今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

例年通りの三ヶ日を過ごす

2025年01月03日 | 歳時
毎年、元日は儀式を大切にし、元日を含めた”三ヶ日”はあえて儀礼的無為を貫き通すことにしている。
すなわち、意地でも和服で通し、仕事に一切触れず、また混む初詣にも行かず、食事はおせちと餅の繰り返しで、昼間から酒を飲み、関東戦国史の本を読む。
※:「学問に正月(休日)はない」という考えは確かにあるが、あえてそこから離れることで、新鮮な発想に切り替えるメリットがある。
ついでに、寝る前は、湖池屋の「のり塩」特大サイズ(195g.普通サイズの3.25倍)を寝酒の肴にしながら、年末に撮り溜めした「バス旅」(千葉成田から青森龍飛先)を4回に分けて観る。

今回読んだ本は、昨年に続いて『戦国武将列伝(関東編下)』。
いわゆる”国衆”(戦国領主)の網羅的紹介で、史料による経歴・事績の記述で終始される。
彼らは領地の維持(あわよくば拡大)が使命なので、隣接する国衆と争い、上位パワーである戦国大名(北条氏・上杉氏)に付いたり離れたりを繰り返す。
このワンパターンの生き方が次々と紹介されるだけで、ドラマチックな展開がなく、今年も読むのが辛かった。
「バス旅」の方がよほどドラマチックに感じるのは、ある決断への葛藤(迷い)がどういう結果をもたらすかをリアルに追えるから。
考えてみれば、戦国時代の国衆たちも、戦さの決断をはじめ自分たちの命運をかけた決断の連続であったはず。
本書が淡々とした紹介で終わっているのは、そういう人間的エピソード(伝説)に乏しい人たちだからだ。
だからむしろ歴史小説家が題材を探すつもりで読むといいかも。

2025年元日を過す

2025年01月01日 | 歳時
新年あけましておめでとうございます
本年も皆様にとってよい年でありますように
 
日本の正月、とりわけ元日は、1年で最も特別な日として、神聖な心持ちで神妙に儀式的に過す日で、それを大切にする日本人であることを堪能する日でもある。
 
正月は、特定の宗教臭さもなく、むしろ太陽に対する地球の公転の期日として普遍的視点で祝えるのがいい。
それは神道に内在する普遍性を実感できることでもある。
※:神道に内在するのは日本人としての民族性だけでなく、少なくとも北東アジアに共通する宗教的普遍性があり、それは自然宗教において呪術性に堕しない良いサンプルを示している。すなわ閉鎖的民族性もち呪術性も、そして妄想的思考を強要する教義性もない、”超越的に存在に対する直き心での崇敬の念”を専らにする普遍宗教としての神道を体験できる。
例年通りに儀礼的にすごすことが元日の意義である。
目覚めたらまずは新湯で湯ごりをし、羽織・袴に着替えて、地元の二社一寺に初詣でに行く。
第一鎮守の天祖神社はすでに長い行列だったので、近くの富士神社を先に参拝して、
行列が短くなった天祖神社で、柏手の音を響かせて参拝する。
ついでに、下駄を履いていると拝礼での屈体でバランスとるのが難しいことを痛感。
第二鎮守の八幡神社は空いていて、隣接する東覚寺(赤紙仁王)にも立ち寄る。
ちなみに寺社で参拝する時は、願を掛けることはせず、ひたすら神仏への崇敬の念を発する。
私は神仏習合派なので、富士神社では「南無富士浅間大権現」、八幡神社では「南無八幡大菩薩」と祈る。
寺では、(可能な限り)本尊の印を結んで本尊を念じて真言を三唱する(すなわち三密)。
 
帰宅して、武家の礼装である烏帽子・直垂(ひたたれ)に着替え、お節料理の準備ができて一同集まったら、屠蘇の儀を式三献で執り行う。
それ以降は直会(なおらい)よろしく、神と酒を酌み交わす節会(せちえ)を楽しむ。
神道の儀式ってなんて人間的なんだろう。