と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

恩人というのは、いつまでも恩人である。

2019年04月02日 06時00分55秒 | とーま君の流儀2019
恩人という言葉がある。誰にでも恩人と呼べるような方々がおられるだろう。むろん、ボキにもいる。そんなに多くはないが、これまでナントカ生きてこられたのも恩人のおかげである。しみじみそう思う。

師弟関係にあった方がそうだろう。先生が多い。

先日、ある場所で先生なんて忘れられる存在だということを言っていた国政レベルの某政治家がいて、それはそれで納得した。もしかしたら、ご自分のことを言っているのかもしれないと思ったからである。政治家も先生だからだ。

ボキの場合は、純粋に先生である。学校で教えていただいた先生方には感謝しか無い。特に、思い出深いのは63歳で退学した某大学大学院のM教授である。この方に三年間みっちり教えていただいた。なにしろ1対1である。緊張の日々であった。自分の能力に自信がないからであった。M先生は、芥川龍之介の後輩であった。両国高校である。それから東大で博士課程まで過ごされた。中世文学では、日本の泰斗である。M先生の教えがあったから、今のバイト生活がある。これでボキのスタイルが決まった。ま、これ以上は書けないが。

大学学部では、源氏物語のI教授である。ボキは、学部は一つしか行っていない。苦学していたのはこの最初に行った大学の時期である。18歳から22歳まで。甘えていた懶惰な学部生であった。

またまた別の大学になるが、大学院修士での指導教授にもお世話になった。K教授である。この大学は在職中に修了できた。卒業式に行ったのは、定年退職の日から数えて10日前であった。

高校時代では、U先生であった。東大のインド哲学科を出られた俊秀であった。倫理社会の授業が忘れられない。サンスクリット語というのがあるということを初めて聞いたのだっけ。憧れの先生であった。ボキは、マジに高校時代に世をはかなんでいたのだった。かなりの進学校で、自分の能力の無さにがっかりしていたのかもしれない。だから柔道や応援団の活動に逃げたと今になっては思うのである。もしかしたら、苦学したのも自分に対する懲罰であったのかもしれない。言い訳である。この程度の大学学部しか入学できなかったから、せめて親には迷惑をかけたくないってぇ言い訳である。亡父の理解もなかったからでもあるが。

中学でもおられた。英語のW先生であった。仙台の東北大学を出られた方で文学が大好きであった。まだ、宿直があった時代であった。その時にボキを呼んでくださって、文学の話をしていただいた。タノシカッタ。漱石とかいろんな話をしていただいた。国語でメシを食っていくことになったのは、この先生の恩が大きい。

小学校でもおられた。いろんな先生にご迷惑をおかけした。乱暴で乱暴で、一度ならずビンタをいただいたこともある。なにしろ、職員会議をやっているその部屋の側で殴り合いのケンカをしていたのであるから、翌日先生に呼び出されビンタである。当然である。ありがたかった。

感謝して生きていかなくちゃなぁと思う。

だらしないこと限りないからだ。


BYE-BYE!


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4月1日(月)のつぶやき

2019年04月02日 05時59分08秒 | とーま君の流儀2019
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/