よっちゃん農場のドタバタ日記

「よっちゃん農場」の日常。
 ~いち農家から小さなブランド作りの奮闘記~~

種まき。

2011年04月10日 | Weblog


今年も晴天の下、無事に水稲の種まきの日を迎えた。
今年も甥っ子タッツが大活躍!

今朝になって弟も駆けつけ、我が家だけでも、
私、親父、カミさん、やっさん、たっつ、弟
の6名。
隣家のシゲルさんちも5人。
併せて10人を超えるにぎやかな行事になる。





朝には、出荷用の商品作りと合わせ、
たっつも、一生懸命自分の昼飯「ニギリめし」を担当。
中学校は給食ではなく、お弁当らしく、
カミさんや、やっさんの指導を受けながらがんばっていた。
少しはお母さんの苦労も分かった!?貴重な時間。







近年の機械は優秀なので、人が少なくてもこなせる。
逆に言えば人が多すぎる場合は手にあまり、ひま~な時間が増えて…困る。

けれども、上手にワークシェアリングしながら作業は進み、
ウチのは2時間、シゲルさんちの4時間ほどかかり無事に終了。

一年で10センチ以上背が伸び、剣道でたくましくなったタッツは
機械への土補充と、苗箱の運搬という重要な作業を担当。


シゲルさんちの奥さんの話しが良かった。
ちょうどタッツの歳の頃、何を食べて育ったか。

今では主食の地位を追われそうな「お米」
昔は食べたくとも「お米」は「売ってお金に換えるもの」で、
子だくさんだった昔はなおさら、農家にとっては大事な作物だった。
だからこそ、今もそうだけれど、一生懸命作っていた。

毎日の主食といえば、小麦粉と油はそれなりにあったから、
それをクレープのように薄~く焼いたようなのが毎日、
それに時折、大根の葉っぱを混ぜたりしてオヤキ風に工夫したりして
食べていたそうだ。
それが毎日。
卵も貴重で、誕生日に食べれるかどうかというレベル。

そこから比べると、今毎日おかずは変わり、嫌いなら残す、捨てる。
誕生日にケーキは当たり前。

なんて、昔の人は如何に大変だったかを面白ろおかしく話してくれた。

「今の人たちはホ~~ントに恵まれでるよ~」

わかったか?タッツ。

…いや…俺も・・反省

流された街。

2011年04月09日 | Weblog


こちら方面に避難する人は南三陸が中心。
その人たちへのプロジェクトを立ち上げようという事もあり、
見ておかなくてはと、南三陸方面へ。

変な話しではなく、テレビや誌面で散々震災の風景を見た人はいる。
が、前回自分が感じたように、メディアというフィルター無しで、
現実に接する事が一番大事だと思う。みんなに起こりうる自然の恐ろしさだから。

そんな思いもあり、カミさん、親父、やっさんと全員で出発。





二時間かけて到着。
実際見た人から聞いていたとおり、街、の痕跡がトコトン流されてしまっていて、無い。
かつて来た記憶と重ねても、方向が分からなくなるほどの惨状。
「街そのものが無い」
まさにその通りの印象だった。

見えた瞬間、カミさんは涙し、やはり全員無言。
自分と同じように一日を過ごしていた人が、突然大津波にノまれ、こうなってしまった事を思って。

そして、その人たちのこれから。
ここから立ち上がり、整理して、再び以前のような日常を取り戻すまで。
それがとても、とても想像出来ない。
どれほどのガッツがあれば、前向きになれるのか。。。




明日は種まき。
それにむけ、甥っ子たっつが「手伝いたい!」と、連絡をくれる。
昔は「手数」と、親戚一同集めてやったもの。
今は機械がすべてをやってくれるから、手数はあまり必要なくなった。
けど、違った形で、たっつ、やっちゃんが今回来てくれた。
やっぱり食の中心の米作業。
人が生きる流れの節目。
これも、縁があれば、ぜひとも実際に見るべきものだと思う。

世の中、たぶん昔と違って、
分業というのか、仕事や住む場所によってなど、
関わる事と関わらない事がはっきりとしすぎてしまっている。
それが、無関心にも繋がってしまっている気もする。

今回の一連の事も、対岸の火事ではないと、ようやくみんな気づき始めて来た気がする。
情報過多の時代、どの問題が、自分が考えるべきものか、
それを判断できる感覚だけは失いたくはないものだ。




復興ツーリズム始動。

2011年04月08日 | Weblog
寝たのか寝てないのか中途半端な朝、起き抜けに改めて屋内、屋外を見回る。

棚類、タンスがグチャグチャ、土壁は完全にアウト。
それはもうしょうがないと諦めつつも、
今回は作業場が‥。

米関係の乾燥機やら、端には食品の加工場もある。
壁全てコンクリだが、ほぼ四方激しくひび割れ。
私だけではなく、周りも全て、無理にでもと、
前に進みつつあった毎日が再びリセットされた朝。
が、一方慣れたところで湧き水汲み、雨の予報に合わせ薪の確保と、
段取り良く停電対策。

パソコン使えず炊き出し用ご飯のラベルも
六十枚手分けして手書き。意地で出荷する。
やっさんが居て大助かり。


伸び伸びになっていた道の駅会議も強行開催。
ずっとそれぞれ考えてきた復興、震災の手助けも絡め
何がやれるのか、三時間議論。
自分たちも色々な怪我を負っている状況、見えない今後を抱え、
限られた時間、余裕をどこに注力するのかを揉む。

結果、やはり自分たちの発信、販促は大事。
が、そこに漠然とチャリティー募金では意味がない。
ならば、鳴子に集団避難する人たちを対象にして
彼らが日常に戻る為に手助け出来る事をやる!
そのために、出荷組合、道の駅の会社側がお互いに予算をひねり出し、
目的を意識したチャリティー、お金の使い方を。
一方的な押し付けではなく同じ仲間として歩むプロジェクト。
俺らにしか出来ないものを考えました。


動き出します。




今晩は、電気復旧喜び皆で呑みます

再現。

2011年04月07日 | Weblog
東京から清水やっさんがやって来た。
被災現場見ておきたいのと、うちの復興手伝いに。

夜、呑みながら震災の事、原発、これから日本はどーなるか、
なーんて事を話していたら、

突然、ダダダダーンッ、と揺れが襲って来た。

時間にして二分弱だったらしいが、あの日の再現か、
というぐらい強く、カミサン、やっさんは外へ。
一足早く就寝のオヤジの元へ駆け寄り、
声を掛けつつ覆い被さるが目は覚めず‥。

前回の南北と違い、東西向きに、激しく、速い揺れに家中が軋み
一瞬「今度はやばい!」と焦ったところで収まった。
同時に外で火花が見えた瞬間、全ての電気が消え、
真っ暗闇に。

ホッとするも、一同膝をガクガクさせながら、
懐中電灯を探し、ロウソクを灯し、ラジオをつける。
あの日と同じ。

違いと言えば、
あの日ラジオから流れたのは、
刻々と酷くなっていく状況を伝え続けるアナウンサーの声。

しかし今夜聞こえるのは意外にノーマルで、
時折音楽さえ流れている‥

照らした屋内の破壊ぶりとのギャップに違和感覚えながら、
とりあえずラジオ点けっぱなしで寝るともなく横になる。


やっさん、いきなり被災する夜。

田んぼ始動。

2011年04月06日 | Weblog

今日も強い霜。
日中はぽかぽか陽気。

花粉症対策でずっと食べ続けて来たヨーグルト、
なんでも、計画停電の影響で、ヨーグルト製造が難しいらしく、なかなか買えない。
「ひと家族様一個限り」の状態なので、
まさか自分だけ食べるわけにはいかないので中断中。

午前中は加工場でよっちゃん詰め。

午後、涼しくなってくる夕方から、ハウスにて稲の苗箱へ床土投入作業。

我が家は実質一町二反ほどなので、箱数にして三百ちょっと。

本番の種まきは週末に2件分。
物心ついた時から、種まき作業隣家のシゲルさんちと合同なので、機械も共同購入している。
あ~だこーだと世間話しながらやるのも、また風物詩か。

いよいよ田んぼが始まる。
ここでの噂でしかないけれど、長年の勘がそうさせるのか、
「ど~も今年も天気がおかしい」
と、ササニシキの作付けを減らし、作りやすいヒトメボレ一本にしぼる人がちらほら。




近年少しずつ増殖中の原木キノコ。