ちょっと前の事なんだが、箱根の帰り、湯本と小田原の間の旧東海道を歩いていたら、写真のような看板があった。
「もせるごみ」とはいわゆる「もえるゴミ」のことで、変な看板の一種としてカメラにおさめた。
最初は小田原あたりの方言か、と軽く考えたが、
歩きながら考えてみると、もしかしたら「もえる」より「もせる」の方が適切な表現かもしれない。
「燃える」とは、「燃えない」の対立表現で、「燃やせる」という”可能”の意味で使っているのだが、「燃える男」というように、「燃えている」という”状態”をも意味できる。
すなわち、多義的であいまいな表現なのだ。
その多義性が含蓄という深みをもつならいいが、そうでなければ、意思伝達の表現としては純粋に”悪い”性質になる。
それに対して、「燃せる」は「燃す」の”可能”として一義的だ。
さらに、「燃す」には、人間が点火するという使役性を含意しているが、「燃える」にはそのニュアンスはなく、むしろ自発的燃焼の方を含意する。
人間が焼却処理するゴミに使うなら、「燃える」より「燃す」の方が現実を正しく表現する。
以上の観点から言って、「燃えるごみ」より「燃せるごみ」の方が、一義的でかつ現実に即しているということで、より優れた表現といえる。
「燃えるゴミ」は全国の自治体に広まっているはずだが、その趨勢に抗(あらが)ってもなお、より正しい表現を選んだ小田原市の姿勢には敬意を表する。
日本では唯一の”町を守る”城壁を築き、豊臣秀吉の天下統一に最後まで抵抗した小田原北条氏の矜持を思い出す