歯科医の先生も聖なる声だ
もう7月である。とうとう7月である。やっと7月である。・・・なんとでも言えと叱られてしまうが、時間のたつのは早いものだなぁと思う。こんなんじゃ、孫が20歳になるまでは生きていたいと思っている我が人生計画が、どんどん残り時間が少なくなっていく。焦りますなぁ、まったく焦ります。そうです。いつまでも生きているわけにもいかんので。あははははははである。
で、昨日巨大なる県立図書館から、メールで事前に予約していた「聖なる声 和歌にひそむ力」 阿部泰郎先生、錦 仁先生共著 三弥井書店発行を借りてきたので、フォトでも紹介させていただいている。そうなのだ。これこそ愚生の追求課題で「も」あるので。特に阿部泰郎先生には、大きな興味を持っているので、先生の殆どの論文や、御著書を入手したいと頑張っているのである。
同書の内容を読みながら、情報カードに取り始めたのだ。このやり方は、高校時代の同級生で、現在ある大学の教授をやっている友人から徹底して教えてもらった方法である。100枚の情報カードで論文一本書けるということを、彼から聞いて20代の頃から実践しているのだが、ありがたいことを教えていただいたものである。こんな出来損ないの劣等生に教えてくれたのだから。東大で修士と博士をとった男で、それでも高校では一番優秀だったというわけじゃなかったから、言わば努力の天才である。凄いものである。
で、同書である。
聖なる声というのが、愚生の潜在的なテーマであるからである。能に引き込まれてしまったのも、これだ。幽玄というのとはちょっと違う興味があったのだ。「聖なる」という部分にとりわけ惹かれるものを感じる。声の持つあやしい魅力にである。何が「聖なる」部分なのであろうか?あるいはまた、何をもって「聖なる」声と聞いてしまうのであろうか?
そういうのを愚生は感じるのである。昔からである。
幼いときに、亡父の実家で、葬式が行われた。祖母が亡くなったのであった。今と違って、セレモニーホールなんてない時代である。大きな農家で、部屋が14くらいあったのだ。その一室で、念仏講をやっていたのだった。今思えば、神仏習合的な行事であって、祖母の家は、の山という神社の麓にあって、家の宗教は神道であった筈である。で、墓はちょっと離れた真言宗の寺院にあったのだ。そして、念仏講で近所のおじさん、おばさんが集まって、祖母のために、直径5メートルはある数珠を全員で持ってて念仏を唱えるのである。全員の念仏が、大きくこだまして、まさに祖母の霊を慰霊するのである。不気味と言えば、不気味である。恐ろしい思いをしながら、従姉妹のミヨコおねーちゃんに抱きかかえられながら、じっと祖母が眠っている布団を見ていた。不思議な感覚であった。
以来、愚生は、声と慰霊の関係についてずっと考えているのだ。どうしても、どうしても、そうした雑宗的な行事の中に、素朴な常民たちが伝えてきたある種の願いを考えざるを得ないのである。
それが、愚生の根本にあるのかもしれない。
今日は、これから歯医者に行く。
歯科医の先生が愚生に声をかけてくださるのも、また声のコスモロジーみたいなもので、「聖なる声」のような気もしないではない。こんなきたねぇじじいの歯を治してくださるのである。ありがたくて、ありがたくて泪が出てしまう。
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