古い日本人の自然信仰や祖霊信仰について考えながら伊豆半島の海辺でうつした写真。 amazon.co.jp/%E5%85%88%E7%A… pic.twitter.com/kXc9jfaU7H
戦争はある秩序を創設し、それに対して誰も距離を取ることが出来ない。戦争の秩序に対しては、だからなにものも外部的ではありえない。戦争が、外部性や、他なるものとしての他なるものを明らかにすることはない。戦争はむしろ、〈同〉の同一性を破壊してしまうものなのである。-全体性と無限-
人間たちのところでは、いいかい、あそこでは金がすべてなのさ。とくにあんたの先生やうちのマダムのような連中にとっては。やつらは金のためならなんでもするし、金でなんでもできるんだ。金はやつらの最悪の魔法の手段さ、そうなんだ。 『魔法のカクテル』
「かくて、〈平等への意志〉―それ自体が、今後は徳を表示するための名称となるべきだ。そして、権力を持つ一切のものに敵対して、我々は我々の叫び声をあげよう!」汝ら平等を説教する者たちよ、無力の故の僭主的狂気が、このように汝らの内心から、「平等」を求めて叫ぶのだ。-ツァラトゥストラ-
【一般の書店では入手できません】
『満洲語辞典』 bit.ly/1mMEOLl
河内良弘 編著
松香堂書店 2014年6月刊
研究者必携!20余種の文献より編者が20年をかけ収集した4万語を収録。 pic.twitter.com/bbo0yW7Mmg
文部科学省は今年4月の全国学力テストの結果を公表しました。沖縄県が小学校算数の基礎問題で6位に浮上するなど、都道府県別の平均正答率は基礎、応用問題とも下位層と全国平均との差が縮小しました goo.gl/5UDgL6
畑中章宏著『先祖と日本人』読了。柳田国男を除き登場人物は当方から見て事実を尊重しない人が多かった。しかし時間を要するも最後まで読めたのは著者の筆力によると思う。わずかな誤植が認められるも文脈で理解できる。
nippyo.co.jp/book/6563.html
『先祖と日本人―戦後と災後のフォークロア』畑中章宏 著者は、戦争や自然災害を体験してきた私たちが、今新たに記憶の伝承や死者をどう祀るのかという課題を提示する。柳田を始め橋川文三、伊藤静雄、白井晟一、こうの史代、福永武彦等を通じ、故郷、先祖、魂とはを探求する旅のような本でもある。
万人にとっては、時は経つのかも知れないが、私達めいめいは、蟇口でも落とすような具合に時を紛失する。紛失する上手下手が即ち時そのものだ。そして、どうやら上手に失った過去とは、上手に得る未来の事らしい。 (秋)
芸術やポエジーは世界を説明しません。それらは世界を表現するのです。芸術やポエジーはそのもの自体を越えて指し示すものを必要としない。それらそのものが目的なのです。良い詩とは世界をよりよくするためにあるのではありません。その詩そのものが、よりよき世界の破片なのです。『だれでもない庭』
円楽寺役行者像:山梨県に所在する寺院。『日本霊異記』によれば、役行者が富士山を開山する際に滞在したという。明治以前、当尊は毎年富士山の山開きごとに出張し、富士山二合目にあったという行者堂に安置されていたという。富士講とも縁ある像。twitpic.com/dxyg1u
米国海兵隊員で公開大学で学位取っている人多数。 @emmadhayye: 軍団兵にも大学進学の道がないわけではない。通信教育や放送大学…
…問題は、変則勤務や軍団内のヤボ用もしながら学業もこなさなくてはならないという、ブラック企業レベルのムチャ仕様なんだがな…。 #放送大学
【京都・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~】 2002年8月撮影。「重陽の節句」 その7。
女童に茱萸嚢をつけている女房。
(個人的にはこういう構図が弱いです。母性を感じるというか。)
※写真を2枚添付しています。 pic.twitter.com/db3PgqrDkC
【京都・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~】 2002年8月撮影。「重陽の節句」 その6。
女房たち。※写真を2枚添付しています。 pic.twitter.com/bS6xuTnoD3
【京都・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~】 2002年8月撮影。「重陽の節句」 その5。
茱萸嚢(ぐみぶくろ:現在の山椒と小菊)を身に着けた女童と女房。
※写真を3枚添付しています。 pic.twitter.com/k4228dajQK
【京都・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~】 2002年8月撮影。「重陽の節句」 その4。
菊の着せ綿で体を拭う女房たち。重陽の節句(9月9日)に菊花の露を移した綿で体を拭うと老いが避けられるという風習です。 pic.twitter.com/3GzGgt7QlV
【京都・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~】 2002年8月撮影。「重陽の節句」 その2。
母屋に若き日の源氏と紫の上がいます。
源氏・・・直衣指貫姿。 紫の上・・・細長姿。
※写真を3枚添付しています。 pic.twitter.com/NRh5M0kVF7
【京都・風俗博物館~よみがえる源氏物語の世界~】 2002年8月撮影。「重陽の節句」 その1。
『源氏物語』<幻>に重陽の節句の場面があるため、この展示では若き日の源氏と紫の上の重陽の節句の姿を再現されたのだそうです。 pic.twitter.com/fdUSmBxhB6
「ニーハオからの『語学留学』」
毎日だいたい2500字程度を書くことを目標にしている。これは、武蔵野大学大学院の修士課程に仕事をしながら学んでいた時からの習慣で、なに、相手はなんでもいいから書くのである。しかし、レポートを書くのが結構たいへんであった。通教だから、レポート勝負なのである。現役の教員だったから、可能な限り休暇をとらないで単位を取りたかった。職場にもナイショにしていたし。だから、スクーリングには極力出ないで、毎日レポートを書きまくった。参考文献の扱い方とか、読み方、あるいは図書館の活用の仕方とか生涯学習の基礎をみっちり鍛えていただいたのである。銀行マンで同期の盟友は、一回に十四冊とか十五冊とか図書館から借りていた。大学院が、今年で五校目になるというスーパーマンである。しかも、生涯学習で著書まで出しておられる。たいしたもんである。
こういう方がいるから、オイラのような基礎学力が不足しているものでも、なんとか卒業できたのである。持つべきものは、学友である。ほんとうにそう思う。そして、インターネットの世界では、そうした生涯学習仲間同士で励ましあいながら、交流を持たせていただいている。ありがたいものである。
今日、在籍大学から帰ってきて、速攻でgymに行った。柔軟運動をやって、血圧と体重を測り(?ちょっと順番が違ったな)それから三〇分ほど歩く。マシーンで。テレビを見ながらである。そして、サウナと温泉に入る。鬚も剃る。きれいさっぱりとなって、家に帰る。
そしたら、退職***の会というところから「友の会だより」が来ていたので、書庫のぼろ机で見ていた。退職した後にどういうように生活をしているかということが書かれているから楽しみなのである。先輩の方々が多く、ある意味オイラの目標にもなるのである。
一読して、おおいにびっくりした。
「ニーハオからの『語学留学』」というタイトルで、横浜市の七一歳になる先輩が、書かれていた内容に驚いてしまったのである。女性であった。
定年退職後、嘱託三年をやって、その後、中国福建省にある厦門大学海外教育学院に1年半留学されたと書かれてあったのである。二〇〇五年九月九日入学されて、それから楽しい留学生活を送られたのである。
おおおおおおおおおおおおおおおおおお!
と思った。
厦門大学には初級クラスもあるというのである。五〇歳以上の日本人が五人もおられたとのことである。学生は飛行機代が半額だというのである。だから北京にも武夷山も広州にも旅行されたのだそうな。
行ってみて本当に良かったと書いてあった。
オイラは、その福建省に用事があるのである。目連救母を見たいのである。死ぬまでに一度でいいから、たとえ帰ってこれなくてもいいから一度行って写真に撮って、オイラの下手くそな論文に掲載して、それから死にたいのである。それまでは死ぬに死ねないのである。マジである。
早速、その厦門大学のHPをお気に入りに登録した。
不思議なご縁がまた始まるのかもしれないという予感がする。無理かもしれないけど。
人生はなにがきっかけでどうなるやら、まったく予想がつかないっていうことですなぁ。
厦門に行ったら、周囲は毎日ネイティブだらけである。オイラのようなもんでも、話せるようになるかな?わっかんねぇけど。あ、その前に家族の許可が出るかどうかについてはまったく自信がない。いまだって、道楽で、趣味で大学院なんぞに行きやがってと毎日叱られてばかりいるのだから。逆に、あれかな?いねぇほうがすっきりしてたいへんによろしいと云われたりして。何年でも行ってくればぁ~、とか・・・・・その前に入学試験に通るかどうかもわかんねぇし。とほほ。
それも運命かもねぇ~♬
他人の特性や特徴を猿真似するのは、他人の衣装を着用に及ぶよりももっと恥ずべきことなのだ。それは自分が無価値でございますという判断を、自分の口から言い出すようなことだからである。
鏡は我々の意識の象徴です。我々の意識は、この世界を映し出す鏡と全く違わないのですからね。自己を反映する意識が問題になるところではどこでも、私は鏡の像を使おうと試みます。 『身体の想像力』所収「ファンタジーと演劇的想像力」
子供の貧困改善へ専門家8500人増…政府案 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) yomiuri.co.jp/national/20140… 「「教育支援」「生活支援」「保護者への就労支援」「経済的支援」「調査研究」「施策の推進体制」の6分野に力を入れる」。
Turkey sends floating power station to Gaza to provide vital electricity after Israel destroyed the only plant. pic.twitter.com/Kth8r2ft93
予備校は,専修学校,各種学校,株式会社運営のものなど,形態は多様。昨日発信したのは,このうちの各種学校の生徒のみ。専修学校の分も加えないといかん。会社立の分は文科省統計からは分からない。
我々の生きている今日の世界では、すべて、役に立つかどうか、売れるかどうか、あるいは商品に適しているかどうかを調べます。そのような世界の中で、貧しいサーカスの芸人達は今日の芸術家の典型のように思えるのです。 『身体の想像力』所収「ファンタジーと演劇的想像力」
秘祭の行者たちの希望は、ディオニュソスの復活に向けられた。我々は今やこの再生を、個体化の苦悩が終焉すると理解しなければならぬことを予感する。生まれ来る第三のディオニュソスに向かって、秘祭の行者たちのどよめく歓呼の歌が轟き渡った。-悲劇の誕生-
【今日の名言】雨は金持の上にも降れば,貧乏人の上にも降る.善人の上にも降れば,悪人の上にも降る.とはいえ,雨はけっして公平とはいえぬ.もともとが不公平な世の中の上に降るからだ.――老舎『駱駝祥子』? iwnm.jp/meigen
【本日発売】『柳田民俗学存疑』(谷川 健一著 冨山房インターナショナル)【Amazon紹介文】「柳田国男に導かれ、未踏の民俗世界の内奥に分け入った谷川民俗学が最後に提示した、柳田稲作一元論への根源的な疑義と批判の書」【Amazon】→ amazon.co.jp/gp/product/490…
"Thanks to the decisions we made to rescue and rebuild our economy ... America is leading again." ?President Obama ofa.bo/e0ji
私の考えでは、ファンタジーというものは現実から逃げるための手段ではなく、現実に到達するためのほとんど唯一の手段です。 『身体の想像力』所収「ファンタジーと演劇的想像力」
真の愛はいつも傷つきます。人を愛することや人と別れることは痛みを伴ないます。あなたは彼らのために死ななければならないかもしれません。人々は結婚する時、お互いのためにすべてを捨てます。子どもを産む時、母親は苦しみます。それでこそ私たちは、本当に愛することができるのです。
私の意見では、例えばヴァン・ゴッホの有名なあの「ひまわり」の絵の方が、ことによったら、他の多くの政治的アンガージュマンを志向する芸術作品よりも政治的、社会的影響力を強いのではないかと思います。この絵は物の新しい見方を教えてくれたからです。 『身体の想像力』
CiNii 論文?-? 日本史学研究室寄託の石井進蒐集史料細目録 : 米沢藩関係古文書の中世史料 ci.nii.ac.jp/naid/400192774… #CiNii
若者ボランティア、SNSで泥かきに集結 :日経 s.nikkei.com/1nnxGAI「初対面同士の人も。約25キロ離れた東広島市から約1時間かけて参加した高校生もいる。無料通話アプリ「LINE」やツイッターなど交流サイト(SNS)を通じて集まった若者だ」。
ワープロで中国語変換
Youtubeで中国語の動画を見ていたら、ワープロで中国語に変換して楽しんでいたので、ちょっと待て、どうやったら出来るのだ?と思っていろいろやっていた。結果的にはできた。中国語変換。やってみるもんである。やってみようと思わなかったら、一生涯狭い範囲で、ワープロについてわかったような気になっていたのだろうなぁと思った。変換言語を変えればいいだけであったのだ。もっとも中国語のFEPをインストールしなくちゃならんかったが。
徒然草ではないが、なんでも先達はあったほうがよろしいようである。まったくの素人だから、こんなことすらわかっていなかったのだ。恥の多い生涯でございますよん。
それと「自習」の大切さということも、その動画から教えていただいた。2006年のNHKの中国語会話というテレビ講座を扱ってくださっている動画であった。
いまさらである。中国語のネイティブに教えてもらっていたら、出来るようになるというのも「自習」が前提になっている。ネイティブのまねをすれば、できるようになるというのは、赤子ならば可能であろう。しかし、オイラはじじいである。非常に困難である。それに、マンツーマンで教えてもらいたいけどなかなか相手がいない。ネイティブの先生がである。毎日会っていれば、それも可能だろうけれども、そんな奇特な方はいない。当たり前である。すると、ここで「自習」の必然性が高まる。
Youtubeもいい。これだと、マンツーマンで毎日教えてもらうようなものである。あとは、時間の捻出ができるかどうかということである。
現在は、非常に時間を捻出するのに苦しい。論文書きで、一日の殆どを使っているからである。ボランティアでやっている柔道にもなかなか行けない。ちょっとこれじゃアカンと思って、体力養成だけはやっているのだが。
塾も週に二コマしかやっていないからできるようなものである。これ以上はやりたくないのだ。時間がもったいないのである。
孫が帰ったから、時間は自由に使える。昨日は家でずっと原稿を書いていた。だからどうなんだ?と聞かれるかもしれない。そんなことをやっていて、何になるんだということである。価値があるのかと言われたら、どうしようもない。
オイラを批判される方々は、オイラのこういう道楽性のことを批判されるのである。しかし、オノレの人生を充実させるためということの、どこがいけないのだろうかとも思う。ま、そんなたいそうなことをしているわけではないが。
どうしても福建省に一人で旅行できるようになりたいからである。
今のままじゃ、行けねぇ、行けねぇ。
わはははっはである。
0:33である。
もう寝ましょう。
お肌に悪いから。
あ、オレの周囲にはいまぜんぜ。そんな基地外は。
孫が今朝帰ってしまった。いればいるで、まことに目が回るほどである。一瞬の油断もできない。ケガでもしたら、申し訳ないからである。もっとも四六時中孫の母親である長女がつきっきりであるが。
婿殿の家に申し訳ないからだ。ここらあたりは、日本人独特の考え方なのだろう。孫が一番大事ではあるが、日本人は関係性というのを重要視するからである。
広島の今起こっている土砂災害でも、復興のボランティア活動に若い人たちが行っているという。SNSを活用して、募集しているとのことである。立派なものだ。そういう日本人の姿を見て、アメリカ人の女性がやはり広島に行ってボランティアの登録をしてくださったという。他の国々では考えられない。
てめぇ勝手な国もいくらでもあるからである。妙な屁理屈をつけて、明日にでも攻撃するぞとか恫喝をしてくる国もあるからである。しかも、過去、日本から援助したことなぞきれいさっぱりお忘れのようだし。
お国柄なんであろう。
もっとも、愛を説く宗教を持っていながら二千年この方、戦争ばかりしているお国もあるから世界はいろいろである。
でも、それでも、戦争はいけないと思う。
闘いなら、論述でやってほしいくらいである。口先番長と揶揄されている某大統領も得意だろうに。この分野では。日本にもいたな。前政権のお偉い方で同じ揶揄のされ方をしているエリートが。
もっとも日本人の闘いというのも、あまりいただけない。中世史を道楽で学ばせていただいているが、あんなに鋭く切れる日本刀というのは世界でも珍しいのだそうな。精神的に独特の文化を持ってしまったのもわかるような気がする。日本刀によって、である。祖父が所有していたので、幼い時に、持たせてもらったことがあった。気持ちの悪い「呪」が周囲にあるのである。それが日本文化、日本精神なのであろう。
だから、日本人は闘いとなると精神を重んじて、戦術を重視しなかった。唯一、秀吉だけがそれをわかっていた。なにを云っているのかというと、戦士たちの食料まで考えていたからである。ハラが減っていたんじゃ、闘いもなにもあったものではない。精神だけでは無理である。
もっとも何を間違えたか、秀吉も最後は判断ミスをした。食料補給を考えずに朝鮮出兵で大失敗をした。それが豊臣一族の滅亡に至ったのである。人間あまりにも早く出世すると碌なことはないという見本にも一部でなされている。オイラは、秀吉の前半部分は好きだけれどもね。それに正室の寧々さんがエラかった。高台寺にもお参りしたことがある。あの高台寺から、大阪城が落城していったのを、実際に見ておられたというのである。どんな思いであったのだろうか。
ともかく、闘いのない世界でありたい。アジアでありたい。日本でありたい。友人を平気で捨てて、オノレのことしか考えられないというのではアカン。出世亡者で、大学や大学院なんぞで勉強している資格はないとオレは思うのだが。わかっちゃいねぇのがいくらでもいるからである。
あ、オレの周囲にはいまぜんぜ。そんな基地外は。
わはっはははっははっはははっは。
(;_;)/~~~
汝らが知っているのは、ただ精神の火花だけだ。だが汝らは精神の正体たる鉄敷を見ないのだ、また精神の鉄鎚の残酷さを見ないのだ!-ツァラトゥストラ- 余は十分長きに渡り鉄敷であり続けた。…今や余は鉄鎚でありたい。(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)※鉄敷の精神から鉄鎚の精神へ=駱駝→獅子
大杉大明神:茨城県の大杉神社に所在。あんば大杉信仰として周辺地域で信仰されていたが、江戸時代に都市部へ伝搬し、ついには江戸市中へ出開帳するに至るほどのムーブメントとなった。twitpic.com/dy1e8f
神戸新聞NEXT|事件・事故|女子高校生にわいせつ容疑 姫路、部活顧問逮捕 kobe-np.co.jp/news/jiken/201… 「県立高校の元非常勤講師で女子バレーボール部顧問(63)=姫路市夢前町護持=を逮捕」。
代ゼミ、20拠点閉鎖へ…少子化で7拠点に集約 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) yomiuri.co.jp/national/20140…
昨夜19時頃北西から北にかけて雷雲が発生していて、ひっきりなしに広い範囲で雲間が光ったり、稲光が横に走ったりしていました。遠くなので音は聞こえず。映画でもこんなシーンはないだろうというくらいに頻繁に。天気図を見たら群馬県に雷雲が集中していました。直下の人は怖かったでしょう。
【能楽関連口上】村岡聖美様は26日に、国立能楽堂にて、第45回東西合同研究発表会に、金春流舞囃子「忠度 カケリ入り」のシテで出演されます。ぜひ、応援のほどをお願いします。 @kiyo_1224
なるほど。公募で「要普免」と記す大学が増えそうだ。高校周りや学生送迎バスの運転とかしてもらうからって。博士号なんかより,自動車免許(大型)のほうが必須になる。すげー逆転現象だ。
終末論とは、全体性に対して常に外部的な一箇の余剰との関係だ。恐らくは客観的な全体性によっては存在の真の拡がりを充たすことは出来ず、全体性とは別の概念-無限なものの概念-が、全体性からのこの超越を、全体性の内には包含されず全体性と同じように本源的なものである超越を表現すべきなのだ。
■「朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それはおまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。」【テクムセ・ショウニー族の首長】
田樂師(デンガクシ)の演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口(チユウモングチ)」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた
生きながら埋葬された男は、墓堀人の注意を惹きつけねばならず、さもなければ死なねばならない。ところでまさしく彼は棺の中に入れられ、墓穴になげこまれたために、声を聞いてもらえるチャンスを何一つ持たないのだ。『家の馬鹿息子』
代ゼミ、校舎の7割閉鎖へ 400人規模で希望退職募る(朝日新聞) - goo ニュース
こりゃぁ凄い。
他人事ではない。
もっともオイラは全国チェーンの塾のアルバイト社員だから影響もなにも、明日からもういいから、来なくていいからと云われたら、それっきりである。それも覚悟の高齢者生活である。いつ退職を迫られてもいいようにはしてある。後は死ぬだけだしねぇ。なんにも焦る必要は無いから。就職だってできないし、相手にしてくれるところがないから。わははっははは。
でもなぁ~、予備校とか、大学に入れるほうがこういう状態だと、心配なのは倒産する大学が出てきても不思議ではないってことだなぁ。若い人たちがかわいそうだよん。マジに。
うううううううううむと、うなっているしかないのだけれども。
充実した余生を歩みたい
中央仏教学院は受験しなかった。断念した。九月入学なので間に合わない。拙ブログに「中央仏教学院不合格」という検索語で未だ来てくださる方がいるから、今日ここにご報告しておく。来年どうするかは未定であるが。それよりなにより、現在の在籍大学をどうするかということの方が先決問題である。どうなるのか、オイラにもわからない。評価がからむからである。これ以上は書かない。所詮一介のしたたかな生涯学習者である。趣味でいろいろあちこち勉強させていただいているだけである。でも、生涯学習というのは、やってみなくちゃわからんのである。失敗は常のこと。中退も限りなくある。今までもである。と云っても、あれだ。一回だけだったか。生涯学習の女神である宮子あずさ様は、複数回あって、そんなの気にしないということを教えていただいたが。あわなかったら辞めればいいだけであるからだ。通教で明星大学を中退したのだっけ。20代後半のころ。小学校の教員免許がほしいと思ったことがあったから。部活であまりにも忙しくて、できなかったのだが。もう必要ないが。今更。
日本というのは生涯学習を認めないというか、就職の直前に卒業した学歴が、生涯つきまとう。就職直前の学歴で評価するわけである。履歴書だってそうではないか。順番で書くと、(中学)、高校、大学とあって、大学院の欄はあることはあっても(これもめったに見たことがない)、大学院を複数出ているということをそもそも想定していない。そんなのが受験生にいたら、採用担当から?に思われるのは必至である。日本の常識は、単線型の学歴コースなのであろう。それはそれでよくわかる。だからオノレを評価してほしいとか云っているのではない。もう、そんな世界からは離脱してしまったのであるから。それでも、やっているのは学歴がほしいとかというのではない。学歴ロンダリングというのも、やる気の現れとしては立派なもんであるとも思っているが、オイラは最終学歴がどうのこうのというので生涯学習を始めたのではないのだ。
木曜日に、塾におもしろい本があったので眺めてから帰ってきた。なに、たいした本ではない。大学受験ランキングというどこにでもあるようなくだらない本である。大学受験をする高校生も生徒にいるから、たまには見るのである。そう、大学受験組には英語と国語なら教えることができるからである。数学は無理だ。高校受験まで。(^_^)
そうではない。
その本に、なんと社会人大学院受験ランキング表が出ていたのである。
こいつはたまげた。
なんでか?
国立大学大学院のレベルが総じて低いのである。学部からだと絶対に入れない大学の大学院なら、入学できる可能性が高くなるのである。独立行政法人になってから、それぞれの大学に独自性を持たせるようになったから好きなようにできるらしいのである。しかし、入学する学部卒がいない。あたりまえである。日本の社会は、高学歴ワーキングプアーと揶揄されるように、院卒は就職できにくいらしいのである。博士となると会社は毛嫌いするというのだ。わかるような気がする。これもこれくらいにするが、採用担当からしてみれば、院卒は若くない。博士となるとかえって育成しにくいのであろう。
だから、オイラのようなじじいになって時間をもてあましているのが、入学していくようになったとも書いてあった。私立ならば話はわかる。経営と一緒だからである。じじいたちは、ネギしょって飛んでくる鴨である。わはははっははははである。ところが、国立大学もそうなのだ。学費も高い。オイラの在籍大学よりも高いのにはびっくりした。大学院は別世界なのだということを、木曜日は思った。
京都の龍谷大学で一番最初に入れていただいた仏教心理学会で出会った方で、旧制帝国大学大学院の博士課程にいるお若い方ともいろいろ話をした経験がある。居住地に近いこれまた旧制中学だった高校を出た方であったから話が弾んだ。彼は学歴ロンダリングであった。学部から、修士、博士とステップアップ(偏差値的には)していったのである。それはそれでなかなかすばらしいことである。ご自分が納得して選択した道である。仙台で一人暮らしをしていた。心配したのは就職のことである。研究者になりたいのだろうが、そこのところを心配したのである。学部がその旧制帝国大学ではないからである。所謂外様であるからだ。しかし、可能ならば研究者になってほしいからである。若い俊秀が挫折していくのは見ていられないからである。
じじいが生涯学習をやる場合には、一人暮らしをしてまで通学しないほうがよろしい。片道2時間以上かけて通学して、健康を害してはアカン。せいぜいアル中になって、カビの生えた布団の中でのたれ死にだ。きたねえアパート住まいをしてまで、今更ステップアップだの、最終学歴を立派なものにしたいだのとほざかない方がいい。そんなもん、棺桶に突っ込まれてそれでおしまいではないか。そうではないのだ。そんなのより、「今」を充実させることである。すぐれた師匠と充実した図書館さえあれば、なんの文句もない。今更、研究者になろうとか、学者センセになろうとかふざけた夢をみないことだ。そういうのは若い世代にお任せすることである。これからの人たちの邪魔をしてはイカンのである。マジに。
じじいになっても「自分捜し」だの「第二の人生を夢見て」だとの云わないほうがいい。そんなことより、「今」を充実させていくことである。他人にどれだけバカにされてもいい。充実した余生を歩みたいからである。
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私たちは内的な時間を尺度にすべきであって、外的な時間を尺度にすべきじゃないということだけは、再び学び直さなければなりません。私は『モモ』の中でそれを試みたわけですが、時計で測れる外的な時間というのは人間を死なせる。内的な時間は人間を生きさせる。 『三つの鏡』
CiNii 論文?-? 國學院大學図書館所蔵「畠山家文書」 : 翻刻と考察 ci.nii.ac.jp/naid/110005943… #CiNii
立石寺奪衣婆像:山形県にある天台宗寺院で、通称・山寺。開基は円仁である。松尾芭蕉が『おくのほそ道』で立ち寄り、「閑さや巖にしみ入る蝉の声」と詠んだことでも知られる。奪衣婆は三途川の渡し賃を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。twitpic.com/dxynwu
去年の記事 なんということもないですが blog.goo.ne.jp/tym943/e/c90c5…
私たちはもう、ただ素朴に創作をしていればいいわけではなくなってきます。つまり、引用にしても、なぜなのか、の意識を明確に持つ必要がある。ナイーヴな創作態度ではやれなくなる、と言いたかったのです。 『三つの鏡』
真の世界は到達されえないのか?何にしても到達されてはいない。そして到達されていないものとして未知のものでもある。従ってまた、慰め、救い、義務づけるものでもない。どうして何か未知のものが私達を義務付けられようか?…(明けそめた朝。理性の最初の欠伸。実証主義の鶏鳴)-偶像の黄昏-
一は結局全ての対立を、より大きな統一性、一体性、見える世界と見えない世界を全部包括する一体性の中に、非常に大きな調和の中に入れ込む数字です。この全体性が一で、これを神、最高の存在と呼んだわけです。二元性が既に悪魔です。私達が常に二元的に考えざるをえなくなった事態こそが悪なのです。
不健康な近代性の唯中にあって、キリスト教的同情にまさる不健康なものは何一つ無い。ここで医者であること、ここで仮借なくやること、ここでメスを揮うこと――これこそが我々の仕事であり、我々の流儀の人間愛である。これによってこそ、我々は哲学者となるのだ、我々極北の民は! -反キリスト-
私の世界観を、魔術的世界観というふうにご覧になりたければ、それでも結構です。すべてが知的に説明できることを前提にした現代一般の世界観とは、私は絶対に相容れない立場を取っています。 『三つの鏡』
ここにあるこれらは私のためのいくつもの階段であった。私はそれらを登って越えてきた。このために私はそれらの上を飛び越えてこなくてはならなかった。ところが、階段の方では、私がそこに腰を落ち着けて休息しようとしているのだと考えていたのである。……-偶像の黄昏-
ボロブドゥール遺跡 最も美しいと言われる日の出の瞬間^^写真を見るだけでも涙腺が緩みます。 pic.twitter.com/nxetwtbiLL
北条実時が叡尊を鎌倉にお呼びした滞在記『関東往還記』はいくら実時の妻や幕府関係の女性がこぞって聴聞に駆け付けたと聞いても真面目な男性社会の記録のようで魅力を感じなかったのに、読んだら違う。中原師員という宗尊親王の側近の妻が実時に協力していて、亀谷の新清涼寺ももとは彼女の邸でした。
子どもと目線を同じにして対等に話をして下さい。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように、大人が努力しましょう。
音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである
Investigadores de @NASA descubren que los #aerosoles alteran mucho la formación de nubes. ow.ly/AzF4e pic.twitter.com/3qWEuUdzuE
叱るとか諭すとき、なんか相手をやり込めて敗北感なり抱かせて言うこと聞かせたいだけなんじゃねえの、みたいな権力志向が発言に見えると、それだけで萎えるのだ
会社員時代嫌だったのは、趣味ごとをしっかり持っていることをとらえて「変わっている」という扱いをされたこと。まあ下手すりゃ週末ごとに鉱物採集行ってたからね。
これセカンドレイプじゃん。なんで女相手だと配慮するのに男相手にはこういうこと平気でするの?→ 高橋大輔「セクハラとは思っていません」 nikkansports.com/sports/news/f-… @nikkansportscomさんから
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。