寺社に参拝する時、家内安全・商売繁盛を願うなら、
その人は日常的なシステム2(神話的思考)で接しており、宗教的境地には至っていない。
そして、真に「家内安全」を求めるなら、システム2の知性的思考の方を使って、家族の健康や家の防犯・防災に、
「商売繁盛」を願うなら経営・経済に意を注ぐべきであることも、本当はわかっている
(現代人にとって、神話的宗教は儀礼的に対応しているにすぎない)。
実は、我々が日常的に作動させているこのシステム2こそが真の宗教的経験(境地)を阻害している。
システム2での言語思考・認識には限界があることが、その思考の極致にまで達した人ならよくわかっている。
例えば禅宗でいう「不立文字・教外別伝」は文字言語には頼れない態度表明であり、禅の公案のあの理不尽さは、我々の思考を束縛している言語論理を破壊するための言語使用による(言語は自己否定できる)。
この慣れ親しんだシステム2の作動を止めない限り、それ(日常的心)を超越した心のサブシステムである「システム3」は作動しない
(言い換えば日常生活を適応的に営む限りにおいてはシステム3は不要)。
システム3を作動させるには、覚醒時に作動し続けているシステム1・2の両方を停止する必要がある(システム0は停止できない)。
すなわち、やっている行動を止め(システム1の停止)、考えること・空想することを止める(システム2の停止)。
前者はただ座るだけで実現可能だが、後者が難しい。
特別な方法が必要でそれが「瞑想」。
瞑想はインドで発達した方法で、今では脱宗教化したヨーガでも実践できるが、
仏教でも盛んで、上述した禅僧たちも、もちろん坐禅という瞑想に勤(いそ)しんでいる。
本記事と関係する視点での瞑想の説明は過去に示しているので一旦はそちらを読んで欲しい→瞑想のすゝめ
話をシステム3に急ぐと、システム3が作動すると、思考している自我を眺めることができる。
すなわちシステム2の主人顔している”自我”(思考主体)から離脱できる。
これは自我の束縛から離脱する体験として、とても意味がある
(主観点である自極が自我から分離)→”私”の二重性
自極は単なる主観点に過ぎないため、自我のように自己としての内実(過去からの連続性、感情、アイデンティティなど)を持たない。
なので、利己的な心からも離れることができる(システム3にとっては「家内安全」「商売繁盛」が目標でなくなるわけだ)。
もちろん自己の苦悩からも(悩んでいる主体は自我だから)。
システム3は欲望も苦悩もない無色透明な自己だ。
そういう自己を作動させ、体験することに意味がある。
システム2の状態で歯を食いしばって禁欲するのではなく、システム3になって欲の作動する心そのものから離脱する。
仏教の瞑想修行(マインドフルネス)は、私にとってはこのシステム3の作動トレーニングと解釈できる。
なので私にとっての瞑想法は、神話的要素が全くない「システム3の作動プログラム」として技法化している。
逆に言えば、ここに達しない(座って沈思黙考しているだけの)瞑想は無意味だ。
さて、瞑想を停止してシステム3を解除すると同時にシステム2が再作動し、日常の自分に戻る。
ただし、このような瞑想訓練を続けると、システム1や2が作動している時でもシステム3が作動可能になってくる(このへんの技法はマインドフルネスにもある)。
そうなると観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)が可能となる。
すなわち、システム3の稼働率が高まってくる。
テーラワーダ仏教の瞑想プログラムによると、このシステム3の高度な作動によって阿羅漢の境地にまで達することができる。
このように、システム3という脱神話段階における宗教は、神話性のない仏教をサンプルとするしかない(あとは特定宗教でない現代スピリチュアリティ)。
だが私は、このシステム3が”心”の究極の境地だとは思っていない。
→続く