自分の口にいとも高き者の、つまり天主を置いて冒涜するよりも恐ろしいものは何もない。(言葉を続けて)全ての罪は冒涜と比較するならばより軽い罪となる。(nihil enim horribilius blasphemia, quae ponit in excelsum os suum. ... omne quippe peccatum comparatum blasphemiae, levius est. )
なぜかというと、冒涜は、天使よりもはるかに聖なる天主であり創造主である天主を直接に屈辱するものであるからです。天主に反するものであるからです。しかし、殺人はどれほどおそろしいものであっても、被造物に対するものであるからです。しかも、冒涜を行う人は天主の名誉に危害を加えようとすることを意図しているので、絶対的な意味では、冒涜者は殺人者よりも重大な恐ろしい罪を犯したことになります。(II, II, q13, art 3 ad 1)
ただ祈り方がよくなかったことを指摘しているのです。おそらくいつも思っていることを、主よと呼びかけて「祈り」にしたのでしょう。何が悪かったかというとイエズス様は言います。自分を義人と信じて、他人をさげすんでいた(in se confidébant tamquam iusti et aspernabántur céteros)からだと。何を意味しているかというと、ファリザイ人は善行を自分に帰していました、自分だけの手柄にしていました。自分があまりにも素晴らしいということを感謝していました。しかし、実際は、当然なことをしていただけです。電気料を払った、水道料を払った、だからと言って特にえらいというわけではないでしょう。
聖アウグスチヌスは、傲慢ということを分析して、見境もなく高揚を望むこと (De Civ. Dei xiv, 13)であるといっています。あるいは、また別のところではこうも言っています。傲慢というのは天主を真似ようとする秩序のない望みである (De Civ. Dei xiv, 13; xix, 12)、。もちろん天主のようになる、ということはできないと分かっているので、天主を真似ようとして、事実上天主の地位を奪ってしまうことです。つまりどういうことかというと、天主のもとにある被造物、天主のもとに従うのではなくて、天主が被造物に対して持っている絶対の支配権を自分のものとして横取りしようすること、それが傲慢です。
どういうことかというと、傲慢というのは、全ての悪徳の中で最も悪い最悪のものなので、……なぜ最悪かというと、最も高い地位に人あるいは最善の地位にある人々でさえも傲慢になってしまう危険がある、あるいは、最も聖なる行為・あるいは有徳な行為からも傲慢が生じてしまう危険があるが、しかしその傲慢はあまりよく察知されていない、人が傲慢になっていることをあまりよく知らないでいるので、……ちょうど 賢い医者が、悪い病気を治すために、患者があまり危険でない病気に陥るのを許すことがある、そうすることによって、より危険な病から癒そうとすることがあるといいます。そのような賢い医者のように天主は、傲慢を癒す薬として、他の様々な罪に陥ることを許される、そうすることによって、あっ、自分はなんと愚かで惨めな者だということがわかるように謙遜となるように、と説明しています。(II, II, Q.162, art 4. ad 3)