Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖伝のミサ(伝統的なラテン語ミサ)が大阪では6月16日、17日、東京では6月18日、19日です

2017年06月14日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

今週末に、大阪と東京とで聖伝のミサがあります。

6月18日の主日は、御聖体の祝日の荘厳祭です!

東京では、前回のように、10時からのロザリオの前に、当日のミサ聖祭のグレゴリオ聖歌の練習を皆さんとしたいと思っています。
どうぞいらして下さい!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002

    6月16日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭【御聖体の随意ミサを行う予定です。】

    6月17日(土) 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ(3級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭


【東京】「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
東京都文京区本駒込1-12-5 曙町会館

    6月18日(主) 聖霊降臨後第2主日(2級)緑 【日本】御聖体の荘厳祭 白
           午前09時 当日のミサのグレゴリオ聖歌の練習(及び告解)
           午前10時 ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭
           午後02時  霊的講話
           午後04時  主日の第二晩課

The Feast of Corpus Christi
 Introit • Score Video Organist • Cibavit eos
 Mode VIII psalm tone for Gradual & Alleluia (PDF)
 Gradual • Score Video Mp3 Organist • Oculi omnium
 Alleluia • Score Video Organist • Caro mea vere
 Sequence • Score Video Mp3 Organist • Lauda Sion Salvatorem
 Offertory • Score Mp3 Organist • Sacerdotes Domini
 Communion • Score Mp3 Organist • Quotiescumque manducabitis

    6月19日(月) 童貞ファルコネリの聖ユリアナ(3級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭




聖ピオ十世会 2017年6月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ)のご報告を紹介します。次回は、大阪では6月16日、17日、東京では6月18日、19日です

2017年06月13日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月11日の聖霊降臨の大祝日には、レネー神父様が大阪で主日のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!

 今日は、ファチマで歴史上初めて、聖母の汚れなき御心が啓示されて100周年です。また、トゥイでの三位一体と聖母の汚れなき御心との関係が啓示されて88周年です!

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

 来る6月16日、17日には大阪で、聖伝のミサが、
 6月18日の主日と19日には東京で、いつものように聖伝のミサが行われます。

 いくつかの報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

6月の主日のミサの報告をお送りいたします。

6月11日(主) 聖三位一体(1級祝日)白 の御ミサには16名が、
6月12日(月) 証聖者聖ファクンドの聖ヨハネ(3級祝日)白 の早朝ミサには7名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオ・グラチアス!

主日のお説教は、聖三位一体についてでした。
冒頭の「皆さんは、なぜ教会に来るのですか?」という神父様からの問いかけに、ハッとしました。
「ミサの予定があって、ミサがあるから与っている」という惰性的な、どこか習慣的な行動になっていないだろうか?という疑問が同時に頭に浮かびました。

私たちは天主をお愛しするために生きているのだからその愛の対象である方を知りたいと思うのは当然の事でだと思います。しかし、神父様がお説教の途中で仰ったように、天主の事は天主ご自身でしか説明することができない。だから、私たちは天主であるイエズス様を通して天主が「光」であり、「愛」である事を知ろうとし、天主を探し、求め、見出したい、教えて欲しいという理由で教会に来ているのだという事を再認識しました。

三位一体の奥義を人が完全に理解することは不可能だし、勉強不足の自分には到底難しい事だと思いましたが、今日はご聖体に在すイエズス様と一緒に、聖三位一体が居られることを感じながら御聖体拝領をするお恵みを頂けたように思います。

聖トマス・アクイナスが言った「天主のみ言葉は冷たい、知性的な言葉ではなく、その反対に『愛を呼吸するみことば』である」という言葉がとても印象的でした。
イエズス様の聖心の愛の鼓動が感じられる言葉でした。

公教要理では、「聖霊」について黙想しました。
聖霊が、一つの位格をもつ天主である事の証明と、聖霊の役割を聖書をたくさん引用されながら説明してくださいました。

三位一体、聖霊、は自分の中でも黙想するにも難しいことだったので、今日のお話をもとに朝の黙想をしてみたいと思います。

昨日の主日の御ミサでマキシミリアノ・コルベ君が侍者デビューしました。
レネー神父様に初めての侍者だったとお伝えすると、とてもびっくりされていたほど、落ち着いていて、神父様も、『非常に敬虔で、行儀のよい、良いミサ答え』だったと御社っていました。よく練習して準備されていたのだろうと思います。侍者の方が増えたこともマリア様に感謝、天主様に感謝します。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

遅ればせながら6月4日の聖霊降臨の大祝日の御ミサの報告をさせていただきます。

御ミサでは、聖霊降臨の大祝日の意義と、そこで何が起こったのかということと、それから第二の聖霊降臨の豊かな賜物を良く受けるためにはいったいどうすればよいか、ということをお話しいただきました。

いちばん印象深かったのは「マリア様は聖霊の充満を受けた方です、一度も拒まれたことはないのです、そしてマリア様か聖霊かわからないほどマリア様は(聖霊と)瓜二つです」、というお話を伺ったことです。

何かアッと思いました。「マリア様と聖霊は瓜二つ!」-御父と御子とそして聖霊と、ああそれでマリア様はいつもその三位一体の御絵の中に永遠の乙女として描かれているのだというような、いえ何かもっとそれ以上の神秘的なことが感じられました。そして、「自分の心とマリア様の汚れなき御心と交換してもらう、マリアの汚れなき御心の信心はここにあるのです」、というお話は記憶にはっきり残りました。マリア様のこの汚れなき御心の中に自分の哀れな汚らしい心を沈めてしまいますよう無くしてしまえますようにと、お祈りいたしました。(少しずつでも努力していきます。)

マリア様は聖霊の浄配でいらっしゃいます、そしてマリア様は聖霊の充満を受けておられます、そのことを良く黙想してマリア様の汚れなき御心のうちにすべてのことをすることができますようにそしてマリア様の汚れなき御心の信心をよくいただけますように祈り務めそれは聖霊の恵みを受けることでもあると教えられたように思います。

いつも天主の方へ目を向けたいという思いも、自分の力ではそれはできず、ただマリア様の汚れなき御心だけがそのようにできるとあらためて思いました。(コルベ神父様も無原罪の聖マリアをいつも思っておられたのだと思いました。)

トゥイで受けたルチアのビジョンでも、マリア様は御父と聖霊とイエズス様のもと一緒におられます。どうか祖国へ還る巡礼者であるわれらを浄めて力づけてくださいますように!

マリア様を通して恩寵を受けることができますように心から願い、毎日罪の償い・罪人の回心を祈らねばと思いを新たにしました。神父様ありがとうございました。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

午後の公教要理の報告です。

公教要理では、聖書の背景となっている地理的場所のお話をしてくださいました。聖書の地図は時々目にしていたつもりですが、山や谷・川や湖の起伏に富んだ地形を立体的な表示するスライドを使って説明していただきとても興味深く聴き入りました。たくさんの写真や絵などで、イエズス様の宣教された土地の地理的特徴がよくわかりました。ナザレからベトレヘムまでの旅は山と谷の道沿いの道90マイルおよそ140Km近くの道のりをずっと歩かねばならず、身重のマリア様がどれほど険しい山道を人口調査のために旅しなければならなかったかなど黙想しました。

次に(ちょっとした丘の上に建っていたとされる)エルサレム神殿の構造について詳しくお話を伺いました。エルサレム神殿はもともとダビデ王の子供のソロモン王が建て、破壊され、その後B.C.20年ヘロデ王が再建したそうです。神父様のお話しですが、そのエルサレムを再築している中、マリア様が15歳~16歳の頃に御胎内にイエズス様をお宿らせになられたので、ヘロデの造る神殿より本当の神殿が出来つつあったのです・・・というお話しをサラリとおっしゃってくださり、心に残りました。

当時のエルサレム神殿は女性の庭・イスラエルの庭・ソロモンの門・司祭たちの庭・周りは異邦人の庭などがあり、ホロコーストの祭壇があり、聖所と、そして一番奥が至聖所となっていることを図や航空写真で詳しく説明いただきました。そしてそこには今はイスラム教のモスクがあるとのことでした。

ところで6月6日に朝日新聞でエルサレムの特集記事が掲載されていました。ちょうど公教要理のご講話のこの箇所とその記事は非常に関連していました。現在のエルサレムにおいてですが“約1キロ四方の壁に囲まれた旧市街地にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が集中している”との新聞記事を読んで、まさにその旧市街地の中の様子を詳しくお話しいただいたのだとわかりました。新聞記事が急に身近なものに感じられました。

聖墳墓教会がある地域は現在キリスト地区となっており、エルサレム神殿はイスラム地区とユダヤ地区の方の「神殿の丘」の中のどこかにあったとのこと。その「神殿の丘」と呼ばれる聖地を現在はイスラム教の「岩のドーム」やモスクが覆っていて2000年前の地下深くに埋没しているところの状況を調査できないために、ユダヤ教徒にとって決して足を踏み入れてはいけないエルサレム神殿の「至聖所」がどこにあったかを確定できない。その理由で、今もユダヤ人は神殿の丘では礼拝が出来ず、丘の西側にある「嘆きの壁」で祈りを捧げることしかできない、ということを教えていただいた後だったので、難解な新聞の記事も読むことができました。

現実には「東エルサレムを占領したイスラエルは、聖地の現状を変えないと約束した」という現在の政治的背景があるとのことで、今も昔もエルサレムの土地は切迫した動きの激しいところなのだと感じられます。聖地エルサレムはなんと複雑な所なのでしょう。

その他「わかったこと」を、以下に挙げます。

・イエズス様の十字架はユダヤ教徒の迫害を免れてキリスト教徒によって隠されていて、それが三つに分けられた。その一つを聖ヘレナがローマに持ち帰った。(現在は聖十字架教会にある。)

・本物のイエズス様の十字架かどうかは、奇跡によって判明された。癩病の患者にその木片をあてさせ本物の十字架の木に触らせるとすぐに病が治った。

・イエズス様の十字架はアダムのお墓があったところちょうどその上に立てられていたようだ。(「第2のアダムとして十字架の木によって死に打ち勝った」ことがあらわされている。)

・イエズス様のお墓とcalvary(ゴルゴダの丘)全体を覆うように現在はそこに聖墳墓教会が建てられている。

・ヘロデ王の造ったエルサレム神殿はA.D.70年に破壊され、A.D.135年ユピテルの神殿(ローマ神話のジュピターの神殿)となる。それからイスラム教が入って来て途中でモスクに替えられてしまっている。

・ユダヤ人にとってエルサレム神殿の中の最も大切な至聖所がどこにあったかということがとても大切でどうしても知りたいことだ。なぜならとても聖なる場所で足を踏み入れてはいけないところだから。しかし、現在モスクがその上に立っているのではっきりと調査することができない。・・・

その後で、聖ベルナルド修練院の教会の聖別式・献堂式の動画を見せていただきました。とても美しい教会をフェレー司教様が祝福される様子、小野田神父様がご一緒に付き添われていてその光景は少し天上の世界に似通っているようで、見ているだけでとても幸せな気分になりました。


[Novitiate]
教会の真っ正面のバチカン旗の隣になびく日本の国旗にご注目下さい


この修道院の祭壇はトゥイで御出現された汚れなき御心のマリア様の光景と同じでとても驚きました。このような祭壇は世界で初めてとのこと、デオグラシアス!ファチマ御出現百年にこうして捧げられたことに感動しました。日本でもこのような素晴らしい献堂式が行われる日が来ることを心からお祈りいたします。ありがとうございました。


[Novitiate]
修練院の教会の祭壇とその内陣






秋田巡礼-シュテーリン神父様御説教-2017年5月4日「聖母の汚れ無き御心への信心にマリア様がされた約束の偉大さを味わい、感謝してください。」

2017年06月12日 | お説教・霊的講話
2017年5月4日 秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父




聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ファチマのその中心にある玄義は、今日のこのミサの玄義です。つまり汚れなき御心、マリア様の汚れなき御心です。

汚れなき御心に対する信心は、16・17世紀から始まりました。特に聖ヨハネ・ユードは、マリア様の汚れなき御心の役割とその神秘について、深い理解を示しました。「誰かの心の事を考える、考察するというと、誰かの心というのは、愛の座であって、最も親密で、最も深いものを表している」と書かれています。

マリア様の栄光、マリア様の特別な性質など、素晴らしい点を1つ1つたくさん黙想する事ができます。マリア様の信仰、マリア様の希望の徳、或いは忍耐の徳、或いはご謙遜、或いは清さ、色々な聖徳について考察する事が、黙想する事ができます。

マリア様のお持ちになっていた特権についても黙想する事ができます。マリア様の無原罪の御宿り、マリア様の御誕生、マリア様の童貞性、マリア様の被昇天などです。

マリア様がお持ちになっていた、人類の救いの為の働きについても深く黙想する事ができます。「天主の御母である」という事。そして「人間の母となられた」事。またマリア様が共贖者、「イエズス・キリストと共に贖いをされた」という事、また「第2のエヴァとなった」という事です。

マリア様の特権、その徳、その機能役割などについて、色々な神秘があるので、次から次へと黙想しても黙想しきれません。終わりの果てしのない黙想が続きます。それらの色々な特権や徳や特質など、全てはたった1つの源から湧き出ています。

その最も緊密な、最も奥深い源というのは一体何なのでしょうか?その全ての最も緊密で、親密で、深い所にある唯一の源のそのシンボルは、象徴は、マリア様の汚れなき御心です。マリア様にとって、そのご自分の御心が多くの人によって崇敬されているのを見るのは、どれほどの喜びでしょうか。

18世紀や19世紀には、色々な修道会が自分の宣教活動をマリア様の汚れなき御心に委ねていました。もしもその宣教会が大きな成功を得た、勝ち得た、多くの霊魂が回心したとすると、その修道会は皆、「マリア様の特別の介入のおかげだ」と言っています。

しかしマリア様がご自分の汚れなき御心を全人類に表したのは、1917年6月13日の事でした。この偉大な日に、マリア様はまずご自分の御心についてお話をして、次にそれをお見せになりました。

マリア様は2つの文章を、非常に深い、意味のある文章をお話しになりました。この2つの言葉を是非皆さん覚えて下さい。

「イエズスはあなたを使って、私が知られ愛されるようになるのを望んでいます。イエズスはこの世に、私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでいます。この信心を実践する人は誰であれ、私はこの人に救いを約束します。これらの霊魂は、天主にとってとても大切なものであり、それはちょうど私によって、天主様の祭壇、天主様の玉座を飾る為に置かれた花のようです。」

第2の言葉は、「私の汚れなき御心は、あなたたちを天国に導く道であって、そしてあなたたちの避難所であります。」

この言葉をお話しになった後に、子供たちにご自分の御心をお見せになりました。この御心には茨の冠りが被せられていて、この茨は御心を貫いていました。

ルチアが言うには、「私たちは、この御心がマリア様の汚れなき御心だと理解しました。そして人類の罪によって傷付いている、傷付き、そしてその償いを求めている御心だと理解しました。」

これ、この言葉の深い意味を完全に理解する事はできません。天主が全てのカトリック信者に、全世界に於いて、この汚れなき御心を実践するという事を望んでおられる、決定している、という事を私たちは知らなければなりません。

イエズス様はかつてこう言われました、「全世界に行って、私の福音を述べ、彼らにこれを教えよ。」
イエズス様は今同じ事を仰います、「全世界に行って、マリア様の汚れなき御心に対する信心を述べ伝えよ。」

イエズス様ははっきり言っています、「この汚れなき御心こそが、特に終末の私たちの時代に於いて、人々を天国へと導く道であり、最後の道であり、唯一の道である」と。

この小さな信心に、マリア様はどれほど大きな約束をしているかという事は驚くべき事です。

まず永遠の約束をします。「誰であれ、この信心を実践する人には私は救いを、永遠の救いを約束します。」「もしも、」この同じ、子供たちに地獄の火を、永遠の地獄の火を見せたそのマリア様が仰るのです、「もしもこの信心を実践するならば、誰であれ救いを約束します。」

マリア様は単にそう言うだけでなく、天主様に対する力も持っているという事を示しています。つまり私たちが置かれている非常に、永遠の命を永遠の危険に侵されている私たちを救う事ができる、救うと約束する事ができるほどの力を持っています。

「救い」という事の意味の深さを考えて下さい。すると、これを約束するという事がどれほど大切な事かが分かります。「救い」という事こそが、イエズス様がこの地上に来られて、十字架の上で亡くなられたその理由です。全世界の人々に、この地上に生きている全ての人にとって、たった1つの事だけが大切です。救われるか、滅びるか。天国に行くか、地獄に行くかです。

現代の世界は罪を愛し、罪を犯すように法律ができています。ですから地獄に行くのは大きな道を突っ走るようなものです、イエズス様が仰ったように。現代世界は最も霊魂を失うに適している、最も失いやすい、危険に満ちた世界に生きています。この全世界のマスメディア、全世界のメンタリティーは皆、「天主を忘れて、罪を犯すように、犯すように」と誘っています。

マリア様は今、私たちがどれほど危険で、どれほど難しい時期に生きているか、という事をよくご存知なので、非常に簡単な事をする事によって、救いを約束しようとされています。「救い」というのは、決定的な、絶対的な永久の大勝利です。サタンと地獄と死に打ち勝つという大勝利の事が「救い」です。

マリア様が約束したのは、ただ救われる、大勝利を受ける、という事だけではありません。そればかりか、「この信心を実践する霊魂たちは、天主にとって非常に大切である。」

「救い」という、「救いを得る」というと、「天国に私たちが行く。天国で報いを得る。それから浄めを受けて喜ぶ」という事を考えます。これは私たちの事だけを考えている事ですけれども、もっと高い次元の事も考えなければなりません。

「救われる」という事は、「天主様がそれを喜ぶ」という事です。ではどうすると、天主にとって私たちがそれほど大切なもの、貴重なものとなるでしょうか?天主の聖なる聖心を、至聖なる聖心を非常に感動させて、その心を動かすものは一体何なのでしょうか?

それは、私たちが持つマリア様に対する、イエズス様の御母に対する信心であって、愛であります。イエズス様はもしもマリア様が愛され、そして多くの人がマリア様に従うならば、非常に喜びます。

それだけではありません。更に約束は進みます。この祭壇のきれいな花を見て下さい。この祭壇をきれいに飾られています。何の為に、祭壇にこんなにきれいな花を置いて飾るのでしょうか?これはその飾られている、この花が周囲に置かれているその中心にあるものが、どれほど大切であるか、という事を示す為です。

イエズス様とその御聖櫃に一番近く置かれてるのは、この花です。あたかもイエズス様の御血に触れているかのようです。

過去教会の教父たちが、天国、或いは救われた霊魂たちについて記述をする時に、多くの場合、美しいきれいな、きれいに咲き誇っている花々に例えています。天国というのは、聖なる聖人たちや聖女たちの群衆と、そして天使たちの大きな大群の事です。その聖人、聖女の大群衆、天使たちの大群衆の中で、一番誰が天主様に近い存在であるでしょうか?

それは、御聖櫃に置かれた花の存在です。天主様の最も近くに置かれた霊魂となるという事は、他の霊魂には無い、ものすごい喜びを持つ事です。もしもこの汚れなき御心に対する信心を実践するならば、そうなります。

マリア様は、天国に行くという将来の事を約束するだけではありません。今現在、今ここでの事も約束します。

まず第1にマリア様は、「私は決して、あなたを見放しません。」

皆さん、もしも皆さんが他の人々から捨てられて、馬鹿にされて、もうどうでもよいと言われて、一人ぼっちで孤独を感じた時に、マリア様の事を思い出して下さい。「私はあなたを決して見放しません。」

もしも皆さんが罪を犯してしまった。しかしマリア様は、「決して私はあなたを見放しません。私はあなたが罪から立ち戻るように必ず助けます。」

皆さんはもしかしたら誘惑、或いは暗黒、暗闇のような中を通らなければならない、或いはガッカリしたり、失望したり、落胆したり、もう力を落としてしまって、「もうどうしようもない。もうお先真っ暗だ」というような事を感じるかもしれません。マリア様は言います、「私は決してあなたを見放しません。」

皆さんが死の床に就いて、たった一人で、孤独で苦しみもがいて、「もうこれからどうなるか」という時に、マリア様は仰います、「私は決してあなたを見放しません。私の汚れなき御心は、あなたの避難所となります。」

山に登って、登山である時は突然雷が、突然火山が、突然何か気象異常が起こったという時に、山小屋があって避難所の小屋がありますが、そういう時にそこに入ると私たちは助かります。私たちは信仰生活を送る中で、ある時はこう疲れてしまい、或いはもうどうして良いか分からなくなってしまった事があるかもしれませんが、マリア様の汚れなき御心は避難所として私たちに力を与えて、いつでもどこでもどんな時でも、私たちが道をまた行くように助けてくれます。

今朝のお話で、では一体汚れなき御心に対する信心とは一体何なのか。このミサでは、この小さな信心にマリア様がどれほど大きな約束をしたか、その約束の偉大さをよく味わって下さい。マリア様がこれほどの大きなお恵みを私たちに与えようとしている事を感謝して下さい。そしてお恵みを求めて下さい。私たちがかつてなかったほどこの信心を実践する事ができるお恵みを求めて下さい。そして決心を立てて下さい。あらゆる手段を使って、この汚れなき御心に対する信心をよく知り、これを本当に実践する事ができるという決心を立てて下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ファチマの天使の祈り

2017年06月10日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ファチマ100周年をふさわしく記念するために、聖伝のミサの後の祈りの時(御聖体拝領の祈りの感謝の祈りの直後、教皇様のための祈りや司祭のための祈りの直前)に、次のファチマの天使の祈りを皆で唱えております。

よろしくお願いします。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Meu Deus! Eu creio, adoro, espero e amo-Vos. Peço-Vos perdão para os que não crêem, não adoram, não esperam e Vos não amam.

【参考資料:フランス語訳】
Mon Dieu, je crois, j'adore, j'espère et je Vous aime. Je Vous demande pardon pour ceux qui ne croient pas, qui n'adorent pas, qui n'espèrent pas, et qui ne Vous aiment pas.

"Mein Gott, ich glaube an Dich, ich bete Dich an, ich hoffe auf Dich und ich liebe Dich. Ich bitte Dich um Verzeihung für jene, die an Dich nicht glauben, Dich nicht anbeten, auf Dich nicht hoffen und Dich nicht lieben."

「哦!天主,我信奉您、我敬拜您、我仰望您、我愛慕您。請您寬恕那些不信您、不敬您、不仰望您、不愛慕您的人。」

나의 천주여 나는 믿고, 흠숭하며, 희망하고, 너를 사랑하나니다. 믿지 아니하는 이, 흠숭하지 아니하는 이, 희망하지 아니하는 이, 사랑하지 아니하는 이들을 위해 용서를 구하나이다.


「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

【シスター・ルシアの手記によるポルトガル語原文】
Santíssima Trindade, Padre, Filho, Espírito Santo, (adoro-Vos profundamente e) ofereço-Vos o preciosíssimo Corpo, Sangue, Alma e Divindade de Jesus Cristo, presente em todos os Sacrários da terra, em reparação dos ultrajes, sacrilégios e indiferenças com que Ele mesmo é ofendido. E pelos méritos infinitos do Seu Santíssimo Coração e do Coração Imaculado de Maria, peço-Vos a conversão dos pobres pecadores.

【参考資料:フランス語訳】
Très Sainte Trinité, Père, Fils et Saint-Esprit, je Vous adore profondément et je Vous offre le très précieux Corps, Sang, Âme et Divinité de Jésus-Christ présent dans tous les tabernacles du monde, en réparation des outrages, sacrilèges et indifférences par lesquels il est Lui-même offensé. Par les mérites infinis de Son Très Saint-Cœur et du Cœur Immaculé de Marie, je Vous demande la conversion des pauvres pécheurs.


„Heiligste Dreifaltigkeit, Vater, Sohn und Heiliger Geist, in tiefster Ehrfurcht bete ich Dich an und opfere Dir auf den kostbaren Leib und das Blut, die Seele und die Gottheit Jesu Christi, gegenwärtig in allen Tabernakeln der Erde, zur Wiedergutmachung für alle Schmähungen, Sakrilegien und Gleichgültigkeiten, durch die Er selbst beleidigt wird. Durch die unendlichen Verdienste Seines Heiligsten Herzens und des Unbefleckten Herzens Mariens bitte ich Dich um die Bekehrung der armen Sünder.“

「至聖的天主聖三:聖父、聖子、聖神,我深深地欽崇您,現在我把這個世界上所有聖體櫃中最珍貴的聖體、聖血,耶穌基督的靈魂與天主性呈獻給您,以賠補世人對天主的冷淡、侮辱和褻瀆。藉著耶穌聖心和無染原罪聖母聖心的無限功勞,求您使罪人悔改自新。」

지극히 거룩하신 성 삼위 성부, 성자, 성신이여, 너를 깊이 흠숭하나이다. 세상 모든 감실 안에 계신 예수 그리스도의 지극히 보배로우신 성체와 성혈과 영혼과 신성을 바치오니, 천주의 마음을 상해드린 모욕과 모독과 무관심을 기워 갚기 위함이나이다. 지극히 거룩하신 예수성심과 성모의 하자 없으신 무한한 공로로 삼가 청하오니 불쌍한 죄인들이 회개하게 하소서.

聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂一周年を記念して、聖堂の写真をいくつかご紹介します

2017年06月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂は、昨年5月13日の佳き日から始まり、5月15日の聖霊降臨の大祝日の主日より、ミサ聖祭を捧げ始めました。

 聖堂の一周年を記念して、聖堂の写真をいくつかご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

























聖なるロザリオの黙想【苦しみの玄義】-2017年5月3日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

2017年06月09日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年5月3日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。


苦しみの玄義黙想(2017年5月3日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父


『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

「私の霊魂は、死なんばかり憂い悲しんでいる。起きて目覚めて、私と共に祈れ。」

ファチマのフランシスコは、天主が多くの罪によって、罪が犯されているのを見て非常に悲しむのを見ました。

ファチマではご出現の度に、マリア様は非常に悲しい面持ちでお現れになりました。何故かというと、マリア様の子供であるべき人たちが、マリア様の事を全く無視し、或いは忘れ去って、無関心で生活しているからです。

ここ秋田でも、マリア様は悲しみの涙を流されておられます。ちょうど十字架の上でイエズス様が御血を流されたように、マリア様の涙は私たちに対する愛を表しています。マリア様が涙を流されるのは、愛するそのしるしであると同時に、私たちによって軽蔑されているから涙を流します。私たちが罪を犯す度に、私たちはマリア様を侮辱し、そして涙を流させます。

イエズス様のゲッセマニの園での御苦難と、マリア様の御苦難とは似ています。マリア様の苦しみの時は今です。マリア様は私たちを、ご自分の子供たちである私たちを救おうと一生懸命に望んでいます。しかしマリア様の心を悲しませているのは、マリア様の愛の実りを私たちが無視しているからです。

御血を流されるイエズス様と共に、私たちは苦しむ事に致しましょう。そして涙を流されるマリア様と共に、私たちも苦しみを共に致しましょう。私たちの罪、マリア様を悲しませている私たちの全ての罪に対して、悔俊の恵みを求めましょう。



『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

私たちの主イエズス・キリストは、罪の為にその贖いの値を払います。マリア様の御体はイエズス様のように鞭打たれる事はありませんでした。しかしイエズス様が御肉体で苦しまれた全ての事を、マリア様はその汚れなき御心で感じ取っていました。

イエズス様が受けた1つ1つの、1回1回の鞭打たれは、マリア様にとっては2倍の2回の鞭打ちとなって感じられました。何故かというと、イエズス様を侮辱するという事は、それと同時にマリア様をも侮辱する事であるからです。イエズス様が苦しまれるのを見る母の心は、2倍の苦しみを受けるからです。

このマリア様のお苦しみの表現は「涙」です。イエズス様が受けた100回以上の鞭打ちは、マリア様の100回以上の涙に値します。

マリア様の御眼差しもイエズス様の御眼差しも、私たちの心に向けられています。マリア様とイエズス様は私たちをご覧になる時に、恥ずかしい事に、私たちの一体何を見い出される事でしょうか?御二人は、御二人をお慰めする誰かを、力付ける誰かを探しているのですけれども、それを見つける事ができません。何故かというと、私たちは自分の事と自分の不潔な事だけに気を取られているからです。

ですからマリア様の受ける霊的な鞭打ち、イエズス様の鞭打ちは、私たちの霊魂の回心の為に許されています。

ですからマリア様は手を、両手を広く広げておられます。マリア様は私たちにこう語りかけます、「さぁ、我が子イエズス・キリストの御体がこれほど鞭打たれて、傷付けられているのをご覧になりますか。お前たちの為に私の御心も、これほど傷付いているのをご覧になれますか。おぉ我が子たちよ、御子イエズス・キリストの御体がこれほど無残に打ち砕かれて、私の御心もこんなに傷付いているのに、あなたは何をしますか。私たちから逃げ去らないで下さい。私の足元にいらっしゃい。あなたたちをイエズスの元に導いてあげましょう。もしも痛悔するならば、イエズスと私とで、あなたの罪の償いを全て致しましょう。」



『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

ファチマでは、マリア様は私たちにご自分の汚れなき御心をお見せになります。

でもマリア様がお見せになって下さった御心は、今までの絵に描かれた御心とは少し違っています。よくある絵によれば、マリア様の汚れなき御心にはバラの花の王冠が被せられています。

しかしファチマでは、マリア様の御心は茨の冠で被せられていました。マリア様の御心はその茨がズブリと、何のそれを遮る物もなく、深く刺し貫かされていました。つまりマリア様の汚れなき御心は、いつも絶え間なく、茨で貫かさせられつつあるという事です。イエズス様の聖心も、御自分の聖心を茨の冠で貫かされたものとして御見せになりました。

ですからイエズス様の御受難と、マリア様の御苦しみとは全く2つで1つで、全く同じ苦しみを受けたのです。

普通目から涙が出ます。しかし象徴的に神秘的に、マリア様の御涙はファチマでは御心から流されました。秋田でマリア様は、霊魂を救うのがどれほど大変だったのかという事を、どれほどマリア様にとって多くの値を払わなければならなかったのかという事を教えています。何故かというと、1回、それで1回きりの苦しみで終わったのではなく、世の終わりまでそれがずっと苦しみが続いているからです。たとえイエズス様の御頭に茨を刺し貫かさなくても、マリア様の御心にはいつも茨が刺さっています。

イエズス様の聖心はかつてこう言われました、「特に御心を苦しませている茨は、私たちの無関心と、そして冒瀆である」と。

ではマリア様に私たちはお尋ね致しましょう、「おぉマリア様、一体マリア様の一番悲しめる、苦しめている茨とは一体何ですか?一体何が最も悲しい涙を流させますか?」

あぁ、その答えは恐ろしいものです。マリア様は、「天主を知らない人たちが犯した罪だ」とは仰いません。マリア様が言う最も辛い涙の原因は、「私たち自身の無関心と、私たち自身の怠慢。」

マリア様は私たちを愛する子供として選んで下さいました。この世の他の人々に比べる事のできないほどの多くのたくさんのお恵みを私たちに与えました。マリア様は私たちに真理を教えてくれました。マリア様は母としての心を大きく開いて、私たちに全てを下さいました。

そのような母親に私たちは何をしたでしょうか?私たちは自分自身の事を称賛していました。そしてマリア様の事を祈ったとしても、心はマリア様から遠く離れていました。お祈りをした直後、私たちの生活はあたかもマリア様が存在していなかったかのように立ち振る舞っていました。無関心。誘惑に襲われると、あっという間にマリア様から離れてしまいます。

私たちはこの事をはっきりと確信しなければなりません。マリア様を最も悲しませているその涙の原因は、「私たちの罪」である。

マリア様は私たちを拒否しません。マリア様はこんな事は言いません、つまり、「私はあなたにこれほどまでしたにもかかわらず、あなたはこんなに悪い態度を取るのですね」とは言いません。マリア様は何も仰らずに、ただ涙を流されるだけです。

「御母よ、御身の涙が私の心を動かすようにして下さい。私の心を変えて、回心させて下さい。」



『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

ファチマにおいても、ここ秋田においても、マリア様は「悲しみの御母」として現れました。何故かというと、マリア様は御子と共におられるからです。御子イエズスの十字架の苦しみは、その神秘体の御受難、苦しみにおいて続けられています。

イエズス様の神秘体の御苦難は受難は、聖なる教会があたかも破壊されてしまうかのような苦しみの事です。

聖金曜日に、イエズス様は十字架の上で死去されました。その時に全ては終わってしまったかのように思われました。たった1人だけ信仰を守り続けた人がいました。もしも他の人々が信仰を保ち続ける事ができたとしたら、このマリア様のおかげでした。

教会の十字架の道行きにおいても同じです。近代主義のそういう拷問を受けて教会は苦しんでいますが、それを見て、マリア様がいなかったら私たちは、それを教会を打ち捨ててしまっていた事でしょう。もしもマリア様の御助けがなかったら、私たちは近代主義と一緒になって、教会の破壊に手を貸していた事に違いありません。そしてもしもマリア様の御助けがなかったら、教会の破壊の為に招かれている、朝から晩まで罪へと招かれている私たちは、どうやってこれに抵抗する事ができたでしょうか?

苦しむ教会を、マリア様は決して離れて打ち捨ててしまった事はありません。ですからマリア様のおかげで、私たちも堅忍する事ができます。従って、私たちはますますマリア様に忠実でなければなりません。何故なら、マリア様に私たちは全ての恵みを受けたからです。私たちは終わりまで耐え忍ぶ恵みを求めなければなりません。何故なら聖金曜日は、教会にとっての聖金曜日はまだ終わっていないからです。

もしもマリア様がいらっしゃらなかったら、私たちに一体何が起こったでしょうか?

そこでまず、イエズス様の十字架のもとにいつも留まり、マリア様のマントにいつもしっかりと付いている御恵みを乞い求めましょう。もしも誘惑、或いは試練、苦しみが私たちに襲いかかるなら、すぐにマリア様に子供のように走り寄り、助けを求めなければなりません。

「おぉマリア様、御身こそ私たちの最後の希望、最後の拠り所です。マリア様、決して御身から離れるのを許さないで下さい。」



『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

マリア様をご覧下さい。マリア様は十字架の足下に佇んでおられます。天使も、そして聖人たちも、マリア様がどれほどお苦しみになっているか、という事を完全に理解し尽くす事はできませんでした。

マリア様はこの瞬間に、新しい召命を受けました。召し出しを受けました。それはイエズス様の方に行くという召し出しです。イエズス様から召し出しを受けました。その受けた召し出しというのは、「私たちの母となる」という召し出しです。

マリア様の汚れなき御心に於いて、イエズス様と共に勝ち取った全ての功徳によって、私たちの母となりました。十字架にかけられたイエズス様が母の元に与えられた時、これは十字架の道行きの第13留ですけれども、イエズス様をマリア様は引き取ります。そして受け取ったイエズス様を、全て御父に、私たちの救いの為にお捧げになります。

マリア様はそうやってお捧げした後に墓に葬り、その後に十字架の下にまた戻り、十字架の下に立ってご覧になり、そして私たちの方に返り向きます。

それが秋田のマリア様です。マリア様の後ろには十字架が立っています。マリア様はイエズス様から全てを受けました。そしてイエズス様と共に、多くの恐ろしい苦しみを苦しまれました。

イエズス様から全ての功徳と御恵みと聖寵を受けた後に、私たちの方にくるりと向いておられます。そしてマリア様は、イエズス様が仰った十字架の言葉を、私たちにも仰います、
「子よ、ご覧なさい。私はあなたたちの母です。あなたたちは私の子供たちです。」

「我が子はイエズスは、普通ならばできない事を、する事ができない事を私に依頼しました。私は、我が子イエズスを死に打ちやったあなたたちを、我が子のように我が子として愛さなければなりません。さぁ、いらっしゃい。私の涙と悲しみの実りを受けなさい。いらっしゃい。『自分はあまりにも多くの罪を犯した醜い罪人だ』などと言わないで下さい。絶望する理由はありません。あなたたちはいつも絶える事なく、私の胸に茨を突き刺していました。しかしあなたたちを拒否しません。私はいつもあなたたちの事で涙を流さなければなりません。私の涙が流されれば流されるほど、あなたたちの回心を更に求めます。あなたたちが御子イエズスを十字架に釘付けにすればするほど、私は更にもっとあなたたちの為に許しを乞い求めます。」

「さぁ、いらっしゃい。私の憐れみを受けなさい。私から、お前たちが私の本当の子供であって、私があなたの本当の母であるという事を学びなさい。」

「あなたたちの心を変えるのを私に許して下さい。あなたたちに光を与えるのを許して下さい。私だけが、あなたたちを助ける事ができます。私だけが、御子イエズスをますます愛する事ができるようにする事ができます。私だけが、罪を忌み憎ませる事ができます。」

「あなたたちの悲しみの母であらしめて下さい。」

聖ピオ十世会 6月の聖伝のミサ(ラテン語ミサ) の報告

2017年06月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

【大阪】
 6月の初金曜日と初土曜日は大阪で聖伝のミサを捧げました。
 初金曜日には、いつものように聖時間を顕示された御聖体の前で過ごしました。
 初土曜日は、ミサ聖祭の後、いつもならば皆さんのための公教要理なのですが、今回は次回に受洗される方のための公教要理と、受洗前の口頭試験を行いました。求道者の方は、全ての質問に完璧に答えられ、あとはロザリオの祈りで受洗の日を待つのみとなりました。愛する兄弟姉妹の皆様もこの方のためにお祈り下さい。
 初土の午後の3時からは、大阪で結成された「ファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会」の最初の活動がありました。グレゴリオ聖歌を習ってみたい、歌ってみたいという一般の方々も招いて、2時間ほど練習をする予定です。

【東京】
 6月4日の聖霊降臨の大祝日は、東京で聖伝のミサを捧げることができました。50名の方々が聖伝のミサに参加されて天主様に感謝します。

 ミサの前には9時から10時まで(ロザリオの前に)、グレゴリオ聖歌の練習をしました。
 午後は、公教要理の時間に、パワーポイントを使って、聖書に出てくる聖地の地理について概観しました。手元にあったプロジェクターを使って、コンピュータの中にあったイロイロの「聖母の汚れなき御心教会」の聖別式のビデオも皆さんにお目にかけました。
 午後4時をすこし過ぎたしまったのですが、主日の晩課をグレゴリオ聖歌で歌って主日の聖化して過ごしました。

 月曜日も、10名ほどの方々が朝ミサに参加されました。初めて聖伝のミサに与った方もおられました。天主様に感謝!

 では、愛する兄弟姉妹の皆様からいただいた報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

6月の初金・初土の大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

6月2日(初金) 至聖なるイエズスの聖心のミサ には10名が
6月3日(初土) 聖霊降臨の前日のミサ には19名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教を聞いて・・・。
「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい」と、ファチマの天使は子供達に御聖体と御血を授けた後に言いました。
ご自分を最後の血の一滴まで人類のために与えられた天主が、ただ冒瀆されているのみならず、 『恐ろしく冒瀆され』ていることに今更ながら心が痛みます。
イエズス様は、ただ、その無限の愛に対して、私たちの愛を求めておられるだけなのに、私たちは一体どこまでずうずうしく、卑劣なのでしょうか?
イエズス様が「愛されたい」と、望まれているかわりに人類がイエズス様に与えているものが恐ろしい冒瀆であるにも拘わらず、それでもイエズス様はそんな罪人の改心のために最愛のお母様まで私たちに与えて、その汚れなきみ心に全てを託されておられる事を黙想すると、イエズス様をお慰めしたい、お愛ししたい、償いたいと、心底から思います。マリア様の汚れなきみ心という最終最高兵器をもってならそれができそうだと、いや、きっとできるはずなので、ファチマの牧童を見習って日々の自分の務めと十字架を捧げる決心を更新しました。

土曜日のお説教では、聖霊降臨について黙想しました。
聖霊降臨の最良の準備は、マリア様の汚れなきみ心に入り、一致することであることがはっきりわかりました。
マリア様の汚れなきみ心の信心がもっと知られ、愛されますように!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ファチマの聖母のグレゴリオ聖歌の会(後ファチグレ)に参加しました。初回は13人の方が参加されていました。
日本を聖母の汚れなきみ心に奉献した後、ファチグレを聖母の汚れなきみ心に奉献することから第一回目の会は始まりました。
そして短いお祈りのあと、会の歌である「Sub tuum」を練習し、皆が歌えるようになったところでマリア様に心を込めて歌いました。
そのあとは、次の主日の御ミサの固有文を練習しましたが、こちらは一日ですぐ歌えるようになるのは難しいようです・・・。(;´∀`)日々精進します。
マリア様の汚れなきみ心の中で、兄弟姉妹と聖歌の練習が出来て、とても幸せな2時間でした。次回が楽しみです!


至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 23人(内、子供0人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 50人(内、子供3人)



秋田巡礼-霊的講話【4】-2017年5月3日シュテーリン神父様「ファチマの聖母:牧童ジャシンタの生活:霊魂たちを救う」

2017年06月08日 | お説教・霊的講話
2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
「ファチマの聖母:牧童ジャシンタの生活:霊魂たちを救う」

同時通訳:小野田圭志神父


今朝はファチマの霊性を見て、そのファチマでの子供たちが一体何を、どのような生活をしていたのか、どのようにそれに対応していたのか、という事を黙想しました。

特にフランシスコは見る事だけに専念する事ができたので、神秘を深く見る事ができて、そして理解する事ができた、という事を黙想しました。

フランシスコは第3回目の天使のご出現の時にした、神秘的な聖体拝領の意味を説明しています。

その時天使はこう言います、「イエズス・キリストの御体と御血を受けなさい。この御体と御血は、忘恩の人々によって恐るべく冒涜されています。そして彼らの犯罪を償い、そしてお前の天主を慰めなさい」と言いました。

「お前の天主を慰めなさい」と言われた時に、フランシスコは一体天使は何の事を言っているのか分かりませんでした、よく理解していませんでした。

「天主を慰める。」一体何の事なのか。

それが分かったのは、マリア様が第1回目にお現れになった時に汚れなき御心を見せて、そして光を子供たちに輝かし出した時です。その時に子供たちは、自分たちが天主様の光の中に居るというのを見て、天主が非常に悲しんでおられる、というのを見ました。その時に、この天使の言葉の意味が分かったのです。

ところでジャシンタは、フランシスコと別の性格を持っていました。フランシスコは天主様の悲しみに非常に心を打たれて、天主様をお慰めしよう、しようと思っていました。ところでジャシンタは、地獄のビジョンに非常に心を打たれました。

シスタールチアは後に、ジャシンタについてこう言っています、「地獄のビジョンがこの子の心をあまりにも満たしていたので、もしも霊魂が地獄に落ちないようにそれを止める事ができるならば、どんなに大きな償いも犠牲も喜んで払う事ができた」と言っています。

ジャシンタに一番関心があったのは、「霊魂を救う」という事でした。ジャシンタはいつも、「私のかわいそうな霊魂たち」と、「私の」という言葉を付けて、あたかも自分の子供たちであるかのように考えていました。

ルチアがジャシンタについて話す時には、「いつもジャシンタは、霊魂を救う事、地獄の火から霊魂を救う事を話していた」と言っています。

ある時ルチアは聞きます、「おぉジャシンタ、一体何の事を考えているの?」
「私は、多くの人が地獄の方に落ちているのを考えているの。私たちの主をもうこれ以上冒瀆しないで、冒さないで、地獄の火に陥らないように、どうしたらしないようにやる事ができるかという事を考えているの。できるだけ多くの霊魂を救いたい。」
そこで、ところが霊魂が救われるか救われないかは、自分の祈りと犠牲にかかっているという事をよく理解していたので、できるだけ祈りと犠牲をしたいと思っていました。ではジャシンタにとって、一番恐るべき犠牲とか苦行というのは一体何だったのでしょうか?

7歳の小さなの女の子でした。一番ひどかったのが、「孤独」という事でした。7歳の女の子が、お父さんとお母さんの元から離れて、たった一人ぼっちで残されて、それが一番の苦しみでした。そして特に病院で、たった一人で手術を受けて、そしてお父さんとお母さんから離れて、兄弟から離れて、一人ぼっちでいた事が非常に苦しい事でした。

ジャシンタが一番苦しんでいたその時に言った言葉は、「あぁイエズス様、今、たくさんの霊魂を救って下さいね。何故なら、私本当に苦しんでいますから。」

では今からジャシンタの霊性を見てみましょう。このジャシンタの生き方を見ると、ファチマの大切なテーマの1つが見えてきます。

疑いもなく、「地獄のビジョンを見た」という事は、ジャシンタの人生にとって一番大切な時でした。

ところで近代主義は、マリア様と全く反対の事を言います、「あぁ、小さな子供に地獄の火の話などして、恐ろしがらせてはいけません。」

ところでマリア様は、その全く正反対に、この小さな子供たちに、「地獄に落ちて、どれほど恐るべき拷問を受けているのか」という事を、霊魂たちのその失われた霊魂たちの様子を、子供にまざまざと見せてしまうのです。

しかし小さなジャシンタは、「この地獄の火の大海原というのは、罪の結果でしか過ぎない」という事をよく理解しました。ジャシンタが、「その地獄の火の中に多くの人々が落ちている」という現実を見た時にその為した反応は、宣教の態度でした。「『罪』というのはどれほど恐ろしくて、どれほど悪であるか」という事を理解したのです。

しかしそれと同時に、「このような恐るべき罪人にさえも、天主様はチャンスを与えて、憐れみを与えている」という事も見ました。どのようなチャンスを与えたかというと、「このような罪人たちに汚れなき御心を与えて、その汚れなき御心というものすごい手段を通して、その地獄の火から救う、回心させる」というチャンスです。

フランシスコの生涯、或いはジャシンタの生涯、この兄弟姉妹の生涯は私たちに、「一体罪というのは、どれほど恐るべきものであるか」という、この罪の神秘を教える公教要理となっています。

フランシスコは、「天主にとって罪とは一体何であるか」という事を理解させました。

ところでジャシンタは、「罪というのが人間にとって一体何であるか」という事を理解しました。

フランシスコによれば、「罪は、天主を悲しませる。」

ジャシンタは、「罪は、そのように素晴らしく創られた人間の霊魂を破壊する」と理解しました。

罪というのはつまり、「天主を否定する事」であって、同時に「私たちを地獄の火に飛び込ませるもの」です。

「地獄というのは、永遠に続く罪の結果である」という事をジャシンタは理解しました。大罪を犯すという事は、永遠の美である天主を私たちから蹴り出してしまって、その代わりに醜さと汚ならしさを私たちが受け取るという事です。愛を受ける代わりに、憎しみを受けるという事です。大罪を犯す事によって私たちは、天主が下さる平和を蹴り出し、その代わりに苦しみを私たちの心に受ける事です。

ジャシンタは私たちに、決して忘れてはいけない事を思い出させます。「罪は私たちを地獄を引き寄せる。罪は多くの多くの霊魂たちを地獄に引きずり下ろした。罪だけが唯一の悪であって、何故ならば罪は私たちを永遠の破滅にもたらすから。」

この小さな可愛らしい7歳の女の子に、マリア様が理解させた事はこの真理でした。ジャシンタはこの地獄から、この罪の結果から、霊魂たちを救い出そうとする事を学びました。

ジャシンタはエネルギーでいっぱいのデリケートな女の子でした。女の子ですから、困っている人とか今辛い思いをしている人とかに対する、同情とかあわれみの心でいっぱいでした。ジャシンタが行く所にはどこにでも、周りの人に喜びや平和を与えていました。ジャシンタの周りではいつも喜びがありました。

マリア様がジャシンタにお現れになると、ジャシンタは、「永遠の喜びとは一体何か」という事をますますよく理解するようになりました。と同時に、「この永遠の喜びを失ってしまう事の恐ろしさ」についても理解させました。

イエズス様によれば、これこそが真の隣人愛です。「天主を愛する、全てに超えて愛する」という第1の掟の次は、「隣人を愛する」という事です。隣人を愛するとはどういう事でしょうか?

つまり、「隣人が幸せであるという事、隣人が永遠に不幸でないという事を望む事」です。

ところでジャシンタは、霊魂たちが永遠の破滅への道を歩んでいて、今からもうこのまま地獄の火に落ちようとしているのを見ます。そのように、今から地獄に落ちようとしている霊魂たちをストップさせて、「あぁ、あなたたちは全くどうかしている!永遠の幸せから離れて、永遠の苦しみに落ちようとしている!」と叫ぶ事でした。「もしも罪を犯し続けるならば、本当に永遠の悲しみの中に落ちてしまいますよ!」

7歳の子供であっても、マリア様から習った事は、「そのような小さな子供であっても、多くの霊魂たちを永遠の不幸から救う事ができる」という事です。

「祈り、犠牲をしなさい。何故ならば、多くの霊魂が地獄に落ちているから。何故かというと、誰も彼らの為に祈りをする人がいないから。」

「マリア様、私はそのような人たちが地獄に落ちないように、一生懸命お祈りして、一生懸命犠牲を捧げます。」このマリア様の言葉は、小さなジャシンタにとって大きなインスピレーションでした。

もしもジャシンタがそのような事を知らなかったら、その性格から、とても悪い女性になっていたかもしれません。とても魅力的で、とてもエネルギーでいっぱいで、とても美しい女の子でした。村中の人たちがこの女の子の後を追っかけていました。

ジャシンタはこのマリア様の言葉を聞いて、「あぁ、私にはやらなければならない事がある!多くの霊魂を救わなければならない!」とインスピレーションを受けました。

フランシスコは、「天主を慰め、罪によって傷付けられている天主を何とかしてお慰めする」という天主への愛に燃えました。

ジャシンタは、「霊魂が永遠の破滅に落ちてしまわないように、何とかして彼らを救いたい」という愛に燃えました。これは隣人愛であって、これが第2の最も偉大な掟の事です。

フランシスコは、「天主を慰める」という天主への愛に燃えて、聖人になりました。

ジャシンタは、「隣人を地獄の火から救う」という情熱に燃えて、最後の瞬間までその使命に生きました。

このジャシンタとフランシスコがやったこの2つの事は、私たち誰もがこの地上でなさなければならない事です。この地上で私たちが、「あぁ、素晴らしい方だな」と感嘆する人は誰でしょうか?人類の大恩人と私たちが言う事ができるような人々とは誰でしょうか?

私たちの寿命を20年延ばす事ができるような薬を、癒やす事ができた発明をする医学博士は、「人類の恩人だ」と言う事ができるでしょうか?しかし、たとえ私たちが100歳のところを120歳まで生きたとしても、その後死んでしまいます。

でもジャシンタが理解した事は、「私はもっと更にする事ができる。私は、永遠に地獄の火に燃えて苦しむような霊魂を、その代わりに永遠の無限の喜びと幸せへと導いてあげる事ができる」という事を理解したのです。「私はそれができる。何故なら、マリア様が『それはできる』と仰ったから。その為に何をすればよいかをマリア様は教えて下さった。祈りと犠牲をする。」

ジャシンタは小さな女の子でした。一体何ができるでしょうか。まだ10歳にもならないようなジャシンタは、すぐに病気になって、そしてその病気の為にお墓に行ってしまいます。

ジャシンタがその残った人生の間にやった事は、有名な射祷を何回も唱えて、自分の苦しみや悲しみを捧げた事でした。

ジャシンタが亡くなった時に、リスボンの枢機卿がやって来て言った事は、「この小さな女の子がやった事は、世界中の全ての宣教師が合わせて救った霊魂の数よりも、もっと多くの霊魂たちを地獄の火から救った」という事です。

フランシスコは、天主を愛し、天主を慰めるという「観想的な霊魂」だとしたら、ジャシンタの霊魂は「宣教師的な霊魂」でした。

リスボンの枢機卿が言うには、「ジャシンタは、いつもマリア様の近くにいたので、マリア様の現存に生きていた。」

ジャシンタはこの3人の牧童の中で一番小さな、一番可愛らしい女の子でした。しかしその背の小ささにもかかわらず、大きな心を持っていました。ジャシンタはこの世の事、戦争の事とか、共産主義の事とか、ロシアの事などを知りませんでした。知っていたのは、罪人に対して、罪人を地獄の火から救う、「私のかわいそうな罪人たち」の事でした。

大人のように、ジャシンタは苦しみを耐え忍ぶというそれほど強靱な肉体を持っていたわけでありません、小さな女の子でした。しかし、小さな女の子が苦しむ事ができる全ての苦しみを、ジャシンタは英雄的に捧げていました。ジャシンタは救われた霊魂を直接見たわけではありませんが、マリア様が「多くの霊魂を救わなければならない」と仰ったので、それを本当に、その使命に生きました。

ジャシンタの生涯は本当に特別な生涯でした。ジャシンタの生涯は祈りの生活でした。

ここにファチマのまた別のテーマがあります。ファチマは私たちに、「どうやって祈ったら良いか」という事を教えています。マリア様は、フランシスコとジャシンタというこの2人の兄弟姉妹に、「どうやって祈れば良いのか」という事を教えてくれました。

2つの種類の祈りがあります。「個人的な祈り」と「使徒的な祈り」です。

「個人的な祈り」というのは、祈りの基礎にあるもので、私たちの心を天主へと上げる事です。天主を礼拝し、讃美し、感謝する。そして罪の償いをし、必要な御恵みを求める、という事です。これが祈りの定義です。これがフランシスコの祈り方でした。フランシスコはいつも、天主を慰め、礼拝し、讃美していました。

第2の種類は、「使徒的な祈り」であって、私たちが犯した罪ではない、他の人々の罪を償い、その罪の赦しを乞い求める祈りです。

天使が或いはマリア様が、「天主を慰めなさい」と言った時に、そのような祈りは天主を愛する祈りです。

「罪人の回心の為に祈りなさい」と言われた通りに祈った時には、これは使徒的な祈りになります。

天主を信じ、礼拝し、そして愛し、慰めるというのは、第1の掟に対応する祈りです。

隣人の回心の為に、或いは罪の償いの為に、罪の赦しを求める祈りというのは、隣人愛の実践です。

現代の福音化の話をよく聞きます。ところがこれには危険があります。福音化といわれていることによれば、「私たちはどんな行動を起こすか、或いはどんな事業を起こすか」という事に強調が置かれます。

そうする事によって私たちは、活動主義に陥ってしまう危険があります。その議論をしたりとか、話しをしたりとか、或いは何かの活動をしたりとかする、という事に強調が置かれがちですけれども、これが一番大切な事ではありません。

「さぁ、全世界に行って、福音化をしなさい、宣教しなさい」と言った時に、私たちがよく聞くのは、「さぁ、では本を印刷して、チラシを印刷して、映画を作って」という何かそういう活動をして、「だからお金が必要だ」などという話をよく聞きます。

もちろん今朝も申し上げましたように、私たちは多くの人たちに知らせる為にチラシを持ったり、この皆さんに話しかけたり、説明したりする事は大切です。

でもその外的なそういうものだけでは、霊魂を1人も救う事ができないのです。何故かというと、1人の霊魂を回心させるというのは、チラシではなくて、天主の御恵みであって、全能の天主だけがする事ができるからです。

もしもご兄弟の方が、「隣人に善をしたい」と思うならば、この事をよく覚えて下さい。地獄に今落ちようとしている霊魂を天国の方に引き寄せて、天国への道を歩ませるという事は、人間的な手段ではできない事なのです。ファチマのマリア様が私たちに教えている事は、「人間の心の回心という事は、超自然の御恵みだけがする事ができるのであって、この超自然の御恵みを得るのは、祈りと犠牲によるのでしかない」という事です。

聖マキシミリアノ・コルベによれば、「外的な事業、活動というのは、霊魂の回心を準備はさせるけれども、回心そのものはさせない。回心をさせるのは、御恵みである。」

ジャシンタは、チラシを配ったり或いは記事を書いたり、そのような物質的な手段を使う事ができませんでした。しかし彼女は、多くの祈りと犠牲を通して、霊魂たちを地獄の道から天国へと立ち戻らせました。

では、ジャシンタはどうやってお祈りをしたでしょうか?7歳の子供の祈りとは一体何だったのか、どのようなものだったのでしょうか?

これは、ジャシンタがその時に学んだ祈りをただやっただけでした。
「天使の祈り」「多くの射祷」「ロザリオ」でした。

そのそれを死ぬまでずっとやっていたのです。でもジャシンタはとても病気がちで苦しんでいたので、自分で言うには、「もう苦しくてロザリオも全部唱える事ができない」と言ったほどでした。フランシスコも同じでした。病気だったので、もうロザリオさえも唱える事ができませんでした。

では一体、どんな祈りでこの子供たちが聖人になったのでしょうか?子供だったので長いお祈りもできなかったし、病気だったので長いお祈りもますますできませんでした。じゃあ一体どんなお祈りをしたのでしょうか?ルチアは言います、「この子供たちがやった祈りは、本当に短い、小さな、でも心から溢れる祈りだった。」

ジャシンタの一番好きだった射祷はこれです、「甘美なマリア様の御心よ、私の救いとなって下さい。」

ジャシンタはそれを何度も何度も心から繰り返して、時にはその一言だけを言っていました。

ジャシンタはとても苦しんで、病気で苦しんで、苦しんでいる時に、「お母さん、救って下さい。霊魂を救って下さい。私のかわいそうな霊魂たちを救って下さい。」

数年後、イエズス様はシスターコンソラータに現れて、同じ祈りを射祷の祈りを教えます。イエズス様によれば、「自分にとって一番好きな射祷はこれだ」と言います。

「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。」何故かというと、この2つに、2つの愛の掟があるからです。

「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。」これは天主に対する愛です。
「霊魂を救い給え。」隣人への愛です。

この今の非常に切羽詰まったこの時代において最高の手段、私たちが天主の御旨を果たし、天主といつも一致している事ができる、最高の手段を教えてくれました。

もう、皆さん私たちは朝太陽が昇ると、「コケコッコー!」といって、「そろそろ起きるか」というような盲目の時代ではありません。今私たちは飛行機に乗って、電車に乗って、或いはマスメディアがあって、というテクノロジーの時代に生きています。昔は大自然の中に生きて、動物や植物の成長を見て、何時間でも御聖櫃の前に留まってお祈りして黙想する事ができていましたけれども、現代ではインターネットとコンピューターの時代で、私たちはほんの数分もお祈りする事ができないほど、無能になってしまった時代です。

この現代の忙しい、せっかちな、せかせかしている、あくせくしているような時代に、それにもかかわらず、マリア様との深い一致と、天主との一致をする事ができるようなやり方を、祈りの仕方を私たちに教えてくれます。小さな射祷を何度も何度も1日の内に唱えている内に、ジャシンタとフランシスコは大聖人になりました。

もしも若い男の子と女の子がやって来て、「神父様、もう私はもう長いお祈りはできません」と言うとしたら、私は、「その通りだと思います。でもそれにもかかわらず、マリア様は仰っているので、ロザリオは毎日唱えなさい」と言います。でも私が「ロザリオ唱えなさい」と言うと、そのような若い青少年たちは恐れます、「えっ、でもロザリオをうまく唱えられません。」「ファチマの子供たちは、小さな射祷をたくさんたくさん唱えて聖人になりました。やってごらん」と私は言います。

皆さんは車を運転しなければなりませんし、或いは買い物に行かなければなりませんし、或いは仕事をしなければなりません。その時に長いお祈りをする事ができないかもしれません。でも小さな射祷ならば唱える事ができます。

皆さん、夕方になって夕の祈りを唱えなければならない時に、もう疲れ切って、「あぁ、」もう疲れて疲れて、もうお祈りをしようと思ったその瞬間、もう疲れてお祈りもできないという時がありませんか?皆さん、皆さんが病気の時にお祈りをする事がどれほど難しかったかを思い出して下さい。「あぁ、病気でもう頭がガンガンする、熱が出るし、頭がもう風船のように腫れ上がっているし、頭が空っぽになっているし、どうしてもロザリオを唱える事ができない。」

しかしどのような場合でも、どんな時でもできるお祈りがあります。どのような忙しい仕事をしていても、どれほど病気であったとしても、どんな何をやっても、心の中で私たちは、「イエズス様、愛しています。」「イエズス様、愛し奉る。」「イエズス様、」これは言う事ができます。或いは使徒聖トマスのように、「あぁ我が主、我が天主よ。」「我が主、我が天主よ」と

ファチマのマリア様は、そのような小さな射祷が、皆さんを聖人にする事ができると教えています。

皆さんの仕事の真っ最中でも、或いは買い物の真っ最中でも、街を歩いてる時でも、そのような小さな射祷は、天から光を皆さんの霊魂に呼び寄せます。悪魔は夜も寝ずに皆さんを誘惑しようと罪を犯させようと誘おうとしています。そのような時にも、小さな射祷を唱えるだけで、悪魔は退散するしかありません。

皆さん自問自答して下さい。皆さんがいつも一体何を考えているでしょうか?特に周りにいる人が、皆さんに対してちょっと嫌な顔をしたりとか、態度が悪かったりしたら、何を思いますか?どんな反応をしますか?よく怒ります。「あぁ、あいつこんな事を言った!」「あぁ、あんな態度を取った!」「あぁ、あいつこんな事を考えている!」と言って怒ります。「何だあいつは、あんな事をやっている!あんな悪い、本当にもうこの世の中から失せてしまえ!」などと思います。

もしも家庭の一員に対して、誰か何かに対して腹を立てたとしても、私たちにとってどんな利益があるでしょうか?怒るという事は、私たちの平和を、心の平和を失うという事です。心に暗黒をもたらすという事です。天主に対して罪を犯す。怒るという事によって、隣人にどんな善も行いません。

怒る代わりに、マリア様の提案を受けて下さい。誰かが皆さんを怒らせます。腹立たせます。皆さん思います、「でもマリア様の提案は、あぁ、このお祈りしなきゃ。イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救い給え。この霊魂を救い給え。」そして腹を立てる代わりに祈る事によって、天主を喜ばせ、私の霊魂にも平和があり、そしてこの霊魂に本当の善を与える事ができます。

この小さな祈りが、ジャシンタを聖人にしました。ジャシンタの短い人生において、自分自身よりも隣人の為により多くのお祈りをしていました。

「隣人の為に何か善をするという事は、2倍の善を私たち自身にするという事である」という黄金の規則を覚えて下さい。ジャシンタも、幼きイエズスの聖テレジアも、隣人の為に祈る事によって、多くの善を自分自身が受けました。

1951年に、ジャシンタの遺体をお墓からバジリカに移さなければならない時に、多くの枢機卿の方や多くの方の立会いの下でお墓が開かれましたけれども、そのジャシンタの体は腐敗せずに残っていました。

5月13日にこの2人の子供たちは列聖されます。

20時になりましたので、夜の祈りを一緒に唱えます、終課です。


ロザリオの祈りについての三つ折りのチラシのPDFファイルをご紹介いたします

2017年06月07日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ロザリオの祈りについての三つ折りのチラシのPDFファイルをご紹介いたします。

  

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【ダウンロード】ファチマの聖母の御出現についての三つ折りのチラシ(flyer)をご紹介します

2017年06月07日 | ファチマ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 ファチマの聖母の御出現についての三つ折りのチラシ(flyer)をご紹介します。「ダウンロード」をクリックしてご覧下さい。

 

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天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します

2017年06月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、6月7日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。

毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。

交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

聖ベルナルド修練院の教会(フィリピン)で2017年5月13日行われた聖別式・献堂式の動画です

2017年06月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ベルナルド修練院の教会(フィリピン)で2017年5月13日行われた聖別式・献堂式の動画です。





天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ウェストミンスター司教座大聖堂でのニコルス枢機卿によるファチマの聖母像の戴冠式、聖母の汚れなき御心へと再奉献

2017年06月06日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック教会のウェストミンスター司教座大聖堂では、ヴィンセント・ニコルス枢機卿が、ファチマの聖母像の戴冠式を行い、英国を聖母の汚れなき御心に再奉献しました。

同じロンドンのウェストミンスター司教座大聖堂での、2017年4月29日の聖母行列です。






2017年5月13日、ロンドンの聖ジェイムズ・カトリック教会での聖母行列と戴冠式です。




天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アメリカ合衆国にある聖ピオ十世会の聖トマス・アクイナス神学校の動画

2017年06月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アメリカ合衆国にある聖ピオ十世会の神学校の航空動画です。






 ウィノナから引っ越ししたばかりのヴァージニアのトマス・アクイナス神学校の動画です。




天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファチマ2017へ向けて(XV)シュテーリン神父様 【英語原文】 “Towards Fatima 2017” (XV)ー by Fr. Stehlin

2017年06月04日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨の大祝日おめでとうございます!

シュテーリン神父様の著、『ファチマ2017へ向けて(第2巻)』 の英語原文をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

“Towards Fatima 2017” (XV) — by Fr. Stehlin



Fatima is the overwhelming revelation of the greatness of God’s infinite love and mercy towards us poor sinners, illuminated in the mystery of the Immaculate Heart of Mary, His masterpiece. Her HEART reveals and gives to us all that God wants to give to the world, every grace of conversion and sanctification, all virtues, gifts, and inspirations of the Holy Ghost. But Her HEART also becomes the “refuge and the way that leads us to God.” Fatima is the spiritual vessel in which we can return to God and become saints by the faithful practice of devotion to Her Immaculate Heart.

Through the heavenly confirmation and “signature” of the miracle of the sun on October 13, 1917, the essential message of Our Lady was revealed to the world with such overwhelming proof that every man of good will could believe without hesitation. But the history of Fatima is not finished with October 13, 1917. Firstly, Our Lady herself announced the continuation of Her revelations on two essential matters: to explain what precisely is devotion to Her Immaculate Heart, and to demonstrate the importance of consecration to Her Immaculate Heart. Secondly, Our Lady would give Lucy indications of when, how, and to whom each part of the Great Secret of July 13, 1917 should be revealed. Our Lady’s intention to direct the timing and circumstances of the disclosure of the Great Secret must have a very special meaning and spiritual background.

In this second volume we present for your meditation first of all an essential part of the message of Fatima: the life and spirituality of the three children who had the privilege to see Our Lady. Afterwards we will thoroughly analyze the last two great apparitions following July 13th, in which Our Lady taught practices of devotion to Her Immaculate Heart: observance of the five first Saturdays and the consecration of Russia to Her Immaculate Heart. These events together with the spiritual experiences of the three seers will give us lessons of the utmost importance about the great mystery revealed at Fatima: Her Immaculate Heart!

As in the first volume, here also neither footnotes nor references to the sources are provided, but all quotations and information about the events are taken from volumes II and III of Frère Michel de la Sainte Trinité “The Whole Truth about Fatima: Science and Facts.”

Fr. Karl Stehlin
Singapore, October 7, 2016, Feast of Our Lady of the Holy Rosary


PART I: The children — a living commentary of Fatima


The life that the three children led after Our Lady’s appeared to them is an indirect lesson from heaven for us, but a very practical one. It teaches us that when heaven appears on earth, what is of earth is transformed by heaven’s light. When Our Lady appears to a human being, that person becomes a vessel to whom the light and graces of Our Lady are entrusted. The human vessel becomes an instrument for HER to continue to pour Her grace and mercy into the world. We cannot have a full understanding of Guadalupe without Juan Diego or of Lourdes without Saint Bernadette.

Not only is the eye witness testimony of the visionaries important, but also their words and especially their lives. They are the reflection as of a mirror of HER presence on earth!

These living testimonies of HER and HER message are very important for us, because while we cannot see Our Lady Herself, we are able to see the visionaries as reflections of Her. Since the children perfectly applied and realized the requests of Our Lady of Fatima, we can use their example and understanding of Her message as a key to true understanding of the spirituality of Fatima and the deepest intentions of the Immaculate Heart.

We can see how Our Lady chooses very different and even contrasting characters as Her privileged children, and She uses them in different capacities to illustrate various aspects of Her message. Jacinta was a very active little girl, a whirlwind of energy, the liveliest of the three children, one who could captivate and lead the other two. Francisco, on the contrary, was very calm, one could say phlegmatic, loving solitude and reflection. Lucy had all the qualities of a faithful witness: thorough circumspection, excellent memory, a sense for detail and especially a deep sense of honesty.

Let us consider the spirituality of these three children, beloved of Heaven, in turn. We will start, in chronological order of their death, with Francisco, then reflect upon Jacinta, and finally Lucy.

Chapter 1: “to console God” — Bl. Francisco

It is highly significant that Francisco could see Our Lady when she appeared in Fatima, but could not hear Her speak. After each apparition, Lucy and Jacinta had to tell him what Our Lady had said. In this way, Our Lady made Francisco a different kind of witness. Accustomed to contemplation in solitude, he was able to consider in a very deep manner what he had seen, undistracted by the conversation which the other two children heard. He could concentrate entirely on contemplation of the apparition itself. And this was precisely the purpose of Divine Providence. Thanks to this divine plan, Francisco had the deepest possible understanding of the vision itself.

And what impressed him most during the apparitions?

“I loved seeing the angel, but I love still more seeing Our Lady. What I loved most of all was to see Our Lord in that light from Our Lady which penetrated our hearts. I love God so much! But He is so sad because of so many sins! We must never commit any sins again.

“…What is God? We could never put it into words. Yes, that is something indeed which we could never express! But what a pity it is that He is so sad! If only I could console Him!”

The theme of “consoling God” is so predominant in his short life that it became somehow his whole spirituality, the center of his thoughts, words, and actions.

“Francisco, which do you like better: to console Our Lord, or to convert sinners, so that no more souls go to hell?” — “I would rather console Our Lord. Didn’t you notice how sad Our Lady was that last month when She said that people must not offend Our Lord any more, for He is already too much offended? I would like to console Our Lord, and after that, convert sinners, so that they won’t offend Him anymore!

How did Francisco see himself consoling God?

Lucy writes: “He spoke little, and whenever he prayed or offered sacrifices, he preferred to go apart and hide, even from Jacinta and myself. Quite often, we surprised him hidden behind a wall or a clump of blackberry bushes, whither he had ingeniously slipped away to kneel and pray, or, as he used to say, ‘to think of Our Lord, who is so sad on account of so many sins.’

“If I asked him: ‘Francisco, why don’t you ask me to pray with you, and Jacinta too?’ — ‘I prefer praying by myself, so I can think and console Our Lord, who is so sad!’”

But prayer is only one aspect. We can do even more if we try to console God in our sufferings.

From time to time, Francisco used to say: “Our Lady told us, that we would have much to suffer, but I don’t mind. I’ll suffer all that She wishes! What I want is to go to Heaven!”

And Lucy said, “One day, when I showed how unhappy I was over the persecution now beginning both in my family and outside, Francisco tried to encourage me with these words: ‘Never mind! Didn’t Our Lady say that we have much to suffer, to make reparation to Our Lord and to Her own Immaculate Heart for all the sins by which They are offended? They are so sad! If we can console Them with these sacrifices, how happy shall we be.’”

Francisco had personal experience of the things he told Lucy and Jacinta, especially during his long sickness which ended in his death.

“I asked him sometimes: ‘Are you suffering a lot, Francisco?’ — ‘Quite a lot, but never mind! I am suffering to console Our Lord, and afterwards, within a short time, I am going to heaven!’”

He could not imagine heaven as anything other than a place where he could “console God forever.”

“It won’t be long now till I go to heaven. When I’m there, I’m going to console Our Lord and Our Lady very much.”

And his last words: “Yes, I’ll pray. But look, you’d better ask Jacinta to pray for these things instead, because I’m afraid I’ll forget when I see Our Lord. And then, more than anything else, I want to console him.”

When Francisco died on April 4, 1919, his parents declared: “He died smiling!”


Commentary:


1. God — our One and all


It is already evident from the apparitions of the Angel and of Our Lady that the very center of Fatima’s message is God Himself: His glory and the worship due to Him from His creation. The world of today has completely lost the sense of God’s infinite dignity and overwhelming majesty. In reality, every creature is “nothing” before Him, not even like a little drop in an ocean without limits. The history of the world, its existence from the beginning of creation until the end of time, is before His eternity less than a second compared to millions of years. All the saints teach us to be aware that we are like dust before Him and hence they humble themselves as much as they can. This was exactly the most striking mystical experience of Francisco during the apparitions: “What is God? We could never put it into words. Yes, that is something indeed which we could never express!”

He was so absorbed in God’s overwhelming majesty, that in going “to see Him” after his death, he feared to forget the requests of Lucy and the people. We should ask Our Lady for a similar grace, necessary for any true spiritual life and true relationship with God Himself: to be full of admiration for His tremendous glory — propter magnam gloriam tuam — as we sing in the Gloria at Holy Mass, and like the Angels trembling in holy awe before His majesty (Preface of the Mass). The immensity of God makes us understand the total nothingness of all creation and how ridiculous it is when man puffs himself up with his little personality and insignificant history, to consider himself and his affairs the center of the world. This infinite majesty of God is not only a truth of Faith to be considered, but it is also an invitation to participate in God’s greatness, to “be filled with the fullness of God”, as Saint Paul says. Francisco only knew this goal for his life. When asked once what he would become, he always repeated: “I don’t want to be anything! I want to die and go to heaven!” But for him heaven was firstly “to see Our Lord” and to love Him forever. Little Francisco realized to the letter the motto of his holy patron, the great Saint Francis: “Deus meus et omnia — My God and my all!”

2. The only true evil — sin

Seeing God as infinite majesty and endless Love, Francisco understood the real dimensions of sin. Fatima is the catechism of Our Lady, teaching us what sin really is and what are its consequences. Sin is first of all the worst possible insult and the negation of God’s very essence — His bounty, mercy, love. If it were possible, sin would destroy His royal dignity. Sin is a most horrible negligence and ingratitude of creatures perpetrated against their Creator. If we were to receive a very precious gift from a benefactor, it is unimaginable that we would be indifferent or thankless. But it is all the more impossible to imagine that in return for a precious gift we would insult the benefactor, spit in his face, throw him out of our home or even try to kill him. But this is precisely what we do when we sin: at every moment God gives us all that we are and what we have, and we are not only often indifferent towards such an immense love, but we spit in His face and cast Him out of our souls, which are His property. Francisco could not but have the greatest horror when he realized how much we despise this infinite Love, and he exclaimed: “We must never commit sin again.”

3. The “sadness of God”

What is the reaction of God towards sin? Indignation? Annihilation of the world? This would only be just. But on the contrary we stand before an unfathomable mystery of love and mercy! The almighty Lord of Lords lives in eternal happiness, before Whom the whole cosmos is nothing, and yet God’s incomprehensible love for His creatures is like that of a kind-hearted Father who feels a pain of sadness brought on by our ingratitude. This Father goes so far as to deliver His only and beloved Son to death in an expressive act of love greater than fraternal or spousal love, and this Son sheds every drop of Blood from His Sacred Heart for us. His is the love of a sweet friend, a defender and consoler who wishes to remain in our souls forever. It is because our rebellion causes Him sorrow, that Saint Paul exhorts us “not to grieve the Holy Spirit of God.”

The great mystics show us one of the deepest aspects of the mystery of God, the very essence of what it means to say that “God is Love.” To enter into the most intimate depths of HIS MOST SACRED HEART we must consider His sadness and suffering because of our sins, our hardness of heart, and our infamous pride. Already in the Old Testament God spoke through the prophet Jeremiah: “But if you do not heed this warning, My soul shall weep, and My eyes shall run down with tears, because the flock of the Lord is carried away captive.” (Jer. 13:17)

Reparation for this grieved and despised ETERNAL LOVE is the motivating cause of the militant Church until the end of the world, because until then this mystery of iniquity continues to increase from day to day: the satanic effort to dethrone the Eternal King, to reject God as principle and last end of the entire created order. It was not the 33 years of Our Lord’s life on earth alone that was a drama of infinite sadness—“My soul is sorrowful, even unto death”—but even after the Resurrection and triumphant Ascension into heaven, sinners “crucify again for themselves the Son of God and make Him a mockery” (Hebrews 6:6). Until the end of the world, the Crucified Lord will be the symbol of Christianity, especially that Lord in His Eucharistic presence; the renewal and continuation of His Sacrifice on the Cross present on Catholic altars will be the highest and most precious act of the Church; and pious meditation on the abandonment of Jesus and His sorrowful Mother will constitute the very center of the Christian spiritual life.

4. Perfect love of God — to console Him

Our Lady comes to remind the world, that the unum necessarium, the “one thing necessary,” consists in seeking first and above all the kingdom of God and His justice. What is meant by His justice? That we render to God what is due to Him — all honor and glory. That if His majesty is offended by man’s sinful pride, then justice consists in a perfect reparation made to His grieved majesty, in penance, in atonement, and in all acts which re-establish order and truth.

What then is the most perfect response from us poor sinners when confronted with the agony of Our Lord and His cruel Passion? What could be the perfect act of love which God requires of us in His first and greatest commandment? Our Lord himself gives the answer: “I looked for compassion, but in vain, and for someone to console me, and I found none.” The devotion to His Most Sacred Heart is an act of reparation and atonement, having consolation as its very purpose. The loving heart says to Our Lord: “If everywhere You knock at the doors of souls and nobody opens to You, if You are thrown out of society, of institutions, of families and even from Your own churches, if You are lonesome and despised, You the Creator and Master of all: then I wish to open wide my heart, to give You comfort and shelter, to find a poor but heartfelt welcome, where You can lay Your head and find a home. The more they reject You, I want to receive You; the more they forget You, I want to remember You; the more they refuse You, I want to welcome You; the more they turn from You, the more I want to turn towards You; the more they despise Your love, the more I want to honor You; the more they fill Your soul with sadness and tears, the more I want to CONSOLE YOU!”

There is no more perfect form of love from a poor sinner than this act of consolation! It addresses the horror of sin with a supernatural remedy: love for God Who is offended by sin. It is an act of authentic love. If I were to repent of an insult to a friend, my return to love cannot be as simple as “I love you,” as though there had been no injury. The first act of love repairing for an insult must be sorrow for inflicting sadness on one’s friend, and this sorrow implies a burning desire to restore one’s friendship and offers consolation to the offended affection.

Our Lady chose the little children in Fatima to help us understand that, while the exterior acts of a person are important, the desires of one’s heart are more so. Little Francisco was not able to live the life of a heroic missionary or of a contemplative monk; he could only offer his simple prayers and sacrifices, as Saint Veronica could only present a wet cloth to Our Lord in His torture. Exteriorly these things are nothing, but interiorly there is a supreme gesture of love which merited for Veronica to become a saint and to have the Holy Face of the Suffering Christ impressed not only on the linen cloth, but more importantly within her very soul. And who among us is unable to imitate the simple acts of a little child in order to console Our Lord and Our Lady in their sadness at seeing so many souls go astray?

Francisco was not a contemplative religious, but his life and example were a deep and simple guide for all contemplative souls who want to live exclusively for the glory of God. Moreover, because the world denies God His due honor and glory, there is a need to make reparation. The contemplative life is a life of Love, and the first act of love is to be with the beloved, to contemplate him and live always in his presence. The second act of love is to repair the offense by a movement in a direction opposite to that of the offense, a movement of consolation.

When will this devotion to consoling Our Lord be complete? Never! Francisco made a thought-provoking statement: “When I’m there (in Heaven), I’m going to console Our Lord and Our Lady very much.” The reality is that in Heaven GOD will be our infinite consolation, our eternal light and perpetual peace, and at the same time His almighty and ineffable mercy will allow us to console Him and to give Him a special joy for all eternity. Even if the sadness of sin will not remain in eternity, the essence of the love of consolation on the part of the creature retains its meaning: the thankful heart of a child who wants to give joy to his Father and Mother and “consoles” THEM with his smile and a burning flame of love.

Conclusion

Through Francisco’s example in his life and death, Our Lady reminds us of the greatest commandment and gives us a means adapted to this sinful age to LOVE GOD again with all our heart. The devotion of CONSOLING GOD can inflame in an incalculable number of Catholics a burning love of God in our time of widespread religious indifference and hatred of supernatural truth. The ability to give consolation is a great encouragement for us poor sinners, that in spite of our misery we can really love God more and more, and our love can be active, not empty words.

Is not the Immaculate teaching us through Francisco the most profound manner of prayer, namely Her own? Indeed, in Her boundless compassion under the Cross, Her prayer was directed to consoling Her Son. So we too must find a few moments in which to be alone with Christ exclusively to console Him, by the simple act of standing with Our Lady under the Cross. While contemporary man no longer has time for the God Who created him, and is so indifferent that he finds it boring to spend an hour with Christ, we at least should show our love for Our Lord by having a little time for Him to console Him with a loving presence and compassion. But what is the outcome of such an effort? This too is demonstrated by the example of little Francisco: in a very short time his love for God had reached a high degree of perfection, and a few months later he was already allowed to see the Immaculata forever in heaven.

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