芳蹟、その真実ひらく鍵
第61話 塔朗 act.1―another,side story「陽はまた昇る」
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man :
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.
私の心は弾む 空わたす虹を見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを
「…子供は大人の父、」
夜明け時、デスクライトのページに復唱こぼれて周太は微笑んだ。
ウィリアム・ワーズワスの詩「My Heart Leaps Up」別名「虹」としても親しまれている。
この詩を父は愛唱していた、そして今、自分にとって殊更に好ましく想えてしまう。
そんな想いに願うよう心は、穏やかに希望を呟いた。
…ほんとうに人生を森林学で結ぼう、最期は必ず…なにがあっても諦めない、
幼い日に夢見た樹医の道、そこに辿り着く切符を自分は持っている。
けれど現実に今ここで座るのは警視庁第七機動隊舎、その付属寮の一室にある小さなデスクだ。
この場所に座ることを自分で選んで、そのために10歳の春から精一杯の努力を積んできた。
それでも心が呼ぶ未来の道は「自然への畏敬」幼い自分が持っていた全てを指す。
…お父さん、必ず約束は果たすからね?今ここで警察官でいても、この先、あの場所に行っても諦めないよ?
記憶の父に笑いかけて、今ひろげている本のページにふれる。
この本を父はずっと愛していた、それが発行年月日と発行所の地名から解かる。
父の指が30年以上ずっと繰ってきたページ、その想いを辿るよう周太はページを捲り呟いた。
「…1966年、London、」
父が7歳の年に発行された本は、英国の首都で作られている。
この由縁を知ったのは1ヵ月前の葉山、英二の祖母である顕子の言葉だった。
―…晉さんは東大の仏文科の教授をされていたわ、パリ大でも名誉教授よね…晉さんオックスフォード大学に招かれて、
4年間むこうで暮らしたの。それで馨くんも一緒にイギリスに行ったのよ…斗貴子さんが亡くなって四十九日が済んでから、
母を亡くした父は、父子ふたりきりで渡英した。
そしてこの本と出会い、大切にして30年以上を毎日のよう読み続けている。
こんなにも父がこの本を愛した理由、それは何だったのだろう?
…お父さん、英語も綺麗だったけどラテン語も上手だったね?俺の採集帳にラテン語でラベルを書いてくれて…あ、
心で父に話しながら、ふと違和感に引っ掛る。
そういえば父は、どうしてラテン語を身に着けたのだろう?
そんな疑問に考え込んだ意識に、ふっと幼い記憶の言葉が優しく微笑んだ。
―…ラテン語はね、周、学問の言葉として遣われているんだ…だから採集帳のラベルもラテン語で書こうね、
「…学問の言葉として?」
呟いた言葉に、祖父の人生が蘇える。
祖父は仏文学者だった、ならばラテン語も知っていたかもしれない。
それなら父がラテン語を身に着けた理由は、祖父と同じ目的だった可能性がある?
…お父さん、英文学の学者になりたかった?
問いかけが響いた心、納得が肚に落ちる。
書斎を充たすフランス文学、ドイツの専門書が少し、そして数冊の英文学書。
英文学書は10冊にも満たない、けれど宝物のよう保管して父は大切に読んでいた。
そのたびに父の横顔は幸福と哀切が交ぜ織られた微笑ほころんだ、あの貌の理由が納得できる。
…あんなに英文学の本が好きなのに少ししかないのは、処分しちゃったんだね?お父さん…
父は本を大切にする人だった。
だから処分するなら誰かに譲るなり図書館に寄贈しただろう。
その寄贈先として考えられるのは普通、地元の図書館か母校だろう。
けれど川崎の図書館に寄贈書があるならば、とっくに自分は気づいているはずだ。
…だったらお父さんの母校にあるはずだけど、
けれど父の母校を自分は知らない、その無知にも父の理由があるだろう。
そう廻らした考えに、書斎にある1冊の本の謎がすこしだけ姿を顕わしていく。
『Le Fantome de l'Opera』
紺青色の表装が美しい、ページを切り取られた本。
あのページを切った断面は、父が愛用したアーミーナイフの切断面と似ている。
それくらい自分にも解ってしまう、あのアウトドア用ナイフを今使うのは自分自身だから、考えてしまう。
“どうして父は本を捨てずに、ページの大半を切り取ったのだろう?”
祖父の遺蔵書だから捨てられなかった、それは納得できる。
けれど切られたページには、父が切り取りたかった理由が必ずある。
その理由がずっと見えなかった、それが「ラテン語」がヒントになって現れていく。
…切り取られたページは「Fantome」が出てくる部分だった…まるで「Fantome」の存在を物語から消したいみたい?
なぜ父は「Fantome」の存在を消したかったのか?
その理由が「ラテン語」父が英文学者になりたかった夢と関係あるとしたら?
そして父が学者になる夢を描いた場所、父の母校はどこだろう?
…普通に考えたら、お祖父さんと同じ学校に行きたいよね?あんなに読み書きも話すのも出来たし…なんでも良く知ってた、
父に聴いて解らない事は無かった。
いま記憶喪失が癒えるまま思い出す父は、ハイレベルに博学で教え方が巧い。
あの学識は父が学者志望だと考えれば納得がいく、それだけの能力も意志もあったのだろう。
きっと祖父と同じ大学に父は入学した、それなのに父は警視庁の警察官になって自ら命を絶つよう殉職してしまった。
…どうして好きな英文学の学者にならなかったの?どうして殉職するほど追い詰められたの?お父さん
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky …
So be it when I shall grow old Or let me die!…
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.
父の最期は、この詩に殉じたよう想えてしまう。
まだ理由は解らない、けれど父が「虹」文学書に心弾ませていた姿を知っている。
その歓びが消えるとき父の心も息絶える瞬間なのだと、いまアルファベットを見つめ想ってしまう。
それならば父が殉職を選んだ理由は「虹」が消えたことなのだろうか?
…お父さんにとって虹が、英文学への夢が消える原因ってなに?もう学問の世界には戻れないってこと?でも、どうして…
哀しみが謎から生まれて、心が軋んで今日の予定を考え直す。
おそらく午後には父の真実の姿と、ひとつの欠片に会える。
けれど父に消された「Fantome」は、何の意味を示すのだろう?
朝食の膳を見ても、吐き気は起きない。
第七機動隊に異動して10日すぎ、新隊員訓練の期間も終わって少し体が楽になった。
けれど精神的プレッシャーはある意味で大きい、就いた任務の実像はやはり重たく感じてしまう。
…銃器は人殺しの道具なんだ、それが違うなんて無い…どんな目的でも実像は変わらない、
そっと心つぶやきながらトレイを運ぶ、その視界で手が挙がった。
見ると銃器対策レンジャーの先輩が手招いてくれる、その明るい空気にほっとして食卓に向かった。
「おはようございます、松木さん、箭野さん、」
「おはよう、湯原。今日って大学だろ?」
気さくな笑顔で松木は席を勧めてくれる。
その隣に座ると周太は二人の先輩へと頭を下げた。
「はい、17時には戻ります。配属したばかりなのに、すみません、」
「謝ることないよ、俺も夜学に行ってるから気持ち解かるしさ。話しながら食おうよ、」
笑って箭野が醤油さしを取ってくれる。
素直に受けとりながら周太は聴いてみたかったことを尋ねた。
「箭野さん、大学の二部に通っているんですか?」
「ああ、東京理科大の理学部に通ってるんだ。今4年生だよ、」
答えながら箸を動かす笑顔は、愉しげに明るい。
きっと好きで学んでいる、そんな雰囲気が嬉しい横から松木が笑った。
「二人とも偉いです、ちゃんと勉強しようなんてさ?俺なんか勉強するの嫌だから、高卒で就職したのに、」
「それじゃあ松木、初任科とかの座学は大変だったろ?」
「その通りです、ほんと昇任試験とかヤバいです、」
朗らかに松木は笑いながら皿のトマトを口に放り込んだ。
その視線が向うに気がついて、手を挙げた。
「本田と浦部さんです、同席イイですよね?」
「おう、いつも一緒だろうが?」
可笑しそうに笑った箭野の隣、山岳救助レンジャーの二人がトレイを置いた。
いつもの親しい挨拶を交わして座ると、浦部が穏やかに微笑んだ。
「湯原くん、だいぶ馴染んだ?」
「はい、ありがとうございます、」
微笑んで答えながら前に座った貌に、つい懐かしい俤を見てしまう。
日焼うす赤い白皙の笑顔は端正で、涼やかな眼差しが思慮深く鎮まっている。
さほど顔立ちは似ていない、けれど雰囲気が似ているようで慕わしい。
…英二、今頃は青梅署で朝ごはんかな、藤岡と新しい人と、
懐かしい人を想い、これから数時間後の再会を考えてしまう。
今日は大学で時間の合間に英二と会う、それは遠征訓練の直前に会って以来3週間ぶりになる。
こんな久しぶりに少し鼓動が速くなってしまう、けれど緊張は「久しぶり」な所為だけじゃない。
英二と光一はいわゆる一線を越えた、その夜を超えた後の初対面が今日だという緊張が強ばらす。
…今の英二は俺のこと本当はどう想ってるの?電話で話しても目が見えないと解らない、光一の気持ちもあるし、
光一とは異動して10日間ずっと顔を合わせ、夜毎に話し一緒に勉強する時間がある。
そんな時間に光一の真実を見つめ、すこしずつ気がついていくことが多い。
けれど今も訊けない事がある、それは英二に何を想わすだろう?
『俺が帰りたい所はね、いちばん君が知ってるよ?山桜のドリアード』
光一が帰りたい「誰か」は、あの山桜に関わる人。
それなら英二でも美代でも無い、あの山桜を知る人を自分は光一の他は知らない。
けれど自分が知らない「誰か」が山桜を知っている?また考え廻らせかけたとき本田が尋ねてくれた。
「湯原さん、あれから盗聴されてる感じとかありますか?」
声に顔をあげると、笑顔でも本田の目は真剣でいる。
この一週間ほど前にあった盗聴事件は、山岳救助レンジャー第2小隊には懸案だろう。
その現状と真相の違いに心軋ませながら、周太は感謝と微笑んだ。
「特に気がつかないです、」
「なら良かったです。あれから七機全体で警戒してますし、今のとこ大丈夫そうですね?」
本田の言葉に浦部は頷いて、何げなく周りへ視線を走らせた。
ごく普通のしぐさという空気、けれど眼差しの奥に思慮が鋭く深い。
それが似ていてまた鼓動が敲かれる、ほっと小さな溜息に微笑んだ隣から松木が声を低めた。
「あの盗聴って、やっぱりターゲットは国村さん?」
「他に考えられないだろ、うちの小隊長って幹部候補の下馬評ダントツだしさ?」
答える本田の声が深刻のなかにも、上司への信頼と誇りが明るい。
その響きに光一が部下の心を掴んでいるのだと解かる、それが嬉しくて微笑んだ前から箭野が訊いた。
「そういえば今の第2小隊長って、国村さんと知り合いだって聴いたぞ?」
「うん、そうだと思うよ?」
さらり答えて、浦部が微笑んだ。
白皙の手に丼を持ちながら、穏やかな声は教えてくれた。
「警視庁の山岳レンジャー同士だったら合同訓練で顔も合わせるし、お互い顔見知りが多いんだ。特に国村さんって有名だしね、」
「そうなんだ、でも国村さんってまだ若いよな?」
「うん、高卒6年目の警部補だよ。でも山のキャリアはトップクラスでさ、それなのに話しやすいよ?」
箭野の質問に答える浦部の貌も、明るい誇りがある。
そんな浦部は光一より2歳年長で山の実績も高い、それでも褒めるのは余程なのだろう。
改めての認識と箸を動かしながら少し心配になる、これでは英二の立場は容易ではないだろう?
…光一の評判が高いほど、英二がアンザイレンパートナーとして認められるのってハードルが上がるよね?
いま光一を話す第2小隊員たちの笑顔は、優れた上司への誇りと憧憬が高い。
そんな上司とザイルを組んでみたいと山ヤなら想うだろう、けれど光一は英二以外を選ぶことはしない。
それが解かるだけに少し心配になる、まだ任官2年目で山のキャリアも1年の英二はとにかく実績を示すしかない。
だから海外遠征訓練でも三大北壁のうち2つを連登して記録を作った、それは英二の為に嬉しいけれど心配になる。
…こういう状況だから英二も努力してるんだ、でも無謀って言う人もいるね?…それ以上に、どうか無理しすぎないで?
ただ1年のキャリアでアイガー北壁とマッターホルン北壁で記録を作り踏破した。
そんな英二を天才と讃える人も多い、それは第七機動隊に異動した10日間でなんどか耳にした。
けれど反面、無謀なことをさせると言う人もあって不思議ではない。そんな心配を抱きながらも微笑んで周太は箸を運んだ。
農正門を潜ると銀杏の樹影、華奢なデニムパンツ姿が手を振ってくれる。
いつもの明るい笑顔に嬉しくなって、大好きな友達に周太は駆け寄った。
「ごめんね、美代さん、ここで待っててくれたんだ?」
「ごめんねなんて言わないで?だってね、私の自己都合で待ってたんだもの、」
きれいな明るい目を微笑ませ、美代は萌黄色のカットソー揺らせて歩きだした。
けれど歩調がいつもより遅いのは「自己都合」と関係するのだろうか?
そんな友人の様子が気になって周太は、そのまま尋ねてみた。
「暑いから講堂で待ってると思ったんだけど、美代さんの自己都合って?」
「それはね、こういうことです、」
笑って美代はスマートフォンを取りだすと、画面を開いてくれる。
そして一通のメールを示すと、可笑しそうに教えてくれた。
「ね、こんなメールもらっちゃったら私、ちょっと一人じゃ講堂に入れないでしょ?」
From :手塚賢弥
subject:状況報告
本 文 :いま講堂だけどさ。憧れの小嶌さんに話しかけようってゼミ連中、盛り上がっちゃてるよ?夏だよねえ、
メールの文章に笑いたくなってしまう。
最後の「夏だよねえ、」がノンビリしていて手塚らしい。
いつもマイペースに自律する友人が楽しくて、周太は率直な感想と笑った。
「ね、これだと俺と一緒でも入り難いって思うよ?」
「そうよね、どうしたらいいかな、私?こういうの慣れてなくって、出来れば遠慮したいの、」
笑いながらも困ったよう美代は首傾げ、援助を求めてくれる。
一緒に首傾げながらクライマーウォッチを見ると、講義開始まで23分だった。
このまま講堂に入れば20分間を美代は包囲されるだろう、この時間猶予で思いついた提案に周太は微笑んだ。
「ね、美代さん。今から先生の研究室に行こうよ、それで講義の準備を手伝わせてもらって、一緒に講堂に入ったらどうかな?
これなら授業前の自由時間がゼロになるから、話しかけられないよね?先生と話す時間が増えるし、講義に遅刻する心配も無いし、」
講堂では困る猶予時間を、別の場所で有効利用して過ごせばいい。
そんな提案と笑いかけた隣、嬉しそうに美代は明るく笑ってくれた。
「うん、すごく良い考えね?ありがとう湯原くん、早く先生のとこ行こう?」
「ん、」
頷いて一緒に踵を返し、青木准教授の研究室へ歩きだす。
その足元ゆれる木洩陽きらめいて、午前中でも炎暑を燻らせる。
(to be continued)
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第61話 塔朗 act.1―another,side story「陽はまた昇る」
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man :
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.
私の心は弾む 空わたす虹を見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを
「…子供は大人の父、」
夜明け時、デスクライトのページに復唱こぼれて周太は微笑んだ。
ウィリアム・ワーズワスの詩「My Heart Leaps Up」別名「虹」としても親しまれている。
この詩を父は愛唱していた、そして今、自分にとって殊更に好ましく想えてしまう。
そんな想いに願うよう心は、穏やかに希望を呟いた。
…ほんとうに人生を森林学で結ぼう、最期は必ず…なにがあっても諦めない、
幼い日に夢見た樹医の道、そこに辿り着く切符を自分は持っている。
けれど現実に今ここで座るのは警視庁第七機動隊舎、その付属寮の一室にある小さなデスクだ。
この場所に座ることを自分で選んで、そのために10歳の春から精一杯の努力を積んできた。
それでも心が呼ぶ未来の道は「自然への畏敬」幼い自分が持っていた全てを指す。
…お父さん、必ず約束は果たすからね?今ここで警察官でいても、この先、あの場所に行っても諦めないよ?
記憶の父に笑いかけて、今ひろげている本のページにふれる。
この本を父はずっと愛していた、それが発行年月日と発行所の地名から解かる。
父の指が30年以上ずっと繰ってきたページ、その想いを辿るよう周太はページを捲り呟いた。
「…1966年、London、」
父が7歳の年に発行された本は、英国の首都で作られている。
この由縁を知ったのは1ヵ月前の葉山、英二の祖母である顕子の言葉だった。
―…晉さんは東大の仏文科の教授をされていたわ、パリ大でも名誉教授よね…晉さんオックスフォード大学に招かれて、
4年間むこうで暮らしたの。それで馨くんも一緒にイギリスに行ったのよ…斗貴子さんが亡くなって四十九日が済んでから、
母を亡くした父は、父子ふたりきりで渡英した。
そしてこの本と出会い、大切にして30年以上を毎日のよう読み続けている。
こんなにも父がこの本を愛した理由、それは何だったのだろう?
…お父さん、英語も綺麗だったけどラテン語も上手だったね?俺の採集帳にラテン語でラベルを書いてくれて…あ、
心で父に話しながら、ふと違和感に引っ掛る。
そういえば父は、どうしてラテン語を身に着けたのだろう?
そんな疑問に考え込んだ意識に、ふっと幼い記憶の言葉が優しく微笑んだ。
―…ラテン語はね、周、学問の言葉として遣われているんだ…だから採集帳のラベルもラテン語で書こうね、
「…学問の言葉として?」
呟いた言葉に、祖父の人生が蘇える。
祖父は仏文学者だった、ならばラテン語も知っていたかもしれない。
それなら父がラテン語を身に着けた理由は、祖父と同じ目的だった可能性がある?
…お父さん、英文学の学者になりたかった?
問いかけが響いた心、納得が肚に落ちる。
書斎を充たすフランス文学、ドイツの専門書が少し、そして数冊の英文学書。
英文学書は10冊にも満たない、けれど宝物のよう保管して父は大切に読んでいた。
そのたびに父の横顔は幸福と哀切が交ぜ織られた微笑ほころんだ、あの貌の理由が納得できる。
…あんなに英文学の本が好きなのに少ししかないのは、処分しちゃったんだね?お父さん…
父は本を大切にする人だった。
だから処分するなら誰かに譲るなり図書館に寄贈しただろう。
その寄贈先として考えられるのは普通、地元の図書館か母校だろう。
けれど川崎の図書館に寄贈書があるならば、とっくに自分は気づいているはずだ。
…だったらお父さんの母校にあるはずだけど、
けれど父の母校を自分は知らない、その無知にも父の理由があるだろう。
そう廻らした考えに、書斎にある1冊の本の謎がすこしだけ姿を顕わしていく。
『Le Fantome de l'Opera』
紺青色の表装が美しい、ページを切り取られた本。
あのページを切った断面は、父が愛用したアーミーナイフの切断面と似ている。
それくらい自分にも解ってしまう、あのアウトドア用ナイフを今使うのは自分自身だから、考えてしまう。
“どうして父は本を捨てずに、ページの大半を切り取ったのだろう?”
祖父の遺蔵書だから捨てられなかった、それは納得できる。
けれど切られたページには、父が切り取りたかった理由が必ずある。
その理由がずっと見えなかった、それが「ラテン語」がヒントになって現れていく。
…切り取られたページは「Fantome」が出てくる部分だった…まるで「Fantome」の存在を物語から消したいみたい?
なぜ父は「Fantome」の存在を消したかったのか?
その理由が「ラテン語」父が英文学者になりたかった夢と関係あるとしたら?
そして父が学者になる夢を描いた場所、父の母校はどこだろう?
…普通に考えたら、お祖父さんと同じ学校に行きたいよね?あんなに読み書きも話すのも出来たし…なんでも良く知ってた、
父に聴いて解らない事は無かった。
いま記憶喪失が癒えるまま思い出す父は、ハイレベルに博学で教え方が巧い。
あの学識は父が学者志望だと考えれば納得がいく、それだけの能力も意志もあったのだろう。
きっと祖父と同じ大学に父は入学した、それなのに父は警視庁の警察官になって自ら命を絶つよう殉職してしまった。
…どうして好きな英文学の学者にならなかったの?どうして殉職するほど追い詰められたの?お父さん
My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky …
So be it when I shall grow old Or let me die!…
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.
父の最期は、この詩に殉じたよう想えてしまう。
まだ理由は解らない、けれど父が「虹」文学書に心弾ませていた姿を知っている。
その歓びが消えるとき父の心も息絶える瞬間なのだと、いまアルファベットを見つめ想ってしまう。
それならば父が殉職を選んだ理由は「虹」が消えたことなのだろうか?
…お父さんにとって虹が、英文学への夢が消える原因ってなに?もう学問の世界には戻れないってこと?でも、どうして…
哀しみが謎から生まれて、心が軋んで今日の予定を考え直す。
おそらく午後には父の真実の姿と、ひとつの欠片に会える。
けれど父に消された「Fantome」は、何の意味を示すのだろう?
朝食の膳を見ても、吐き気は起きない。
第七機動隊に異動して10日すぎ、新隊員訓練の期間も終わって少し体が楽になった。
けれど精神的プレッシャーはある意味で大きい、就いた任務の実像はやはり重たく感じてしまう。
…銃器は人殺しの道具なんだ、それが違うなんて無い…どんな目的でも実像は変わらない、
そっと心つぶやきながらトレイを運ぶ、その視界で手が挙がった。
見ると銃器対策レンジャーの先輩が手招いてくれる、その明るい空気にほっとして食卓に向かった。
「おはようございます、松木さん、箭野さん、」
「おはよう、湯原。今日って大学だろ?」
気さくな笑顔で松木は席を勧めてくれる。
その隣に座ると周太は二人の先輩へと頭を下げた。
「はい、17時には戻ります。配属したばかりなのに、すみません、」
「謝ることないよ、俺も夜学に行ってるから気持ち解かるしさ。話しながら食おうよ、」
笑って箭野が醤油さしを取ってくれる。
素直に受けとりながら周太は聴いてみたかったことを尋ねた。
「箭野さん、大学の二部に通っているんですか?」
「ああ、東京理科大の理学部に通ってるんだ。今4年生だよ、」
答えながら箸を動かす笑顔は、愉しげに明るい。
きっと好きで学んでいる、そんな雰囲気が嬉しい横から松木が笑った。
「二人とも偉いです、ちゃんと勉強しようなんてさ?俺なんか勉強するの嫌だから、高卒で就職したのに、」
「それじゃあ松木、初任科とかの座学は大変だったろ?」
「その通りです、ほんと昇任試験とかヤバいです、」
朗らかに松木は笑いながら皿のトマトを口に放り込んだ。
その視線が向うに気がついて、手を挙げた。
「本田と浦部さんです、同席イイですよね?」
「おう、いつも一緒だろうが?」
可笑しそうに笑った箭野の隣、山岳救助レンジャーの二人がトレイを置いた。
いつもの親しい挨拶を交わして座ると、浦部が穏やかに微笑んだ。
「湯原くん、だいぶ馴染んだ?」
「はい、ありがとうございます、」
微笑んで答えながら前に座った貌に、つい懐かしい俤を見てしまう。
日焼うす赤い白皙の笑顔は端正で、涼やかな眼差しが思慮深く鎮まっている。
さほど顔立ちは似ていない、けれど雰囲気が似ているようで慕わしい。
…英二、今頃は青梅署で朝ごはんかな、藤岡と新しい人と、
懐かしい人を想い、これから数時間後の再会を考えてしまう。
今日は大学で時間の合間に英二と会う、それは遠征訓練の直前に会って以来3週間ぶりになる。
こんな久しぶりに少し鼓動が速くなってしまう、けれど緊張は「久しぶり」な所為だけじゃない。
英二と光一はいわゆる一線を越えた、その夜を超えた後の初対面が今日だという緊張が強ばらす。
…今の英二は俺のこと本当はどう想ってるの?電話で話しても目が見えないと解らない、光一の気持ちもあるし、
光一とは異動して10日間ずっと顔を合わせ、夜毎に話し一緒に勉強する時間がある。
そんな時間に光一の真実を見つめ、すこしずつ気がついていくことが多い。
けれど今も訊けない事がある、それは英二に何を想わすだろう?
『俺が帰りたい所はね、いちばん君が知ってるよ?山桜のドリアード』
光一が帰りたい「誰か」は、あの山桜に関わる人。
それなら英二でも美代でも無い、あの山桜を知る人を自分は光一の他は知らない。
けれど自分が知らない「誰か」が山桜を知っている?また考え廻らせかけたとき本田が尋ねてくれた。
「湯原さん、あれから盗聴されてる感じとかありますか?」
声に顔をあげると、笑顔でも本田の目は真剣でいる。
この一週間ほど前にあった盗聴事件は、山岳救助レンジャー第2小隊には懸案だろう。
その現状と真相の違いに心軋ませながら、周太は感謝と微笑んだ。
「特に気がつかないです、」
「なら良かったです。あれから七機全体で警戒してますし、今のとこ大丈夫そうですね?」
本田の言葉に浦部は頷いて、何げなく周りへ視線を走らせた。
ごく普通のしぐさという空気、けれど眼差しの奥に思慮が鋭く深い。
それが似ていてまた鼓動が敲かれる、ほっと小さな溜息に微笑んだ隣から松木が声を低めた。
「あの盗聴って、やっぱりターゲットは国村さん?」
「他に考えられないだろ、うちの小隊長って幹部候補の下馬評ダントツだしさ?」
答える本田の声が深刻のなかにも、上司への信頼と誇りが明るい。
その響きに光一が部下の心を掴んでいるのだと解かる、それが嬉しくて微笑んだ前から箭野が訊いた。
「そういえば今の第2小隊長って、国村さんと知り合いだって聴いたぞ?」
「うん、そうだと思うよ?」
さらり答えて、浦部が微笑んだ。
白皙の手に丼を持ちながら、穏やかな声は教えてくれた。
「警視庁の山岳レンジャー同士だったら合同訓練で顔も合わせるし、お互い顔見知りが多いんだ。特に国村さんって有名だしね、」
「そうなんだ、でも国村さんってまだ若いよな?」
「うん、高卒6年目の警部補だよ。でも山のキャリアはトップクラスでさ、それなのに話しやすいよ?」
箭野の質問に答える浦部の貌も、明るい誇りがある。
そんな浦部は光一より2歳年長で山の実績も高い、それでも褒めるのは余程なのだろう。
改めての認識と箸を動かしながら少し心配になる、これでは英二の立場は容易ではないだろう?
…光一の評判が高いほど、英二がアンザイレンパートナーとして認められるのってハードルが上がるよね?
いま光一を話す第2小隊員たちの笑顔は、優れた上司への誇りと憧憬が高い。
そんな上司とザイルを組んでみたいと山ヤなら想うだろう、けれど光一は英二以外を選ぶことはしない。
それが解かるだけに少し心配になる、まだ任官2年目で山のキャリアも1年の英二はとにかく実績を示すしかない。
だから海外遠征訓練でも三大北壁のうち2つを連登して記録を作った、それは英二の為に嬉しいけれど心配になる。
…こういう状況だから英二も努力してるんだ、でも無謀って言う人もいるね?…それ以上に、どうか無理しすぎないで?
ただ1年のキャリアでアイガー北壁とマッターホルン北壁で記録を作り踏破した。
そんな英二を天才と讃える人も多い、それは第七機動隊に異動した10日間でなんどか耳にした。
けれど反面、無謀なことをさせると言う人もあって不思議ではない。そんな心配を抱きながらも微笑んで周太は箸を運んだ。
農正門を潜ると銀杏の樹影、華奢なデニムパンツ姿が手を振ってくれる。
いつもの明るい笑顔に嬉しくなって、大好きな友達に周太は駆け寄った。
「ごめんね、美代さん、ここで待っててくれたんだ?」
「ごめんねなんて言わないで?だってね、私の自己都合で待ってたんだもの、」
きれいな明るい目を微笑ませ、美代は萌黄色のカットソー揺らせて歩きだした。
けれど歩調がいつもより遅いのは「自己都合」と関係するのだろうか?
そんな友人の様子が気になって周太は、そのまま尋ねてみた。
「暑いから講堂で待ってると思ったんだけど、美代さんの自己都合って?」
「それはね、こういうことです、」
笑って美代はスマートフォンを取りだすと、画面を開いてくれる。
そして一通のメールを示すと、可笑しそうに教えてくれた。
「ね、こんなメールもらっちゃったら私、ちょっと一人じゃ講堂に入れないでしょ?」
From :手塚賢弥
subject:状況報告
本 文 :いま講堂だけどさ。憧れの小嶌さんに話しかけようってゼミ連中、盛り上がっちゃてるよ?夏だよねえ、
メールの文章に笑いたくなってしまう。
最後の「夏だよねえ、」がノンビリしていて手塚らしい。
いつもマイペースに自律する友人が楽しくて、周太は率直な感想と笑った。
「ね、これだと俺と一緒でも入り難いって思うよ?」
「そうよね、どうしたらいいかな、私?こういうの慣れてなくって、出来れば遠慮したいの、」
笑いながらも困ったよう美代は首傾げ、援助を求めてくれる。
一緒に首傾げながらクライマーウォッチを見ると、講義開始まで23分だった。
このまま講堂に入れば20分間を美代は包囲されるだろう、この時間猶予で思いついた提案に周太は微笑んだ。
「ね、美代さん。今から先生の研究室に行こうよ、それで講義の準備を手伝わせてもらって、一緒に講堂に入ったらどうかな?
これなら授業前の自由時間がゼロになるから、話しかけられないよね?先生と話す時間が増えるし、講義に遅刻する心配も無いし、」
講堂では困る猶予時間を、別の場所で有効利用して過ごせばいい。
そんな提案と笑いかけた隣、嬉しそうに美代は明るく笑ってくれた。
「うん、すごく良い考えね?ありがとう湯原くん、早く先生のとこ行こう?」
「ん、」
頷いて一緒に踵を返し、青木准教授の研究室へ歩きだす。
その足元ゆれる木洩陽きらめいて、午前中でも炎暑を燻らせる。
(to be continued)
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