と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

4月16日(月)のつぶやき

2012年04月17日 03時19分20秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
15:58 from web
昨日インターネットでラジオが聞けるというサイトで放送大学の講義をやっていました。なんと岩永先生の講義でありました。おなつかしい。

16:00 from web
院生室にずっとおりました。かなり読書をしました。例のB6分厚いノートである本を攻略中。一冊は作業完了したので、これから図書館に返却。

16:04 from web
鈴木大拙全集があったから、あれをお借りして今日は帰るつもりです。プリンターを買わないといかんのです。

16:06 from web
今日のランチは牛丼を。チェーン店と違ってなかなかおいしい。後で写真をアップしましょう。では、また夜にカキコします。

23:17 from gooBlog production
伴侶を喪う前に blog.goo.ne.jp/tym943/e/81cf3…

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チェーン店の牛丼より

2012年04月16日 23時17分36秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・三つある学食の一つで牛丼をやっていたので食べてみた。美味しかった。(^0^)/どんどん生活が規則正しくなっていく。毎日、大学に出勤しているような感覚になってきた。大学の職員にも先生にもなれるわけもないケド。もっとも、学割のきく正々堂々たる学生証所有者ではあります。ありがたや、ありがたや。今度け~たいもタダ友というのがあるんだそうですね。聞いてみようっと。

 

 

・今日の院生室には、ずっとずっと読書をしている院生が二人いた。論文をお書きになっておられる雰囲気であった。たいしたものです。(院生室には学部生は入室できない。セキュリティがかかっています)

・今日は、初めて行った院生室であった。いくつかあるのである。大学の研究紀要が置いてあり、最初の計画とちがってそちらを読み始めていたら、それがなかなか面白い。いろいろな種類があって、学部レベルの卒論もなかなかのもの。ワシに書けるかという悪魔のササヤキが・・・・笑い飛ばしてヤッタケド。

・唯識学のノート取りをしていた。もっともこれはマスターからやっていたこと。やや散漫なノートになっていたので、ちょっと整理した。こんなのもなかなかいいものである。

・そして、能楽の源流追求。こちらもなかなか重たいテーマである。4月からやっているので、ピッチも早い。それなりのカタチをつけておかないといかんと思っているからである。

・それにつけても、相当絞り込んだ情報収集をやっているという自覚がある。せっかくだからといって、あれもこれもやるとそもそも最初からキャパの乏しい頭だから、困難が予想される。これは武蔵野大学大学院のK教授に教えていただいたことである。ほんとうに感謝している。

・若い時だと気がつかなかったことが一つある。それは、だんだんと古典のしみじみとした良さが、年輪と共に経験則としてそれこそ体で味わっているのではないかと思うようになってきた。受験勉強のような正解を出すというのではない。それだと今でもアタシのような者は困難が多い。そうではなく、・・・要するに年取ったということであろう。

・ただし、芥川が一宮でいろいろ女性問題でどうのこうのというのは有名であったが、あれもそんなに興味はない。夢二もそう。いろいろ女性問題があったそうだが、関心無いですなぁ。だいいち、私はまったくもてないし。よって恋愛の苦しみというのも全くないんである。

・むしろ内田百聞さんのような変人に興味がある。銚子にも来ておられたそうだが、これまたなかなか実に面白いキャラのお人である。あまり読んだことがなかったから、ちょっと読んでみよう。本学の紀要で知ったのである。これもまた学恩である。優れた方々に学ぶのである。知らないから学ぶ。これでいいのである。

・昼食をいただいてからずっと院生室にコモッテいたので、キャンパスを散歩しながら、図書館に行った。

・デーケン先生のVTR(3巻目)を視聴しに行ったのである。

・なんとテーマが「伴侶を喪う前に」というものであった。なんと、なんと。思わず周囲を見まわした。もしかして、吾輩の女房殿がいたら困ったことになると咄嗟に考えたからである。もっとも、NHKの人間大学講座のVTRである。誰でもそんな思いをしながら見ていたのかもしれない。

・読書カードを手に見始めたら、面白い。実に面白い。もう一本見ようかと思ったが、既に5時を回っていた。帰らないとプリンターが買えない。

・やむなく帰ることにした。また明日図書館でデーケン先生とお会いしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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4月15日(日)のつぶやき

2012年04月16日 03時22分23秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
06:46 from gooBlog production
大男たちに囲まれて goo.gl/A4nqp

13:12 from gooBlog production
能楽の源流を探る goo.gl/VeedL

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「中世芸能の底流」読感文

2012年04月15日 13時21分57秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

中世芸能の底流(山路興造著 2010年 岩田書院)を読む。楽しい学術書である。非常に楽しい。読書感想文を以下に書かせていただく。




・タレントなどというと、現代では実にもてはやされる。AKBなんとかとか、全く私の知らない世界が無限に広がっているような気がする。

・気がするというのは確かでないからである。確かでない世界には、????のような気がするとしかいえないではないか。

・全く他者のことであるからである。要するに、一日中家に閉じこもっていても平気な私としては、さらに時代遅れの哲学書とか国文学関係の本を見て、ノートをとり、ブログに記事にしたりしているだけであるからである。

・退職後はボランティアで柔道をやっているだけのしがないじぃさんであるからである。年金だけでは暮らしていけないから、アルバイトもやっているケド。

・あ、そんなことはどうでもいい。まったく、タイトルとまったく違った書き方をしている。いつものとおりである。5人くらいの人しか読んでくださっていないだろうから、好き勝手に書いている。もっとも、人生そのものも好き勝手に生きてきたから、今更である。


・本論に戻ります。

・山路先生、実に私のような初学者を引きつけられるような入り方をされている。うまい。序の部分で、現代の学生たちが勘違いをしていると言われる。芸能者がタレントとしてもてはやされるのは、古代中世ではチガッテいたと言うと学生たちは驚くのだそうである。

・違う世界が古代・中世には展開されていたのである。「芸能民は身分的差別を受けていた」と書かれて、次に「現在の学生は一様に驚いた顔をする」と続けられるのである。

・見事な序である。確かにそうであろう。テレビが、ラジオが若者にとってはステータスなのかもしれないからである。

・映画や舞台の世界には「河原乞食」という偏見が確かにあった。敬愛する小沢昭一大先生もこのことはよく言われていて、TBSラジオで「小沢昭一の小沢昭一的こころ」なる番組を夕方からやっておられて、楽しみにしていたんである。

・小沢昭一のような方は、(田中小実昌様もそうだ)気取らない。いかにもインテリであるという鼻高々の姿勢をとらない。これは見事である。

・世の中のあらゆるエリートたちに申し上げたい。「いかにも」という態度は誰でもできるんでっせ。そんなのはおかくしになられた方がよろしいですよ。マジに。今まで幾多のエリートに囲まれて四苦八苦してきたんですから。アタシは正真正銘ダメート(=エリートの反対語・・と~ま君の造語)でござんしたから。

・さて本文に戻ろう。(いつもこうだなぁ・・だから論文まで随筆だとしかられるのだ)

・「中世における芸能者の身分」という章に取り上げられている「後水尾院年中行事」がある。寛文四年(1666年)に宮中の年中行事を記している。

・要するに禁裏には、猿楽をはじめとする職業芸能者は参入できなかったのである。手猿楽など素人演者の場合はそうでもなかったけれども。

・このあたりは岩波書店の能楽講座シリーズにも書いてある。ちょっと、今はその講座シリーズを城西国際の図書館で発見したので、読書中である。院生室である。楽しみである。

・しかし、問いがある。「なぜ、専業の猿楽者は禁裏で演能できなかったのであろうか?」というものである。

・猿楽の前身である散楽をはじめとする、芸能を専業とする者は、古代律令国家においては、その一部が「楽戸」であった。中国における楽戸が身分的に差別をされていたのである。日本では直ちに差別対象としたわけではなかったが。

・中世時代は省略する。観阿弥・世阿弥については、である。今のところの関心は、まさに能楽の源流にあるからである。

 

・山路先生のご著書で興味深いのが、「楽戸」のご研究である。(pp55_78)

・サブタイトルに「芸能民差別の一つの源流」とある。先生によれば、「延喜式」に「大和国城下郡杜屋村」がキーワードであった。

・古代中世の杜屋というと、最初に登場するのが「大倭国正税帳」であったとのことである。(正倉院文書)・・・ここに「村屋神戸」と書かれているとのことである。これは後で原文を確認したい。

・それなら「杜屋」の位置はどうなるのであろうか。山路先生は、このあたりの調査を文献によって詳細にたどっておられる。この方法はこれからの私には大変参考になる手法である。

・見方を変えよう。

・「大和における猿楽座が、古代の楽戸の後裔である可能性を考えた」という部分(p.73)は注目したい。大いなるヒントが、あるのかもしれないからである。能楽の源流を考える上で。

・4種類ほど先生は書かれている。このあたりが、冒頭に挙げた私の問の答えになるのかもしれない。



・あっという間に制限字数を超えた。(自分で勝手に3000字を超えないことと決めてます=でないと永遠に終わらない)最初の書き出しが良くなかったかな・・これで今日の読感文は終了。さ、これからスポーツジムに行くのだ。あ、その前にワンコの散歩をしてからである。

・じゃぁ、また!



 

 

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結婚式

2012年04月15日 06時46分26秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・昨日の結婚式は実に盛大であった。人数もそうだが、時間が盛大であった。約4時間である。

・私は、高校時代の恩師ということで、乾杯の発声をさせていただいた。新郎は東京農大を出た農業自営者である。そのために、仕事の取引先の方を主賓としていた。当然であろう。これから最もお世話になるのだから。

・直截にカンパーィと言っても仕方ないので、ほんの少しだけ高校時代のエピソードを20秒くらいやった。それは、彼の背負投げの見事さについてである。毎日、毎日彼とはよく稽古した。そして、なんと顧問のくせに、私は彼のことが嫌いになったのである。(^0^)/

・なぜか。それはあまりにも背負投がキレすぎて、なんども畳を背負ったからである。(ダッテ、痛いんだもん)育成法の一つとして、生徒の技にかかったふりをすることはよくあるが、私の場合、30で4段になってから全く昇段できないという、まるっきり冗談のような素人武術人であるので、マジに投げられていたんである。

・そんなことを紹介した。

・そして、見事に背負投のように新婦を射止めたのですね・・・・とやったのである。よかった、実によかった。(アタシの話ではないっすよ)一時は私も心配してて、見合いの設定もしたことがある。

・式場は銚子市の松岸というところにあるあの辺りでは誰でも知っているところである。校長をさせていただいていた時も、忘年会で使わせていただいたこともあったっけ。

・それにしても見事なのは、参加者の人数の多さ。ほとんど友人たちである。よくもまぁ集まったものである。千葉県東北部は農業の盛んな土地であるから、裕福な大規模農業経営者が多い。私も在職させていただいた県立旭農業高校は日本一の農業自営率を誇ると聞いたことがある。

・他のテーブルにもたくさんいた。旭農業高校時代のかつての生徒たちが。

・しかし、圧巻だったのは、我が柔道関係者グループのテーブルである。

・なにしろ体格がまったく他のテーブルと違うのだ。(^0^)/普通の体をしているのは、ワタクシだけである、ホントに。

・私も含めて山賊みたいだなぁと思っていたし、まったくそのとおりである。雰囲気が違う。飲みっぷりも違う。食べる量も違う。豪華な料理を食べあぐねていると、あっという間に誰かの胃袋に移転してしまうんであるから大したもんである。

・いやぁ・・・今日もこれでは、大嫌いなお酒なるものを胃袋に流しこんで、明日は二日酔いだなと覚悟した。覚悟したから、体に悪いビールにした。ちょっとずつ飲んでいた。

・ところがである。3人くらい先にいた柔道マン、ワインをラッパ飲みしている。かぁ~・・かなわん。これで最後までいったら死ぬなぁと思ったので、自制した。それでも相当呑んだと思う。思うというのは、あまり記憶にないからである。どうしようもないなぁと毎度のことで反省である。

・魑魅魍魎の世界で、会話を楽しむようなものである。

・ま、これまたよろしいでしょう。

・その中の一人に、私の柔道部の教え子で県大会で準優勝をした女性と結婚した隣の高校柔道部出身の男がいるんである。(どうしてこのような組み合わせが可能なんだろうか・・数学の順列組み合わせでも回答できませんな)その男もすばらしい体格である。100キロ以上はある。柔道マンと柔道ウーマンが結婚したんだから、実に幸福な家庭を築いているんだが、(これって、論理的にはおかしいとわかって書いています)心配なのは夫婦ゲンカである。どういうことになるんかと思っていたが、案の定、口喧嘩というものが存在しないんだそうである。

・つまりである。双方格闘家であるから、クチでちびちびやっていないというのである。直接行動である。まさか、彼の得意技である内股と、彼女の得意技である大外刈りをかけあっているんじゃあるまいなと申し上げたが、そんなことはないとおっしゃる。笑ってしまった。さもありなん。たくましくていいじゃないか。

・エリートを気取って、つまらんバカをやっている輩が実に世間には多いが、そんな心配もない。暮らしも裕福であるし、子供にも恵まれている。順風満帆である。彼は趣味で1600ccの大型オートバイにも乗っている農業自営者でもある。革ジャンが実によく似合うのだ。私は400ccくらいしか乗らないが。と~ぜん、私は革ジャンは着られない。ボロじゃんである。(^0^)/

・大雨が降っていたので、帰りは電車で松岸駅から帰ろうとした。雲つくような大男から、ちょっと待て!と押しとどめられた。

・まるっきり三國志の世界ですよ。諸葛亮の智謀・関羽のようだ。おおおおおお、オッカナイ。そしたら、柔道関係者で一番若い青年が、かわいそうに酒を禁じられていた。運転手である。かわいそうに。すべては計画的であったのだ。

・彼たちに送っていただいた。大男が周囲に4人もいた。高級ワゴン車である。参った。押しつぶされる危険性がたくさんあったのである。参った。一本取られた。

 

・それにしてもいいもんである。若人たちの出発は。実にいい。おおいにいい。

 

 

 

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4月14日(土)のつぶやき

2012年04月15日 03時22分00秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
00:01 from web
あ、わたくし、海上中学校の時はバレーボールの顧問だったんです。信じられません。ナースのトップというのは、その時のエースアタッカーです。(^0^)/。。。。参った。。。。

00:05 from web
M教授に「***先生」と言われるので懇願してきました。師匠にセンセと言われると、卒倒してしまいますノデということをです。当たり前です。どこの世界に師範からせんせと言われる弟子がおりましょうか。

00:07 from web
呼び捨てで十分でございます。教えていだくのですから。問を立てて、その解法を教えていただくのですから。いくらわたくしのようなモノでもそれくらいわかります。┐(´∀`)┌ハイハイ

00:08 from web
それにしても大それたことをやってしまったなぁといまさらながら思っています。

00:10 from web
どこまで行っても、「夢見る少年」だったんですねぇ・・・少年? おっと間違った・・・老年でした。

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4月13日(金)のつぶやき

2012年04月14日 03時21分30秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
18:53 from gooBlog production
デーケン先生のVTRを見た goo.gl/QJVBw

23:25 from web
今日のブログの記事もデーケン先生のことを書いてしまった。マジメなブログでありますことよ。

23:27 from web
アクセス数がこれでは伸びませんね。もっとも、アクセス数を気にしなくてもいい天下の素浪人になったのだから、どうでもいいと言えばどうでもいいんですね。

23:28 from web
5人くらいに読んでいただいていると思って書いていますから。

23:28 from web
あまり根拠はないですけど。

23:29 from web
ちょっと柔道が退職してからまったくできないのが気になってます。

23:30 from web
昨日だったか、柔道教室の小学生が下校していて、あ、とやませんせいだって挨拶してくれたんです。・・・あんまりご無沙汰していると忘れられてしまいます。

23:31 from web
新しい環境になって、慣れていないんですね。まったくとんでもないことばかり始めてしまったんで。

23:34 from web
明日は、居住地で研修があります。予備校のです。それが終了したら速攻で教え子の結婚式に出席します。間に合うかな・・間に合わせないといかんな。

23:37 from web
それにしても部活の教え子は忘れませんね。クラス担任だった時の生徒たちも。

23:39 from web
かなり前に、そうです10年くらい前に、喉が痛くて入院させていただいた時に、ナースの方に「とやませんせでしょ?」って言われたのは参ったっけ。ああああ、ヤダ。部活の生徒だったから、フルネームで覚えていたんです。

23:41 from web
今、ナースの世界でえらい人になっておられるとのことを風のたよりでききました。おめでとうございます。今度入院したときは、わたしの担当にならないでください・・・トホホ。

23:42 from web
それではおやすみなさい~

by tym943 on Twitter
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死と、どう向き合うか

2012年04月13日 22時43分02秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・上智大学のアルフォンス・デーケン教授の書籍にはずいぶんお世話になった。武蔵野大学大学院に入学させていただいてから知ったのだが、書籍から受けるイメージと、映像から受けるイメージでは全くちがった。

・今日、M教授にご指導いただいてから、次週までの課題でreading list提出ということになったので、思い出したのだ。私の場合、一方に死生学があるから、当然このことには触れなければならない。

・夕方、本学図書館にデーケン先生のVTRが20巻くらいあったのを思い出したので、早速院生室からモグラのようにモソモソと抜け出して、VTR視聴デスク(これもいくつあるのかわからんくらいに数がある=充実したいい図書館である)の19番目のデスクに座って見始めた。いつも図書館の方がほとんど同じデスクを指定してくださる。ありがたいものである。

・読書カードをとりながらである。

・文献で読んだときと、まったく違う先生のイメージである。だから映像教材はいいのである。義務教育時代にこれに関わっていたから尚更である。(**市教育委員会教育情報センター事務局次長というエラそうなのをやっていたのだ・・(^0^)/)

・「生き方と共に、死についてのあり方」をデーケン先生は問われる。死の哲学である。死への準備教育とも言われる。フォーダム大学大学院卒の哲学博士である。

・死生学は日本ではまだあまり知られていないのかもしれない。ヨーロッパとアメリカでは盛んである。日本では、死はタブーであるからである。まだまだ仏滅とか、なんだとか気にする人も多いからである。

・さらに、私に聞く人もおられる。なんのためにそんなのやってんの?って。

・これに対するアタシの答えは「オイラの死に方の勉強しちょるんだ・・・当然あんたのも」と答えることにしている。時にはそれで友人を失ってきた。ま、そんな程度で去っていくような奴は、最初からご縁がなかったのだ。

・多くの方々が、死のことについて触れると冗談を言っていると受け取るのも日本人の普通の感覚であるのかもしれない。と~ま君が、あるいはご自分が死んじゃうかもしれないってことを、考えてもみないからだ。だから悪い冗談を言っているというふうに受け取られてしまうのである。

・冗談ではないのである。死ぬのは誰でも死んじゃうのである。これを認めない人生設計ではいかがなものか。

・つまり、死と裏表の関係にある「生」を、死ぬことを否定した考えからは、生自体を弱めてしまうのである。ターミナル・ケアとかのことについても、武蔵野大学でずいぶんレポートを書かせていただいた。最後まで人間らしく生きるためには、学習しなくてはならないのである。死への準備教育でもある。本学の看護学部でも必要な学問であるのだろう。ある意味楽しみでもある。どんな風に展開されていくのかということである。

・デーケン教授が示した一枚の絵もよかった。南ドイツの絵で、周囲との和解をしながら亡くなっていくご婦人の絵である。周囲との和解ということも、重要な生き方である。

・ハイデガーは、人間は死への存在であると私のような無知蒙昧なる人間に説いてくださった。それは遠い将来ではない、今、現在が死の存在であるとも言った。まるで禅の師匠のようなことを言われた。今、現在がどういう意味を持っているのか、限られた時間をどう過ごすかということでもある。これはすばらしい指摘である。

・人生はある意味で、「別離」の連続である。デーケン教授はこれを悲嘆のプロセスと言われる。たしかにそうである。人生は別れ、別れの連続である。

・定年退職も、離婚も、臨終も、全部お別れである。

・最後に、デーケン先生から紹介していただいたウイル・デューラントの言葉「大きな苦しみを受けた人は、うらむようになるか、やさしくなるかのどちらかである」を紹介して、今日の記事は終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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4月12日(木)のつぶやき

2012年04月13日 04時02分42秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
18:59 from gooBlog production
無に徹する?ムムゥ・・ goo.gl/xTFau

22:39 from web
英単語が頭に入りません。(^0^)/・・・行き帰りの電車でチャレンジしているんですが、笑ってしまうほど忘れてしまいます。もともと衰えているアタマですが、年取ってさらにオトロエテいますねぇ。もっともいい加減にやっておるからでしょう。

22:40 from web
なんだかダンダンブログの記事にまじめに書いて、ツイッターは、ほんとにつぶやきになってきてますね。これでイイんでしょうけど。

22:42 from web
ブログの記事は、レポートみたいな位置づけでもいいと思っていますので。自分自身のためにも。通信教育でずいぶん鍛えられましたから、そんなのもありということでしょう。

22:44 from web
今日のブログの記事にとうとう道元を書いてしまった。教師を退職したからこれまで封印してきた思想とかをも書いていきたいものです。どうも、校長時代のブログの記事は、奥歯にものが挟まった感じで、印象が良くない。

22:46 from web
印象が良くないのは、アタシのもともとの性格なんでしょう。

22:49 from web
ここのところ私的な用事で柔道教室に全くいけない。明日もダメだ。明後日は高校柔道部顧問時代のキャプテンの結婚式に呼ばれているから、当然酔っていていけない。ま、彼が結婚してくれたから安心しているんだけど。少子化だし。日本の農家のことも心配だし。

22:52 from web
今日はちょっと疲れたです。午前中、銚子で授業をやっていたし、午後から東金の院生室にこもっていたし。難解な書物のノートをとっていたし。英単語ちっとも覚えられなかったし。こういう時は寝るか・・・・・・。

22:58 from web
月末に孫が、長女の嫁に行った先に帰ってしまう。残念。返したくない(^0^)/・・・・疲れているな。完全に今日の私は。

23:00 from web
ま、来月は今度は孫の顔を見るためにという口実でチョコチョコ行ける。長女の嫁入り先に。ちょっとした小旅行になる。これまた良し。・・・・もう、ほんとに寝ます。おやすみなさい。

by tym943 on Twitter
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無関心じゃいられない

2012年04月12日 18時51分28秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ウィトゲンシュタインを読んで考えたこと


・教師を退職したので、ウィトゲンシュタインを書いたり、道元を書いたりできるようになった。実に喜ばしいことである。なぜなら、教師は、特に公務員としての教師は、このようなことを語ることができない、あるいはできなかったからである。

・つれづれなるままに、書いてみよう。

・ウィトゲンシュタインは、独我論を説いた。彼は「論理哲学論考」において、客観的な実在の世界は、無我の究極の世界においてのみ見ることができると考えている。

・察しのいい方は、これで道元との関連性を書きたいという私の意図を汲んでいただいただろうと思う。

・それは対象を見ている自分自身をまったく忘れ、周囲の世界だけが見えている状態である。主体としての感じ方というか、そういうものが無い。見えてきた世界だけしかない。

・自己の純粋経験、あるいは直接経験のみがあるとする独我論は、見るあるいは見ている自己が忘却され、消滅した時点で実在論と一致していく。

・このことは道元の思想と見事に一致するではないか。道元は無を説く。

・道元のことは置いておこう。

・見ている私が世界を判断し、ものをはかっているということ。それをウィトゲンシュタインは私の世界だというのである。

・私が、世界をいかに見たかということがもっとも重要なわけである。

・このときの私は、広がりを持たない点まで凝縮している。関心を持たないという意味での「無関心」がある。ある意味禅の境地と似ているような気がするのだ。

・見る自己を忘れて見た時が重要だとするなら、見る自分はただひたすら無心に見る「目」になりきってしまわなくてはならない。欲望を捨て、肉体的なものへの執着を捨てきってしまうことで、それは可能になるというのである。

・これまた道元と似た世界になる。

・これはおもしろい。実におもしろい。西洋人でこんなことを考える人もいるのである。

・どうだろうか?私だって、欲望を捨て、執着を断ち切り、ひたすら「目」になりたいと思ったこともあった。ある意味あこがれである。そうした心境に達することはできなくとも、そうした方面を志向することは可能なような気がしていたからである。れは高校以来ずっとそうであった。倫理社会という科目で、東大出の社会科の先生に鍛えられた。当時は校長と社会科の長老と物理の先生に東大卒の先生がおられて、愚昧な私たち(? それはとやまだけだろうって怒られるな・・)は、オメメをきらきらさせて聞き入っていたものであある。手の小椋佳さんが、東大の法学部を出てから銀行マンとなり、つい最近東大の文学部に入り直して、インド哲学で修士をとられたのは記憶に新しい。大秀才はやることもちがいますねぇ。

・外的なもの、なかでも自己の肉体への一切の執着を断ち切れば、あらゆるものに無関心になり、もはや動揺も迷いもない。あらゆるものをありのままに受け入れることができるというわけだ。

・しかし、そんなことが可能なのだろうか。

・さらに言えばそれでいいのだろうか。

・判断の基準が、認識の素材として、自分のこころに感じられる内的な意識だけで、それしかないというのはいかがなものかと思うからである。

・いわば、主体としての自己でしかものを考えられないということを言いたいのである。他者との関係性でやはりものをお考えになった方が、よろしゅうござんせんか?と大学者に申し上げたいのである。

・「語ることのできないものについて、私たちは、沈黙しなければならない」(「論考」7)

・こういう言い方をされるとたまらない。知力の無いあたくしフゼイなんぞは、沈黙の連続である。と~ま君は黙ってらっしゃい!としかられているようなものだ。

・でも、もう少し書かせていただく。

・似たようなことを言っておられる方が日本にもいるからである。西田幾多郎せんせである。大好きです。ホントに。

・「善の研究」に書いてある。それは、鏡のような心とそれに映る世界という文章である。

・心の曇りをとったならば世界は見えてくるとおっしゃっておられる。主観的な自己を没して、見る自己を忘却して物我一体の心になることであるとも言われる。

・内的な意識の世界以外には認識はできないと言われていると私は解釈した。

・いままでの私なら肯定をしたかもしれない。しかし、ちょっと今は違っている。

・基本的な思考の枠組みをちょとづつ変えていくしかないと思うようになってきた。

・いつからだろう。

・大震災からである。明らかに、私は自己の心象風景を変えた。変えてしまった。変えざるを得なかった。

・だって、「無」や「無関心」を生きることは私にはできなかったからである。

・あくまで、主体としての自己と、他者がおられた。大震災で津波に呑み込まれていった多くの尊い命に、私はあくまで主体として関わらざるを得ないからである。それがせめてめの無力な私のできることなのである。具体的になにをやったかということを、ここに書くこともできないくらいにささやかなことである。

・以上、考えたことである。院生室で。


 



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4月11日(水)のつぶやき

2012年04月12日 04時00分49秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
18:48 from gooBlog production
雨が、アメが、すごいことになっている goo.gl/CRnYV

20:42 from web
夕方の豪雨でビショ濡れになりました。着替えたので、これからスポーツジムへ。

20:43 from web
その前に古書店チェーン店へ行って、バイクをこぎながら読む軽音楽・・じゃぁなくてかる~いタッチの本を買ってから行きます。

20:44 from web
いつでもどこでも活字ですね。中毒です。

20:44 from web
じゃぁ行ってきます。

20:45 from web
明日の講義の準備は終わっているし。・・・こっちは自分が話す方です(^0^)/

23:15 from web  [ 1 RT ]
銚子で講義して、東金で自分の勉強して、居住地では英数国を教えている。なんだかよくわからない生活ですねぇ。混乱しないのが不思議です。

23:22 from web
中公新書の荘子を105円で買った。なんと福永先生のだ。ほんとに福永光司先生のだった。まだ売っていたのだ。お懐かしゅうございます。あとは、例のバガボンド。宮本武蔵が、吉岡清十郎に勝つ場面がすばらしい。漫画もバカにできない。本阿弥光悦の描き方にある意味悟りを感じた。いいねぇ。

23:27 from web
今日はM師匠の本がアマゾンから来た。講談社学術文庫の書籍もたくさん出しておられるし、全部買ってしまいたい。事実買うつもりである。今日のは、新典社の日本の作家17「閑居の人 鴨長明」である。これから読ませていただく。感謝感激である。不肖の弟子ではあるが。

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今日のお昼の定食もおいしかった

2012年04月11日 20時07分35秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・研究計画書を提出した。やっとである。受験の時と違わなくてはならない。当たり前である。入れてもらうための決意表明と、これからの計画は、当然違いがあってと~ぜん(の二乗)。さらにある意味まとまっていなくてはならない。はっきりとした明確な目標がなければ、入学させていただいた意味がない。

・随分時間がかかった。ずっとあたためていたから。書き出したら早かったケド。本学図書館のコンピュータでやっていた。本学図書館のコンピュータも見事なものだ。たくさんある。使い勝手もいい。だから早く書けたのだ。もっとも、修士時代から追求してきたテーマであるから、ある意味構想的には取りかかりはいい。

・しかし、私は学会とかも無縁であったし(教育実践人であったから=言い訳だな)、いくつか下手な論文じみたものも書いてきたケド、5人くらいしか見ないような代物であった。抜き刷りみたいなものもいただいたことがあったケド、あげる相手もいないし、結局書庫の隅っこに積んであっただけ。そんな程度です。そんな程度。

・しかし、今日も研究計画書をまとめるために本学図書館で、ちょう~難解な学術論文なるものを拝見させていただいていたが、本当に初学者には理解困難。アタリマエダのクラッカーである。(こちらも、ちょう~古いギャグ) 初学者はだいたいにおいて学術論文なぞ見ないからである。あたしも初学者だけど、見ないとこれから雑文も書けないから、気合を入れて拝見させていただくのだ。

・学事出版様からいろいろ書いてみないかと言われて、(担当のHさんだ=恩人だん)教育についての文章は書かせていただいてきた。こちらの方が読んでくださった方が多いと思っている。まったく断然多い。メールも随分いただいてきたし。

・ブログでいろいろ書いていけば、なんらかの関係性は可能になるのかもしれない。事実、生涯学習つながりで、武蔵野大学大学院の同期生とか、先輩たちとかのつながりはできた。さらに、岡野守也さんとかケンウィルバーとかの研究つながりで、仏教心理学会というのにも所属させていただいた。こちらも楽しそうだ。

・しかも学生だから、学会費が随分安いのだ。これはありがたい。年金生活者だから。

・もっとも、JRの定期券だって、半額近いのである。私のポンコツ車が、一回の給油で8000円かかる。同じ額で、定期券一ヶ月である。随分効率的な金の使い方である。

・今日のお昼の定食もおいしかった。栄養価も考えられている。しかも、安価。450円なり。マイド!

・ほっけの塩焼きと肉と野菜と、味噌汁。(メニューを書くの楽しみだな。年金生活者になってからは食べることが実に大切になってきたねぇ)

・ショルダーバックを右肩に担いでいたので、ちょっとバランスを崩して味噌汁がこぼれてしまった。申し訳ないと思ってそのまま会計に向かったら、なんと取り替えてくださった。どうしようもない年寄りだなぁと思ってくださったのであろう。感謝いたします。ほんとにごめんなさい。_(._.)_ 明日から気をつけます。

・論文の基礎資料になる書籍を読みながら、ゆっくり食べていた。もう、周囲の若い人たちの会話はノイズにもならない。まったく関心が無い。

・金曜日から、いよいよあこがれのM教授から講義をいただく。一対一である。どうです?究極の理想的教育でしょう?

・だから、勉強をしているのである。毎日である。知らないことが多すぎるからである。今までやってきたことで、しのげるような分野ではない。

・まるっきり、武術人の師範と初歩の弟子のようなものである。問いと、答えと、問答が繰り返されていく。

・教育の理想ではないか。

・退路は断っている。自分を甘えさせることはできない。言い訳も許されない。

・そんなことを自分に言い聞かせているのだ。

・さらにクラスメイトがまったくいない。これもまたきついが、入学式の時に案内してくださった修士課程の女性たちが、今日も偶然院生室にいたので、ちょっとだけ会話をした。いろいろと質問したが、どうも内容が違う。

・双方思い違いをしていた。あちらは私を修士課程の院生だと思っていたらしいのだ。同じ授業を受ける云々という会話で、あっと思ったのである。

・ま、本学においては先輩である。ありがたいこと限りなし。

・本来、人間関係はコミュニケーションにあると考えてきたし、対話の教育にも取り組んできた。一人で勉強しなくてはならんというのは、初めてである。これもまた試練であろう。齢60。きついっすねぇ(≧∇≦)

・こういう体験が、ブレィクスルーになるんかね。まさか、そんなことはないでしょう。

・本当に、何かになるために勉強しているのではないからである。生涯学習である。楽しいからやっているだけである。

・今回の勉強からさらにテーマが発展しそうな気もしている。次は関西に移住して、専門の大学で勉強をしてみたい。あくまで生涯学習人としてだ。

・無理かな・・・周囲がそれをユルさんだろうなぁ。

・ま、あくまで自然体でいきますよ。ゆっくりとね。

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4月9日(月)のつぶやき

2012年04月10日 04時21分52秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
09:41 from web
ブログ「生涯学習の部屋」のフラ夫さんの書き込みに感動している。目標を決めてまっしぐらということよりも、学ぶこと自体がやはり大切であるなぁと思うのだ。経済の論理からは、教育は語れない。成果を求めているわけでもないからだ、あたしは。あたしは、ですぜ。

18:41 from gooBlog production
オーロラのように(^0^)/ goo.gl/A53St

19:59 from web
大学院事務室で、エライ人からニックネームはないですか?と聞かれたので「と~ま君」と呼ばれていますと、言ってしまった。言ってからしまったと・・・トホホ。

20:00 from web
呼ぶのに困っているんだって。トヤマと呼び捨てにするのも、アタマを見たら気が引けるんでしょう。(^0^)/ウフフ

20:00 from web
しかし、今更せんせと呼ばれるのもおかしいしねぇ。追放されたんだから、ただの人でございますからね。

20:01 from web
それくらいこんなわたくしでも、理解できているんでございますよ。ホントに。

20:02 from web
今週から厳しい講義が始まります。一対一の講義ですからこいつは厳しい。

20:03 from web
どこまで堪えられるか。・・・ムムぅ・・・・

20:04 from web
またとない、光明蔵を体験させていただくんですなぁ。。。。。。武蔵のように。

20:05 from web
もう少ししたらスポーツジムに行くんです。そして帰ったらまた勉強。勉強。

22:50 from web
22:49 ジムから帰ってきて、我が書庫でPersonal Computerをいじっているんですが、大事なことを書き忘れました。

22:50 from web
今日の城西国際大学のさくらロードの花たちが、散り始めたのです。

22:52 from web
西行を思い出したんです。山家集です。願わくば花の下にて春・・・・というあの冒頭の歌です。

22:52 from web
散らないでください。命ってそんなに短いのですか?と寂しくなりました。

22:54 from web
このわたしくのいかついカオが、そんなことを考えながら、城西国際大学の桜ロードを歩いているとは、お釈迦様でも気がつかないでしょうなぁ。男は見た目で判断したらいかんですぜ。

22:57 from web
今日の夕食で、男のカオが家の者と話題になったからです。男はカオか?それとも心のあり方か?それとも前提条件がいろいろあるんか?・・・・つまらん話題で盛り上がりました。長男も、孫を産んだ長女も、じっとわたくしのカオを見ながらご発言・しているんです。ふざけたファミリーですよ(^0^)/

23:00 from web
明るく、精一杯生きることです。たとえどんなに愚弄されても、それだけでアイデンティティーはあるんです。捨てる神あれば、拾う神ありです。決して絶望だけはしちゃならんですぞ。若い人にこれだけは申し伝えたいんです。ニヒリズムの快癒というのが、マジにわたくしの卒論のテーマでしたから。

23:08 from web
おっとその前に、ご先祖さまに退職のご挨拶をしなくちゃいかん。墓がいくつもあるんです。本当に祖父に申し訳無いくだらない孫でございますから。7つの墓があるんです。お寺に。ご先祖様が、言うでしょう。あんなに教師をやりたくないって言っていたのに、37年もやったのか?ってね。

23:11 from web
おとなになるってことは、そういうことなんです。いつまでも突っ張って孤高を気取っていたって、結局人間はおしめで始まって、おしめでおわるんです。生まれた時も、おっかさんの世話になって、最後も誰かのお世話になって、それでおしめぇだ。(きみまろ大人のぱくりですな)

23:13 from web
これから3時くらいまで学習をやります。朝もゆっくりだしねぇ。なにしろ年金生活者だから。眠たかったら電車の中で十分です。

23:13 from web
じゃぁ、Good Night!

by tym943 on Twitter
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オ~ラ おら オ~ロラ

2012年04月09日 18時53分55秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・「翁」という能楽は、古くからもっとも能の神聖なる曲であるという理由で、厳粛に舞われる。

・野上豊一郎先生の「野上豊一郎批評集成 能とは何か 下 専門編」(書肆心水社)を読んでいて、これこそ私の喜劇性を現しているんではないかと思ったからである。

・野上先生によると、翁は決して謹厳な、窮屈な、神経質な老翁の舞踊ではないと言われる。(同書 p.523)

・むしろ、晴れやかな、にこやかな、屈託のない、平和な、牧歌的な微笑をたたえているではないかとも。(同上)

・ここのところを読んで、私は思ったのである。いつものとおり院生室である。午前中からずっと城西の院生室にいる。

・のんきな、愉快な、わだかまりのない、でたらめな民謡をば口ずさんでいる翁こそ、私そのものではないかと。

・それは「物語」でもあるからである。

・多くの優れた哲学者たちは、知的な考究の果てに、人間は物語なしには生きられないというレベルにまで達している。

・知性に優れた人々は、知性の徹底性について、根元的な疑惑にとらわれる。デカルトがその代表であろうか。

・知の徹底性となると、優れた人ほど、そこから逃れようとする。決して疑い得ないことを求める必然性を持っているからである。だから、物語を求めるのである。逃れるためにである。でないと生きていけないではないか。つらくて。

・具体的な生活者のレベルでしか、俗世間に別の物語を作っていくしか徹底的な知的生活者というのは生きるすべがなくなっていくのである。

・だから、物語が必要なのである。
(私は、その徹底的な知的生活者ではない・・当たり前だ)

・切れ味するどい評論家のマスコミでの登場の仕方をみていると、自分に疑いというものを感じていないのだろうかと思ってしまう。

・もっとも、オレが、ワタシが世界で一番知的な生物で、テレビを視聴している、あるいは新聞を読んでいるおめ~らに、教えてやっているんだというのが毎日のようにある。うぬぼれというか、自己満足というのが、その辺でまるっきりワタシのようにふらふらと生活をしている庶民とは違う独特の存在感をもたらすのである。そういう価値を持っているから、マスコミはその手の先生方をマスコミで使うのであろう。でないと個性的にはならない。マスコミは、建前だけの人間を嫌っているようだから。(私こそその建前だけの人間チャンピオンである)

・だから、現実とオノレの能力のギャップに、「トホホ」となるのである。

・たとえば、私は現在の教育システムを批評することはできるが、批判することはできない。

・なぜなら、オノレはその批判されるべき教育システムの片棒を担いできたからである。37年もである。ついつい弱腰になるのである。

・今の教育のシステムは・・なんて、まるっきり外国人のように言ったり書いたりすることは許されない。許されているのかもしれないけど、それをするのはとてもとても恥ずかしいことである。

・含羞というものが私にだってあるのだ。

・この罪責感と、オノレだって許されているのだという免責感と、いろいろ混じりあった「ふらふら感」が、私に喜劇性をもたらすのである。

・だから、一見するとふざけてブログを書いているんじゃぁないのか?と思われるのかもしれない。ふらふらしているからね。

・しかし、まじめはまじめなんである。私ほどまじめな人間はいない(ホントか?)

・しかし、日本の男性諸君の多くは、(否、女性もか)自分のいたらなさや、お金がもうからなかったこと、出世できなかったこと、学者になれなかったこと、たいした論文も書けなかったこと等々(こりゃぁ、全部私のこってすね)を、外部禁圧の結果とする。

・なんでもかんでも他人が、他者が、ほかのシステムが悪かったとするのである。

・私は、自分がこんなにも「無力」で「能力がない」ことを、自分が弱くてバカだったからであると、毎日のように思っているが、多くの人はそうは思えないのであろう。

・いつも国が悪く、組織が悪く、自分を理解してくれるボスがいなかったからだという「物語」を作っているんである。その方が気が楽であるからだ。

・だから、私はここのところ毎日城西国際大学に通学しているが、毎朝「私はただ単に無力である。無知である。だから知を求めて東金まで行くのだ」と思うことにしているのだ。そして、行動に移しているのである。

・私は確かに弱く無知である。それを根拠に柔道も、勉強もしてきた。なんでも知っていれば、柔道の稽古も、読んでもよくわからない哲学書とか、古典を読む気にはならなかった。だから、私の無力と無知に感謝しているのである。こんな老後を過ごさせていただくとは、思ってもみなかったからである。

・喜劇を生きているのかもしれない。けっこうである。十分である。バカにされたっていいのである。バカがバカにされたって、痛くもかゆくもないんである。だって、事実なんだから。バカ+変わり者という図式も成り立つんでしょう。ワハハである。

 




・お昼に学食に行った。今日は3カ所ある学食でまだ行ったことのないところへ。

・若人があふれるほどたくさんいた。凄い大学だ。なんてたって、私のようなじじぃが埋もれっちまうからです。歯牙にもかけないって言い方があるんだけど、まさにオイラは歯牙のはしっこにもかからんですな。

・私は、250円のショウガ焼き+筑前煮と、ライス普通もり(150円)と味噌汁(50円)を注文した。あまりの安さに卒倒しそうになった。通学定期も学割がきいている。JR様のおかげである。義兄の会社だ。なんてったって、学割はおっきいですよ。半値だもの。(^0^)/ウフフ 携帯も学割がきくのだそうですね。ついでに言えば、医療も学割がきいたりして。

・食事も安いし、カロリーも計算されている。これじゃぁ毎日大学に来て、図書館や院生室で勉強して、生き生きとした若人の姿を見て、圧倒されて、負けてたまるかと気負い、死ぬのをわすれっちまうですなぁ。

・若人のじゃまになってはいかんと思って、一番隅っこにお茶の機械があったから、その脇で黙々と食べ始めた。壁に面しているから、「面壁」だ。(ちょっと意味は違うケド) 相席では若人に悪いではないか。こんな人相の悪いじじぃが目の前で飯を食っていたら、おいしいものもまずくなる。

・しかし、私はおいしい、実においしい。

・そしたら、先日声をかけてくださった県立銚子の卒業生で看護学部の新入生からまたまた声をかけていただいた。「コウチョウセンセ」と声をかけてくださる方はあの方しかいない(^0^)/

・よくわかりましたねぇ・・と言ったら、「オーラが出ている」のだそうな。

・オーロラと聞き間違えないで良かったです。だって、隠しようもない禿げ頭でござんすからね。

・前回あ~たをちょっと書いておいたからと再度ブログを紹介した。今度は新種の名詞の裏側に書いて差し上げた。わぁうれしいという彼女の反応がとてもうれしかったですな。

・明日も学校に来まずぜ。なんてったって、年金生活者なんだから時間だけはたっぷりございますんで。



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学食昼食です

2012年04月08日 07時00分46秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

・授業は来週からなので、学食はまだがらんとしている。

・銚子の病院で検査結果を聞いたので、うれしくなって写真のようなチャーシュー丼なるものを食べてみた。おっかなびっくりである。いかにも高カロリーだからである。ヘモグロビンを気にしているんだから、大食いは禁物である。しかし、安価。ワンコイン一枚以下で食べられるのだ。年金生活者にはありがたいですねぇ。

・本学は、シニアウエルネス大学なるものも立ち上げているからそれとおぼしきご婦人たちもおられた。私もそちらに数年後お世話になるつもりだ。徹底的に大学を活用させていただくのだ。

・だって、何かの資格を得るためとか、上昇志向で就職したいというのではないからである。(そんなのハナから無理だけど)

・あくまで生涯学習なのである。しかも安易なミチを選んでいっているのではない。ある意味崖っぷちにいる。安易なミチは撤退しかない。

・もっとも、最後はみんな「死」しかない。そのことの前提が、私の死生学の根本である。これって、けっこう貴重なことを書いているつもりだけど、わかっていただけないんでしょうなぁ。もういいか、そんなの。私一人の追求課題だっていうだけのことだから。

・道元とヴィトゲンシュタインの関連性という書籍を城西の図書館から借りてきて、読んでいるケド、こんな視点で書かれる哲学者もおられるんだと思った。死生学の一環である。奈良興福寺にも今年は行くつもりである。能を見たい。唯識学をもうすこしやってみたい。

・チャーシュー丼とどこで関連するんだと叱られそうだケド。私の場合、なんでもおいしく食べて、なんでも首を突っ込み、考えるんで。あまり気にしないことです。あっちいってふらふら。こっち来てふらふら。ふらふら人生ですな。(^0^)/ウフフ

 

 

・高校の同級生からいいメールをいただいた。日本を代表するような有名女子大学の教授である。たしか本学理事長の母校だったような気がする。

>退職、ほんとうにご苦労様でした。

>金町で新聞配達をしながら大学に通っていた頃の外山の後ろ姿を想うと目頭が熱くな
ります。
>あのときの健気さと意地っ張りを最後まで貫き通したということですね。
>心より敬服し、労いたいと思います。
>東京に来るときは連絡下さい。

・本文は、まだまだ続くのだが、これくらいにしよう。嬉しいのは、こんな私のために「目頭が熱くなります。」と書いてくださったことだ。ありがたいものである。彼には、ほんとうに心配していただいた。米沢の実家に泊まりに行ったこともあったっけ。



・さ、これから千葉科学大学の講義準備にかからなくてはならない。講義に用いる自作資料は全部で125ページ。すでに出来上がっている。毎回検討を加えて、いいものにしていくつもりである。中学校の教員時代から自作資料をよく作っていたなぁ。道徳の自作資料も好きで作っていたっけ。それが、酒井書店から出していただいた時は嬉しかった。(ダンダン懐古調になっていく・・あぶない)

・後の世代に遺していきたいことがたくさんある。千葉科学大学の学生さんのためにも。

・しかし、こんなに資料を作成する人間っているのかねと思う。半期でこれでっせ。半期で。(^0^)/

・これもまた母校米沢興譲館高校で受けた英語・数学・国語の徹底した自主教材の真似でしかないのだけれど。


・やっと休みがとれたので、孫と一緒に一日中遊ぶつもり。後は、Personal Computerとにらめっこして過ごす。時代遅れの哲学書や日本古典を読みながら、である。あ、この二日間スポーツジムにも行っていない。今日はルンルンと行こう。楽しみ、楽しみ。






 

 

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/