萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第20話 温赦、介抱act.1―side story「陽はまた昇る」

2011-11-01 20:39:02 | 陽はまた昇るside story
全て、この腕に抱いて、



第20話 温赦、介抱act.1―side story「陽はまた昇る」

岩場での登攀と救助の訓練後、青梅署会議室での反省会は12時前に終わった。
終わってすぐ会議室の窓辺で、発信履歴から通話ボタン押す。
コール音もなく、すぐに電話は周太へと繋がった。
繋がった気配が、不安に揺れている。そっと英二は訊いた。

「泣いてる?」

訊いたのに、懐かしい声はただ、呟くように言った。

「…いま、奥多摩は晴れている?」

悲しい痛い、そんな声。
ああ、きっと、やっぱり気づいてしまった。
きっと今、あの純粋な心には古傷がまた裂けていく。
悲しい痛い想いがそっと、英二の心にも爪立てる。それでも微笑んで英二は言った。

「ああ、青空が気持ちいいよ。周太に見せたいな」

いつもなら「みたい」ときっと、恥ずかしそうにねだってくれる。
それなのに、暗く沈んだ、悲しみ痛んだ声に告げられた。

「晴れているならいいんだ…それだけ。訓練中にごめん」

言い終わって周太は電話を一方的に切った。

誰かに昼を誘われて、気づいてしまった。
安本が周太をあの店から遠ざける、その理由にきっと気づいた。
そして多分、このまま、あの店へ行くつもりでいる。そうじゃなかったら、あんな声であんな切り方は周太はしない。

昼に誘われた後だから、もう特別訓練は終わったということ。
もうすぐ術科センターのある新木場から電車に乗るのだろう。
新木場から新宿と、河辺から新宿。20分ほど新木場からが早い。

―このままだと周太の方が、先にあの店に着く。

今日の周太は、射撃の特別訓練員として拳銃使用許可を得て、腰に拳銃を提げている。
その拳銃を提げたまま、あの店へと向かってしまったら?

純粋なだけ傷も大きい周太。
本当は人を傷つけることなんか出来ない。
それでも、13年間の孤独と苦しみは純粋な分だけに強く、周太を縛りつけている。

もし独り、あの店で、あの主人に対峙したら?

13年間の孤独と苦しみが一挙に抉って、心壊されて。
そうして反射運動のように、片手撃ちの右腕があがり、右示指はトリガーに懸けられてしまう。
あげられた右腕、右手に握りしめるグリップと右指のトリガー、その右指はどう動く?

―もう少し周太の訓練、時間がかかると思っていたのに

誤算に英二は唇を噛んだ。
新木場と河辺の、20分の時間差。自分は間に合うのだろうか。
どんな手を使えばいい?どうしたらこの距離と時間を縮めて、先回りが出来る?

間に合うか?そんな可能性は低すぎる。

それでも独りにしないと約束をした、だから今だって自分はあの隣に帰る。
もし瞬間に間に合わなくても捉まえる、そして「代り」を務める位は出来るだろう。
ずっと見つめてきた覚悟とザックを掴むと、隊服のウィンドブレーカーを着ながら英二は歩きだした。

「宮田くん、」

ザックを片背負いにした背中を、ぱんと軽く叩かれた。
足を止めずに振り向くと、隣を国村が歩いていた。
細い目で微笑んで、さらり国村が訊いた。

「いまの、雲取山の電話だろ?」
「ごめん、今、説明する時間ないんだ」

構わず行こうとする英二を、ちらっと細い目で眺める。
そのまま国村は、岩崎とすれ違いざまに掌を出した。

「岩崎さん、ミニパトちょっと使っていいですか?」
「おう、どの山まで巡回だ?」

岩崎も並んで歩くと、ミニパトカーの鍵を取出して渡す。
ありがとうございますと受取って、国村が岩崎に答えた。

「たぶん、都心方面の山です」

穏やかな岩崎の笑顔が、英二を見て、笑ってくれた。

「そうか、まあ、気をつけて。あとで報告よろしく」
「了解。ありがとうございます」

そんなふうに笑って返事すると、国村は英二の腕を掴んだ。
そのまま英二を駐車場に連れて行き、助手席の扉を開く。

「ほら、乗って」

肩を押されて、助手席のシートに英二は押し込まれた。
ばたんと扉が閉められて、国村もさっさと運転席に乗り込んだ。

「シートベルトしっかり締めな。ザックは後部座席の足許に置いて」

言いながら座席とミラーの位置を少し直し、アクセルを2回軽く踏む。
それからブレーキを踏んで、キーを差込み回す。
クラッチをポンと踏み、チェンジレバーをカチカチ軽く動かした。

「新宿署方面で、いいんだよね?」

新宿署、と国村は言った。
どういうことだろう、英二は運転席を見た。
その左手はギアチェンジをし、アクセルを軽く踏みこんだ。

「どういうこと、国村さん?」

状況が飲みこめない、英二は運転席の横顔を見た。
サイドミラーを確認しながら細い目は、英二を見て笑う。

「雲取山の電話は、新宿署にいるんだろ?」

国村は察しが良い。
たぶん周太の事も、日々の会話から察しがついたのだろう。
けれど今の英二は余裕が無くて、良く解らない。

「なぜ、そう思うんだ」

駐車場から公道へ出て、青梅警察署南で左折する。
ハンドルを捌きながら、国村は唇の端をあげた。

「藤岡くんの話を聞いた、それだけだよ。そのひとが一番、仲良いんだろ?」

誰より大切で好きな人。雲取山で英二はそう言った。
そして藤岡が言った「宮田はさ、湯原といると良い顔になるんだよな」

新宿署にいる事も、何気ない会話から国村は知ったのだろう。
なんだか、ちょっと可笑しくて英二は微笑んだ。
けれどこの状況は、どういうつもりでいるのだろう。運転する横顔に、英二は訊いた。

「ごめん、俺、今、余裕なくって、今の状況が掴みきれない。教えてよ」

ふうんと言って、視線を前に向けたまま、国村は口を開いた。

「宮田くんはさ。普段は動じないで、いつも笑っているだろ。だからさ、顔に出るのは、雲取山の電話くらいなんだよ」

言われてみればそうかもしれない。
ちょっと感心しながら、英二は国村を見た。

「昨日の朝からさ、覚悟している目のままなんだよね」

昨日、武蔵野署へ行く前に、吉村にも目の事は言われた。
昨日の朝、食堂前で国村も、何か気づいたような顔をしていた。

「今日の訓練でも本当は上の空だったろ?宮田くんが、訓練に集中しないなんて今まで無い。
変だなってさ。それで思ったんだよ、雲取山の電話に困った事が起きる、そんな心配があるんだろなってね、」

国村は飄々として、けれど細い目はよく見ている。
祖父母に育てられた為と、山で育ったからだろう。そういう細やかさを、国村は持っている。

「そうしたらさっき、電話を切った顔が真っ青になった。それから焦って、外へ出ようとした。
急いで行かなくっちゃいけない、けれど間に合わないかもしれない、それでも行こう。そんな感じに、見えたんだけど?」

国村は、ファイナリストに嘱望される山ヤだ。
そして農家としても、繊細な自然に向き合って生きている。
そんな国村は考えも言葉も細やかで、すっきりとして無駄が無い。
そういう国村は話していて余計な気遣いがいらない。そして、こんな時は本当にありがたい。英二は微笑んで訊いた。

「新宿まで、送ってくれるんだ?」

すっと細い目が英二を見て笑った。

「新宿の何口方面?駅手前で降ろすよ、駅前は混むからさ」

やっぱり良い奴だ。
ありがとうと微笑んで、でも、と英二は続けた。

「車でもさ、新宿まで1時間は掛かるよな?」
「リミット何時なわけ?」

会議室で電話が切れたのは12時だった。
新木場から新宿は40分。手続きと徒歩を考えても、プラス10分程度だろう。

「12:50かな、…厳しい、よな」

今はもう12:10だった。
ふうんと呟くと国村は、赤いスイッチを1つ押しながら言った。

「その拡声器こっちへくれる?」
「あ、はい、」

英二が拡声器を外して渡す。
ありがとうと受取りながら、国村は唇の端をあげた。

「シートベルト締めているね?じゃあ手摺に掴まりな」

言いながら国村は、拡声器を隊服の襟元へと器用にセットした。
それから、もう1つの赤いスイッチを白い指が押す。

「え、そのスイッチって、」

英二が訊き返そうとした途端、サイレン音が鳴り響いた。
拡声器のスイッチを国村はONにする。

「 “緊急車両が通ります、道を譲って下さい” 」

道路上を国村の声が整頓する。
路面状況を確認すると国村は、アクセルをゆっくり踏込み始めた。
ゆるやかな加速がトップスピードに近づいていく。

冷静沈着だけれど国村は結構豪胆で、驚く登攀をする事がある。
そういう性格は山ヤ向きかなと思う、でもここは山じゃないだろう、英二は少し笑った。

「サイレンて自己判断で使用できるんだ?」
「緊急時なら、問題無いだろ」

拡声器をOFFにして、唇の端で笑って、国村は言った。

「瞳がきれいで、すぐ赤くなる位に純情で、笑顔が最高にかわいい。誰より大切で好きな人」

どんなひとか訊いていい?
そう雲取山で訊いた国村に答えた英二の言葉を、今ここで言ってくれる。
あの訓練の夜に交わした短い会話の記憶、その言葉と一緒に英二を見遣って、底抜けに明るい目は微笑んだ。

「そういうひと、いいよね」

拡声器をまたONにして緊急アナウンスをし、またOFFにする。
左手で器用に操作しながら、右手はきちんとハンドルを捌いていく。

「そういう人のさ、緊急事態は放っとけないだろ」

アクセルを踏込んで、からっと国村が笑う。
国村は、冷静沈着だけれど、からりと底抜けな明るさがある。
飄々としながら大胆で、からりと優しい。

知り合って1ヶ月と1週間だけれど、こんなふうにいい奴だ。
そして今こんなふうに、助けようとしてくれている。
嬉しくて英二は素直に微笑んだ。

「ありがとう、本当に助かる、」

ちらっと横目で笑って、国村は言った。

「山ヤはね、仲間同士で助け合うだろ?」

国村は同じ年だけれど、山ヤのキャリアは20年程になる。
そういう先輩に、そんなふうに言われて嬉しい。
嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「そっか、」
「そのうちさ、飲みの時にでも奢ってよ。出来れば、そのひとも一緒にね」

やっぱり国村はいい奴だ。
こういう奴は好きだ、出会えてよかった。嬉しくて、英二は笑った。

「俺の大切な人はね、ほんと、かわいいよ。まじ驚くかも、国村さん」
「ああ、いいね。俺あんまり動じないほうだからさ、たまには驚いてみたいかな」

ミニパトカーは時速100km以上を保ったまま走行していく。
緊急車両だと信号も止まらない、結構な緊張状態だろう。それでも国村は軽やかに笑っている。
こういう所がいい、大らかに肚が据わった男は憧れる。この憧憬に英二は素直に笑いかけた。

「国村さんてさ。山でもすごいけど、運転も大胆だな」
「うん、よく言われる。まあでも、ドラテク良い方じゃないの。たぶんね」

言いながら国村は、左腕のクライマー時計をちらっと見、アクセルを踏み込んだ。
また拡声器の操作をし緊急車両の通告をする、その冷静な横顔の車窓は流れが速い。
かなりスピード出ている?思ってスピードメーターを見ると驚く数値になっていた。

―あまり敵にはまわしたくないタイプだな、

こんなふう軽く笑いながら冷静に、超法行為を合法的にやってしまう。
こういう男は味方なら頼もしい事このうえない、けれど敵に回せば酷いだろう。
そんな考えがなんだか楽しくて、助手席で笑う内に12:36、新宿農協会館に着いた。
農協会館なのが兼業農家の国村らしいな?そう思った横から本人が、笑って教えてくれた。

「たまに来るんだよね、青年団の農業イベントとかさ」
「あ、それで道に慣れてたんだ」

まあねと軽く笑って、国村が言った。

「じゃ悪いけど、ここからはダッシュしてくれな」
「ほんと助かった、ありがとう」

礼を述べながら英二は扉を開いた。
その背中に国村が笑った。

「任務の報告メール、よろしくね」

気に掛けてくれている。それが嬉しいなと素直に英二は思った。

「おう、了解、」

きれいに笑って、英二は扉を閉めた。

駅には行かず、あの店へと走った。
先回りで向かうと、まだ周太の来た気配は無い。

―良かった、

間に合ったらしい。
ザックを右肩へ背負い直しながら、はあっと英二は息を吐いた。
国村が緊急車両で走らせてくれた、そのお蔭で20分の時間差を飛越せた。
きっと今、警察官じゃなかったら自分は間に合うことは出来なかった。

「…は、…っ、」

全速で走った、乱れた息が唇こぼれて胸に熱い。
そっと英二は救助隊服の胸元の、ちいさな鍵に布越しに触れた。
指先ふれる固い金属の輪郭、この鍵の持主へと英二は心裡に微笑んだ。

―お父さんも援けてくれましたよね?

もし、さっき国村に声をかけてもらえなかったら、きっと間に合わなかった。
そして、もし周太が早く来ていたら、自分が無事につけなかったら?
こんな偶然の重なり合いが、周太の父の意思なのだと思えてしまう。
だからきっと大丈夫、自分はきっと救うことが出来るだろう。

―国村さんにもちゃんと、お礼しないと

パトカーを私用のために緊急車両で奔らせる、その責任を国村は軽やかに背負ってくれた。
それは決して容易なことじゃない、それでも国村は明るく笑ってくれる。
酒を奢ってくれたらそれで良い、そのとき本人に会わせてよ?
そう笑って済ませてくれた。

―ほんとに良いやつなんだな、

きっと一緒に飲んだら楽しいだろう、それで周太も楽しんでくれたら嬉しい。
でも、周太はどんな反応をしてくれるのだろう?恥ずかしがって大変だろうか?

―ほんとうに、無事に、周太と国村さんと飲みに行こう

本当に無事に、飲みに行かないといけない。
必ず今、逃すことなく瞬間を掴んで「無事」を勝ちとり、約束を果たす。
この近い未来を真直ぐ見つめて、英二は駅へ向かって歩き始めた。

駅からのルートはここしか、周太は知らない。
行き違う心配はまず無い、そして多分、活動服姿で周太は現われる。
今日は特練の訓練日だから、濃紺の活動服姿で拳銃を携行している。
殉職した父親の遺体と、全く同じ姿で、周太は現われるだろう。

切長い目の視線の先に、紺色の活動服が映った。
小柄な体躯、きれいな姿勢の歩き方、もう見なれている愛しい気配。
けれど制帽の下の、黒目がちの瞳が虚ろの悲哀に充ちて、英二の胸が締めあげられた。

―周太、

英二の長い歩幅が、いつもよりも大きく前へ出た。
真直ぐに周太を見つめながら歩み寄っていく、けれど周太の瞳には今、英二は映っていない。
思いつめた哀しい虚無の眼差し、あの黒目がちの瞳には今、13年間の孤独しか見えていない。

そんな孤独は今すぐに、自分が毀してやる。
ただ自分の意思を見つめて英二は、そっと周太の前に立った。

「周太、」

静かに低く透るように、そっと呼びかける。
そうして静かに長い腕を伸ばして、小柄な肩を抱きしめた。

「周太、」

きれいに笑いかけて、はっきりと呼びかける。
黒目がちの瞳がゆっくり見上げて、大きく見開いた。
この顔かわいくて、好きだな?こんな時でも可愛いと思える余裕が自分で可笑しい。
この大好きな顔を見つめながら英二は、右手でオレンジのパッケージを器用に破いた。

「ほら、周太」

はちみつオレンジのど飴、周太の好きな飴を長い指で、そっと周太の唇に含ませる。
指先ふれる唇の、やわらかな温もりが愛しくて今、抱きしめたままに泣きたくなる。
良かった、またこの温もりに触れることが出来た、うれしくて幸せで英二は微笑んだ。

「うまいだろ?」

黒目がちの瞳が揺れて、うすく水漲りだす。
涙の底から真直ぐ見上げてくれる、そして固く結ばれていた唇がそっとほどかれた。

「…どうして、みやたが…ここにいるんだ」
「だって、呼んだろ?」

―…みやた、救けて

周太の唇は確かにそう動いてくれた、微かだけれど確かに聞こえていた。
こんな状態になっても、自分を頼って甘えてくれた。それが嬉しくて英二は笑った。

「電話の様子が気になった。それで、そのまま来たから、ほら」

背負った登山用ザックと、そこに提げた山岳救助隊ヘルメットを示す。
スカイブルーのヘルメットには「警視庁」と白く染め抜かれている。
青いウィンドブレーカーの背中も同様だった。

「…あ、」

周太の瞳が驚いて大きくなっている。
この顔やっぱり、かわいいな。こんな時でも思ってしまう、自分が可笑しい。
山岳救助隊服の姿は周太には初めて見せる、こんなタイミングだけれど見てもらえて嬉しい。
卒業配置から1ヶ月10日、もう自分は着馴れたけれど周太には珍しいだろう。

「ちょうど訓練が終わった時に電話したんだ。それで、そのまま来た」

笑いかけて告げた言葉に、黒目がちの瞳ひとつ瞬いた。
そして不思議そうに首傾げこんで、そっと周太は教えてくれた。

「…俺も、あのとき、電話かけようとして、」
「じゃあ、同時にかけたんだな。俺達ほんと気が合うな」

ほんとに気が合う。
こうして今も、きちんと廻り会えて話している。
新木場と河辺、新宿へは20分ほど新木場からが早い。
それでも自分は間に合った、きっとそれも周太には不思議だろう。
こんなこと自分でも奇跡のよう想っている、この奇跡への感謝に英二は綺麗に笑った。

「俺すごいタイミング良かったよな」
「…タイミングよすぎるよ」

周太の瞳から涙があふれた。
やっと素直に泣いてくれる、この涙が愛おしい。
愛しさに笑いかけながら、英二は指で想う人の涙を拭いお願いをした。

「ちゃんと甘えて俺を頼ってよ。だから我儘きちんと言って」
「…ん、いう…」
「今日はもう非番だろ、とにかく携行品戻しに行こう」
「…わ、かっ、た」

声が震えている。
ほんとうは周太の心はずっと、怯えていたのだろう。
純粋で人を疑う事を知らない、無垢なまま美しい周太の心。
穏やかで繊細なまま優しい、そういう周太の心にはこんな行動は耐えられない。

それでも突き動かされるほどの、13年間の周太の孤独と苦しみ。
全て一緒に背負って分けてもってやりたい。そう思った時からずっと、一つの覚悟をしてきた。
けれど、それは不要になるだろう。この明るい先に微笑んで、英二は静かに口を開いた。

「必ず周太の隣に俺は帰る、絶対に周太を独りになんかさせない。どんなに辛い冷たい現実があっても俺は、周太の隣が幸せなんだ、」
「…ん、」

黒目がちの瞳から、きれいな雫があふれてくる。
ほらこんなに、この隣はきれいだ。嬉しくて、愛しくて大好きだ。
こんなにも想って求めてしまう瞳を覗きこんで、英二は静かに告げた。

「だからお願い、ずっと隣にいさせて」

きれいに英二は微笑んで、そっと抱きしめた。
2枚の制服を透かす温もりが嬉しい、胸に伝わる涙のふるえが嬉しい。
うれしくて、ただ嬉しくて幸せで、この隣をもう独りになんか出来ない。



新宿署で周太は、携行品を保管へ戻した。
拳銃なんか本当は周太には似合わない、ずっと使わないでいられたらいい。
そんなふうに願ってしまう、あの台所に立つ周太の方がずっと似合う、そう自分は想っている。

―いつか拳銃を手から離してあげたい、自由にしてあげたい

どうしたら周太を自由に出来るのだろう?
どうしたら「殉職した父の軌跡を歩く」ことを無事に終わらせてあげられる?
想い考えを廻らせながら周太に着いて歩いていく、そして新宿署独身寮の周太の自室へと英二は初めて入った。
警察学校のあの部屋が懐かしい、あの頃への想いと英二は微笑んだ。

「相変わらず、きれいにしているな」

初任科教養の頃、いつも周太の部屋にあがりこんではベッドを指定席にしていた。
いつも並んで座って勉強をして、一緒に笑い合って、そのまま一緒に眠りこんだ。
徹夜勉強を口実に夜から朝までずっと、周太の隣を独り占めにする。
そうして隣で眠れる幸せを、そっと抱きしめて確かめていた。

―でも、今日は座れないな?

山の訓練から帰ったばかりで、救助隊服は泥だらけだった。
それなのに黒目がちの瞳は「どうして座ってくれないの?」と訊いてくれる。
そんな眼差しに周太にも「指定席」が特別だったと解かって嬉しい、嬉しくて英二は微笑んだ。

「そのまま来たからさ、座ったらベッド汚しちゃうだろ」

けれど本音を言ってしまえば、今すぐ周太を抱きしめて、このベッドに沈めたい。
こんな時なのに相変わらず自分は、周太を独占する事ばかり考えている。
こんな自分はやっぱり図太い、可笑しくて笑った英二に周太は少し微笑んだ。

「ん…ありがとう、気を遣ってくれて…」

気恥ずかしげに礼を言って、周太はクロゼットを開いた。
着替えを出そうとする、その背中にふっと思いついた英二は横から服に手を伸ばした。

「周太、俺のセレクトで着てよ?その格好で連れて歩きたいから」

提案に黒目がちの瞳が見上げてくれる。
また羞んで、それでも素直に頷いてくれた首筋が薄赤くなっていく。
そんな様子微笑んで、英二はクロゼットの前で組み合わせを考えた。

―明るい穏やかな感じがいいな、今の周太には特に

そう廻らせた思考に、あのブナの巨樹が寄り添った。
あれからもう何回か、日々の合間に独りブナの下に立っている。
あの大いなる梢に降りかかる全ての水を抱いて、清らかな水に変えるブナの木。
そんな巨樹の姿はどこか、降りかかる辛い運命にも真直ぐ佇む周太と似て慕わしい。
そんな想いを抱いてブナの木を見上げては、自分を励まし辛い訓練も喜びに変えきた。

―そうだな、あのブナの木のイメージいいな

そう決めて淡いミントグリーンのニットを出した。
明るい茶色のカーゴパンツ、真白なVネックのTシャツ、やわらかなグレーのGジャン。
いつも見上げるブナの色彩を想い、この後の時間への祈りこめるよう1つずつ選んでいく。

どうか、13年間の苦しみに壊されそうな心を、あのブナにも支えて欲しい。
この隣の幸せを許されるのなら、何にでも願って叶えたい。
そんな想いに一式を揃えると英二は、笑顔で手渡した。

「はい、周太、」
「ありがとう…」

素直に受取ると、くるり周太は背を向けてしまった。
そのまま着替える背中が恥ずかしそうで、きれいな赤い首筋が可愛い。

―俺に見られるの恥ずかしいんだ?

こんなふうに恥らってくれると、逆に色々したくなる。
こんな可愛いと困ったな?そう想いながらも着替える背中を見てしまう。
ひとり困りながらも幸せに見ているうち、すぐに周太は着替え終わった。
その背中にGジャンを着せかけて、そっと抱きしめると英二は静かに微笑んだ。

「周太、彼に会いに行くのなら、一緒に行かせて?」

どんな過ちを犯そうとしたか、全てを解ってるよ。
けれどそんな事は問題にならない、ただ離さない、傍にいさせてほしい。
この想い全てをこめて抱きしめる、自分でもあきれる位この隣がいとしくて離れられない。
だからどうか今も一緒に行かせてほしい、そう願う腕のなか周太の唇がそっと披いてくれた。

「…好き、」

とけるよう微かな声、けれど素直な想いが響いてくれる。
こんなふう言ってもらえて嬉しくて、もっと近づきたくて抱きしめたまま、長い指を周太の前髪に絡めてふれる。
すこしだけ吐息こぼれてオレンジの香あまい、そっと頬寄せて英二は正直なままに笑いかけた。

「知っているよ。けれど俺の方がもっと周太を好きだ」

きっとずっと自分の方が想いが強い。
だってこんなに自分は直情的で、独占欲が強い。
本当はもっと、何をしたって隣にいたい。けれど、それでは本当に守ることにならない、そう解っている。
だから我慢して少し距離を保っている、でも本当は、ずっといつも傍にいたい。

「大好きだよ、周太、」

だからこそ何かあれば、こんなふうに。
いつだって覚悟と一緒にすぐ隣りに自分は帰ってくる。



いつものように暖簾を潜ると、客は誰もいなかった。
昼時前の店内は静かで、けれど湯気はいつも通りに穏やかに温かい。
ウィンドブレーカーの背中に「警視庁」を背負った救助服姿のまま、英二は店に入った。

「こんにちは、」

周太の父と同じ「警視庁」の人間、それを見た主人の反応を見たい。
この反応から彼が今、犯した過去の罪に向き合う姿勢が窺えるだろう。
そんな想いに微笑んだ英二の、警視庁救助隊制服姿を主人が振向いた。
その眼差しは少し驚いたよう見開かれ、けれどすぐに微笑んだ。

「お客さん、警視庁の人だったんだ」
「俺のこと、覚えてくれていたんですか」

はいと頷く主人の瞳は、悲しげだけれど明るい。
こういう瞳なら、きっと大丈夫だろう。きっと周太の父の想いを、彼は受けとめられている。
そんな彼の気配が嬉しい、嬉しいまま素直に笑いかけた英二へと、主人は微笑んで答えてくれた。

「笑顔がね、とてもいいなと思って、いつも拝見していました」

主人とは3年間、このカウンター越しに顔を合わせてきた。
そして主人は英二を覚えてくれて、親しげな微笑みを向けている。
この様子はたぶん、前の主人からも英二の事を聴いているのだろう。
父に連れられ小さい頃から常連としてここに座ってきた、この歳月に培う信頼は彼にもある?
そこに今日は賭けたくて、その想い肚に見つめながら英二は綺麗に笑った。

「ありがとう、」

笑いかけて主人の正面になるカウンターの席へと座った。
ここが一番、主人の表情がよく見える。この席で今から駈けを始めていく。
このカウンター越しに育まれた、3年間の主と客の繋がりを今、信じて向き合いたい。

「ほら、隣座ってよ」

周太の掌をとり、隣りに座らせたる。
その掌がかすかに震えている、その震えが痛ましくて愛しい。
カウンターの下そっと掌を握りしめながら、微笑んで英二は主人を見あげた。

「おやじさんのラーメン、俺、好きなんです」
「おや、嬉しい事を言ってくれるね」

主人の顔が誇らしげに笑った。
こういう顔がもう出来るなら、きっと今の仕事と生き方に誇りを持っている。
良かった、そう心から想うまま静かに笑って、英二は訊いた。

「おやじさん、どうしてラーメン屋になったんですか」

一瞬、主人の手元が止まった。

その手元が微かにふるえ、それでも英二の顔に視線を向けてくれる。
すこし怯えのこもる視線、それを受けとめるまま微笑んで静かに見つめ返す。
どうか今、ひとりの客として男として、信じて話を聴かせてほしい。
そうしてこの隣の、純粋な心に教えてほしい。

自分を殺した男の心すら温めて癒した周太の父の、記憶と想いの全て。
それを今、本人の口から余すことなく正直に語ってほしい。

―大丈夫、俺はあなたのこと嫌いじゃない

そんな想いで英二は主人を見つめていた。
ふっと主人の顔が穏やかになる、そうして彼の口が静かに開いた。

「儂はムショ帰りなんですわ…人さまをね、殺しちまって。お客さんと同じ、警視庁の警察官でした」

切長い目で、真直ぐに主人の顔を見つめる。
彼の目は悲しげで、懐かしさへと温かい。その眼差しはどこか書斎の写真と似ていた。
やっぱりこの主人は、周太の父の想いの欠片をちゃんと持っている。

―きっと13年間ずっと泣いてきたんだ

尽きること無い涙、その気配が嬉しくて痛ましい。
この13年間を今ここで受けとめてあげたい、そっと、やわらかく英二は微笑んだ。

「そう、…辛かったですね」

犯人に温かな心を教えてほしい、そう最後に願った周太の父の想いを自分の心に重ねる。
きっと今ここで、周太の父も一緒に話を聴いてくれている、この胸に提げた合鍵に祈りはある。
そんな想いと見つめる主人の目が少し大きく、また温かくなっていく。
そうして主人は手を動かしながら、ゆっくりと話しだした。

「あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです…けれど撃たなかった。その隙に振向いた俺と警察官の目が、一瞬だけ合いました」
「うん…」
「彼の目は、生きて償ってほしい、そう言っていると感じました。それなのに怯えていた俺は、そのまま撃ってしまった」
「…うん、」

穏やかに静かに英二は、ゆっくりと主人を受けとめていく。
どうか全部、自分に受けとめさせてほしい、周太の父もきっと今ここで聴いている。
だから安心して今ここで、懺悔も後悔も全て聴かせてほしい。そんな想い佇む英二に安堵するよう、主人は言ってくれた。

「あのひとの目を、俺は一生忘れられません。」

きっと真直ぐで穏やかで、きれいな目だったろう。
その日も本当は、彼は家に帰って、息子に本を読んで聴かせる約束だった。
家族での温かな時間を過ごし、愛する妻と一日を教え合って、ふたり幸せに眠る約束だった。
ただ一発の銃弾に果たせなかった約束が、痛ましくて切ない。そんな想いに鍵へふれた英二へと、主人は話しを続けてくれた。

「取り調べてくれた刑事さんが、また良い人でね。俺の話をさ、根気よく、本当によく聴いてくれました。
亡くなった警察官の友人だと、言っていましたよ…俺のこと恨んで当然なのに、それでも俺を受けとめてくれて、嬉しかった」

友人との約束の為だけに、安本はこの男を生かした。そして償いをさせて、生き直させたかった。
あの13年間の涙を見てしまった、今はその想いが解る。だから自分はこうして聴かせてもらえる。
いま隣で周太はきっと父の笑顔を想いだして聴いている、その記憶の笑顔が温かければ良い。
カウンターのした、長い指に握りしめた少し小さな掌は冷たい。この温度に緊張が解かる。

―大丈夫、

包んだ掌に想い伝えて、温める。
ゆっくり緊張を融かすよう掌にぎりながら、英二は主人の言葉を聴いた。

「ムショ出て、もとの組に行ったら追い出されました。お前なんか存在しない、そんなふうに無視されて。
 辛かったです…寒い日でね、体も心も、すっかり冷えちまった。それなのに腹は減って、なんだか情けなくてね」
「そう、…悲しかったね、」

ええと主人は頷いて、そっと言った。

「それで目の前に現われた、ラーメン屋に入りました」
「…うん、」

そっと微笑みかけて、英二は受けとめる。
だいじょうぶ、あなたの話は素敵だよ、だから聴かせてほしい。
そんなふう目だけで優しく主人を促していく、それが伝わるよう主人は少し嬉しそうに笑ってくれた。

「そのラーメンが旨かったんです。ひとくち啜ったら、あったかくて。あったけえなあ、思ったら涙が出てね。そして思いました、」

ちょっと切って、主人が微笑んだ。

「ああ俺が殺しちまった人は、もう食えねえんだ。そう思ったとたん涙が出てね。あふれだしたら、もう止まらなくて。
このカウンターの隅っこで泣きじゃくっていました、そうしたら店の親父さんがティッシュくれてね、奥の部屋で話を聞いてくれました」

周太の瞳に、ひとつ何かが響いた気配を感じた。
どうか周太の壊されかけた心が今、温められて、癒されてほしい。
そんなふうに祈りながら見つめるカウンターの向う、手を動かしながら主人はゆっくり言葉を続けてくれた。

「親父さんの心と、ラーメンの温かさが、じんわり肚にしみました。それで思ったんです。
俺もこんなふうに、誰かを温めてやりてえ。そう思ってね、そのまま店の親父さんに弟子入りしました。
けれど去年春に親父さん、急に亡くなって。親父さん家族が無かったんです、奥さんは亡くしたって言っていました。
それで俺が今は、この店を守らせて頂いています。なかなか親父さんの味には及びませんが、けれどいつも思うんです」

目を上げた主人は悲しそうで、けれど温かな明るい顔をしていた。
そのまま主人は、英二と周太を真直ぐ見て微笑んだ。

「俺が殺しちまったあの人が、うまいと言ってくれるような、あったけえ味が出せたらいい。その味で誰かを温めてやれたら、
そうしたら少しでも罪が償えるかもしれない、それであの世で会えたら、ありがとうって言いたい。そんなふうに頑張らせて頂いてます」

言葉と一緒に温かな丼をふたつ、カウンターに置いてくれる。
その掌は厚く大きくて、火傷の痕といくつかの皺が刻まれていた。
奥多摩で生きる人たちに、こういう掌を多く見る。こういう掌は一生懸命に生きる人、それを自分は知っている。

―このひとは本物だ、

心に敬愛を想いながら、もういちど隣の掌を握りしめる。
すこし小さな掌は幾らか温まった、それを確かめて静かに手を開く。
それから両掌で丼を受けとって、頂きますと一口啜ると英二は綺麗に笑った。

「うまいです。肚に沁みて、温まります」
「そうですか、」

言葉に主人は嬉しそうに微笑んでくれる。
その朴訥とした笑顔へと、英二は心から綺麗に笑いかけた。

「きっとね、亡くなられた警察官も、うまいなあって言ってくれますよ」

主人の目が大きく瞠られ、ゆっくりと水漲っていく。
そのまま主人は深く頭を下げて、言ってくれた。

「…ありがとうございます、」

深々と下げた頭をあげた主人の顔には、温かな笑顔が咲いていた。
その目から頬へゆるやかに光が伝いだす、そのとき隣の気配が微かに動いた。

「…、」

ずっと黙って見つめていた周太が、傍らの箱からティッシュを1枚とった。
その手を精一杯に伸ばし、カウンターの向こうにいる主人へと示してくれる。
そして黒目がちの瞳は主人を真直ぐ見つめて、どうぞ?と目だけでただ微笑んだ。
その眼差しに涙の目は微笑んで、主人は少し左足を引き摺りながら、周太に近寄った。

「すみません、ありがとうございます」

大きな働いている掌が、受け取ってくれた。
こういう掌は信じられる、そう見つめた想いの真中で周太の唇が微笑んで披かれた。

「こちらこそ、ありがとうございます…」

きれいな笑顔で周太は笑った、その笑顔が嬉しくて英二は微笑んだ。





(to be continued)

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