新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

「平和の白いハト」・・・「英雄たちの選択」から

2024年09月25日 | 歴史
NHKBS「英雄たちの選択」からの要約です。

1945年8月15日にラジオから天皇の声が流れて間もない19日、GHQからの要請で、この白い飛行機がマニラに向かって飛び立ちます。

マッカーサーが日本の降伏手続きのために飛行を認めたもので、軍用機から戦闘部分を切り離して白く塗り、緑十字を印したものです。マッカーサーが「平和の白いハト」と呼んだとか。

この「ハト」は、敗戦を認めようとしない交戦派からの手痛い妨害を掻い潜り、沖縄の伊江島で米軍機に乗り換えマニラに到着。これが8月19日のこと。

会談後、GHQの重要書類を携えて、ギリギリの状況のなか危険な不時着事故に遭いながらも、どうにか東京に帰り着いたのが20日。
スムーズにいけばGHQの「無血進駐」。手違いでもあれば「直接軍政」の危機に陥ります。使節団はこれを恐れました。

マッカーサーの先遣隊が到着する直前、交戦派により厚木飛行場は手がつけられないほど荒らされて使用できない状態に陥りますが、8月28日にどうにか先遣隊を迎えることができました。

そして8月30日、あのコーンパイプのマッカーサーが降り立ちました。
そして9月2日、ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われ、第二次世界大戦の終息が宣言され、戦争の完全な終結の儀式は23分で終わりました。

ここまで時間的にも息詰まるような展開でしたが、ここからまた過酷な試練が始まります。あまり知られてない事実なのですが。

ミズーリ号での調印の日の午後4時、鈴木九萬(ただかつ)は本部移転の話し合いのためにGHQへ。
話し合いの後、鈴木はGHQが日本政府を経ずに翌日「三布告」を発表することを知って大きな衝撃を受けます。

「三布告」とは、
①直接軍政を行い、公用語が英語 
②GHQの命令に違反したら占領軍の軍事裁判にかける 
③米軍が発行する軍票を使用する(軍票は軍が発行するお札で市中で使用します。日本軍も占領地で軍票を使っていたので、その弊害と混乱に恐怖心を持っていました)

この告知のために用意されたポスター10万枚が既に各部隊に配布され、軍票は3億円分が米軍の手中にあると。

この情報をすぐさま外務省に持ち帰ったのが午後6時、重光たちと計り午後8時に緊急閣議。
「三布告の撤回」要求を決め、深夜にさんざんマッカーサーをを訪ね回りますが会えず、やっとのことでマーシャルが奇跡的に面会を受け入れてくれました。

軍票は日本経済を混乱に陥れ、ひいては国の治安を乱し、GHQの占領にも打撃を与えかねないと、日本側は丁寧に説明し「三布告」の撤回を要求します。
この熱心できちんとした説明はマーシャルの心を動かし、翌日の布告の発表を中止することを受け合います。

翌朝9時に重光と鈴木はマッカーサーに面会することができました。マッカーサーは熱心に彼らの説明と要求を聞いて、自分の権限で全部取り止めると確約しました。
そして、マッカーサーは「GHQは日本政府と日本国民の協力を得て、立派に占領を果たしていきたい」と述べたのです。

間一髪、こうして、10万枚のポスターは、国民の目に触れることなく処分されたのです。
ひとつ間違えば「直接軍政」に陥った日本。
直前の直前で「三布告」を撤回させたこの歴史的偉業、外交の手腕はほとんど知らされることはありませんでした。

7年間に及ぶGHQの占領期間はありましたが、分刻みの日本側の動き、あの深夜の撤回要求が失敗していたら「直接軍政」に・・・。日本はどんな道を歩いていたのか、と考えただけで背筋が凍ります。


敗戦直後の大混乱の中で、日本が大きく動き出した象徴が、命がけのあの緑十字機の飛行だったのです。





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