教育は断念させることも重要な役割である。ボキは、そう思ってきた。
たとえば、天下のエリート大学であるW大学に進学したくて、新聞配達苦節10年という先輩がいたっけ。住み込みで働いていた新聞店に(ボキはその新聞店から一番最初の大学に通っていた)。今年も、去年も、一昨年も不合格であったのだと周囲に聞いて唖然としたことがあったっけ。
その大先輩は、W大学以外は大学では無いとのたもうていたし、事実それでもってのし上がろうとしていたのである。だからそれはそれでおおいに結構なことであると、むしろボキは妥協しない先輩の生き方をすばらしいと思っていたのだった。
そうなのである。
妥協できないのである。その大先輩は。
だから、ボキが新聞販売店に住み込みながら23流大学に通学していたことを軽蔑していた。そんな大学に行ってなんになると堂々とのたもうていた。
しかしである。
途中からかわいそうになってしまった。大先輩は、オノレを諦めるということのできない方であったのである。能力があると思いこんでいたのであろう。さらにある。それは進学した大学でもって、一生が決まると思っていらしたのである。
そんなもん、デタラメであると年齢を重ねてからはボキはよ~~~~くわかったのである。
マジに。
学歴だけでもって勝負できる世界は実は殆ど存在しない。
あまり高学歴で、社交性のかけらもないという御仁もたまにいたが、そりゃぁ学者とか研究者なら実績もあがるだろうけど、そうは問屋がおろさない。たいていそうである。
つまり世間の中で、どのようにつきあっていくかということも重要なのである。世間に教えられることも多々あるからである。
オノレ一人で生きているわけではないのだ。
また、司法試験一途に苦節二十年という剛の者もいたっけ。これまた断念することを忘れてしまった人の哀しみでもある。
だから、断念させることもまた教育の、学校の、大学の重要な使命でもあると思うのである。いつまでも、それこそ棺桶の中まで夢を追求するのもいいのかもしれないけど、ほどほどというのもあるからである。
ボキが良い例ではないか。
あまりにも頑張りすぎて、エコノミークラス症候群になってしまったのだから。
能力を正確に把握していなかったからである。
バカ・基地外の類いでしかなかったからである。
そして、それから生き方を改めたから、今が楽しいのである。
諦めるというのは、明らかにするという「明」の字をつかうこともあるのだ。
明らかにしたから、余裕ができたと言ってもいい。
明日、その諦めさせていただいた某大学にまた行ってくる。中国語講座を追加でやっていただくからである。むろん有料である。一回1500円。安いではないか。カルチャーセンターよりも。
楽しみである。
大学の雰囲気を味わってくるからである。
さ、そろそろこれくらいにしよう。
寝ます。
(-o-)/