書かされているブログの記事・・・違いますかな?
よくまぁ毎日毎日打鍵することがあるもんじゃと思う。それも日常的な出来事の綴りにはなっていない。何歩歩いたとか、何キロ歩いたとか、何時に起きたとか、誰かとデートしたとか、どっかの美味い店に行ったとかまるで書いていない。もっともボキとデートしてくれる奇特な方は100%いないけどねぇ(^0^)。
出来事記録にはなっていないからである。
自分勝手なことを、自由気ままに打鍵しているだけである。こんなダメブログをやっていてなにが面白いのだろうと思う。
思うケド止められない。まったく日記である。去年の記事を見ては(_ _ )/ハンセイしているだけである。ボキは、十年日記というのをAmazonで買ってつけている。これが三年目に入っている。だから、出来事記録とか(_ _ )/ハンセイならそっちを見ていればいいのだ。
でも、今朝はふと思った。もしかして、書かされている?って。天から。(_ _ )/ハンセイ材料のために。
傲岸不遜、救いようのない凡夫、極悪非道のジジイである。それを見ている天が、ボキに迫っているのかもしれないと思った。
ダメジジイよ、少しは自分のことを振り返り、自省せよ!って。
天でなければ、神でも仏でもキリスト様でもなんでもいい。ともかくボキ以外の目があるってぇことを意識するだけでも良いことだよん。
評価されて生きることもまったくなくなってしまったから、気楽なもんである。
しかし、そこに大きな落とし穴があったのだ。言いたいことは言い放題、聞きたくないことは聞かない、臨時の難聴者になってしまった。
気楽に生きているからこうなっちまう。トラブルもなくなったかわりに、自分がトラブルの原因を作ってしまっている。
もうどうでもいいではないか。
テレビをつければ、判で押したように同じ事の繰り返し。政府転覆を狙った番組だらけ。結局ナニをしたいのだろうと疑問に思ってしまう。現政権を打倒してみたいというのだけは分かる。しかし、その後の展望もなにもない。これだとまた一年ごとに首相が替わるというみっともない継続性のない国になってしまう。
そもそもがである。反体制、反政府という方々はオノレこそが正しい、オレ以外の奴らはバカであり、アホであるという認識にいる。つまり、この世の中に受け入れられていないという自己認識から反体制専門になる。
亡父も亡母もそうだった。反体制専門の新聞を購読していた。亡父の場合は、シベリア抑留体験でなおさらあちらの国に対して特別な感情を持っていた。今ならよくわかるような気がする。
亡母もそうだった。師範学校出身なのに教育界から受け入れてもらえなかった。
そういう自己認識があると、他人がバカに見えて仕方なかったらしい。今になってそう思うのである。つまり世間に受け入れられなかったのである。
ボキもそうだ。ただのジジイである。世間に受け入れられていない。平々凡々。
でもそれで良いのである。それなりに、生きているではないか。微々たるバイト代と年金で生かされているのである。
ありがたいことである。
今日、ローソンにAmazonから本がくる。楽しみにしている。刑務所に入っていて、愛に目覚めたという外国の人の体験談が書かれた本である。ある講演会をスマホで聞いていたら、その講演会で取り上げられていた。名前を、スター・デーリーという。彼は、キリストの愛(神の愛)によって、一瞬にして生まれ変わり、刑務所内でキリストの愛を伝える伝道者となった(刑務所内での伝道の様子については『愛は刑よりも強し』に詳しい)と紹介されていた。
ボキも変わりたいものである。
?
もう無理か。
わははっははははっはははっははははっははははは。
さ、これから図書館に歩いて行ってくる。
変わろう変わろうと唱えながら。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ