日常での所作は動作しやすい”利き手”を優先すればいいが、
宗教儀礼では左右の手の価値が固定され、両者が序列化される傾向にある。
通常、右利きの人間が作った宗教儀礼は、迷わず右手が優先されるだろう(キリスト教、イスラム教しかり)。
その極端な例がインドで、左手は(排便の時に用いられるため)不浄の手とされる。
なのでインド発の仏教も迷うことなく右手が格上となる。
たとえば大乗仏教でヒンズー教の影響も強い真言密教では、手を組む印の時、
左手を下、右手を上にするが、その理由はあちこちの真言寺院での説明によれば、
左は不浄あるいは右(仏)より格下側(人)とされるためだ。
ところが同じ大乗仏教でも、天台の坐法は、『天台小止観』によれば、手も脚も左が上になる。
このように、左が右より上とする、右利きが圧倒的な人類では実に例外的な”左尊”思想が存在する。
古代中国(仏教より古い)の陰陽思想(本来は陰陽対等であった)が前漢時代に”陽尊・陰卑”(陽>陰)に序列化された結果である(左=陽、右=陰だから陽>陰→左>右)※。
※そもそもの左=陽、右=陰に配属された理由は『淮南子』に載っている。
仏教は、すでに左尊思想がデフォになっていた後漢時代の中国に伝わり、
そこでしばらく練られるうちに(たとえば天台教学のように)
インドの左不浄観から左尊思想への置き換りが部分的に発生したわけである
(その後、密教を中国に伝えたのはインド僧)。
そして左尊思想はそのまま日本の神道にも入り込んでいる。
神社での諸作法も左側が格上とされ、柏手でも左手をやや上にずらすとされる。
教典のない神道にはその根拠を探れないが、教典の代わりとなっている『古事記』『日本書紀』にはもう陽尊陰卑的な陰陽思想が入り込んでいる
(イザナギ=男=陽=生、イザナミ=女=陰=死の例。ただ陰陽論的にはアマテラス=太陽=陽=男、ツクヨミ=月=陰=女となるはずだが、太陽神=女性は、土偶に見られるように、より古代の日本的メンタリティによるものかもしれない)。
ちなみに陽尊陰卑はその後も日本に深く浸透し、江戸時代に固まった儒教的男尊女卑思想(その典型が『女大学』)の論拠になってる(そもそも前漢の陰陽序列化は儒教的国家支配の論拠のため)。
『易経』や『黄帝内経』の、対立しながら循環和合するダイナミックな陰陽観☯に準拠したい私は、
前漢以降の硬直した陰陽序列化は陰陽論の本来性からの逸脱に映るので採用したくない。
かといって左利きの一人としてインド的左不浄観も受け入れ難い。
結果、左右(陰陽)対等◑を我が旨とする。
この点で、私は既存の仏教に対しても神道に対しても作法的に抵抗せざるをえない。
たとえば、私が拍手・合掌するときは左右の手をずらすことなくきちんと合せる。
それが陰陽和合を示す理想の形であるからだ。
左尊思想に触れる前の『魏志倭人伝』の頃の日本人の拍手もその形であったろう。
坐禅の時は脚を左右交互に組み替え、手の組み(定印)は、左上(天台)でも右上(真言)でも任意とし、左右どちらかに偏る習慣をつけないようにする※。
※:私が準拠する小笠原流礼法では、利き手に関係なく体の右側に対しては右手を使い、左側には左手を使う。それが合理的だからだ。
陰陽対等・和合(バランス)の価値観に準拠することで、人体の左右対称性(バランス)を尊重する。
この立場こそが、仏教や神道、あるいは儒教・道教より遥かに先立つ三千年来の最も普遍的で健康的な本来の陰陽思想である。
当然、男女も平等。
ちなみに、儒教は陽尊に傾き、道教は陰尊に傾いている。
つまり儒教と道教の両用こそ、高次にバランスのとれた中国思想といえる。