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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

まるでドラマのようなシーンがボキを待っていた。背後からじょしこーせいが追っかけてきたからだ。夢では無かった(^0^)

2019年04月20日 07時14分47秒 | とーま君の流儀2019
先月まで千葉市の私立高校でバイトをやらせていたいていた。半年だけの契約であった。

ボキは、長い長いカンリショク生活をやらせていただいたから、なんとセンコー稼業の半分程度(16年)をそれに費やしていたのである。だから、普通科での授業も経験していなかった。一度で良いから、ちゃんと授業をやってみたかった。なんのために、再受験までして高校のセンセーになったのかわからないではないかと思っていた。

幸い、人材派遣会社から打診があったから半年くらいならできるだろうと思ってやってみた。

全部女子だった。古典と言語理解というのをやらせていただいた。どうせやるんだったら、一生の思い出にしたいと思った。ボキにとっては冥土の土産。

言語理解ではスマホで動画も制作させてみた。むろん、ボキも動画を積極的に使って授業を構成してみた。

大成功であった。ノリがいい。こういうのが現代の高校生は好きなんだろうなぁと思った。BGMも音楽もついていて、ストーリーもある。むろん絵コンテをあらかじめ書かせてから作る。見本となる動画も10本くらい見せた。

これらの作品は、学校広報にも十分使える。広報担当の先生からも作り方を教えて欲しいと言われてコツをお伝えした。私立高校なので、生徒募集には役立つであろうし、それが生命線でもあるからだ。

大学でもそうだ。プロの作った動画を採用している学校もある。しかし、それでは伝えるチカラがない。言語理解で取り組んだのは、まさに「伝えるチカラ」であった。どうやって情報を相手に伝えるかということである。

女子高校生たちもハマッタようである。おもしろくて。

ボキは、見た目も実年齢もジジだから、あの子たちはボキをほんとうに「ジイジ」とか「ヒデジイ」とか言ってくれた。たまには、「セーネン」と言えと冗談を言っていたけど。

卒業式にも参列させていただいた。そしたら、半年だけ教えたクラスの子たちが帰ろうとしていたボキを背後から追っかけてきた。「ありがとう」の連発であった。「ジイジ、ジイジ」と言いながらである。まるでドラマのような信じられない展開が待っていた。かわいい孫たちに取り囲まれていた。4月から、ボキのバイト先の大学に入学してくる生徒もいたっけ。よろしくねとあいさつもされた。

うれしかったなぁ。もう二度とこんな経験はできないだろうけど。

棺桶に入ったら、思い出してみることにしている。ちなみに、学校名は棺桶に入るまで(入っても)公開できない。



わはははっははははっははっはははっはははっははははっははは。

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悪相、悪夢、悪行・・・と悪のつく語は多い。しかし、「善の研究」という本は、なぜ「悪の研究」ではなかったのかと、昨日寝ていてふと思ったから打鍵してみた。

2019年04月20日 06時26分31秒 | とーま君の流儀2019
所詮人間は悪のカタマリである。そういう自覚があるから、普段の行動に注意していく。少なくともボキはそうだ。どうしても悪の方に引き込まれてしまうからである。むろん職業的規範というものは尊重しているから、徹底的に悪の方に行動をさしむけることはない。それでも悪の要素が多いというのは、小さいときから殺生を繰り返してきたからである。

虫や川魚をである。奥州の山奥で、ナンドでもやってきた。あまり罪の意識はなかった。だからである。所詮、悪を好んできたのである。残酷なことをしてきたもんである。釣りも好まない。せっかく海に近い場所に住んでいるのだけれども、どうも好きになれない。釣り上げた魚が肴になって目の前に出てくるのも残酷にしか思えないからだ。

とりわけ、ニワトリがさっきまで生きていたのに、今度は肉になって食卓に出てきたらこれもまたかわいそうになる。牛も豚もそうだ。肉になる家畜は、自分が死んでしまうのがわかっているから騒ぐ。にもガキのころから見学に行っていたから、しっかりとこの目で見ていた。牛や豚のあの哀しそうな目が忘れられない。ニワトリもそうだった。祖母の家でクビをはねられていたニワトリもいたからである。

もっともそんなことを言っていたらなにも喰うモノがなくなってしまう。だから、人間は「いただきます」と言って殺された生き物への感謝をするのである。「ありがとうこざいます」というのもそうだ。感謝である。ボキ等の生命に役立ってくださるからである。

そういう意味で人間は悪行三昧なのである。したがって、普段から行動に気をつけていかなければならない。

親鸞というヒトの弟子が書いた歎異抄という本を好んで読んできた。これには、思想の転換を迫る記述がある。悪人こそ救われるという有名なフレーズがある。しかし、この悪人正機説というのは、要注意である。悪人であれば誰でも救済されるのかとなると、それはいかがなものかと思うからである。だったら、悪をドンドンやってもよしと低レベルの理解をしてしまうではないか。

死刑になった人々も救済されたのかと思うからである。罪は消えないのではないのか。やってしまった罪は。

新興宗教でも、人間の善性だけを見よというのがある。人間は神の子とまで言っているのもある。ボキのような低レベルのアホは、だからボキはなにをしても許されるのだと勘違いしてしまう。そんなふうに思うこと自体がすでに悪である。

「善の研究」という難しい本がある。西田幾多郎という大学者の先生の本である。しかし、なぜこの本が「悪の研究」ではなかったのかと疑問に思って生きてきた。もしかしたら、西田幾多郎先生、逃げたのではないのかという疑問が未だに解決しない。親鸞は条件付きの救済を言っていたのであって、悪をすればするほど救済されるとは言っていないのではないのか。教行信証にそう書いてあるのだが。

うううううううううううううううううううううううううううむ。

今日は珍しくマジメに打鍵してしまった。ちょっと危険である。おもしろく、たのしく、愉快に生きていくことがボキの至上命題であるからだ。

どちらにしても、慎重に生きていくに限りますなぁ。午前中には塾の研修会があるから、出かけてくるが。勉強、勉強、またまた勉強でありまする。


BYE-BYE!
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4月19日(金)のつぶやき

2019年04月20日 06時24分11秒 | とーま君の流儀2019
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/