行き過ぎ―つまり盲従、非合法の命令まで守ること―との間にあります。従順に反する罪のほとんどは不従順ですが、時には従順の行き過ぎによって罪を犯すことが起こりえます。典型的なケースは、親が子どもを虐待する人物に娘を売ったり、父親が自分の娘に虐待をしたりする場合です。そのとき、その子どもには「いやです」と言うべき厳しい義務があります。それは簡単ではありませんが、義務なのです。もちろん、そんなケースにおいて、そんな方法で自分たちの権威を乱用する人々の罪は、大変な罪です。子どもたちにとっての善であるべきという親の権威の目的そのものに、真っ向から反するのですから。ほとんどの親は自分の子どもたちに悪いことをするよう命じることはないでしょう。でも、それでも現代世界ではそんなケースが見られ、それは非難されなければなりません。

子どもたちが親に対して示すべき敬意を表す方法は他にもいろいろあります。例えば、親が話しているとき、子どもたちはそれを聞くべきです。子どもたちは親の話の邪魔をしてはいけません。また、地下鉄では、子どもたちは親や年上の人々に席を譲るべきです。親が子どもたちを座らせて自分たちが側に立っているのは、良い教育に大きく反しています。でもこれは、不幸なことですが、今日ではよく見かける光景ですが、そうすると親を敬うことを子どもたちに教えていないのです。

子どもたちが大人になったのちには、もう親への厳しい従順(の義務)を負いません。しかし、親への敬意を示すという義務は残るのです。子どもたちが親からどれほど多くの物を受けたか、命だけでなく食べ物や衣服、特に自分の教育まで含め、そのリストを作るならば、非常に長いリストになるでしょうし、良い親であればあるほどそのリストはさらに長くなるでしょう。大人になっても、子どもたちが親の忠告を聞くのは善いことなのです。

さらに、親が病気になったり年老いたりすると、子どもたちには親の世話をする特別な義務があります。こうして、自分たちの若いころに親が長く面倒を見てくれたお返しをするのです。親に多くの子どもたちがいる場合は、そうあるべきですが、その場合は子どもたちが年老いた親の世話をするのは難しくありません。私は、十二人の子どもたちがいるある母親のことを覚えています。彼女が病気で死期が近づいたとき、子どもたちと孫たちは絶え間なく面倒を見るために協力していました。彼女は決して一人にはなりませんでした。常に子どもか孫の一人が一緒にいて、共に祈り、慰めるなどしていました。良き親への美しい報いです! 子どもたちは、親と共に祈って、親が聖なる死を迎えるよう助けるべきです。また、親のために司祭を呼んで、終油の秘跡を受けさせるべきです。そして親が亡くなったあとも、子どもたちは親をきちんと埋葬して、親の霊魂の安息のために祈るべきです。

その反対に、多くの親たちが子どもを持つ義務を果たさない現代世界は、今や年老いた人々の面倒を見ることができないという深刻な問題を抱えています。年老いた人々の面倒を見るための若い世代が十分にいないのです。こうして、妊娠中絶が安楽死につながるのがわかります。中絶が子どもたちに対する親としての義務に反する最大の罪であるように、安楽死は親に対する子どもとしての義務に反する最大の罪なのです。

実際、第四戒は親を敬うことを子どもたちに義務づけるだけでなく、親にもまた、子どもたちの面倒を見ることを義務づけ、その能力に従って子どもを持つことをも義務づけているのです。これは実際に楽園において与えられた掟でした。「生めよ、ふえよ」(創世記1章28節)。私に言わせてもらえば、ふえるのに最も小さな数は2を掛けることです。ですから、二人の親はできるなら少なくとも四人の子どもを持つべきです。良きカトリックの家庭には、しばしば五人、六人、七人、そしてそれ以上の子どもがいます。また、一人か二人の子どもよりも、多くの子どもを教育する方が簡単です。実際、大家族には自己中心の心が存在する場所はありません。しかし、両親に一人か二人の子どもしかいないときは、子どもたちは自己中心になりがちで、すべてが自分たちのためにあると考えがちです。子どもをもうけ、教育することは、まさに結婚の第一の目的です。

親はまず第一に、子どもたちに信仰を、私たちの主イエズス・キリストの知識と愛を教えるべきです。これは最初から、実際結婚の前からでさえ始まるもので、将来の両親になる夫婦は将来持つ子どもたちのためにすでに祈るべきです! すると、子どもたちは、母親の毎日の祈りを胎内で聞いて、生まれる前から家族の祈りに慣れるのです! 家族の祈りは実際、家庭生活に欠かせないもの、子どもたちの良き教育に欠かせないものなのです。家族の祈りを規則的に行うことは欠かせないものであり、祈りの長さよりも規則的に祈ることが重要です。ロザリオを一連だけでも毎日祈る方が、時折全部のロザリオを祈るよりもよいのです。子どもたちが幼いときは、長すぎる祈りは理想的ではありません。子どもたちが育つにつれて、家族の祈りも子どもたちの成長とともに育っていくでしょう。

良い教育のためには良い模範が必要です。親は子どもたちの模範になるべきであり、特にあらゆるキリスト教的な徳の実践において模範となるべきです。良い教育にはまた、ある程度しつけも必要です。自分たちの子どもたちを決して正そうとしない親の弱さは罪であり、子どもたちを正しく教育しない親は、それを天主に釈明しなければなりません。子どもたちはしばしば、親からの過剰な寛大さや甘やかしのせいで駄目になってしまいます。「人は実によってその人を知ることができる」(マテオ7章20節)。子どもたちは親の実なのです。ですから、良き子どもたちは良き親への最上の報いなのです。

しつけ(規律)に怠慢があるように、行き過ぎることもあり得ます。聖パウロはそれについて親たちに警告しています。「両親よ、あなたたちの子どもをいからせることなく、主に従って規律をもって育て戒めよ」(エフェゾ6章4節)。

さて、完璧な家庭はなく、完璧な親もいません。ですから、すべての家庭で許しが必要です。親は子どもを許し、子どもに対して忍耐強くあるべきです。でも正しく教育すべきです。そして子どもたちは互いに許し合い、親が自分たちの世話をするのに欠けていたところがあってもそれを許すべきです。自分の兄弟姉妹を許さず、親や子どもを許さないとしたら、いったい誰を許すというのですか? さらに、「一人一人が心から兄弟を許さないと、私の天の父もあなたたちをこのように扱われるだろう」(マテオ18章35節)。「他人を許さなければ、父もあなたたちの過失を許してはくださらぬ」(マテオ6章15節)。

多くの子どもたちがいる良きカトリックの家庭においては、修道者として、あるいは司祭として生きるために天主に自分を捧げるよう、天主が子どもたちに召命を与えられることがよくあります。このようなとき、親には子どもたちに召命を強制する権利も、子どもたちを召命から妨げる権利もないことを知っておくのは良いことです。親の義務は、土地を用意し、悪い習慣である雑草をすべて取り除くことであり、召命の種を植え付けることは天主の専権事項です。しかし、良き親は子どもたちの中に召命があるようしっかり祈ります。そうすれば天主は親の望むもの以上のものをお与えになることができるのです! 幼きイエズスの聖テレジアの両親を見てください!

親たちが子どもたちに、この世の富や成功だけを願うのは良いことではありません。親たちの中には、いかなる犠牲を払っても子どもたちの成功を見ることに熱心なあまり、この世のものを好むことや永遠のことを無視することを実践によって教えている人々がいます。これは全く良くありません。そうではなく、親たちは、徳がこの世のいかなる富よりも重要であると、子どもたちに教えるべきです。聖パウロは書いています。「確かに足ることを知る人々にとって敬虔は利益の道である。私たちは何も持たずにこの世に来て、また何も持って去ることができない。食べる物と着る物があれば、それで満足しなければならない。ところが富を求める人々は誘(いざな)いとわなと、人間を堕落と滅亡に落とし込む愚かな恥ずかしい欲望に陥る。実にすべての悪の根は金への執心である。それを得て信仰から迷い、さまざまの苦しみをもって自分自身を刺し貫いた人々がいる」(ティモテオ前書6章6-10節)。

第四戒は親に対してだけでなく、更にはあらゆる権威に対しても適用されます。つまり、政治上の権威と宗教上の権威に対してです。実際、あらゆる権威は一種の父権であって、父権はあらゆる自然的権威の第一の基礎です。ですから、聖パウロは書いています。「すべての人は上の権威者に服従せよ。なぜなら、天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられたからである」(ローマ13章1節)。そしてこう結論します。「すべての人に与えねばならぬものを与えよ。貢を払うべき人には貢を、税を払うべき人には税を、恐れるべき人には恐れを、尊ぶべき人には尊敬を与えよ」(ローマ13章7節)。これは、宗教上の権威について特に当てはまります。聖パウロはティモテオにこう書いています。「正しく支配する長老たちは二重の誉れを受ける値打ちがある。特に言葉と教えによって働く人はそうである」(ティモテオ前書5章17節)。

この誉れ、敬意は従順の義務も含んでいます。しかし、上で説明したように、従順は道徳上の徳であって、怠慢―つまり不従順―と、度が過ぎること―つまり盲従―の間にあります。ですから、妊娠中絶を許すような悪しき法律には抵抗しなければなりません。また、宗教上の権威者が、私たちの主イエズス・キリストから使徒たちとその聖なる後継者を通して何世紀にもわたって伝えられてきたことに反する新奇なことを命じるとき、その新奇なことにも抵抗しなければなりません。でも、権威の乱用に抵抗する一方で、権威の所有(者)自身に対する敬意は持ち続けなければなりません。それは、権威を与えられた人物の内に、すべての権威の源である天主ご自身の権威そのものを見るからです。


天主の十戒「第三戒」 ー私たちは日曜日に何をする義務がありますか?ー:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年04月13日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第4回目は、第三戒「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年4月10日 復活後第二主日―大阪 お説教「第三戒」


親愛なる兄弟の皆さん、

天主はどこにでもおられますが、旧約において天主は、ある場所がご自分のために聖別されるようお求めになりました。まず砂漠での幕屋、のちにはエルザレムの神殿です。どこであっても天主に祈り、敬意を捧げることができました。またどこであっても天主は恩寵を与えてくださいました。しかし、天主は、この神殿でご自分に特別な祈りと犠牲が捧げられるよう望まれました。同じように新約においても、聖にして母なる教会は、天主を礼拝するために建物である教会を聖別します。人はどこであっても祈ることができますが、これらの場所は「祈りの家」であって、そこでは(他の場所よりも)さらに多くの恩寵が与えられます。なぜそうなのでしょうか? ご托身のおかげなのです! 天主の御子そのお方が天から下られて、童貞聖マリアのいとも清らかな御胎内で、人間の本性を取られました。ですから、聖母は最も優れたご聖櫃のようになられました。主は特定の場所に住まわれました。どこであっても主に祈ることはできましたが、主に近づいて「服の房に触れた」(ルカ8章44節)ときには、確かにさらに多くの恩寵が与えられました。主の人間の本性において、主は御父に至る道であり、ほかに道はありません。「私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。すべての恩寵は、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性を通してもたらされますが、少なくとも主の霊魂を通して、非常にしばしば主の御体を通してもたらされます。それは、十字架上の主の御体の犠牲のおかげなのです。そのため、すべての人は私たちの主イエズス・キリストに、その人間の本性に、その御体に近づく必要があります。特にご聖体によって。

同じように、天主は永遠でいらっしゃいますが、ご自分にある時が捧げられるようお求めになりました。人はいつであっても祈ることができますが、ある時に祈ることが求められます。旧約においては安息日であり、新約においては日曜日、「主日」です。また、御降誕のような「祝日」もあります。祝日は恩寵を得られる特別な日で、天主が最も豊かな恩寵を与えてくださいます。なぜそうなのでしょうか? これも再び、ご托身のおかげなのです。これらのご降誕やご復活のような日々は、ご托身になった天主のみ言葉が、信経で唱えるように「人たるわれらのため、またわれらの救いのために」してくださったことの年に一度の記念日です。聖人たちの祝日でさえも、キリストの優れた肢体、つまりキリストの神秘体である教会の優れたメンバーの祝日です。天主なる御子がありがたくも地上に下り給い、その十字架の犠牲によって私たちを贖い給い、ご復活の主日に再びよみがえり給うたということはまったく驚くべきことであり、私たちがこの出来事に恩を感ぜず、お祝いをしないなどということが、いったいどうしたらありえるでしょうか? その日は、ご托身になった主ご自身によって聖化されたのです。

旧約においては、天主に捧げるよう天主によって選ばれた日は安息日、すなわち土曜日で、一週間の最後の日でした。これは二重の意味を持っています。1)旧約の最後にキリストが来られることを意味し、また、2)世の終わりに聖人たちに約束された永遠の安息を意味します。実際、天地創造の七日間の間で、「天主は安息日に休まれた」のであり、その最後の「一日」には夕べ(夜)はありませんでした。ですから、これは永遠の日であって、終わりのないことを意味します。ですから聖書は言います。「主において死ぬ人は幸いである。そのとおり霊も言われる。彼らは今からその労苦を休む。業は彼らに従うからである」(黙示録14章13節)。その永遠の日には、彼らは「永遠の安息」と(夜はもうない)「絶えざる光」を得るのです。

新約においては、教会は一週間の最初の日、日曜日を聖化します。1)なぜなら、キリストは日曜日に死者の中から復活されたからであり、そのためこの日は「主日」です。また、2)なぜなら、キリストは新約の始まりだからです。新約聖書自体に、日曜日を示す「主日」(黙示録1章10節)という表現があり、この言葉は最も初期の教会からひろく使われています。教会は、私たちの主イエズス・キリストがペトロにお与えになった「つなぎ、解く」という権威を持っていましたから、使徒たちは聖化されるべき日を安息日(土曜日)から日曜日に変更しました。セブンスデー・アドベンチストのようなプロテスタントは、いまでも旧約の安息日(土曜日)を聖化すべきだと言い張って、聖福音で非常にはっきりと示されているこの使徒に与えられた権威を実質的に否定しており、いまだに旧約の儀礼のいくつかを守ることによって、救い主がもう来られたということを実質的に否定してしまっています。

私たちの生活において、天主に第一の場所を捧げること、私たちの主イエズス・キリストに第一の場所を捧げることもまた、大変重要です。主はそれに値するお方です!主は天主であって、私たちはすべてを主に負っているのですから。そのため、私たちは主に一週間の最初の日を捧げるのです。

私たちは日曜日に何をする義務がありますか? 天主の掟は、私たちが日曜日を「聖化」すべきだ、聖なるものとすべき、本当に聖なるものとすべきだと言っています。ですから、私たちはその日に祈る義務があります。私たちは毎日祈るべきですが、もし皆さんが月曜日や火曜日に祈りを忘れてしまっても、それは大罪ではありません。しかし、日曜日の一日中まったく祈らなかったら、それは大罪です! 最も聖なる行いはミサの聖なる犠牲ですから、教会には、日曜日にミサにあずかるという「教会の掟」があります。良いミサがあるなら、ローマ・カトリックの聖伝のミサに行くことができるなら、皆さんは必ずそこへ行かなくてはなりません。

ミサの場所が遠すぎるなら、皆さんは毎週日曜日に遠くのミサに行かねばならないという義務はありません。この「遠すぎる」とは、どの程度でしょうか? 教会博士にして倫理神学の専門家であった聖アルフォンソ・デ・リゴリは、行くのに(また帰るのに)一時間以上かかるときはミサに行く義務を免除されるだろう、と言いました。彼の時代には、足で歩いて移動しましたから、自動車で行くよりも確実に疲れたことでしょう。それでも、特別な祈りによって日曜日を「聖化する」義務があることに注意してください。ミサが続くのと同じぐらい、少なくとも三十分は祈りに時間を使うべきです。ロザリオを祈り、さらにその日にふさわしい主日のミサの固有文を読み、聖歌を歌い(特に家族で歌うよう勧められています)、子どもたちに公教要理を教えることができます。ミサに行くには遠すぎるところに住んでいる家族であれば、家族そろって日曜日を聖化すべきです。なぜなら、「私の名によって二、三人の集まるところには私もまたそこにいる」(マテオ18章20節)からです。

ミサに行くことができるなら、行くべきですし、時間に間に合うように着くべきです。むしろ、告解をしたり、他の教区民とともにロザリオを祈ったりすることなどができるようもっと早めに行くべきです。ミサに遅れてあずかることは罪です。信経の前から(または、信経のない場合は福音の終わるより前から)あずかるなら小罪ですが、奉献文に間に合わなかったら、それは大罪になります。なぜなら、奉献文はミサの犠牲(奉献文、聖別、聖体拝領)のうちの欠かせない部分であるからです。

出席できるミサが恥ずべきものしかない場合、例えば手による聖体拝領があったり、ご聖体に対する尊敬が著しく欠けていたり、女性の聖体奉仕者、女性の侍者、女性の朗読奉仕者がいるといった場合、どうすればいいでしょうか。それらはすべて、私たちの主イエズス・キリストに当然捧げるべき敬意に反し、男性に留保されている司祭職に関する信仰の教義に反します。そんな恥ずべきミサに行く義務は誰にもありません。なぜなら、人は、そのような危険から自分の信仰を守らなければならないからです! (主日を守るという)教会の掟は、そのような恥ずべきミサには適用されません。皆さんや皆さんの子どもたちは、そのようなミサに行くよりも、家庭で日曜日を聖化する方が、もっとよく信仰を守ることになります。しかしだからといって、家庭で日曜日を聖化することを怠ってはいけません。そうしないなら、本当に罪を犯すことになります。

ミサが新しいミサであるものの、そういう恥ずべき点がない場合は、どうすべきでしょうか? ルフェーブル大司教のアドバイスは、新しいミサは避けなさい、でした。なぜなら、そういう恥ずべき点がないとしても、新しいミサ自体の中に、多分にプロテスタント化へ進む新しい精神と傾向があるからです。たとえば、もはや天主に捧げる犠牲の祭壇ではなく、会衆の方へ向く食卓として意図された、逆向きの祭壇。典文の中の十字架のしるしのうち95%の廃止、ひざまずきのうちの70%の廃止、奉献文の中の(犠牲に)ふさわしい祈りの廃止、ミサの最も聖なる箇所である聖変化の言葉自体の「あなたたちと多くの人々のため」を「あなたたちとすべての人々のため」とする悪しき翻訳など。これは驚くには当たりません。六人のプロテスタントの牧師を含む委員会がつくったものですから! これらの改革はすべて、ゆっくりとカトリック信仰を弱めてしまいます。このため、ルフェーブル大司教のアドバイスは、新しいミサを避けることなのです。可能なときに聖伝のミサに行く努力をするのであれば、皆さんが家庭で日曜日を聖化する方が、よりよく信仰を守ることになるでしょう。

ローマと一致していない聖伝のミサについては、どうでしょうか? ロシア正教の司祭のように、司祭がローマと一致していないなら、聖伝(東方典礼)のミサを捧げるとしても、そんなミサに行ってはいけません。これは、これまで変わることのない教会の教えです。その理由は、聖トマス・アクィナスによって示されています。ご聖体は一致の秘蹟であり、その一致を拒否しつつミサに参加することは、その秘蹟に偽りを加えることであり、間違いなく天主に対して罪を犯すこと、私たちの主イエズス・キリストに対して罪を犯すことです。なぜなら、キリストの花嫁である教会、キリストの体そのものである教会に対して罪を犯すことだからです。司祭が理論上は教皇を認めているとしても、教皇とのどのような関係も拒否するなら、同じことが当てはまります。その司祭の行為が、理論上の主張を否定しているのです。聖ピオ十世会は常に、そのような立場を拒否してきましたし、常に教皇を認めてきました。聖ピオ十世会は完全に合法的に教会の内に創設され、決して有効な方法で教会から切り離されたことはありません。このことは、教皇ベネディクト十六世が認められ、聖伝のミサは決して禁止されたことはないと言われました(こうして、聖ピオ十世会を廃止するとした理由それ自体が無効であると認めてくださったのです)。その後、ベネディクト教皇は私たちの司教に対する(無効な)破門を撤回されました。また、フランシスコ教皇は、私たちに告解に関する通常裁治権を与えてくださったことにより、聖ピオ十世会の教会内における地位を実質的に認めてくださったのです。聖ピオ十世会は、教理上の妥協をすることなく、教会法上の正当な取り扱いを求めて活動しているのです。

この第三戒には二番目の義務があります。日曜日に労働を休むことです。旧約においては労働を休むことがもっと厳しく要求されました。それが持つ象徴性のためです。新約においても、日曜日はやはり休息の日であるべきとされています。これは日曜日には「肉体労働」は許されないという意味です。肉体労働は、モーゼの時代に奴隷にさせていた種類の労働のことでした。畑を耕したり、家を洗ったり、建築工事といった体にきつい肉体労働です。教会は、必要な労働は禁じられていないと教えています。ですから、簡単な毎日の労働(料理、皿洗いなど)をする現実的な必要性があったり、予期せぬ必要性(収穫を脅かす嵐、津波など)があったりするなら、そのような労働は禁じられていません。また、さらに一般的には、知的労働は禁じられていません。学生が勉強をすることや、医者や弁護士などの活動です。労働で報酬を受けるかどうかは関係ありません。休みの目的は、祈りやキリストの教理の勉強など霊的活動のために自由な時間を持つことだということを覚えておかなければなりません。さらにまた、隣人愛を実行するという目的もあります。日曜日は家族の日であるべきです。家族がもっとひとつになるときです。家族そろって休息の時間を過ごすことが勧められています。

ある人々にとっては、日曜日はスポーツの日です。日曜日にスポーツは禁じられていません。しかし、覚えておいてください。スポーツに第一の場所を与えてはなりません。第一の場所は天主のためにとっておくものです。スポーツがミサのあるべき場所を占めてしまい、天主を完全に自分の活動の外に置くのは、絶対に間違っています。そうしてしまうと、異教の時代のギリシャのように、肉体を礼拝する異教の信仰に戻ってしまいます。競技会が日曜日にあるのなら、ミサを第一とし、ミサのあるべき場所を競技会に与えてはならないと、強く言わなければなりません。殉教者たちは、異教の神のためにほんのわずかの香を焚くよりも、死ぬ方を選びました。

日曜日はまた、病院にいる病人の訪問や、他の愛徳のわざといった良きわざを行う機会です。日曜日は家庭で子どもたちに公教要理を教える時です。大人にとっても、公教要理を復習したり、他の霊的読書を進めたりする良い機会です。

村中で、町中で、国中で、信仰をもって日曜日を聖化するとき、その村を、その町を、その国をまことにキリストが統治なさいます。遠い昔ではない過去の良きカトリックの国々では、その通りでした。わずか五十年前のカトリック国では、日曜日にはあらゆる商店が閉められ、各教会は人でいっぱいで、日曜日はまことに主日であり、それがすべての人々により大きな利益をもたらしていたのです。私たちはそれを取り戻さなければなりません。まず家族の中において、そして出来る限り私たちの周辺の村や町において。

聖福音は、マリアとヨゼフが「祝日の慣習」を守ったと私たちに教えています。ですから、童貞聖マリアと聖ヨゼフが主日と祝日を聖化なさったように、私たちもそれらの日を信仰をもって聖化することができるようお二人が助けてくださいますように。そうすることで、今ここ地上において、また永遠に天国において、キリストが私たちを統治なさいますように。アーメン。

聖ヨゼフのその栄光の、その力の強さの、その偉大さの秘密とは

2016年04月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月19日 童貞聖マリアの淨配証聖者聖ヨゼフ の大祝日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月19日 童貞聖マリアの淨配証聖者聖ヨゼフ のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年3月19日、聖ヨゼフの大祝日を祝っています。今日この御ミサの後に、いつものように感謝の祈りをして、アジア管区長様のご意向に従って、聖ヨゼフに対する奉献の祈りをもう一度更新致しますので、皆さん心を合わせてお祈り下さい。司祭と侍者が聖ヨゼフ様の御像の前に行って、聖ピオ十世会を奉献する祈りを唱えます、一緒に唱えましょう。
その後には、公教要理の時間ですが、聖ヨゼフの色々な徳について、一緒に考察、黙想を提案したいと思います。

次回の御ミサは、復活祭、3月27日の復活祭です。夕方の18時からです。

今日は、聖ヨゼフ様の名誉の為、栄光の為に、多くの方々がたくさんの準備をして下さいました事を心から深く感謝致します。特に私たちは、聖ヨゼフ様にお願いをして、「もしも聖ヨゼフ様が」、私たちはそれを戴けるには非常に不足して、それに足りない者ですけれども、「もしも聖ヨゼフが私たちに、司祭の常駐と、修道院を私たちに、日本に与えて下さるならば、感謝として聖ヨゼフ様に、聖ヨゼフ様の祭服を作ります」と約束しました。既に、約束の祭服が今出来ているので、聖ヨゼフ様は私たちにきっと、これを寛大に与えて下さると固く信じております。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ヨゼフは、聖ヨゼフについては、特に教皇様が近代になって、多くの回勅を書き、聖ヨゼフの素晴らしさについて語ってきました。特にレオ13世は、聖ヨゼフをカトリック教会の普遍的守護者として立てて、この3月19日を、教会の、全世界における教会の保護者である聖ヨゼフを、第一級の祝日として祝うように命じて、聖ヨゼフに対して、ふさわしい尊敬と、讃美と、感謝と、祈りを捧げるように、全カトリック教会に命じられました。

では私たちは、聖ヨゼフ様のその特権は一体どれほど素晴らしいのか。聖ヨゼフ様のそのご光栄と、その名誉と、その力の強さというのは、私たちはおそらく天国に行ってようやく、その深い意味について知る事ができると思いますが、なぜ天国に行ってからかというと、聖ヨゼフ様は、イエズス様とマリア様に、天主の力に深く緊密に結び付いているので、その天主の力の偉大さがはっきりと私たちの身に染みて分かるのは、天国であるからです。

しかしその前に、聖ヨゼフ様は私たちに、どれほどのイエズス様とマリア様の近くにおられて、私たちにとってどれほどの模範であり、どれほどの力を持っておられるか、という事を一緒に黙想致しましょう。

今日のこの黙想の結果、私たちが普通では到達できない事も、聖ヨゼフ様の御取り次ぎによって、多くの聖人たちがそうしたように、特別のお恵みが頂く事ができるように、遂には、聖ヨゼフ様と共に永遠の幸せが受ける事ができる、という大きな望みが起こる事をできれば、この黙想の目的は達成された事になります。

聖ヨゼフ様のその栄光の、その力の強さは、その偉大さの秘密は何なのでしょうか?

それは、永遠の昔から天主三位一体によって選ばれ、イエズス・キリストの御養父として、天主の御母聖マリア様の御淨配として、聖なる淨配として選び抜かれたからであります。確かに聖ヨゼフは、ダビドの王の、王家の血統を継ぐ、血筋においても高貴なる者ですが、天主からの選びを受けた特別の使命の為に、聖ヨゼフの偉大さは、本質はそこにあります。

聖ヨゼフ様がマリア様の淨配であり、イエズス様の御養父である、という事から3つの事が言えます。

1つは、「イエズス様とマリア様は、聖ヨゼフ様のものだ」という事です。聖ヨゼフ様の家族に属し、聖ヨゼフ様のもとにあるという事です。聖ヨゼフは、イエズス様の全てと、マリア様の全てを、ご自分のものとして持っているという事です。聖ヨゼフ様とマリア様は、正当な婚姻の夫婦ですので、マリア様とヨゼフ様は、2人の全てを共有しています。しかし聖家族の長として、最高の決定権は、所有権は聖ヨゼフにあります。

第2に、聖ヨゼフ様のこの特別の使命の結果としては、「イエズス様に対しては御父として、マリア様に対しては夫として、命令する権威がある、権利がある」という事です。もちろん聖ヨゼフ様はこの、「俺はボスだ。俺は偉いんだ。」と言って、何でもかんでも命令されたわけではないでしょう。或いは、マリア様にとってもイエズス様にとっても、ヨゼフ様のほんのちょっとした小さな願いは、もうそれはご命令であるかのように、必ず果たさなければならない事であるかのようにお考えになったでしょうし、「ヨゼフ様をお喜ばせよう」「ヨゼフ様のこう何か、そのお考えをして差し上げたい」という大きな望みが、聖ヨゼフがはっきりと、「これは命令する。これをしろ、ああしろ、」と言わないまでも、「これはできるだろうか?」と、「これはどうだろうか?」「こうなったら良いね」と言うそれだけでも、もはやイエズス様とマリア様にとっては、ご命令と同じでした。

最近読んだ本によれば、アテネには、ちょっとお爺さんですが、将軍、アテネの軍隊の将軍がいたそうです。エピクラテスという将軍で、シワだらけのお爺ちゃんですが、ある人に、自分は馬よりも速く走るような事を言ったり、自分はどんな盗賊が来ても打ち倒す事ができるし、ものすごい力が強いような事を言っているので、「え?あなたはどなたですか?あなたは馬ですか?それとも軍人ですか?」と聞くと、「私は馬でもないし軍人でもない。しかし、私は彼らに命令する事ができるのだ。」と言ったそうです。

聖ヨゼフ様も確かに、純粋の人間であり、私たちと同じ人間ではありますが、しかし特別の契りによって、イエズス・キリストの御父として聖養父として、聖マリア様の夫として、ヨゼフ様はこの2人に命令する権威を、天主から与えられた特別の権利を持っています。たとえ聖ヨゼフがご自分でなさらなくても、「それをしてくれ」と言えば、イエズス様とマリア様はそれを、「はい!」と言ってなさる義務を持つ、その権利があるのです。天主の御母に命令する、天主の御子三位一体の第2のペルソナに命令する権威を持つ、権利を持つ聖ヨゼフ様。その権利はどれほど偉大な事でしょうか。

第3に、その単なる命令する権利のみならず、ヨゼフ様は天主の御望みによって、マリア様とイエズス様から、特別の尊敬と、敬意と、愛を受ける権利を持っています。旧約時代に、アブラハムの妻であるサラは、アブラハムの事を、「私の主よ、主人よ」と言っていました。この旧約時代に、「主よ」と言うのは、天主であるかのようにと同じような表現なので、非常に高い表現です、「主よ」。もしもサラがアブラハムについてそうしていたのであれば、妻の鏡であるマリア様は、夫である聖ヨゼフに対して、どれほどの敬愛と、尊敬と、愛情を注いでいるでしょうか。ヨゼフ様に対して、特別の愛と敬意を込めて、「我が主よ、」とお呼びしなかったのではないでしょうか。

イエズス様も、聖ヨゼフ様の事を「お父さん」と言っていました、「お父さん」。イエズス様が、「父よ、お父さん」、「アッバ」と呼ぶ方は、天では御一人、聖父、地上では聖ヨゼフ、この2人以外ありませんでした。永遠の昔から永遠の未来に至るまで、この2人しかいません。

アビラの聖テレジアによると、特別の啓示によって、マリア様はある日、アビラの聖テレジアに、「聖ヨゼフに関する信心を広めてくれた事を感謝する。」と言われたそうです。アビラの聖テレジアは、修道会を立てる時にいつも困っていました。そこで、修道院を立てる時もいつも困っていましたがしかし、この「土地が必要だ」「家が必要だ」という時に、必ず聖ヨゼフに祈ると、聖ヨゼフは必ずその祈りを聞き入れて、聞き届けてくれて、一度も困った事がない、聖ヨゼフの信心を世界中に広めました。マリア様はその事について、聖テレジアに感謝しました。聖ヨゼフは、ご自分はもちろん、ご謙遜の為に感謝できなかったでしょう。しかし、マリア様が感謝しました。聖ヨゼフを高めれば高めるほど、尊べば尊ぶほど、聖ヨゼフに対して愛情を示せば示すほど、イエズス様とマリア様が私たちに感謝して下さるのです。

では第2のポイントとして、聖ヨゼフ様のそのような、イエズス様とマリア様と緊密に一体化しているという事から、旧約と新約の諸聖人と少しだけ比較してみましょう。キリストに倣いての著者によると、「聖人たちを比較する事は論争の元であるから、する事を控えるように」と言いますが、しかし「聖ヨゼフ」という、イエズス様の御養父、マリア様の夫についてはおそらく、それについて少しだけその栄光を考える上で、私たちにする事を許して下さるでしょう。

旧約時代に、主を見る、「天主を見る」という事は、「救世主をいただく」という事は、どれほど大きな喜びを太祖たちに与えた事でしょうか。旧約聖書によると、「アブラハムは一瞬だけ、主の栄光を見た。それを見て喜んだ。」とあります。イエズス様もその事について言います、「アブラハムは、私の栄光を見て喜んだ。」ほんの一瞬についてアブラハムは、太祖は喜びました。エゼキエルは、「人の子の栄光のようなものを見たので、私は平伏した。顔を地面につけて平伏した。」とありますが、聖ヨゼフ様は、イエズス様がお生まれになり、ご成長され、成人になられるまで、約30年間の間いつも、イエズス様と共におられました。旧約時代の聖人たちのその与えられたほんのちょっとした喜びから比べると、聖ヨゼフ様に与えられた栄光と喜びは、どれほど大きかった事でしょうか。


聖ペトロは、天国の鍵を与えられましたし、「私を愛するか」「我が羊を牧せ。我が羊を牧せ。」と三度、イエズス様から、御自分の羊たちを牧する、養う、特別の使命を受けました。カトリック教会の、イエズス・キリストの教会のかしらとして、キリストの代理者として、特別の権威を与えられました。イエズス様を愛するが為に、足を最初に洗われ、イエズス様から特別に選ばれ、イエズス様の為には剣を取り、イエズス様に対する愛を、「主よ、私が御身を愛している事をあなたはご存知です。」と言うほど愛を証明しました。

ヨゼフは、「天国の鍵」は与えられませんでした。しかし、「天国の御父へと至る道であるイエズス・キリスト」と、「天の門であるマリア様」を委ねられました。鍵でなく、天の入り口の保護を委ねられました。

確かにヨゼフ様は、羊たちを牧するように言われませんでしたが、天主の子羊であるイエズス・キリストと、天主の子羊を生んだ御母マリア様を委ねられました。

確かにヨゼフは、羊飼い、羊というしもべを牧する、養うようには委ねられませんでしたが、しかし、良き牧者であるイエズス・キリスト、主人であるイエズス・キリストと、御母、天主の御母マリア様を養うように委ねられました。

確かに聖ヨゼフは、「教会のかしら」「キリストの代理者」ではありませんが、しかし、「イエズス様とマリア様の聖家族のかしら」であり、「三位一体の代理者」として、イエズス様とマリア様に命令する御方でした。

確かに聖ヨゼフは、イエズス様の為に剣を取ったり、或いは「イエズス様を守ろう」と愛を表明された事はありませんが、しかし、イエズス様とマリア様を連れてエジプトへ逃れ、ヘロデの剣を逃れさせ、もしもヨゼフ様が生きていらっしゃったら、イエズス様に対する多くの愛を表明されていた方でしょう。

確かに、イエズス様から足を洗われなかったかもしれませんが、最後の晩餐の時に。しかし、イエズス様は聖ヨゼフが年老いて、自分が体が不自由になった時に、イエズス様の御手自から聖ヨゼフの頭を洗い、体を洗い、足を払い、ご飯を食べさせ、聖ヨゼフ様の面倒を優しく見られた事でしょうか。


聖パウロは、ダマスコへの道の途中、キリスト教徒を迫害しようとして、キリスト教徒に対する憎しみに燃えて、捕らえようとしていましたが、しかし天からイエズス様を見て、回心しました。ある時には第3天にまで上げられて、人の言葉では言う事ができない特別の神秘を教えられ、脱魂状態にまで上げられました。

聖ヨゼフは確かに、そのようなものは、そのような第3天にまで上げられた事はなかったかもしれませんが、しかし、天主三位一体の第2のペルソナが、聖父の懐から天から、ヨゼフの元に降りて来られました。イエズス様がビジョンとしてではなく、体の中にいるのか体の外にいるのか分からないのではなく、まさに肉を取った天主、人となった天主が、自分の子供として、目の前で、ヨゼフの命令に従うのを見、ヨゼフの元で成長するのを見、天主の愛、人類に対する愛をご覧になったのでした。これを見て聖ヨゼフは、たとえ脱魂ではなかったとしても、そのような天主の愛と、イエズスキリストの御姿を見て、毎日が謂わば、言ってみれば脱魂するかのような、天主への愛の深い観想と、讃美と、礼拝に満ちていたではないでしょうか。


聖ヨハネ、使徒聖ヨハネは、最後の晩餐の時に特別に愛されて、イエズス様の元に、胸の元に頭を付け、聖心の鼓動、愛の鼓動を聞きました。洗者聖ヨハネは、ヨルダン川でイエズス様に洗礼を授け、イエズス様の御額に水を、ヨルダンの水を流して洗礼を授けました。

聖ヨゼフは、ご自分がおそらくその死の時に、イエズス・キリストの胸に、御胸に自分を、自分の顔を押し当てた事でしょう。イエズス様が抱きしめて下さった事でしょう。そればかりか、イエズス様の御体を子供の時からいつも抱きしめて、イエズス様を自分の胸に押し当てていた聖人です。イエズス様の額に水を流したのみならず、子供の頃からイエズス様の御体を世話し、洗い、その保護と養育をしてきた御父であります。


これらを見ると、旧約・新約の偉大な聖人たちのなした役割をはるかに超える多くの事を、イエズス・キリスト様の為に聖ヨゼフ様はなさった、という事が分かりります。聖ヨゼフ様の信仰、希望、愛、忠実さ、愛徳、貞潔、「天主の御旨を果たそう」というその熱烈な願い、天主の栄光を求める、そののみに生きるその願い、霊魂の救いの為の願い、ご謙遜、ご沈黙、これらはヨゼフ様の御生涯に現れて、私たちに多くの教えを与えています。

カトリック教会がこのような聖ヨゼフを、普遍教会の守護者として立てられたという事は全く当然であり、多くの聖人たちが近代になって、聖ヨゼフから多くの、その御取り次ぎによって多くの恵みを受けてきました。

私たちも、多くの聖ヨゼフの御取り次ぎによって、お祈りによって、多くの恵みを求めています。聖ヨゼフは私たちにそれを必ず聞き届けて下さいます。特に私たちは、イエズス様に対する愛と、マリア様に対する愛、イエズス様とマリア様に対するその奉仕ができるように、いつもイエズス様とマリア様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。

聖ヨゼフのように私たちも、イエズス様をお愛しし、マリア様をお愛しする事ができますように。

聖ヨゼフのように私たちも、いつも心も体も清く、マリア様とイエズス様に仕える事ができますように。

聖ヨゼフのようにいつも、イエズス様とマリア様の心と一致している事ができますように。これを求めましょう。

もしも私たちがそれを求め続けるならば、そのような私たちに聖ヨゼフは、私たちが集まる場所や、私たちが聖ヨゼフを愛する、ますますイエズス様とマリア様を愛するが為の道具である司祭を、いつも常駐させて下さらないわけはないでしょうか。

また、マリア様とイエズス様にお願いして、私たちがマリア様とイエズス様のように、聖ヨゼフを愛し、尊ぶ事ができる御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

エンマウスでの弟子にならう

2016年04月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月28日 御復活の月曜日に大阪で聖伝のミサを捧げました。
飛行機の時間の都合で、読誦ミサの中でほんの少しだけですが、お説教をいたしました。その時のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年3月28日 御復活後の月曜日 
小野田神父 説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日の聖福音には、私たちの主がエンマウスで弟子たちに現れ、どうやって弟子たちに会話をしたかが書かれています。

「彼が話している時に、私たちの心は燃えていなかっただろうか?」

「おぉ、愚かな者よ。キリストは、苦しみを受けてその栄光に入るべきではなかったのか。」預言者から始まって、聖書の話をイエズス様はなされました。

願わくは私たちも、日常の会話が、今日のこの復活祭から、聖なるものとなりますように。


私たちの会話が、いつもイエズス様と共になされて、その会話の後には、いつもイエズス様への愛が燃え立てられますように。

願わくは、マリア様が私たちを助けて下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

主は、真によみがえり給えり。 ーなぜ御復活されたか、その4つの理由ー

2016年04月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月27日 御復活の主日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月27日 復活祭のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年3月27日、私たちの主イエズス・キリストの御復活の主日です。明日この同じ場所で、朝の6時30分から復活の月曜のミサがあります。
同じ今週の金曜日、4月1日、初金曜日ですが、御復活の金曜日のミサがやはり、ここのコロナホテルで、土曜日、初土曜日4月2日にも、このミサがあります。どうぞいらして下さい。この4月は、4月の初金・初土のみならず、第2主日にはレネー神父様が、第3主日の前の金・土と、17・18日とミサがあります。どうぞ皆さんのお越しを歓迎致します。

「主は、真によみがえり給えり」
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さん、まず私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを心から申し上げます。今日は私たちにとって、大きな喜びと、感謝と、礼拝と、讃美の日であります。

このいとも聖なる復活のこの大祝日に於いて、私たちは心も体も、2000年前のエルサレムに、弟子たちのいた所に心を向けて、一緒に、そこで何が起こったのか、歴史的にどんな事実が起こったのかを黙想する事に致しましょう。この復活の前後に於いて、弟子たちの態度は大変化した、全く変わってしまった、という事実をもう一度確認する事に致しましょう。それで、何故イエズス様はそのようなご復活をなさったのか、その理由は何なのかを簡単に黙想した後に、私たちにとってこの復活祭を機会に、一体何が求められているのか、私たちは一体何をしなければならないのか、どのようにこれから生活をすべきなのか、という事を黙想して、良い遷善の決心を立てる事にしましょう。

では今日、復活祭に於いて、一体何が弟子たちに於いて起こったのでしょうか?今日は皆さん、刑事コロンボになって、或いはシャーロック・ホームズになって、この謎を解いて下さい。

今日から3日前、聖金曜日には、私たちの主イエズス・キリストは、その親愛の弟子たちから裏切られました。

まず特別に選んで、特別に教育した12人の弟子の内の、使徒の内の1人が、お金の為に、私たちの主、自分の師匠を売り飛ばします、奴隷の値で売り飛ばします。

選ばれた弟子の中で特別に愛されたペトロは、使徒たちの頭として選ばれておりながらも、イエズス様を3回否みます。その直前まで、「私は、イエズス様の為なら死んでも良い。投獄も恐れない、監獄にも行く、」と言いながら、イエズス様を、女性の夫人の言葉に恐れて、女奴隷の召使いの言葉に恐れて、「私は知らない。誓って言う、知らない、関係ない!」とさえも言います。

弟子たちは全て逃げ去りました。イエズス様から色々な善を受けて、奇跡を受けて治癒をされた人々も、皆、イエズス様の元にはいません。

数日前、1週間前は、「イエズス様、万歳!王様万歳!」と言った全エルサレムは、聖金曜日に、「十字架に付けろ!いなくなってしまえ!」と騒いでいたではないですか。多くの人々から嘲りを受け、捨てられ、奴隷でしか受ける事が出来ない、ローマ市民には与えられていなかった、「十字架」という極刑を、大罪人として受けました。

もしかしたら弟子たちは、イエズス様についてきれいな、こんな思い出を残している、或いは、「イエズス様はこんなきれいな御言葉を仰った」と思い出していたかもしれません。しかし、そんな甘っちょろい思い出が一体何の役に立ったでしょうか。全周りは、イエズス様に全て反対しています。

当局はイエズス様を死に渡しましたから、弟子たちも遂には、もしも不穏な動きをすれば投獄され、或いは処刑されるに決まっています。その機会を狙っていました。弟子たちは恐れて、隠れて、自分の家にいました。窓を閉じて、ひっそりと息を潜めていました。

婦人たちは、イエズス様が亡くなったという事で、しかし安息日の為に時間がなかったので、十分な埋葬の儀式ができなかった、だから今朝、朝早く起きて、まだ夜明けに、「お墓の方に行って、早く埋葬の準備をしよう」と思っていました。3人の女性でした。最もイエズス様に忠実で、十字架の下に立ち留まった、極少ない3人でした。マリア・マグダレナ、ヤコボのマリア、サロメでした。この3人はしかし、朝行きながら、「どうやって、でもあんな大きな入り口にあった石を退かす事ができるだろうか?私たち女の力ではとても無理だ。一体誰に頼もうか。」という話をしていたのです。

ユダヤ人たちは、「どうせ弟子たちが来て、もしかしたら墓に入って、キリストの遺体を盗むかもしれない、復活したと言うかもしれない」という事で、そこで頑丈な完璧なガードをローマ兵をつけて、堅く固めて、誰もその墓に触れる事がないように警備していました。

ローマ兵にとってこれは冗談ではありません。もしもそのようなこの命令が遂行されない場合には、彼らには死刑が待っていました。命を懸けてこの墓を守らなければなりませんでした。おそらくユダヤ当局も、多くの金を渡して、「ローマ兵士よ、じゃあしっかりやれ。」と言ったに違いありません。

ところが、その婦人たちが朝行ってみると、入り口にあった巨大な岩が動いて、墓が開いているのではないですか。墓の中に入ってみると、空っぽではないですか。墓の中には天使が座っていて、「あぁ、あなたたちはイエズス・キリスト探しているけれども、ここにはいない。復活した。『ガリレアに行く』と言った通りになっている。さぁ、その事を弟子たちに言いなさい、ペトロに言いなさい。」

婦人たちは、狐につままれたような思いで、ペトロの、弟子たちのいる所に行くのです。コンコンコン、コンコンコン、「起きて下さい、おはようございます。お墓に行ってきました。」弟子たちはうるさそうな顔をして、「もしかしたらユダヤ当局が後ろにいるかもしれないから注意しろ。」と言っていたかもしれません。「これはもしかしたらスパイかもしれない、デマカセかもしれない。」「イエズス様は復活されました。天使を見ました。お墓は空っぽです。」聖書によると、弟子たちは信じなかったとあります。あまりにも話が唐突で、何の話をしているのか信じなかった。しかしそれでも、ペトロとヨハネは行って墓をチェックします。確かに墓は空でした。

ところで、この墓が、お墓が空だったという事実のその直後に、弟子たちは別の事実を体験します、事実に直面します。それは、復活されたイエズス様が壁を通して、或いはいきなり現れて、多くの人々に、多くの方法で、40日間現れ続けたという事です。イエズス様が現れた時に、御自分が本当に肉体を持っている、という事を証明しようとして、それを信じさせようとして、「さぁ、触ってみろ。」弟子たちは最初、幽霊を見ていると思っていました。驚いて、一体何の事か分かりませんでした。しかし、「さぁ、幽霊には肉があるか?触ってみろ。食べ物はあるか?幽霊は食べ物は食べない。」話をして、イエズス様が生前そのされた通りの話をして、そのまさにイエズス・キリスト御自身である、という事を証明するのです。

イエズス様は決して、傷だらけで、もう息絶え絶えで、何か墓から一生懸命出てきた、という様でありませんでした。光り輝いて、神々しく、力強く、弟子たちを説得しようとして、「私は本当に復活したんだ、天主の力で、自分の力で蘇ったのだ」という事を証します。

色々な場所に現れて、奇跡的な漁をさせたり、或いは聖書を説明したり、エンマウスの弟子たちには、最初は自分の姿と分からないように現れながらも、聖書を説明して、「あぁ、イエズス・キリストだ」と分からせました。

聖パウロにも現れました。聖パウロはキリスト教徒を迫害しようとして、ダマスコに行く途中で現れて、イエズス・キリストを見て変わりました。聖パウロはその手紙の中に書いています、「復活されたイエズス様は、たくさんの人に現れた、500人の人々にも同時に現れた事もある。最後には、私のような月足らずに生まれてきた様な者にも現れた。もしも疑うなら、今生きている人がたくさんいるから聞いてみろ。イエズス・キリストが本当に復活した事に会った方がいるから聞いてみろ。」と挑戦します。

見て下さい。今まで恐れていたガリレアの田舎の貧しい漁夫が、魚を捕る事しか、捕ってそれで生活していた、方言を話していた、勉強も大学にも学校にも行った事がないようなおじさんがやって来て、ユダヤの首都のエルサレムの、律法学士、ファリザイ人、その博士たちの前に、堂々と、「イエズス・キリストは復活された。」と宣言し出すのです。何者も恐れずに、今度は死さえも、殉教さえも、投獄さえも、迫害さえも、何も恐れずに、「イエズス・キリストは本当に復活した。私はそれを見た。それを触った、話した。これは本当だ。イエズス・キリストは真の救い主だ、真の天主だ。」と言い出すのです。

見て下さい。ユダヤ人たちはこの彼らに、何も反対する事ができませんでした。もしも彼らが嘘をついているという事を知っていたならば、「何だ、イエズス・キリストの死体ならここにあるぞ。」或いは、「イエズス・キリストのこれはこうだ、お前たち嘘を言っているだろう。」「お前、これは彼が嘘を言っていると言ったぞ。」

そういう事は1つもありませんでした。ただユダヤ人たちがやる事ができたのは、「キリストの名前によって話す事を厳命する!いいか、話すな!」だけでした。何故かというと、イエズス・キリストが復活して、弟子たちに現れて、多くの人たちに現れた、という事は、もう否定する事ができない事実だったからです。お墓が空になって、ローマ兵が警備していたにもかかわらず空っぽになってしまったというのは、もう否定する事ができない事実だったからです。

イエズス・キリストというのは、歴史的な事実として、現実として、今から2000年前に本当に復活されたのです。御自分の力で、肉体を持って、もう一度生きて、私たちの弟子たちの前に現れたのです。ですからこそ、弟子たちの態度は、今日を境にガラリと変わってしまいました。イエズス・キリストの復活を直接見た弟子たちは、「確かに、イエズス・キリストこそ真の天主だ。これ以外にない唯一の天主である。」という事をはっきりと悟ったのです、分かったのです、それを知ったのです。

このイエズス・キリストのこの復活を、是非こう他の人に言おうと、死さえも、迫害さえも恐れなくなったのです。もしも嘘をついていたとしたら、一体彼らの利益というのは、嘘の為の利益というのは何だったのでしょうか?大体嘘つくというのは、何かの利益の為にしますが、彼らに待っていたのは、死と、投獄と、残酷な迫害、それだけでした。「イエズス・キリストが復活した」という事を言って、一体何の利益があったでしょうか?彼らは、「真の天主、イエズス・キリストが復活した」という事を見たので、これをどうしても否定する事ができなかったのです。たとえ死んだとしても、その復活を否定する事はできなかったのです。たとえイエズス・キリストを否定して、信仰を否んだ人がいたとしても、「復活しなかった」とは、それは事実は否定する事はできなかったのです。

愛する兄弟の皆さん、この復活という事実に於いて、ローマ帝国は今まで、異邦の神々を、ジュピテルとかアポロンとかを拝んでいた、神々を拝んでいたローマ帝国は、キリスト教を信じる、キリスト教を国家の宗教とする国に変わりました。ヨーロッパ文明は、キリストのこの復活に基づいて成立しました。

この「イエズス・キリストの復活」という歴史的な事実に基づいて、多くの人々が、何百万と人々が殉教しました。何百万という人たちが今後、聖なる生活を送りました。嘘や、偽りや、罪を、汚れを捨てて、今後はイエズス・キリストのように、正しく、真実に、正義に、清く、貞潔に、真面目に生きようと変わりました。

そればかりでありません。多くの宣教師たちが全世界に派遣されて、イエズス・キリストが真に復活した、というそのキリスト教文明を、キリスト教信仰を立てようとしています。

もしもイエズス・キリストが復活されずに、カトリック教会が2000年続いてきたとしたら、或いは多くの人々が殉教したとしたら、或いは多くの人々が聖人になったとしたら、これほど大きな奇跡はありません。復活よりも大きな奇跡です。

ではこのような事実を見ると、イエズス・キリストが確かに、本当に、真に、否定する事ができない事実として、肉体を持って、私たちの前に復活してよみがえられた、という事が確実に分かります。

では一体何の為に、イエズス様は復活されたのでしょうか?4つ理由があります。公教要理によれば、4つ理由があります。

1つは、天主聖父は、イエズス・キリストに正義を与えようとしたからです。イエズス・キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした。ですから、イエズス様は復活の栄光に至らなければなりませんでした。

イエズス様は復活の初穂としてよみがえりました。確かにイエズス様の前に復活された人もいます。しかしその後死ななければなりませんでした。イエズス様の復活は全く違う、次元の違うものです。なぜならば、もはやイエズス様には、死も、苦しみも支配しない、永遠の命に至る復活だったからです。栄光の復活だからです。

第2は、私たちの信仰を強く固める為です。「確かに、イエズス・キリストが天主である」という事を私たちが深く確信する為に、その復活の予言と、その予言の成就をして下さいました。聖書にある通り、イエズス様は御死去をされ、復活されました、3日目に。私たちの信仰を固める為です。私たちがどんな事があっても、この復活を疑う事がない為です。

第3には、私たちの希望を養う為です。イエズス様が復活されたのは、私たちにイエズス様がなされたのと全く同じ復活を与える為でした。わたしたちの究極の目的は復活であるという事を教える為でした。私たちはこの短い地上の為に生きているのでありません。復活の子供として、復活の命を生きる為に、今、短い数年の命を今ここで生きています。究極は、イエズス様のなさったと同じ復活に至る事です。頭がしたと同じ栄光に、神秘体の肢体である私たちも与る事です。

 
第4には、イエズス様の救いと贖いの玄義を完成させる為でした。

では、今日この復活の日に、確かにイエズス様が肉体を持って復活された、という事を知った私たちは、再確認した私たちは、一体どのような決心を立てなければならないでしょうか?2つを提案したいと思います。

それは、私たちも使徒たちに倣って、復活の前と後では生活が変わるべきだという事です。イエズス様はもはや墓にはいない。私たちはイエズス様と共に罪に死に、罪に於いて葬られ、イエズス・キリストと共に天主の命に、洗礼を受けた時に復活した者です。ですから今後は、イエズス様のおられる天に心を向けて、天の事を求めなければなりません。この地上、短い地上での事ではなく、天上の究極の目的を常に頭に置かなければなりません。私たちの究極の行き先は復活である、といつも思い巡らしていなければなりません。イエズス様がなさった復活を、私たちも目指さなければなりません。

第2は、その目指す道です。私たちは、イエズス様がお通りになったその全く同じ、王の道を通らなければなりません。イエズス様はこの道を通らずには復活しませんでした。エンマウスの弟子たちにもイエズス様は言いました、「おぉ、何と愚かな者よ、まだ分からないのか。キリストは苦しみを受けて、栄光を受けるべきではなかったのか。」イエズス様の通った道は十字架の道であって、すなわち苦しみの道であって、罪の償いの道であって、これを通して初めて復活にと至りました。イエズス様は私たちに招いておられます、「もしも私の弟子になりたいならば、己が十字架とって私に従え。」「十字架の道こそ、唯一、復活に至る道である。」と私たちに教えて下さっています。

ですから愛する兄弟のみなさん、私たちはイエズス様の為に罪を避け、罪の機会を避け、新しい種なしパンとして、新しい衣を着てイエズス・キリストを着て、真実に、誠実に、イエズス・キリストを愛するが為に、イエズス・キリストの愛に愛を以て、私たちの日常の義務と、日常の務めを、祈りを以て、イエズス様に従って復活に至るまで、歩みを進める事に致しましょう。

マリア様は、決して御復活の信仰に対してひとつも揺らぐ事なく、イエズス様が必ず復活されると確信し、信じて、その信仰を捨てる事がありませんでした。そのマリア様の御取り次ぎを乞い求めて、私たちもマリア様に倣って、イエズス様の復活を決して夢忘れる事なくいつも信じ、マリア様の御助けによって、イエズス様の後を、十字架を慕う事ができますように。遂には、マリア様と共に、天国の永遠の復活の命に入る事ができますように。私たちのみならず、私たちの隣人や、家族の方々、お友達、多くの、日本に住む多くの方々が、イエズス様の復活の命に与る事ができますように、今日のミサをお捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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