icicle 悠久の標
第77話 結氷 act.7-side story「陽はまた昇る」
奥多摩交番も風雪が白い。
近接の奥多摩駅は標高343m、都内JR駅では最も高い駅になる。
その高度に山塊めぐらす地形から年間を通し気温は低い、そして冬の今も雪に埋もれる。
「なるほどね、皆もう山に入っちゃってるワケだ?これじゃ応援も必要だよ、」
明快なテノール笑って告げる、けれど言葉は甘くない。
卓上ひろげられた登山図と登山計画書の一覧表を照合する、そこにある危険性に英二は溜息と微笑んだ。
「現時点で3件、でも続発する可能性は高いですね、」
「ああ、小屋に着いてるモンは良いんだがな、今の時点で小屋に入っていないのは危険だよ、」
深い声がため息に告げることは現状だろう。
その確認に穏やかな声が尋ねてくれた。
「後藤副隊長、まだ到着していない予約客がいるんですか?」
「その通りだよ浦部、雲取山荘に5組8人、御岳も宿坊の予約客が3組まだ着いてなくてなあ、キャンセルの連絡もないそうだ、」
後藤が読み上げてくれるメモをそのまま手許へ書き写す。
いま時刻は14時半すぎた、この時点で宿泊予定地に未着なら最悪の可能性を示す。
“ 大量遭難 ”
それは言葉くらい自分も知っている。
去年の今ごろクリスマスの朝に新宿へ向かった、あの車内で読んだ一冊に事実だと知った。
それでも机上の資料と報告に息呑まされるのは遠い世界の他人事にしていた意識の甘さだ。
富山県警山岳警備隊そして「剱岳」
その標高は2,999mと三千を超えない、けれど日本最高難度の山として知られている。
飛騨山脈北部、立山連峰に連なり氷河を有する冷厳の気候条件と特殊な地形は遭難事故も絶えない。
その山域を管轄する富山県警の一冊は大量遭難の記録もあった、けれど同じことが東京でも起きるなんて?
―俺だって3月に遭難したばかりだ、でも本当にはまだ山の怖さを解っていない、
急激な天候悪化による大量遭難は全国どこでも起こり得る。
そう解かっているはずだった、あの一冊に様々を考え勉強もしている、けれど遠い話に思っていた。
どこか他人事のような感覚、そんな甘さあらめて噛みしめさせられる奥歯は苦くて、けれどいっそ心地いい。
―未熟って気づくのは悪くないな、地下の時よりずっと幸せだ、
自分はまだ成長途中、そう気づけることは悪くない幸せだ?
だって今より大きく充実できる可能性がある、その楽しみごと手帳にペン奔らせる。
いま無線で入ってくる登山道の状況、登山計画の内容、それら情報まとめながらも初夏の記憶が今と重なる。
初夏、警察学校の屋上で周太は低体温症を起こした。あの現実を考えたら今この現状は遭難も当然の帰結だ?
―夏でも冬でも人間は35℃以下になれば危険なんだ、30℃になればもう、
人体は体温が35℃まで低下すると生体を活性化させる物質カテコラミンが分泌して末梢血管が収縮、皮膚血管が縮んでいわゆる鳥肌を起こす。
それにより体熱の放散を防ぎ同時に筋肉を震えせて熱を発生させる、こうした「寒冷反応」により体温を上昇させ下がり始めた体温の調節を行う。
この寒冷反応が起こっている間は酸素の消費量が増大する、だが体熱の生産より喪失が大きくなると筋肉の震えは止まり体温はより下がっていく。
エネルギーや酸素の消費は体温の低下にしたがって減少し、脳で消費する酸素量も30℃で50%となり意識障害を起こし25℃で25%に低下する。
そして臓器の機能も低下、血流量の減少から肺水腫・腎不全・肝不全・消化管出血から多臓器不全を起こし呼吸停止、心停止となり死ぬ。
35℃と30℃、その生命の境界が今この東京にある。この現実に深い声が告げた。
「じゃあメンバー割するぞ、国村と相談した結果で決めさせてもらった、国村に木下と本田と井川、浦部に高田と斉藤と谷口、俺と宮田は二人で動く、」
自分と光一が分かれた?
「え、」
ザイルパートナーと別行動になる、こんなこと初めてだ?
いつも二人一緒に救助活動をしてきた、それが分けられた意外に上司かつパートナーは教えてくれた。
「宮田、今回はココらの経験値で割振りしたからね、だから俺とおまえは別になっちゃうよ、」
五日市署と青梅署、二つへ応援派遣を分けた時も元所轄を基準にしている。
今も当然の判断だろう、けれど疑問で上司に尋ねた。
「国村さん、それなら浦部さんのチームは?」
「谷口が居るから大丈夫だよ、元奥多摩交番の猛者だからね?」
笑って教えてくれる言葉に日焼あわい長身が頭下げる。
言葉はない寡黙な挨拶、その微笑は穏やかに優しい青年は骨格から逞しい。
この相手とは言葉交わした数まだ少なくて、けれど何か信頼できる想い笑いかけた。
「青梅署でも先輩だったんですね?すみません、知らずに失礼しました、」
「いえ、今月に異動したばかりだから、」
短い言葉に微笑んでくれる眼差しは篤実が温かい。
こういう相手は今まで無かった、けれど寡黙な男が信頼に篤いことは二人の事例でもう知っている。
―原さんや黒木さんと似てるな、でも二人より何だろう?
既知の先輩ふたりと似ていて、けれど何か違う。
その違いが何か見つめながら佇んだ向こう、扉の先は風雪が白い。
ざぐり、ざぐり、
登山靴が雪を踏む、その音が締ってゆく。
幾らか凍る方が歩きやすい、それでも埋まる足元に零度はスパッツ透ける。
頬なぶる風は冷たい、けれど雪すこし小さくなった。
「このまま止めばいいが、どう想う宮田?」
尋ねられて仰いだ樹間、灰色の空は明るんでも厚い。
ふく風も凍てついて温度は下がる、この空と風に英二は答えた。
「一時的には止むと思いますが、」
「宮田もそう見るか、」
交わす会話が白く昇らす、その靄にも現状が解かる。
まだ12月、それでも厳冬期の凛然くゆらす山は緊迫を呼ぶ。
いま状況は甘くない、そんな大気すこし緩めたくて笑いかけた。
「後藤さん、谷口さんは元青梅署だったんですね?さっき初めて知りました、」
「お、そうか。あいつ寡黙だからなあ、」
可笑しそうに笑ってくれる言葉に納得してしまう。
同じ所属になり1週間足らず、まだ会話した回数の少ない男を教えてくれた。
「谷口は高卒7年目だが卒配から奥多摩交番でな、2年目で七機の第1に行ってこの12月に第2へ異動させたんだ。谷口は無口だが公平で佳い山男だよ、
芦峅寺の出身で山にもレスキューにも真面目一徹でなあ、国村と似たタイプだから井川と一緒に異動させてみたよ、井川は大卒だが同じ齢で仲良いんだ、」
言われた地名に谷口の来歴が解かってしまう。
納得でも不思議でもある、そんな感想のまま訊いてみた。
「芦峅寺のご出身なのに富山県警へ行かなかったんですか?」
「芦峅寺だから、ってことだろうなあ?」
答えに振り向いた先、深い瞳が微笑んでくれる。
ざぐり、ざぐり、小雪まう白銀を踏みながら後藤は教えてくれた。
「谷口の父親は富山の山岳警備隊だったよ、でも怪我で現場を離れてなあ。それで母親が息子を富山県警に行かせたくなかったらしいぞ、」
話してくれることに谷口の事情また見えてくる。
多分そうだろう?その推測を問いかけた。
「後藤さん、谷口さんのお母さんは旧姓が佐伯さんですか?」
「お、やっぱり宮田は解かっちまうんだなあ、」
可笑しそうに笑ってくれる言葉に答えもう解かる。
そこにある峻厳の歴史を深い声は微笑んだ。
「おふくろさんの家も芦峅寺ガイドなんだ、身内が富山県警の創設にも関わってるだろう、この生まれだけに厳しさをよく知ってるんだろうな?」
芦峅寺
富山県中新川郡立山町の地名で元は雄山神社の中宮祈願殿の寺名であり、江戸期から立山信仰の拠点として栄えた。
昔から優れた山岳ガイドや山小屋経営者を輩出し、明治大正時代から山岳ガイドの村として知られている。
住民は佐伯姓が6割で次に志鷹姓が多く、どちらの姓も立山の開山にまつわる伝説に由来する。
その伝統から優秀な芦峅寺ガイドは日本登山史に大きく富山県警山岳警備隊の創設も支えた。
そして昭和44年1月、警察山岳レスキューの分岐点「大量遭難」も立会っている。
(to be continued)
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第77話 結氷 act.7-side story「陽はまた昇る」
奥多摩交番も風雪が白い。
近接の奥多摩駅は標高343m、都内JR駅では最も高い駅になる。
その高度に山塊めぐらす地形から年間を通し気温は低い、そして冬の今も雪に埋もれる。
「なるほどね、皆もう山に入っちゃってるワケだ?これじゃ応援も必要だよ、」
明快なテノール笑って告げる、けれど言葉は甘くない。
卓上ひろげられた登山図と登山計画書の一覧表を照合する、そこにある危険性に英二は溜息と微笑んだ。
「現時点で3件、でも続発する可能性は高いですね、」
「ああ、小屋に着いてるモンは良いんだがな、今の時点で小屋に入っていないのは危険だよ、」
深い声がため息に告げることは現状だろう。
その確認に穏やかな声が尋ねてくれた。
「後藤副隊長、まだ到着していない予約客がいるんですか?」
「その通りだよ浦部、雲取山荘に5組8人、御岳も宿坊の予約客が3組まだ着いてなくてなあ、キャンセルの連絡もないそうだ、」
後藤が読み上げてくれるメモをそのまま手許へ書き写す。
いま時刻は14時半すぎた、この時点で宿泊予定地に未着なら最悪の可能性を示す。
“ 大量遭難 ”
それは言葉くらい自分も知っている。
去年の今ごろクリスマスの朝に新宿へ向かった、あの車内で読んだ一冊に事実だと知った。
それでも机上の資料と報告に息呑まされるのは遠い世界の他人事にしていた意識の甘さだ。
富山県警山岳警備隊そして「剱岳」
その標高は2,999mと三千を超えない、けれど日本最高難度の山として知られている。
飛騨山脈北部、立山連峰に連なり氷河を有する冷厳の気候条件と特殊な地形は遭難事故も絶えない。
その山域を管轄する富山県警の一冊は大量遭難の記録もあった、けれど同じことが東京でも起きるなんて?
―俺だって3月に遭難したばかりだ、でも本当にはまだ山の怖さを解っていない、
急激な天候悪化による大量遭難は全国どこでも起こり得る。
そう解かっているはずだった、あの一冊に様々を考え勉強もしている、けれど遠い話に思っていた。
どこか他人事のような感覚、そんな甘さあらめて噛みしめさせられる奥歯は苦くて、けれどいっそ心地いい。
―未熟って気づくのは悪くないな、地下の時よりずっと幸せだ、
自分はまだ成長途中、そう気づけることは悪くない幸せだ?
だって今より大きく充実できる可能性がある、その楽しみごと手帳にペン奔らせる。
いま無線で入ってくる登山道の状況、登山計画の内容、それら情報まとめながらも初夏の記憶が今と重なる。
初夏、警察学校の屋上で周太は低体温症を起こした。あの現実を考えたら今この現状は遭難も当然の帰結だ?
―夏でも冬でも人間は35℃以下になれば危険なんだ、30℃になればもう、
人体は体温が35℃まで低下すると生体を活性化させる物質カテコラミンが分泌して末梢血管が収縮、皮膚血管が縮んでいわゆる鳥肌を起こす。
それにより体熱の放散を防ぎ同時に筋肉を震えせて熱を発生させる、こうした「寒冷反応」により体温を上昇させ下がり始めた体温の調節を行う。
この寒冷反応が起こっている間は酸素の消費量が増大する、だが体熱の生産より喪失が大きくなると筋肉の震えは止まり体温はより下がっていく。
エネルギーや酸素の消費は体温の低下にしたがって減少し、脳で消費する酸素量も30℃で50%となり意識障害を起こし25℃で25%に低下する。
そして臓器の機能も低下、血流量の減少から肺水腫・腎不全・肝不全・消化管出血から多臓器不全を起こし呼吸停止、心停止となり死ぬ。
35℃と30℃、その生命の境界が今この東京にある。この現実に深い声が告げた。
「じゃあメンバー割するぞ、国村と相談した結果で決めさせてもらった、国村に木下と本田と井川、浦部に高田と斉藤と谷口、俺と宮田は二人で動く、」
自分と光一が分かれた?
「え、」
ザイルパートナーと別行動になる、こんなこと初めてだ?
いつも二人一緒に救助活動をしてきた、それが分けられた意外に上司かつパートナーは教えてくれた。
「宮田、今回はココらの経験値で割振りしたからね、だから俺とおまえは別になっちゃうよ、」
五日市署と青梅署、二つへ応援派遣を分けた時も元所轄を基準にしている。
今も当然の判断だろう、けれど疑問で上司に尋ねた。
「国村さん、それなら浦部さんのチームは?」
「谷口が居るから大丈夫だよ、元奥多摩交番の猛者だからね?」
笑って教えてくれる言葉に日焼あわい長身が頭下げる。
言葉はない寡黙な挨拶、その微笑は穏やかに優しい青年は骨格から逞しい。
この相手とは言葉交わした数まだ少なくて、けれど何か信頼できる想い笑いかけた。
「青梅署でも先輩だったんですね?すみません、知らずに失礼しました、」
「いえ、今月に異動したばかりだから、」
短い言葉に微笑んでくれる眼差しは篤実が温かい。
こういう相手は今まで無かった、けれど寡黙な男が信頼に篤いことは二人の事例でもう知っている。
―原さんや黒木さんと似てるな、でも二人より何だろう?
既知の先輩ふたりと似ていて、けれど何か違う。
その違いが何か見つめながら佇んだ向こう、扉の先は風雪が白い。
ざぐり、ざぐり、
登山靴が雪を踏む、その音が締ってゆく。
幾らか凍る方が歩きやすい、それでも埋まる足元に零度はスパッツ透ける。
頬なぶる風は冷たい、けれど雪すこし小さくなった。
「このまま止めばいいが、どう想う宮田?」
尋ねられて仰いだ樹間、灰色の空は明るんでも厚い。
ふく風も凍てついて温度は下がる、この空と風に英二は答えた。
「一時的には止むと思いますが、」
「宮田もそう見るか、」
交わす会話が白く昇らす、その靄にも現状が解かる。
まだ12月、それでも厳冬期の凛然くゆらす山は緊迫を呼ぶ。
いま状況は甘くない、そんな大気すこし緩めたくて笑いかけた。
「後藤さん、谷口さんは元青梅署だったんですね?さっき初めて知りました、」
「お、そうか。あいつ寡黙だからなあ、」
可笑しそうに笑ってくれる言葉に納得してしまう。
同じ所属になり1週間足らず、まだ会話した回数の少ない男を教えてくれた。
「谷口は高卒7年目だが卒配から奥多摩交番でな、2年目で七機の第1に行ってこの12月に第2へ異動させたんだ。谷口は無口だが公平で佳い山男だよ、
芦峅寺の出身で山にもレスキューにも真面目一徹でなあ、国村と似たタイプだから井川と一緒に異動させてみたよ、井川は大卒だが同じ齢で仲良いんだ、」
言われた地名に谷口の来歴が解かってしまう。
納得でも不思議でもある、そんな感想のまま訊いてみた。
「芦峅寺のご出身なのに富山県警へ行かなかったんですか?」
「芦峅寺だから、ってことだろうなあ?」
答えに振り向いた先、深い瞳が微笑んでくれる。
ざぐり、ざぐり、小雪まう白銀を踏みながら後藤は教えてくれた。
「谷口の父親は富山の山岳警備隊だったよ、でも怪我で現場を離れてなあ。それで母親が息子を富山県警に行かせたくなかったらしいぞ、」
話してくれることに谷口の事情また見えてくる。
多分そうだろう?その推測を問いかけた。
「後藤さん、谷口さんのお母さんは旧姓が佐伯さんですか?」
「お、やっぱり宮田は解かっちまうんだなあ、」
可笑しそうに笑ってくれる言葉に答えもう解かる。
そこにある峻厳の歴史を深い声は微笑んだ。
「おふくろさんの家も芦峅寺ガイドなんだ、身内が富山県警の創設にも関わってるだろう、この生まれだけに厳しさをよく知ってるんだろうな?」
芦峅寺
富山県中新川郡立山町の地名で元は雄山神社の中宮祈願殿の寺名であり、江戸期から立山信仰の拠点として栄えた。
昔から優れた山岳ガイドや山小屋経営者を輩出し、明治大正時代から山岳ガイドの村として知られている。
住民は佐伯姓が6割で次に志鷹姓が多く、どちらの姓も立山の開山にまつわる伝説に由来する。
その伝統から優秀な芦峅寺ガイドは日本登山史に大きく富山県警山岳警備隊の創設も支えた。
そして昭和44年1月、警察山岳レスキューの分岐点「大量遭難」も立会っている。
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