Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.5.思いやりある指導者

2010年08月27日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅴ.思いやりある指導者


 同じ神学生はこうも言っている。「私たちは彼を非常に高く評価していました。彼はとても素朴で率直でしたから、皆は本当に彼のことが大好きでした。」音を外して歌うルフェーブル神父は、素晴らしい声を持った神学生の1人に、御ミサ中の序章の歌唱練習を手伝ってくれるように依頼した。別の神学生によれば、
「彼は何時も喜んで神学生たちと面会しては話し、その小さく穏やかな声で語りながら、伝える必要のある事は伝えて下さいましたよ。」

  1946年の夏休みの接近に伴い、修学院長神父は生徒たちに相応しい休暇計画を練った。一部の生徒は神学校に残り、残りは修道会の家に行くか、夏休みのキャンプを手伝うかというものだった。通常、生徒たちには家族に会う為に帰省が許されていなかったからだ。

 それでも「非常に寛大で、或る意味で少しばかり時代に先んじてさえいたルフェーブル神父は、‘彼らの大半が戦争を切り抜けて来たのだから、もし彼らが家族と面会しに帰省出来るとしたら、それは彼らにとって多少とも良い事だろう。’と考えました。そして彼は多くの生徒たちの帰省を許したのです。」

 「戦争を切り抜けた」と言われるには当てはまらなかったスイス人の生徒たちは、この基準ゆえに帰省の許可を余り期待出来なかった。ルフェーブル神父は彼らに伝えた。「考えて見なければいけませんね。おそらく、健康がそれ程思わしくない人は許可をもらう事が出来るかも知れません。」

 ある日、2人のスイス人神学生エマニュエル・バラ(Emmanuel Barras)とオギュスト・フラニエール(Auguste Fragnière)は、いたって健康ではありながら彼の扉の前で待っていた。エマニュエルは言った。
「オギュスト、もし誰かがこの休暇中に残るとしたら、それは私たち2人だぞ!」
エマヌエルは事務室に入って着席すると、ルフェーブル神父がこう言うのを聴いた。
「バラ君、どうも貴方には幾分休息が必要のようですね。」
するとこの熱烈な神学生は言った。
「ですが神父様、私は何時でも絶好調です!」
「いえ、いえ、いえ、貴方はやせましたし、私にはあなたが疲れている様に見えますよ!」
後日、バラはこう言っている。
「私は彼に抱き付くところでしたよ。とても感謝で一杯だったからです。彼はとても思いやりのある方で、とても理解があったのです。」

  別の休暇期間中、ルフェーブル神父はこのスイス人たち(再た彼ら!)にモン・サン・ミシェル まで歩いて行く許可を与えた。アンドレ・ビュテは説明する。
「それは珍しい事でした。彼は2人のフランス人修学院生を入れて私たちと時間を過ごしてくれました。このフランス人の内の一人はフランソワ・モルヴァン(François Morvan)でした。私たちは自転車とテントを持っていて、自転車に乗る者は先に行っては良く農場を見つけたものです。それは一週間私たちを楽しませてくれました。」

 モルタンを訪れる同僚たちは、修学院の司祭たちと生徒たちの間に築かれた相互の信頼に驚いた。それは生徒たちがしばしば自発的に行動するのを可能にした信頼だった。 思いやりのあるフランス人修学院長の指導力の成果がまさにこれであった。

 こうやってルフェーブル神父は権威と従順の間の当然の関係を考察した。解放後のフランスは、自由フランス内の従順の危機によってもたらされた権威の危機に苦しんでいた。権威の真の意味を復興する事は、権威が持つ真の特質を教える事を意味した。この修学院長神父は模範を通して導いた。神学生たちはこの模範という言葉を理解した。ある日、彼は権威についての小論文を書き、彼が与えた権威に関する定義を、例を挙げて説明することを彼らに求めた。
「権威とは、天主にその起源を有する天主的なものであり、本質的に甘美で力強いもの、驚くほど豊穣なものであるし、もしそれが賢慮の賜物によって動かされ、賢明に支えられるならば、この権威は、秩序や繁栄や平和をもたらすものとなると言う事が出来る。」

  彼は修学院付近に収容されていたドイツ人捕虜に対して、この平和の実際的な例を見せてくれた。アンドレ・ビュテはその情景を思い出す。
「ある捕虜たちは公園で働いていましたが、着ている服装でそれが誰であるか知る事が出来ました。私たちは彼らにグーテン・ターク!(こんにちは)と挨拶していました。

 クリスマスには、彼らの収容施設に歌いに行く事になっていたことを私は覚えています。彼らの従軍司祭だったディボルド(Diebold)神父様がフランス当局からの【収容所への訪問の‐訳者】許可を得ると、ルフェーブル神父様はそこに行く事を了解したんです。例え御自分のお父様がドイツにあるナチの強制収容所で苦しみに打ち勝ってのち亡くなっていたとしても!特殊な状況において隣人を愛する事は英雄的になるものです。非常に沢山の記憶は、友情と敬意から成る結束を作ってくれます。」
 それから、かつてモルタンで生徒だったもう一人が言った。「私は彼が大好きでした。」

 大人しい彼の性質も、【職務である‐訳者】修学院長神父としての生徒たちに対する炯(けい)眼(がん)を妨げはしなかった。司教聖別された日に、彼はル・アンセック司教に言った。
「この生徒たちの中に、私は寛大さや善意それから真理と学問への愛を見い出しました。その全ては私に心からの満足を与えてくれました。彼らの内に、私は精鋭に相応しい霊魂を発見したのです。」

 しかしながら、もし私たちがシヴィリのコーム・ジャフレ(Côme Jaffré)神父の発言を考慮に入れるとするならば、時折、モルタンからシヴィリに行く修学院の生徒たちに関して彼が持っていた意見はむしろ厳しかった。
「仮にルフェーブル神父様がお持ちの意見を全て受け入れていたとしたら、我々は生徒たちの多くを追い出さなければならなかったでしょうね。」

 シヴィリが革新的思想をかなり受け入れていた事を彼は確かに知っていたからいっそう一部の生徒たちのことを心配していたのだろう。結局、彼は与えられるものは与えた。そして、大部分の生徒たちは、彼が原理の人に一変させようと自分たちの為に払ってくれた努力に答えたのである。

 それから50年が経過しても、この証人たちは、愛情に満ち、自分たちにとって最愛の【存在だった‐訳者】1人の司祭を覚えているのだ。しかし、彼の事を余りにも思いやりがあり、それでいて非常に強い人柄であることの深い同一性を、彼らは理解する事が出来なかった。【彼らがモルタンでマルセル神父と知り合ったその時とその思い出を語っている今との】その間に、第2バチカン公会議があった、というのは事実である。彼らにとって、修学院長のあの“小さく穏やかな声”は、その彼が自分たちに教え込んでくれた“信念に従って強く生きる”ということと釣り合うようには見えなかった。その中の1人は言っている。
「ルフェーブル神父様について私が持っている記憶は、とても対照的です。同時に霊的・人間的な偉大な素質を持ち、暖かさ、組織力、知性を備えていました。同時に彼は、カトリック教会や政治の問題に関してとても確固とした意見を持った方でした。」

  マルセル・ルフェーブルが如何にして最高に親切で父親らしい愛と、究極の結論にいたるまで教義における最も卓越した堅固さとを結合させたのかを理解する者は幸いである。Fecit illud caritas:これを成し遂げたのは愛である 。愛の要求に最後まで応える愛である。ルフェーブル神父の愛しい昔の友人の方々よ、皆さんの【霊的な‐訳者】父親が持っておられた“カトリック教会の真理”‐‐‐とそれの全ての結論において‐‐‐に対する揺るぐことのない信義は、愛や善意の欠如からはほど遠く、より卓越した愛といっそう深い愛徳の表れだったのだ。


ルフェーブル大司教の伝記 7.4.2.「哲学は、天主との一致なる生活に向けて準備してくれます。」

2010年08月26日 | ルフェーブル大司教の伝記
「哲学は、天主との一致なる生活に向けて準備してくれます。」

  一部の神学生たちは、健全な自由のあるモルタンを、厳しく難しい修練院での養成と比較した。
「やれやれ、ようやく俺たちは修練院から遠く離れることが出来たよ!」と彼らは言っていた。この心の叫びの中に、ルフェーブル神父は熱誠の欠如、あるいは霊的養成や聖性探求における熱意の弱まりを見取っていた。哲学(受講)生たちが専ら知的過ぎる勉強への取り組み方は、重大な罠であった。そこで彼は注意するよう彼らに注意した:

 「これは普通ではありません。この正反対であるべきです。修練院での養成の後、勉強は霊的生活に必要となる糧を供給するべきであって、それを減らす事はない筈です。結局、それを理解し愛するならば、哲学は、“何処にでも現存され、私たちの弱い知性を越えている限り把握不能な天主”に導いてくれるからです。ここに辿り着いたら、今度は信仰の扉が開くのです。」「哲学とは、聖性並びに天主との一致なる生活に向けて準備してくれます。(…)真の知識というものは必然的に謙遜へと案内します。その途上で立ち止まってしまう不完全で偽りの知識は、高慢と自惚れに導くのです。」

 それ【高慢と自惚れ】に対応する薬は、容易に入手が可能だ。つまりそれは聖トマスである。修学院長神父は、霊的講話の中で聖トマス・アクイナスの『神学大全』を駆け巡って論じた。彼は“霊的生活の三部作”を考案した。それは3年間に亘って彼が詳説しようと計画したものであり、後年になってエコンで講話したものだった。

「一年目は、原罪のあらゆる結果を持っている“不義なる人間”についての研究に当てられました。二年目は恩寵により聖化され、諸徳と聖霊の賜物、さらに至福八端を持った“義なる人間”を扱ったのです。三年目は‐もしも私が3年留まったとしたら‐人間を不義の状態から義の状態に移行させる手段を私は説明していたことでしょう。それは先ず、聖主ご自身[彼が成し遂げた贖罪の業]、それから次は彼が制定された聖化の手段である。この聖化の手段とは、御ミサ、諸々の秘蹟、祈り、天主の聖旨を行う事、私たちが持つ弱点と戦い、徳において成長する手段などである。私は人間の四終【死・私審判・天国・地獄‐訳者】、つまり充ち満ちた義化、という内容を取り扱ってこの3年のコースを終えたことでしょう。 」

  かつての生徒の一人が上述の講話を思い出している。
「それは毎回、聖トマス、また聖トマス、そして聖トマスでしたよ!私たちは聖トマスには余り触れなかった修練院から来ていましたが(…)モルタンに来たら、実際聖トマスにどっぷりと漬かったんです。私はと言えば、それが好きでしたね。」

  この修学院長神父は穏やかな声で語り、アフリカの記憶が散りばめられたそのトマス的講話は、修辞的な光沢もなく行われた。「彼は雄弁家ではありませんでしたよ。ですから彼の講話を聴くのはちょっとばかり苦痛でした。」と思い出してくれたのは、もっと“魅力的な話し振り”を好んでいただろう彼の生徒の一人だった。もう1人の生徒は言っている。「彼は雄弁家ではありませんでしたが、私たちは彼に耳を傾けてしまいました。」

聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.4.1.カトリック教会の外に一切の救い無し

2010年08月25日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅳ.正統な教義、霊的生活、宣教の熱意


カトリック教会の外に一切の救い無し


 “カトリック教会の真理”とはまず、救われる為には全ての人間がカトリック教会の一員となるという必要性である。“カトリック教会の外に一切の救い無し”という教義は、ルフェーブル神父にとって“宣教の使徒職が有する存在理由”だった。何故なら天主の通常の御摂理に従って、水の洗礼とイエズス・キリストへの明白な信仰は、カトリック教会への入り口だからである。

 更に彼は、『宣教基礎神学』‐Le fondement théologique des missions‐という小冊子を出版したド・リュバック神父を批判した。 この著作の中で、このイエズス会士は“全ての人々を照らす御言葉の光”と“無数の匿名の恩寵を与える形式”とを持ち出して、こう結論を下している。
「宣教師がいなければ、‘異教徒’は必ず地獄へ行く運命にあると主張するのは誤りである。」

 ドミニコ会司祭、ラブルデット(Labourdette)神父とニコラ神父は、このイエズス会士ド・リュバック神父の議論を引用して、正統的ではないことを論駁した。しかしルフェーブル神父は、ド・リュバックの論に見向きもせずに、簡単な言及をする事さえしなかった。彼はアフリカにおける自らの経験による現実主義でこう断言した。
「ド・リュバック神父の説は全宣教師たちの熱意を削ぐものです。仮に、ある異教徒たちが回心の最初の恩寵と協力する事が可能であったとしても、自分たちの生活する環境の中で聖寵の状態に堅忍するのは非常に困難である事は事実であると思われますし、経験によってその正しさが裏付けされる事実なのです。」

 マルセル・ルフェーブルの中で「ジャングルに住む人」の知識は、神学的定式表現の正しさと見事に融合していた。彼は、超自然の秩序は任意ではないと言明し、聖母マリアの中に、“超自然の秩序の支柱、つまり信仰の盾”を認めた。彼が良く言っていた様に、無知は、原罪が人間にもたらした最も深刻な傷であり、霊魂から明かりを奪い取るのだ。
「無知が霊魂を不道徳と利己主義との中にどっぷりと浸してしまい、死がその何百万という霊魂を地獄に送り出すのです。」

 ルフェーブル神父はこれらの原理の力を理解させた。宣教師を招いてモルタンを訪れ、自分たちの経験を神学生たちに話してくれるようにと望んだ。1947年の御復活主日の夜には、彼の妹マリア・ガブリエル修道女が神学生たちを相手に、カメルーンの病院や養護施設、そして混乱した学校についての講話を行った。聖霊降臨後の火曜日5月27日には、ピエール・ボノ(Pierre Bonneau)司教が、土着民聖職者について話をした。彼はムヴォルイェ(Mvolyé)にいた時以来ルフェーブル神父は会っておらず、2月16日にはリエナール枢機卿によってドゥアラ(Douala)で司教に聖別されていた。

 翌日早く、マルセルはボノ司教と共に、近頃ロアンゴ(Loango)代牧区長に任命された友人ジャン・バティスト・フォレ(Jean-Baptiste Fauret)の司教聖別に出席する為、ルルドに向けて出発した。ボノはこの旅行中に言った。
 「ところで、順々に【区長を‐訳者】補充すべき代牧区が幾つもあるんですよ。」
 「ええ、バンギ(Bangui)ですよね。それから現在ではドゥアラ(Douala)やロアンゴ(Loango)があります。」とルフェーブル神父が言った。
 「ダカールもそうですよ。グリモ司教様が辞任されたからです。」
 「はい、それから1月28日にタルディ司教様がお亡くなりになったので、リーブルヴィルもそうですね。」
 そこでボノが言った。「その通りです。ただ彼らは貴方の事を考えていますよ!」
 ボノ司教が“様子を探っている”のは明らかであった。しかしながら、持ち前の謙遜によってマルセル神父は考えた。「彼らは一体どうして私の事など考えられるのだろうか?それに、私は直接の宣教の分野から取り除かれたのではないのか?」結局、彼は自分の長上たちが望む事は何でも遂行するだろう。


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記7.3.4.ルフェーブル神父と政冶

2010年08月24日 | ルフェーブル大司教の伝記
ルフェーブル神父と政冶

  ルフェーブル神父は、上述した政治的原理の適用を1945年のフランスにおいて鮮明に見た。ペタン元帥は聖母マリア被昇天の大祝日である8月15日に不当にも死刑を宣告され、11月15日、イル・デュ(Ile d’Yeu)のラ・ピエール・ルヴェの要塞(Fort de la Pierre-Levée)に移送された。マルセル神父は当時、この問題に対して心を締め付けられる感情を表したのだろうか? いずれにせよ、彼は後年そのような感情を表明し、神学生たちに説明している。
「ド・ゴールは、フランスからペタン元帥が駆逐して清めた物を一つ残らず元に戻させました。あらゆる物が再び破壊され、カトリックのそしてキリスト教的秩序擁護の運動は無力化されたのです。」

  1987年4月13日、イル・デュに建つペタン元帥の墓の前で、彼は祖国の為に勇敢にも自分を勇敢にも犠牲にしてくれたこの軍人に対して次のような弔辞を述べた。
「貴方は二度フランスを救って下さったのですが、ただそれを救うだけに留まらず、フランスが有している最も深遠な信仰の伝統や、労働、さらに家族への愛を、もう一度見いださせ、霊的かつ精神的に再建して下さいました。(…)本来なら、貴方は祖国の父という敬称を授与されて然るべき極めてまれな英雄的な功徳を証明されたのです。」

  これに対して、一部の聖職者たちは共産主義者らとの協力について言及したが、共産主義の内情に通じている司祭たちは共産主義者なる潜入者であり、、レーニン同様に“階級闘争こそが、単なる無神論についての説教よりも百倍も好ましくキリスト教徒労働者たちを社会主義と無神論に至らしめるだろう”と理解していた。

 この罠を感知した修学院長神父は、ピオ十一世と共に率直に意見を述べた。
「共産主義は本質的に邪悪であり、キリスト教文明と社会秩序とをその破滅から救おうと思う者は誰であれ、些細な事業においてさえそれと協力してはならない。」

 そしてルフェーブル神父は結論を下した。「Roma locuta est, causa finita est‐ローマの発言だ、一件落着だ。」これこそが、彼の言い方だった。

  同様に、1946年の議会選挙の間、修学院長は神学生たちに選挙に関する非常に明確な助言を与えるのを躊躇しなかった。マルセル神父はPRLに投票するよう勧めた。かつての生徒が言うようにこれは「本当に右翼」の党だった。何故なら、彼は左翼でも、急進派でも、さらにはキリスト教民主政体論者でもなかったからだ。

 1946年10月の第四共和制憲法に関する国民投票期中、ルフェーブル神父は生徒たちに対し“否”に投票するよう求めたが、その理由はド・ゴールのそれとは完全に異なっていた。
「教育や結婚、財産などに関わる事柄に関して、天主とカトリック教会はこの憲法から除外されています。従って、倫理全体が危険に曝されているのです。」
 
 その上、修学院長神父は“ミサに与りに来る信徒たちに話をする時”も、断言的であった。このことは他の司祭たちを驚嘆させた。
「おお、ルフェーブル神父様、少しばかり強烈じゃありませんでしたか?」

 ところが彼らの注意は何時も微笑みと解りやすい答えに直面しただけだった。
「私たちは真実を言わなければなりません。」
 
 サンタ・キアラで学んだ真理全体に対する愛について、彼はどれ程天主に感謝したことだろうか!Sentire cum Ecclesia‐教会と共に判断せよ‐とは彼の掟だったので、神学生たちに対してはこの勧告を与えた。
「カトリック教会の真理に合わないような考えは、もう持ってはいけません。」



ルフェーブル大司教の伝記7.3.3.「彼はアクション・フランセーズの本を読ませた!」

2010年08月23日 | ルフェーブル大司教の伝記
「彼は私たちにアクション・フランセーズの本を読ませたのです!」

  ルフェーブル神父は正に核心に触れていた。知らないうちに世俗化した精神に染まった聴講生たちの幾人かは、神聖にして犯すべからず共和制の信条(ドグマ)を自分たちの長上が非難するのを見て不快に思った。ルフェーブル神父はこう主張した。
「ピオ九世に聴いてみてください。そして歴代の教皇たちの教えを勉強して下さい!」

 よく理解させるためにと、彼はある小冊子を食堂で朗読させた。もし生徒たちの内一人の反応を通して判断するなら、この朗読は一部の強情な先入観への挑戦だった。
「食事の時にアクション・フランセーズの本を読んで聞かせていたのを覚えています。私は若かったのですが、それでも少しびっくりしました。私は『あれ、何が起きているんだろう?』と思いました。」

 ところで、その朗読された本は、実際にアクション・フランセーズとは一切関係なかった。それは『フランス革命、1789年から百周年について(La Révolution française, à propos du centenaire de 1789)』という題名で、アンジェのフレッペル(Freppel)司教(1827年-1890年)によって書かれていた。フレッペルは、モラス(Maurras)とは違って、どこにも君主制の廃止を批判していなかった。しかしフランス革命の内にある自然主義の業、つまりイエズス・キリストの社会的君臨の否定を非難した。

 一部の生徒たちが見せる驚きと混乱とに直面すると、ルフェーブル神父ははっきりこの問題の核心をついた。
「この本の朗読が皆さんの中の少なくとも一部に与えた驚きも、特に私たちはフランス革命によって巻き起こされた世俗的な雰囲気の中に生きているのですし、皆さんが学校で受けた教育を考慮すれば人々はそこでキリスト教の歴史概念を偽造する教育課程や教科書に従っているのですから、殆ど私を驚かしはしません。ですから、皆さんは自問しなければならないのです。皆さんは、歴史の本当のとらえ方がある事を理解しなければなりません。それは歴代の教皇と彼らの教えに従う司教たちによって私たちに教えられている歴史観です。皆さんはカトリック教会の光に照らしてその観点から歴史を判断しなければなりません。カトリック教会は拒絶されてしまったのですか?[そうであればカトリック教会を拒絶する]全ての文明は崩壊し、無秩序と奴隷制度に陥ることでしょう。」

  もう一つ同類の反対意見はこのように言っていた。「私たちは神学校にいるのに、神父様は私たちに政治に関する教育を授けたいとお考えです。ですが、司祭は政治をすべきではないと教えられました。」
これに対してルフェーブル神父は明晰な答えを与えた。
 「皆さんはこの真実を正確に理解しなければいけません。司祭は政治をすべきではありません。ただ区別をして置きましょう。もし「政治」ということが、それぞれ異なる良い容認可能な支配や統治の方法などを指して言っているならば、その時は【各自が自由に選べば良いので‐訳者】そのとおり、政治に参加すべきではありません。しかし、もし「政治」が、国家の構造やその起源、組織、更にその目的を指して言っているのならば、その時、それは倫理の分野に入るので、従ってカトリック教会の教義の管轄に入るのです。司祭は、これこれの原理は間違っている、と言えなければいけません。これは大きなことです。皆さんは他の人たちを導く事が出来る助言者でなければなりませんし、原理の人でなければならないのです。」


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記7.3.2.教皇の教えに照らされた熱意

2010年08月22日 | ルフェーブル大司教の伝記
教皇たちの教えによって照らされた熱意

  モルタンでは、一部の神学生たちがこの“新しい空気 ”に説き伏せられてしまったので、ルフェーブル神父は反応してこう勧めた。
「興奮しないで下さい。分裂してはいけません。カトリック教会の社会倫理学を徹底的に勉強して下さい。予め決められたかのように‘民衆の擁護’、あるいは‘金持ちの擁護’ということに気をつけなさい。両者は存在するし、【これからも‐訳者】常に存在します。」

 修学院長は社会倫理を教える教授陣を信頼したが、サンディカリズム や、専門化したカトリック・アクション にある流動的で自惚れた信念に不信を抱いていた。彼はそれについて教え子たちに説明している。「もしも彼らの言うことが本当なら、これらの話題について十分の知識を持ち、深い謙遜を持ってアフリカに行く事が何よりも必要ですね」と。

  彼は“日曜日の朝の研究サークル・グループの会合”の参加者たちに、彼らが教義の勉強をするという条件付きで、大きな自由を与えていた。ルフェーブル神父はこれらの事に対して非常に寛大だったので、1946年、モルタンをパリのカトリック学院と提携させるのに成功した。こうして、優れた才能に恵まれた数名の生徒などは、スコラ哲学の学士号を取得すると、ローマで自分たちの勉強を継続する事が許されたのである。

  図書館では、カトリック思想誌 (La Pensée Catholique)から、民衆行動(Action Populaire)発行の雑誌である『宗教社会呼応道』誌(Cahiers de l’Action Religieuse et Sociale)まで、雑誌トミスト(the Revue Thomiste)を含めての様々な教義関係の定期刊行物を、生徒たちに提供していた。修学院長は、教え子たちの勉強における健全な自由を監督するのは自分の責務であると見做した。一部の生徒たちの中に、“愛徳と位階的な教会を犠牲にしてまで自己満足と活気を捜し求めて、正しくない熱意”があることに気が付いた。この修学院長神父は信頼の空気を駄目にしてしまうようなやり方で振舞う事をせずに、この不健全な態度を矯正しようと試みた。彼は“心の真の喜びと正真正銘の自由とは、権威や真理に対する愛、さらに同僚に対する愛から来る”と簡単に説明することで満足した。

  その原理において間違って土台が置かれた行動の影響を受けたこれら若き知性を助ける為、ルフェーブル神父はカトリック教会の公式な教えを食堂で食事中に朗読させた。その中には、レオ十三世がアメリカ主義についてギボン枢機卿宛に書いた手紙や、ピオ十世による近代主義に関する回勅パッシェンディ、さらに彼が社会近代主義に関するシヨン(運動)について書いた書簡などがあった。

  ピオ十二世は“フランスが、ランス(Reims)での洗礼において受けた驚くべき賜物”をフランス人に対して思い出させると共に、“フランスを誘い、倒そうと目論む‐‐‐これはフランス及び全国家、そして民族の損失の原因となるだろう ‐‐‐破壊主義的な力による攻撃”について警告を与えていた。マルセル・ルフェーブル修学院長神父は、カトリックのフランスが持つ宣教の役割や、“地の塩”としての任務、さらには“信仰の遺産を、真理を、全ての真理をそのまま維持”し、残りの国々を教化するという使命などを生徒たちに想起させていた。
「真理はそのままに留まります。進化などしません。仮に状況が、人による真理の適用方法を変えるとしても、状況は真理の命題も、またその中身も変える事などありません。真理は天主ご自身の様に不変なのです。」

 危険とは、「自分たちを取巻いている自然主義から由来する誤謬を無意識裏に私たちの中に運び込み、この誤謬に従って振舞う事なのです。幾つかの実例を出しましょう。 良心の自由、信教の自由、出版の自由、【政教分離による‐訳者】国家が宗教を持たないこと、さらに1789年の人権宣言などについてどうお考えでしょう? 」


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.3.1.様々な思想の動乱

2010年08月21日 | ルフェーブル大司教の伝記
様々な思想の動乱

  “持っているものは何でも”差し上げようと着任して以来、ルフェーブル神父はさらに、誤った思想の矯正と聖職者たちの間に蔓延していた不健全なユートピアの破壊に取り掛かった。ビシー政権を非難する事で、フランス解放はペタン元帥によって承認されたキリスト教的社会秩序の復興という自発的な運動を拒絶すると共に、この元帥がフランスから排除していたもの全てを呼び戻してしまった。

 こうして1945年10月21日の選挙は、ド・ゴール将軍政権の中に共産主義者たちの大臣をもたらす結果になったのである。加えて、この戦争の間、一部の神学生と正しく養成を受けていなかった司祭たちは、共産主義闘士たちとの恒常的な接触により近づいていた。プロレタリア階級の勝利に対する共産主義闘士たちの熱意に感銘を受け、彼らはこの運動をキリスト教化する事は出来ないか、或いは、少なくともそれをキリストに向け直す事は出来ないものかと思った。

  さらに1942年10月5日には、リジューにフランス宣教神学校が開校していた。この神学校校長で、ジャック・マリタン説の信奉者であるルイ・オグロ(Louis Augros PPS)神父が、成人期に達した人間社会は、カトリック教会の指導も含めて、全ての監督を拒絶すること、人間社会固有の領域について自分たちだけで自律することを主張した。彼によれば、本質的に宣教師たちの任務とは、キリスト教の影響力を構築中の新しい文明社会にもたらそうと努める事である。つまり“新しい文明社会に洗礼を授け、キリスト教とこの新文明社会とからの統合体(これは私たちにとって新しいキリスト教世界となるだろう)を創り上げるのに熱心な司祭たち”が必要である、と言う。

  司祭の使徒職のみならず、司祭生活それ自体も、このような思想による堕落の危険に曝されていたのだ。1945年10月は、元の捕虜たち、あるいは活動家国外追放案による犠牲者たちがリジューの神学校に入学し、彼らにより簡略化され“兄弟的な”ミサと、司牧的実験を経験した。これらにより、長上らは典礼様式及び祭服の簡素化や、工場での職業体験学習、あるいは「経済と人文主義協会 Economie et Humanism」により組織された会合に神学生たちを派遣するようになった。

 1940年にドミニコ会司祭、ルイ・ジョゼフ・ルブレ(Louis Joseph Lebret)神父によってマルセイユで創立された「社会学分析統合研究センター」は、資本主義経済を分析し、さらには小教区の使徒職までも調査した。“厳格な理論”や“時代遅れな思想”から解放されて、このセンターは非キリスト教化した農村地域で働く“司祭班”の導入(これは悪い思い付きではなかった)などのような構造的改革を提案していた。1949年になると共産主義の幾つかの価値観を保持しようと切望するルブレは、あまりにも多くのカトリック信徒たちにある“単純で愚かな反共主義”を非難した。

 この職業体験学習期間は独自の成果を挙げている。1946年5月、ルイ・オグロは労働司祭を夢に見ていたが、6月になると数人の神学生は共産党への入党許可を要求した。

「我々にとって、共産主義の扉をキリストに開く事は内側からならそれが可能である。(…)我々の希望と我々の闘争は、彼ら【共産主義者‐訳者】のそれと同じものでなければならない。」


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.2.3.「彼が私たちを養ってくれました!」

2010年08月20日 | ルフェーブル大司教の伝記
「彼が私たちを養ってくれました!」

  食糧配給制に耐えなければならず、白の大修道院の農園や、鶏小屋、そして菜園などから供給出来る以上のものを必要としたこれら百かそこらの飢えた口もとに食べ物を与える事にかけては、ルフェーブル神父はその最高の熱心を使い、修学院の生徒たちからは際限のない感謝を獲得した。破壊されたこの町は、どうにか生き残ろうとしていた。田園地帯は、家畜又は農業への損害以上に、戦争による惨事をより一層表わしていた。燃え尽き破損したドイツ軍やアメリカ軍の戦車が、【戦場と化した‐訳者】野原の至る所に点在するのを目にする事が出来た。さらに半分地中に埋まってしまった迫撃砲の不発弾や地雷は、農民たちの仕事を危険な物にしていた。ここかしこに人骨の断片が、色のくすんだヘルメットの中、あるいは放置されたブーツの中に依然として見受けられた。

 農場の多くは、両軍の大砲による撃ち合いによって破壊されていた。この状況におけるルフェーブル神父の創意は、実に驚くべきものであった。

 弟のミシェルから、彼は誰も使用していない自家用車を一台もらい受け、それを小型トラックへと改造した。朝のミサの後、彼はこのちぐはぐで変わってはいるが、頑丈な乗り物を運転し、農園をしらみつぶし当たりながらノルマンディーの田園地帯を走り抜け、あの農民この農民からの助言に従って食料探索を広げていたのである。そして、彼は沢山の食料を神学校に持ち帰っていた。その中には野菜や、ジャガイモ、バター、カマンベール・チーズ、それからパンまでもあった。多くの肉のかたまりをその為に造ってあった低温室へと大量に持ち返ることすらあった。

モルタンでかつて彼の生徒だった一人が言った。
「彼が本当に私たちを養ってくれました。修学院長でありながら、お金を管理され. . . 彼は組織者でしたよ。私たちも寒い思いはしましたが、それは彼の責任ではありませんでしたし、確かに飢えで死ぬ事などなかったのです。そう、確かに死にはしませんでした!」

  もう一人、かつての生徒がこう言い加えた。「若い時には腹がへるものです。修学院長様がお父様の車 ― 苦しみを受け、国外追放の後に亡くなった工場所経営者だった父親の車 ― で時間を過ごされている時は何時も、何か特別な事が進行中なのです。彼は自分の袖を捲り上げて働いたのです。私達の面倒を見て下さったのでした。私たちは、彼が自分たちに気を配って愛してくれていると感じましたね。」


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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.2.2.多様性の内に一致をもたらす

2010年08月19日 | ルフェーブル大司教の伝記
多様性の内に一致をもたらす

 ルフェーブル神父は、ガボンに於ける使徒職によって、それも取り分け、そこで著名なシュヴァイツァー(Schweitzer)と知り合ったランバレネで自分が成し遂げた業績によって功績を建てた状態で赴任したが、様々な素性からやって来た100人以上の人間を指導し一致させる事は依然として彼にとって挑戦であった。

 そこには7月16日にランゴネ(Langonnet)からリオ(Riaud)神父と共に戻っていた24名の生徒と 、ルクボー(Recoubeau)の修練院や、近場のイル・エ・ヴィレンヌ(Ile-et-Vilaine)のピレ(Piré)にある修練院から来た生徒たちや、さらにスイスはブロネ(Blonay)の遥か遠くにある修練院で、最近誓願の宣立を済ませて着いたばかりだった40人ほどの修道士たちがいた。それに加えて、修学院長は、4年間を捕虜収容所で過ごしていた年上の生徒たちや、入学前に2年間の兵役を務めた別の生徒たちを指導しなければならなかった。彼はまた、フランスに於ける戦闘の初めから終わりまでド・ラットゥル軍又はルクレルク第2戦車師団で戦い6ヶ月前までドイツ戦線での戦闘に従事していた生徒たちにも対処しなければならなかった。レジスタンスで戦った神学生たちもいれば、東部戦線から戻ってきたものもあり、ドイツ国防軍(Wehrmacht)に召集されたアルザス人の生徒もいた。

  当時の生徒であったアンドレ・ビュテ(André Buttet)神父は、ルフェーブル神父が如何にこれらの問題に対処したかを説明した。
「修学院長様は、厳しい規律が辛い過去を思い出させて尻込みしてしまう青年たちの落ち着きのなさを優しく訓練する上で、数え切れない心理学的対応方法を持っていました。彼は声を荒げたり、あるいは規則書を見せびらかしたりせず、全く共通点の見出せない集団を、御自分を中心に団結した家族へと一変させたのです。」

  非常に年の若い神学生でありながら、彼らの備える天賦の才能に関してはルフェーブル神父もすぐに評価したモーリス・フルモン(Maurice Fourmond)とロラン・バルク(Roland Barq)の2人が“補佐”に任命され、一人はスコラ哲学の第一学年、もう一人は、同科目の第二学年における生徒たちとその長上の間の連絡線となった。時代の精神に対する自由主義的な容認からは懸け離れて、この大胆な手段は、従順というものがより完全に保たれるのを確実になるように、指導命令を確立しそれをより正確に実現させる為のものであった。かつて彼の生徒だった一人は言っている。「ルフェーブル神父は如何に賢く指揮を執るかを心得ていたので、時折巻きタバコを吸いにこっそり出て行ってしまうと知られていた数人の元軍人の生徒たちをせっかちに叱り付けない事を望みました。」

 彼はただ容認しただけではない。それどころか、ある日ホスピスの管理人が巻きタバコの小包(それは当時極めて珍しく貴重な物であった)を自分に贈呈すると、彼は例の退役軍人たちにそれをまわしさえした事があった。

  ルフェーブル神父がこの共同体にもたらした結束と家族精神は、物理的問題、特に居住と設備の問題に対処する彼の高い能力にかなりの部分起因した。屋根に出来た穴を修理する事は、生徒たちだけではなく町の年配避難者たちの両方が、水漏れしない建物に住む事を意味するのだ。北風が流れ込むガラスのない多くの窓も、ルフェーブル神父が700枚全ての窓ガラスを取り替えるまでは、殆ど全てが防水布によって覆い隠された。教室や寄宿舎の寒さを取り去る為の努力として、彼らは薪のみならず、おがくずでさえもストーブに焼(く)べた。実際に、眠る為の宿泊施設はかなり厳格でスパルタ式であったし、ベッドの間の仕切りは破れ壊れていた。おそらくこれは熱の循環を向上させる為にこれで良かったのだろう。

  修学院長は神学生たちを元気付けた。「我慢して下さいね。状況をあるがままに受け入れて下さい。もう直ぐ、皆さんが二つずつ洗面器を置く台が来るでしょうから。それから、全員が自分自身のタンス棚を持つ事が出来ます。」

  製作所を所有する弟のミシェルを通して 、この修学院長神父は様々な基礎材料と不可欠な商品を手頃な値段で親類及び友人たちから手に入れた。その中には電気発動機や、修道女たちが使うアイロン機械に必要な加減抵抗器、大分量の靴下とストッキング、ついに到着した窓ガラス取り付け用のパテ、大量のペンキ、さらに毛布100枚などが含まれていた。

 地域会計係りの為に、ルフェーブル神父は神学校の修理に必要とされた支出額の見積書を作成した:

改築用必要経費の見積書(*フラン)
神学校区域の塗装(未解決). . . . . . . . . . . . . . . . . .1,500,000
窓 ロレ社‐(まさに全額を支払いつつあった). . . . . . . . . . 280,000
屋根(修理中でほぼ完了、既に30,000支払い済み). . . . . . . . . 150,000
石造 修理作業(作業中であり、ほぼ完了). . . . . . . . . . . . 30,000
漆喰塗り‐寄宿舎(未解決). . . . . . . . . . . . . . . .. . . .40,000
漆喰塗り及びホスピスの塗装(見積額 :塗装、  40,000
                  漆喰塗り 1,000,000). . . . 250,000
ホスピスの階段(未解決). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .30,000

  支払額は2,280,000フランに達したが、会計係りはどうやって支払うことが出来たのか不思議がった。あれだけの清貧の中にありながら、お金がどくどくと大量に流れ出ていたようだ。しかしながら、既にルフェーブル神父は、お金の使い方を心得た人という評判を獲得していた。それは、最愛の聖トマスが“気前のよさmagnificentia”と名付けた徳であり、そのスピードに合わせて走る地域会計係りは、すこしばかりはぁはぁとあえぎながら引きずられていたに違いない。

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.2.1.「この飾り気のなさに彼が好きになった」

2010年08月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅱ.再建と準備


「この飾り気のなさに彼が好きになった」


  哲学修学院の新校長がモルタンに到着したのは1945年11月1日の冷たい晩秋の朝だった。彼は1ヶ月の休暇をトゥルクワンにいる家族と過ごす事が出来た。そこでは弟のミシェルの家に泊まった。

ロラン神父が彼に言った。
「何れにしても、貴方の先任者だったリオ(Riaud)神父様は貴方に会う事はないでしょう。と言うのも、総長様が出来るだけ早くカナダでの新しい役職を引き受けるようにと彼に依頼したからなんです。マシェ(Macher)神父が、貴方の到着まで舵を取ってくれるでしょう。」

  マルセル神父はパリからモルタンまでを車でロラン神父と共に旅し 、この旅行中、自分の長上かつ友人が、新しい役職のデリケートな性質を説明する時は、幾分かそれに恐る恐る耳を傾けた。諸聖人の大祝日の朝、一行の車は悲痛な思いにさせる破壊し尽くされた町の瓦礫の中を通過し、未だに蝶つがいの外れた正面門を通ってあの大修道院に入ると、不気味な外見の建物の前で停止した。そこにいる司祭たちは、一行の到着を知るなり中庭に一同集まった。そしてマシェ神父は前に進み出て「ようこそ、神父様」と挨拶した。

  マルセル神父は集合した司祭たちの紹介を受けた。
「こちらはノルマンディー出身で私たちの会計係を務めるフランソワ(François)神父様です。こちらは、哲学を教えておられます元海軍士官(彼はそれを感じさせた)のフェリックス・シモン(Félix Simon)神父様。そしてバカロレアを準備している生徒たちに「大学の哲学」を教えておられるマルセル・ディボー(Marcel Diebold)神父様(非常に厳格そうに見えた)です。ローマでは貴方の同僚で、スコラ哲学を教えておられるヴィドロ(Videlo)神父様(クラスでの話しぶりは呟くようで聴き取りにくかった)。ブルターニュ地方出身で歴史を教えておられますジャン・ロゾ(Jean Rozo)神父様(雄弁で教養がある)。また引退しておられますジャンヴラン(Jenvrin)神父様。そして「大学の哲学」を教えておられるミュラー(Muller)神父様です。」

  次に神学生たちが来た。彼らの一人であったエマニュエル・バラ(Emmanuel Barras)神父は、後年回想している。
「今でも彼が、挨拶しながらその両腕を拡げられ、私たちに向って『ただ今来ました!』と飾らずに言っているのを思い浮かべる事が出来ます。私たちは、この飾り気のなさに彼が好きになったのです。」

  最後に、別々に独自の共同体を形成していた修道士たちがやって来た。忘却(の淵)から非常に多くの細部に亘る事柄を救ってくれたルフェーブル神父の覚え書きは、私たちに次のような修道士たちの名前を提供している。ロベール(Robert)、ニコラ(Nicolas)、ロンジャン(Longin)、ロジェ(Roger)、ギ(Guy)、ベルナール(Bernard)、マラン(Marin)、ピエール(Pierre)などの修道士たち、さらにアコノ(Akono)に教会を建て、2階の桟敷(さじき)に至る螺旋階段を取り付けるということを思いつき(それは詳細な設計図もなく組み立てられたが、最上段まで正確な位置で完成した)アルフォンソ(Alphonse)修道士である。また、そこには1948年に亡くなりこの大修道院の公園にある小さな共同墓地に埋葬されるだろうメレーヌ(Mélaine)修道士もいた。さらには、動物たちと非常に多くの時間を過ごした労働者、ユード(Eudes)修道士もいた。周りの人々が彼の事をよくこう冷やかしていた。「牛たちはユード修道士の臭いがするんです!」

 全ての仕事は前述した人々の中で従事された。庭師、大工、鍛冶屋、靴直し、仕立屋、それから床屋であった。それに加えて受付をしてくれる平信徒の御手伝いもいた。

  1932年には会員12人を数えた聖霊女子修道会の共同体は、修学院の為に洗濯、掃除、更に料理 をしてくれた。マルセル神父は彼女たちに必要なものはないかと非常に気を使ったので、修道女たちは「ついに私たちに父親が与えられましたね!」と言っていたものだ。 しかしながら、持ち時間の殆どは生徒たちの為に取って置かれた。ロラン神父はこう言って彼を安心させた。
「貴方は何一つ授業を担当されませんが、土曜日の校長による講話と、日々の霊的講話はして頂く事になります。」

  諸聖人の大祝日中、その到着を楽しみに待ち構えていた新しい修学院校長を祝った。翌日の夜、ルフェーブル神父は修学院の学生たちを講義室に呼び集めてとても簡単に自己紹介をした。トゥルクワンに住む自分の友人たちに向っては、自分の事を“フランスでの人生をやり直そうと試みるアフリカのジャングルに住む人”だと表現した。これと同じ謙遜なアイロニーで彼は神学生たちの心を開かせた。そして、与えられた勉強時間は上手く使うようにと彼らを招いた。
「あなた方がここで費やす一分一分について、あなた方の職務を待っている霊魂にその責任を負っています。」そして彼はこう締め括った。「私に関して言えば、持っているものは何でも皆さんに差し上げます。」


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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.3.モルタンに於ける戦闘

2010年08月17日 | ルフェーブル大司教の伝記
モルタンに於ける戦闘(1944年8月1日-14日)

  連合軍によるノルマンディー上陸の翌日である1944年6月7日、この大修道院は野戦病院へと姿を変え、6月8日から最初の戦闘で傷を負っていたドイツ兵の搬送が始まった。巨大な赤十字がこの大修道院と他に幾つもあった病院の屋根にペンキで塗られ、この町の保護を天に懇願したかのようである。

 パットン(Patton)の大戦車軍団がアヴランシュ(Avranche)を目指して前進する間に、アメリカ第1軍集団はモルタンに向って東へ進軍していた。8月3日、ドイツ軍がこの町を放棄したので、早いうちからこの町の住民は安堵のため息を吐く事が出来ると思った。しかし不運にも、ドイツ軍は総統【ヒットラー】によって決定された反撃を準備する為、第314高地を越えて東に後退していただけだった。この反撃が8月5日の午後11時に空爆を以って始まると、炎上したモルタンの人々は避難した。

 その日の夜、ハウサー(Hausser)将軍率いる装甲(Panzer)戦車師団が、パットン戦車隊を後方から切断しようと西方に突進した。こうしてドイツ軍はモルタンを再度占領したのである。

 しかし7日朝、イギリス空軍(RAF)のタイフーン飛行大隊がドイツ軍陣地を低空爆撃し、驚くほどの正確さによってドイツ軍車両の3分の1を破壊した。白の大修道院の周辺地区では、アメリカ兵たちが小銃や、戦車、さらに大砲などによる激しい集中攻撃の中にあっても、自分たちの陣地を死守していた。装甲戦車師団の勢いは失せてしまった。凄まじい戦闘が続いたが、11日になってドイツ兵たちは、ファレーズ(Falaise)と、アランソン(Alençon)間の巧妙な挟撃作戦による包囲網によって危険にさらされた。フォン・クルーゲ元帥(von Kluge)は撤退指令を出した。

 モルタンの80パーセントは破壊された。廃墟の上に、希望の印であるかのように無傷の塔の輪郭を残して聖堂参事会の聖エヴル(Saint Evroult)教会が建っているだけだった。

  聖霊修道会の司祭たちは、自分たちの建物が無事だったのを同じ天主の御保護に帰した。白の聖母は、その記念碑的な無傷の御像が建っているこの大修道院上方の公園から、自分の大修道院を見守った。それでも、8月3日から12日までの間、大修道院は18発の迫撃砲弾を壁と屋根に、100発以上の砲弾をその敷地内に、そのうち2発の爆弾は飛行機から落とされた大きなものだった。

 窓には一欠けらのガラスも残らなかったが、そこにいた司祭や修道士たちは無事であった。白の大修道院は、既に破壊されていたホスピス【老齢者や病人を受け入れる宿泊所‐訳者】にいた病人や年配者たちに加え、モルタンから避難して来た数多くの人々を温かく迎え入れた。 これらの人々は、ルフェーブル神父が到着した時にも、 “ホスピス”と呼ばれる翼に依然として収容されていた。

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.2.ノルマンディー攻防戦における白の聖母

2010年08月16日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅰ. ノルマンディー攻防戦における白の聖母


白の大修道院


  白の大修道院は、サヴィニー(Savigny) で1112年に隠遁者ヴィタル(Vital)の姉妹アドゥリンヌ(Adeline)により創立され、1151年、純然たるシトー修道会様式に改築された。フランス革命の後、この修道院は小神学校になった。後年になって、花崗岩で出来た細くて高い建物が二つそこに加えられ、既存の大修道院の教会や回廊と相俟って、見事な中庭を形成した。1906年に公布された政教分離法は、この大修道院からそこにいた生徒たちを奪ったが、そこは1923年になって、最終的に聖霊司祭修道会に一任される事となり、哲学修学院にされた。

 修練院での修練を終え自分たちの司祭養成開始準備の整った宣教師志願者たちは、一つは2年継続クラス、もう一つは3年継続クラスから成る二つの能力別クラスに編成された。 この大修道院は1939年に軍事病院になり、全生徒たちが立ち去った。1940年の夏、これはドイツ軍によって占領された。


聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.1.1.モルタンに於ける戦闘

2010年08月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
第7章 モルタンに於ける戦闘


  1938年の総会の決定に従い、聖霊司祭修道会フランス管区の本部は、1943年ロモン通りにある当会総本部から離され、パリ北部にあるピレネー通り393番地に移された。連合軍のノルマンディー上陸の日である1944年6月6日、その同じ日付に自らの司牧職務に疲れ果てたアロワズ・アマン(Aloyse Aman)神父の後を継ぎ、エミール・ロラン(Emile Laurent)神父がそこに住居を定めた。 1人の新しい人が、目新しい状況に直面しようとそこにいた。

 神学校や修練院でのマルセル・ルフェーブルの友人かつ仲間であったエミール・ロラン神父は、先ずカメルーンで小神学校の先生となり、その後はサンタ・キアラで生徒たちの補習監督者となった。1940年10月8日、フランスが2つの区域に分断された後、あるいは召集されていなかったか、あるいはドイツ軍によって解放されていたおよそ50名の生徒たちをピュイ・ドゥ・ドーム(Puy-d-Dôme)にあるセリュール(Cellule)に集めていた修学院(スコラスティカ)の校長に彼は任命された。

  シュヴィリとモルタンにあった両修学院は1939年に接収された。しかし神学受講生たちは1944年6月までシュヴィリの神学校に戻る事が出来た。ところがいた哲学受講生たちは、モルタンからブルターニュ地方のランゴネ(Langonnet)に避難しており終戦までそこに留まった。

 確かに定員は減少したが、これらの神学校は自分たちの使命を継続する事が出来、若い宣教師100人以上の養成を成し遂げた。 1945年、フランスの解放に伴い、復員兵や、解放された捕虜らが養成中の修学院に戻り、また近頃誓願を宣立したばかりの修士たちが修練院から送られて修学院の学生たちの中に加わった。人数上この喜ばしい増加には対応が迫られた。フランスでは、モルタンが最も戦争による破壊の煽りを受けていた。これらの問題に対処する為、ロラン神父は友人であるマルセル・ルフェーブル神父を重要人物かつ堅実で、さらに教義の面でも信頼の置ける再建者として選んだのだ。ロラン神父はタルディ司教に、“どのような犠牲を払ってでも彼を求めた” 。最終的には繰り返された彼の要請は承諾された。こうしてマルセル・ルフェーブル神父は、ちょうどモルタンの白の大修道院(Abbaye Blanche)の壁の中に戻され、修学院校長という困難な地位を与えられたのである。


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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.7.フランスへの召還

2010年08月14日 | ルフェーブル大司教の伝記
フランスへの召還
  ル・アンセック(Le Hunsec)司教から送られた非常に短い手紙には、デリケートにこう書かれていた。
「聖霊司祭修道会総長は、ルフェーブル神父がフランスに戻る事を希望します。総長は、彼を哲学修学院に送ろうと考えています。」
マルセル・ルフェーブルはこう言うだろう。
「あの短い手紙は私の心を粉々にしました。あの時、目には涙がありました。土着民たちはそれに気が付きましたが、それ程深く理解したわけではありません。」

 宣教師だけがこの悲嘆を理解出来る。それは、遠方の国で霊魂の救いの為に全力を尽くし、汗して働く事や、ファン族といればファン人になり、ガロアス族といればガロアス人になる事、その後でそれを全て離れて、帰ることをもはや望んでもいないフランスに戻らなければならなくなること。それは辛く、実にとても辛いことなのだ。

  しかしマルセル神父は直ちに冷静になって、自分からのfiat【フィアット:そうなれかし‐訳者】を捧げた。 総長はただ希望を表明していただけであったが、タルディ司教はそれが固い決意であると確認することになる。次回の評議会で、ルフェーブル神父はモルタンの“共同体の長及び哲学修練院の長” に任命されるであろう。彼に承諾が求められ、彼は従った。後日、彼は言うだろう。

「従順は常に良い事です。私は、自分の義務を果たしているだけであると言う幸福な思いを抱いて戻りました。」「どうして自分の長上たちは私をここやあそこ、又はどこかへ送ろうとするのかなどと私は絶対に詮索せず、コンプレックスも無く、自分が去ったばかりの職務の喪失を嘆いたりする事なく、仕事に取り掛かろうと決意したのです。それも天主の恩寵のおかげです!皆さんは自分の気質と性格によって、さらに自分の受けた養成に従って生きており、天主様は皆さんに自分の仕事を成し遂げる為に身分上の恩寵をお与えになります。私たちが天主の御眼の下で働いるのは(…)成功した経歴を持つ為ではなく、霊魂を救い、善を行う為なのです。 」

  彼は後任者のネラン(Neyrand)神父に引き継ぎを行い、自分のライフルはカテキスタのアンリー・ンゴム(Henri Ngome)に、幾つか持っていた寝具は使用人のピエール・ポールに与えた。それから、宣教区に別れの挨拶を言う為に出ていき、シスターたちや学生たちの方に出向いた。子供たちは嘆き悲しんだ。マルセル神父はガロラ語で「我が天主よ」としか言う事しか出来なかった。信徒たちは涙を浮かべてそこに立ち、彼をそのまま去らせたくなかった。彼らは自分たちのお金を出し合ってリーブルヴィルに電報を送った。

 「マルセル神父を私たちのために残して下さい。ランバレネを彼にとって最後の任地になりますように。もし彼が死んだら、埋葬の場所はランバレネです。」
タルディ司教は、仮にランバレネがルフェーブル神父を必要としたとしても、公教会は彼を、より重要な事柄の為に必要としていると回答しただけであった。
  川船はマルセル神父をポールジェンティまで連れて行き、次のリーブルヴィル行きの定期船に搭乗出来るまで、アンリ・クレマン神父によって運営されている宣教区で待った。 この【リーブルヴィルの】聖マリア宣教区で、司教と兄であるルネ神父に分かれを告げると、通常は高齢または虚弱なヨーロッパ人たちを本国へ送還する軍用機の一機に搭乗した。それは、北ナイジェリアのドゥアラ(Douala)や、カノ(Kano)、その他にはアルジェに立ち寄る小型飛行機であった。パリのロモン通りで、ル・アンセック司教が彼を温かく迎え入れると、それから彼を地区長神父の所へ送った。司教は彼に言った。
「ロラン(Laurent)神父と会いに行きなさい。彼が犯人です!彼が貴方を欲しがっていたのですよ!」

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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 6.8.6.幾つもの湖を巡回して

2010年08月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
幾つもの湖を巡回して

 マルセル神父が未開地にある村々と森林地帯に設置された作業場への視察の間にもたらしたものは、キリスト教による罪の奴隷状態からの解放だ。マドゥアカ(Madouaka)と呼ばれるモーターボートに乗り、彼は西部にあるゴメ湖(Gomé)周辺の作業場を訪問した。鉱山内と似て、そこで働く労働者たちの状態は哀れであった。
「新しい労働者の募集方法は酷く恥ずかしいものだ。それは奴隷制度だ。労働条件や、報酬、それから住居ときたら、惨めなもので、特に鉱山ではほとんどそうだ。原住民たちは、村の支援と環境、それに彼らが願っている宗教的な助けがあるならば良い仕事をする事が出来る。」

  ルフェーブル神父は、自分がこれらの労働者たちを集めて、ミサに与らせあるいは告解をさせる許可を取る時は何時も、経営者側に対してこれらの事を言及しない事は決してなかった。時折、最も遠方の場所に達するために、“一歩一歩、重い足取りで歩かなければ”ならず、マルセル神父はカバンを持ち、使用人のピエール・ポールは、小さな旅行カバンを運んだ。ある日などは、彼らの踏破した道のりが30キロメートルに達した。

 彼の同伴者は言う。「ルフェーブル神父は歩くのを苦にしませんでした。彼の歩き方は驚くべきものでした。足取りは非常に軽やかで、足先だけで歩いているようでした。彼はとても柔軟でしたよ。」

 彼はこの歩き方を宣教では保った。全盲の足先に体重をかけるようにするのだ。それは僅かに子供たちを怖がらせた。子供たちは彼に“コド・コド【Kodo Kodo】” というあだ名を与えたのである。

  しかしながら、ある晩、ジャングルの中の長い道のりを一人で帰る途中、彼は道に迷ってしまった。夜が訪れていた。自分はそこで天主と共にこうやって一人死ぬのだろうと考えた。この思いに、彼の霊魂は喜びに満たされた。ここで死ぬ。道に迷って、天主と共に一人孤独に! 幸いにも、守護の天使が彼に道を見つけ出させたので、彼の視察は続行した。

  南に向かう湖地帯の巡回は、素晴らしい小旅行を生み出してくれた。オグウェ川のきらめく水は、オンポンウォナ(Omponwona:“愉快さ”の意)へ彼を連れて行った。彼はそこに50名の男児生徒たちを収容する付属寄宿学校を開設していた。 更に、カバが多く生息しているオロンボ・ムネジュエ(Orombo-Mounédjoué:“ペリカン川”)川 を通って帰るのを見合わせて、ルフェーブル神父はウォンボリエ川(“偉大なる川”)を選んだ。しかし、雷雨が来る午後の終わりに航行する事は、常によいことであるとは限らない。数時間前には、電気を帯びる大気が呼吸を苦しくするからである。闇が訪れ、重苦しい空の一方からまたもう一方へと広がる。一つまた一つと閃光がますます短い間隔で起こる。雷の重い轟きが、川岸に大きな音を立てて打ち付け、その前後に反響する。後から来る音響の波はその前のものと衝突するようで、それはまさに不断の轟きとなる。間もなく雨が川に激しく降り始め、川面は荒れ狂い、泡を立てて流れ出す。視界は船内にいても殆どゼロである。水は船底から汲み出されなければならず、出来るだけ早く船は停泊した。

  一行は夜をノンブドゥマ(Nombedouma)で過ごし、翌日には広大なオナンゲ(Onangué)湖に入り込んでいた。マルセル神父はそこにある島々や岬、さらに未踏の諸島に曲がりくねって続く様々な入り江の地図を描いた。風は彼らの顔を激しく打ち、波は乗っている船を揺さぶる。オゲムエ(Oghémoué)湖畔で、彼らはプティット・サヴァンヌ(Petite Savane)の向かいにあるイニゴ(Inigo)に停泊した。別の機会に、マルセル神父はオゲワ(Oguéwa:“打ち寄せる海の波”の意‐多くの事を簡素な語句一つでどうやって言えるのだろうか?)にいた。ここはシリアク・オバンバ神学生の出身地で、そこには指導的カテキスタのトマ・アトンド・ディヤノ(Thomas Atondo-Dyano)が住んでいた。マルセル神父は、附属学校や、そこにある二つの寄宿舎を視察した。

  どれほど痺れを切らして、住民たちは司祭の訪問を待っていた事だろうか! 彼の到着は前もって知らされていたので、聖堂代わりの小屋が準備された。マルセル神父は聖堂に入り、おびただしい告解を聴いた。それは、仮に、聖なるミサの犠牲と聖体拝領が極めて重要だとしても(何故ならそれは人間の活動を聖化し、婚姻の約束を強めるからである)、それにも拘らず、その他の諸秘蹟も、前者二つの秘蹟を受ける為に霊魂を準備させる事を彼は心得ていたからである。彼は司牧の第1原理をどれほど注意深く応用したことだろうか!ミサ聖祭の恩寵を通して、その為に良く準備されてきた数々の霊魂に起こる発展的な変化を目にするのは大きな喜びであった。霊的に変容するのは村全体であった。 “物理的にも、社会的にも、さらには政治的”にも変容したのだ。

  この地方最後の視察地はエザンガ(Ezanga)湖だった。さらに帰りの旅は、川岸に沿った木々の上ではしゃぎまわっているペリカンの目の前を通った。するとその内に、彼らの船は再びオグウェ川に達した。

 このオグエ川で1945年10月のある日、彼に同伴していた子供たちが言った:
「神父様、カヌーが一艘やって来ますよ!」
  「そうですね!」
  「ああ、神父様!宣教区からのカヌーですよ。」
  「宣教区からだって?どうして?どういう訳ですか?彼らはどうしてここに来ているのですか? 何か変わった事でもあるんだろうか?」
  「ああ、本当だ。宣教区からのカヌーだ!本当だ!」
  事実このカヌーは、ますます彼らに向って近づいて来て、最終的には彼らと並行して止まった。すると乗っていた使者がこう伝えた。
「神父様、緊急のお知らせが神父様宛に届いています。これです。」
  同封の手紙はパリからであり、その封筒は修道会総長の筆跡で見分けが付いた。彼は手紙を開いて読んだ。マルセル神父はフランスに召喚されたのだった!


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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