<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地



「みなさ~ん!鳥取県がどこにあるのか、知ってますか~!」

先週、ある交流会に参加すると鳥取県職員の方がマイクを掴んで質問した。
鳥取に近いここ大阪でも「鳥取ってどこ?」と知らない人が少ないないという話が出たのだ。
なんでも、

「松江市って鳥取でしたっけ」

といったものや、

「鳥取は大阪から5時間はかかる遠い街だ」

といった印象が少なくなく、県の発展を著しく阻害しているという。
高速道路が通じていない県庁所在地が鳥取市だけというのも原因だったかもしれないが、それも近々に解消されて、大阪からも電車に乗らずに3時間程度で行くことができるようになるというのだ。

傑作な意見は「鳥取市は島根県ですか」という質問があることだそうで、こうなると地理の教育に何らかの対策が必要なんじゃないかと思わないこともない。

先日、スターフライヤーに乗って秘密結社鷹の爪のアニメを見ていると、いつものように「島根県」の名前が出てきたので、そういうことを思い出したのだ。

10年ほど前まで、私は仕事で時々鳥取に出かけることがあった。
たいていは自分で自動車を運転して出かけるのだが、高速バスやJR線で行くこともかなりあった。
いちばん楽で乗り心地のいいのがJR。
カニ弁当を食べならが乗ると、これが最高。
価格の安いのは高速バス。
安くても「白バス」ではなく、日本交通の運行する豪華バス。
自分で運転すると、途中、制限速度40km/hの国道でネズミ捕りに引っかかって泣くはめになってしまうこともあるので、よろしくない。

ということで、今年は漫画博も開催される鳥取県。
隣の島根県と温泉が多いことでも有名なので、久しぶりにでかけてみようかと思っているところだ。

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「ふぉふぉふぉふぉふぉ~。久しぶりにスターフライヤーを利用したぞ、吉田くん」
「総統はいつもANAじゃなかったんですか。」
「ANAのチケットだったじゃが、機材がスターフライヤーだったんじゃ」
「さすが総統ですね。マイルを貯めるためには他のエアラインに乗るときもANAで。値段が高いにもかかわらず、そのまま乗っちゃうんですね。でもボクはANA嫌いです」
「何でだね、吉田くん。」
「ANAは島根に飛んでません」

というような感じで、先日大阪~東京の移動では、最近はいつもANAだったが久しぶりにスターフライヤーを利用した。
スターフライヤーを利用したといってもチケットはANAで、たまたま利用した機材がスターフライヤーだったのだ。
マイルが溜まったのは言うまでもない。

このスターフライヤー。
飛行機のデザインがなかなかなのだ。
飛行機としてはタブーであった「黒」を貴重に、シックでエレガントにまとめられている。
機体外装も黒。
フライトアテンダントのユニフォームも黒。
革張りのシートも黒。
各シートには国際線用シートよろしく液晶テレビやUSB端子が装備されなかなか豪華。
ちなみにトイレットペーパーも黒というのだから徹底している。
使用しているA320という中型機種は着陸時の車輪のショックが大型機並みに柔らかで乗り心地は悪くない。
ただひとつ、気に入らないところは機体のメーカーがエアバス社だということだ。

正直、人よりもコンピュータ優先の設計を刷るフランス人の作った飛行機には乗りたくないのだ。

ところで、スターフライヤー。
国内線にも関わらず液晶画面でテレビや映画を楽しめるのが特長だ。
以前利用した時は本当に映画を上映していて、わずか50分のフライトの大阪~東京間でどうやって終わりまでみるのか、疑問に感じたことがある。
その時は予想通り、途中で「最終の着陸態勢に入ります」となってしまったので、ラストはおろか後半も見ずじまい。
なんとかコンテンツを工夫してもらいたいものだ、と思っていたら今回「秘密結社鷹の爪」がラインナップされていたので、相当よろしく喜んだのであった。

秘密結社鷹の爪はもともとTOHOシネマズのマナー映像で初めてみたのだったが、その後JR西日本のマナービデオになっていたのだ。
一昨年、映画版を見に行った時も、それなりに楽しんだのであったが、JRのマナーポスターがなぜかハクション大魔王になっていたので大きく落胆していた頃に、スターフライヤー版鷹の爪を発見。
十二分に楽しませていただいたのであった。



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私にとって全然知らない芸人さんだった猫ひろし。
オリンピック出たさに日本国籍を捨ててカンボジア国籍を取得したのは良いけれど、取得して1年以上経過した事実もなければ、住んだこともなかったというお粗末さ。
その結果、「あなたには出場する資格がありません」と相成った。

昨日報道されたこのニュース。
あちらこちらで大いに話題になっていた。

「もう、日本に帰ってこなくていいから」
とか、
「がんばってカンボジアの土になってください」
とか書き込まれているサイトもあって散々だ。

たぶん猫ひろしという人の「国籍感」というのはいい加減で、こんなことになれば日本人にすぐにでも戻れるとでも思っていたのではあるまいか。

このようなことは大いに問題にしてもいいのではないかと思える。
というのも、今、日本人の国家意識、国籍意識が極めて希薄で、それを原因とする様々な弊害が起こっていると思われることが多々あるからだ。
「愛国心」がタブーな言葉であるように教育した日本教職員組合の負の功績でもある。

たとえば最近は電気製品でも日本のメーカーは総崩れで、パナソニックもソニーもシャープも巨額の赤字を出している。
この赤字の原因は不毛な国際競争と高機能、高品質なのにガラパゴス化している日本のプロダクトの今がある。
これとは反対に韓国、台湾といういわばかつて「ミニ日本」と言われた国々のメーカーがブランド力も無いのに世界に製品を拡販し、日本製品を駆逐している。

その台湾・韓国のメーカーの基礎力は日本人によるものであることをなぜか新聞もテレビも問題にしない。
日本メーカーを耐蝕したベテラン技術者が金に釣られてこれらの国のメーカーに技術を伝授、もとい、流しているのだ。
ここには「個人」はあっても「国」はない。
「自分で開発した知恵と技術を他人に売って何が悪い」
というのはへ理屈で、それで自分の国が疲弊したら、道徳的には立派な国家反逆罪だ。
つまりここには猫ひろしと同じ構造が存在する。

ということで、猫ひろしの騒動を見て、日本人も自分の国籍についてもっと真剣に考える機会になればいいと思っている人は多いのではないだろうか。
国籍を考えないのは恥ずかしいと。
ついでながら、
「永住外国人に選挙権を。」
といった考え方や、
「日本人の国籍を取得したから太陽光発電で一儲けしようと企んでいる」
なんて携帯電話会社を経営する実業家なんかは愚かしいと気づけば、なおベターといったところか。


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関越自動車道で発生したバス事故以来、運転手あたりの運転距離が話題になっている。
なんでも600数十km以上は2名はまた途中交代で運行することになっているらしい。
事故を起こしたバスは法的には交代要員を必要としない距離を走っていて事故を起こした。
だから、「距離の見直しが必要だ」という。

不毛だ。
実に不毛なのだ。

距離をどうこうするというよりも、運行方法と運転手の健康管理状態の問題ではないのだろうか。
事故を起こした運転手は日雇い。
普段は別の仕事をしていたという説もあり、要は働き過ぎで睡魔に襲われ事故を起こしたというわけだ。
こんな運転手、距離に関係なく事故を起こす可能性がある。

国交省がグダグダ言っている距離と睡魔の関係など、お役人の責任逃れと思っているのは私だけだろうか。


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いま、中学2年生の娘が夢中になって読んでいるのは手塚治虫の「ブラック・ジャック」。
私が中高生の時に買い求めていたコレクションを一生懸命に読んでいるのだ。

もともとブッダという映画が公開された時に映画を見る代わりに、これも私のコレクションだった手塚治虫の「ブッダ」を読ませたのが娘が手塚漫画にハマるきっかけとなった。
ブッダを読み終わった段階で、娘自身がブッダと同じ本棚に並ぶブラック・ジャックを見つけたのだった。

多分、「ブラック・ジャック」の後は「三つ目がとおる」や「火の鳥」に移っていくのだと思うのだが、一番の驚きは手塚漫画を通じて私と娘が話題を共有できることが面白い。

ブラック・ジャックも全巻の三分の二を読み終わったところで、

「今までで何が一番面白かった?」

と聞いたところ、予知能力のあるラルフという犬が登場する回がとりわけ印象に残っていると答えた。
犬好きの娘なのでさもありなんだが、その話の触りを聞いただけで、私がストーリーを話したので、

「ええ!覚えてるん?」

と、娘は驚きと尊敬の眼差しで私を見つめるのであった。
私世代の手塚ファンならこのあたりのエピソードは何度となく読みふけっているので、だいたい記憶しているというのが「普通」なのだ。

私がブラック・ジャックに夢中になったのも、娘と同じ中学生の頃。
それまでは手塚漫画よりもむしろ赤塚不二夫や永井豪、藤子不二雄の子供向けギャグマンガがお気に入りだったのだが、長ずるとともに手塚作品が最もお気に入りとなった。
今でも「陽だまりの樹」「きりひと讃歌」「ムウ」「火の鳥」は時々読む作品で、正直これらを超えるマンガ作品は後にも先にもお目にかかったことがない。
浦沢直樹でも、高橋留美子でも敵わないのが漫画の神様、手塚治虫の魅力なのだ。

その手塚治虫の数々のエピソード、それもマンガのエピソードではなく、ブラック・ジャックが少年チャンピオンに連載されていた頃に実際にあった話を、今の当事者たちに取材して、それをドキュメンタリーマンガにまとめたのが「ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事の現場から」(秋田書店刊 吉本浩二作画 宮崎克著)なのであった。

ここではブラック・ジャックを連載していた頃の手塚治虫に関わるいくつかのエピソードが紹介されている。
当時から、手塚治虫のマンガ執筆の伝説は耳にしていたが、実際にこれだけの神業が展開されていたなんて、読者側のこちらは全く知らなかった。
例えば、
手塚治虫は1作品を描くためには必ず3つのエピソードを用意。その中から適切なストーリーを選択して完成させていた。
とか、
海外出張時でも人と合う時以外は機内の中でもホテルの中でもマンガを描き続けていた。
なんてエピソードは、神様というよりも執筆の鬼を感じさせる凄みがある。

全編を通じて言えることは手塚治虫の創作エネルギーはとてつもないものであって、マンガの神様はそのエネルギーをもってこそ神様と言われる存在になっていた、ということに気付かされることだ。
手塚治虫は天才であっても、単なる天才ではなく、努力とエネルギーの塊の人であったわけだ。
この作品を通じて学んだ最も大きなことは、今の日本人にはこの努力とエネルギー、貪欲さ、そして持続力が無くなっているということ。

今回もまた、ひとつひとつのエピソードを読むごとに、なにかしら感動を覚え、涙する。

手塚治虫が死去して二十余年経った今も、漫画の神様は違った形で私達に勇気と夢を与えてくれるているのだった。
これは感動のドキュメンタリーマンガなのであった。
文句なしの5つ星だ。

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私は生まれも育ちも大阪の大阪人なので、当然のことながら京都にも友人が多い。
京都へ行った回数も数え切れないが、観光で行ったことは数回しか無く、"るるぶ"に書かれているようなスポットを訪れたり、グルメを楽しんだりすることは皆目ない。
いわゆる灯台下暗しなのだ。
従って「おばんざい」なんて食べたことはなく、だいたい「おばんざい」とは何なのか、まったく知らなかったのだ。
尤も、知らない間に食べていたことも考えられ、

「あんた、アホかいな」

と指摘される可能性があるが、それはそれ。

実は先日、京都四条河原町の小料理屋さんで、「おばんざい」なるものを食べる機会を得た。
私の会社の京都の事務所はいっちょ前に四条河原町にあるのだが、いつもはコンビニ弁当かすき家の牛丼、王将の定食を食べているにも関わらず、この日は夜みんなで、河原町通を少し西入ったところにある小料理屋を訪れたのであった。
これには費用の一部は会社負担というラッキーな背景があった。

で、ここで「おばんざいです」と何やら食べ物を出されたのだ。

「おばんざい? これがか.....」

と、初めて見るおばんざいを見て失望をしていた。

「これのどの部分がおばんざい?」

と訊ねそうになったのであった。
かなり恥ずかしい質問のようだが、事実なので告白しておきたい。
それは3つの小鉢にお惣菜がチョビっとづつ入れられた「見栄えは非常に良好だが量が極めて少ない」京都らしい食べ物なのであった。

私は今でもどちらかというとガッツリ食べたい系のオッサンで、ちびちびした食べ物よりも、どどどど、と出てくる食べ物がいいのだ。
小料理屋も京都よりも大阪のほうが断然いいように思う。
初めて見た「おばんざい」は量の上では幕の内弁当のオカズだけを小鉢に入れて「どんなもんじゃい」と言われているようで、いたって不満足なのであった。

もしかすると中居のおばちゃんが、
「おばんざいどす」
と言わずに、
「おばんざいです」
と言ったのには、もしかすると大阪者と侮り故意に京都弁を話さなかったのかも知れず、そういう大阪者に繊細な京料理を出すよりも幕の内弁当のオカズでも出しとけとばかりに、京都人独特の中央意識のもとに扱われたのではないか、とも思ったのだ。

しかし周囲の人達の話によると、これはなかなかのおばんざいで、京都らしい良質のものなのだと説明され、無理やり納得したのであった。

ただはっきりしたのは「おばんざい」というのは「Oh!万歳」でも「田舎者向けの京都土産」でもないということだった。
私はこのおばんざいをチビリチビリやりながら、「おいしいな」と思いながらも「しかし、食べながらもハラ減ったな」と京都を噛み締めたのは言うまでもない。

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昨年来、急速に民主化の進むミャンマーに全アジアの注目が集まっている。
少なくとも、私からの注目は集まっているのだ。

当ブログの読者の皆さんにはお気付きのかたもいらっしゃると思うのだが、私は外国旅行の目的地ではミャンマーが一番のお気に入りだ。
仕事の交流会でも、
「ミャンマーは好きな外国ですね」
と話すことが多く、その都度、
「ミャンマーって、どこです?」
という質問が返ってくる。
「ミャンマーですよ、ほら、旧ビルマ」
「ああ、あの竪琴の....。で、どこにあるんです?」
「タイの西隣、インドの東ですよ。」
「へー。変わったところに行くんですね。」
と、このような会話が交される。
知っているようで知られていない国。
それがミャンマーなのだ。

最近は毎日のようにミャンマーに関するニュースが流れるので、どこにある国なのかを知っている人の人口は増え続けていることと思うのだが、それでもまだ十分と言えないところがある。

先日もある交流会で大阪の公的機関で中小企業の海外進出を支援する仕事をしている人と話しをしていたら、
「ミャンマーに視察団を送ります。」
「そうですか。ビザは大阪で取れるのご存知です?」
「ええ!ミャンマーって、観光ビザ必要なんですか?」
と呑気なことを言っていたくらいまだまだマイナーな存在だ。

このミャンマー。
インフラは東南アジア最低といってもいいぐらい劣悪だ。
停電は当たり前。
列車に乗るとダイヤはあってなきがごとし。
乗り心地はトランポリン状態。
エアコンはおろか冷蔵庫のない飲食店も少なくない。
当然コンビニはない。
食べ物はタイやベトナムのようには美味しくない。
高原地帯のシャン州を除いてむちゃくちゃ暑いし、日系のエアラインは飛んでいないし(秋からANAが成田から飛ぶ)、ちょっと想像してみただけでもマイナス要素が少なくない。

ところが、私にとってはお気に入りのタイやベトナムよりもさらにお気に入りな国なのだ。
さらに、今後の日本と東南アジアとの関わりを強固にするためには、知っておかなければならない国だ、と少なくとも私は思っている。
単に観光で訪れる素敵なところ、というよりも色々と感じ、学ぶことのできる場所なのだ。

その理由は、多くのポジティブな要素に彩られている。
人口7千万人で乏しいながらも識字率は高い。
石油、石炭、銅、ダイヤモンド、ルビー、ウランなど天然資源が豊富。
これらは既に中国が手を出し、欧米が手ぐすね引いて狙っている。
しかも次が決定打なのだが、ミャンマーは日本に非常に友好的な国の一つなのだ。
トルコ、ノルウェー、ミャンマーは世界三大新日国という情報もあるくらいだ。

先の世界大戦では17万人の日本人将兵がミャンマーで亡くなったが、戦後、賠償請求を最も速く妥結してくれたのがミャンマーだった。
しかも、破格の保証金で妥協してくれて、その他の国との補償交渉を非常にやりやすくしてくれたというのも、ミャンマーのおかげ。
勝利した日露戦争の借入金よりも敗戦した第二次世界大戦の借金の方が早く返せた要因の一つがここにある。
学校では日本人が教えてもらっていないミャンマーと日本の関係なのだ。

しかも人情味溢れて暖かく、ほんわりした人々。
物静かで怒らない。
但し、起こると怖い。
上座部仏教を基本とした仏教的感覚が、一昔前の古き良き日本人と極めて酷似しており、なんとなく安らぎを感じることさえある国民性は付き合っていて決して日本人にとってマイナスにならない。
むしろプラス面のほうが遥かに多い。
他の東南アジアの国々同様、タッグを組んで、政治的、経済的に様々な活動をしていくのにぴったりの国でもあると、くどいようだが、少なくとも私は思っている。

これまでは軍事政権の悪評で、経済制裁が科せられていた為、日本政府も日本企業も自由に活動を行えなかった面がある。
資金援助もコソコソっと行なっていたのだ。
バガン方面の緑化支援も、ミンガラドン国際空港の新ターミナルも、JRの中古車両も。
ミャンマー政府が原因というよりも、欧米諸国の目を気にして行えなかったのが、いささか情けないところだが、それはそれ。
これからは豊富な人材と豊富な資源、そして日本との繋がりを武器に、様々な方面に展開しなければならないのだ。

ということで、ミャンマーへ行こう!

そんなところで、ミャンマーに関する数少ない書籍のうち「ビルマに暮らして」(勁草書房)佐久間平喜著は絶好のミャンマー入門書と言えるかも知れない。
情報がかなり古い。
しかし著者の佐久間さんは外務省の外交官でミャンマーに長期勤務していたという、なかなかいそうでいない人材だ。
外務省に入省してマンダレーの大学に留学した人はそういないのではないか、とも思える人だ。
ネ・ウィンによる独裁政権時代から、軍事政権の時代にわたり、この国の政治、経済、文化、人に非常に精通している。
貴重な情報満載だ。
私のような6回程度しか渡航歴のないバックパッカー的一般旅行者では知りえない、または感じえないミャンマーの姿を伺い知ることができる。
今、読むべき一冊なのである。

なお、本書はアマゾンでは扱っていないようで、直接に勁草書房へ注文する必要があるようだ。

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講談社プラスアルファ新書「日本は世界一の環境エネルギー大国」(平沼光著)を読んで思い出したのは、先日のソーシャルデザインカンファレンス(大阪)でのトークセッション。
東京造形大学の益田文和先生の、

「プリウスが100万台売れた、と言う時点でプリウスが本当に環境に優れているのか疑問になります」

という言葉。

環境性能に優れている製品を開発しても、それが大量に消費されたらホントに環境に良いのかどうか疑ってみる必要がある。
確かにプリウスが100台売れることと、マークXが100万台売れるのとではプリウスが売れたほうが環境負荷は少ないはず。
でもそれは比較論の話であって環境性に優れているものが100万台売れると、それはある意味環境破壊なのかもわからない。

昨年の震災以来、省エネが叫ばれて耳にタコが出来るぐらい「節電を」と呼びかけられているが、人口減少、経済停滞しているのに、どうして消費電力は増え続けたのだろう。
その一点に焦点を絞っても、具体的な解答は新聞、雑誌、テレビ、ラジオを通じて何一つ報道されることはない。

煌々と明かりが照りつけるコンビニ、ショッピングモール、深夜スーパーにパチンコ屋。
生活スタイルの変化とともに、電気を使わせる機会をたくさん与えているからに違いない。
テレビの深夜放送や昼間放送の休止をしたら、消費電力がグググと下がると言われている。
しかしテレビは売上が下がるのを警戒するので、そんなことは実現させたくない。
マスメディアはコンビニの看板照明は批難しても、自分ところの放送時間や内容については「報道の自由」「報道の社会性」を盾にして批難を受け付けない。
社会は都合によって白黒付けたがるのだ。

環境エネルギーにしても同じ事で、例えばメタンハイドレート。
メタンハドレードは海の底に沈んでいる油田と考えてもいいわけで、これを採掘して燃やしたら、やはりそれなりの環境リスクは絶対に現れる。
それを、
「日本の近海にはメタンハイドレードが大量に埋蔵されていて」
というのも経済的にはかなりの魅力だが、環境エネルギーとしてはいかがかとも思ってしまう。

「日本は世界一の環境エネルギー大国」
そう声高に叫ぶのは、経済面からも、技術面からも議論の必要のある分野だと思うのであった。

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子供の頃、日清のチキンラーメンを生のままポリポリ食べては叱られたものだ。
あの濃い~味。
口の中でジワ~と染みだしてくる味わい。
チキンラーメンはラーメンとしてだけではなく、おやつとしても絶品のインスタント食品なのであった。

先日実家へ戻ると、チキンラーメン味なるポテトチップスがお菓子入れの上に置かれているのを発見!
「なんと、ポテトチップスのチキンラーメン味」
さっそく味わってみなければならないとばかりに封を開け、食べてみたのであった。

正直感想としては、チキンラーメンの味を味わいたければ、チキンラーメンそのものを齧るなり、お湯を注ぐなりするのが正解だ。
ポテトチップスはやはり「のりしお」が一番。
チキンラーメンの味は微かにするが、やはりポテトの味が勝ってしまい、期待した味とはいささか異なっていたのが残念であった。

しかしメーカーの湖池屋さんは勇気あるバリエーションを生産したものだ。
ライバルのカルビーとしのぎを削り、勝利を得るためには国民的インスタント食品チキンラーメンとタッグを組む。
なかなかできないことではある。

ということで、味はいまいちだったがパッケージの袋はなかなかであったことを報告して置かなければならない。

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