沈んでいく九十九里浜の夕日を見て、たそがれ人生を思うのもまた一興である。
昨日は五ヶ月の孫(女児)の予防注射に付き添った。要するに孫を抱っこしたいから付き添いと称して、病院に行ったのである。老人専門の病院みたいになっている病院である。特養の方々もたくさん来ておられた。午後からであるから、一般の患者はあまりいなかった。
ボキの孫を見て、かわいい・かわいいの連発であった。そのご老人方が。
言葉が丁寧であった。ということは、九十九里の出身ではない。九十九里の言葉はなまっているからである。いわゆるダッペ弁が特徴だからである。ということは、特養だから家族と離れてこの病院が経営している特養に入っていると推測した。この特養は月々の支払いが安いのである。ボキでも入れると聞いている。老人大学時代に。老人大学のご学友様たちから聞いたのだ。
家族から離れているから、かわいいのであろう。
でも、ふと思った。
特養の方々もまた色々な人生を背負ってきたのだろうなぁと。
それが普通の人生である。
若い方々の人生ばかりが文学の対象になる。愛だの恋だの、挫折だの、成功だのと文学の対象は広範囲である。その方が面白いからであろう。ましてや、そういう本を買うのは若い方々である。売れなければ、出版社だって手をつけないだろうから。売れるから、週刊文春とか週刊新潮とかがまるで江戸時代のかわら版のごとき活動をしているのだ。こんな週刊誌は、コンビニで立ち読みしていればよい程度のくだらなさである。買うつもりもないし、立ち読みもしないけど。あまりのくだらなさに。
ボキは、特養のご老人方のような人生を知りたい。そういう小説もあるのだろうが、まだお目にかかっていない。
たそがれた人生もまたいいものである。
たそがれてしまって、今、ナニを思うのか。あるいは感じているのか。
そういうことを知りたい。
?
ボキもたそがれている。
そうか。
ボキ自身がそういう心境を発信していけばいいのだ。自分自身の確認のためにも。
夕日を見に九十九里浜に出かけることがある。たまにである。あまり風の強くない日に。
岬から見る夕日が一番いい。高台の灯台から見える九十九里浜の夕日は出色である。今まで、輝いていた太陽が、一日の終わりに沈んでいく。周囲を染めながら。
素直に感動する。
まるでボキのようではないか。
沈んでいくからである。
用もないし、行くところもない。やることもない。ひたすら読書し、ノートをとってゴミ論文を書いているだけである。最近、論文書きを始めたし。締め切りは4月。
たそがれ人生である。
孫と対照的である。
これでいいのだ、これで。
こっちはあと何年生きるのかわからないのだから。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ