文体をちょっといじっている。である調から、・・た調へ変化を意図している。しかし、なかなか難しいものだ。こういう試みは、世の中の塵芥にまみれているときは、発想自体生まれない。ひたすらどうでもいいようなことを、毎日やっているだけではいかがなものかというのが、若い時からのポリシーなのだ。しかし、どうでもいいことをやっているって、←これは天にむかって唾しているのと一緒だね。つまり、このブログのようなどーでもいいことをやっているってことなんだけど。
しかし、それもやーめた、大学院もいかねぇー、教えるのも(別の大学と塾)やーめたとなると、オレは確実に健康を害するね。郷土史のことを家族に言っても、誰も興味関心を持たないし。第一刷り上がった研究誌を一瞥もしない。あははははである。完全に無視されているのだ。笑っちまうなぁ。暇なじじいは、社会にも、家族にも害悪を垂れ流しているっていうわけだ。
それでも、オレは止めるわけにはいかねぇなぁ。
長生きするためには、生涯教育が大事ですよ。しかも、ある程度のレベルがないとマンゾクできない。誰でも単位をくれるような教育システムではマンゾクできない。当然である。タメされていないと、オレは緊張できない性格らしいのだ。因果なものである。静かに、庭の草花をいじって、夕方になるのを楽しみにしているというような老成の域には達していないのだ。成長していないのだ。だから、他者に説教たれて自己満足をしているようなわけにはいかないのだ。
困ったじじいですよ。
本当に、困ったじじいです。
昨日のゼミでは、師匠に相当喜んでいただいた。
印刷媒体でオレの駄文ではあっても、駄文なりに評価されて世間に登場してきたのだから。師匠に喜んでいただいたのが、一番うれしい。承認の喜びである。これなくして、オレは生きることができない。あるいはオレの内側から突き出てくる「表現の喜び」というやつである。
オレは常に「表現」ということに拘っている。表現したくて、駄文を書き、研究誌に出していただいている。それしかできないし、それが最大の喜びなのである。そして、たまには他者とそのことについて語り合う。それでもって、若い人の刺激になるのならば、しあわせなのだ。
つまらん人生だなとわらわばわらえである。
そんな低レベルのことしかできねぇのだ。オレごときものが、今更だよーん。
昨日、民俗学の基本書を大学図書館から借りた。もう一度復習すべきだと思ったからだ。全部で10冊はある。その中でも3冊を家で読む。読んでカードとりをする。
基本ができていねぇなぁあと思うからである。なんでもそうだ。オレなんか基本の基本もなんにもわかっちゃいねぇのだ。話にならない。概論書を読んでいっぱしの研究者ズラしているのは世の中にたくさんいるが、オレはその概論書すら読まない。ひたすら原典にあたっている。今も机の脇には日本書紀がある。これと毎日格闘しているのだ。全然わかっていないから、かなり焦る。あと何年生きられるのだ?・・そう思うと遊んでいる暇はない。なんも分かっていないまま、死んじゃうのはあまりにも辛いではないか。
無知の知なんていうけど、とてもとてもそのレベルまで到達していない。
底辺を彷徨しているだけである。
話にならないってやつだ。
中国語講座を受けてしみじみ感じた。つまり、暗記力が極端に弱っているってことと、学習意欲がいびつなかたちになっているってことを。純粋に楽しみでやることだ。昨日、大学の図書館で、大連の大学の先生とちょっと立ち話をして、「趣味で勉強できるとーまさんが、一番ホンモノよ」と言われた。ホンモノかどうかは別として、打算がねぇっていうのは本当だ。なんにもならねぇっていうのが、オレは気にいっている。
だから、家族は頭にきているのだろうな。
趣味で大学院に行って、趣味であちこち書き散らし、趣味でいろいろな学会で研究発表をいたし、しかも去年は京都龍谷大学まで行ってしまったし。こりゃ、頭にくるわなぁ。カネ食い虫だ。だから無視されるんだよん。それをだ、たいしたもんだ、じーさま頑張ってるんじゃん!って言ったら、ますます調子に乗って、こんどは外国の学会で発表したいと飛行機に乗ってどっかに行ってしまったら、それこそオレは殺されますな。もっとも今年は、浦安だけど。あ、浦安の方は、「房総の元禄地震と日本古典」ってやつで、別の学会だけどね。(^0^)
おとなしくしている方がええのだ。
密かに、誰も知らないうちに原稿を書いているほうがええのだ。
だから、今朝は、3時に起きて駄文書きをしたのだ。そして、これから早朝散歩に出かける。師匠がそうしていると昨日聞いたからだ。早く寝て、早朝に原稿を書きなさいという指示にえらく感動したので。(^-^)/
じゃあ、今日も一日張り切っていきましょう。
(^_-)-☆