水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

『水を縫う』(2)

2020年06月06日 | おすすめの本・CD
~「あんまり気にせんほうがええよ。山田くんたちのことは」
「山田って誰?」
 僕の手つきを真似て笑っていたのが山田某らしい。
「私らと同じ中学やったで」
「覚えてない」
 個性は大事、というようなことを人はよく言うが、学校以上に「個性を尊重すること、伸ばすこと」に向いていない場所は、たぶんない。柴犬の群れに交じったナポリタン・マスティフ。あるいはポメラニアン。集団の中でもてはやされる個性なんて、せいぜいその程度のものだ。犬の集団にアヒルが入ってきたら、あつかいに困る。
 アヒルはアヒルの群れに交じれば見分けがつかなくなる。その程度のめずらしさであっても、学校ではもてあまされる。浮く。くすくす笑いながら仕草を真似される。
「だいじょうぶ。慣れてるし」
 けど、お気遣いありがとう。そう言って隣を見たら、くるみはいなかった。数メートル後方でしゃがんでいる。灰色の石をつまみあげて、しげしげと観察しはじめた。
「なにしてんの?」
「うん、石」 ~


 石を集めるのが趣味だというくるみも、清澄と同じくらい「普通」ではない。
 でも普通って何?
 男子の趣味として、刺繍が普通外なら、たとえばお菓子作りは? 実際にけっこういる。
 女子の趣味として、石集めが普通外なら、たとえば機械いじりは? 実際にけっこういる。
 誰がみても男の子らしい、女の子らしいふるまいであっても、のめり込み方は相当に人それぞれだ。
 普通とはずれてるかもしれないと意識しながら、だからといってムリに周りにあわせることもしない。
 言わなくてもいいのに、クラスの最初の自己紹介で「趣味は刺繍」と言ってしまう。


~ ポケットの中でスマートフォンが鳴って、宮多からのメッセージが表示された。
「昼、なんか怒ってた? もしや俺あかんこと言うた?」
 違う。声に出して言いそうになる。宮多はなにも悪いことをしていない。ただ僕があの時、気づいてしまっただけだ。自分が楽しいふりをしていることに。
 いつも、ひとりだった。
 教科書を忘れた時に気軽に借りる相手がいないのは、心もとない。ひとりでぽつんと弁当を食べるのは、わびしい。でもさびしさをごまかすために、自分の好きなことを好きではないふりをするのは、好きではないことを好きなふりをするのは、もつともっとさびしい。
 好きなものを追い求めることは、楽しいと同時にとても苦しい。その苦しさに耐える覚悟が、僕にはあるのか。
 文字を入力する指がひどく震える。
「ちゃうねん。ほんまに本読みたかっただけ。刺繍の本」
 ポケットからハンカチを取り出した。祖母に褒められた猫の刺繍を撮影して送った。すぐに既読の通知がつく。
「こうやって刺繍するのが趣味で、ゲームとかほんまはぜんぜん興味なくて、自分の席に戻りたかった。ごめん」
 ポケットにスマートフォンをつっこんだ。数歩歩いたところで、またスマートフォンが鳴った。
「え、めっちゃうまいやん。松岡くんすごいな」
 そのメッセージを、何度も繰り返し読んだ。
 わかってもらえるわけがない。どうして勝手にそう思いこんでいたのだろう。
 今まで出会ってきた人間が、みんなそうだったから。だとしても、宮多は彼らではないのに。
 いつのまにか、また靴紐がほどけていた。しゃがんだ瞬間、川で魚がぱしゃんと跳ねた。波紋が幾重にも広がる。太陽の光を受けた川の水面が風で波打つ。まぶしさに目の奥が痛くなって、じんわりと涙が滲む。 (寺地はるな『水を縫う』) ~


 おれは普通とちがう、と思い悩まなければならないほど、周りは見ていない。
 万が一いじめられるようなことがあるなら、すぐに誰かに相談すればいい。
 そこまではいってないけど、少し落ち着きたいときには、こんな本を読めばいい。
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『水を縫う』(1)

2020年06月03日 | おすすめの本・CD
 すぐれた文学作品というものは(主語でかくない?)、なんらかの形で人の背中を押してくれる力をもつ。
 ほとんどの場合、押された人の言動が、傍目からはさほど変わったものには見えないが。
 そこが、映画とちがうところか。
 映画だと、見終わった直後に、健さんやロッキーになった人はたくさんいた。
 はっきり形に見えないとはいえ、内部での変化の度合いは、映画を観た後のそれより大きいことも多々ある。

 すぐれた文学作品?
 たとえば何だろう。教科書に載っているような「名作」?
 餓死寸前の下人が老婆をボコって盗人になる話や、友人の好きな女を我が物にして友人を自殺させる話や、異国の地で少女を手込めにして妊娠させ発狂させる話のこと?
 教科書に載っているこれらの名作も、あまりの非道徳性ゆえに、わたしたちの背中を押してくれる。
 こんな自分でも生きていこうかなと感じさせてくれるという意味で。
 文学は、不健全な精神の持ち主たちを、なんとか社会からはみ出さずに生かしてくれようとする。

 社会の一員として迷いなく人生を過ごしている方にとって、文学は「不要不急」以外の何ものでもない。
 一見ふつうに社会生活を送っていけてるようでも、何か喉の小骨がとれないような感じをもっていたり、自分のやっていることにちょっとした違和感があったり、しょっちゅう作り笑いしてる自分に気づいたり、イヤなことはやめよう思いながら決心できない自分を嫌悪してたりする人にとっては、ふと手にした何でもない人の物語が、そっと背中を押してくれたりすることがある。

 寺地はるなさんの小説を読むといつも、そういうことを思う(え? 前置きながない?)。


~「そう。プール。泳ぐの、五十年ぶりぐらいやけどな」
「そうか。……がんばってな」
 清澄はふたたび手元に視線を落とす。ぷつぷつとかすかな音を立てて、糸が布から離れていく。うつむき加減の額にかかる前髪も、皮膚も、まだ新品と言っていい。
 この子にはまだ何十年もの時間がある。男だから、とか、何歳だから、あるいは日本人だから、とか、そういうことをなぎ倒して、きっと生きていける。
「七十四歳になって、新しいことはじめるのは勇気がいるけどね」
 清澄がまっすぐに、わたしを見る。わたしも、清澄を見る。
 でも、というかたちに、清澄の唇が動いた。
「でも、今からはじめたら、八十歳の時には水泳歴六年になるやん。なにもせんかったら、ゼロ年のままやけど」
 やわらかな絹に触れる指が小刻みに震えてしまう。そうね、という声までも震えてしまいそうになって、お腹にぐっと力をこめた。      (寺地はるな『水を縫う』)~
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流人道中記

2020年05月28日 | おすすめの本・CD
 近代社会ゆえに生じる主人公の屈託を描くのが近代小説だという話を授業中にしている。
 近代になって個人という概念が生まれたために、人は悩むようになり、その苦悩を描くのが近代小説だ、と。
 日本でいえば、前近代、たとえば江戸時代の人は悩まない。
 なぜなら、村や世間のなかで、ひとりひとりが決まったとおりに、与えられた宿命をいきていただけだから……
などと話す。
 もちろん類型化しているという意識はある。
 江戸時代に生きる人たちだって、心にさまざまな屈託を抱いていたにちがいない。
 しかも、こうありたいと願ったとき、そうはなれない自分の、なれなさ度合いは、今の比ではない。
 だから、気づいてしまったときには、近代人以上にせつない事態に陥る。

 武家とはいえ最下層の家に生まれ、貧乏がしみついて育った乙三郎。
 縁あって、格上の石川家に婿入りし、年端のいかない妻きぬとの間には、まだ夫婦関係はない。
 ある日、急な命令で、流罪となった旗本の護送役を仰せつかる。
 事情がよくわからないまま、奥州道を北上し津軽半島の果てまで押送(護送)する旅に出る。

 青森に行ったのはいつだったろう。
 毎年下北沢のスズナリで観劇する「渡辺源四郎商店」のお芝居がタイミングあわずに行けなくて、でもどうしても見たくなって、青森にある劇団のホームまで行った。余裕で日帰りで行けた。新幹線はおそろしく速い。ゾンビものってこなかったし。
 新幹線も高速バスもない江戸時代に、参勤交代などという制度があったのは、とんでもないことだと思う。

 蝦夷地へ送られる船に乗せるために向かう、津軽半島は三厩の地までは、およそ一ヶ月の旅。
 犯罪人と一ヶ月寝食をともにする仕事というのも、過酷すぎて想像がつかない。
 しかも、その流人とは高禄の旗本、つまり護送役の乙三郎よりはるかに格上の侍だ。
 そもそも、そのお武家は一体何の罪を犯したのか。
 急な出張命令でいぶかしむばかりだが、出立してすぐに、その旗本の青山玄蕃がやらかしたのは不義密通だと知る。
 不義密通 … 。なんと、破廉恥な … 。
 もしかすると、旅の途中で、そやつを斬ることが真の命令なのかとも、乙三郎は疑う。
 寝食を共にしていると、青山玄蕃は「食えない」ヤツだった。
 たしかに家の格では、彼がはるかに上の存在だ。
 天下の旗本と、一介の与力とが、日常会話をする状況は、ふつうならありえない。
 しかし、そんな格の違いを鼻にかけてくるようなたたずまいは、玄蕃にはない。
 自分は犯罪人、はるかに年下の乙三郎は押送人という、分はわきまえて接してくる。
 むしろ家としての、武士としての格以上に、人間としての格がちがうことを、乙三郎は感じていく。
 この者は本当に罪を犯したのか、本当にそうだとしたら、何か事情があったのか。
 とはいえ、切腹を拒否して流人になるということ自体は、許されるのか。
 旅を続けながら乙三郎の疑問はふくらむばかりだ。
 道中で二人は、さまざまな人に出会い、事件にまきこまれるが、そのたびごとに玄蕃がうまく解決していく。
 
 
~ ねえ、きぬさん。
 僕はこまごまと気に病むたちなのでしょうか。自分ではむしろ呑気者だと思っているのですが。
 青山玄蕃なる流人がそう言うのですよ。「石川さん、あんたは気が細かすぎる」と。
 さて、どうでしょう。自分のことはわからぬものです。
 どれほど目を凝らそうと、世の中にはひとりだけ見えぬ顔がある。自分自身の顔ですね。鏡に映したところで右と左が逆様だから、けっして正体ではない。
 どれほど耳を欹てようと、世の中にはひとつだけ聴こえぬ声がある。自分自身の声ですね。それは耳が捉えるのではなく骨に響いて伝わる音だから、実は他人が聴く声とはまるでちがう。
 それらと同じ理屈で、どれほど心静かに考えようと、自分の気性などわかるはずはない。だから僕は呑気者ではなくて、もしかしたら苦労性なのかもしれない。
 もっとも、それらは何から何まで、青山玄蕃のご高説なのですがね。聞きながら僕が考えこむと、高笑いをして指を向けるのです。
「ほおれみろ、何をそんなに考えこむのだ。しょせん考えてわかる話じゃあるめえ。それに、もっと肝心なことだが、あんたが思うほど他人はあんたを見ちゃいねえ。あんたの話も聞いちゃいねえ。ましてやあんたの気性がどうだなんて、誰も考えちゃいねえよ」
 玄蕃の物言いにはいちいち腹が立つのですが、そのときばかりは何やらスッと胸が軽くなったような気がしたものでした。
(浅田次郎『流人道中記』) ~


 まじめで一途な若者は、あるべき自分を貫かねばと思いながら、人生経験豊富な玄蕃とのやりとりを通じて、自分の考える「あるべき姿」がほんとうに正しいのかとの考えが浮かぶ。
 汚名を雪ごうとせず、家を捨て妻子を捨てても、玄蕃が守らなければならなかったものを知ったとき、「人」として生きようとすることの難しさと、しかし「人」でありたいとの強い思いの前に、自分のかかえていた屈託が別の形になっていくことを感じ始める。
 上下二巻の長編。江戸を発ち、粕壁を過ぎて杉戸宿、芦野宿、白川の関を越えて仙台、一ノ関、沼宮内……。
 残り頁が少なくなるにつれて、読み終えるのが惜しくなってペースを落とした。
 ずっと、この二人のやりとりを読んでいたかった。
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ゴミ清掃員の日常

2020年05月06日 | おすすめの本・CD
 ネタをみたことはないけど、マシンガンズという芸人さんの一人の作品。
 本業だけで生活を成り立たせていける芸人さんは、ほんの一握りだという。
 テレビでその悲惨な生活を語っている方を見ることもあるが、そうやってテレビで語っている状態が幸運に入るはずだ。
 お芝居や音楽関係なら知っている方もいるので、容易にそれは想像できる。
 マシンガンズの滝沢秀一さんは、生活を支えるためにゴミ清掃員として働いている。
 ていうか、巻末の自己紹介には、清掃員が本業、副業で漫才師と書いてあった。

 ゴミ分別の仕方は参考になる、なるほど外国人労働者も多いのかなどと、興味深く読みすすめる。
 ゴミの捨て方ひとつで棲んでいる人の生活が想像できたり、コミュニティの有り様が垣間見えたりする話になると、地に足のついたすぐれた文化論になっていることがわかってくる。
 たとえば、ペットボトルがきれいに分別され、中身もゆすがれているゴミ捨て場。
 地域共同体としてほどよく統制のとれたマンションなり、町内会だ。
 そういう地域は治安も保たれている。
 ゴミ捨て場を見れば、引っ越していい土地柄かどうかわかるという言葉は、なるほどと思う。
 同時に、他人の出したゴミ袋の中身をチェックしあうレベルにもしなっていたら、きついかなとも思ってしまうが。

 保育園のこどもたちにとってはゴミ収集車のおじさん、おにいさんはヒーローだ。
 あるマンションでは小さな女の子が、収集車が来るといつもお母さんと家から出てきてうれしそうに様子をみている。
 作業が終わるとバイバイと手をふって車に乗り込む。
 たまにその子が出てこないと風邪でもひいたかと心配になり、翌週また安心するというようなちょっといい話。
 そして、いつからか顔を出さなくなって、女の子の成長を知るという一編の小説になるエピソードもよかった。

 さくらももこさん風のほのぼのとした画風は、上手という感じはしないが、味わい深い。
 原作滝沢秀一、マンガ滝沢友紀となっていることに気づき、それが奥さんで、はじめての作品だということに驚いた。
 初めて描いた漫画が講談社から出版されるなんて、マシンガンズさんがM1決勝に残るよりもなさそうにも思える。
 ご本人のTwitterを検索してみたら、「コロナ禍におけるゴミの出し方」というマンガが載っていた。
 この時期注意してほしいこと。
 ①、袋の口をしっかり結ぶこと。清掃員がもったときに袋が開いてしまう。
 ②、ゴミ袋をパンパンにしないこと。清掃車の回転板に入れた瞬間に袋が破裂する。
 ともに、清掃員の方をウイルス感染させないために大事な気遣いだ。
 気をつけようと思う。
 自粛警察みたいな不毛なことではなく、こういう細かいことをちゃんとやりたい。
 ちなみに、感染して自宅療養している人は、飲み終わったペットボトルを可燃に出してほしいとのことだった。
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逆ソクラテス

2020年05月02日 | おすすめの本・CD
 先月、白以外のマスクをつけて登校する生徒を注意する先生がいたというニュースを読んだ。
 なんとか新聞ソースだったから、ほんとかどうかわからないが、「マスクは白に決まってるだろ!」と怒ってる先生っていそうだ。
 たとえば黒なら、「これしか家になかったんで……」と言えばゆるされるかもしれないが、お家の人手作りの、小池知事より少し派手目ぐらいのをしていったら、「ちょっと、そのマスクで登校するのは認められない」とか「ほんとにそれしかないなら親に異装届を書いてもらえ」とか注意する先生はいてもおかしくない。
 自分はそんなメンタリティはないと思ってる教員も、無意識のうちになんかやらかしている可能性はあるから気をつけたい。

 「逆ソクラテス」に登場する久留米先生は、典型的なそのタイプだろう(どのタイプ?)。
 教員はエラくて生徒は従っていればいい、学校的課題をこなせる子はいい子でそうでない子はだめ、子供らしく男らしく女らしく、生徒が先生に意見するなんてもってのほか……。
 30代後半で、大柄で見た目も悪くない男の先生。かっこいいと言う女子もいる。
 なんか、すごい年配になってから学級崩壊しそうなタイプにも思えるが。
 クラスの子たちは、そんな久留米先生の威圧的な指導に従いながら、内面おかしいと思っている子はもちろんいる。
 とくに、先生が特定の児童を見下し、それにのっかって他の児童たちもその子をいじめるようになると、一矢報いたいと思う子供がいる。それが僕で、安斎くんで、佐久間さんだ。草壁くんに対するあの扱いはおかしい、と。


~「それでね、久留米先生はその典型だよ」
「典型?」
「自分が正しいと信じている。ものごとを決めつけて、それをみんなにも押し付けようとしているんだ。わざとなのか、無意識なのか分からないけど。それで、クラスの生徒たちはみんな、久留米先生の考えに影響を受けるし、ほら、草壁のことだって、久留米先生が『ダサい』とラベルを貼ったことがきっかけで」
「ダサいと言ったんじゃなくて、女みたいだと言ったんだ」
「転校してきてから観察してたのだけれど、久留米先生は、草壁を見下した態度を取ることが多いよ」
 ……
「敵は、先入観だよ」
「先入観?」それ自体が分からなかった。
「決めつけ、のことだよ」
「どういうこと」
「久留米先生の先入観を崩してやろうよ」 (伊坂幸太郎「逆ソクラテス」『逆ソクラテス』集英社) ~


 そして行動を開始する。
 カンニング作戦、デッサン作戦、うわさ作戦……。
 まあまあうまくいったり、微妙だったり、作戦そのものに問題があったり。
 最後の「君には素質がある作戦」。
 ある企画で、プロ野球選手が小学校を訪れ、講演会と野球教室を行うことになった。
 体育のときもバカにされがちな草壁くんだが、「草壁くんには素質がある」とプロ野球選手に言ってもらおうという作戦だ。
 
 
~ 久留米はそこでも落ち着きはらっていた。「何だかそんな風に持ち上げてもらってありがたいです」と打点王氏に頭を下げた。「草壁、おまえ、本気にするんじゃないぞ」とも言った。「あくまでもお世辞だからな」
 念押しする口調が可笑しかったから、いく人かが笑った。場が和んだといえば、和んだが、わざわざそんなことを言わなくとも、と僕は承服できぬ思いを抱いた。
「先生、でも」草壁が言ったのはそこで、だ。「僕は」
「何だ、草壁」
「先生、僕は」草壁はゆっくりと、「僕は、そうは思いません」と言い切った。
 安斎の表情がくしゃっと歪み、笑顔になるのが目に入るが、すぐに見えなくなった。なぜなら、僕も目を閉じるほど顔を歪め、笑っていたからだ。 ~


 最後まで読んで冒頭にもどる。
 一作品を読んだら冒頭にもどるのは国語教師の性(さが)だといえる。その癖がついてない若い国語の先生方は、必ずつけてくださいね。駿台の霜栄先生は、これを「たいのおかしら」方式と述べられる。
 「たい」つまり「全体」を把握するには、「お=末尾」まで読む、そして「かしら=冒頭」にもどってテーマを確認する。
 筆者は、何について、どのように、どうだと述べたのかを、「体の尾頭」読みせよという教えだ。

 で、冒頭の場面、あるプロ野球選手のプレー、それを見てテレビを消す「彼」。
 どちらも、それが誰か明示してないものの、なるほどと思わされ、待てよ「彼」とあるんだから、あの人か、なんてすごい冒頭シーンだと感じる。ただし、その感じ方が正解かどうかはわからない。
 この作品が最初に世に出た数年前、国語の入試問題にかなり使用されたという。
 さもありなん、自分が中学入試作る立場だったら、読んだ瞬間に見つけた! と思うだろう。
 でも、冒頭は試験にはしにくいな。いろんな読みが可能そうで。冒頭に限らないか。
 2回読むと気づくいろんな伏線、計算された情景描写も、もちろん筋もセリフも、「お見事!」というしかない短編だ。授業したいなあ。
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東京ホロウアウト

2020年04月23日 | おすすめの本・CD
 宅配便のトラックに青酸ガスがしかけられたのが最初の事件だった。
 配達員が荷台を開けたとき、刺激臭をかかぎ、頭痛を訴えて救急車で搬送される。コンビニで受け取った荷物にしかけられたという事件だった。東京オリンピックの開会を数日後に控え、警備にあたる部署もピリピリしている。 
 梶田警部補は、こんなときに面倒な事件をおこすなよと呟きながら、防犯カメラで犯人はすぐに割り出され、捕まるだろうとも思っていた。
 新聞社には犯行声明が届いていた。オリンピック開会式当日に、そこら中にトラックに毒ガスをまきちらすというものだった。


 ~『……いま入ったニュースです』
 キャスターの表情がこわばっている。原稿を受け取り、さっと読み下してカメラに向かう。
『青酸ガス事件の犯人を名乗る人物が、インターネットの動画サイトに、犯行声明を投稿しました。専門家は、この動画が事件の犯人によって作成された可能性があるとしています』
 予想外のことが起きそうな気がした。梶田は手を叩き、室内の注目を集めた。
「みんな、テレビを見てくれ」
 リモコンで、テレビの音量を最大まで上げる。室内にいた総合対策本部の要員らが、何ごとかと集まってくる。
 画面に映ったのは、黒い影のような人物だった。たっぷりした黒い覆面をかぶっている。スマホのカメラで撮影したような動画だが、解像度は悪くない。
『青酸ガスを撒くことが目的ではない。それは、先に言っておく』
 〈影〉の声は、電気的に歪んだ聞き取りにくい音声に変換されていた。念入りなことに、動画にはテロップもついている。
――少し説りがあるな。
 梶田は〈影〉の声に耳を澄ます。九割以上の確率で、男性だ。
『TOKYOに告ぐ』
 テロップに流れる文字に、目を奪われた。
『これから、TOKYOは孤島になる。心ゆくまで楽しめ』 (福田和代『東京ホロウアウト』東京創元社) ~


 孤島になるとはどういうことか。
 宅配トラックの青酸ガスが仕掛けられたのは2件。幹線道路でトラックが横転する事故、高速道路のトンネルが車両火災で封鎖される、東北本線が不通になる、首都高で事故が起こる……。
 おりしも台風が首都圏を直撃するなか、停泊していた貨物船が流されて東京ゲイトブリッジにぶつかり通行止めになる。
 コンビニにいってもおにぎりの棚に何もない、最初はその程度だった。しかし各地からの物資が同時に遮断されると、様々なものが、とくに食料品が品薄になる。
 それを写真にとってtwitterにあげる者がいる。あっという間に拡散され、人々はスーパーやコンビニにおしかけ、食料品を根こそぎ買い占めていく。
 「大丈夫です、在庫は十分にありますから、買いだめしないでいください!」都知事が放送でよびかけたときは、遅かった。
 スーパーにおしかけて店員を怒鳴りつける客、途方にくれ、頭をさげるばかりのコンビニ店員。
 あちこちに電話をかけ頭をさげてなんとか物資が入荷できないかと奔走するマネージャー。
 我々が遭遇している現実と同じ状況が描かれる。
 都市の生活は、こんなにもろいものだったのかと、梶田は思う。


 ~ スーパーやコンビニの棚に、欲しい商品がいつでも必要なだけ並んでいるのは、けっして「当たり前」ではない。多くの人々が努力しているおかげなのだ。
 考えてみればそれこそ当たり前なのに、なぜかふだんは忘れられがちなその事実に、もういちど目を向けて、感謝の念を抱くことができて良かったと、思うこともできる。
 こうして見れば、東京の巨大な胃袋が呑み込むものは、広く全国各地から届けられる。
 この季節なら北海道から届くはずだった根菜類、牛乳の一部が、貨物列車の線路が被害を受けたために、届いていない。
 東北や九州からの魚介類。関西、九州、山梨や長野からの野菜類。ふだん、食卓に載ったサラダを見て、これは長野のレタス、岡山のトマト、茨城のキュウリ、などと考えることはない。だが、自分たちは今まで、はるばる九州からやってきたダイコンを、おでんにしていたかもしれないのだ。
 そしてもちろん、パックに小分けされ、ビニールに包まれて販売される肉や魚、野菜などの生鮮食品だけが「食品」ではない。工場で加工される缶詰、干物、弁当、レトルト食品、冷凍食品。あらゆる調理の手間を加え、賞味期限を延ばす工夫をし、人間はもりもりと貪欲に食べる。
 ――よくこんな、凄まじいことを毎日やっているな。
 スーパーの店頭に立っても気づかなかったが、こうして全体を俯瞰してみると、その複雑さに驚嘆する。経済活動という、人間の欲望がこの緻密なシステムを成立させているのだとしても、それを日々、地道に支えている人々は尊敬に値する。
 あらためて梶田はため息をつき、その一翼を担っている兄を思った。正直、あの頭のいい兄が、どうしてトラックの運転手になったのかと、不思議に感じていた。だが、これがどれほど現代人の生活に必要な仕事か分かると、兄の選択に頭が下がる。
(働くということは、社会での自分の役割を選び取るということなんだ)
 以前、何かの折にふと、兄から聞いた言葉だった。ほとんど交流がないのに、それだけ妙に心の隅に残っていた。 ~


 梶田の実の兄にあたる世良が、この物語の主人公だ。
 長距離トラックの運転手である世良は、事件の影響を直接受ける。
 そして、自分の仕事仲間が犯人グループの一員ともつながっていた。
 それにしても犯人の狙いは何なのか。
 こうして東京を兵糧攻めにする目的は何か。
 それも読み進めるうちに背景が明らかになっていくのだが、これって本当に悪いのは当事者なのかとの思いが生まれてくるのだ。
 各地のいくつもの事件がつながってきて、それは「テロ」とよばれるようになる。
 「テロ」というと絶対悪のイメージになるが、そうさせずにはいられないほど、犯人を追い込んだ何かがあることもわかってくる。

 現代の都市生活がいかに多くの人に支えられているか、しかし、それが当然であるかのように感じる都会の人々の姿。
 本当に起こってもおかしくない事件だ。
 選手村の食糧さえもつきかける状況においこまれ、事件は収束できるのか。
 それを救うのは、トラック運転手たちの矜持と、地に足のついたネットワークだ。
 ノンストップエンターテインメントとして一気読みの作品だったが、テレワークなどとは無縁の人々でこの世は成り立っていることを忘れてはいけないとしみじみ感じさせられた。
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流浪の月

2020年04月18日 | おすすめの本・CD
 特殊かつ具体を描きながら、普遍ともいえる人間の姿を描き出すのがすぐれた小説というなら、この作品はまさにそれだと感じる。
 そっか、だから「本屋大賞」だったのか。
 ここ何年か、誰でも知ってる売れっ子さんが受賞されてて、いまさら本屋大賞あげなくても……と思ったことがあったが、今回は本来の趣旨にあった選考だったのではないかと思うし、そのおかげで手に取って読むことができた。
 久しぶりに一気読みした。そして、ひょっとして、みんな生きづらいのかなと思った。
 
 
~ 「わたし、ずっと、ここにいたいなあ」
 梨花ちゃんはちゃんは何度も変身シーンを繰り返し見ている。からっぽな横顔。
 ――神様、もうあの家には帰りたくない。
 古びてはいても、けっして色褪せない悲しみ。ゆっくりと手足の先まで冷えていく感覚を思い出す。文がそっとわたしの手をにぎってくれた。それだけでわたしは力を得て、反対の手を梨花ちゃんへと伸ばした。ゆるく癖づいた髪に触れると、薄い肩が震えた。
「でもさあ、いつもはお母さん、優しいんだよ」
「うん、そうだね」
 髪を撫でていると、梨花ちゃんがふいに布団に顔を伏せた。じっと動かない。声も出さずに泣いている梨花ちゃんの背中を覆うように、わたしは身体を寄せた。そんなわたしの手を文が強くつかんでくれている。
 わたしたちは親子ではなく、夫婦でもなく、恋人でもなく、友達というのもなんとなくちがう。わたしたちの間には、言葉にできるようなわかりやすいつながりはなく、なににも守られておらず、それぞれひとりで、けれどそれが互いをとても近く感じさせている。
(凪良ゆう『流浪の月』東京創元社) ~


 『流浪の月』の登場人物たちが築く人間関係は、ふつうに考えれば極めて特殊なものだが、読み進めていくうちに、彼女や彼がほんとうに「特殊」なのだろうかと疑問が浮かぶ。
 変な、おかしい、まちがった、不適切な……。
 更紗(さらさ)と文(ふみ)の関係がおかしいのだとしたら、正しい人間関係とはどのようなものか。
 たとえば家族を形成する条件に血縁は重要だが、血のつながってない者でつくる家族はたくさんあるし、法的にも認められている。
 そもそも結婚は、血のつながりのない全くの他人同士が、何を血迷ったか死ぬまで一緒にいようなどと約束してしまう、おそろしい行いだ。
 19才の青年と、9才の少女が築いた関係を、根源的な「悪」とみなす理論は、実際にはないのではないか。
 その二人が成人したあとに出会って、再びともに暮らすことを、倫理的におかしいと言うことは、できないのではないか。
 そもそも、家族って何? 親子、夫婦、恋人、友人……。
 どんな人間関係も、絶対的なあるべき「かたち」というものはなく、幻想にすぎないのではないか。
 ひらがなに 「 」 つけると、鷲田清一先生みたいだけど。
 いまコロナ自粛で、家にいるのが逆につらい、息がつまる、という思いを抱いている人もいるだろう。
 家の中でこそ、ソーシャルディスタンスをとる方がいい。
 物理的に難しいなら、精神的な距離だけでも。
 学校でも起こりうる問題だ。
 クラスのメンバーは「なかよくしなければならない」、部活動の仲間は「心一つにしなければならない」という考えにしばられて、そうできない自分を責めたり、できない人を見つけて居づらくさせたり。
 同じような目標をもって集まる部活動でも、何十人もいたら、あう・あわないがあるのはあたりまえだ。
 そこをどうやりくりするのかを学ぶのが学校だし、ありようは多種多様だ。
 自分の意見が正解だ、自分の考えが常識だと、疑うことなく思い、自分の「善意」で他人に教え諭そうとする人がいる。


 ~「わかってます。あなたが悪いんじゃない。あなたは佐伯の被害者だ」
 ちがう。そうじゃない。わたしは、あなたたちから自由になりたい。中途半端な理解と優しさで、わたしをがんじがらめにする、あなたたちから自由になりたいのだ。 ~


 学校の先生はとくにそうなりがちなことを自戒しないと。
 もちろん、心でそう理解しながら、あえて世間の価値観にもとづいて意見するのも仕事のひとつだ。
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そして、バトンは渡された

2020年04月14日 | おすすめの本・CD
「森宮さん、次に結婚するとしたら、意地悪な人としてくれないかな」
 夕飯を食べながら、高2年の優子が言う。
 今夜の夕飯は優子が担当した。
 仕事から帰るとスーツのまま食卓につき「おいしいおいしい」とかっこむ森宮さんが、
「いい人に囲まれてるって、相当いいことじゃないか」と答える。
「そうなんだけど、保護者が次々変わってるのに、苦労の一つもしょいこんでないっていうのも、どうかなって。ほら、若いころの苦労は買ってでもしろって言うし」

 優子にとっては三人目の父親が、娘から「森宮さん」と呼ばれる、一流大学を出て一流企業に勤める、見た目もそこそこの35歳だ。
 いったい、どういう事情があって、この二人は暮らすようになったのか。
 母親はどうなったのか。
 その事情は、優子の回想がはさまれながらあきらかになっていく。
 実の母親を事故で失った子供時代。
 父親と再婚した新しい母親の梨花と暮らし。
 仕事の都合でブラジルへいく父親との別れ。
 父と離婚した梨花が次に結婚した、裕福な家での暮らし。
 それぞれの時代から、いまの二人の暮らしにもどってくるという、個人的に「時空のロンド方式」となづける構成になっている。
 読み進めて行くにつれて今の意味が深まっていき、徐々に二人の何気ないやりとりが胸をうつようになる。
 もちろん、最初からわだかまりがなかったわけでもないし、今時点でも雰囲気がおかしくなることもある。
 ぎこちないやりとりしかできず、それぞれに思い悩むこともある。
 ただ、それは血のつながりがないことが理由ではない。


 ~ 一緒に暮らしはじめてすぐのころ、私がピアノを弾いていたと知った森宮さんが、電子ピアノのパンフレットをどっさり持ってきた。
「父親と認めてほしいっていうのは、年齢的にも俺の性格的にも少し無理があるだろうけど。でも、やっぱり優子ちゃんに気に入られたいし」
 素直にそう言ってのける森宮さんに、気が抜けたっけ。
 一緒に暮らすんだ。恋人じゃなく、友達じゃなく、家族という名のもとに。気に入られようとして何が悪いのだろう。気を遣って、どこがおかしいのだろう。あの時、森宮さんの言葉に私もどこかで開き直れた気がする。
 泉ヶ原さんが念入りに手入れを施してくれたピアノ。森宮さんがあれこれ選んで買ってくれた電子ピアノ。私はいつも最高の状態のピアノを弾いてきた。どんなピアノを前にしたって怖気づくことはない。 ~


 親が子供を気にかけるのは普通だが、子供も思いのほか親を気遣う。
 たとえば自分にかかる教育費の問題とか、機嫌良くすごしているかどうかとか、人間関係までも。
 経済的な問題など考えずにすむならそれが一番だが、そんなのはごく一部の家庭だけだし、ある程度の年齢になれば普通は考える。
 親がするべきあれこれを自分が肩代わりはできないが、機嫌良くいてほしい、いきいきしててほしいと、子供は思うものだ。
 そのために親が気づかない我慢をしていたりもする。
 二人がお互いを気遣いながら家族「になろう」とする姿は、いまある家族が家族「である」ことを当然と思う自分の甘えを指摘されているようだ。

 梨花が次に結婚したのは、同窓会で再会した森宮さんだった。
 しかし思いのほか早く梨花は出て行くことになる。
 梨花を探さなくていいのかという優子にに、出て行った人を探してもしょうがないと森宮さんは言う。


~ 「梨花さんのこと好きじゃないの? それより大事なことって何?」
「梨花のことは好きだけど、大事なのは優子ちゃんだ。俺、人である前に、男である前に、父親だからね。この離婚届出したら、結婚相手の子どもじゃなく、正真正銘の優子ちゃんの父親になれるってことだよな。なんか得した気分」
 森宮さんはなぜかうきうきしているけれど、何のつながりもない娘を押しつけられることのどこが得なのか、私にはわからなかった。
「森宮さん、好きな人と結婚したら子どもまでついてきて。で、最後には好きな人がいなくなってついてきた娘だけ残っちゃったんだよ」
 森宮さんは今起こっていることがわかっているのだろうか。置いていかれた私も同情に値するけど、森宮さんだって気の毒だ。
「俺、優子ちゃんの親になった時、もう三十五歳だよ。できちゃった婚でもなく、しっかりと考えて判断して、優子ちゃんの父親になるって決めたんだ。結婚したら勝手に優子ちゃんがついてきたわけじゃない」
「そうだろうけど……」
 私をそんなふうに認められたのは、梨花さんが好きだったからだ。子どもという壁があっても梨花さんを愛せたからだ。そう続けようとした私を遮って、森宮さんは、
「梨花がさ、付き合ってる時、会うたびに優子ちゃんの話をしてたんだ。まっすぐですてきな優しい子だって」
と言った。
「ずいぶんな過大評価だね」
 梨花さんがおおげさに話している姿が目に浮かんで、私は肩をすくめた。
「まあ、七割は当たってたけどね。梨花が言ってた。優子ちゃんの母親になってから明日が二つになったって」
「明日が二つ?」
「そう。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になることだよって。明日が二つにできるなんて、すごいと思わない? 未来が倍になるなら絶対にしたいだろう。それってどこでもドア以来の発明だよな。しかも、ドラえもんは漫画で優子ちゃんは現実にいる」
 (瀬尾まい子『そして、バトンは渡された』文藝春秋) ~


 このごろ時間の余裕があって、本も読めるし、そこそこ勉強もできているけど、なんか物足りない。
 授業も部活もしてない多くの教員は同じ感覚ではないか。
 親とくらべるのはおこがましいが、学校の先生はたくさんの未来を感じることができる。
 何十倍もの明日を。ありがたいことではないか。 カムバック! 日常!
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平場の月

2019年01月23日 | おすすめの本・CD

 センター試験の2番は上林暁「花の精」。
 上林? だれ? いや、さすがに名前は知っているが、作品を読んだことはない。
 これを機に読んでみようという気もおこらない。他に読みたいのが山積みになっているというのもあるし。
 自分がセンターの作成者だったら、どういうのを選ぶかな。現代小説を選んではいけないという決まりはないのだから、なるべく今を描いたものを選ぼうとするだろう。
 せっかく全国50万人に若者に読んでもらえるのだから、試験であっても何か残したいと考えるだろうけど、作成の先生方にはそんな思いはない感じだ。

 「花の精」は、病気で長く入院している妻をもつ「私」の数日をきりとっている。
 サナトリウムで療養しているということは、容態が急変する可能性は少ないものの、回復する日がくるかどうかは微妙な状況だと言えるだろう。はっきり書いてないが、40代ぐらいのおじさんという設定か。
 そんな主人公に世の中はどう見えるか。
 山手線の電車にはねられたあと、ドイツで踊り子とラブラブになったあと、友人を欺いて女性を手に入れたあと、世の中がどう見えるのかということを、国語の時間に勉強させる。
 いまを生きる高校生が、自分の人生とはまったく違った状況における人間の心情を類推する作業は、他人の心を思いやる力をつけるために大事だ。
 昔の作品で、サナトリウムにいる妻を思うおっさんの心情を読み取らせるのもいいけど、今の小説にいいのはあるんだけどなあと、朝倉かすみ『平場の月』を読んで思う。

 50すぎの青砥は、検査に訪れた病院の売店で、須藤と出会う。
 その昔、気持ちを告白し、断られた相手だ。
 何十年かぶりの再会。いろんなものを抱えたり、手放したりしてきた2人の人生は、売店でのあいさつだけで終わるかもしれなければ、思いも寄らぬ展開をみせることもある。
 本人たちの表面的な意志とはうらはらに、距離感が縮まっていく様子と別れが、朝霞、志木、新座といった身近で、絶妙にふつうの土地を舞台に描かれていく。


 ~ 合鍵を持つ手に力が入った。あの日じゃなくてもよかったのだ。もっと言えば結婚なんてしなくてもよかった。須藤と生きていけたら、それでよかった。須藤と過ごした場面が青砥のなかに流れ込んだ。 ~


 「一緒になろう」と口にしたが故に、離れざるを得なかったことに気づく青砥。
 「あの日」の問題ではなく、言うか言わないかの問題なのだ。
 好きな人ができたときに、コクっていいのが若者。
 両思いが明白でも、言わない方がいいのが大人だ。
 人と人とのつきあい方の本質に、若いも若くないもないというのは、原理としてはそのとおりでも、現実はそうではない。
 どこでその線をひいていいのか明確でないのが難しい。
 「平成くん」は30代だったが、コクらない人生を選ばざるを得なかった(と自分で判断していた)。
 自らの身にふりかかった「幸福」をそのまま純粋に受け入れられる度合いの高い人ほど、若いと言っていいかもしれない。
 目の前の小さな幸せをより確固たるものにしたくて、青砥は須藤を失う。
 失って気づくことがあり、失って見える世界が変わる。


 ~ 公園。秋の夜、須藤のアパートから青砥の家まで歩く途中のセブンーイレブンの前。ヤオコーの駐車場。病室。無印良品の店内。外階段。須藤の部屋。須藤の寝床。場面はまどいをひらくように青砥を囲み、細部を拡大させた。須藤の目。泣きぼくろ。横の髪を耳にかける手つき。喉の白さ。からだを傾けてやったヤッソさんの真似。滑りの悪いベランダ窓を開けるガニ股の後ろすがた。へったくそなストーマの台紙の切り方。声も聞こえた。威張って呼ぶ「青砥」。笑いながら呼ぶ「青砥」。たしなめるように「青砥」。うんと湿り気のある「青砥」。「わたし、いつも、青砥を見てたよ」。聞こえるたびに痛みが刺す。 ~
 昼休み、花屋から自転車を拾いに行くまで歩いた道を思い出した。駅前の焼き鳥屋、吉野家、ロータリー、タクシー乗り場、そして南口の駐輪場。勤め先まで自転車で走らせていたときのことも思い出した。広がる空、右上の太陽、前髪を煽る風、こめかみを伝う汗、自転車を漕ぐ足、ハンドルを握る手。どれも色裡せ、腑抜けのようにぼやけていた。須藤がいなくなっただけで、世界はこんなに変わるのだった。(朝倉かすみ『平場の月』光文社) ~


 『田村はまだか』と、あとなんか一つ二つ読んだ気がする作家さんだが、こんなにすごい作品を書かれているとは。先日の直木賞にノミネートされてたら、確実だった。

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平成くん、さようなら

2019年01月08日 | おすすめの本・CD

 始業式。
「3年生諸君、体調管理を最大限気をつけてしっかりラストスパートせよ、結果を出すことも大事だが、どこまでがんばれたかを体に残すことが大事」という学校長の言葉に深くうなずく。みなさんが「平成」最後の卒業生になるとのお話にも。
 そうだった。受け持っている今の一年生たちは、新しい年号の証書をもらって卒業していく。
 昭和の終わりに奉職し、30年間お世話になり、新しい年号で教師生活を終えるのだなあと、思う。

 そんな時期に『平成くん、さようなら』という小説を上梓し、ちゃっかり芥川賞の候補になっている古市さんは、まさに機を見るに敏な方だ、文藝春秋だしな、ためしに読んでみるかと年末に手に取ってみたが、なんとこれは! 自分的感覚では「火花」や「コンビニ人間」以上に鉄板で受賞すると思った。新幹線の中をきっちり充実できた。

 平成がまもなく終わりとなる現代日本を舞台にした作品だが、「安楽死が法的に是とされている」という結構になっているので、パラレルワールドものとも言える。
 その設定以外は、これでもかと描写される具体物、ブランド名で現実そのままだから、主人公の平成くんが古市氏自身のメディアでの姿と重なって、私小説的おもしろさも感じる。
 ちがうか、主人公は平成くん――「へいせい」ではなく「ひとなり」と読むのがほんとうなのだが――と同棲する、同い年の愛ちゃんだ。
 イラストレーターの愛ちゃんと、若手評論家の平成くんは、雑誌の対談で出会う。
 愛ちゃんの方からアピールし、二人で暮らすようになって二年が経つ。
 

 ~ 平成くんといることは、とても居心地がよかった。私が不眠で苦しんでいる時には「寝ないでポケモンGOができて羨ましい」と本気で言っていたし、仕事が思うように評価されなかった時は「バカに褒められても嬉しくないでしょ」と笑ってくれた。(古市憲寿)『平成くん、さようなら』文藝春秋 ~


 愛ちゃんへの好意はあきらかに抱いていながら、二年も同棲していながら、彼らの間に肉体的な結びつきはうまれていない。
 その理由を論理的に説明はされ了承はしているものの、心から納得しているわけではない。
 さらに、平成の終わりとともに、「安楽死するつもりだ」と平成くんが言い始める。
 「自分は終わった人間だから」と論理的に説明されても、到底受け入れられはしない。
 残される人の気持ちを想像しようともしない態度も許せない。
 こんなキャラクターの男ならあり得る展開かもしれないと読み進めていくと、終盤思わぬ展開になる。
 人間としての平成くんの姿が立ち上がってくるのだ。

 小玉ユキ『ちいさこの庭』は、コロボックルのような小さくて不思議な生き物と人間との交情をせつなく描く短編集だ。
 「四百年の庭」で、相手のことを思うが故に別れようとする武士の姿に泣いてしまったが、平成くんの終盤では同じことをたぶん感じていた。平成のおわりにこんな小説を読めて幸せだった。

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