高尾山の飯綱権現のように、神仏習合対象への礼拝はどういう所作をしたらいいか。
薬王院という仏教寺院内だから仏式でもいいといえるが、
なら曹洞宗寺院内にある稲荷神社(たとえば豊川稲荷※)も仏式でいいのだろうか。
※:豊川稲荷を含む稲荷神は仏教系の吒枳尼天だから、仏式でいい。
ここでいう仏式とは合掌(礼)のこと。
一方、神式は、二拝二拍手一拝ということになるが、
実は、強制的に神仏分離される以前の江戸時代では、神社での参拝も合掌礼だったということが、
島田裕巳氏の『「日本人の神」入門—神道の歴史を読み解く—』 (講談社)に書いてあった。
ほんとかよと思ったが、その根拠となる江戸時代の『伊勢参宮細見大全』が
三重県立図書館のデジタルライブラリーで見れると書いてあったのでこの目て確認した。
何しろ、神式でも拍手した瞬間は合掌しているように見えるはずだ。
実際、確認してみたら、日本の神社の総本山といえる伊勢神宮の内宮前で、確かに坐って前かがみに合掌している(右図:62コマ目)。
また伊雑宮においても同じ姿勢で(70コマ目)、拍手の瞬間には見えない。
逆に明らかに拍手している姿は1つも見当たらなかった。
明治以降の疑似”伝統”ではなく、江戸以前の自然な伝統を重んじる私としては、ならば”合掌礼”こそ神仏共通の礼拝所作としたい。
実際、明治以降の神式においても、
神への祈念の瞬間は、拍手の後の静止しての合掌姿勢である(十字を切るキリスト教においても同じはず)。
ただ、拍手は礼拝としてまったく行われなかったかというとそれも疑わしい。
島田氏自身、同書で、宇佐八幡と出雲大社では四拍手が作法だったと述べている。
そもそもあの『魏志倭人伝』に、日本人の風習として「見大人所敬但搏手」
すなわち、人を敬する所作として拍手するとある。
だから拍手は、仏教伝来以前の表敬の所作であった事は確かだ。
神を敬するが、仏教徒でもある自分としては(私の内側は神仏習合)、
内心から湧き出る祈りの瞬間は合掌するのが自然だ。
江戸時代の人々がそうであったように。