と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

こころなしか、成田山新勝寺の不動明王様はやさしい目をしておられたような気がしたが。昨日のことである。

2019年04月17日 06時55分04秒 | とーま君の流儀2019
成田山新勝寺に行ってきた。昨日のことである。快晴であった。九十九里浜から一時間以上はかかる。それでも行きたかった。あの大きな不動明王様にお会いしたかったからである。あることで祈りをささげていたからである。むろん本殿にも行ってきた。

つまりお礼参りである。2000円ほど、献金もしてきたが。

そういう祈りは、ボキにとっては叙情的なものである。つまり、ほんとうの信仰では無いからだ。ただし、不動明王には偉大なパワーを感じる。それだけである。それだけ。

祈りと言っても宝くじが当たりますようにとやったのではない。あくまで、私的なことである。たとえば、ボキのゲリが治りますようにといったたぐいのものでしかない。自分勝手ないのりでしかない。

およそボキには、崇高な理念というようなものがない。さらに、毎日楽して生きているから、努力といったようなものもやっていない。眉間に皺を寄せて、ウンウンうなりながらゴミ論文を書いているってぇこともない。だから某大学大学院を中退せざるを得なかったわけである。

要するに気楽なのである。気楽に生きているダメジジイである。でも、もう良いではないか。なにを今更である。研究者に憧れたこともあったが、なれなかった。まねごとはしている。歴史の会で。古文書を居住地で習い、歴史の会でプロに教えていただいている。これで十分である。

さらにある。それは敦煌からの風にあたって、日中比較文化を勉強している。それだけである。仏教史の勉強をさせていただいていると思わず口走ったっけ。先日の船橋の歴史の会でのあいさつでは。ボキはこの会でお役をいただいているので、開会のあいさつをせよと言われたからやっただけのことであるが。

そして感じたことがある。それは、仏教史の勉強ということであった。宗教のことに関心があるということであった。。無意識でそういう台詞が出てくるということが、ボキの本質なんだろう。宗教を信じていないのだから、ド素人である。実践がないのだ。お経も読まない畳の上の水練である。おぼれて死んじまうかもしれないではないか。

ジジイになった。もう遅いのかもしれない。僧侶にもなれなかった。研究者にもなれなかった。ひたすらセンコーごっこをしていただけである。これだけを仕事として追究してきただけであった。ま、おかげさまにて若い大学生に週に一度ボキのやってきたことをお伝えしているけど。ありがたいもんである。それで十分満足しなくちゃならないのだと思う。


今日も居住地の方の古文書講座に行く。平家物語である。楽しみである。平家物語でもって、ボキは教員採用試験(コーコーの方)の再受験をしたのだったから。ご恩がある。平家物語には。

むろん、今日も歩く。二時間は歩く。快調である。絶好調。

わははっははははっはははっはははっはははははははははははっははは。

BYE-BYE!
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4月16日(火)のつぶやき

2019年04月17日 06時19分35秒 | とーま君の流儀2019
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/