NHK朝のドラマ「カーネーション」の主役が交代して1週間。
まったく別のドラマになってしまったと感じているのは私だけだろうか。
夏木マリに違和感があるわけではない。
しっかりと主人公糸子の晩年を演じているし、娘たちの配役は変わらないし、セットも時代が経過したとしても基本的に変わらない。
そういう意味では「カーネション 晩年編」にしっかりとなっているのだ。
ところが、これも当たり前だけれども夏木マリと尾野真千子は別人だから、いくら尾野真千子の糸子が年を取ったからと行って夏木マリの糸子に変身するのは無理がある。
例えば、
「オレが年取ってポール・ニューマンになったらどうするんだ」
と家族に話したら、
「アホかいな」
と相手にされないのがオチなのだ。
しかし言うなれば朝のドラマはそういうことをやってしまったわけで、視聴者に想像と創造のストレスを与えるという、なんとも罪なことをしでかしたと言われても仕方あるまい。
主役が別の役者によって演じられるというのはドラマや映画ではよくある話。
6月に公開される「スパイダーマン」の新作は、主役をはじめすべてのキャストが刷新。
ストーリーも第1作のリメイクに近いもののようだ。
日本でもあの「水戸黄門」でさえテレビドラマでは東野英治郎や西村昇、里見浩太朗、石坂浩二らによって演じられたが、いずれも別シリーズ。
私の大好きな「鬼平犯科帳」も松本白鸚、萬屋錦之介、丹波哲郎らによって演じられた。
ところが、そのシリーズで素晴らしいはまり役が出てくると、その俳優と主人公が一体化して他の役者が演じると妙な印象を受けてしまう。
吉右衛門の鬼平が定着化した今、かつての丹波哲郎バージョン、錦之介バージョンに違和感を感じるのは、その一体化効果のなせる技だ。
フーテンの寅さんに至っては渥美清以外は考えられないキャラクターになる。
結論から言って、やはり今回の朝ドラは老け顔にしにくくとも最後まで尾野真千子に演じてもらいたかった、というのが結論ではないだろうか。
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