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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年9月2-6日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年09月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月は大阪で初金のミサと、初土曜日には聖ピオ十世会の守護の聖人である聖ピオ十世教皇様のミサ聖祭を捧げることが出来て、大変うれしく思います。

ティシエ・ド・マルレ司教様の来日に合わせて、ルフェーブル大司教様の伝記の日本語訳の出版を、と願っていたのですが、今回は残念ながら間に合いませんでした。実は、3年ほど前に日本語に訳し終わったときにすぐに出版するつもりで、全てプリントアウトし読み直して校正をし始めていたのですが、その他の様々な仕事によってこの作業がいつも脇に置かれてしまい、出版には至りませんでした。
今回のティシエ・ド・マルレ司教様の来日は、この仕事にもう一度取りかかる大変良い機会で、そのため極めて多くの時間を作ったのですが、印刷された本として完成させて私たちの手元に届くまでには間に合いませんでした。愛する兄弟姉妹の皆様の御忍耐とご理解を感謝します。

それではミサ聖祭のご報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは(^O^)/

昨日一昨日と、初金のイエズス様の聖心と聖ピオ十世教皇様の御ミサ、御聖体降福式、公教要理など色々ありがとうございました!

今年は日本は本当に御恵みで、クリスマス、御復活祭、御昇天、聖霊降臨、至聖なるイエズスの聖心の大祝日、マリア様の被昇天、マリア様の汚れ無き御心の大祝日、聖ヨゼフ様の祝日(両方とも!)、聖ピオ十世教皇様の祝日の御ミサまで、主要な祝日の御ミサは全て捧げられています!!

マリア様の汚れなき御心に捧げられた日本が、ファチマ100周年を良く準備することができるように、マリア様が特別に御計らい下さっているような気が致します!日本の聖なる殉教者の方々、小野田神父様のおかげです!ありがとうございますm(_ _)m

また来週はティシェ・ド・マルレ司教様も初めて日本にお越し下さり、堅振も授けて下さり、本当に溢れるばかりの御恵みです!

公教要理のレポート
分かったつもりでいるのですが、もし違っている部分がありましたら修正をお願いいたします(/ω\)

[分かったところ]

・今更ですが、「堅振」の語源が、「堅く振る舞う」という事だと初めて知りました!(^^;ゞ

【洗礼と堅振の違い】
・洗礼(Baptisumus)…天主の養子、義子となる。しかし赤ちゃんのようなもので、弱く、うまく歩くことができない。
・堅振(Confirmatio)…大人、キリストの兵士となる。

【秘跡が有効であるために必要な条件】
1.質料(materia)
 ・洗礼→水(ポカリ、ジュース、唾液などでは無効。額に流すのが難しければ、皮膚であればどこでも有効。)
 ・堅振→オリーブ油から出来た聖香油(インドでオリーブ油が無くヤシの油で行ったとき、バチカンから『やり直すように』と命令があったくらい、オリーブ油以外では無効と考えられている。)

2.形相(forma)
 ・洗礼→「何某…我、聖父と聖子と聖霊との御名によって汝を洗う」(水を垂らしながら言う。水を垂らし終わってから言ったり、言ってから垂らすなど行動が分かれると無効。)
 ・堅振→「我は十字架のしるしをもって汝にしるしをし、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、救いの聖香油をもって汝を強める。」
3.意向(intentio)
 ・受ける人(受けたい!)
 ・授ける人(教会のやること(秘跡)を行うんだ! 従って「演劇をする」「記念をする」という意向ではダメ。)

しかし、堅振の秘跡は、今のノブスオルドの教会で使われている新しい儀式書によって、1.質料が「オリーブ油でなくてもどの植物油でも良い」というのが広まってしまい、また2.形相の言葉も、「たまものである聖霊のしるしを受けなさい」などと色々変えられてしまっているので、堅振の有効性に疑いがある。なので、「条件付き」という形で、聖ピオ十世会では聖伝の堅振を授けている。

[分からなかったところ]
何故、堅振の秘跡では「オリーブ油」なのか理由を知りたいと思いました。洗礼の秘蹟の「水」は混じり気の無いもので洗い浄めるという意味かな、と何となく分かるのですが…
また、その聖伝の質料とか形相は、昔の教皇様が決められたものでなのでしょうか?
教皇様であれば、秘跡の質料とか形相は変更することが可能なのでしょうか?
今のノブスオルドの新しい儀式書は、誰によって変更されたか明らかでないから有効性に疑いがあるのでしょうか?
そのあたりがよく分かりませんでしたm(__)m


【お返事】
秘蹟の質料や形相は、イエズス・キリストが定めたものです。ですから、教皇様といえども変えることが出来ません。

今のノブスオルドの新しい儀式書は、誰によって変更されたか明らかではありません。たしかにパウロ六世教皇様の認可を持って出版されたのでしょうが、しかし、それだからと言って、パウロ六世が同意したからと言って、秘蹟の質料や形相を変えることは出来ません。

何故オリーブ油から出来た聖香油かと言うと、
「水」は「洗い浄める」という意味があるように、オリーブ油には「成人に達した霊的強さを持つために、聖霊の充満が与えられる」という意味が込められています。

聖トマス・アクィナスは、このような特性はどのような植物油にもあるのではなく、オリーブ油に見いだされること、オリーブの木が常緑であることが聖霊が私たちを回復させ、憐れみ深いはたらきをすることを意味すること、オリーブ油こそが、oleum という名前で呼ばれていること(例えばワインというとブドウからできたお酒であるように、オレウムというとオリーブ油のこと)、と指摘しています(神学大全第3部72問2項)。



【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供3人)
女: 29人(内、子供3人)
計: 48人(内、子供6人)


【報告】【東京】
Bonjour, Mon Père

東京でのミッション、本当にありがとうございました。日曜の御ミサと公教要理のクラスにはいつもより多くの方が参加なさっているようで嬉しかったです。

御ミサと公共要理のレポートをお送り致します。

これだ! と分かったこと

・お説教
今日の聖福音の後半部分、
招かれた者達が上席をえらぶのを見て、譬(たとえ)をいい給うた、「婚宴に招かれるとき、あなたは上席につくな。おそらく、あなたよりも貴い人が招かれてくるならば、あなたと彼とを招いた人が来て、〝この人に席をゆずって下さい" というであろう。そうすると、あなたは恥じて、末席につくことになるであろう。むしろ、招かれたとき、行って末席につけ。すると、招いた人が来て〝友よ、上(かみ)にすすんで下さい" というであろう。そのとき、あなたは、列席者の前に面目をほどこすことになる。すべて高ぶる者は下げられ、みずから卑(へりくだ)る者は上(あ)げられるのである。」
この部分が、天国での席のことをたとえている、ということが分かりました。

私たちも謙遜によって天主の御母、天地の元后に上げられたマリア様に倣い
また、貧しい家にお生まれになり、叙階されても謙遜から慎ましくご生活なさり
そして教皇職も謙遜からお受けになられた聖ピオ十世教皇様に従い、深く謙り
自ら末席に着くべき者であることを自覚し納得し、常に末席に着くことができますように。

・公教要理
今回理解できたことは2つあります。
1.天主イエズス様が制定した7つの秘跡のうち、消すことのできない霊的刻印を刻みつけられる秘跡は3つだけだ ということ
 それは、叙階・洗礼・堅振・である ということがわかりました。 この刻印は天国へ行っても地獄へ行っても消えない、ということもわかりました。

2.神父様が私たちの質問に答えて、前回の復習として聖霊の7つの賜物の「上智」について説明してくださった際、
「上智」とは「全てを究極の原因に遡って判断する」ことであり、これは「全てを天主を頂点として秩序づける」ことである・
ここから「平和」が生まれ、そのために至福八端の「平和のために励む人は幸い、彼らは神の子と呼ばれる」に対応している、
ということが良く理解できました。

前回のクラスでも同じことを説明していただいて分かったつもりになっていたのですが、
「全てを天主を頂点として秩序づける」=「平和」というようにしっかりとイコールで結ばれておりませんでした。
1人で勉強していると気付かないところ・疑問を持たないところも皆さんと一緒に勉強し、他の参加者の方が質問してして下さると
「あ!」と気付かされることがあり、理解を深められる良い機会になります。感謝いたします。

第二バチカン公会議による教会の危機の只中にあって、
司祭職への攻撃が行なわれている・司祭職を守ることが最優先課題だ! と見抜いた
ルフェーブル大司教様は本当に上智の方だった、と思いました。

そして、司祭職を守るために実際に行われた様々な非凡な行動によって、賢慮によって
知識によって、剛毅によって、そして天主様への畏れと深い愛のために、まさに聖霊とともにおられた方だったと思います。

聖ピオ十世教皇様も「敵は神学校にいる」と回勅の中でおっしゃっていますが
ルフェーブル大司教様と同じく、司祭職の重要性と、来るべき危機を上智によって
見抜いていらっしゃったのだと分かりました。

分からなかったこと
消すことのできない3つの霊的刻印が地獄へ行っても消えない、というのは
これらの刻印を受けていながらも審判によって地獄へ行くと決まってしまった場合
地獄のさらに深い所へ行く、という意味でしょうか。恐ろしいことですが。
これらの刻印を受けて天国へ行くと、天の高い場所に上げられるということなので
もし地獄へ行った場合は反対のことが起きるのでは、と思いました。

いつも感想を書き出すと長々と書いてしまいます。すみません。
ブログに載せられる際は不要だと思われるところをどうぞカットなさってください。

司教様がいらした時、堅振を受けられる方々のためお祈りしております。
私自身も聖霊のお恵みをより一層豊かにいただくことができるよう祈ります。
聖霊の浄配なる聖母マリア様に御取次をお願いいたします。

デオグラチアス!

2016年9月8日から10日(大阪)と、11日と12日(東京)の聖ピオ十世会の聖伝のミサの予定 SSPX Traditional Latin Mass

2016年09月07日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今週末の特別の予定です。ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様の来日に伴い、ミサの回数がさらに増える予定です。よろしくお願いします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【大阪】

   9月8日(木) 童貞聖マリアの御誕生(2級祝日)白 ※追加されました!
           午後4時半 ミサ聖祭(読誦)
           午後5時半 童貞聖マリアのご誕生の晩課
           午後6時  ミサ聖祭(歌ミサ)
           午後7時45分 終課

   9月9日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午後4時半 ミサ聖祭(読誦)
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
           午後7時45分 終課

   9月10日(土) 証聖者トレンティノの聖ニコラオ(3級祝日)白
           午前09時  ミサ聖祭(読誦)
           午前09時半 ロザリオ及び告解
           午前10時  堅振の秘蹟
           午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)
           午後12時半 霊的講話(ティシエ・ド・マルレ司教様)

【東京】

   9月11日(主) 聖霊降臨後第17主日(2級)緑
           午前08時45分 ミサ聖祭(読誦)
           午前10時   ロザリオ及び告解
           午前10時半  堅振の秘蹟、及び、ミサ聖祭(歌ミサ)
           午後02時半  霊的講話(ティシエ・ド・マルレ司教様)
           午後04時    主日の晩課

   9月12日(月) 童貞聖マリアの至聖なる聖名(3級祝日)白
           午前7時00分 ミサ聖祭
           午前7時45分 ミサ聖祭



Ave Maria Immaculata!

Dear Brethren,

Here are the schedule of the visit of Bishop Tissier de Malerais:

-- OSAKA

Sept 8 (Thurs)
16:30 Low Mass (Fr Onoda)
17:30 Sung Vespers of the Nativity of Our Lady.
18:00 Sung Mass by His Excellency Bishop Tissier,
19:45 complines

Sept 9 (Fri)
16:30 Low Mass (Fr Onoda)
17:30 Rosary
18:00 Votive Mass of Saint Pius X, by His Excellency Bishop Tissier
19:45 complines

Sept 10 (Sat) Confirmations in Osaka
09:00 Low Mass (Fr Onoda)
10:00 Confirmations
10:30 Sung Mass by His Excellency Bishop Tissier
12:30 Spiritual talk by His Excellency Bishop Tissier.


-- TOKYO

Sept 11 (Sun) Confirmations in Tokyo at 10:30 am. Conference at 2:30 pm.

09:00 Low Mass (Fr Onoda)
10:00 Rosary
10:30 Confirmations followed by Sung Mass by His Excellency Bishop Tissier.
14:30 Spiritual talk by His Excellency Bishop Tissier.
16:00 Sunday Vespers

Sept 12 (Mon)
07:00 Low Mass (Msgr Tissier)
07:45 Low Mass (Fr Onoda)


----------

Bien chers frères et amis,

Voici j'ai la joie de vous rappeler les horaires de la messe de ce "week-end":
A bientôt à la messe!

Abbé Thomas Onoda


OSAKA

Jeudi 8 septembre

16h30 messe basse (l’abbé Onoda)
17h30 les vêpres chantées de la Nativité.
18h00 messe chantée par Mgr Tissier avec sa prédication,
19h45 complies chantées

Vendredi 9 septembre

16h30 messe basse (l’abbé Onoda)
17h30 chapelet
18h00 messe votive chantée de Saint Pie X, par Mgr Tissier avec sa prédication,19h45 complies chantées

Samedi 10 septembre: Confirmations a Osaka

09h00 messe basse (l’abbé Onoda)
10h00 les confirmations
10h30 messe chantée par Mgr Tissier
12h30 conférence spirituelle par Mgr Tissier.
vers 14h30 voyage par des trains, d'Osaka à Tokyo
vers 18h00 Arrivée à Tokyo


TOKYO

Le dimanche 11 septembre, le 17e dimanche après Pentecôte
Confirmations a Tokyo a 10h30. Conférence a 14h30.

09h00 messe basse (l’abbé Onoda)
10h00 chapelet
10h30 confirmations suivies par la messe chantée par Mgr Tissier.
14h30 conférence spirituelle par Mgr Tissier.
16h00 les Vêpres du dimanche

Le lundi 12 septembre

07h00 messe basse (Mgr Tissier)
07h45 messe basse (l’abbé Onoda)
08h45 Petit café

あるサマリア人が、彼を見て憐れみを起こした。

2016年09月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月7日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月7日 聖霊降臨後第12主日
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年8月7日、聖霊降臨後第12主日です。今日の御ミサの後に、14時半から堅振の準備の為の公教要理があります。今回は特に「聖霊の賜と聖霊の実り」について勉強する事を提案します。16時からは主日の第2晩課があります。明日の朝は7時からここでミサがあります、どうぞいらして下さい。

8月15日には何かアメリカのオクラホマで黒ミサが公の場所でなされるという事で、皆さんの償いのお祈りをお願い致します。

フェレー司教様がロザリオの十字軍を8月15日から来年の8月22日まで起動されます。その時の為に特に1200万環のロザリオと、5000万回の小さな犠牲を、マリア様の汚れ無き御心の信心が確立されるように、その御心の凱旋が一刻も早く来ますように、教皇様が司教様たちと一緒にロシアをマリア様の御心に奉献しますように、聖ピオ十世会が特別の保護を受けますように、という意向でお祈りをお願いしております。どうぞ皆さん沢山のお祈りをお願い致します。

最後のお知らせですが、9月11日には、ティシェ・ド・マルレ司教様が初めて日本に来日されて、この東京で堅振式を授けて下さいます。新しい堅振式は「オリーブ油」の代わりにどの植物でも良いという規定が入ってしまって、これは以前ではオリーブ油でなければ堅振の質料が満たされないので、堅振の質料は必ずオリーブ油でなければならないので、それでなければもう一回やり直しをするようにローマからの指導がありました。しかし、パウロ六世の時に、いきなりどの植物でも良いというように儀式書に書かれるようになってしまったので、その有効性に疑いがあります。そこでもしも昔のままのやり方で堅振を受けたいという方はご連絡下さい。

“Samaritanus autem quidam videns eum,misericordia motus est.”
「あるサマリア人は、彼を見て憐れみを起こした。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は有名なサマリア人の話です。
今日はサマリア人が一体、このイエズス様の例えで何を仰りたいとしたのか、このサマリア人の例えを教父たちは一体どのように解釈していたのかという事を見て、ではその教父たちの解釈を超えて何かそのサマリア人に似たような人物が今現代にいるのではないか、という事を見て、
第3にでは私たちは、イエズス様が最後に「行って同じようにしなさい」と仰ったのですから、サマリア人のようにするには、サマリア人を真似るにはどうしたら良いのだろうかという事を考えて、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

ではこの今日の例えは、どういう機会にどういう事を言われたのでしょうか?これはある時に律法学士が、イエズス様を試みようと、「律法の中で一番重要なものは何ですか?」と聞くのです。するとイエズス様は、あまりにも公教要理のABCの最も基本的な質問なので、「お前は一体聖書の何を読んでいるのか。何と書かれているのか言ってみなさい」と言うと、
自分で答えて、「天主を心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し、隣人を同じように愛する事です。」
「まさにその通りだ」と言われてしまい、何かあまりにも下らない質問をしたという事がばれてしまいました。そこで自分を何とか正当化しようとして、「私の聞きたかった事はそれではなくて、隣人とは一体誰かという事なんです」と言ったのです、「私の隣人とは一体誰ですか?」そして私の隣人とは誰か、という事にその答えをする為に、イエズス様はこのサマリア人の例えを出しました。でもイエズス様がその答えようとした時には、この律法学士の答えに直接その通りに答えるのではなくて、ちょっとだけ観点を変えて説明しました。それは律法学士でも「そうだ」とすぐ答える事ができる為でした。

エルサレムからエリコに旅をするある人が、これはユダヤ人なのかサマリア人なのかどこの国の人なのか、どんな宗教の人なのか分からないのです。ある人が強盗に奪われて、そして倒れて半死半生になって、身ぐるみ剥がされてしまった。そこを旧約の司祭が通るのです。何もする事なしに却ってそれを避けて通ってしまうのです。司祭よりもちょっと階級の下のレヴィ族の人がやって来るのです。やはり同じようにします。ところがユダヤ人とは全く関係のない、異邦人の異端の異教のサマリア人がやって来ると、この半死半生の犠牲者を、盗賊に遭った人に近付いて、きっと道すがら忙しかったと思います、何かビジネスをやっていたかもしれません。でもその事をほっぽらかしてその人に近付いて、憐れみを起こして、まず持っていたぶどう酒でその傷口を洗って、その傷口が早く治るようにオリーブオイルを塗って、そして自分の持っていた動物の上に乗せて、宿屋まで連れて行って、宿屋の主人に、「さぁお金をここにやるから、是非この病人を看病して欲しい。そしてあのもしもこれ以上お金が必要ならば、帰って来てまたここに来るからその時に借金を払う。さぁお願いする。」

そしてこの例えをした後で律法学士に、「ではこの3人の内に、一体この盗賊に遭った人にとって隣人として態度を見せたのは、隣人の態度を見せたのは、この怪我をした人にとって、半死半生した人にとって隣人であろうとしたのは一体誰か?」と言うと、律法学士は、「それは、憐れみを見せた人です」と言うのです。そしてイエズス様は、「その通り。お前も同じようにせよ」と言うのです。

この例えではイエズス様が、「私にとっての隣人は誰か」というのを、「傷を付いた、憐れみを必要とする人にとって、隣人として行動したのは誰か」という風な質問に変えたので、「ちょっと理解ができない」と思われる方も、「難しい」と思われる方もいるかもしれません。

しかしイエズス様はそれが、「憐れみを必要とする人が誰であれ、どの国籍の人であれ、肌の色が何であれ、どんな言葉を話すのであれ、その人を隣人として取り扱え」という事を仰ろうとしていました。これは律法学士にとっては革命的な事でした。律法学士にとってはユダヤ人にとっては、ユダヤ人はこれは隣人だけれども、まさか他の人にとっては隣人とは思えずに「敵ではないか」と思っていたからです。

教父たちはこれを大きく解釈しました。つまり、「どのような全てこの全人類、ユダヤ人のみならず全て全人類は実は、天の成聖の状態から悪へと傾いてしまった。そしてその為に悪魔によって成聖の状態を取られてしまった、半死半生の状態になってしまった。もう天国には行く事ができない罪人の状態になった。もう霊的には生きているのか死んでいるのか分からない状態である。そのそれを救う為には、ユダヤの旧約の教えは律法は全く用が立たなかった、レヴィ族も用が立たなかった、何もする事ができない。しかし天から降りて下さった天主の御言葉イエズス・キリストが私たちを憐れんで、これにぶどう酒を注ぎ、つまり御血、御自分の御血を流して罪を赦し、そして油を注いだ、オリーブ油を注いだ、つまり聖霊の御恵みを私に与えて下さった。そして私たちを御自分の肩に担いで、公教会に私たちの霊魂を委ねた。そして公教会にその霊魂を委ねながらも、『私が帰ったら、この霊魂をよく世話した報いを与えよう。』と仰った」と解釈しました。「良きサマリア人とは実はイエズス・キリストの事であって、私たちを霊的に死から生けるようにして下さった、憐れんで下さった方である」との解釈でした。

この教父たちの解釈を見ると、私はどうしても、聖ピオ十世会の創立者であるルフェーブル大司教様の事を思い出します。

何故かというとルフェーブル大司教様は、ローマで教皇様から選ばれて教皇使節としてアフリカに、教皇様の代理として仕事をして、多くの神学生たちを指導し、司祭を指導し、将来アフリカに備えて立つ司教様たちを選んで、そしてアフリカのカトリック教会の独立の為に、しっかりと白人たち無しに自分たちで進んでいく事ができるように基礎を築いた方でした。

もうお年を召して引退されて、聖霊修道会の総長をされて、もう実は何もしなくても悠々と暮らしていく事ができたにもかかわらず、ローマの家もあったし何も苦労する事もなく、心配する事なく生きていく事ができたにもかかわらず、神学生たちが司教様に、「神学校ではこんなおかしな事を勉強しています、神学校ではこんな事が起こっています、」という報告を聞いて、「是非司教様、なんとか私たちを助けて下さい。」或いは世界中の方々がルフェーブル大司教様に、「どうぞ良い司祭を送って下さい。私たちはもうミサが無くて半死半生です」と言う声を聞いて、もう老人であったにもかかわらず、その霊魂を助けようと神学校を創立し、聖ピオ十世会を創ったからです。

霊魂の管理の為に、霊魂の世話の為に、自分の名誉が傷つけられる、その世間体がどうなってしまうにもかかわらず、破門という汚名を外面的には着せられつつも、「何とかして霊魂を救いたい。教会の為になりたい」と命をかけて、名誉をかけて、全てを尽くして、霊魂の救いの事だけを考えてきたからです。ルフェーブル大司教様の姿と、良きサマリア人の姿が、私にはどうもこう一緒に重なってきます。

では、私たちの主イエズス様はこの例えの後に、「隣人とは誰か?つまりこの目の前にいる憐れみを必要としている人だ」という事を、「それが誰であっても、憐れみを必要としてる人がそうだ」という事を教えながら、「行って同じようにせよ」と言われました。ルフェーブル大司教様も同じようにしました。

では私たちは一体どのようにしたら良いのでしょうか?

2000年6月29日にローマは、「ファチマの第3の秘密」と呼ばれるものを公開しました。それによると、シスタールチアはあるビジョンを見たのです、そのビジョンの内容というのは、「教皇様のような白い服を着た司教様が、半分瓦解している、死体だらけの大きな街を歩んで行く」と言うのです。そして「司教様たち、神父様たち、修道者、男女の修道者、そして色んな身分の階級の色んな方々の、平信徒の男女の方々が居る。その方々が、一人一人、殺されていく、殉教していく。そして遂にはそのような死体を通って、屍を通って行って、遂には十字架の下に行くのです。その十字架の下で教皇様さえも、この白い服を着た司教様さえも銃殺されてしまって、そして二位の天使がその殉教者の血を集めて、天主様に近寄ろうとする霊魂の為に振りかけている」というビジョンがあります。

これがファチマの第3の秘密で、来年私たちはそのファチマの100周年を祝おうとしています。その他にも実はまだ公開されていないマリア様のお言葉というのがあると私には思えます。しかしそのビジョンによればそうです。

これはもしかしたら霊的な事を言っているのかもしれません。多くの霊魂たちが、司教様も、神父様たちも、修道者たちも、或いは男女の多くの信徒たちが、或いは多くの人たちが霊的にもしかしたら苦しんで、半死半生である、という霊的な状態をシスタールチアに見せたのかもしれません、幼きルチアに見せたのかもしれません。

或いは1週間前のジャック・アメル神父様の教会でミサをやっていた時に人質になって、そして殺害された、そのテロリストの事を考えると、或いはそのIS関係のテロが色々な所であちこちで頻繁に起こっているのを見ると、もしかしたらこれは霊的な事だけではなくて、本当に実際に肉体的にそのような事が全世界で起こってしまうのかもしれません。

それが何であれ私たちは、その現代世界が今、多くの悪魔によって半死半生になった傷付いている、霊的に傷付いている多くの人々が私たちの目の前にいらっしゃるという事を教えています。

すると私たちは良きサマリア人として行動する為に、この傷付いてる人たちに対してどのようにすれば良いのでしょうか?或いは旧約の司祭がやったように、「あぁ、関係ない、知らない」と言って横を素通りして、何もそのまま通り過ぎてしまうべきでしょうか?

それともこの霊魂の救いの為に私たちが何か近付いて、憐れみを起こして、そしてぶどう酒と油を注いで、何とかしてそれを宿屋まで運んであげるべきでしょうか?

イエズス様は、「同じようにしなさい」と言いますから、私たちも少なくともこの多くの傷付いた、霊的にまだ死んでいる、罪の状態にいる多くの方々の為にお祈りをする事に致しましょう。

聖ベルナルドによると、「このサマリア人の油は『お祈り』の事だ」との事です。私たちもこの私たちの日常、目に見える方、生きてはいるのですけども霊的にはまだ罪の状態にいる様な方々、イエズス・キリスト様を知らないような方々の為に、イエズス様の事をよく知り、罪の赦しを受けて天国に行く事ができるように、お祈りをして、お祈りの油をそこに注ぐ事に捧げて、注ぐ事ができるように致しましょう。

ルフェーブル大司教様がアフリカにいた時にこう決心したそうです、色々な決心があるのですけれどもその内の1つが、「霊魂たちを成聖の状態の観点から見る」という事が1つの決心でした。つまり、「この霊魂たちが霊的に生きる事ができるように力を尽くす」という事でした。「この霊魂たちが罪が赦され、天国に行く事ができるように、霊的に天主によって生かされるという事だけを、その観点だけを見る」という事を決心していました。

まさに私たちもそれに倣って、この道で会う方、或いは電車に一緒に乗る方、或いは仕事をする方の「霊的な傷が癒されますように、成聖の恩寵に生きますように」とお祈り致しましょう。そればかりでありません。この良きサマリア人がぶどう酒をこの傷口に注いだように、私たちも小さな犠牲を捧げる事に致しましょう。小さな犠牲によって、私たちの苦しみや悲しみや、疲労、或いは侮辱、誤解、嫌がらせなどもマリア様の御手を通してお捧げ致しましょう、「是非この方が回心しますように、この方がイエズス様を知る事ができますように。」

では最後にどの様な決心をしたら良いでしょうか?

私はこの是非ロザリオの十字軍に参加する事が、この良きサマリア人になる為の一番の方法であると確信しています。何故かというと、マリア様は8月19日にこの3人の子供たちに言ったからです。

「多くの霊魂が地獄に行っている。この半死半生のまま地獄に行っている。何故かというと、彼らの為に祈りと償いをする、犠牲を払う人がいないからだ。」

ロザリオの十字軍はまさにこれに応える為に作られました。どうぞ皆さんのこの寛大な参加をお願い致します。

「あるサマリア人が、彼を見て憐れみを起こした。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

「蜜の流れるような博士」聖ベルナルドの秘密とは?

2016年09月05日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月20日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月20日(土)教会博士大修院長聖ベルナルドのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年8月20日、聖ベルナルド大修道院長それから教会博士の祝日を祝っています。この御ミサの後には、公教要理特に堅振について、特に「聖霊の7つの賜物と至福八端」について復習をしたいと思っています。
それから8月15日からロザリオの十字軍が始まりました。皆さんの寛大なご参加をお願い致します。
来年の2017年8月17日から27日まで約10日間に渡って、ファチマへの国際巡礼があります。この参加希望者を今募っていますけれども、これは早めに申し込みをしなければなりませんので、どうぞ予定を組んで早めにお知らせ下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は大修道院長そして教会博士聖ベルナルドの祝日です。では聖ベルナルドの人生を黙想して、聖ベルナルドが一体どんな所でどのような方だったのか、どんなに聖徳が高かったのかを黙想して、では聖ベルナルドの秘密は何だったのか、聖ベルナルドにとって一番大切だったのは何だったのか、その結果聖ベルナルドは教会に、或いは全世界に何をしようとしたのかを黙想して、最後にその聖ベルナルドのそこまでできたその秘密を黙想しましょう、その秘密はイエズス様とマリア様への愛でした。聖ベルナルドは最後に、もしも21世紀の現代に、私たちに今ここで現われたとしたら、21世紀の私たちに何を訴えるだろうか、という事も一緒に黙想致しましょう。それを結論に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

聖ベルナルドはミサのパンフレットにもありますように、1091年に生まれました。若くしてシトー会に入会し、最も厳しい修道会の1つでした。本当に多くの青年たちを引き連れて入会し、家族を引き連れて入会し、「クレルヴォー“輝かしい光の谷”」と言われる所に新しい修道会を創りました。そこから多くの娘の修道院、或いは孫娘の修道院たちが全ヨーロッパに広がって、最後に1153年にクレルヴォーで亡くなりました。

聖ベルナルドが色々、修道院を創立の為にヨーロッパ中を回ると、或いは教皇様に会う為に移動すると、「修道院の沈黙が黙想が一緒に、聖ベルナルドと動いていた」と言われています。聖ベルナルドは修道生活の復興者であったばかりでなく、キリスト教世界に平和をもたらす人でした。

アレキサンダー三世教皇様は聖ベルナルドを列聖した時に、「聖ベルナルドは、ただ聖徳によっての模範によって輝いたばかりでなく、その信仰とその影響力によって異教の国々に、野蛮な国々に信仰の光をもたらして、多くの無数の人々を霊的生活の正しい道にもたらした。それでその為に、その信仰とその聖なる影響において、もっと輝き出している」と言っています。

その当時ヨーロッパは大きな危機に与っていました。道徳的な危機と知的な危機でした。正しい知性の使い方が分からなくて、ただ人々は言葉をもて遊んだり、ただ自分の知恵を見せびらかしたり、或いは言葉でだけを知識だけを使っていて、生活を伴わない人々がたくさんいました。その時に聖ベルナルドは、聖書とイエズス様の黙想から多くの知恵を得ました。聖ベルナルドが言うには、「天主様に導かない知識というのは、全く無意味だ。正しい生活に導かない議論というのは、全く無意味だ。キリストの知恵に導かないものは、全く無意味だ。そんな学習は全く無意味だ」と言いました。

「私たちはもっと救いへと導く為に、もっとイエズス・キリスト、天主を愛するように動かす為に学ぶべきだ。もしも私たちが隣人と自分の聖徳の為に学ばないならば、全く虚しい。もしも私たちが自分を他の人に知らせる為に学ぶとしたら、自分の知識をみせびらかす為だけに学ぶとしたら、それは虚栄だ。もしも私たちがただ知る為だけに知るとしたら、それは好奇心に過ぎない。もしも私の自分の知識を他の人に売ってお金を得たり、或いは名誉を得たりする為だけだったら、それは単なる利益だ。しかし他人の為に他人を照らす為に学ぶ事は、愛徳であって、自分の聖徳の為に学ぶのは、これは賢明だ。」

聖ベルナルドは「蜜の流れるような博士」と言われています。、「自分は知恵を得るのだけれども、その知恵を得るのは丁度ミツバチが蜜蝋と蜜を一緒に運んでくるのと同じだ」と言います。「何故かというと、ミツバチは蜜蝋を運ぶのだけれども、その蜜蝋というのがこれは蝋にして燃やすと光を出す。これは知性のシンボルだ、理解のシンボルだ。でも蜜蝋だけではなくて蜜も持ってくる。その蜜というのは、味わいのある甘いものであって、これは天主様のお恵みであり、天主様への愛だ。だから私たちには真理を知る光と、それから甘い愛の蜜がなければならない。もしも光を輝かすだけだったら、愛がないのならば、それは傲慢に過ぎない、全く意味がない。だからといってただ燃え立つだけで、甘いだけであって真理の光がなければ、それでは道を誤ってしまう、それでは不十分だ。燃えて、輝かせなければならない。そうしてこそ完全になる。」

この聖ベルナルドの教えは、ルフェーブル大司教様によって聖ピオ十世会にもたらされました。これはローマのフランス人神学校での教えであり、「教義、敬虔を伴った、信心の伴った教義であって、教義の伴った信心。信心と教義は2つは一緒でなければならない」という教えです。この愛と真理との一緒になった、ミツバチが運んできた蜜蝋と蜜の混ざったこの知恵は、私たちに本当の観想と、イエズス・キリストに対する知識を与えてくれます。これこそが私たちを天主様へと導いてくれます。

でもただ天主についての知識を得る、というのは最終の目的ではありません。聖ベルナルドが言うには、「これは天主へと導く道であって手段に過ぎない」と言います。「でもこの道を通るならば、もうこの地上における愛に既に、天主をその甘さをそのほぼ、無限の幸せである天主をこの地上のうちから味わう事ができる」と言います。聖ベルナルドはそれを味わいつつ、この地上で生きていました。

聖ベルナルドは言います、「天主様は、私たちが天主を恐れたり或いはただ敬ったりするよりはむしろ、私たちが天主をますます愛する事を望む。」

聖ベルナルドが求めていたのは、私たちが貞潔な聖なる愛で天主を愛する事でした。甘い、喜ばしい愛で天主様を愛する事でした。本当に純粋で、それから晴れ渡ったような天気のような美しい愛で、天主様と私たちが相互に、緊密に、強く愛し合う事を聖ベルナルドは求めていました。何故かというと、このそうする時に私たちと天主様は、2つが1つの精神となるからです。

ある時聖ベルナルドはこう言います、「天主を愛する理由は、天主である。天主様を愛するその限度は、限度なく愛する事である。もしも天主を愛するならば、天主への愛があるならば、そこには『辛い』が無くて、『甘い』だけがある。」或いは聖ベルナルドはイエズス様に対する天主様に対する愛のあまり、「おぉ主よ、私は御身と共に一緒にいるならば、この地上の苦しい事や辛い事を全て耐え忍んだ方が、あなたが無くて天国にいるよりもはるかに良い事です」とさえ言いました。

このような天主への愛は聖ベルナルドに、このヨーロッパにおいて教会の為に働くというものすごい決心を、その情熱を与えてくれました。聖ベルナルドはフランスの王ルイ七世にこう手紙を書いています。
「私たちは教会の息子だ。私たちはもしも教会が苦しんでいるのを見て、何もしないでいる事はできない。教会がこのように屈辱を受けているのを見て、放っておく事はできない。私たちは立ち上がって、死ぬ覚悟をして、もしも必要ならば死に至るまで教会の為に戦いたい、私たちの母なる教会の為に、私たちに許された武器をとって戦いたい。私たちに許された武器とはつまり、盾と剣ではなく、祈りと天主様に対する懇願だ。祈りと犠牲を以て教会の為に全てを捧げて戦いたい」と。

或いは別のクリュニーの聖ペトロ大修道院長にはこう言っています、「私は、もしも私がそれを受けるのにふさわしいと思われたのならば、苦しみにおいてそれを自分の栄光としたい。それは教会の為に、教会が凱旋する事、これこそが私の栄光であって、私の喜びだ。これにおいて私は頭を上げる。もしも私が教会の苦しみにその一部を得ているのなら、私は公教会を慰める為にも何かしたい、私の母の為に働き苦しみたい」と書いています。教会、カトリック教会の為に、パレスティナの為に、或いはキリスト教の君主たちに向かって、大きな声で天主への愛を呼びかけました。十字軍を呼びかけました。

こうやって教会の為に、天主を愛する為に命を尽くした聖ベルナルドは、その秘密は、イエズス様への愛とマリア様への愛に生かされていた事でした。ある時聖ベルナルドはこう言っています、「私は、イエズス様が出ない言葉を聞くのはあまり面白くない。イエズス様の名前の出ない本を読んでも何の面白みもない。イエズス様のない会話が聞いても何の面白みもない。でもイエズス様がいるならば全ては意味があるし、意義がある。」

それからマリア様に対してはこう言っています、「マリア様の手を通さなければ、私たちは何も得る事ができない、というのが天主の御旨である。私たちがマリア様の手を通して全てを得る、という事が天主の御旨である。マリア様はちょうど『海の星』という意味に解釈できる。星は大きな大海原の上に光を出している。だけれども光を出したとしても、普通の松明が燃えるように、星はだからといって傷ついたり無くなったりしない。ちょうどマリア様も童貞女として御子イエズス様を、自分が傷つく事なく、私たちに世の光を与えてくれた。この空の星は、松明や普通の火が燃えると材木が無くなってしまったり燃え尽きてしまうけれども、星はそんな事がない、いつも光を変えずに輝いている。それと同じようにマリア様も、御子を私たちに与えて、その美しさは決して変わる事がない。ヤコブから出た栄光の星、私たち全てを照らす星、それがマリア様だ。」「もしも苦しい事があったら、もしも傲慢の顔が持ち上がってきたら、もしも野心が出て来たら、もしも憎しみがやって来たらマリア様を見よ、マリア様を呼べ。もしも怒りがやって来たら、もしも貪欲がやって来たらマリア様を呼べ。マリア様と一緒にいるならば私たちは決して道を間違えない」と。

では聖ベルナルドは私たちに何を現在仰るでしょうか?
おそらく聖ベルナルドは、「この世で一番大切なのは天主様への愛である。この世の地上の全てのものに勝るものが天主への愛である。残念ながら、今21世紀の人々が忘れ去っている、しかし最も大切なのは、天主への愛である。この天主への愛を得る為には、マリア様が必要だ。マリア様へのお祈りがあれば、マリア様を通してでなければ私たちはその愛を得る事ができない」と言うことでしょう。

私たちはそのベルナルドのその声を聞いて、マリア様に馳せ寄る事に致しましょう。私たちの天の母であるマリア様。それと同時に聖ベルナルドは、カトリック教会の事をおそらく非常に苦しんでご覧になっていると思います。教会の、私たちの母である教会がこのように苦しんでいるので、私たちに祈りの十字軍を起こすように、ロザリオの十字軍を起こすように、マリア様にお願いして、教会の為に私たちも、私たちに許された武器、「ロザリオと祈り」と「犠牲」を以て教会の為に戦いなさい、十字軍で戦いなさい、と招いておられます。

私たちは聖ベルナルドの声に今日はよく耳を澄まして、遷善の決心として、マリア様を通して天主への愛を受ける事、永遠の知恵イエズス・キリストへと辿り着く道を歩む事、それからロザリオの十字軍、祈りの十字軍に寛大になって、カトリック教会の為に祈りと犠牲を捧げる事を決心を致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ヨハネ・ユードによる、イエズス様とマリア様の御心に対して特別の信心

2016年09月03日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月19日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



2016年8月19日(金) 証聖者聖ヨハネ・ユードのミサ
小野田神父説教


聖母の汚れ無き御心教会にようこそ。今日は2016年8月19日、聖ヨハネ・ユードの祝日のミサをしております。今日この御ミサを特に、私たちの姉妹であるマルガリタ・マリア・アラコックさんのお祖父様が今岡山で危篤状態だそうです。また、お祖父様が孫娘と同じ信仰を、特別にマリア様の御取り次ぎで得る事ができますように、同時にマリア様の御取り次ぎによって救霊の道が開かれますように、お祈りをお願いします。その為にこの御ミサを特に捧げております。

8月15日からロザリオの十字軍が始まりました。どうぞ皆さん寛大にご参加下さい。皆さんの為に、ロザリオの数を数える為にとても良い小冊誌が作られております、どうぞ。それから毎月いつもの通り皆さんからのご報告をお願いします。今までやったロザリオの十字軍はジョギングのようなものでウォーミングアップで、このファチマ100周年の準備の為の特別のこのロザリオの十字軍を準備する為のものでした。

今回はオリンピックで、本番に出場して、日本が金メダルを取らなければなりません。どうぞ2017年8月22日の決勝戦までにマリア様の御心にたくさんの、私たちの目指すのはもちろん量もそうですけれども質もそうです。良い真心からの愛と信心を込めて、マリア様にたくさんの祈りと犠牲を捧げて下さい。マリア様はこの私たちを愛深くご覧になって、沢山のお恵みと祝福を私たちと、私たちの祖国に下さると必ず信じております。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、姉妹の皆さん、今日は聖ヨハネ・ユードの祝日です。今日の集祷文をご覧になるとすぐ分かりますように、聖ヨハネ・ユードは特にイエズス様とマリア様の御心に対して特別の信心を持っていました。このイエズス様の聖心に対する信心、マリア様の御心に対する信心の神学的な根拠付けや、典礼的な理由を述べて、それを確立した最も重大な神学者の1人です。マリア様とイエズス様は聖ヨハネ・ユードに特別の御恵みを与えて、この修道会も栄え、多くの教会に多くの恵みを、この聖人を通して与えて下さいました。

そこで今日は、聖母の汚れ無き御心に捧げられた、私たちこの御聖堂に与る私たちは、聖ヨハネ・ユードの精神に従って、マリア様の御心の素晴らしさを少し垣間見て、なぜ「少し垣間見る」と言うかというと、本当のそのマリア様の素晴らしさは、マリア様の大海のような大海原の現実は、イエズス様でしかその素晴らしさが完璧には分かりません。私たちが知っているのは、こう大海原をちょっとこう外で見て、上から見て、その中に一滴、水を一滴その海の中に入るか入らないか、ポチョンと落ちるかのようなものが私たちの頭で考えるものは、そのマリア様の本当の現実と比べたらもうとてつもなくかけ離れているようなものだからです。

マリア様の轟々たる愛の炎で燃えるようなこの愛熱の竈の御心の美しさとその愛を、もう私たちもそれについて想像するのは、ほんの藁くずに火が燃えたようなものしか考える事しかできないようなもので、その鉄をも金属をも全てを溶かしてしまうようなものすごい熱いもう愛の炎を、私たちはただ儚く今この現時点では、現世ではただおぼろながらに黙想するだけにしかできないからです。でも聖ヨハネ・ユードの導きに従って、マリア様の助けによって、それを黙想して、特に被昇天のマリア様のその余韻を味わいつつ、黙想しつつ、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

イエズス・キリスト様は、聖ヨハネ・ユードに従うと、イエズス・キリスト様は、天主の唯一の真の御子イエズス・キリストは、永遠の昔から、童貞聖マリアを御自分の御母として選び、このマリア様の御手によって養われる事、マリア様のもとにいる奴隷である事、そのマリア様に全く完全に従う者である、という事を選びました。無限の選択の余地がある中から、最高のものとして、マリア様のもとにある事を選ばれました。最高の選択の結果として、全イエズス・キリストの、永遠の知恵であるイエズス・キリストは自分の愛とその知恵を込めて、私たちに最高の贈り物として、マリア様が私たちの元后であり、御母であり、私たちの全てにおける避難所である、拠り所である事をお望みになりました。

マリア様は私たちの元后であるという事は、私たちはそのしもべであり奴隷となる事が最高の道であるという事です。マリア様は私たちの母であるという事をイエズス様が望んだという事は、私たちがそのマリア様の子供であり、娘であり、息子であるという事が最高の道であるという事を、イエズス様が知っていたからです。永遠の知恵、全知全能のイエズス・キリスト様は、マリア様を最高度に誉め讃え、最高度に愛し、その自分の天主三位一体の大傑作を誉め讃える事によって、天主に最高の栄光を着せる事を御望みになりました。

それと同時にイエズス様は、私たちをも御自分を真似てマリア様を誉めて、愛するという事をお望みになりました。そうする事によって、そのイエズス様のお望みを叶える事によって三位一体は、最高度の栄光を得るからです。

イエズス様はキリストの神秘体の頭です。私たちはその体の神秘体の一部です、肢体です。ですから私たちその体の一部は、頭と同じ精神に、頭と同じ考えに生きていなければなりません。頭と同じような心、頭と同じ精神に生かされていなければなりません。したがって、頭であるイエズス・キリストの思いの通りに、そのイエズス・キリストの歩いた道を歩き、イエズス・キリストのこの地上の生活、地上でなさった同じ生活を私たちも続けていかなければなりません。イエズス・キリスト様が御母に持っていたその信心と愛を、私たちも同じ心と同じ精神、同じ愛を持って持ち続けていなければなりません。何故ならばイエズス・キリストの神秘体の一部だからです。

イエズス様のいとも神聖な至聖なる聖心において、マリア様はいつも最高の愛の地位を占めてきました。永遠にこの地位を占め続けます。マリア様はイエズス様の聖心において最高の愛の対象でした。聖父に次ぐ愛の対象でした。イエズス・キリストの聖心を愛して、イエズス・キリストの聖心の望みに従う者は、この後をどうしても辿らなければなりません。

イエズス・キリスト様だけがマリア様のその本当の素晴らしさを完璧に御存知です。そのマリア様のその素晴らしさは大海の海にも例えられ、この大きな天の青空にも大宇宙にも例えられ、私たちはとても全てを知り尽くす事ができません。私たちの知識や知恵をはるかに超えるのがマリア様の素晴らしさです。私たちがマリア様について知っているのはほんの少しにしか過ぎません。

聖ヨハネ・ユードは教父たちを引用して、その中には聖アウグスチヌスや、明日祝う聖ベルナルドもありますが、黙示録の中に12章に書かれている、「偉大なしるしが天に現れた。『天に現れた』これこそマリア様だ。何故ならば、マリア様は天に現れるのがふさわしいから。マリア様は天よりも高いところにあるお方であるから。マリア様は太陽を着ておられるから。何故ならば、マリア様は全ての天使たちの上にあって、童貞女の内の童貞、全ての女の内から選ばれた女性、天主である人がその童貞の御胎内に宿られた御方。天の大傑作。天国の天使たちと聖人たちの喜びと愛の対象。天国にいる全ての市民たち聖人天使たちがいつもそのマリア様の美しさと、その特権を見て、いつも我を忘れて天主を讃美している、そのマリア様が、あまりにも天主の栄光と、天主の力と、天主の良さと、その神性さ、その聖徳を身に付けているので、あたかも天主とほぼ一体化しているので、太陽をあたかも着ているかのように見える。」

「このマリア様は、地上の全ての移り変わる月のような地上の上に立って、それを支配しておられる。全宇宙は全地上のこの世の全ての事は、マリア様の支配下にある。マリア様の上にあるのはただ天主であって、その他のものは全てマリア様のもとにある、足元に踏まれている。だからマリア様は月を踏んでいる、足に踏んでいる。この偉大なしるし、全てはマリア様において偉大であって素晴らしく、感嘆すべきである。」

「ちょうど聖母の連祷で、『感ずべき御母“mater admirabilis”』これがマリア様の偉大な天に現れたしるしだ。」

ファチマでも、太陽の奇跡をマリア様は起こしましたが、マリア様のその最高の偉大さと比べれば、このファチマの100年前の太陽の奇跡も何でもありません。マリア様の童貞の汚れ無き御心は、その天主様の全ての御恵みと、栄光と、秘密と、知恵と、聖寵で充ち満ておられます。マリア様のご謙遜とその純潔さ、マリア様の天主を愛するその愛、マリア様が天主の御母であるという事、これはもう奇跡の内の奇跡であって、人間がそこまで、天主の母となるというほどの高みまで上げられた、その御方。マリア様のその偉大さ。この偉大な天にあわれたしるしであるマリア様の事を知るには、それをよく正しくそれをよく理解するには、本当にイエズス様の聖心が、イエズス様の知性が、イエズス様の愛が必要です。ケルビムとセラフィムのような知恵でさえも、マリア様の素晴らしさを理解し尽くすには足りない事でしょう。

このマリア様は私たちの母として、女王として与えられました。イエズス様が私たちに与える事を御望みになりました。天主の無限の宝の宝庫であり、数え知れないほどの素晴らしさの宝庫であるマリア様の汚れ無き御心が私たちに与えられました。このマリア様の事を思うと、聖ヨハネ・ユードはこう言います、「天使たちと諸聖人たちは三位一体は、その美しさのあまり脱魂するかのような喜びに天では満たされているだろう」と。

では、私たちはこのマリア様の御心をイエズス様の心を以て愛し、それに信心を実行する事に致しましょう。

ではどのような決心を取ったら良いでしょうか?

私たちの聖母黙想会の決心をぜひ再更新する事に致しましょう。「マリア様と共に、マリア様を通して、マリア様において、マリア様の為に」私たちの日常の全ての事を致しましょう。特にロザリオの十字軍をよくなさって下さい。マリア様の、朝目覚まし時計がなったら、「あぁ、」マリア様を愛する為に起きる。本当はこの事をしたいのだけれども、マリア様の御旨はマリア様のお望みは今この仕事をする事だから、マリア様の為にこの仕事をする。本当はこれは辛くて、これをするのは嫌なんだけれども、でもマリア様をお喜ばせする為にこれをする、従順である、罪の機会を避ける。マリア様の為に犠牲を捧げたい。マリア様の為に射祷を唱えたい。いつもマリア様の事、マリア様であったらどうであるかを考え、マリア様の御旨は何であるかを考え、いつもマリア様の御元にいる。マリア様の為に全てをする。

このような私たちを見て、イエズス様の聖心はどれほど喜ばれる事でしょうか。マリア様は私たちのこの小さな愛に満ちた日常生活を見て、どれほど私たちの事を慈しみ深く思われる事でしょうか。ではこの聖ヨハネ・ユードに倣って、ヨハネ・ユードの特別の御取り次ぎを得て私たちも彼に倣ってこの聖人に倣って、マリア様の御心をますます知り、愛する事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


主の御変容ー何が起きたのか?何のために?カトリック教会が私たちに準備させようとしていることとは?

2016年09月01日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年8月6日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月6日 初土曜日 私たちの主イエズス・キリストの御変容のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。今日は2016年8月6日、イエズス・キリストの御変容の祝日です。今日は8月の初土曜日です。どうぞ今日はこの初土の信心をなさって下さい。5回の毎月続けての御聖体拝領と、告解と、それからマリア様と15分間一緒に居りロザリオの黙想を15玄義の何かをする事、ロザリオを唱える事です。これらをマリア様の汚れ無き御心に対して犯される罪を償う為になさって下さい。

8月15日からはフェレー司教様がロザリオの十字軍を起動させます。特に聖母の汚れ無き御心の信心の確立の為に、マリア様の汚れ無き御心の凱旋の為に、教皇様がカトリックの全ての司教様と一緒にロシアをマリア様の汚れ無き御心に奉献する為に、また聖ピオ十世会が特別に守られますように、との意向でロザリオの十字軍に参加なさって下さい。今回はファチマ100周年を控えているので、特別にマリア様にロザリオを1200万環、また小さな犠牲を5000万回捧げたいという意向を持っています。特にマリア様の汚れ無き御心に対する信心を確立する為にも、私たちはマリア様の汚れ無き御心に捧げられた聖堂に集う者ですから、初土の信心をよくなさるようになさって下さい。世界中で探しても、初土の信心ができるというチャペルはそんなに多くありません。どうぞこの特別のお恵みをぜひ利用して、これを与えられたこの機会を活用なさって下さい。もしも私たちがそれを利用すれば利用するほど、小さなものに忠実であればあるほど、より多くのものが与えられます。

今日はミサの後にいつもの通り公教要理をしたいのですけれども、特別の事情があってどうしてもこれをですね短くしなければなりません。そこで今日は20分間だけ「聖霊の実り」についてお話をしたいと思っています。どうぞお付き合い下されば幸いに思います。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の御変容の大祝日です。御変容の時に一体何が起こったのか、それは何故イエズス様は何の為だったのか、何故それを弟子たちに御変容をお見せになったのか、では私たちに一体なぜ、カトリック教会は今日この御変容の祝日で私たちに何を準備させようとしてるのか、を黙想しましょう。この3つの点を黙想して、最後にイエズス様の御変容の祝日の良い遷善の決心を立てる事にします。

御変容の時に何が起こったのか、その最初のポイントは福音をお読みになれば明らかです。福音を読むと同時に聖ペトロが、目撃証人である聖ペトロが書簡の中で言っています、「私は作り話をしたのではない。確かにこの目で見た。この耳で聞いた。本当の事を語る。」

一体何があったかというと、イエズス様が3人の使徒たちを特別に選んで、12人の内の3人を選んで、ペトロ、ヤコボ、そのヤコボの兄弟のヨハネ、特別に選ばれた、教会の3つの柱のこの特別に連れて、この3人はゲッセマ二の園でも特別にイエズス様の近くに来るように命じられるその3人ですけれども、この3人はイエズス様の御受難の直前に、山に登って、これはタボル山と言われていますけれども、そこでその3人の弟子たちの前で他の弟子たちには見せなかった事を見せるのです。

それは何かというと、イエズス様の御顔が太陽のように燦然とこう輝きだし、イエズス様の本当の王の王である御稜威、その光を、その権威をお見せになったのです。そればかりではありません、服が真っ白く雪のように輝き出しました。昨日は雪の聖母の大聖堂の祝日で、マリア様が雪でご自分の場所を、自分の教会の頂きが奉献する事をお望みになった場所をお示しになりましたが、つまり「清い、汚れの無い場所がここだ」という事を雪で示しましたが、イエズス様は今日は雪のように真っ白な服を輝かせて、御自分の本当の清らかさと、自分のお持ちになっている天主の力をそのままを弟子たちに見せました。

そればかりではありません。旧約のその偉大なる、これを他にしてはもう右に出る者がいないと言われているモーゼ、律法を私たちに、それを通して伝えられたモーゼが現れて、イエズス様とお話をするのです。もう一方はエリヤが、預言者の代表エリヤがやって来て、イエズス様とお話をするのです。聖ルカの福音によれば、「御受難についての話をしていた」との事です。イエズス様のそのような2人の、モーゼは既に死んでいましたけれども、エリヤはまだ天に上られて、火の車で天に上ってまだ生きておられる、生ける人と死せる人とを裁く為に来たり給うイエズス様を証人する2人が、律法と預言者の代表がイエズス様の元に来て、「これこそ来たるべきメシアであり、救い主であり、贖い主である」という事を私たちに示そうと証人として現れます。

3人の弟子たちはそれを見ていると、あまりにも素晴らしいので、是非このここに、その3人にふさわしい幕屋を立てたいという事で、ペトロが、「ここに何か、素晴らしい幕屋をあなたにふさわしい場所を作りましょうか?」と言うと、突然天が、天の雲の中から御父の声が響き渡ったのです、「これは私の愛する子、私の喜びとする者である。彼の言う事を聞け。」天主御父が、「このイエズス・キリストこそが、真の御父の御子である、永遠から生まれた天主三位一体の御子である。始めもなく終わりもなく、創られない、父から生まれている、永遠の今において生まれている天主、生まれながらにして本性にして天主である御子である」という事を承認します。「彼の言う事を聞かなければならない、彼こそがお前たちに本当の事を、真理を、善を教える。彼の言う事を聞け」と。「そうすればお前たちも、この御子のように燦然と輝く天の遺産を受けるだろうし、また私の愛する子と養子相続する事ができる。だから彼の言う事を聞け。彼こそが真理の言葉を持っている」という事を御父が、「彼の言う事を聞け。この子の言う事を聞け。このイエズス・キリストの言う事を聞け」と命令するのです。

するとその声を聞いて、あまりにもその神々しいその荘厳な絶対の御父の声に恐れおののいて、「ははぁー!控え控えー!」という事を内の声で中からの声を聞いたのでしょうか。弟子たちは顔を平伏して、地に死んだように恐れおののいて地に伏せました。するとイエズス様が近づいて、「恐れるな。さぁ、怖がる事はない」と言う事で見ると弟子たちは、「もう既にイエズス様しかいなかった。普通の今まで通りのイエズス様を見た」という事です。

これは来たるべき御受難に備えて、イエズス・キリスト様がどのように裏切られようとも、どのように苦しみを受けられようとも、あたかもイエズス・キリストが天主の御子でないかのように見えたとしても、苦しみのあまり、血のあまり、傷にただれて、そのイエズス様の御姿が、もうメシアなのだろうか、天主の御子だろうかという事が見分けがつかなくなるほどになってしまうかもしれないとしても、しかしイエズス・キリストは永遠の御子であり、メシアであり、律法と預言者が期待していた、待ちに待っていたその御方である、という事を確固とさせる為でした。将来イエズス様に付き従う、イエズス様の声を聞く者に対して与えられるべき報いは、「イエズス様と同じ姿になる事である」という事を見せる為でした。

カトリック教会は今日私たちに、やはりそれと同じイエズス様の姿を見せ、私たちの信仰を固めようとします。私たちが信じているイエズス・キリストは、まさにこの御変容された、しかしそれを隠しておられるイエズス様です。隠しておられるのは、「私たちが信仰によって歩む事ができる為」です。「Mystici Corporis “ミスティチ コルポリス”」という回勅の中でピオ十二世教皇様は言っています、「教会はイエズス・キリストの神秘体である。しかしイエズス・キリストが私たちの信仰の徳を実践する機会を与える為に、時において私たちに、この私たちにとってこのキリストの神秘体が受難を受けている、苦しみを受けている事を示す場合がある」というような事を書いておられます。確かにピオ十二世教皇様が仰るとおりです。イエズス様の神秘体である教会は、花婿であるイエズス様に倣って、受難の道を辿らなければなりません。しかしこの教会の頭は、今日私たちにその姿をお見せになった「栄光の王イエズス・キリスト」です。御父がまさに「これの言う事を聞け、これ以外に真理の道はない」というイエズス・キリストです。

聖ペトロも今日書簡の中で、「私はこの目で見た。この耳で聞いた」と証人しています。

教会がどのようになったとしても、どのように受難な道を歩いたとしても、この創立者が頭が「イエズス・キリストである」という事をどうぞ確固として信じ、その信仰を固めて下さい。イエズス・キリスト様は十字架によってこの世を統治します。イエズス・キリスト様が私たちを贖うのは受難の道でした。イエズス・キリスト様が私たちにお恵みを与えようとするのは、その十字架の木を通してでした。「Regnavit a ligno Deus」と公教会がイエズス様に謳う通りです。

イエズス様は確かに、この御変容の後に弟子にユダに裏切られ、弟子たちからは捨てられてしまいました。ゲッセマ二の園では弟子たちは散り去ってしまいました。ポンシオ・ピラトはイエズス様に、「真理とは何か?」イエズス様は、「私は真理の為に証明する為に生まれて来た、やって来た」と言うのですけれども、ピラトは真理を信じようとしません、「真理とは何か?真理なんて何だ、何さ。」そればかりでなく、イエズス様とバラバのどちらを選ぶか国民投票させます。ピラトには「私たちが選ぶ事ができない、投票で決めるのではないものがある」という事を知らなかったようです。

イエズス様にピラトは聞きます、「お前はユダヤの王なのか?」
「お前の言う通りだ」と。

イエズス様はですから、十字架の上で「王」という罪を、実際にこの御変容でお見せになったこの本当の王であるにもかかわらず、そのそれであるという事で十字架の上ではその罪を、「王である」という事の為に十字架に付けられる事になりました。「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」と。

公教会は今その2000年後、イエズス様の受難と同じようなものを辿りつつあるようです。何故かというと残念ながら、カトリック教会の本当ならばいつも十字架の下にいなければならない司祭たちは、聖伝のミサを捨ててお食事会に、新しいミサをするようになってしまっているからです。十字架の下に留まったのは、マリア様とヨハネだけであったように、聖伝のミサを守る者は、マリア様のすぐ傍にあったルフェーブル大司教様とほんの限られた司祭たちだけになってしまったからです。

ベネディクト十六世が、「教会が過去愛したものを、教会がいきなり禁止する事ができるはずがない。過去教会が愛したものを、私たちは今も愛し続けなければならない」と言っているにもかかわらず、しかしイエズス様の十字架は、「あぁ、」皆がそれを捨てたままになっているかのようです。

ピラトを代表するかのようにこの世は、或いは第二バチカン公会議は、「真理とは何か?」と疑問をかけているようです。

カトリック教会は言いました、「イエズス様こそが真の王であり、イエズス様の言う事を聞かなければならない。イエズス様こそが真理である。イエズス様を通らなければ誰も天の国に行く事はできない、救われる事はできない。彼の言う事を聞かなければならない。イエズス様は真理を証明する為に生まれてきたのであって、道・真理・命だ。」

ところが、「そうではない。私たちは真理であろうが誤謬であろうが、私たちは判断する事ができない。私たちは自由でなければならない。真理とか誤謬とかではなくて、自由が大切だ。それが信仰の自由であって、良心の自由だ。それが人間の尊厳だ」と。

ですから、イエズス様は「真理がお前たちを自由にする」と言ったにもかかわらず、「真理とは関係のない自由」を言っています。ちょうどピラトが「真理とは何か?」と聞いたかのようです。

そればかりではありません。イエズス様こそが王であるにもかかわらず、イエズス様の事を投票で決める事ができないはずにもかかわらず、多数決で、「イエズス様を王とするか王としないか、或いはイエズス様に従うか従わないかは多数決で決めれば、もしも他の宗教の方が多いならば、それに譲るべきだ」と言っているかのようです。

もしもイエズス・キリスト様が真の天主、真の王でなくて、イエズス様でなくても救霊ができるならば、一体なぜ宣教師は全てを捨ててイエズス・キリストの福音を伝えなければならないのでしょうか?なぜ青年たちや若い人たちは一生かけて生涯をかけて、イエズス・キリストに全生涯を青春をイエズス様に捧げなければならないのでしょうか?
他の宗教でも皆天国に行くのならば、一体イエズス・キリストに付き従ってどこが価値があるのでしょうか?
多数決で決める事ができるのならば、なぜイエズス様につかなければならないのでしょうか?
真理も誤謬もなくてただ自由だけが、人間の尊厳だけが大切ならば、なぜイエズス様の事をそうやって聞かなければならないのでしょうか?
多くの方がそうして混乱して、「もうそうであれば、イエズス様はいらない、カトリック教会もいらない」ものになってしまいます。

教会はですからそのリベラリズムによって、イエズス・キリスト様の御変容の論理的な結論を捨てる事によって、イエズス様が真の王であるという事を、イエズス様の言う事を聞かなければならないという事を捨てる事によって、この世の言う事を聞いてしまう事によって、今、受難の道に入っているかのようです。

では私たちはどのような決心を立てなければならないでしょうか?

ファチマのマリア様は、この私たちの公教会の受難についてのビジョンをシスタールチアに見せました。それは多くの司教様や司祭が、或いは信徒の方々が次々と亡くなって殉教していくビジョンでした。何か私たちの二十一世紀のこの平和な時代からはとても考えられないようなビジョンですけれども、しかしこれが本当になる危険があります。もしも教会が、イエズス様のこの御変容のその確固とした「イエズス・キリストこそが天主の御子であり、聖三位一体の御子であり、真の天主である。このイエズス・キリストの神秘体がカトリック教会である」という事を忘れ去ったときには、このビジョンが実現する危険があります、その虞(おそれ)があります。

そこでそのマリア様に、聖母の汚れ無き御心に私たちは馳せ寄る事に致しましょう。このどのような事があってもマリア様がイエズス様の御神性を、イエズス様が天主であるという事を決して疑った事がないように、捨てた事がないように、十字架の下に固く立ち留まったように、全てをご自分の御心の中に入れて思い巡らしておられたように、私たちもイエズス様の御変容、御神性を、決して捨て去る事がないように、またマリア様と共にイエズス様の下さる、イエズス様が御恵みを下さっているミサ聖祭に、十字架の秘跡で十字架の生贄であるミサ聖祭に留まる事ができますように、聖伝のミサに留まる事ができますように、この世のリベラリズム、或いはその他の間違った誤りの中に、マリア様の御助けによってファチマの光によって、正しい道が照らし出しますように。

マリア様は言いました、「私の汚れ無き御心はあなたの避難所となり、天主に導く道となるでしょう。私は決してあなたを捨てる事はありません」と。マリア様の汚れ無き御心にひたすら寄り添って、その信心をますます実践する事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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