アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今年は、私たち聖ピオ十世会にとって初めて復活の主日に聖伝のミサを捧げる恵みが与えられました。レネー神父様がなさって下さった復活祭のお説教を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。これを日本語に訳して下さった信徒会長様に心から感謝します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖ピオ十世会 フランソワ・レネー神父様
復活祭説教「二つの復活」(2013年3月31日、大阪)
きょう私たちは、私たちの主イエズス・キリストとともに主の復活を大いに喜びます。主のご復活は、私たち自身の復活の源であり、模範であり、保証です。
しかし、私たちの主イエズス・キリストのご復活は一つだけですが、私たちには二つの復活があります。聖ヨハネの福音書の第5章にある私たちの主の言葉を聞きましょう。
「まことにまことに私は言う。死者が天主の子の声を聞く時が来る。いやすでに来ている。その声を聞く人は生きる。父が命を左右されるように、子にもそれを左右させ、こうして、父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである。こう聞いて驚いてはならぬ。墓にいる人々がみな天主の子の声の呼びかけを聞く時が来る。善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のために復活する」(ヨハネ5章25―29節)
来るべき二つの時があります。
一つは、「今であり」、もう一つは今でなく、世の終わりです。
一つは、「死者」が天主の子の声を聞く時であり、もう一つは「墓にいる人々みな」が天主の子の声を聞く時です。
一つは、声を聞く者がみな生きる時であり、もう一つは、命のために復活する者がいれば命ではなく永遠の罰のための復活する者がいる時です。
二つの復活がある理由は、二つの命があり、二つの誕生があり、二つの食べ物があり、二つの死があるからです。
二つの命とは、体の命と霊魂の命です。この二つの命がないならば、私たちの主は次の言葉をどのようにおっしゃるでしょうか。「私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠に生きる。私は、その人を最後の日に復活させる」(ヨハネ6章55節)。その人が永遠の命を持っているのなら、死なないように思えます。だから、「最後の日の復活」は必要ないでしょう。私たちの主のこの言葉が意味するのは、霊魂においては永遠の命を持っているが、体は死ぬため「最後の日の復活」が必要になるということであるのは明らかです。
体は霊魂との一致によって生きるのですが、霊魂は体の命です。霊魂は天主との一致、天主の子キリストとの一致によって生きるのです。キリストは、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。聖パウロは、「キリストは私たちの命である」と言います。「あなたたちは死んだ者であって、その命は天主の中に隠されているからである。私たちの命であるキリストが現れる時、あなたたちも栄光のうちにキリストとともに現れるであろう」(コロサイ3章3―4節)。私たちの霊魂の主要な愛の対象は、しばしば「私たちの命」と言われます。それゆえに、人は「私の命はスポーツ、私の命は音楽、私の命は登山」などと言うでしょう。しかし、これらのものは「永遠の命」を与えてくれません。私たちの主イエズス・キリストだけが永遠の命であり、そのため、永遠の命、まことの命を与えてくださるのです。
体の誕生があるように、
洗礼によって霊魂の「新たな誕生」があります。「水と霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。この新たな誕生は、霊的な命の始まりです。それは功徳によるのではなく、あわれみ深い三位一体の天主からの自由な賜物なのです。
体のためには食べ物がありますが、
霊魂のためにも食べ物があります。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。天主のみ言葉は霊魂のための食べ物であり、霊魂にとって最高の食べ物はご聖体です。これはすなわち、天主のみ言葉そのものであり、至聖なる三位一体の第二のペルソナであり、私たちの主イエズス・キリストです。「私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章55―56節)。最後の一節が言うように、霊的な命はキリストとの密接な一致から成り立っています。キリストは、私たちのうちにあり、私たちもキリストのうちにあります。「愛に根差した基を置くあなたたちの心に、信仰によってキリストが住まわれるよう願う。あなたたちはすべての聖徒とともに、かの奥義の広さと長さと深さとを理解する力を受けるであろう。あなたたちは計り知れぬキリストの愛を知り、満ち満ちる天主によって満たされるであろう」(エフェゾ3章17―19)。すべての知識を超える天主についての深い知識は、至福直観であり、天国にいる聖人たちの至高の命です。
この新しい命は、その自体で、永遠の命にまで続いていくことが可能です。「天主から生まれた者は罪を犯さない。天主の種がその人のうちにとどまり、その人は天主から生まれた者であるから罪を犯すことができないのである」(一ヨハネ3章9節)。この「天主の種」とは、成聖の恩恵であり、キリストの命を共にすることです。罪は、この天主の種からは出てきません。逆に、この種は、私たちを罪の反対へ、犠牲へと傾けさせます。
しかし、人が霊魂において恩寵の影響から離れてしまい、罪深い世の誘惑と偽りに耳を傾け始めれば、罪に落ちてしまいます。まず小罪―これは霊魂の病気です―、次は大罪(注:英語で「死すべき罪」)へ落ち、その名が示す通り、これは霊魂の死です。体の死は、霊魂が体から離れることですから、霊魂の死は、霊魂が天主から離れることです。愛である「完徳のかなめ」(コロサイ3章14節)を失うのです。愛の反対のものであり、愛と両立しえないものは、大罪です。罪は、霊魂に起こる最大の損害です。人が失うものの中で、天主以上のものはありません。人が隣人を傷つけるとき、実際には自分の霊魂にもっと大きい損害を与えます。隣人を殺すとき、実際には自分の霊魂を殺すのです。
霊魂の死である罪は、体の死の原因です。体の死は、霊魂の死の罰であり結果です。
私たちの主イエズス・キリストは命です。主は、「羊たちに命を、豊かな命を与えるために」(ヨハネ10章10節)来られました。
まず第一に、キリストは、霊魂の命を取り戻すために来られたのです。これが第一の復活です。罪によって死んだ霊魂は、改心と信仰によって命へと戻るのです。「天主の子のみ言葉を聞く」(ヨハネ5章25節)、つまり、み言葉を信じる。そして、「天主の子を受け入れた人々にはみな天主の子となれる力を授けた。…天主によって生まれた人々」(ヨハネ1章12―13節)。聖ヨハネは続けます。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。ですから、天主の御子の御体の誕生は、私たちの霊的誕生の模範でありかつ目標です。御子は永遠において御父から生まれておられます。御子は生きておられるのではなく、命そのものなのです。御子の体の復活は、私たちの霊的復活の模範です。聖パウロがこう言うように。「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。それは、御父の栄光によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3―4節)。
体の死は罪によるものですから、体の死に対する勝利は、罪に対する勝利によるものです。体の死に対する勝利は復活祭の勝利であり、罪に対する勝利は、十字架のいけにえによって勝ち取られました。「彼は死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものみなひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の栄光をあがめ、イエズス・キリストは主であると宣言するためである」(フィリッピ2章8―11節)。
私たちもそうなるでしょう。私たちが、霊的な復活によって、罪に対する勝利を共にするならば、私たちは、世の終わりにおいて、栄光の体の復活によって、死に対する勝利も共にするでしょう。「私たちの国籍は天にあり、そこから来られる救世主、私たちの主イエズス・キリストを待っている。キリストは万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を栄光の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章20―21節)。この栄光の復活は「命の復活」であり、まことに「復活」の名に値します。しかし、善人のために、「善を行った人のために」(ヨハネ5章29節)用意されています(ヨハネ5章29節)。「悪を行った」人々は、体が霊魂と再び一つになります。これは一種の復活です。しかし、霊魂が罰を受けるために復活するのであり、たとえば永遠に焼かれるためですから、とても命の名に値しません。むしろ審判、すなわち有罪宣告の名に値します。
現時点では、今は霊的な復活のときですが、まだ体の復活のときではありません。それゆえ、聖パウロが言うように努力しましょう。「罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者」(ローマ6章11節)になるように。「新しい命を歩む」(ローマ6章4節)ように。「あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕う」(コロサイ3章1―2節)ように。「私たちの命であるキリストが現れる時、あなたたちも栄光のうちにキリストとともに現れるであろう」(コロサイ3章4節)。聖パウロのコロサイ人への手紙はちょうど復活祭の時期に書かれており、その中にはまことに復活祭の精神があるのです。
「それゆえ、肉の肢体を抑えよ。淫行、汚れ、情欲、邪欲、偶像崇拝である貪欲、これらが天主の怒りを呼ぶ。その中に暮らしていたときには、あなたたちもそのように行っていた。しかし今はすべてこれらのこと、怒り、憤り、悪意、そしり、みだらな話を口から捨てよ。互いにうそを言うな。あなたたちは古い人間とその行いを脱ぎ、新しい人間とまとった。この新しい人間は、自分を造ったお方の姿に従い、ますます新しくなって深い知識に進む。そこにはギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、蛮人とシツィア人(最も未開の人)、奴隷と自由民の区別はもうなく、キリストがすべてであり、すべてのうちにまします。ゆえに天主に選ばれた者であるあなたたちは、聖なる者、愛される者として、深い慈悲、情け、謙遜、柔和、寛容をまとえ。互いに忍び、他人に不平があってもゆるし合え。主がゆるされたように、あなたたちもそうせよ。だが何よりもまず愛をまとえ。愛は完徳のかなめである。心をキリストの平和につかさどらせよ。あなたたちを一つの体に集めたお召しの声がそれである。そして感謝を持て」(コロサイ3章5―15節)
童貞聖マリアは、特権によって、アダムの死による霊的な悪影響を決してお受けになりませんでした。マリア様は常に恩寵の命、キリストの命を生きておられました。今も、マリア様の御体は、天国でキリストの復活の御体の栄光を共にしておられます。私たちのためにとりなしてくださるようマリア様にお願いしましょう。私たちが、復活されたキリストと同じ命をまことに生き、「罪に死んで、私たちの主イエズス・キリストにおいて天主の中に生きる」ことができ、そして、第二の復活、体の「命の復活」を共にし、永遠に、祝福された人々の中にいることができますように。アーメン。
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