団塊世代の人生時計

 団塊世代として生きてきた「過去」、「現在」、そして「未来」を、自分自身の人生時計と共に綴り、「自分史」にしてみたい。

甥の結婚式・披露宴

2017-06-29 17:24:31 | 家族

甥の結婚式・披露宴

 

 

 wifeの甥の結婚式・披露宴がありました。

・6月3日、ANAクラウンプラザホテル広島

 

 最上階は、ラウンジになっていて、デートスポットなんです。昔のことですが、酔っ払って、ドリンクをこぼしたことがあります。こういったホテルの対応って、良いですね。追加料金なしに、同じものを出してくれました。もっとも、高いです。

 

 ホテル内チャペルです。何か、お金をかけずにスマートに造ってるって感じです。

 生演奏の中、神父さんの前で誓いの言葉を述べさせられます。

 

 両方のお友達も沢山いて、ヤンヤヤンヤでしたね。

 入籍は1年前。披露宴より先なんだ。

 

 

 小道具ですね。

 この甥とは、因縁があって、私としても、可愛い甥です。

 こういう料理って、馴染みません。煮付が食べたい。

 このワインは私の口に合いましたですね。おおかた1本は飲んだかな~!

 

 ディスプレーも登場して、ショーですね。→私の好みではありません。

 席を回って、生ビールのサービスです。

 

 友達の出席が多く、非常に盛り上がった披露宴でした。

 

 写真を撮ったのですが、改めて下手ということが分かりました。100枚に1枚も良いと思える写真がありませんでした。(泣き)

 

 

 

 

 

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FMワイドバンド

2017-06-07 16:50:38 | 家族

FMワイドバンド

2017年6月7日(水)

 wifeがradioが欲しいと言い出しました。CDを聴くのだというのです。stereoは私が独占していますので、使い勝手が悪いのでしょう。実は、私も夜枕元に置いてCDを聴くことができるCDラジオが欲しかったのであります。

 

 

 近くのコジマで物色していたところ、手ごろなのがありました。東芝(やがて消えてなくなるであろう。)6,580円也でした。

 

 ・・と、家電量販店のチラシが入っていて、・・。

 同型機種が3,480円とあります。ただ、整理券先着50名様とあります。

 朝10時から並びましたです。

 そんなに競争倍率は高くなく、getすることができました。

 

 ワイドFMってなんだ? たまたま、ナヴィを付けるスタッフに教えてもらったのですが、周波数帯域の幅を広げ、放送免許を出したんですね。カープの野球放送を臨場感たっぷりに放送していました。

 地デジでTVの1~3チャンネルが受信できなくなりましたので、電波の余裕ができたのかな~と思います。

 夜寝るとき、小音量で聴くので、音質的には期待していません。聴くというか、5分もしたら寝付いてしまいます。(笑い)

 

 

 

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いとこが集まりました

2017-04-29 12:41:02 | 家族

いとこが集まりました

2017年4月29日(日)

 4月2日、母方のいとこが集いました。アメリカ在住の従姉が一時帰省しました。83歳と高齢ですので、これが最後になるかも知れません。

 

 拍拍飯店です。

 13人集まりました。

 お品書きがあります。本格的なコース料理ですが、何と2,000円也なんです。ランチメニューって安いですね。夜だと倍程度になるかも知れません。

 フカヒレがなさそうで、ありました。

 石焼ビビンバ風に熱した土器に流し込んでいます。

 

 マーボ豆腐です。この店の看板メニューですが、ショッパ過ぎます。

 スープですが、何やら果物の実らしきものが入っていて、プチプチとした食感が良かったですね。

 以上出て、2,000円ですから、ビックリします。個室でしたし。

 

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祖父母参観

2016-11-08 17:23:54 | 家族

祖父母参観

2016年11月8日(火)

 son 2ndの子、つまり孫の幼稚園の祖父母参観に行って参りました。滋賀県ですから、旅行を兼ねて行きました。

 

 参観日、2016年10月21日。

 愛光幼稚園。どこにでもありそうな名称です。

 

 クリスチャンなんですね。

 子ども達が歌を合唱するのですが、声に生命観が溢れていました。60数年前は自分もそうだったのかしら・・。

 

 茶道を習っていて、お点前を頂戴することになっていました。まずは、履物の揃え方から。

 作法を学ぶということは良いことです。私も約半年茶道を学びましたが、少しは役に立っていますですよ。箸の置き方は今でも実行しています。

 お椀の回し方を教えてもらっているところです。

 

 この先生の動作が実にしなやかでした。無駄がないですね。

 教室です。

 

 年中組が、おむすびを作ってくれていました。

 いただきます。むすびを作るのを見ていたら、食欲が出なかったかも知れません。後ろ髪の女の子ですが、おしゃまでしたね。

 

 子ども達と輪唱しました。良い歌です。

 

 10時から約2時間半! 長すぎです。

 

 孫は、私達にも挨拶ができるようになっていました。他の子どもに較べると、集団に入っていくのが、苦手なようでした。私は群れるというのが大嫌いな方ですので、似たのかな・・。

 

 突然ですが、滋賀県庁です。趣のある立派な建物ですね。

 

 

 

 

 

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従兄の葬儀

2016-09-09 15:02:34 | 家族

従兄の葬儀

2016年9月9日(金)

 9月8日、父方の従兄の葬儀へ行きました。入院していたのですが、最後の2週間程度は在宅で療養し、6日に亡くなりました。(80歳)合掌

 

  車で1時間半程度とみていたのですが、1時間半も早く着いてしまいました。

 

 久しぶりに会った人が沢山いました。50年以上会ったことのない従兄に巡り会いました。また、奇遇というか、その従兄が義兄と高校で同級生ということが分かりました。死者は、残された者に、縁を作ってくれます。葬式の意義のひとつと思います。

 遺影は、10年位前に、いとこ会をした時に私が写した写真の一部を利用したものでした。

 

 浜田省吾の献花がありましたが、あの「浜田省吾」と同じかどうかは分かりません。

 

 火葬場です。

 この火葬場の由来が書いてありました。長いので、読む気にならず。

 ただ、白骨のみぞ残れり。

 火葬場から帰り、直ぐに初七日をしました。遺族の挨拶です。左は長男、右は残された奥様です。奥様は、遺体を焼却炉に入れる時に、泣き崩れていましたが、収骨の時は、落ち着いた様子でした。心の整理が付いたのでしょうか・・。

 

 お坊さんが、お経を口語訳で詠んでくれました。お釈迦さんの教えは、「人は平等であるべき」ということを、私は悟りました。勿論これ以外にも色々と説いているのですが、私の脳キャパシティーからして、一つことしか残りません。

 

 突然ですが、「グローバル資本主義 vs 世界市民」ということを、私なりに説きたいのですが、その中の中心は、「人は生まれる環境を選ぶことができない」ということがあります。生まれながらにして、平等ではない訳で、それは社会的に平等にしなきゃいけないですね。お釈迦さまの教えと同じと思います。お釈迦さまのファンになりました。(-_-;)

 

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孫5歳2か月

2016-07-08 06:29:16 | 家族

孫5歳2か月

2016年7月6日(水)

 son2ndのson1stは、2011年3月生まれ。3.11東日本大震災後に生まれました。5歳ということです。

・2016年5月24日、大津市。

 孫家族と食事に行き、帰る途上、転んでしまい、脚を擦りむきました。私達がいたのではしゃいでいたと思います。

 

 大したことはないのですが、抱っこしてくれと言います。まだ、幼いです。私も抱いて歩きましたが、17㎏を2分程度抱いて歩くのが精いっぱいでした。

 抱くと、オキシトシンが出るのでしょうか・・? 身体がジーンと幸せな気持ちになります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%B3

 

 結局、son2ndが家まで抱いて帰りました。10分程度はあります。

 琵琶湖です。

 露出のかげんでかなり印象が変わります。

 

 孫は幼稚園へ行き出して、1年余りですが、随分と成長しました。

 私は右肩の付け根の部分が、ある角度になると急に痛みがくるのですが、孫とふざけていて、それに出くわしました。私が「痛い、痛い」と言うと、「大丈夫」と気遣うようになりました。私が、「こっち(右)の方が痛いのよ。」と言うと、「こっち(左)の方は?」と尋ねます。この頃の子どもは友達同士、お互いに痛みとかの限界を遊ぶことを通じて学ぶものですが、それがしっかりと、身に付いたと思いました。幼稚園に感謝です。

 

 話はちと逸れますが、文部科学省が「望ましい能力、幼稚園要領に」ということで、5歳後半でどんな能力が身についているのが望ましいか、「幼稚園教育要領」に明記することを決めたということです。

 「自立心」、「共同性」、「道徳性・規範意識の芽生え」等です。いずれも必要なことです。ただ、大いに「?」があります。「日本国旗・・の意識や思いが芽生えるようになる」というのがあります。歪んだ愛国教育へ危惧するものです。

 

 

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長兄を偲ぶ会

2016-04-22 07:05:27 | 家族

長兄を偲ぶ会

2016年4月22日(金)

 長兄が死んだのは、2月24日。昨日四十九日の法要をし、今日は、親族で偲ぶ会をしました。

・2016年4月10日、広島市中区「ANAクラウンプラザ『雲海』」。

 

 「ANAクラウンプラザ」ホテルです。昔はこの辺りまでは海でした。

 ホテルの中にあるレストラン「雲海」です。

 中庭が作ってありました。

 出席者18名。

 前日、宮島の辺りで、散骨を行いました。

 義姉が、故人は泳ぎが得意なので、この辺りまで泳いで来ているかも知れません、と挨拶しました。泳ぎが得意だったのは本当で、国体に出たことがあります。もっとも、記録的には大したことはありません。

 数滴ブランデーを落とすとぐっと味がgoodになるのですが。

 

 いろいろと沢山の種類が出ましたが、どれといって印象に残るものは、ありませんでした。

 印象に残っているのは、日本酒の燗を注文したところ、白湯が入って出たことです。私が支配人なら、謝罪に来て燗を1本サービスいたします。

 

 

 

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長兄死去

2016-02-27 08:08:21 | 家族

長兄死去

2016年2月27日(土)

 長兄が死亡しました。(83歳)2016年2月24日7時24分死亡。急性骨髄性白血病。約2年の闘病生活で、日本赤十字・原爆病院には、一昨年の5月から入院していました。何度か医師から危ない旨の告知があったのですが、その都度持ち直し、長女(私からしたら姪)は「不死身」と言っていました。

 亡くなる1日目に血圧が測定限界値以下になり、それも持ち直し50程度測定可能となったのですが、24日午前7時10分頃、泊まって看病していた配偶者が呼吸停止になっていることを発見しました。医師が出勤したのはその後で、同24分に医師が死亡を確認しました。その時刻が死亡時刻となっています。

 私達が病院へ到着したのは、7時50分頃でした。これは原爆に遭った当時の建物の一部です。長兄は、ここから約1㎞くらい離れている旧制中学校に通っていて、入市被爆しました。当時、中学生も建物疎開をしていて、長兄はその日当番ではなく学校へ行っていなかったので、翌日以降の入市被爆となったものです。その日当番だと直接被爆で死んでいたかも知れません。

 

 看護師が、慌ただしく清拭等をしていました。

 病院内のカフェで朝食をすることに。

 朝カフェセット390円也を注文することに。

 スタッフに箸をくださいと言ったのですが、置いていないとのことでした。箸くらい置いておいて欲しいものです。

 サンドの中身は温かくて、気持ちよかったです。紅茶の縞模様は、次の写真で判明します。

 縞模様の正体は、大きな吹き抜けの上の天井です。

 

 病室に帰ると、清拭が済んでいました。

 葬儀社が9時10頃遺体を運び出しました。

 遺体を車に載せて、運び出すところです。右は主治医です。車が去った後も15秒くらい深々と頭を垂れていました。頭を上げた後は、私が主治医に頭を垂れました。

 通夜は、翌25日にすることになりました。喪主の長男が中国に単身赴任していて、帰国するのに日時を要するからです。

 昼時になりましたので、昼食をすることに。つどいという喫茶店です。この店は3・4度来た事があります。

 肉丼(つどい風)600円也を注文することに。

 

 この肉の味付けが、塩辛いの何のって! 本当にしょうがない味付けです。ただ、肉の量は十分で不味くもありません。今度来るときは味付けを注文することにしましょう。

 

  

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長兄重篤・竹の家

2016-02-26 07:52:49 | 家族

長兄重篤・竹の家

2016年2月26日(金)

 次姉から連絡があったのは、22日16時頃でした。日赤病院に入院している長兄が「血圧が無くなった。」と言うのです。「血圧が無くなった」ということは「亡くなった」と同義と、私は解釈しました。後刻、違うということが分かったのですが・・。

 広島赤十字原爆病院。吹き抜けの空間があります。

 看護師が血圧を測りますが、数値が出ません。でも心臓は動いていますので、血圧が「無い」という訳ではありません。測定限界値以下ということですね。だいたい50位と思います。

 血圧が測定限界値以下でも、状態は安定しているため、ひとまず帰ることにしました。

 

 家の近くの竹の家という食堂で食事をすることに。この店、私は4・5回来たことがあります。昨日21日の日曜日にTV放映されたため、客が多くなければ良いがなと少々気がかりでした。

 刺身は、鮮度はイマイチでした。

 これ、ガリを焼いて醤油ベースで味付けしたものです。goodでした。なんでもお客さんから要望があり、定着したのだとか・・。いい雰囲気の店ですね。

 豚カツです。作り置きのものですので、冷たいです。ただ、電子レンジで自分で温めることができます。

 やはり、何時もよりか客は多めでした。TVでラーメン(400円)が紹介されていましたので、ラーメンの注文が多かったですよ。TVの影響強し。

 燗をチロリで出してくれます。

 お供は、冷奴です。でも、これも電子レンジでチンすれば湯豆腐になります。(^0^)

 安いですね。うどんが(確か)200円から。ビール大瓶550円。(普通の店だと中瓶の値段です。)本日の我々の食事代は約4,000円也でした。

 wifeは初めてでしたが、これから、時々来ることにしましょう。

 

 ・・で、家に帰って暫くして、次姉からTELがありました。長兄の血圧が「復活した。」と。50台になったというのです。介護をしている長女は、不死身と言っていました。

 

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ロイヤルホスト

2016-02-25 07:46:14 | 家族

ロイヤルホスト

2016年2月23日(火)

 長兄(83歳)が死なないのです。誤解があるといけませんので、説明を要しますが・・。医師が死の宣告を何度かしたのですが、その都度生き返る(死んでいないので生き返るというのは論理矛盾ですが、でもそのような形容がピッタリなんです。)のです。例えば、血圧が50位に落ち、医師が「明日か明後日か」と言ったのに持ち返すのです。改めて生命というものの凄さを感じます。私しゃ、娑婆での所業に対して反省が足りないので、三途の川を渡らせてもらえないのじゃなかろうかと妄想しております。

 広島赤十字原爆病院へ入院したのが、約1年半前。白血病ということで原爆症患者として認定されました。病院側都合による個室入院です。入院期間は600日を超え、この病院のこの個室での入院期間の最長記録を更新したということです。急性期の患者が入る個室なんですが、長兄はいわば急性期がずっと続いて慢性化している状態と言えます。

 急を聞きつけ病院へ行く頻度が多くなり、時間も不定期ですので、近くで食事をすることにしました。

・2016年2月20日、広島市中区「ロイヤルホスト」。

 wifeによると、この手のファーストフード店では高級な方なんですって。

 ゆったりしています。

 ハンバーグの上にチーズを乗せた奴を注文しました。飲み物は生ビール1本と遠慮しました。

 妻は釜飯を注文しました。

 このマンションの最上階が1億円で売りに出されたという噂話しを聞きました。マンションにも格差が広がっています。

 味付けが中庸をいっていて嫌味がありませんでした。

 少し分けてもらって食しました。

 日本語で書いていただきたいです。

 

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広島赤十字原爆病院 ・ サイゼリヤ

2016-02-24 06:59:46 | 家族

広島赤十字原爆病院・サイゼリヤ

2016年2月24日(水)

 広島赤十字原爆病院に入院中の長兄の急を聞き、駆けつけたのは、2月16日15時45分頃でした。血圧が50程度に落ち、主治医からは何時絶えるか分からないとの説明だったと言います。

 最近改築されました。屋上にあるのは、ヘリポートでしょうね。

 爆心から1.5㎞です。「地下室に置かれていたレントゲンフィルムがすべて感光したことにより、この爆弾が原子爆弾であることが立証されました」とあります。

 吹き抜けで、豊かな空間となっています。

 wifeと長女(私からすれば姪)が介護をしていました。

 暫くいたのですが、血圧が低いながらも安定していて急変するような感じがしないため、帰ることにしました。

 次姉夫婦とサイゼリヤで食事をすることにしました。

 

 16時40分頃と中途半端な時間帯だったため、客はほとんどいません。

 とにかく安いです。

 私が注文したハンバーグです。安いからといって、不味いことはありません。

 1.5ℓのワインが1080也を見つけました。半信半疑(旨い訳ないだろう)で注文しました。

 実は、これがストライキングでした。店で1080円ということは、仕入れは三分の一程度と思います。信じられないpriceです。これをsurpriseと言います。

 4人で約6000円でした。

 

 

 

 

 

 

 

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ペルー広島県人会60周年

2016-02-22 12:30:49 | 家族

ペルー広島県人会60周年

2016年2月22日(月)

 昨年ペルーの広島県人会が60周年を迎え、広島のペルー協会の理事長が出席しました。次はその記録です。

 

 

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法事 2015.11.14

2015-12-09 07:44:04 | 家族

法事 2015.11.14

2015年12月7日(月)

 法事があるというので、生家に兄弟姉妹が集まりました。母が1994年2月、父が1999年11月に亡くなりまして、何回忌かの法事なんでしょう。

 瀬戸内海の島です。牡蠣の養殖をしているのです。

 この小屋で牡蠣を打っているのですね。売ってくれるかどうかは知りません。

 家の前は、潮溜めとなっています。土地が満潮時の海水面より低いため、この潮溜めに溜めておくのですね。子どもの頃「しょーもち」と言っていましたが、「潮待ち」が訛ったものなんでしょうね。鴨が沢山いました。昔は居なかったかも・・。

 

 墓参り。

 義兄が俄か坊さんになりました。

 これは、甥の小学校2年の習字です。今の私よりかよほど上手です。

 長兄がこの人と知り合いで、カセットテープを沢山買っていました。歌手として買っていたのでしょう。

 父は、1941年頃単身満州へ渡りました。当時二男一女(後に三男二女)でしたが、生活が苦しいので、稼ぎがよい満州へ行ったのですね。1946年12月に命からがら満州から引き揚げることができました。家族と一緒に行っていたら、孤児になっていた可能性がありますね。

 満州の話は時々話していましたが、どのようにして満州から日本へたどり着いたかについては、全く話がありませんでした。思い出したくなかったのかも知れません。

 これ、同じ島の仕出し店の弁当です。2,700円程度でしたが、内容は非常に良かったです。

 現在、誰も住んでいませんので、蜘蛛が番をしてくれていましたね。これ随分と大きい蜘蛛でしたよ。体調5㎝はありました。

 本土広島市へ帰る頃は、雨が上がり、霧がこのようにかかっていました。

 刻々と変化します。

 フェリーで約30分の距離です。

 この島は、峠島といい、本土広島市と島との丁度中間辺りにあります。

 

 

 

 

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祖父のPTSD

2015-08-20 06:30:40 | 家族

祖父のPTSD

2015年8月18日(火)

 父方の祖父(1881年生)が、戦争の話をしてくれたことがあります。時代からすると日露戦争(1904年~1905年)だと思います。

 祖父が敵を見つけ、上官に指示を求めたところ、射殺するよう命令されました。相手の兵はコトッという感じで倒れて死にました。祖父は、殺してしまったことに葛藤があったのか、上官にその旨話をすると、上官は「殺さなければ、こちらが殺される。」と正当性を述べたそうです。

 しかし、祖父は、そのことが、恐らく、PTSDになっていたのでしょう。妻(私からすると祖母)に時々、懺悔の気持ちを言っていたそうです。

 私がその話を聞いたのは、7or8歳の頃と思います。祖父は私が9歳の時死にました。祖父がどのような思いで、孫である私に話をしたか、分かりませんが、誰かに話すことにより、精神的苦痛を和らげる効果があったのかも知れません。

 

 2015年8月18日、朝日新聞

 

 なぜ、PTSDになるのか分かりませんが、酷く人間性を否定された場合があることは確かだと思います。戦争がその最たるものでしょう。

 「戦争法案」が審議されています。与党の数の力で押し通す可能性がありますが、様々な後遺症を引き起こすことになるでしょう。

 

 

 

 私の故郷の神社です。大歳神社といいます。祭り、盆踊りが行われていました。子どもの頃の記憶では随分広いイメージでしたが、5月に行った時は随分狭いと感じました。

 鳥居の左に石碑が立っています。

 裏には、名前が彫ってあります。

 

 従弟によると、戦争出征者の名前が彫ってあるのだということでした。母方の祖父の名前も見つかりました。ほとんどの人が戦争に駆り出されたのでしょう。

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いとこ会記念誌

2015-07-09 08:18:28 | 家族

いとこ会記念誌

2015年7月8日(水)

 こんなのを作りました。

 いとこ会記念誌。いとこ会を昨年10月5日に広島のアンデルセンで行ったのです。母方のいとこは33人いて既に半分程度は死んでいます。残りの人で結構集まりまして配偶者や子どもも含め28人集まり、盛会でした。

 

 それで、その時の記録だけではなく、家族の想い出も載せようということになり、私は、次のものを出しました。

 

 

おふくろのお腹 

2014年9月18日 ○○ ○○ 

 

 柄にもなく、「おふくろ」と書いた。「柄にもなく」と言うのは、僕は父親○○(1908年生)を「おやじ」、母親○○○(1911年生)を「おふくろ」と言ったことも書いたこともなかったからである。親のことを書くのは最初で最後と思うから、親しみを込めて「おふくろ」と書いた。

 朝日新聞では数年前から「おやじのせなか」と題してコラムが掲載されている。また7月からはTVで同じく「おやじの背中」と題して10回10話のドラマが放映されている。家族の想い出を書くに当たり、同じ標題にするのでは、天邪鬼を旨とする僕の面目が立たない。そのため、おやじの反対のおふくろ、背中の反対のお腹という意味で、「おふくろのお腹」と題して書くことにしたのである。

 「お腹」とは「胃袋」のことである。おふくろは胃袋がいたって丈夫であった。そのことは、○○○姉さん(1936年生)が、「お義母さんの胃は、腐った卵を食べても下さないんですね。アッハッハッ!」と笑ったほどである。確かに、口の中に食べ物を入れて、あまり噛むこともなく、「ぐんずり」という感じで飲み込んでいたところをみると、胃が丈夫で、胃袋だけで消化する力があったようである。

 ところで、結婚披露宴で話される「結婚の3つの袋」について、何が「袋」であるかは諸説あるが、「お袋」、「堪忍袋」にプラスして「胃袋」という説が有力である。

 この「結婚の3つの袋」の話は、姪の○○○○○(1960年生)の結婚披露宴の席で、○○さんという方から初めて聞いた。30年以上経った今でも明確に覚えているのは、説得力のある分かり易い話だったからであろう。

 その「胃袋」の意味であるが、美味しい料理は旦那さんを家に帰りたがらせますよ、ということである。俗に、胃袋を掴まえられると言われている。

 おふくろがおやじの胃袋を掴まえようという意図があったかどうか、今となっては確認のしようがない。そのことは兎も角として、僕は、むしろおふくろ自身の胃袋が美味しい料理を欲していたのではなかろうかと考えている。なぜなら、戦中・戦後と食糧事情の厳しい時代に、食べたいものも食べることができなかった経験をしたからである。

 おふくろが料理が上手かったことは、僕の妻の○○○(1948年生)と比較すれば明らかである。ただ、妻の名誉のために言っておくが、妻は料理が上手い方である。しかし、おふくろがそれ以上に上手かったのである。

 しかも、安い食材で旨い料理を作ることが上手かった。経済的に安い食材にせざるを得なかったという事情があったのであるが、料理の幅を広げることに繋がっていたように思う。

  クジラの竜田揚げは、隣家が魚屋ということもあって、よく食卓に並んだ。今クジラは高嶺の花となっているが、当時は学校給食にも度々出されるほどで、安かった。学校給食では冷めていて、実に美味しくなかった。おふくろの作る揚げたての熱々のクジラをほうばるようにして食すと、口中に旨味成分が広がり一瞬思考を停止させるほどなのである。

  おふくろは巻き寿司もよく作っていたが、僕はこれまでおふくろの味以上のものを食べたことがない。おふくろの作る巻き寿司は酸味が強めで、小貝(アサリ)で出汁を摂り、具材の味付けは濃い目であった。ご飯は少し柔らかかったが中の具材にセリなんかが入っていると、そのシャリシャリとした食感と相まってハーモニーを醸し出していた。

 他にもいろいろあるが、何と言っても最高傑作は鳥がら煮だろう。鳥がらに、砂糖、醤油、ミリン、日本酒を適度に入れて、好みでニンニク、生姜、唐辛子を加えて煮込む。がらであるから殆ど肉が付いていないので、骨をしゃぶるという感じで食す。首の部位が絶品なのである。

 僕も時々作るが、2、3年前に船橋市の長男宅に行った時、長男○(1974年生)が作ったのにはびっくりした。美味しいものを欲するというおふくろの胃袋のDNAが繋がっていたのである。

(蛇足)

 冒頭「柄にもなく」と書いた。最後は「がら煮」の話で締めくくることにする。駄洒落は、僕の唯一の「取柄」なのである。(^_^;)

 

 これ裏表紙です。全部で20部作成して80,000円也。印刷会社の選定ミスだったかも知れません。もっとも多くの人のカンパがありましたので、私の持ち出しはあまりありませんでした。

 皆喜んでくれました。

 

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