こっちも街の底辺で生きているしかない、しがないジジイですが・・・思うことはこれでもあるんで。
伊集院静の「あづま橋」という文庫本を昨日読了した。
相変わらず素敵な小説である。思い出に生きる女の転機を描いた表題作をはじめとして、男と女の邂逅を描く作品集である。
どの女も不幸な生き方をしている。明るく、軽薄でただただ日常を生きているというのはいない。陰影のある生き方をしている女ばかりである。
上手いなぁと思った。絵コンテのようなものが基盤にあって、それで書いているのかも知れないとも思った。まるで映画のようである。短編ばかりだから、余計にその上手さが伝わってくる。まさにプロである。
短文で、「・・・た」という簡潔な文体でもある。そこからイメージが浮かび上がってくるから不思議なものである。
結局、人間は一人で生きて、一人で死んでいくのだということをボキは感じた。途中で恋だの愛だのとやって、生きているのが我々庶民である。だから生きているってぇ感じで存在しているのではないのか。
それをやりきれないというなら、そうなんだろう。ボキのような軽薄ジジイが感じるようなことではないのかもしれない。しかし、人間の本質はそうなのではないのか。
孤独なのである。
しかし、女のしたたかさも描かれている。
はかないというようには描かれていない。生きるのは不器用ではあるが。さらにある。情念を持て余している。結局、街の底辺で生きることを余儀なくされてしまう。それでも、懍としている。懍として生きている。大したものである。
無常だとかそういうものではない。
ともかく強い。生き方がである。
この文庫を読了してから、周囲の人間たちにハラを立てたりしているボキ自身がみっともなくて嫌になっちまった。なにを今さらであるからだ。
ボキだって街の底辺で生きているバカジジイである。なんの自慢もできない。自慢材料もない。あるわけない。ただの庶民である。
しかもカミの毛もない。ゼニもない。学歴もない。家柄もよくない。風来坊である。身寄りもない。たった一人でこの地に流れ着いただけである。九十九里浜で生きてきただけである。仕事だけはあったが。それも定年で放り出されてしまった。
今も変わりがない。
行くところがない。やることもない。
仕方がないから、毎日図書館に行って暇つぶしに論文を書いているだけである。ゴミ論文である。こんなもん書いても収入には結びつかない。
生涯学習ごっこはゼニにならないのだ。
?
だからやっているんだけど。
わはっははっはははっはははっははははっはははは。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ