Firn 星霜の杖
第77話 結氷 act.8-side story「陽はまた昇る」
立山連峰の遭難事故は1965年から2007年までに総計2,900件を超える。
三千メートル級が連なる山塊は急峻な黒部峡谷をしたがえ複雑な地形を成し、今も氷河を遺す。
この氷河に幾星霜も削られた氷食尖峰は威容を誇り「岩と雪の殿堂」と呼ばれ、その気象は激しい。
日本海側気候による世界有数の豪雪と強風は厳しく積雪期の山行は高難度を謳われている。
特に剱岳は日本海に面するため厳冬期は悪天候が続き遭難事故が起きやすい。
そして1969年元旦、大晦日から十日間におよぶ猛吹雪に15パーティ81人の大量遭難事故が起きた。
「宮田も富山県警の例の本は読んでたな、なら昭和44年の事故も知ってるだろう?」
ざぐり、ざぐり、雪踏み分けながら深い声が訊いてくれる。
その問いかけに英二は記憶のページから答えた。
「はい、たしか9名が亡くなられて行方不明が13名、芦峅寺の方も1人滑落されましたよね?」
「そうだ、命に別状はなかったがな、」
頷いてくれる声に息が白い。
わざと大きめの声で話し山をゆく、この声が遭難者に届けばいい。
そんな願いに話しながら時おり耳澄ます道、また深い声が続けてくれた。
「芦峅寺ガイドは確かに古くから山岳救助のプロ集団だよ、でもな、それは山で仕事して生きてる仲間で助け合う伝統なんだ、スポーツや遊びと違う。
だから昭和44年のときも芦峅寺の皆さんが引き揚げたことは当然なんだ、仲間が滑落して危険な目に遭うことは助け合いの伝統とは違うって俺は想うよ、」
噛みしめる、そんなトーンで話してくれる言葉は厚い。
そこには後藤の「山」がある、その深みを見つめながら微笑んだ。
「山の相互扶助は、まず自分の仲間を援けられなかったら意味が無いと俺も思います。万が一の時は俺だって光一や後藤さんを優先しますよ?」
自分だって同じ立場なら同じ判断をするだろう?
そんな本音に笑いかけた先、小雪のなか山ヤは笑ってくれた。
「そうだなあ、俺もおまえさんを取っちまうだろうよ?どんなにダメだって言われてもな、俺の祖父さん達も皆そうだったよ、」
言われた言葉につい立ち止まりたくなる。
すこし歩み緩めて、また周囲に耳澄ますと英二は問いかけた。
「後藤さんのお祖父さんも山を?」
「おう、母方の家がマタギだったんだよ、」
笑って言われた事が解かるから納得してしまう。
だから後藤の身体能力は優れている、その感心に笑いかけた。
「もしかして小国マタギの家系なんですか?それなら山に強いのも納得です、」
狩猟と採取、その二つ山に求める人々の話を読んだ事がある。
そして後藤の出身が山形県なら小国だろう?そんな推測に深い瞳ほころんだ。
「お、おまえさん良く知ってるな?山のことなら何でも読んでるのか、」
「はい、ハマると何でも知りたい性質なんです、」
笑って答えた先、愉しげな眼差しは深く誇らしい。
その瞳から経年はるかに厚い山ヤは白い息くゆらせ、また教えてくれた。
「俺の祖父さん達はな、あちこちの山から生きる糧をもらって命繋いできてるよ?だからこそ山への礼儀は厳しくてなあ、絶対に無理な山行はしないんだ。
山の悪天候は山神サンからの足止めだって言ってな、それを無視したら山の恵みは貰えなくなるって事らしい、たぶん芦峅寺ガイドも同じだろうって思うよ、」
山には山のルールがある、それを伝統に守り生きてきた。
そんな息遣いは自分の育った街に無い、だから眩しくて憧れるような本音がある。
―だから俺は光一に憧れるんだろうな、自分と違い過ぎて、
光一も山に生きる家の出自でいる、その全ては知るほど眩しい。
そして自分が育った場所は、立場は、今日の地下書庫に交わした言葉通りだろう。
『お祖父さまと君は似ていますね?宮田次長検事にも鷲田君にも。鷲田君は君を可愛がっていますよ、宮田次長検事の葬儀でも君をよろしくと皆に言って』
あの男が告げたことは事実だ、そして自分の骨肉であることは拒めない。
それでも「山」への憧れも喜びも真実で本音で、だから「山」で大好きな笑顔ひとつ護ろうとしている。
―周太、観碕が言う通りの俺なんだ、でも周太に相応しい男になりたいよ、山で単純に生きて、
単純に生きたい、自分の腕と脚と心ひとつで。
そう願い始めたのはいつだったろう?
たぶん最初からずっと願っている、そして「山」を見つけた。
こんな想い抱く自分だから今この雪山も嬉しくて、ただ素直が綺麗に笑った。
「後藤さんのお祖父さん達の気持ちも、谷口さんのお母さんの気持ちは当り前だと俺も思います。知るほど怖いのも山です、」
率直な感想に微笑んだ口許から息は白い。
この低温より冷厳な場所を富山県警は管轄する、その現実に山ヤの警察官が微笑んだ。
「そうだなあ、知っているほど怖いのも本当だな?でも宮田、おまえさんは知るほど怖いほど、山に惹きこまれちまってるだろう?」
本当にその通りだ?
そんな言葉たちに英二は肚底から綺麗に笑った。
「はい、危険ごと俺は好きですよ?こんなことレスキューが言ったら怒られますけど、」
「ははっ、その通りだ。危険が好きなレスキューなんざ困るなあ、」
大らかに笑って共に雪踏み分けてゆく。
その並んだ青い冬隊服姿の肩は逞しい、けれど抱える病に問いかけた。
「でも後藤さんの体は危険にさらしたくありません、呼吸や胸に痛みはないですか?」
「大丈夫だよ、おまえさんも心配性なとこあるなあ?」
答えてくれる笑顔は声から元気でいる。
そんな容子へ安堵しながら率直に笑いかけた。
「心配も俺の任務ですよ?国村小隊長が俺だけ後藤さんと組ませたのは、後藤さんの体調管理のためですから、」
警視庁山岳会長が呼吸器系を患った、この不安要素は未だ隠しておく方が良い。
そう国村が判断したから余人なく向きあう山路、小雪ふる風に日焼顔が笑った。
「だったら存分に俺も走れるなあ、いざとなったら頼んだよ、宮田?」
頼みにしている信じている。
そんな笑顔に誇らしくて、けれど強靭は山ヤへ釘刺し笑いかけた。
「頼まれますけど無理はダメです、」
「ははっ、おまえらしい返事だなあ?真面目で堅物だ、」
笑って頷いて、ぽんっ、肩ひとつ大きな手が叩く。
この感触から懐かしい山にいる、こんな今に笑った雪の風、音を捉えた。
「後藤さん、人の声じゃありませんか?」
かすかな声、けれど風じゃない。
風まぎれてしまう音、梢なる音の向こう何かの声がいる。
唸るような呻くような声、その確認に山ヤの警察官は瞳を細め頷いた。
「人だ、二人いる、」
(to be continued)
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第77話 結氷 act.8-side story「陽はまた昇る」
立山連峰の遭難事故は1965年から2007年までに総計2,900件を超える。
三千メートル級が連なる山塊は急峻な黒部峡谷をしたがえ複雑な地形を成し、今も氷河を遺す。
この氷河に幾星霜も削られた氷食尖峰は威容を誇り「岩と雪の殿堂」と呼ばれ、その気象は激しい。
日本海側気候による世界有数の豪雪と強風は厳しく積雪期の山行は高難度を謳われている。
特に剱岳は日本海に面するため厳冬期は悪天候が続き遭難事故が起きやすい。
そして1969年元旦、大晦日から十日間におよぶ猛吹雪に15パーティ81人の大量遭難事故が起きた。
「宮田も富山県警の例の本は読んでたな、なら昭和44年の事故も知ってるだろう?」
ざぐり、ざぐり、雪踏み分けながら深い声が訊いてくれる。
その問いかけに英二は記憶のページから答えた。
「はい、たしか9名が亡くなられて行方不明が13名、芦峅寺の方も1人滑落されましたよね?」
「そうだ、命に別状はなかったがな、」
頷いてくれる声に息が白い。
わざと大きめの声で話し山をゆく、この声が遭難者に届けばいい。
そんな願いに話しながら時おり耳澄ます道、また深い声が続けてくれた。
「芦峅寺ガイドは確かに古くから山岳救助のプロ集団だよ、でもな、それは山で仕事して生きてる仲間で助け合う伝統なんだ、スポーツや遊びと違う。
だから昭和44年のときも芦峅寺の皆さんが引き揚げたことは当然なんだ、仲間が滑落して危険な目に遭うことは助け合いの伝統とは違うって俺は想うよ、」
噛みしめる、そんなトーンで話してくれる言葉は厚い。
そこには後藤の「山」がある、その深みを見つめながら微笑んだ。
「山の相互扶助は、まず自分の仲間を援けられなかったら意味が無いと俺も思います。万が一の時は俺だって光一や後藤さんを優先しますよ?」
自分だって同じ立場なら同じ判断をするだろう?
そんな本音に笑いかけた先、小雪のなか山ヤは笑ってくれた。
「そうだなあ、俺もおまえさんを取っちまうだろうよ?どんなにダメだって言われてもな、俺の祖父さん達も皆そうだったよ、」
言われた言葉につい立ち止まりたくなる。
すこし歩み緩めて、また周囲に耳澄ますと英二は問いかけた。
「後藤さんのお祖父さんも山を?」
「おう、母方の家がマタギだったんだよ、」
笑って言われた事が解かるから納得してしまう。
だから後藤の身体能力は優れている、その感心に笑いかけた。
「もしかして小国マタギの家系なんですか?それなら山に強いのも納得です、」
狩猟と採取、その二つ山に求める人々の話を読んだ事がある。
そして後藤の出身が山形県なら小国だろう?そんな推測に深い瞳ほころんだ。
「お、おまえさん良く知ってるな?山のことなら何でも読んでるのか、」
「はい、ハマると何でも知りたい性質なんです、」
笑って答えた先、愉しげな眼差しは深く誇らしい。
その瞳から経年はるかに厚い山ヤは白い息くゆらせ、また教えてくれた。
「俺の祖父さん達はな、あちこちの山から生きる糧をもらって命繋いできてるよ?だからこそ山への礼儀は厳しくてなあ、絶対に無理な山行はしないんだ。
山の悪天候は山神サンからの足止めだって言ってな、それを無視したら山の恵みは貰えなくなるって事らしい、たぶん芦峅寺ガイドも同じだろうって思うよ、」
山には山のルールがある、それを伝統に守り生きてきた。
そんな息遣いは自分の育った街に無い、だから眩しくて憧れるような本音がある。
―だから俺は光一に憧れるんだろうな、自分と違い過ぎて、
光一も山に生きる家の出自でいる、その全ては知るほど眩しい。
そして自分が育った場所は、立場は、今日の地下書庫に交わした言葉通りだろう。
『お祖父さまと君は似ていますね?宮田次長検事にも鷲田君にも。鷲田君は君を可愛がっていますよ、宮田次長検事の葬儀でも君をよろしくと皆に言って』
あの男が告げたことは事実だ、そして自分の骨肉であることは拒めない。
それでも「山」への憧れも喜びも真実で本音で、だから「山」で大好きな笑顔ひとつ護ろうとしている。
―周太、観碕が言う通りの俺なんだ、でも周太に相応しい男になりたいよ、山で単純に生きて、
単純に生きたい、自分の腕と脚と心ひとつで。
そう願い始めたのはいつだったろう?
たぶん最初からずっと願っている、そして「山」を見つけた。
こんな想い抱く自分だから今この雪山も嬉しくて、ただ素直が綺麗に笑った。
「後藤さんのお祖父さん達の気持ちも、谷口さんのお母さんの気持ちは当り前だと俺も思います。知るほど怖いのも山です、」
率直な感想に微笑んだ口許から息は白い。
この低温より冷厳な場所を富山県警は管轄する、その現実に山ヤの警察官が微笑んだ。
「そうだなあ、知っているほど怖いのも本当だな?でも宮田、おまえさんは知るほど怖いほど、山に惹きこまれちまってるだろう?」
本当にその通りだ?
そんな言葉たちに英二は肚底から綺麗に笑った。
「はい、危険ごと俺は好きですよ?こんなことレスキューが言ったら怒られますけど、」
「ははっ、その通りだ。危険が好きなレスキューなんざ困るなあ、」
大らかに笑って共に雪踏み分けてゆく。
その並んだ青い冬隊服姿の肩は逞しい、けれど抱える病に問いかけた。
「でも後藤さんの体は危険にさらしたくありません、呼吸や胸に痛みはないですか?」
「大丈夫だよ、おまえさんも心配性なとこあるなあ?」
答えてくれる笑顔は声から元気でいる。
そんな容子へ安堵しながら率直に笑いかけた。
「心配も俺の任務ですよ?国村小隊長が俺だけ後藤さんと組ませたのは、後藤さんの体調管理のためですから、」
警視庁山岳会長が呼吸器系を患った、この不安要素は未だ隠しておく方が良い。
そう国村が判断したから余人なく向きあう山路、小雪ふる風に日焼顔が笑った。
「だったら存分に俺も走れるなあ、いざとなったら頼んだよ、宮田?」
頼みにしている信じている。
そんな笑顔に誇らしくて、けれど強靭は山ヤへ釘刺し笑いかけた。
「頼まれますけど無理はダメです、」
「ははっ、おまえらしい返事だなあ?真面目で堅物だ、」
笑って頷いて、ぽんっ、肩ひとつ大きな手が叩く。
この感触から懐かしい山にいる、こんな今に笑った雪の風、音を捉えた。
「後藤さん、人の声じゃありませんか?」
かすかな声、けれど風じゃない。
風まぎれてしまう音、梢なる音の向こう何かの声がいる。
唸るような呻くような声、その確認に山ヤの警察官は瞳を細め頷いた。
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