萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第59話 初嵐act.4―side story「陽はまた昇る」

2013-02-02 09:28:53 | 陽はまた昇るside story
夜に聴き、晨に想い



第59話 初嵐act.4―side story「陽はまた昇る」

デスクライトの蒼い部屋、テノールの声が温かい。

「ちょっとした知り合いは俺、山関係は多いしね、」

携帯電話を越えて伝わる声は、今朝も聴いたばかりなのに懐かしくなる。
まだ12時間も離れていない声、それなのに隣で聴けないことが遠く想えてしまう。
いつも隣に話していた声に、切ない想いが胸から熱いけれど英二は穏やかに笑いかけた。

「話せる相手、いるんなら良かったよ。もしかして同期とか?」
「教場は違うけどね、アッチは大卒だしさ、」
「じゃあ4歳上ってことか、」

何げなく頷いた年齢差に、光一との年次差が改めて隔てる。
自分とは同齢の光一、けれど大卒任官と高卒の間には4年の差が開く。
けれど年次差だけが立場を分けるのではない、そこに「能力」の実力主義がある。

―光一は今、警視庁山岳会のトップクライマーだ。もう後藤さんよりずっと、

心想う現実に、そっと溜息がこぼれだす。
山ヤの警察官として最高、そう後藤が言われるにはクライミングとレスキューの実力がある。
けれど後藤のカルテには禁煙を示すドイツ語に添えられた「Les poumons」の意味に、逃れられない現実を見た。

―後藤さん、たぶん肺をやられてる。もう、冬富士も危ないかもしれない…だから光一の異動も決めていたんだ、世代交代を急ぎたくて、

溜息の向こう側、敬愛する山ヤの現実が哀しい。
人は誰しも必ず老いて死ぬ、その摂理に警察医助手としても向き合ってきた。
だから後藤の身体がみせる異変は当然だと納得している、この異変が光一と自分の異動を決めた要因だとも解る。
もう時は待てないのだと運命を動かしていく、その跫を見つめる電話越しにテノールの声が笑った。

「ま、いちばん話した相手は隣人だけどさ?ちょっと涙を閉じこめてる訳アリの奴がね、イマイチ解ってないってカンジ?」

いちばん光一が話した相手は周太だろう、そして「涙を閉じこめてる」と光一は言う。
その「訳アリ」を解ってないのは誰なのか?この問いかけに鼓動が叩いた。

「…え、」

こぼれた声の向こう、穏やかに明るい気配が微笑む。
この微笑が言いたい事はなんだろう?そう聴きたい想いにヒントが投げ込まれた。

「マジなら独り占めしたいってのが本音だろが?ソレ言えない理由ってのがさ、お相手が溺れ死にしそうで浮き輪が必要だからだね?」

何を独り占めしたい?お相手は誰だ?何に溺れて死にそうで、浮き輪は誰だ?

―もしかして周太は?

透明な声の謎かけに、大切な名前が鼓動する。
この名前のひとは今、なにを本当は求め想っているのだろう?

「いいかい?浮き輪に縋ってるよりね、自力でクロールした方が速くゴール出来んだろ?ゴールがドコなのか見失うんじゃないよ、」

ゴールは、いつも帰りたい居場所。
浮き輪は自分への救援、それを周太は光一に託してくれた。
そんな周太の優しさに縋りつくように、アイガーの夜を光一の体温と肌に溺れこんだ。
自分にとって光一は「山」に見つめる憧憬の結晶、この想いごと抱きしめた夜は幸福で離したくない。
それでも「縋りつく」と「共に生きる」ことは大きく違う、そして自分の居場所に帰るために選ぶことは何だ?
そう問いかけに廻らせていく心へと、透けるよう明るい声は笑ってくれた。

「ほら?俺たちはね、一秒後にご指名されたって行かなきゃなんないね?だから、ホントに大切な声から聴いときな、イイね?」

本当に大切な声は、いちばんに聴きたい声は誰?
そう響いた想いから静かに、自分の真実が溜息と微笑んだ。

「ああ、…そうだな、」

本当にそうだ、この今すべきことを自分は読み違えてしまった。
さっき光一に自分は、男なら仕事と夢を優先するべきだと告げた。
けれど自分にとっては仕事も夢も、この命を生きることすら全てが唯ひとりの為にある。

―周太がいなかったらダメな癖に俺、何をやってるんだ?

唯ひとり、唯ひとつの想いに自分は生きている。
最高峰に懸けた夢、山ヤの警察官の誇り、そして「山」への憧憬と最高の山ヤを慕う想い。
その全てが自分の真実で生きたい世界、けれど唯ひとつ帰りたい場所を喪ってしまったら世界は色褪せる。

「ごめん、光一、俺っ…」

名前を呼んで詰まってしまう、こんな自分の弱さに謝りたい。
唯ひとりを喪うことが怖くて離れる時間が不安で、もう一人の大切な存在に縋りかけている。
どんなに光一を憧れ、愛し、想って抱いても、結局は自分勝手に光一を独りにして周太の許へ帰りたい。
こんな身勝手さを知りながら光一はアイガーの夜、周太の託した願いごと抱かれて体温で向き合ってくれた。
その全ては光一が自分で選んだ選択、だけど光一が傷ついていない筈がない。

―光一はずっと雅樹さんだけ見つめてきたんだ、それを解ってたのに俺は、

解っていた、それなのに自分は何をした?
あの場所で光一が抱かれたいと願ってくれた、その理由は何だったのか?
あの夜、この全てに気づくべきだった。ヒントは充分に見てきた自分なのに、何も気づいていなかった。
こんな鈍感を自分に赦したのは身勝手な脆弱、この自責を呑みこんだ向こうから穏やかなトーンが微笑んだ。

「こっちこそ、ごめんね?さっさと気づけなくってさ、赦してくれる?」

気づかなかったのは、自分の方。

天才クライマーの孤高に誇らかな自由、その全てに自分は憧れる。
そんな光一の姿は何が造り上げたのか、そこにある哀切と愛惜の祈りを気づけなかった。
そんな自分にアンザイレンパートナーの資格があるのか、対等な親友だと呼びあうことが出来るのか?
この疑問が自分を責めて傷んでいく、その痛覚すらも絆と信じたい想いのまま、唯一のパートナーに微笑んだ。

「…あたりまえだろ?俺のほうこそ…ゆるしてよ、」

この傷を生涯背負うから、どうか赦してほしい。
この願いに閉じた瞳から熱こぼれて頬を温める、瞼の俤に透明な瞳が見つめ返す。
どこまでも明るく真直ぐな瞳、あの眼差しが自分は好きで恋をして、抱いて傷つけた。
それでも光一との夜を後悔なんてしない、アイガーの窓に抱いたのは幸福と真実だったから。
だから今も愛しくて、あの瞬間たちに涙が微笑んだ向こうから、光一は笑ってくれた。

「お互いサマって言ってくれるんならね、俺たちホントに相思相愛の親友ってカンジでイイね?」
「親友だよ、」

微笑んで即答できる、この絆が大切だから。
光一とは様々な感情で繋がってきた、その一つを選べと言われたら迷わない。
たとえ嘘があろうとも信じあえる繋がり、その信頼は誰より深い相手に英二は微笑んだ。

「何があっても変わらないって俺、信じてく…大好きで憧れて、俺の世界の全部だ、ずっと一緒に山に登ってたい、」
「よし、約束したね?」

ちゃんと応えた約束に、信じられると笑ってくれる。
そのトーンが嬉しくて微笑んだ向こう、率直な声は言ってくれた。

「あのさ、俺の相手を全員嫉妬するってオマエ言ったよね?でも、雅樹さんと周太は仕方ないって言ってくれたの嬉しかったよ。
雅樹さんのこと生きてる人と同じに想ってくれて、そういうの解ってくれるんだって俺、本当に嬉しかったんだ。ありがとね、」

生まれた瞬間を抱きあげ世界に迎えて、生きる意味と誇りを名前に籠めて贈り、深い愛情に育んでくれた人。
そんな存在をもつなら幸福だろう、けれど喪ってしまえば幸福の分だけ傷は深く、苦しいに決まっている。
この苦しみごと深い恋慕を、愛し続ける永遠の意味を、自分はどれだけ解っていたのだろう?

―すみません、雅樹さん。あなたの大切な光一を傷つけたのは俺のせいです…でも後悔は出来ません、

雅樹への贖罪を想いながら、けれど後悔なんて出来ない。
この本音あふれだす涙のまま笑って、正直な想いを言葉に変えた。

「俺も嬉しかったよ、光一に話すのは俺の独り言と同じだって言われて嬉しかったんだ、本当に俺を光一の世界だって想われてるって。
俺と愛し合いたいのは周太だけじゃない、そう言ってくれて嬉しかった、俺…ほんとうに周太以外に抱きたいって想えるの光一だけだよ、」

ふたり見つめあえた時間の全てが愛しい、その想いのままに生きる涯まで忘れない。
それが周太への裏切りでも偽れない真実を抱いている、その全てが雅樹への贖罪に泣いても離せない。
どんなに不道徳と言われても自分の真実は変えられない、ただ想う恋愛に涙こぼれた微笑へ透明な声が笑ってくれた。

「ありがとね、でも今は浮き輪を放りだす時だろ?さっさと自力で泳いじまいな、」

早くした方が良い、一秒でも速く心は伝えた方が良い。
そう笑ったアンザイレンパートナーの声に、呼吸ひとつで英二は笑った。

「おう、明日は9時半ごろ電話するな?おやすみ、光一、」
「おやすみさん、またね、」

明日は、またね、そんな言葉と電話を切れる。
また共に時間を見つめ合う、この約束が単純に嬉しくて携帯電話を握りしめる。
そんな自分の掌に、ふっと熱い雫が落ちて心の聲が言葉になった。

「でも愛してるんだよ、俺は…狡いって解ってるんだけど本当なんだ…ごめんな、」

本音つぶやいて、独りの空間に消える。
もう光一の意志は解かった、けれど自分の意志は自分で解からない。
ただ想いは瞳あふれて頬を伝っていく、この涙が感情の聲を呼んで唇こぼれた。

「ごめん、ほんとうは…愛してほしいんだ俺のこと、どうしても…ずるいって解ってる癖に離せない…」

今、自分の傍には誰もいない。
この孤独に弱さが露呈して傷が剥きだしになる、充たされない餓えが心を灼いて傷む。
本当に身勝手な怯えが今も泣いてしまう、その狡さに自分で呆れて、けれど苦しくて縋りたい。
それでも現実に今は独りきりのデスクライト青白い部屋、ただ心が素直に照らしだされ静かに泣く。

「はなせない…でも雅樹さんだけなんだろ、光一?」

つぶやく聲に、北壁のハーケンが指先に蘇える。

太陽が射さない冷厳の北壁、そこで金属は本来なら凍える。
けれどマッターホルンでもアイガーでも、抜き取ったハーケンは冷たくなかった。
あの不思議に「雅樹」の体温を想った、それは抱いた光一の体からも気配となって優しかった。
だから自分には解ってしまう、光一には雅樹が「唯ひとり」その絆は時間が経つほど気づかされていく。

―生と死に別れたって想い続けるのは、それだけ雅樹さんが光一を大切に出来たからだ、

唯ひとりを大切にする、その無垢な真摯がまぶしい。
山に医学に夢を懸けて努力して、唯ひとり光一を大切に護って生きていた。
そんな一途な生き方は悔しいほど憧れる、その憧憬は北壁の時間から前以上に深く心にある。
だからこそ光一を抱きたかった、光一に憧れて、雅樹に憧れて、ふたつの憧憬を共に抱きしめ愛して知りたかった。

雅樹のように生きられたなら?

もう幾度そう想っただろう、憧憬と羨望に雅樹の背中を見てきただろう?
いつも伝え聞くたびに雅樹の姿は鮮やかで、ひたむきな努力と願いが輝かしい。
自分が持てる全てを発揮して雅樹は生きていた、その生涯は短くても光に充ちている。
それは穏やかに優しく純粋で、けれど強靭な意志の力が揺るぎない。そんな曇りない強さが自分も欲しい。

「…雅樹さ、ん、あなたみたいに、俺だってなりたい…っ、ぅ…」

嗚咽を呑みこみ、けれど涙は拭わない。
こんなに泣くほど自分は弱い、その弱さに今夜は向き合ってしまいたい。
どんなに強がっても、どんなに微笑んでも、この涙に消えない孤独は冷たくて弱い。
それでも超えたい、雅樹のよう潔癖に一途な生き方を自分も選んで生涯を駈けたい。

―こんなに弱かったら誰も護れない、夢なんか叶えられない、だから…自分を変えたい、

こんな自分を変えたい、ひたむきに強く生きてみたい。
それなのに周太を喪う孤独が怖くて怯えて、光一に縋ってしまう弱さが疎ましい。
それでも二人への恋愛は嘘じゃない、真実の想いが自分に電話を切らせて独り泣くことを選ばせた。

―きっと光一は独りで泣いたんだ、きっと周太も、だから俺も独りで泣けば良い、

心つぶやく事に、唇噛みしめる。
ふたりは独り泣いて苦しんだ、その傷みが切なく愛おしい。
だから自分も独り泣いて苦しんでしまいたい、ふたりの傷みを理解したい。
この痛覚すら向きあい呑みこんで強くなりたい、そう願うまま英二は履歴の番号を発信した。

―周太、愛してくれるんなら電話に出て?もし少しでも想ってくれるなら、

祈る想いのまま、コール音に瞳を閉じて願う。
自分は酷い男だと解っている、周太の苦しみを解かりきれない自分が疎ましい。
だから電話に出てくれなくても仕方ない、そう想いながらも諦められなくてコールを聴いている。
もう話してくれないだろうか、もう逢えない?そんな臆病な想い微笑んだとき、通話が繋がった。

「…っ、周太、」

名前、呼んだ瞬間に傷が裂ける。

ゆっくり閉じた瞳の奥から熱が滲みだす、優しい声を求めてしまう。
懐かしい声、大好きな声、なにより大切な声を聴きたいと涙こぼれていく。
光一と雅樹に泣いた頬へと新たな熱が伝う、ただ濡れて竦んだ心へと穏やかな声が微笑んだ。

「お帰りなさい…出張おつかれさま、声を聴けて嬉しいよ?ありがとう、」

お帰りなさい、ずっとそう言ってほしかった。
この聲を聴けた喜びに、幸福と罪悪を見つめて英二は笑った。

「ただいま、周太…っ、…」

愛しい名前に嗚咽を呑みこんだ、その涙に電話の向こうが温かい。



逢いたい、君に。

そう心が叫んで、瞳が披く。
開かれた視界に天井は薄暗い、けれど暁の気配は明るい。
ゆっくり溜息ひとつ吐いて起きあがる、軋んだベッドに独り座りこんで溜息と笑った。

「…馬鹿だな、俺、」

そっと笑って振向いた窓、カーテン開けた向うに稜線が昏い。
まだ夜が支配する山嶺の翳、けれど太陽の萌芽かすかに明るんだ空は4時くらいだろう。
そう見当つけてベッドサイドのクライマーウォッチを見、今日も正確だった時間に微笑んだ。

―ちゃんと時間、解かるんだな、こんなときでも、

こんな今の自分は幾らか、心あふれて鎮まらない。
昨夜に架けた2つの電話、そのどちらでも自分は泣いていた。
もう泣かない、そう決めて初任総合最終日の朝、警察学校の中庭で涙は眠らせた。
けれど昨夜はみっともないほど泣いてしまった、それも護りたいと誓った二人を相手に電話越しで。

「情けないな、俺って…でも仕方ない、か…」

昨夜の自分は情けない、けれど泣いた目覚めは快い。
そんな自分に「仕方ない」と笑える程度には、今の自分は強くなった。
まだ雅樹には程遠いと解っている、それでも昨夜より今の方がマシな顔だろう?

「急には無理だけど…焦らず一歩ずつ、な?」

ひとりごとに笑って立ち上がり、着替えとタオルを持つと英二は扉を開いた。
まだ薄暗い廊下に非常灯が碧い、水底のよう密やかな静寂を歩いて脱衣室に入り、灯りを点ける。
いつものよう全て脱ぎさり肌をさらして、浴室へ入るとシャワー栓の「水」を全開にした。

ざああっ…

音と冷感が頭上ふり、水が全身を覆いだす。
クールダウンしていく意識に目覚めが起きる、涙の残滓が拭われる。
降る水に髪かきあげ顔から雫に冷えてゆく、急激に鎮まりだす頭脳は思考へ動き出す。

―早朝訓練、朝飯に戻って診察室、御岳駐在、巡回は大岳も…昼はボルダリング、午後の巡回は御岳のみ、書類は…

今日1日を組立てる予定を、心に復唱する。
こうして水をかぶると肌から心が鎮まって冷静になる、それが1日の無事になる。
今日はハイカーが多いだろう、良く晴れた夏休み期間だと初心者も多いから、登山道巡回は気を付けたい。
そんなふう廻らせていく思考に鎮座した意識が笑って、シャワーを止めると脱衣所に戻り着替えた。
私服の登山ウェアパンツにTシャツを着、ざっとドライヤーを髪にあて半分乾かしていく。
そうして簡単な支度を整えて、自室に戻るといつものよう登山ザックの中身を確認した。

「救急セットも…中身、OKだな?」

指さし確認で生真面目なチェックを済ませ、救助隊服も入れてザックを閉じる。
そのまま背負い上げて登山靴を履き、ウェアのブルゾンをウエストに締めてポケットに触れる。
布越しに小さな守袋の輪郭をなぞりながら廊下へ出、足音を隠して懐かしい扉の前に立った。

―いつもは俺がドア、開けられてたんだけどな?

この部屋を支配していた昨日までの住人、その明るい声と笑顔に逢いたくなる。
いつも隣で笑いあえた日常は幸せだった、あの時間は1ヶ月後に蘇えるだろうか?
そんな未来への願いに静寂と微笑んで、抑えたノックで扉を叩いた。

…コツコツ、

すこし待って扉向うの気配を聴く。
それでも開かないのに軽く頷くと、英二はポケットから針金を出した。

―光一、よろしくな?

製作者に微笑んで、鍵穴へ針金を挿しこんでいく。
教わった通りに操作していく手許、かすかな手応えに開錠音が鳴った。

「よし、」

小さく笑って静かにドアノブを回し、開いた扉から中へ入る。
その空間は昨日と気配が違う、この現実に笑って英二はルームライトを点けた。
そうして明るくなったベッドの上、がばり驚いた貌が起きあがって瞬いた。

「…は?」

状況が解らない、そう日焼けした顔が途惑う。
なんだか無防備な表情が可笑しい、それを少し堪えながら英二は綺麗に笑いかけた。

「おはようございます、原さん。朝の自主トレに行きます、すぐウェアに着替えて下さい、」

告げた言葉に鮮やかな眉を顰めて見上げる、その眼差しが「不満」を言う。
けれど勝手に踏みこむと、ザックと登山靴を出して容赦なく指示で笑った。

「速く支度してください、救助要請が来たときも原さん、そんなにノンビリしてるんですか?」
「…おい、なに勝手に部屋へ入ってんだよ?」

不貞腐れた声が疑問を投げる、そんな様子もなんだか可笑しい。
自分より1歳上で5年先輩の原、それなのに大きな子供のようで微笑ましくなる。
こういう子供の世話は初めてだな?そんな感想に笑って英二は笑顔で答えた。

「遠慮なく教えてくれ、そう昨日おっしゃいましたよね?だから遠慮なくやります。早く着替えて下さい、1時間半しかありませんから、」
「は、…なるほどな、」

溜息まじりに呟いて立ち上がり、原は着替え始めた。
言ったからには実行する、そんな挑戦の強気が背中から燻りだす。
素早くウェア姿になった原と廊下へ出て、黎明時の官舎を歩いて駐車場へ出た。
まだ暗いアスファルトを歩いて四駆に乗りこむ、その助手席でシートベルト締めながら不機嫌な声が訊いてきた。

「こんなこと、月に何回やってるんです?」
「ほぼ毎日です、用事があれば休みますが、」

さらり答えた事実に、浅黒い顔が振り返る。
その視線に微笑んでエンジンキーを回し、ミラーを確認すると運転を始めだす。
すぐに青梅署の駐車場を出て、薄暗い町を映したフロントガラスから剽悍な目が問いかけた。

「いつも独りでやってる?」
「昨日までは2人でした、私のアンザイレンパートナーとね、」

笑って応えた隣、日焼顔がすこし感心する。
そんな素直な反応もなんだか楽しくて、穏やかに微笑んでハンドルを捌いていく。
昨日までは本当に愉しい時間だった、けれど今日も愉快になる可能性はいくらだってある。

―1ヶ月、出来るだけ笑って色んなこと教え合って、向きあえたらいい、

1ヶ月、この男と自分はパートナーを組む。
それは職務上の引継ぎが目的だ、けれど今のようプライベートも時間を遣う。
あと1ヶ月しか引継期間が無い、この1ヶ月を効率よく遣って教えなくてはいけない。
そして自分も出来る限り、原が元所属していた第2小隊の実態を教わりたい。

―第2小隊のこと話してもらうには、どう切り出したらいいかな?

考えながら指を伸ばし、カーステレオの再生スイッチを押した。





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K2補記:波濤、瓦礫の結晶

2013-02-02 03:38:00 | お知らせ他
研かれる無垢と光、



K2補記:波濤、瓦礫の結晶

磯で波洗われる、ガラスの欠片です。

ガラス石なんて子供の頃は呼んで、幼馴染とコレを拾うのが好きでした。
濃いブルーは貴重、白も水色も好き、緑もキレイ、そんな会話をしたもんです。
これらの多くはガラス瓶が割れた物で、波よせる砂に研磨されて石状になっています。
正体は壊れたガラスの破片、けれど遥かな海の砂に洗いぬかれて光を宿している。
そんなガラス石は、困難にこそ磨かれ輝く人間の姿とちょっと似てるなあと。

今回の第59話「初嵐K2」で光一は、英二との夜に傷ついた本音を語っています。
けれどその傷は只の痛覚ではなくて、本心を浮き彫りにする為に刻まれた軌跡です。
雅樹への想いは懐旧なのか、幼い自分の甘えだったのか、それとも真実の想いなのか?
その本心を削りだしたのは、アイガー北壁を前にする一室で英二に抱かれた全てでした。

命ある人間のなかで最も信頼し「惚れた」相手だからこそ、哀しい記憶ごと自分を投げ込めた。
それは自棄でも自愛でもある決断で、誰もが傷つくと知りながら懐を信じ、甘えようとしています。
その結果は三人とも傷ついて、けれど三人がそれぞれに研きだされた真実と本心がある。
この研磨された想いが今後、どんなふう物語を紡ぎだすのか?
もう周太と光一は各ラストに伏線があります。

けれど英二については暈したまんまです。
このアタリを今晩予定の英二サイド「初嵐act.4」に書きます。
それが終わると第60話です。

さっき第59話「初嵐K2・9」は加筆校正が終わりました。
最終話「10」は校正を少ししたら終了です、その前に呼応する極短編UPしちゃいましたが。笑






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