zero point 零の原初
第77話 結氷 act.1-side story「陽はまた昇る」
大気が凍る、雪は積もったろう。
夜明けの直前は最も冷える、それが冬ならば水も雪も氷化する。
大気中の水分すら凍てついて輝く時もある、それは何度の現象だったろう?
―マイナス10度だったかな、ダイヤモンドダスト…見たいな、
眠りの底を考えながら未見の世界を追ってしまう、けれど現実また想い出す。
いま低温の気配が頬なでる、この場所で冷えこむのなら奥多摩は雪深く寒い。
―応援要請があるかもしれない、遭難か除雪か…雪が積もった、
凍結と積雪に都心部は麻痺する、そして奥多摩は巡回と除雪に備えるだろう。
そんな冷感に呼ばれて披かれた視界は蒼く昏い、いま冬至に向かい日出は遅くなってゆく。
それでも時刻は変わらず朝になる、だから腕伸ばし掴んだクライマーウォッチに英二は微笑んだ。
「…5時、」
刻限に起きあがったベッドの窓はカーテン透かして明るい。
たぶん雪明りだろう、その明るみ懐かしくて立ち上がりカーテン開いた。
「…雪だな、周太?」
名前そっと呼んだ先、昏く白い。
四角い空から白が舞う、まだ降り止まない雪に隊舎も大地も白くなる。
その照らす街燈に雪面の反射きらめかす、もう凍てつかす硬化に外気温も見える。
また雪山の季が来た。
「心配してくれるのかな、今年も…」
ひとりごと零れて去年の雪が懐かしい、そして触れたくなる。
初めての雪山シーズンだった昨冬、あの懐かしい空気また欲しくて英二は窓開き笑った。
「新雪だな、」
まっさらな白、まだ明けない夜にも白銀あわく輝かす。
今ここはアスファルトとコンクリートだらけで森は無い、それでも冬の大気は凛と張る。
こんな朝は冷水を浴びる間も惜しんで山へ駈けていた、そして見下ろした銀色の世界の天辺で熱いマグカップ啜りこんだ。
ただ雪山が愉しかった、低温も滑落も怖いと知りながら白い山が嬉しかった、そんな単純な時間は宝物なのだと今ここで解かる。
「…ここでも出来るかな?」
そっと独り微笑んで窓ひそやかに閉める。
かたん、施錠してもカーテン明けたままの空は昏く微かに蒼い。
まだ夜明けは遠くて、けれど手早く着替えて英二は登山ジャケット羽織った。
今日は雪、この白銀に痕跡は消えてゆく。
山であればトレースが消える、夏道も埋もれてしまう。
そして道迷いから滑落事故や低体温症は起きる、その現場に去年の冬いく度も駈けた。
白銀まばゆい峻厳は育った街からは遠すぎて自由になれたと嬉しくて、だから好きなのかもしれない。
「馨さんも同じでしたか…自由になれるから、」
呼びかけて仰いだ空はただ白い。
グレーあわい雲から雪は降る、ただ静かな時が屋上に微睡ます。
この空を馨も愛していた、そう綴られた紺青色の日記帳を記憶に追ってしまう。
Ô saisons, ô châteaux !
Quelle âme est sans défauts ?
J'ai fait la magique etude
Du bonheur, qu'aucun n'élude.
季よ、城よ、
欠けること無き精神があるのか?
僕が魔術研究する本題は
命運 これは誰にも避けられない。
Jean Nicolas Arthur Rimbaud「Ô saisons, ô châteaux」
フランスの詩へ母国語の自訳を添えながら日記はラテン語で綴られる。
あの一文を書いた馨は幸せの時にいた、それは最後まで変わらない想いだったろう。
そんな日記の想いへと雪山の記憶は懐かしくて、あの3月の雪の俤に英二は微笑んだ。
「俺も懲りないな、周太?」
独り笑った屋上はただ雪が降る。
見晴るかす空は白く煙らせながら微かに明るむ、けれど雲は厚い。
こんな12月の雪は珍しいだろう、それが土曜日であることは幸運だろうか?
―予報では8時に晴れる、そうしたら入山者があるかもしれない、
新雪まばゆい青空の山は美しい。
その世界を自分も知っている、だから登りたい気持ちは否定し難い。
それでも現実の危険は多くて心配にもなる、けれど今日はそれすら幸運かもしれない?
J'ai fait la magique etude Du bonheur, qu'aucun n'élude.
僕が魔術研究する本題は 命運 これは誰にも避けられない。
あの一節は自分を映す、そう想えて離れない。
あの言葉通りに自分は今日また幸運を掴むだろうか?
「…運は味方するかな?」
そっと微笑んで足元、携帯用コンロの火を止める。
ゆるやかな湯気のコッヘルとってマグカップに注ぐ、ふわり芳香ほろ苦く甘い。
こんなふうに淹れることも去年は日常だった、けれど今は久しぶりの雪と香の向こう重たい扉鳴った。
がたん、
誰か来た、そんな物音に雪踏む音が鳴る。
さくさく軽やかな足音すぐ近づいて低い声が呼んだ。
「宮田?こんな時間に何やってるんだ、」
「おはようございます、黒木さん。こんな時間だからやるんですよ?」
笑いかけながら紙コップひとつ支度する。
こんな予想通りに長身が傍ら屈みこみ、シャープな瞳すこし笑った。
「モーニングコーヒーか、洒落たことするな、」
「習慣だったんですよ、青梅署の吉村先生と毎朝、」
答えて、少し前の記憶また懐かしい。
この習慣の相手と昨日は会えた、相変わらずの穏かな笑顔に嬉しかった。
『秋はゆっくり話せなくて残念でした、また帰っておいで?宮田くんのコーヒーを妻も楽しみにしてるから、』
秋、本当は剣道会の稽古の為に泊めてもらう約束だった。
けれど遭難救助の手伝いで行けなくて、それでも嫌な顔ひとつしない笑顔が嬉しかった。
あの笑顔と出会って自分はずいぶん変わったろう?そんな想いごとインスタントコーヒー淹れて笑いかけた。
「黒木さん、一杯つきあってください、」
「お、すまんな、」
少し笑って紙コップ受けとってくれる貌が3ヶ月前より柔らかい。
こんな変化に微笑んでコーヒー啜る、その唇ふれるチタン製マグカップの感触もすっかり馴染んだ。
啜りこむ芳香にまじらす雪の香も懐かしい、そんな郷愁すら想う今は何もかも変わったようで、けれど変わらないテノールが笑った。
「ふたりっきりモーニングコーヒーなんざズルいねえ?俺もまぜてよね、」
からり笑って背後、がっしり抱きついてくれる。
いつの間に来たのだろう?相変わらずの相手に英二は笑った。
「おはよう光一、来ると思ってたけど不意打ちだな?」
「俺も英二は来てると思ったね、ハイ、」
テノール笑いながら肩越しマグカップ出してくる。
受けとって、インスタントコーヒ淹れる向かいは姿勢すこし正した。
「おはようございます、国村さん。お早いですね?」
「おはよ黒木、俺は雪降ったら早いからね、」
からり笑って応えながら隣へしゃがみこむ。
そんな青と白の登山ジャケット姿に山の時間は映りこんで、懐かしいまま笑いかけた。
「国村さんは降りたての雪が好きなんです、青梅署の時は訓練と巡回を兼ねて朝一に登っていました、」
起きろっ新雪だ!
そう言われて叩き起こされていた時が懐かしい。
そんな朝と同じに今も雪は降る、けれど少し変わった今にパートナーが笑った。
「最初はいつも俺が叩き起こしてたね、でも宮田の方が早く起きるようになっちまったよ、今日みたいにさ?」
「寝込みを襲われるのは困りますから、」
笑って応えた隣、底抜けに明るい瞳も笑っている。
いま言った言葉も単純に笑って明るい、そんな容子は去年の冬が戻ってくる。
―アイガー以来かもしれないな、光一のこんな貌は、
アイガーの夜に自分は壊した、そう時経つごと気づかされる。
あの夏あの場所で自分が何をしたのか、光一を周太を何に泣かせたのか、そして何を失ったのか?
そんな全てを夏の自分は解らなかった、ただ自分勝手に欲しいだけ掴みとり悦んで気づこうとしなかった。
その果てに壊してしまった事を今なら解かる、だから昨夜も苛立って八つ当たりして、それでも山っ子は笑ってくれる。
「宮田のコーヒー久しぶりだね、雪の中でなお美味いけどさ、山ならモット良いね?」
ほら、去年の冬が笑ってくれる。
ただ雪が楽しくて山が幸せだった、あの時に笑ってくれた瞳も声も今ここにいる。
こんな変わらないことがただ嬉しくて、だからこそ昨日に決めた想いと笑いかけた。
「また山でも淹れますよ、訓練もありますし、」
「だね、でも海外遠征は難しくなっちまったねえ?代りにチャンスもらえるヤツにはラッキーだけどさ、」
テノール闊達に言いながら少しだけ残念がっている。
その想い解かるから申し訳なくて素直に頭下げた。
「すみません、俺の研修とか色々入ってしまって、」
「謝ること無いよ、昇進はヨロコバシイからね?でも、今日のアレは喜ばしいかって微妙だけどさ、」
笑いながら答えてくれる言葉に、つい微笑んでしまう。
今日の「アレ」こそ自分には望むこと、そんな微笑マグカップ隠した先で堅実な貌が尋ねた。
「国村さん、今日の宮田は観碕さんの手伝いですが、もし救助要請が来たら宮田も呼びだして構いませんか?」
今日、救助要請があるかもしれない?
そんな予測に振り向いた先、北西の空は白い。
それでも雲間は明るみだす、その晴れ予測にこそ案じられる空を山っ子は読んだ。
「モチロンだね、疑似好天っぽいから覚悟しときな?」
(to be continued)
【引用詩文:Jean Nicolas Arthur Rimbaud「Ô saisons, ô châteaux」より抜粋】
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